世界でいちばん小さな海

 一面の白い砂だった。
 風は逆巻き、砂まみれになったイツキの髪をなお執拗になぶっていた。視界は白い闇で覆われていて、一歩先に地面があるのかどうかすらわからない。
 渇きのせいで喉は痛み、呼吸のたびに胸をかきむしられるようだ。飲料水も保存食もとうに底をついていたのだけれど、空っぽの背嚢を脱ぎ捨てる気力すらイツキには残っていなかった。
 ただ、右前の方によろけて倒れそうになるから右足を前に出し、今度は左前に倒れそうになるから左足を前に出す。その繰り返しだった。他のだれかが見れば、歩いているようにも見えたかもしれない。
 だれもいなかった。白い砂漠の真ん中で、イツキは独りだった。
 気づくと、身体が動かなくなっている。
 口の中の砂の味が、いっそう濃くなっている。閉じたまぶたに、ざらざらした感触。
 どうも自分は、倒れてしまったらしい。
 さっきまでどうしてあんなに必死に歩いていたのか、不思議に思えてくる。砂がこんなに心地良いなんて。自分の身体が砂に埋もれていく感触が、こんなに心安らぐものだなんて。
 イツキはこわばっていた全身の力を抜いた。じきに夜が来て、自分に残された最後の体温を、優しく奪っていくだろう。それでもよかった。
 心なしか、風鳴りが弱まっているような気がした。意識が遠くなっているのだろうか。
 ざく、ざく、と砂を踏む音が聞こえる。
 自分はもう歩いていないはずなのに。
 近づいてくる。足音が近づいてくる。イツキは頭を持ち上げ、目を開いた。
「やっと見つけた」
 と、その影は言った。
 それから、イツキの頬になにかが触れた。
 何年ぶりだろう、それは人の手のひらだった。柔らかい体温。
「立てる? ……いや、無理か」
 声を聞きながら、イツキの意識はゆっくり暗闇に引きずり込まれていった。



 目を覚ますと、凹凸だらけの天井が目に入った。
 手足を動かしてみる。風鳴りは小さく聞こえてはいるけれど、砂はどこにもない。かわりに、これは……毛布の手触りだ。
 イツキは上半身を起こした。と、めまいが襲ってきて、また倒れてしまう。
 ベッドの上だった。懐かしい、シーツの感触と乾いた匂い。
「無理に起きあがらない方がいいよ」
 声がした。イツキは、ゆっくり首を横に動かした。
 ベッドの脇に少年が立っていた。イツキと同い年かひとつふたつ上くらいだろうか。襟の深いだぶだぶの服を着ている。乱雑に散らばる髪は艶のない鈍色で、額にも深く落ちかかり、その奥の大きめの瞳は色も光もよく見えない。
 少年はイツキに、水差しを差し出した。
「飲める? 脱水症状を起こしてるから、ゆっくり、ね」
 吸い口が唇に触れた。冷たい水が歯の間から拡がり、傷だらけの喉をすべり落ちる。イツキは頭をはねあげてむせた。弾みで水差しが毛布の上に落ちる。
「大丈夫?」
「ご……」
 ごめんなさい、と言おうとしたが、声が出なかった。
「喉を通らないかもしれないけど、これ。噛んでるだけでもいいから」
 そう言って少年は、透明なプラスティックのトレイを差し出した。きつね色の四角くて平べったいものが四枚、載っている。
 一枚を少年の指がつまみあげて、
「はい」
 イツキの口にもってくる。
 匂いはまったくしない。見た目は、乱暴に裁断したボール紙みたいだった。
 イツキは少年の目を見上げた。にっこりと笑みが返ってくる。
 意を決して、口に入れた。
 かすかに甘い。でも、舌触りは完全に紙のそれだ。イツキは眉をひそめて少年をもう一度見上げた。
「うん、そう。紙だよ、それ。栄養をしみこませてあるんだ。そうやって、消化器官を通す形にしないと、胃や腸が役立たずになっちゃうからね」
 少年はイツキの頭のてっぺんをぽんぽんと手のひらで軽く叩いた。イツキはうなずいて、その食べ物を噛み続けた。繊維がほどけて歯ぐきにこびりつく。気持ち悪い。
 飲み下したところで、また水を差し出された。今度は、受け取って自分で飲んだ。
「な、」
 声が出るようになった。
「なんで、こんな、わたしみたいな見ず知らずに、水とか、食べ物とか……」
 少年は意外そうな顔をした。
 トレイと水差しをテーブルに置くと、丸椅子を持ってベッドの脇まで戻ってきて、腰を下ろす。
「君の名前は?」
 イツキは一瞬、なにを訊かれたのかよくわからなかった。少年の目がいつの間にか自分の目と同じ高さにあって、恥ずかしくなって毛布をかき寄せた。
「……イツキ」
「イツキ? 名字は?」
「みょうじって?」
「ん? ああ……そうか、ごめん。君は戦後生まれなんだな。なんでもない」
 少年は鼻の頭を掻きながら視線をそらした。
「シェルターにいたの?」
 イツキはうなずいた。
「あの爆撃に耐えられなかったんだね」
 もう一度、うなずく。
 イツキはまた、あの夜のことを思い出す。忘れたいのに、他の楽しい思い出はみんな消えてしまっているのに、あの、シェルターの天井が砂みたいにもろく崩れて、頭の上に落ちてきた瞬間のことだけが、焼きついて消えない。
「生き残ったのは、イツキだけ?」
 そう。自分だけだ。
 それから、炎がまっさらにしてしまった後の白い砂漠を、独りで歩いて、歩いて、歩き続けて……
 手の甲に冷たいものを感じる。不思議に思って視線を落とすと、まぶたからぼろぼろと涙がこぼれ始める。火照った頬を走り、毛布を固く握りしめた拳の上に落ちる。
「ごめん、思い出させちゃって」
 少年の言葉が、堰を切った。
 喉の奥からぶつ切りの嗚咽がこみあげてきて、ようやくイツキは、自分が泣いていることに気づいた。



 次に目を覚ましたときには、手足のひきつるような痺れも消えていた。イツキはベッドを下り、ようやく部屋の中を見回すことができた。
 それほど広い部屋ではなかった。ベッドをもう三つ置いたら、それだけで身動きがとれなくなってしまいそうだ。ねずみ色の壁は染みやひび割れが目立つ。丸いはめ込みのガラス窓が、ベッドのそばと反対側の壁にひとつずつ。床に楕円形の陽光が落ちていて、昼間だとわかる。天井は漆喰のけばが浮き出ていて、むき出しのパイプがうねうねと縦横に走っている。
 部屋にあるものといえば、イツキが寝ていたベッド、それから引き出しつきの事務机、塗装の剥げた丸椅子がふたつ。
 木製のドアがひとつ。出入り口はそこだけのようだ。
 イツキは砂ぼこりだらけの床を裸足で横切り、ドアを押し開いた。
 と、ドアがごつん、と妙な手応えにぶつかって、
「ったぁ」
 声が、半開きのドアの向こうから聞こえた。
 側頭部をさすりながら、少年が低いところから顔を出す。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
「いや、謝らなくても。こんなとこで寝てた僕が悪いんだな、ははは、ついうとうとしてしまった」
 ドアの外はすぐ階段の踊り場になっていた。この部屋は二階だったのだ。階段の手すりの向こうに、真っ白な砂漠が視界の限り広がっている。
「外なんかで寝て、大丈夫だったんですか」
「ふむ。でもベッドはひとつしかないからね」
「あ……。ごめんなさい、わたしが」
「いいんだ。砂嵐のおさまった後は外でぼおっとしてるのが好きでさ、よくそのまま寝ちゃうんだよ。もう歩けるの?」
「え、あ、はい。なんとか」
 少年は歯を見せて笑った。見ているこっちが跳び上がって駆け出してしまいたいくらい嬉しそうな笑みだった。
「食事にしようか。昨日のあれしかないんだけれど」


 二人は一階のテーブルでボール紙をかじり、水を飲んだ。食べ物はあいかわらず美味しいとは思えなかったけれど、水がたっぷりあるのは嬉しかった。
「もう少し飲む?」
 少年が言うので、イツキはうなずいた。
 一階は、ベッドのあった二階とほとんど同じ構造だった。対になった丸窓、入口は階段の踊り場のドア。少年の話によると、この建物は一見二階建てに見えるけれど、実は砂に半分埋まってしまったビルの三階と四階なのだそうだ。
 この一階――三階と呼ぶべきだろうか――の部屋には、不思議な機械があった。壁を一面埋め尽くす巨大なもので、無数の金属パイプがまるで巨木の根のようにからまりあっている。
 水も、紙の食べ物も、その奇妙な機械から出てくるのだった。少年がコックをひねり、イツキは奇蹟を目の当たりにした。蛇口から水が勢いよく落ちてきたのだ。
「水、一日にこんなにたくさん飲んで大丈夫なんですか」
 コップがわりのブリキ缶を受け取った後で、イツキは少し心配になって訊いてみた。
「水を飲むと体に悪いというのは聞いたことがないな」
「いえ、そうじゃなくて、節約しないと」
 少年は笑って答えた。
「大丈夫だよ。水はいくらでも出てくるから」
 いくらでも?
「あの機械ですか?」
「うん」
 少年はずっとにこにこしながらイツキの質問に答えている。イツキは少し心苦しくなった。行き倒れたところを助けてもらい、こうして食事と水までもらっているというのに、自分は下世話な詮索をしている。
 ごめんなさい、と声には出さずに言うと、トレイに残っていた紙片を口に入れ、ブリキ缶の水で飲み下した。
「イツキ」、少年が、なぜか天井に顔を向けて言った。
「え? あ、はい」
「海を見たこと、ある?」
「うみ?」


 少年に連れられて、イツキはビルの屋上にあがった。
 砂嵐はおさまっていて、砂漠がどこまでも見渡せた。白い砂地と白く濁った空とを隔てる地平線も、その日ははっきりと見分けられた。砂漠を歩き回っていたときは気づかなかったけれど、遠くで地平線が大きく隆起しているのが見えた。山があるのだ。
「イツキ。これ」
 少年に呼ばれて、イツキは壮大な遠景に呑まれていた意識を引っぱり戻した。
 だだっ広い屋上のちょうど真ん中に、人ひとりがゆうに入れそうなくらい大きな透明のカプセルが直立していた。床から突き出た何本ものパイプがカプセルの底部に接続され、カプセルを支えている。
「これが海だよ、イツキ」
 少年がカプセルの中を指差すので、イツキはのぞきこんでみた。カプセルの底には緑がかった水がわずかに溜まっていた。
「うみ……?」
「そう。昔は、このカプセルいっぱいに満たされていたんだけどね。あの機械の動力をこれひとつでまかなっているから、もうすぐなくなってしまうだろうけど」
 それを聞いてイツキは、もう一度そのエメラルド色の液体に見入った。
「うみ、って。もっと大きな、大きな水のことじゃないの? わたしは見たことがないから、わからないんだけど」
「うん。昔はね」
 少年はかがみこんで、コンクリートのくぼみにたまっていた白い砂を手に取った。指の間から白く細い滝が流れ落ちる。
「戦前は、この惑星の表面の七割は海だったんだ。想像できる? 地面より水の方がずっと多かったんだ。その頃、世界中の海はひとつにつながっていた。いや、言い方が違うかな、ひとつの大きな海がこの惑星を覆っていて、陸はそのところどころにぽつぽつと浮かんでいたんだ」
 少年は、汚れていないコンクリートの上に、砂をひとつまみ、またひとつまみと置いていった。
「でも、何発もの爆弾が、ほとんどの海を白い砂漠に変えてしまった」
 少年の指が、点在していた砂の山を押し崩し、ならしてしまった。コンクリートはすっかり白い砂に覆われた。
 ならされてしまった砂の真ん中に、ぽつんと穴が空いていて、そこだけ下のコンクリートが見えた。少年はその穴を指差して、それからカプセルに視線を戻した。
「あなたは、戦争の前のことを知ってるんですか?」
 イツキは、思わず訊ねてしまった。少年はとてもそんな歳には見えない。シェルターにいた最長老でさえ、生まれたときからコンクリートの空の下の世界しか 知らなかったのだ。
「イツキにも、教えてあげるよ。色んなこと」
 少年は言って、立ち上がり、尻についた砂を払い落とした。
 それから、服の胸に手を入れ、それを取りだした。紐で首にかけてあった、小さな金属片。
 イツキはそれに顔を近づけた。細かい文字と数字がパンチされている。
「なんですか、これ」
「認識票。ああ、ええと、つまり、僕がだれなのかが書いてあるんだ」
 イツキは、金属片の文字を読んだ。
 ――TKYING170271
 クルサ=ジュピナポダ
 2046年1月26日生
 すべての帝国臣民にひとしく皇翼の恩顧を――
「それが僕の名前。クルサ」
 イツキは、すぐ目の前にあるクルサの顔を見上げた。
「あなた、帝国の人なの? 嘘でしょう? だって、帝国は戦争が始まるずっと前になくなっちゃったって長老が言ってた。この生年月日だって、二百年も前――」
「うん。でも、クルサは長生きなんだ」
 クルサは認識票をしまうと、イツキから身体をはなし、カプセルにもたれかかった。
「クルサは、海を守る人だから。ずっと生きてるんだよ」



 次の日からクルサは、イツキに様々な仕事を教えてくれた。
『海』のカプセルは陽光を動力に変換しているため、曇らないように毎日掃除してやらなければいけないこと。これはイツキの日課になった。
 トイレの掃除。地下室(つまり、本来のこのビルの二階部分)は廃物処理室になっていて、建物で使われた水や排泄物はこの地下室の巨大なタンクに集められてから、『海』の力で浄化された。タンクの外部注水口がそのまま便器になっていたため、クルサは地下室のことをトイレと呼んでいた。実際、水と紙しか口に入れない生活なので、トイレといってもほとんど汚れていなかったし匂いもなかった。
 食べ物の作り方も教わった。廃物タンクから、再プレスされたボール紙を採ってきて、細長く裁断する。栄養液が循環している五種類のパイプに、何度も何度もその紙片をくぐらせるのだ。やりすぎると液が変質してしまうし、足りないと食べ物にならない。加減が難しかった。クルサは紙の色のわずかな変化で頃合い を見計らうのだと教えてくれたけれど、色の違いなんて何度見てもわからなかった。
 それから、パイプの点検。これは四日に一度。建物じゅうのパイプに水を通して、漏れやつまりがないかどうか確認する。この作業だけは、機械の構造も操作方法も知らないイツキにはタッチできなかった。
「そのうち教えるよ」とクルサは言ってくれた。
 毎日、きまった仕事があるということが、これほど安心することだとは思わなかった。シェルターでは、八時間おきに個室の壁から突き出てくる流動食のチューブに吸いつくことだけが「生きている」すべてだった。砂漠に投げ出された後は、足を動かすだけの機械になった。
 でも今は、考え、呼吸し、動き、生きている。
「なんだかうれしそうだね、イツキ。なにかいいことがあったの?」
 点検を終えたクルサが、訊いてきた。イツキは思っていることをそのまま話した。
 クルサはそれを聞いて笑った。
「ただ機械みたいに生きているのはつらいことなのかな」
 そう訊き返されて、イツキはとまどってしまう。


「山に行こう」と、クルサが言った。
 イツキが拾われてから、半月ほどたった日のことだった。砂嵐が過ぎてしまった直後で、空も砂漠も洗いたてのシーツのようにまっさらだった。
「山? なにをしに行くんですか」
 砂に突き立てた二本のポールに張ったロープに洗濯物をぶらさげながら、イツキは訊いた。
「うん。パイプの中を掃除するのに砂を使うんだけど、このへんの砂じゃ目が細かすぎてだめなんだ。だから、わざわざ山まで採りにいくんだよ。いっしょに行こう」
 大きな背嚢に水筒や食糧、それから砂を入れるための袋をつめて、二人は出かけた。
 砂漠は、イツキがさまよっていたときとまったく変わらない姿だった。風紋とうねりの陰影がどこまでもどこまでも続く、白。
 けれど、独りではなかった。イツキはときおり、後ろを振り向いては砂上に刻まれた足跡が二筋であることを確認し、それから隣を歩くクルサの横顔に目をやり、クルサの訝しげな視線をかわして前に向きなおり、ひとりほくそ笑んだ。
 いつの間に山に踏み入ったのかは、わからなかった。
 歩いても歩いてもはるか遠方にあるように見えていた、あの扁平で巨大な三角錐は、ふと気づくと見えなくなっていた。足を進めるペースが次第に落ちている のがわかった。いつの間にか地面ばかり見ている。
 すでにそこは山裾だった。
 登っていくうち、ふとあたりがどんどん暗くなっていくような気がして、イツキは背後の空を仰いだ。太陽は分厚い靄の空の向こう、まだ中天にあった。気の せいだと思い、山頂の方へと向きなおり、気づいた。
 砂が、純白だったはずの砂が、灰色に染まっている。
「山の砂は黒いんだよ。遠くから見てもよくわからないけどね」
 イツキが驚いているのに気づいたのか、クルサが教えてくれた。
「登ろう。頂上にはいい砂がいっぱいあるんだ」
 まったく顔色を変えずペースも落とさず斜面を登り続けるクルサに、イツキはほどなくついていけなくなった。一分おきくらいにクルサは立ち止まって振り向 き、イツキを待ってくれた。
「ごめんなさい、のろくて……」
 イツキは肩で息をしながら言った。
「わたしのこと、待たなくてもいいですよ。クルサだけ先に行っても」
「いやだよ、そんなの」
 クルサの言葉に、イツキは思わずまじまじと顔を見つめてしまった。それまでの彼からは考えられないくらい、幼い口調だったからだ。
「長いこと、独りでこの道を往復してたんだ。やっとイツキを見つけて、こうしてまた二人で歩けるのに、僕だけ先に行くなんて、いやだよ。頂上からの景色 を、イツキに見せてあげたい」
 クルサは、イツキの手を取って、さっきよりはゆっくりした歩調で歩き出した。イツキは自分の足下から視線をあげることができなかった。顔が紅潮している のが自分でもわかった。


 山の頂上には、すり鉢状の巨大な火口があった。いや、実際に火口かどうかはわからないけれど、クルサはその、向こうの縁も見えないほど大きな穴を火口と 呼んでいた。すべてが黒い砂岩でできているため、穴の深みは粘着質の暗闇が溜まっているように見えた。
「イツキ。ほら、僕らの家が見えるよ」
 クルサに言われて、今まで登ってきた道を振り返る。
 息を呑むほどの景色だった。
 足下から、モノクロームのグラデーションが長い長い斜面を滑り降り、白の中に拡散していく。細かい砂丘の連続など、この高みからはわからない。均一に、 どこまでも広がっている白一色だ。
「もうすぐ砂嵐が来る。見てて」
 クルサが指差したその先、砂漠の真ん中にぽつんと、小さな影が見えた。自分たちが住んでいるビルだ、とイツキが気づいた瞬間、白の平面全体がぐにゃりと 歪んだ。
「……え?」
 ビルを中心に、巨大な渦が生まれた。ぴんとはったシーツにできたしわのようだった。渦はゆっくりと回転しながら、砂漠のすべての砂をかき集めるかのよう に中心に向かって終わりのない収斂を始めた。おそらく嵐のただ中では切り裂くような風が吹きすさび、ビルの壁面に砂粒が叩きつけられ、砂丘はことごとくな ぎ倒されて更新されているのだろう。けれど山頂の高みから見たその嵐は、まるで巨大な何者かが優しい手つきで乳をかき混ぜているようだった。
 静かすぎるのだ。
「砂漠が、生きてるみたいでしょ」
 隣で、クルサが静寂を破った。
 イツキはその光景に魅入られながら、うなずいた。
「あの嵐のおかげで、イツキは僕のところにたどりつけたんだよ」
 ようやくイツキは、眼下の嵐から目を離し、クルサの方を向くことができた。
「クルサ、ずっと独りだったんですか」
 少年の顔がゆっくりこちらに向けられた。あいかわらず涼しい顔で、口には笑みがはりついている。けれどイツキはその時、はじめてその眼に暗い光を見つけ た。
「八年間。ただ生きているだけなのは、たしかにつらかったよ」
 クルサは手を伸ばし、イツキの肩にかかった髪を払い、頬にそっと手のひらを触れさせた。
「でも、もう大丈夫。イツキを見つけたから」
 イツキはなにか言おうと思ったけれど、言葉が見つからなかった。だから、うなずいた。それがどういう意味なのかは自分でもわからなかったけれど、さらに もう一度、うなずいた。


 砂を背嚢いっぱいにつめ、砂嵐がやむのを待ってから二人は山をおりた。下りの道は歩きやすく、イツキはクルサと並んでずっと歩き通すことができた。



 翌日の、パイプの清掃は大仕事だった。
 砂をパイプじゅうに行き渡らせる作業は日の出直後に始めたのだけれど、終わったのは昼過ぎだった。二人とも、服から髪から砂だらけになっていた。
「これで終わり?」とイツキが訊くと、
「いや、これから最低出力でゆっくり循環系を回すんだ。一日仕事だよ」とクルサは答えた。
「でも、イツキの仕事はとりあえずおしまい。手ぇ洗っていいよ」
「うん」
 イツキは地下のトイレに行くと、汲み置きの水を両手にかけて砂を洗い流した。
 一階に戻ると、
「あ、そうだ、イツキ、もうひとつ仕事があった」とクルサが言った。
「なに?」
「『海』の接続を切ってきてくれないかな」
 パイプの清掃をするときには、『海』のカプセル内部にまで砂が入ってしまわないように、メインパイプを遮断するのだとクルサは説明した。
「わ、わたしにできるの、そんな難しそうなこと」
「平気だよ。簡単だから」
 クルサから脚立と工具を渡され、イツキは屋上に上がった。
 昨日の砂嵐のせいで、屋上はまた一面砂だらけになっていた。清掃作業に追われていて日課のカプセル拭きもやっていないので、『海』のカプセルのガラスも 真っ白になっている。
 イツキはカプセルの足下にかがみこむと、服のそでで砂を払い落とした。底に溜まった緑色の水は、はじめて見たときよりさらに減っているように見えた。
 カプセルの頭頂部は、クルサの言っていたとおり、開閉可能だった。ナットをゆるめ、扉を開く。脚立は背丈があまりなかったので、カプセルの中に入るのは ひどく苦労した。
 緑の水の中に手を入れるときは少しだけ緊張した。水は粘り気があり、なまあたたかかった。それに、強い匂いがある。記憶にある匂いだ。なんだったろう?
 四つあるバルブをすべて閉める。
 ふと、水の底になにか白いものが沈んでいるのを見つけた。拾い上げてみると、それは固くて薄っぺらいもので、見かけよりずっと軽かった。
 なにかの切片だ。三角形に近い形で、二辺は断面がざらざらしている。もう一辺には、粒状のものが並んでくっついている。
 なんだろう、これは、どこかで見たことがある。
「イツキー! もう済んだー?」
 階下で、クルサが叫んだ。
「あ、ごめんなさい、もう少し待って!」
 答えて、イツキはもう一度手にしたそれに目を落とし、ようやく気づいた。
 並んでいる粒は、歯だ。
 つまりこれは――だれかの、もしくはなにかの、顎の骨の一部だ。


 その日、何度もクルサに骨のことを訊ねようとした。けれど結局言い出すことができなかった。骨のかけらはポケットに入ったままだった。
 クルサの言ったように、パイプの清掃は丸一日かかった。すべてのパイプを洗浄し終え、大量の砂がトイレに廃棄されたころには、すでに日は沈んでいた。
 クルサはよほど疲れたらしく、食事もせずに寝てしまった。
 その夜、イツキは眠れなかった。きつい作業のせいで手足はもぎとって茹でてしまいたいくらいくたびれていたけれど、頭はがんとして眠りを受け付けてくれ なかった。
 しかたなく、ベッドを抜け出して部屋を出た。
 屋上に上がると、幻想的な砂漠を一望できる。昼間のうちに光を吸い取った砂がぼんやりと発光している。イツキは軽いめまいを覚える。まるで天地が入れ替 わったみたいだ。
 ポケットから骨片を取りだして、砂漠の光にかざしてみる。
 シェルターの中では、屍体はめずらしいものではなかった。毎日、どこかのコンポーネントでだれかが死んでいた。飢えや、渇きや、あるいはみずからの狂気 によって。
 たしかに、骨だ。本物に見える。歯の形からして、人間の骨だとしか思えない。どうしてこんなものが『海』の中に沈んでいたんだろう?
 ふと、水音が聞こえた。
 イツキは振り向いた。音は『海』のカプセルからだ。
 カプセルに駆け寄り、ガラスにこびりついた砂をこすり落とした。
 カプセルの底で、無数の泡が弾けている。水かさはほとんどゼロに近かった。そのせいで、バルブから逆流した空気が泡を作っているのだ。
 やがて、イツキの見ている前で、緑色の水は尽きた。



「しかたないよ。使ってればなくなるものだから」
 翌朝、空っぽになったカプセルを見ながらクルサは言った。
「でも。これから、水とか食べ物とか、どうするの」
「ストックがあるから、しばらくはそれで暮らせるよ」
「でも、そんなの、すぐ……」
 クルサはカプセルに背を向けて、階段の方へと歩き出した。
「なくなったら。『海』を補充するしかないね」
 背中越しに言う。
 補充? どうやって?
 クルサの後ろ姿はそのまま階段に消える。


 その日から、クルサは食べ物も水も一切摂らなくなった。
 最初のうちは食べたふりをしてそれをストックに戻していたのだけれど、そのことにイツキが気づいて問いつめてからは、食事の席にもつかなくなった。
「いいんだ。最近、体の調子が悪くて、受け付けないんだよ」
 そうクルサは言った。頬はこけ、唇はひびわれ、顔色は青白くなっていた。
「どうして食べないの?」
「食べたくないから」
 クルサはそう言って、機械の方を向いてしまう。
「節約してるの?」
 イツキは、いつの間にか責めるような口調になっている自分に気づいた。
「そうだよ」
「補充できるなら、今しちゃえばいいのに」
 クルサは答えず、パイプの節目の砂をブラシで落としている。
「ねえ、なにか理由があって補充ができないんなら、わたしも食べ物を半分にするから。ううん、わたしは食べなくってもいい。だから、クルサはちゃんと食べ て」
 クルサの手が止まった。イツキはじっと返事を待つ。
 しばらくして、またブラシが動き出した。イツキはため息をついた。
「じゃあ、クルサが食べるようになるまでわたしも食べない」
 クルサは振り向いた。苦い表情が浮かんでいる。
「イツキは、わがままだね」
「クルサが、なにも教えてくれないからだもん」
 二人はしばらくお互いの視線を探り合っていた。
 やがてクルサが目を伏せ、イツキに背を向けてまたパイプの掃除を始める。
「ねえ、どうして? 『海』の補充は今はできないの?」
「補充したら、僕とイツキはお別れだから」
 ブラシが砂を掻き出す音。
 ポケットの中の骨。
「イツキと、なるべく長くいっしょにいたい」
 胸になにかがつっかえていて、無理に喋ろうとするとそのなにかまで流れ出してしまいそうだった。イツキは黙って部屋を出た。


 地下におりた。水の残量を調べるためだった。廃物タンクはフロア全体をほとんど占拠するほどの大きさの円筒形で、浄化槽になっているために内部はフィル タで仕切られ、下部には浄水がためられている、らしい。
 イツキは天井の採光窓を棒でつついて開けると、浄化槽のメーターを確かめた。
 絶望的だ。もう水は二日分しか残っていない。いや、節約すれば五日くらいはもつだろうか?
 あるいは、機械を使わずに汚水を浄化できれば。
 でも、食べ物は? どうしようもない。
 イツキはじめじめした床にへたりこんだ。分厚く砂が積もっている。パイプの洗浄に使った砂だ。山から持ち帰ってきたときは黒かったのに、今は酸化して 真っ白に変色し、天井からの弱い光を受けて淡く光っている。
 ふと、イツキは砂が不自然にへこんでいる箇所を見つけた。階段の真裏だ。床に敷き詰められた砂が、ちょうど真四角にくぼんでいる。砂自身が発光していな ければ気づかなかっただろう。
 階段の裏にまわり、その砂をどけてみた。コンクリートではない床が現れた。これは――薄いプラスティックのプレートだ。砂の重みでたわんでいるのだ。
 たわんでいる?
 イツキは砂をかきわけ、プレートの端を探した。見つけると、床とプレートの間に手を差し入れ、持ち上げた。
 ざあ、と砂が傾いたプレートを伝って滝のように流れ落ちた。そしてその下から、四角く真っ暗な穴が現れた。下への階段だ。
 そうだ。クルサは、このビルがかつては四階建てだったと言っていた。一階への下り階段。
 クルサはこの階段のことを教えてくれなかった。黙って下りたら怒られるだろうか。それとも――
 イツキは採光窓を見上げ、ぐっと唾を飲み下すと、穴に足を踏み入れた。


 地上からの明かりも届かない、ほとんど純粋な暗闇だった。
 それでも、イツキが開いた階段の口から漏れたごく微量の光が、地下二階のそのフロアに積もった砂を励起させたようだった。やがて、闇に慣れた目を優しく 迎え入れるように、部屋はうすぼんやりとした光に包まれた。
 テーブルも椅子も、なにひとつない部屋だった。二つある丸窓は塗りつぶされていた。砂の圧力のせいか、壁はひしゃげていてひび割れだらけだった。どうや らビルの正面玄関だったらしい壁の一角は大きく崩れて、黒々とした岩盤がのぞいていた。
 ただ、その部屋にいたのはイツキだけではなかった。
 壁際にずらりと隙間なく肩を並べて、虚ろな眼窩の奥から侵入者をにらんでいる――それらは、大量の人骨だった。
 イツキは、おそるおそる壁に近づいていった。人骨の状態は様々だった。風化してほとんど砂になっているものもあれば、関節と筋肉をあてがってやれば今に も起きあがってきそうなものもあった。共通しているのは、壁にもたれて脚を投げ出したかっこうで並べられているということだった。
 並べ方にはどうやら法則性があるようだった。見回すと、入口の左手あたりにある人骨はみんなぼろぼろで、どれが脚の骨でどれが頭骨なのかもわからない。 そこから左回りに、徐々に人の形を成すようになり、入口の右手にある骨はほとんど欠損のないひとそろいの人骨だった。
 一番手前――おそらく、最も新しいものであろう人骨。その頭骨の、下顎の右側がぱっくりと欠けていた。
 イツキはポケットから、『海』の中で拾った骨片を出して、そのあごにはめてみた。
 ぴったりだ。
 クルサの言葉を思い出す。
 ――補充したら、僕とイツキはお別れだから。
 ――イツキと、なるべく長くいっしょにいたい。


 イツキは地下一階に戻ると、廃物タンクのバルブをすべて開いた。ごぼり、ごぼりと大きな獣の嗚咽のような水音をたてて、わずか二日分だけ残っていた浄水 が地下室の床に吐き出され、砂にしみこんだ。
 クルサと別れるのは、イツキだってつらかった。
 でも、これ以上クルサに苦しい思いをさせるわけにはいかなかった。自分は、どのみちシェルターの中で一度、砂漠でまた一度、死んだ身なのだ。



「水がなくなっちゃった」
 翌朝起きてすぐ、クルサが言った。指でつつくだけで泣き出してしまいそうな顔をしていた。
「うん。知ってる。わたしが残りの水を全部捨てちゃったんだもの」
 クルサの視線が、一瞬だけ、ものすごく遠くのものを見るときのものにかわった。イツキは、ああ、嵐の中で倒れていた自分を、クルサはこの目で見つけてく れたんだ、と思った。胸が熱くなった。
「どうして?」とクルサは言った。
「水が残っていると、クルサは『海』の補充を先延ばしするでしょう。わたし、これ以上クルサが苦しんでいるのを見たくない」
 クルサはなにも答えない。
「別れるのは、わたしだってつらいけど。でも、クルサのためなら、わたしは怖くないよ」
 気の遠くなるような長い沈黙の後、クルサは言った。
「眠っているみんなを、見つけたんだね」
 イツキはうなずいた。
 クルサの顔から、翳りが消えた。夜に光を吐き出す砂のように。
「屋上に行こう」


 その日の雲は薄く、砂漠は陽光を浴びて恍惚としていた。そよぐ風には砂の匂いすらない。
 クルサは『海』のカプセルに脚立を使ってよじ登ると、頭頂部の蓋を半開きにした。
「イツキ。根元に蝶番があるだろ? うん、それ。そこを右にたどっていくと、ガラスの継ぎ目が見つかると思う。あった? うん、じゃあ、押して。開くか ら」
 クルサの言うように継ぎ目のそばを軽く押すと、かちりと音がした。手を離すと、カプセルの側面に切られた人ひとりぶんほどの大きさの開閉口が、ゆっくり と手前に開いた。
 クルサは下りてくると、脚立をたたんで脇によけた。
「こういうとき、なに言えばいいのかわからないね」
 そうクルサが言うので、イツキは笑おうとするのだけれど、うまくいかない。
「もう、中に入っていいの?」
 カプセルを指差して訊ねる。
 クルサがぽかんとした顔でイツキを見た。足下に視線を落とし、またイツキの顔に戻した。笑っているのか、泣き出す寸前なのか、よくわからない表情が浮か んでいた。
 胸元から認識票を引っぱり出すと、紐ごと首からはずした。そして、それをイツキの首にかけた。
「イツキが、今から、二十六番目の『クルサ』だよ」
 クルサはカプセルの中に入った。茫然とするイツキの目の前で、ガラスの扉がゆっくりと閉じ、無慈悲な音をたててクルサを閉じこめた。
「どういうこと? クルサ!」
 イツキはカプセルに詰め寄り、ガラスを叩いた。ほんの数センチ向こうにクルサの笑い顔があった。
 カプセルの中が、不意に緑色に染まった。クルサの足下から煙が立ち上がったのだ。クルサの頬の皮膚がどろりと溶け落ちて、赤い肉が露出した。
「やめて! クルサ! お願い、開けて!」
 イツキはカプセルの壁を握りこぶしで何度も叩いた。
「少しの間だったけど、イツキと暮らせてよかった」
 こもったクルサの声が聞こえる。その顔が、不意にあふれてきた涙でぐちゃぐちゃににじむ。
 クルサの髪がざばりと一斉に抜け落ち、緑色の煙に呑まれて瞬時に蒸発した。穴だらけになった右腕が肩からはずれ、足下に落ちてのたくり、肩口から鮮血が 噴き出してガラスの内面を塗った。
「なんで、こんな! クルサがいなかったら、わたし、わたし、生きてる意味なんてないよ! やめて! 独りにしないで!」
 両の眼球が溶けきった顔からこぼれだし、未練がましい視神経にひとときだけ引き留められた後、煙の中に消えた。服はすっかり溶け落ち、その下からあらわ れた身体はなかば骨ばかりだった。溜まりつつある濃緑色の液体はクルサのひざに達していた。
「死んじゃうから! わたし、死んじゃうよ! ばか! クルサのばか!」

 ――だめだよ、イツキ。

 すでにクルサは人の原型を留めていなかった。それでも、カプセルの中に満ちていく『海』の中から、声が聞こえた。

 ――生きていなきゃだめだ。僕の身体を食べて、飲んで、砂嵐がまたいつかだれかをこの場所に連れてくるまで、生きなきゃだめだ。

「どうして! いやだよそんなの! 独りでただ生きてるなんて、なんの意味もないよ!」
 『海』の水は激しく泡立ちながらふくれあがり、かつてクルサだった溶け残りの骨格をあっという間に頭まで呑み込んだ。

 ――意味なんてない。もともとない。イツキにも、いつかわかるよ。

 ――僕らは生まれたり、殺しあったり、喰らいあったり、つないだりしているけれど、そんなことには意味がないんだ。生きているのは、海と砂漠だけなん だ。僕らはただ、その一粒、ひとしずくに過ぎない。ほんとうに生きているのは、海と砂漠だけなんだ。

 真っ白できめの細かい泡の層が、『海』の底から生まれ、カプセルの中を駆け上った。濁りが泡にぬぐい去られ、それがカプセルの頂点ではじけて消えた。
 透き通った緑色の『海』の中に、ばらばらになったクルサの骨が漂い、陽光を受けて不思議な形の影をガラスに踊らせながら、ゆっくりと渦を描いていた。



 前の日まで吹き荒れていたひどく激しい砂嵐が、嘘みたいにおさまった朝だった。
 パイプの漏れ詰まりを点検し終えたイツキは、濡らした雑巾を持って屋上に上がった。嵐が雲を削り取ったのか、いつもよりも空は明るく、空気は焦げたよう な匂いで満ちていた。
 『海』のカプセルにこびりついた砂を拭き取る。雑巾はすぐに真っ白になる。
 カプセルの中身は、三分の一ほどに減っていた。
 クルサが『海』になってしまってから、ずいぶん長い時が流れた。イツキはまだ生きている。こうして、機械を点検し整備しながら、かつてクルサの身体だっ た栄養液を紙にしませてかじり、かつてクルサの血だった水を飲んで命をつないでいる。
 クルサに言った言葉は、みんな憶えていた。
 でも、喉が渇けばタンクから浄水をくみあげ、腹が空けばフードプロセッサのスイッチを入れている自分がいた。
 自分が独りだという考えだけで、夜、ベッドの中で感じる寒さは倍にも三倍にもなった。けれど、目を閉じれば眠りがやってきて、変わらない朝がまた巡って きた。
 人間は、さみしさで死んだりはしないのだ。
 カプセルをすっかり拭き終わり、階段を下りようとして、ふと気づいた。
 ずっと遠く、真っ白な砂漠のただなかに、ぽつんと、なにかが見える。
 イツキの手から雑巾が落ちた。
 屋上から飛び降りた。着地した瞬間、砂が派手に舞い上がる。ひざと腰に痛みが走る。
 かまわず、イツキは走り出していた。
 靴の中はすぐに砂だらけになり、足の運びは重くなった。イツキは靴をぬぎ捨て、砂の海の中をもがくようにして走った。
 近づいていく。間違いなかった。人だ。砂嵐が、迷い人を運んできたのだ。見つけた。やっと見つけた!
 倒れた身体のおおかたが砂に埋もれ、上半身だけが見えていた。砂の上に、フードからほどけた紐と、長い黒髪が散らばっている。
 イツキはたどり着くと、旅人のわきの下に両手を回し、砂から引っぱり出した。
 ううん、と旅人はうなり、疲れ切ったまぶたを押し開けてイツキと目を合わせた。少女だった。生きている。生きている! こみあげてくるなにかをめちゃく ちゃに叫んでしまいたかった。けれど、息が切れていて、
「生きてる? 生きてるよね?」
 と囁くのが精一杯だった。
 少女はうなずき、焦点のあわない瞳をしばらくさまよわせた後、かすれた声で言った。
「あなた、だれ?」
 答えようとした。のどでなにかがつかえた。
 わたしは? わたしはだれだった?
 わたしの名前――
 かがみこんだ胸元から、なにかがすべり落ちてきて、二人の間でゆらり、ゆらりと揺れた。
 首にかかった紐、その先の小さな金属片。
 ああ、そうだ。わたしは――
「わたしは、クルサ。ねえ、立てる?」
 二十六番目のクルサは、そう言って少女の手を取り、立ち上がらせた。




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