上尾宿散歩1
現在の上尾から宿場の面影が完全に消滅した訳ではありません。 
今なら間に合います。 少しの間、目を閉じてゆっくりと細目で見廻すと、
ほら見えて来るでしょう。 かつて旅芸人、行商人、武士、や大名そして
皇女和宮が通った頃の面影が。。。

 現在の上尾駅前の様子です。「まるひろデパート」の向いには本陣があり、周辺には脇本陣や旅篭や商家・問屋などがあった筈なのですが。。。想像するのも難しくなりました。
 旧中山道の現上尾駅隣にある「氷川鍬神社」境内にある手水鉢には、元禄八年(1695)の年号とともに、「上尾町 山崎武右門」と 寄進者の名も刻まれています。現在石造物に上尾の地名が残っているものでは一番古いといわれています。(下記参照)

上尾宿、江戸方面に残る民家ですが往時は商家のようです。鬼瓦があっていいですネ。

宿場の渋い魚屋さんと豆腐屋さんです。味と信用は家の歴史が物語っているようです。

街道沿いの庚申塔は、かつての旅人の安全を願い建てられたようです。さしずめ今でいう交通安全
祈願のようなものでしょう。どうです?この立派な長屋門、これだけの敷地で建売住宅が数件建てられそうで、市内でも大きい方なので御主人のお話を伺いました。
 明治
16年に建てられ百二十年以上経っているそうす。庄屋さんでもなさっていらしたのですか?と言うと「いやー庄屋ではありませんが、手広く農家を営んでいました。農地や山林がかつては有りましたが、すべて手放し私は農業をやったが事ありません。市内でも大きな長屋門だと思いますが、昔は農作業や納屋として活躍しました。しかし現在では大きすぎて邪魔なので取り壊しも考えています。」というお話でした。「もったいないので是非このまま残してください」などと見学者の私は勝手なことを言ってお別れしましたが、後何年?見られるでしょうか・・・




 旧中山道に面した老舗の造り酒屋さんの酒蔵です。明治27年 埼玉県北足立郡平塚村(現上尾市平塚)にて創業。 平成9年 北西酒造から文楽に社名を変更しました。純米吟醸「上尾育ち」・大吟醸
「文楽 」清酒「彩いろどり」 などがあり現代風な淡麗辛口の酒を醸しています。

 

「上尾宿と本陣」

 上尾市の市街の中心は、中山道にそった上尾宿をその源にしていますが、この上尾宿はすでに
後北条時代に宿駅として成立したようです。宿駅として整備されたのは、慶長七年(1603)伝馬制施行以降のことです。幕府は中山道各宿駅には、五十人五十匹の人馬を用意させ、主要幹線路としての役割をはたさせました。
 また、各宿に本陣、脇本陣を置いて大名などの宿泊所としました。中山道を通行した大名は、加賀の前田藩をはじめ三十四家ほどでした。上尾宿は、中山道の中では比較的小さな宿場でした。江戸時代末の家数は、182軒、人口は793人、旅篭屋は、41軒でした。図は、文化三年(1806)完成の「中山道分間延絵図」に描かれた中山道上尾宿の中心部です。
中央の太い道筋が中山道で、画面右が大宮方面、左が桶川方面になります。画面下側中央の鳥居が鍬大神宮(今の氷川鍬神社)、鍬大神宮の正面に本陣があり、その両側に脇本陣が二軒あります。その右近くには問屋場、さらに右に行くと道をはさんで両側に一里塚があります。
鍬大神宮のすぐ右側にもう一軒の脇本陣が描かれています。上尾宿には本陣が一軒(林八郎右衛門)、脇本陣が三軒(本陣の右が白石長左衛門、左が井上五郎右衛門、向いが細井弥一郎)ありました。これらは主として参勤交代の大名たちの宿で、本陣のことは「大名宿」ともよばれました。脇本陣は副本陣のような性格をもち、本陣の代理もしました。  【上尾市教育委員会】

 
  〔当時の上尾宿を描いた絵図〕           〔東京国立博物館所蔵〕

 この上尾宿の人々の様子を知る手掛かりになるのが、天明八年(1788)、上尾宿で旅籠屋を営む四世山崎武平治をはじめ地元有志の人々が協力して開塾した聚正義塾」(しゅうせい)という学校です。  当代一級の学者であった雲室上人を江戸から迎え、孝経、大学、近思録などを学びました。これは当時主流だった 寺子屋や私塾ではなく、地元の人々がお金を出し合って運営する「郷学」とも言える、今の公立学校のような存在でした。
 現在の氷川鍬神社境内に建てられた四間四方の学舎には、上尾宿村や近隣の村々から多くの青年が集まったといわれます。氷川鍬神社境内にある「上尾郷ニ賢堂碑記」は、当時塾内に学問の神様である菅原道真公と朱文公を祭ったニ賢堂があったことを今に伝え、当時の学問に対する意欲と熱意の程をうかがわせます。
漢詩文や絵も描いた画僧、雲室上人は、信州飯山の出身で、江戸で大学頭、林鳳潭らから教えを受けた当代一級の学者でした。「聚正義塾」の開校式には、雲室上人のほか湯島聖堂の都講(塾頭)、市川寛斉という有名な先生も来ていますから、いかに充実した教授陣であったかがうかがえます。 
雲室上人が書いた「雲室随筆」には、学舎の建設も上尾宿近在の人々の労力奉仕や寄付でなされたことなど、上尾宿の人々の学問への熱心な思いが生き生きと記されています。

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