『行為と演技 日常生活における自己呈示』1974. E.ゴフマン 石黒毅訳 誠信書房
The Presentation of self in everyday life 1959. Erving Goffman Doubleday
10/12/1999
・この本の内容
目次
謝辞
序言P.1

第一章 さまざまのパフォーマンスP.19
人の演じている役目への信頼/外面/劇的具象化/理想化/表出的統制の維持/偽りの呈示/神秘化/リアリティとたくらみ

第二章 さまざまのチームP.90

第三章 さまざまの局域と局域行動P.124

第四章 さまざまの分裂的役割P.164

第五章 役柄からはずれたコミュニケーションP.196
不在者の取り扱い/演出-談合/チーム単位の共謀/再調整-行為

第六章 印象操作の技法P.243
さまざまの防衛的属性と実際的措置/保護の実際的措置/察しに関する察し

第七章 結論P.280
枠組み/分析のコンテクスト/パースナリティ-相互行為-社会/比較と研究/表出の役割は自己の印象を伝達することである/演出と自己

訳者あとがきP.300
原注
訳注
索引

序言
この報告で採用された視角は、劇場的パフォーマンスという視角である。導出された諸原理は演出論上の諸原理である。私は通常の作業状況内にある人が自己自身と他者に対する自己の行動をどのように呈示するか、つまり他人が自己について抱く印象を彼がどのように方向付け、統制するか、またエゴ(個人)が他人の前で自分のパフォーマンスを続けている間に、してもよいことは何か、して悪いことは何か、を考察しようと思う。・・・舞台の上ではある行為主体たちによって投企された種々の役柄に対してある役柄を装って自己自身を呈示する、ということである。この相互行為に対してオーディエンスは第三者・・・を構成する。

素材には、信頼できる方法で記録された規則的出来事に関して妥当な一般化が行われているすぐれた研究から得られたものもあり、また多彩な人々が書き留めた形式にとらわれない回想から得られたものである。(?)このアプローチを正当化する根拠は、さまざまの具体例は全体として、読者がすでにもっている断片的な経験を総合し、制度的社会生活の事例研究をする際に検証に値するある手引きを研究者に提供するある整合的枠組みに適合する、というものである。

序論
ある行為主体が数人の人の居合わすところへ登場すると、通常彼らは新来者について情報を得ようとするか、あるいは彼について彼らがすでに所有している情報を活用しようとする。彼らが関心を抱くことは、このもののおおよその社会-経済的地位であり、彼の自己像であり、彼らに対する態度であり、能力であり、彼が信頼できるかいなかというようなことである。

 ・・・行為主体には人前にでるとき、他者が状況から受ける印象を、統制しようとする動機がいろいろある、と私は考えている。

<第一章 さまざまのパフォーマンスP.19>
・人の演じている役目への信頼
ある行為主体が特定の役目を演じているとき、彼は自分を観察する人々に、彼らを前にしてつくりだされた印象が真面目に受け入れらることを暗黙のうちに求めている。・・・この系として、行為主体は<他の人々のために>パフォーマンスを提供し、ショーを演じるという一般的見解がある。

一方の極に、パフォーマーが自分自身の行為にすっかりとらわれ欺かれてしまっている、すなわち、彼は真面目に、彼が舞台にのせたリアリティを現実そのものだ、と信じ込んでいる場合がある。彼のオーディエンスも彼が演じた見せかけを少なくとも一瞬このように信じ込んでいるとき、社会学者あるいは社会的に醒めた者だけが、呈示されていることの<真らしさ>に疑いを抱くのである。

他方の極に、パフォーマーが自分自身のルーティーンに全然欺かれない場合がある。というのは、行為をしている当人以上にその行為を見抜くのにもってこいの観察位置に立っている人はいないからである。このことに関連するが、パフォーマーが、相手が彼あるいは状況に関して抱いている想念には最終的に何らの関心もないまま、ただ別の目的のための手段としてオーディエンスの確信を操ろうという動機によって動いていることがある。

 ・・・それぞれの場合はおのおの固有の独自の安全策と防衛手段を得させ位置をエゴ(個人)に与えるのである。

・外面(表面?)front
私はこれまで<パフォーマンス>という語を、一組の特定の観察者たちの前に継続的にいる期間に生じ、かつ観察者たちになんらかの影響を及ぼす、ある個人の挙動全体をいい表すために使用してきた。行為主体のパフォーマンスの中で、観察する人々に対して状況を一般的-固定的仕方で反復規定する機能をもつ部分を<外面(表面?)front>と命名することが以後何かと便利であろう。外面(表面)とは、つまり、個人がパフォーマンスの過程で意図的あるいは無意図的に用いる標準的な型の表出装備expressive equipmentである。

舞台装置setting
人間の行為の流れがその前で、そのうちで、それに向かって演じられる背景や小道具となっている家具・装備品・物理的配置・その他の背景になる品々を含める。

個人的外面(表面)personal frontの部分としてわれわれは地位ないし位を示す記章、服装、性、年齢、人種的特徴、身体の大きさ、容貌、姿態manner、言葉づかい、表情、身振りなどを含める。

見せかけと態度の間の期待される一貫性に加えて、われわれは当然舞台装置・見せかけ・態度の間になんらかの整合性を期待する。

あるルーティーンがどれほど専門化したもので独自性のあるものでも、その社会的外面は、若干の例外はあるにしても、他の幾分か違ったルーティーンにも共通の必ず必要な若干の事実を要求する傾向がある。たとえば、種々のサービス業はその受益者に、清潔さ・現代性・練達性・誠実性を誇張して表現することで際立ったものになるパフォーマンスを提供する。

・・・異なったルーティーンが、同一の外面をとるという事実に加え、特定の社会的外面(表面)は、それが喚起する抽象的なステレオタイプの期待という点で制度化され、その時点でたまたまその名称のもとに遂行される特定の仕事とは離れて、ある意味と安定性をもつ傾向があるということに注意が向けられるべきである。外面は一種の<集合表象>となり、自立的な一個の事実となる。

社会的外面(表面)は、舞台装置・見せかけ・態度のような伝統的な要素に分割することができ、また、あるパフォーマンスがわれわれに示されるときの一般的な社会的装いの間に完全な適合を認めることができないかもしれない。以上の二つの事実を総合すると、われわれは次の二つのことを理解できるようになる。

1.特定のルーティーンのとる社会的外面(表面)の諸成素(諸要素)は、あらゆるルーティーンのとる社会的外面(表面)にも認められる。

2.そこに一個の共通の記号-装備が認められるルーティーンの一切は、同一の社会的外面(表面)はとっても別の記号-装置の認められるルーティーンの範囲とは違っているということである。
例)弁護士
依頼人との相談の場合、このような場合に着用するに適した衣服は、仲間の法律家と会食する際にも、妻と観劇する際にも、等しく適切である。同様に、彼の事務所の壁にかかっている複製画、床の敷物は(仕事には関係ない)家庭という社会的施設にも使われることがあるだろう。

・劇的具象化dramatic realization
他者の前にいるとき、エゴ(個人)は自分の挙動に種々の記号を付与する。記号は、目立たず漠然としたままであり続けたかもしれないあかしになるものを、劇的に際立たせ、それに輪郭を与えるのである。というのはエゴ(個人)の挙動を他者に有意味なものにするためには、エゴ(個人)は自分の挙動が相互行為の間に伝達したいと願っているものを表出するように、自分の挙動を動員しなくてはならないのである。事実、パフォーマーは相互行為の間に、彼に求められる諸能力を表出することはもちろん、また相互行為の一瞬一瞬にもそのようにすることを要求されているのである。
 
 ・理想化Idealization
 ・・・あるルーティーンの遂行は、その外面を通してオーディエンスにある抽象的要求、すなわちほかのさまざまなルーティーンを遂行するときにもオーディエンスに呈示されるのが普通である要求を呈示しているということであった。この要求は、あるパフォーマンスがそこで呈示される当の社会の理解並びに期待に適合するように<社会化され>たり、一定の型にはめ込まれたり、修正されたりする際の一つの手順を構成している。[ここでいう]社会化とはパフォーマーが観察者にいくつか異なった仕方で理想化されることになる一つの印象を与える傾向のことである。・・・エゴ(個人)が他者の前に自己自身を呈示するとき、彼の行動が全体として実際に吸収し、具体的に示している以上に、彼のパフォーマンスは社会の公的に評価する諸価値を吸収し、具体的に示そうとする傾向があるのである。

エゴ(個人)が何かパフォーマンスを行う場合、彼がかくすのは典型的には穏当さを欠く楽しみや消費以外のものであることに注意するのが肝要である。かくすものにどのようなものがあるか、いくつか以下に挙げてみよう。

1ひそかな楽しみや消費に加えて、パフォーマーは、自分にとって利益になる、オーディエンスにはかくされた、しかも自分の活動についてオーディエンスに持ってもらいたいと彼が希望している見解とは矛盾する形の活動に、携わることがある。

2誤りや失敗はパフォーマンスが行われている以前に修正されることが多く、誤りが犯され修正されたという明々白々の痕跡はかくされる、ということがある。

3行為主体が他者に何かある成果を呈示する場合の相互行為においては、彼は他者に最終成果だけを示す傾向があり、そうすると相手は仕上げられ、磨き上げられ、まとめ上げられているものを基準にして彼を判断することになる。

4さまざまな見せかけとリアリティの全体との間の垂離がある。衛生的に不潔で、なかば非合法的で残酷な、またほかの点でもいろいろと人間の品位を傷つけるような仕事が遂行されなければ、成立しないさまざまなパフォーマンスがある。しかしこのような不愉快な事実は、そのパフォーマンスの最中はめったに表現されることがない。

5汚れ仕事dirty workという概念と密接に関連する見せかけと実際の活動の間の垂離がある。

6パフォーマーは彼らが現に遂行している役割を得るについては理想的動機があり、自分はこの役割に相応する理想的な資格を持っており、さらに、この役割を得るためにどのような形にせよ、侮辱・非礼・屈辱をも忍ぶ必要はなく、また暗々裡に了解されているなんらかの<取り引き>をする必要もない、という印象を[他者に]与えていることをわれわれは知っている。

 ・表出的統制の維持Maintenance of Expressive Control
 ・・・パフォーマーは、自分のパフォーマンスに何か重要なことがあれば、その記号として、ささいな手がかりを[示して]どう受け入れるかはオーディエンスにゆだねる、ということであった。この便利な事実は不便なことを含意している。誤解など。

 ・偽りの呈示Misrepresentation
オーディエンスの一員となる場合、われわれは自然に、パフォーマーが与えようとしている印象を、真あるいは偽、本物あるいはまがいもの、間違いないあるいは<臭い>と感じる。このような疑いはすでに指摘したようにきわめて一般的であるから、われわれはしばしば、当該パフォーマンス中の簡単には操作できないような諸点にとくに注意を払う。その結果まさしくこれらの諸点によってパフォーマンス中に格別偽りの呈示となりやすい手がかりが信頼できるかいなか判断できるようになるのである。

抱かされ色た印象が真であるか偽であるかを問うとき、われわれが本当に問いたいと思っているのは、パフォーマーが当面問題になっているパフォーマンスを行う権限を与えられているかどうかであって、実際のパフォーマンス自体には第一義的な関心のないことがある。

 ・神秘化Mystification
・・・われわれが知覚と接触とを交わりの一形式とみなすならば、知覚されるものを統制することは接触の成立を統制することであり、呈示されるものの制限と規制は接触の制限と規制である。ここには情報面での諸条件と儀礼面での諸条件との関係がある。

 ・リアリティとたくらみReality & Contrivance
 ・・・われわれが行動について自分たちの考え方を定式化するときに従う二つの常識的モデルがあるように思われる。すなわち[一つは]真実の、あるいは実のある、あるいは正直なパフォーマンス、[もう一つは]偽りのパフォーマンスである。後者は舞台役者のように作り事として理解されることを願っているか、あるいは取り込み詐欺師の仕事のようにまともに受け取られることを望んでいるかにかかわりなく、相応に力のある作り手がわれわれに組み立てて見せるパフォーマンスである。

 劇場での演技あるいは演出された詐欺は、そのルーティーンになる部分の話の内容についてはきちんとした台本が必要である。しかし<偶発的表出>を含めて[パフォーマンスの]大部分は、わずかの演出指示によって決められる。