グールド大好き!(その2)

♪BGM・・・バッハ作曲「フーガの技法」より第1番

 音楽之友社刊『グレン・グールド アット ワーク〜創造の内幕〜』を読み返しながら、いろいろ考えたことを書いて見たい。

 著者のアンドルー・カズディンは、長年グールドのレコード製作に携わってきたプロデューサーだが、彼が語るところの、グールドの「創造の内幕」は、不愉快な経験に塗りつぶされており、じつに執念深い筆致で、今や鬼籍の人となったグールドへ、呪詛の言葉を並べて飽くことを知らない。そこには、「天才」との身近な交流を余儀なくされたものに通有のかなしみが満ちてはいるが、だからといって、この卑劣な著書が、同情に値するものだというわけではない。ただ私は、著者が意図しなかった、まったく別の関心から、この本を興味深く読んだのである。

 グールドのピアノ演奏の最大の特色は、何と言っても、対位法的音楽をくっきりと浮き彫りにしてみせる、卓抜した演奏技術にある。対位法的音楽への深い愛着については、グールド自身、たびたび述べているところだが、おおむね定石通りに推移する和声のうえに旋律を乗せてゆく音楽と違い、対位法的音楽は、一見、姿形の異なる旋律線が、共時的に響きあって進んで行くのである。演奏者本人と同様の、複眼的聴覚がない限り、そのすべてを聞き分けることは不可能であるが、グールドの演奏が語りかけてくる意図は、それでもじゅうぶん汲み取れるのではないかと思うのである。

 協奏曲形式を嫌っていたグールドは、「対立」という概念に否定的であった。そこには常に、争いと憎しみの感情が関わっているから。グールドが目指したのは、そうした感情的なわだかまりのない異質な存在同士の「共生」にあったのではないだろうか。

 アンドルー・カズディンが語るところによれば、グールドの言動と行動には、多くの矛盾が認められたという。彼の生真面目さにとって、グールドの振るまいは理解を絶したものであったであろうが、同じようにグールドの演奏の本質についても、プロデューサーであった彼には最後まで分からなかったのではあるまいか。グールドは、フーガを書くときに注意すべきこととして、ひとつの旋律に必要以上に拘泥しないことを挙げていたが、このことは彼の実生活面での振る舞い方を理解するための注意点でもあったのだろう。

 ひとは誰でも、相手に「証し」を求めてしまう。それは「友情の証し」であったり「愛情の証し」であったり「忠誠の証し」であったりする。けれど、ほとんど必ず、それらの「証し」は刹那のうちに裏切られる。グールドが人との交流を極端に避けていたのは、そういう「証し」を求められることを、また、そうした要求に結局はこたえられなくなってしまうことを、察知していたからに他ならない。それは、彼が演奏を通して表してきた「異質なもの同士の共生」という世界とは相容れないものだからである。

 結果からいえば、グールドは、カズディンの長年の労苦に報いるところが少なかったかもしれない。彼の吐露する感情は、裏切られた恋人を呪うそれに酷似している。グールドの思想は、彼のピアノ演奏の中でだけ、有効であった。実生活とは感情の坩堝であり、そこでは異質なもの同士は、詮ずるところ、憎しみ合うことしかできない。幼少の頃、母親に抱いた激しい怒りの発作を、深く恥じ、恐れたグールドにとって、対位法的音楽世界に身を置いているときだけ、こころの平安が得られたのではあるまいか。原色を排した一面灰色の世界。グールドだけが安らげる永遠の静寂が支配する世界。カズディンならずとも、到底堪えがたい世界の住人が、グールドそのひとだったのである。

 BGMについてひとこと。バッハの遺作「フーガの技法」は、グールドのお気に入りで、パイプオルガンによる正規録音のほか、TV放送用等でたびたび演奏している記録が残っている。ここで流れるMIDI作品の演奏速度は、グールドの速度からするとかなり速めだが、複数の音色を駆使した立体的仕上がりが気に入ってここに引用させてもらった。バッハの晩年、すでに「フーガ」は時代遅れの技法となっていたにも拘わらず、バッハは生命の最後の光芒を、この究極の「フーガ」に注ぎ込んだ。諸君!涙して聴くべし!

 

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