セロファン・フラワー第1章

       1

 そのおねえさんは、勝ったらやらせてくれるという噂だった。

 店の名前は『セロファン・フラワー』といって、僕の通っていた中学校のすぐそばのさびれた商店街の隅っこにあった。ひじで突っつくだけで崩れてしまいそ うな、ぼろぼろの四階建て雑居ビルの地下だった。看板は出ていなかった。薄暗くて壁が落書きだらけで変な匂いのする階段を地下二階まで下りると、鉄の防火 扉がでんと待ちかまえていて、『セロファン・フラワー』とクレヨンで書かれたボール紙がガムテープで貼ってある。緑と黄色のスポットライトがそれを照らし ている。
 おねえさんは、ひとりでそのカードショップを切り盛りしていた。年齢は、どんなに背伸びしたって二十代前半より上には見えなかった。肌は真っ白で、髪の 毛と瞳の色は夕暮れの麦畑のような鳶色だった。白人とのハーフだったのかもしれない。白いYシャツに赤いリボン・タイをしめて、シャープな腰のラインが くっきり出る紫色のベストと、黒くてつるりとしたミニスカートを着ていた。
 店に出入りしていた少年たちは、みんなそのシャツやスカートの中身の妄想をふくらませていた。月に一度、実際にそれを脱がせるチャンスさえ公平に与えら れていた。
 手が届いたのは、僕だけだったのだけれど。それはもう少し後の話。


 僕をM:tGの世界に引きずり込んだのは、小学校からの幼なじみの沢村だった。僕らが中学二年生になったばかりのある日、沢村は学校に大きな段ボール箱 を持ってきて、僕の机にどんと置いた。箱にはカードがぎっしりと詰まっていた。
「ヒカル。これ、やる」
「なに、これ」
「マジックのカード」
「マジックって? 手品?」
「ちげぇよ。カードゲーム。コモンばっかしだよ。俺の部屋、置くとこなくなっちまったから、お前にやる。ありがたく受け取れ。おまえもマジックはじめろ よ」
 沢村がなにやらカードゲームにはまっているのは、その頃の僕も知っていた。
「いや、でもこれ、カード集めるのにお金かかるんでしょ」
「俺はほとんど金使ってねぇけど」
 カツアゲでもしてるんだろう、きっと。
「大丈夫。安い店知ってるから。それより、ルール教えるから今日中に憶えろ」
 沢村は他人にものを教えるのが致命的に下手だった。なにしろ僕は、昼休みいっぱい彼の説明を聞かされながら、M:tGが一対一で遊ぶゲームだということ さえ理解できなかったのだ。そのくせ、「なンでこれっくらい、憶えられねンだよ」と文句を垂れる。
 うんざりした僕は、彼の口を手でおさえて言った。
「わかったよ。ルールブック貸して。家で読んでくるから」
 沢村の貸してくれたルールブックを家で熟読した僕は、もらった大量のコモンカードの中から悩みに悩んでデッキに入れる六十枚を選び、翌日学校に持って いった。


 次の日。僕のつくったコモンカードだけのデッキは、沢村の虎の子デッキにあっさりと勝ってしまった。完封五連勝だ。
 五回目に自分のライフポイントがゼロになった瞬間、沢村は机を思い切り蹴飛ばして教室を出ていってしまった。机の脚はものの見事にへし折れていた。幼な じみじゃなかったら、折れていたのは僕の腕か脚だったんだろうとその時思った。
 その日の放課後、沢村は僕を『セロファン・フラワー』に連れていってくれた。


 人気のない商店街を沢村の後ろについて歩いているときから、嫌な予感がしていた。おんぼろビルの、照明もない暗い階段をおりる段になっては、ほとんど逃 げだしたくなった。階段の壁はスプレーペイントの落書きで埋め尽くされていた。
 やがて緑と黄色のランプに照らされた店の入口にたどりついた。
 沢村は分厚い防火扉を開いた。
 流れ出してきた空気は、むっと鼻につく煙草の匂い。
 教室の1・5倍ほどの大きさの店内には、会議室にあるような長机とパイプ椅子がぎっしりならんでいて、学生服の背中がその間隙を埋め尽くしていた。
 エアダクトがむきだしになった天井には青い煙が踊っている。照明は十本足らずの蛍光灯だけで、ひどく薄暗い。干からびたスポンジをこすりあわせるよう な、男たちの声。暗がりできらめくカードの背。天井隅のスピーカーから流れているのは、ヴァン・ヘイレンの"Unchained"。
 ……やっぱり帰ろう。
 そう思って後ずさりしかけたとき、
「いらっしゃい、さわむー。あれ、今日は友達も一緒?」
 すぐ右手から、女の人の声がした。
 さわむー?
 店の右手前隅にガラスケースのカウンターがあって、その向こうにおねえさんは座っていた。おねえさんは手にしていたファイルを置いて沢村に向かって微笑 むと、僕にも同じように笑いかけた。僕の心臓は1ccくらいまで縮み上がった。
 おねえさんは肩まである栗色のストレートヘアを左側だけ髪留めでまとめて、形の良い耳を見せていた。笑うと上品なえくぼができた。豊かなふくらみを真っ 白なYシャツで包み、紫のベストできりっと引き締めていた。
「行くぞヒカル」
 沢村に引きずられて店の奥へと歩きながらも、僕はしばらくおねえさんから目が離せなかった。そのせいで、だれかの足を踏んづけてしまった。
「おい、てめぇ!」
「あっ、ごめんなさいっ!」
 僕は謝りながら、ほとんど反射的に両手で頭を抱えた。
 意外なことに、足を踏まれた男はふんと鼻を鳴らしただけで、ゲームに戻ってしまった。僕はもう一度頭を下げた。
「ごめんなさい」
 そこで僕はとんでもないことに気づいた。
 その男が着ているのは、一中の、明るい青のブレザー。
 店を見回す。
 他にも、二中の、真っ黒なつめえりに光る銀杏の校章。
 三中の、ケチャップみたいな色のネクタイとチェックのズボン。
 僕は思わず、自分の左襟についた四中の校章に手をやった。
 市内にある四つの中学校の生徒たちが、それも――髪型や目つきからしてかなり気合いの入った奴らばかりが、このせまっくるしい店の中で、共存していた。
 普通なら顔をつきあわせただけで血を見ずには済まされないような連中が、けれどみんなカードを手にして、机をはさんで額をつき合わせて、ゲームなんてし ている。
 沢村は茫然としている僕の腕をつかんで、空いていた椅子に座らせた。向かい側には、眼鏡をかけたふとっちょが座って、三白眼で僕をにらんでいた。
「レートは? 10でいいのか?」
 そう言って、ふとっちょはプラスティックのクリアケースからカードの束を取り出して机にどんと置いた。
 レート?
 僕は背中に立つ沢村を、すがるような目で振り返った。
「こいつ、初心者だからさ。5にしとけや」
 それから沢村は僕の頭を小突いて、
「おら、ヒカル。デッキ出せよ」
 レートってなに? と僕は訊こうとした。
 その時、隣の席に座っていた背の高い丸刈りの二中生が、右手を机に振り下ろした。鋭い金属音がして、五百円玉が二枚、三十センチほども宙を舞った。
 向かい側に座っていたブレザー姿のやつが、その五百円玉をつかむと、無造作に胸ポケットに入れた。
「もう一回?」ブレザーが言う。
「あたりめえだ」丸刈りが吐き捨てる。
 二人は机の上に散らばったカードをかき集め始めた。
 僕は、ようやく理解した。
 ここは、賭場なのだ。
「ちょ、ちょっと待って……」
 立ち上がりかけた僕の肩を、沢村が後ろからむりやりおさえつけた。
「いいから、やれよ。金、持ってんだろ?」
 持っていることは、持っているけど。でも。
 僕の声にならない言葉は、沢村のでっかくてごっつい手のひらの下で押しつぶされた。


 三十分後、僕は頭痛をこらえて席を立った。沢村は少し笑っていた。ふとっちょも、僕から奪った千円札二枚で顔をあおぎながらにやにや笑っていた。
 僕は沢村に席を譲った。ふとっちょは、僕との連戦で使っていたデッキをしまって、別のデッキを取り出した。
 沢村とふとっちょが、わけのわからない言葉で会話している。
 僕は目を閉じた。
 ――聞こえてくるのは、ごちゃごちゃにからまった和製英語の波。それからエディ=ヴァン=ヘイレンの明快なギターリフ。デイヴ=リー=ロスの太い歌声。
 どこか遠くの、僕の知らない国の、不思議な言葉たちだった。
 ここは――僕の場所じゃない。

 帰ろう。

 床にしょんぼりとくずおれていた鞄をとりあげて肩にかつぐと、僕は沢村に気づかれないようにそうっと部屋の壁際を通って出口に向かった。
 カウンターの前を通るときに、不意に呼び止められた。
「もう、やっていかないの?」
 おねえさんだった。
 背筋が痙攣して、足がもつれ、僕はまた転びそうになってしまった。
「いや、あの、その……」
 心臓がばくばくいって胸を圧迫するので、言葉がうまく出てこない。僕はおねえさんから視線をそらして、ひどくわざとらしい深呼吸を二回した。
「――僕、沢村にむりやり連れてこられただけですから。カードもあんまり持ってないし」
「でも、さっきあそこでゲームやってたじゃない」
「負けました。三秒くらいで。このゲーム、僕には向いてないみたいです」
「もう、やらないの」
「たぶん」
 おねえさんの、細筆で丹念に描いた松葉みたいな眉根がきゅうっと寄った。僕はなんだかひどく申し訳ない気持ちになったのだけれど、しかたがない。
「じゃあ、持ってるカード置いてったら。持っていても邪魔なだけでしょ。うちで処分してあげる」
 確かに。持っていたって、何の役にも立たない。
 どうせ沢村にただでもらったカードばっかりだし。
 僕は鞄から輪ゴムでまとめたカードの束を取り出して、ガラスケースの上に置いた。それから、おねえさんの顔を見ていると決心が崩れてしまいそうなので ――なんの決心かは、自分でもよくわからなかったけれど――出口の防火扉に走った。
「うわぁ、すごぉい」
 遅かった。
 おねえさんの声が聞こえてしまった。おまけに僕は振り向いてしまった。
「これ、デッキだよね? 君がつくったの?」
 おねえさんは僕のデッキをカウンターの上に一枚ずつ広げて、目を輝かせている。
「ねえ、このゲームはじめてからどれくらいなの?」
「ええと。おととい、沢村に教えてもらいました」
「おととい?」
 おねえさんがカウンターから身を乗り出した。ベストの襟間から胸がこぼれだしそうに見える。
「すごいすごい! 君、センスあるよ! ほら、ちょっと来て!」
 おねえさんはガラスケースに手をついてぴょんぴょん飛び上がってはしゃいだ。そのたびに栗色の髪が宙を掃き流れ、金色の光が散らばる。まわりの視線が集 まる。ちょっと恥ずかしい。
「ほら、野生の犬とガズバンのオーガ三枚ずつ入れてる。このカード、みんなあんまり使わないけど実はすごく強いんだよ」
 沢村がくれたカードはあんまり種類が多くなかったのでしかたなく入れたのだ、とはとても言えなかった。
「でも、負けましたよ。三秒で」
「それはね。……えーと、ちょっとこのデッキ、いじっていい?」
「え。はい。いいですけど」
 おねえさんはカウンターの下にかがみこみ、カードがぎっしり詰まったぼろぼろのダンボールを抱えて再登場。箱をどんとカウンターの上に置くと、嬉々とし た顔で、僕のデッキを「手術」し始めた。
 手術っていっても、要するにデッキのなかのカードを入れ換えるだけなんだけれど。
 おねえさんの手で、デッキの主戦力だったはずのごつい顔をした強そうなカードがどんどん抜けていって、かわりにちょっと地面が揺れたり風が吹いたりでも すればすぐに死んでしまいそうな貧相なメンバーが大量に投入された。
「できた」
 おねえさんが施術終了を宣言。
 デッキは、僕が見る限り、目もあてられないくらい貧弱になっていた。犬とか妖精とか鳥とか、そういういかにも弱っちいチビすけばっかりになっていたの だ。
「何か気づいたことは?」と、カウンターの上に広がったデッキを見渡して、おねえさんが言う。
「ええと。弱そうです」
「正直でよろしい。おーい、そのへんのひまそうな子! 松山君とか三好君とか」
 おねえさんが、カウンター近くの壁際に寄りかかって見学に回っていた三人に手を振った。
「この子の相手してあげてよ」
 三人が三人とも、おねえさんの言葉に反応してカウンターまでやってきた。
「いいけど。レートは?」と、真ん中のひとりが訊いてきた。髪にうっすらブリーチをかけて、鼻と耳にピアスをしているというプログレッシヴなタイプの不良 だった。
「あの、僕あんまりお金が」
 言いかけた僕をさえぎっておねえさんが、五本の指を広げて、
「わたしが代わりに賭ける。5だ。本当はもっと賭けてあげてもいいんだけど、それだと松山君がかわいそうだからなあ」
 挑発的な口調で言うと、ピアスをした「松山君」が目だけで笑った。
「いいよ。やろうぜ」
 親指で、机の端の空いている席をさす。
 おねえさんに背中を突き飛ばされて、僕はこわごわ席についた。
「がんばれ。わたしの夕食代がかかってるんだ、負けたらしょーちしないぞ」
 耳元で、ささやく声。
 それから、肩に置かれた手。
 おねえさんの投げた五百円玉が机の上できゃりんと音をたてて、
 試合開始を告げた。


 試合が始まって一分もたたないうちに、僕は、おねえさんが施した「手術」の狙いを理解した。
 このゲーム、ほとんどすべてのカードに「使うためのコスト」が設定されている。そして、カードの強さとそのコストの高さは、原則的に比例関係にある。
 高いコストを揃えるのには、それに見合った時間がかかる。
 術後のデッキに入っていたカードは、みんなコストが1、つまり最低コストのカードばかりだった。確かに貧弱だ。けれど、いつでもどのカードでも使える。 引いてきたらすぐ使える。
 知らない間に、松山君のライフポイントは僕のチビすけ軍団の攻撃によってあと2点まで削られていたのだ。
 僕がそれに気づかなかったのは、とにかくカードを机の上にいっぱい並べられることが楽しくて、夢中になっていたから。
「ちくしょっ間に合うのかあ?」
 松山君がテーブルにはたきつけた渾身の――名前はよく知らないけどコストがすごく高くて強くて陰険なカードは、僕の小動物たちを一発で焼き払ってしまっ た。
 そこからは、みじめな逆転劇。
 名前はよく知らないけどコストがすごく高くて強くて陰険な怪物が松山君の前にずらずらと並べられて、最後の2点の壁を崩せないまま、僕は踏みつぶされ た。
 松山君の、心底満足そうなガッツポーズを目にして。
 おねえさんの視線を背中に感じて。
 机の上の五百円玉に伸びた松山君の手を、僕はとっさに払いのけていた。
「おいなんだよてめぇ」
 松山君が片眉をつり上げた。
「ちょっと、君……」
 背中からおねえさんの、不安げな声。
 僕はポケットに手を入れてしわくちゃの千円札をつかみだすと、手のひらと一緒に机に叩き付けた。
 予想をはるかに超えるものすごい音がして、机がたわみ、カードが何枚か勢いを食って床に滑り落ち、まわりにいた十数人が一斉に僕の方を見た。
 いちばん驚いていたのは、実は僕だったりする。でも口だけは勝手に動いた。
「僕が、払うよ。だから、もう一回やろう」
 松山君が、ふうっと笑って、腰をおろした。
「わかったよ。釣りはめんどくせぇから出さないぞ。どうせ次も俺が勝つし」
「いいよ。どうせ次は僕が勝つから、そうしたらチャラだ」
 言い返してやって、得意げに後ろを振り向いた。
 僕を見下ろすおねえさんの顔に浮かんでいた笑みは、僕の健闘をねぎらうものではなくて、次の戦いに向けて僕を激励するものでもなくて、ましてや僕の男ら しさに感心しているものでもなくて。
 それは、黒板消し落としのトラップが大成功したときの小学生が見せるような、いたずらっぽい含み笑いだった。


 時計が六時半を回ったとき、僕の財布の中の五百円玉は二枚も増えていた。三枚あった千円札は全部なくなっていたけど、それは考えないことにする。いいん だ、楽しければ。
 松山君の友達の三好君との第三回戦を終えて、そろそろ帰ろうと思ってカードをまとめていたとき。派手な金属音が店内いっぱいに響いて、店じゅうの人間が そっちに注目した。
 沢村が、三中生の胸倉をつかんでねじりあげていた。そのまわりには、ミステリーサークルよろしく円形の無人空間ができあがった。
 相手の三中生の足が、床を離れて十五センチくらいの高さまで浮いた。僕は彼の身体が叩き付けられて机がまっぷたつに割れるところを想像してしまった。
 三中生の、締め上げられた喉から、か細いうめき声が漏れた。
 沢村の腕に力がこもるのがわかった。
 そのとき、
「さわむー! やめなさい! 暴れたら出入り禁止だよ!」
 澄んだ声が、僕の耳に突き刺さった。
 みんなの視線が一斉に動いた。
 カウンターの向こう。
 おねえさんが、沢村をにらんでいた。
 五秒ほど、息詰まる沈黙が『セロファン・フラワー』を満たしていた。
 沢村は肩をすくめて、獲物をつかんでいた手をはなした。三中生はどさりとしりもちをついた。「ぐへっ」という声が聞こえた。
 沢村は舌打ちして、それから、人垣に隠れていた僕に向かって言った。
「おい、ヒカル。帰ンぞ」
 彼が歩き出すと、人垣がさあっと割れて、出口までの道ができた。
 と。
 出口の金属扉と沢村との間に、栗色と白の影がするりと立ちふさがった。
「さわむー、吉田君に謝りなよ」
 おねえさんは言って、倒れている三中生を指差す。僕は肝をつぶした。そして、今度こそおねえさんはただでは済まないと確信した。沢村が右手の拳を強く握 りしめるのが見えた。
 でも、次の瞬間、信じられない光景を僕は目にした。
 沢村はきびすを返すと、しりもちをついている「吉田君」に歩み寄り、
「悪かったな。二度と俺に近づくなよ、何するかわかンねえから」
 と言ったのだ。
 沢村が他人に謝ったのを見たのは、その時がはじめてだった。
 それから沢村は、おねえさんをじろりとにらむと、大きく迂回進路をとって扉に向かい、そのまま店を出ていった。
 沢村が人を避けて歩くところを見たのも、それがはじめてかもしれない。
 僕も、おねえさんに向かってぺこんと頭をさげると、沢村の後を追った。


 まだ夕方だというのに、ほとんど人気のない商店街。
 コンビニエンスストアのビニル袋が風に巻かれて、僕の脚にからみつく。小さな書店のシャッターはすでに閉まっていて、そのシャッターには「営業時間  10:30〜21:00」と大書きされている。喫茶店の店先にはポリバケツが倒れていて、ぶちまけられた生ゴミを尻尾のないぶち猫があさっている。うどん 屋ののれんは半分くらい破れ落ちて、磨りガラスの向こうの店内は真っ暗だ。
 沢村は僕の五メートル先を、黙って歩いていた。歩幅の広い彼にあわせて、僕は小走りについていく。
「ねえ、沢村」
 僕の呼びかけに、答えようとしない。
「ねえ、さわむー」
 今度は反応があった。
 沢村は立ち止まって振り返り、僕につかみかからんばかりの勢いで言った。
「そういうにやけた呼び方で呼ぶんじゃねえ」
「なに怒ってるの」
「怒ってねえよ」
「そう? じゃあ、ねえ、さわむー」
「呼ぶんじゃねえっつってんだろ!」
 沢村は顔を上気させてどなった。僕は首をすくめた。
「ねえ、あの女の人。あそこの店員なの」
「店員じゃねえよ。店長だ」
「店長?」
「一人であの店やってンだよ」
 沢村はまた前を向いて歩き出し、僕はあわててその背中を追いかけた。
「ふうん。すごいね」
「べつに」
 会話はそこで途切れた。
 僕らは五メートルの距離を保ったまま、市街地を抜け、川沿いのゆるやかな坂をのぼり、小さな橋を渡り、ブルーベリー畑と梨畑にはさまれた十字路にさしか かった。
 僕の家はそのまま川沿いにまっすぐ行ったところで、沢村の家は川を背にして数十メートルばかり歩いたところにあった。
 さよならも言わず自分の家の方に歩きかけた沢村を、僕は呼び止めた。
「なんだよ」
 不機嫌そうに沢村は振り向いた。
「今日、学校でさ。僕に、わざと負けたでしょ」
 沢村は耳の遠いきりんが孫を捜しているときのような間延びした顔を見せて、それから小さく首を振った。
「かもな」
「もっと強いカード、ちょうだい」
「自分で買ってそろえろよ」
「じゃあ、売ってよ」
「また明日な」
 その日、僕は家に帰ってすぐにブリキ缶の貯金箱をこじ開けて、ありったけの千円札と五百円玉を持ってもう一度『セロファン・フラワー』に走った。
 地下に続く階段の両側で、スプレーペイントの猥褻語が僕を威嚇した。三段下りるごとに立ち止まってしまった。
 扉を開けると、煙草臭い熱気が漏れ出てくる。
 夕刻には狭い空間を埋め尽くしていたつめえりやYシャツやニキビ面がほとんど見られず、かわって陰気な色のトレーナーや暖色の長袖シャツを着た大学生く らいの男たちが店を占拠していた。
 彼らは夕方の中学生たちに比べて驚くほど静かで、何かに憑かれたかのように自分の手札と場に出たカードの群れをにらんでいた。ほとんど無言で、うなずい たり、首を横に振ったり、机を指でとんとんと叩いたり、カードを動かすしぐさを見せたりしてゲームを進行させている。
 店内に流れるヴァン・ヘイレンの"When It's Love"が、ひどくくっきりと耳障りに聞こえた。
 おねえさんだけが、相変わらずカウンターの向こうで、まわりの空気をふわふわと光らせながら座っていた。
 僕はほっと息をついて、ポケットの中のコインを指で確かめ、カウンターに近づいていった。
「あれ」と、おねえさんが僕に気づいて言った。「さわむーと一緒に来てた子じゃない。どうしたの。忘れ物?」
「いえっ、あの」
 僕はカウンターの一メートルも手前で立ち止まってしまった。すぐ後ろのテーブルの客が、僕のことをじろりとにらんだのが、なぜだかはっきりとわかった。
「……カードを、買いに来たんです」
 小声すぎて、自分でもよく聞こえないくらいの情けない声になってしまった。
 おねえさんは首をかしげて、
「カードって、シングル?」と訊いてきた。
「シングル?」
「シングル・カード。ほら、こんなふうに――」
 おねえさんは、カウンターの上のブックエンドに並べてあったファイルの一つを取って、僕に向けて開いてくれた。ファイルのページには、カードのカラーコ ピーが並んでいた。
「あの、パックとか箱に入ってるやつじゃないんですか……」
 僕がシングル・カード販売の意味を知るのは、もう少し後になってからだ。
「ああ、パックね。なににするの?」
「え、なに、って……」
「ああ、そうか、君、始めたばっかりだったね……やみくもに買うと、お金がもったいないよ」と、おねえさんは言った。要するにそれが言いたかったらしい。
「でも、僕、よくわからないから……」
 そう言って僕がガラスケースに視線を落とすと、おねえさんが僕の肩をぽんと叩いた。
「じゃあ、わたしが質問するから。答えて。それで、わたしが選んであげる」
「はぁ」
「ええと、何色が好き?」
「え? あ、その、ええと、」
 なぜそんな質問をされているのか、わからなかった。
 しどろもどろになった僕の目に、おねえさんの着ている光沢のあるベストが映った。
 何というのだろう、ただの紫ではなくて。
「……すみれ色っぽい紫……」
 お姉さんの目がきょとんとした。一秒後、その砂糖菓子みたいな顔が爆発した。のけぞって髪を宙にばらまきながら大笑いし、カウンターに突っ伏して肩を震 わせながら笑った。
 近くのテーブルにいた奴らが、みんなそろってこっちに何事かと目を向けてくるのがわかった。
「いや……その『色』じゃなくて……」
 笑いをこらえながら、おねえさんが言ったので、僕はようやく理解し、そして真っ赤になって縮こまってしまった。
 M:tGのカードは、白・青・黒・赤・緑の五色によって大きく分類されていて、カードについての話で「色」と出てきたら、それはカードの「色」のことな のだ。そういうつもりで質問して、「すみれ色っぽい紫」と返ってきたら、誰だって笑う。
「あ、あのっ、ごめんなさい。その、そうじゃなくて、」
「いや、いいよ……あは、『すみれ色っぽい紫』ね。うん、その方向でいこう。じゃあ、好きな食べ物は?」
「え?」
「食べ物。好きな食べ物」
 今度は僕がきょとんとする番。
「ええと。ネギとか」
「ネギ」おねえさんの眉が、きれいな八の字になった。
「ネギです」
 ネギなら、ただ出汁で湯がいてポン酢かけただけで五本は食べられる。そこまで言ったら、おねえさんはまた爆笑した。
「血液型と星座は?」
「A型の、星座は……よくわかんないです」
「何月何日生まれ?」
「二月二十五日」
「魚座だね。じゃあ、好きなスポーツはなに」
「スポーツですか」
「うん、観るのでも、やるのでも」
「競馬はスポーツにはいるんでしょうか」
「微妙だね……。他には?」
「ええと。……むかし、テレビで観た百人一首の日本選手権が、すごく面白かったです」
「それってスポーツ? まあいいや。じゃあ次。海外旅行いくとしたらどこがいい?」
「……ベネズエラ」
「どうしてベネズエラ」
「なんとなく。いま、ぽっと浮かんだんです」
「ふむ。――次ね。おっきくなったら何になりたい?」
「さあ。そんなの、まだわからないです。でも、どうしてこんな質問」
「じゃあ次。彼女いる?」
 僕はまたまた真っ赤になってしまった。今度は耳まで真っ赤が届いているだろうと自覚できた。言葉にはならなかった。ただ首を小さく横に動かしただけだ。
「うん。わかった。質問おしまい。ねえ、何パックくらい買う予定?」
「あの、買えるだけ」
「有り金はいくらよ? 全部出してみなさいよ」
 おねえさんの口調はちょっと意地悪になっていた。僕はポケットと財布からありったけのお金を出してカウンターの上にならべた。
「ふうん」
 おねえさんは、積み重ねられた五百円玉やくしゃくしゃの千円札をざっと一瞥してから、カウンターの奥にかがみ込んだ。しばらくがさごそやってから、戻っ てくると、僕の前にカードパックを二十センチくらいの高さまで積み上げた。
「こんなもんでしょ。アポカリプスが六パック。ヴィジョンズが六パック。あとは全部オデッセイ。全部で六千円」
 高い。うかつにも僕はそう思ってしまった。
 のちに、他の販売店での定価が『セロファン・フラワー』のおよそ倍であることを知って、僕は腰を抜かすことになる。
「いいカードが入ってると、いいね」
 パックを袋に詰めながら、おねえさんはそう言って、優しく笑ってくれた。
 そのとき店内に流れていたBGMは、今でも憶えている。"Can't Stop Lovin' You"。出来過ぎだけれど、本当の話。





       2

 五月最後の土曜日が近づくにつれて、沢村の様子がおかしくなった。休み時間のたびに僕にデッキを貸し付けて対戦し、頭をぼりぼりかきながら入れ替える カードを検討していた。廊下で一年生が挨拶なしにそばを通ってもとがめないどころか気づきもしなかったし、大好きな音楽の時間でさえ机の上でカードやファ イルを広げていた(ふだん、沢村がそういうことをするのは、国語と英語と数学と社会科と美術の時間に限られていた。注意する教師は一人もいなかった)。
 そして、土曜日の午後五時。
 『セロファン・フラワー』には、これまで見たこともないくらいの多様な年齢層の男たちが、これまで見たこともないくらい大勢集まっていた。
 少しずつ色のちがう学ラン、明るいブルーや濃紺やダークグリーンのブレザー。これだけ入り混じっていると、どれが高校生でどれが中学生かもわからない。 沢村なんか、体格的には大学生だと言ったって通用しそうだから、見た目はあてにならないというのはよくわかっている。私服も何割か混じっている。センスの ない地味な色の長袖シャツやセーターがほとんどだ。
 そして、例外なくみんな腕まくりをしている。
 目の色が、いつもとちがっていた。
 ゲームをしている人間の方が少ない。ペンで紙に何か書いていたり、デッキを広げてにらんでいたり、神経質そうに何度もシャフルしたりしているやつばかり 目についた。
「何か、あるの?」
 入り口で僕は、沢村に訊いてみた。
「トーナメント。月イチでやってンだ」
「へえ……」
 僕はあらためて店内を見回した。椅子の数が足りないのではないかと心配になるほどの人数だ。ここにいる全員が参加するトーナメントとなれば、六回戦か七 回戦勝ち抜きの、やたらと大規模なものになる。
「賞金が出るの? それとも、すごーいレアカードが賞品とか」
 僕がそう訊いたのは、沢村も含めて、会場の誰もがあぶないくらい真剣な目つきをしていたから。
「賞金も、賞品も、ねェよ」
「え?」
「優勝すると、店長とやれるんだ」
 沢村があごでしゃくった先、カウンターの向こうで、おねえさんが書類の山を前にせわしなく動き回っていた。髪が揺れるたびに、小汚い闇の中で光が飛び 散っているみたいだ。
「やれる……?」
 意地汚いことに、僕はその単語でストレートにセックスを想像してしまった。沢村もそれを察したようで、笑って付け加えた。
「やれるって、試合だぜ。優勝者と、店長が対戦するんだ」
「ああ、なんだ」
 僕は、なぜだかほっとしてしまう。でも、沢村はさらに続けた。
「で、おねえさんとやって勝つと、やらしてくれるらしい」
 沢村は、左手の親指と人差し指でつくった輪っかに、右手の人差し指を出し入れするしぐさをして見せた。
「ええええ。嘘でしょ……」
 沢村はカウンターに行って、おねえさんからB5くらいの大きさの紙を一枚受け取った。どうも、参加者はその紙に色々と記入するきまりらしい。
 座っていた四中生を蹴散らして強引に自分の椅子を確保し、沢村は用紙に書き込みを始めた。僕はその背中に駆け寄った。
「ねえ、僕も参加できるかな」
 おそるおそる訊くと、
「できねぇよ」
 沢村はにべもない。
「どうして」
「デッキがねぇだろ」
「持ってるよ」
「お前のじゃ、だめだ」
「だから、どうして」
「サイドボードがねぇだろ」
「サイドボードってなに?」
「ああもう、めんどくせぇな。そのへんのやつに訊け」
 そのへんのやつ、って。
 見回すまでもなく、訊けるわけがない。なんでこの店には不良っぽいのしかいないんだろう?
「サイドボードっていうのはね」
 不意に、後ろから声がした。僕は跳び上がって振り向いた。おねえさんだった。
「デッキとは別に十五枚、カードを用意しとくの。正式な試合だと三本勝負の二本先取でやることが多くてね、その二本目と三本目の前に、デッキのカードを何 枚かサイドボードと交換できるの」
「交換? なんで交換するんですか?」
「ヒカル君ていつもだいたい緑のデッキ使ってるよね」
「え。……あ、は、はい」
 心臓が口から飛び出しそうになった。
「『緑の防御円』とか『冬眠』とかそういう、緑にだけすごく効くカードあるでしょ。使われたら困るでしょ? でも、緑じゃない相手だったら全然効かないよ ね。そういうのをサイドボードに入れておいて、相手が緑だったら二本目から使って、デッキの相性を変えたりできるの。ヒカル君も今度サイドボード作ってき たらいいよ」
 僕はロボットみたいにうなずきながら、でもおねえさんの話なんてほとんど聞いていなかった。
「オッケー。それじゃあ、みんなっ!」
 おねえさんのきらきらした声が、店中に響いた。
「一回戦の組み合わせ発表するよー!」
 おねえさんが、僕の名前を呼んでくれた。
 いつも使っているデッキの色まで憶えていてくれた。
 そのことで頭がぼーっとなっていて、
 そいつらが店に入ってきたのにも気づかなかった。


 第一回戦が始まって、五分くらいたった頃だった。沢村は相手にほとんどなにもさせずに一本目を勝って、サイドボードのカードを交換し、二本目を始めたと ころだった。僕も壁にもたれてその様子を後ろからずっと見ていた。だから、囲まれているのに気づいたのは声をかけられてからだった。
「おい。四中の沢村だろ」
 まわりでゲームをしていたトーナメント参加者が一斉に顔をあげた。ワンテンポ置いて、沢村がゆっくりとカードから目を離した。
 相手は四人。学ランを着ていたので二中生だとすぐにわかった。はだけた胸から下品な色のTシャツがのぞき、ガムをくちゃくちゃやる音が壁際の僕のところ にまで聞こえてくる。
「立てやコラ」
 一人が言って、机の脚を蹴った。沢村の山札が崩れる。
「今忙しいンだよ。見りゃわかンだろ」
 驚いたことに沢村はそう答えると、なにごともなかったかのように山札を積み直し、ゲームを続けた。先に切れたのは二中生の方だった。拳が机に叩きつけら れ、カードが宙に舞った。
「寝言いってンじゃねぇよ! ツラ貸せやコラ!」
「ちょっと君たち!」
 おねえさんが駆け寄ってきた。それを見て、沢村は舌打ちして立ち上がった。
「今、試合中なんだから! それに、店ではケンカしちゃだめっていつも……」
「あァ? ぅるせンだよ犯すぞ」
 二中生のひとりがおねえさんに突っかかろうとすると、
「おいてめぇら! この店でゴタやるんじゃねぇよ!」
「出てけ!」
 まわりの学生たちからもブーイングが飛んだ。
「店長」
 沢村は手を挙げてまわりを牽制すると、
「これ、試合途中なんだけど、俺少し抜ける。かわりにヒカルにやらせてもいいか」
「え? ああ……」
 おねえさんは沢村と僕の顔を見比べて戸惑った表情を見せた。二中生のうちの二人が左右から沢村の腕をつかんで、机の列から引きずり出す。
「オラ来いや」
「店長! 代打ちさせてもいいのかよ!」
「あ、ああ、うん」
 おねえさんの返事が、四人に引きずられて店を出ていく沢村に聞こえたのかどうかはわからない。
 防火扉が閉まった。控えめなざわつきが戻ってきた。
 いつの間にか、まわりの視線が僕に集まっていた。
 おねえさんが、僕を見てうなずいた。
「お願い。わたし、さわむー見てくるから」
 おねえさんは防火扉まで駆けていって、振り向き様、
「みんな気にしないで続けてて! すぐ戻ってくるから!」
 言って、扉の向こうに消えた。
 ざわめきは少し大きくなった。けれどほとんどの人は聞き分けよくゲームに戻っていった。
「おい」
 呼ばれて、僕は机の方に向きなおった。沢村の対戦相手だった一中生が、指で机の上のカードをとんとんとんと叩いていた。
「よくわかんねぇけど。おまえが代わりにやンだろ。座れよ」
 そういうことに、なってしまったらしい。
 僕は唾を呑み込み、沢村とおねえさんが消えた扉を振り返り、息をついて肩を落とすと、椅子に腰を下ろした。
「そっちのターン。ドローしたところだよ」
 対戦相手が言った。僕は、沢村が残していった手札を手に取った。汗で指がじっとりと濡れていた。


 二本目は、長引いた上に僕が負けた。ゲーム中に対戦相手が何度も『はあ?』という顔をし、僕のライフポイントが一桁になる頃にはにやにや笑いに変わって いた。たぶん、初心者丸出しのミスプレイがいくつもあったんだろう。
 一対一。追いつめられてしまった。沢村はまだ戻ってこない。おねえさんも。
 僕は十五枚のサイドボード・カードに答えを探した。一本目にあっさり勝ってしまったため、沢村はほとんどサイドボード交換をしていなかった。ばか。役立 たず。こんな、はじめて触ったデッキで戦えるはずがないじゃないか。
 十五枚のカードを手のひらの中でぐしゃぐしゃ混ぜていると、
「あ」
 指が滑った。サイドボード・カードがテーブルの上にぶちまけられてしまった。ほとんどは裏向きのままだったけれど、一枚だけ表を向いている。
 あわててかき集めようとして、僕は気づいた。
 その、一枚だけ表返ったカードを見て、対戦相手の唇がかすかに歪むのに。
 ひょっとして。
「あの、僕、このデッキ借り物だから。よくわからないんだけど、これってどういうカード?」
「あ?」
 対戦相手の顔が失敗作の粘土像みたいに歪んだ。
「おまえ頭大丈夫かよ? なンで俺が教えなきゃいけないんだ」
「じゃあ、これは?」
 僕はサイドボードのカードを一枚ずつ開きながら、どういうカードなのかと訊ねた。そうしながら、相手の表情をじっとうかがった。対戦相手はしまいに怒り だした。
「てめぇ! 時間稼ぎしてんじゃねぇよ!」
 僕は首をすくめてサイドボード・カードをかき集めた。もちろん質問にはひとつも答えてくれなかったけれど、入れるべきカードはわかった。わかったと思 う。多分。
「おい。サイド入れたら、同じ枚数デッキから抜くんだよ」
「あ、そうなの」
「なンも知らねぇンだな、ったくよ」
 ほとんどバクチのサイドボード交換を終えた。僕はデッキをシャフルし、祈りながら最初の手札を引いた。


「さわむー! 病院いかなきゃだめだって!」
 おねえさんの声がしたのは、六ターン目、相手の呪文で僕の軍勢が全滅した瞬間だった。店にいたほとんど全員が入口の方を向いた。
 沢村は血まみれだった。額からの血は何本も筋になって、すでに固まって顔にこびりついている。オールバックにセットした髪は乱れ、学ランのひじは破けて いた。
「ねえ、さわむー!」
 後から店に入ってきたおねえさんが、沢村の腕をつかむ。沢村はそれを無視して、おねえさんを引きずりながら僕のそばまでやってきた。
「ヒカル。まさか負けてねぇだろな」
 ホラー映画から抜けだしてきたような沢村にすごまれて、僕はしばらく声を失う。まわりの人たちもプレイが止まっている。
「さわむー。怪我してるんだから……」
「ぅるせぇな。ほっとけよ」
 沢村はおねえさんの手を振り払って、壁際に腰を下ろした。
「ヒカル。ちょいダリぃから、しばらくおまえがやれ」
「もうっ。今救急箱持ってくるから! ごめんねみんな。終わった人は結果シートに書いてカウンターに出しておいて!」
 おねえさんはカウンター奥の扉に駆け込む。
 沢村は目を閉じた。
 僕はつばを呑み込んで、ゲーム状況と再び対面した。自軍は今し方、神様の怒りに触れてまっさらになっている。相手には、無限にソルジャーを生み出すカー ドが出ている上に、赤と黒しか入っていない沢村のデッキではそれをどうすることもできない。
 もう一度沢村をちらと見た。死んでいるみたいに見える。どうしたらいいんだろう沢村?
 ぱたぱた、と足音がしたので僕はあわてて前を向いた。
「大丈夫さわむー? ちょっと首持ち上げて。うんそう。だめ動かないで。痛い? 男の子でしょ?」
 おねえさんの声を背中に聞きながら、僕は自分のターンを迎え、カードを引いた。さっきサイドボードから入れたカードだった。
 ああ、なるほど。
 僕はそのカードをそっと机の上に出した。
「『仕組まれた疫病』」
 対戦相手の顔が歪んだ。


 対戦結果シートに結果を記入してカウンターに持っていき、戻ってくると沢村はおねえさんの手によって包帯まみれになっていた。僕は思わず噴き出してい た。
「ゾンビがミイラになった」
「うるせぇ殺すぞ」
 言いながら沢村は、壁に手をついて億劫そうに立ち上がる。
「もうさわむー、無茶するんだから」
 お姉さんは救急箱を閉めて沢村に手を貸す。
「雑魚四匹、粗大ゴミに出してきただけだろ。おいヒカル、勝ったんだろうな」
 僕はうなずいた。「なんとか」
 沢村は僕の手からデッキを引ったくった。
「さわむー、今日は棄権して帰って病院行ったら?」
「ざけんな」
 おねえさんは僕と顔を見合わせると、肩をすくめた。
 沢村は三回戦目で秒殺された。横で見ていた僕には、相手の大学生らしき人が一体なにをやったのかよくわからなかった。
「なんだったの、あれ……?」
 沢村に訊いてみても、答えのかわりに壁を殴りつけただけだった。
 勝ち抜き戦だから、一回戦終わるたびに参加者が半分になっていく。でも、負けたからといって帰る人はほとんどいなかった。夜が深くなって、さらに人が増 えたような気さえする。
「決勝戦やるよーっ!」
 おねえさんはカウンターの前に、演壇みたいな高い台を持ち出してきた。紫色のラシャ布がかけてある。五回戦を勝ち抜いてきた二人が、その台をはさんで向 かい合って立った。一人はよく見かける緑色のブレザーの高校生で、もう一人は三回戦目で沢村に勝ったあの大学生だった。
 ギャラリーはカウンターの前につめかけ、机の上に乗ったりして高い人垣を作った。
「これに勝ったらおねえさんと勝負?」
 隣の沢村に訊ねる。沢村はうなずいた。
「おねえさんに勝ったら?」
「さあ」
 沢村は人垣を強引に押しのけて、僕を連れていちばん前に陣取った。決勝の二人がコイントスで先攻後攻を決定する。
 おねえさんが試合開始を告げる。
「なにしろ店長にはだれも勝ったことがねぇからな」


 緑ブレザーのデッキは、そのころよく見かけた青と黒のものすごく防御的なデッキだった。相手のカードを直接無効化してしまう打ち消しカードがたくさん 入っていて、静かにゆっくりと場を制圧するタイプの戦術。
 大学生のデッキは、結局どんなのだかよくわからなかった。二本とも、ほとんどなにもせずに負けてしまったからだ。二本目、ほとんどライフポイントが残っ ているにもかかわらず大学生が無言で自分のカードを片づけ始めると、緑ブレザーはガッツポーズした。
 歓声があがる。
「なんかあっけないね」
「本番は次だからな」
「おねえさんのデッキはどんなの?」
 沢村は、負けた大学生をあごでしゃくった。
 おねえさんは、たった今こてんぱんに負けたそのデッキを、大学生から受け取っていた。敗者に代わって対戦台の横に立つと、歓声がひときわ大きくなる。
「借り物?」
「いつもな。決勝で負けたデッキでやるんだ」
 いつも?
 それでだれにも負けてないの?
 僕の疑問は、周囲のやかましさに呑まれてしまった。
 おねえさんが両手を高くあげて打ち鳴らした。店内は突然静まり返った。
「よろしくお願いします」
 おねえさんが言った。緑ブレザーは軽く頭を下げた。
 コイントス。
 おねえさんが先攻を取った。
 一分とたっていなかったかもしれない。緑ブレザーのライフポントはゼロになっていた。

 おねえさんはあの大学生とちがって、ひとつひとつのアクションを説明しながらデッキを動かしてくれた。だから、僕にもよくわかった。このゲームは、生き 物を並べて殴り合うだけのゲームじゃなかった。たったカード三枚の組み合わせで、人はあまりにもあっけなく死ぬ。
 これが、僕と瞬殺デッキとのはじめての出逢いだった。

 緑ブレザーは顔を真っ赤にして、サイドボードのカードを大量にデッキに投入した。まわりから冷やかしの声が飛んだ。
「おい、負けられるデッキじゃねぇだろが」
「せめて一枚は脱がせよー」
 一枚? 脱がす?
「はいはいみんな静かにねー、気が散っちゃうから」
 おねえさんはそう言って笑いながら、デッキをシャフルしている。
 二本目はしじゅう緑ブレザーの優勢で進んだ。先攻と後攻の差はかなり大きい。おねえさんは重要なカードをことごとく打ち消されて手札を消耗し、変な丸い 生き物に撲殺された。
「いいぞーっ!」
「てめぇ次勝ったらぶっ殺す!」
 それはもうほとんど怒号だった。そして僕はようやく、この熱狂の原因を理解する。
 まとめ終わったデッキを置くと、おねえさんがベストを脱いだ。カウンターに投げる。ふわりと落ちる様はまるで木蓮の花びらみたいだ。それから首の後ろに 手を回す。リボンタイがするりと外れて、これもカウンターに放られる。フリルシャツのボタンを三つ目まで外すと、上気した肌がのぞいて、胸がこぼれ出しそ うだ。
「よっし。三本目行くよ」
 ざわめきがまだおさまりきらない中、おねえさんは最初の手札を手元に引き寄せた。


 トーナメントが終わって、僕と沢村が店を出たのは九時半だった。帰ったら父に大目玉を食らうだろう。でも、そんなことはどうでもよかった。
 商店街にはまともに点く街灯すらなく、疫病が通ったあとみたいに静まり返って、おまけに五メートル先にはミイラの沢村が歩いていた。でも、僕の足取りは 軽かった。
「なにはしゃいでんだおまえ」
 駅前の通りに出ると、沢村が訊いてきた。
「え。はしゃいでる?」
「にやにやすんなよ。キモい」
 僕は頬をぱんと叩いて、緩んだ表情をしめた。
「おねえさん。強かったね」
「勝てねぇはずはねぇんだけどな。でも、勝てねぇんだよな」
 気づくと僕は沢村と並んで歩いていた。横にいた方が、あのスプラッタな顔を見なくてすむ。
 駅前の電器屋がビーチ・ボーイズを流しながらクーラーを安売りしている。コンビニの店頭にはもう誘蛾灯が出ている。閉店間際の八百屋がスイカをたたき 売っている。
 もうすぐ夏だ。
「勝てるよ」
 僕はぽつりと言った。沢村は黙っていた。
 聞こえなかったのかな、と思いながら僕も黙って歩いた。繁華街をはずれ、橋を渡り、畑と一戸建てが入り混じる暗い住宅地に入る。
「どうやって?」
 別れ際に沢村が突然訊いてきた。なんのことかしばらくわからなかった。
「ああ、うん」
 僕は言い淀んだ。
「まだ秘密」
 沢村は道につばを吐くと、僕に背中を向けて歩き出した。宵闇に制服の色が溶け込んで、包帯の白だけが浮遊しているみたいに見える。
 あの四人の二中生たちのことを訊けばよかったかな、と僕が思ったときには、沢村の姿は辻を曲がって見えなくなっていた。





       3

「ざけんなクソガキが!」
 僕の対戦相手は叫んで立ち上がると、手札をテーブルに叩きつけ、賭けてあった千円札を僕の顔に投げつけた。
 男の声で、『セロファン・フラワー』店内にいた二十何人の客全員が振り向いた。僕は紙幣をポケットに入れると、手の震えを隠すために手早くカードをかき 集めて何度も何度もシャフルした。
 僕をにらみつけていた対戦相手の高校生も、しばらくして座ってカードを片づけ始めた。上目遣いで見ながら、
「もう一回?」と訊いてみる。
「やらねぇよ! やってられるか! てめぇにいくら持ってかれたと思ってンだ!」
 デッキケースを鞄にねじ込むと、対戦相手は席を立った。同じ制服を着た仲間二人と、わざとらしく大きな足音を立てて出口に向かう。防火扉が叩きつけられ るように閉じた後、外から蹴飛ばしたのか、がん、と金属音がした。
 僕は息をつくと、まわりを見回した。いつの間にか、ゲームをやっている人間よりも僕の試合の観客の方が多くなっていた。
「あの、だれかやりますか?」と、僕は向かいの席を指差す。
 だれひとり答えなかった。ギャラリーはそれぞれ顔を見合わせ、卑屈に笑い、そして散っていった。僕はため息をつくと、デッキをケースにしまって、鞄を担 いで立ち上がった。
「ねえ、さわむーは? 最近、あんまり見かけないけど」
 カウンターの前を通るとき、おねえさんが訊いてきた。
「今日も誘ったんですけど、なんか機嫌悪くて。おまえひとりで行けって」
「ふうん。今日は何連勝?」
「九です」
「惜しいね。あとひとつで十連勝か」
「やってくれる人がいなくなっちゃったんで」
「二ヶ月前、わたしがチューンしてあげたコモンデッキで嬉しそうに負けてたあのヒカル君とは思えないなあ」
 おねえさんはカウンターの上にひじをついて、両手にあごをのせて目を細めた。いつか見たことのある笑い方だった。
「ちょっとこっち来て」
 指でちょいちょいと招かれたので、僕はこっちをちらちらと見ている何人かの目を気にしながらカウンターに近寄った。
「あのね」
 おねえさんは僕の耳をつかんで口元に引き寄せた。自分でも、顔が真っ赤になるのがわかった。
「ヒカル君、撒き餌、って知ってる?」
「え? あ、あの」
「乱獲するだけじゃだめなの。強さだけじゃ生きていけない」
 おねえさんは僕の目を至近距離からのぞきこんだ。鼻と鼻の頭がくっついてしまいそうだった。
「よし。わたしと一本やるか」
 おねえさんは僕の肩を軽く突き飛ばすと、カウンターの下からデッキケースを取りだした。
「どう? 十連勝できるかもよ」
「あの、賭けるんですか、やっぱり」
「んんん。賭けたらヒカル君がかわいそうだもん」
 おねえさんはそう言ってカードをケースから取りだし、シャフルし始めた。
「そうだね。わたしが勝ったら、『プロフェシー』を三パックくらい買ってくれる? 全然売れなくて不良在庫になってるの。それで、ヒカル君が勝った ら……」
 おねえさんはデッキをカウンターの上に置くと、す、と手を伸ばして、僕の頬に指を触れさせた。息ができなくなった。自分の鼓動で、他の音がなにも聞こえ なくなった。
 おねえさんが微笑んだ。僕にできるのは、うなずくことだけだった。
 試合が始まってすぐに、ギャラリーがカウンターのまわりにつめかけてきた。僕は深呼吸して、最初の手札をめくった。おねえさんがコインを投げた。

 ゲームは十分で片が付いた。もちろん、僕は『プロフェシー』三パックを握りしめて店を出た。


 ビルを出て五十メートルほど歩いた時だった。そば屋と書店の間の狭い路地からいきなり人影が目の前に飛び出してきて、僕を路地に引きずり込んだ。声をあ げようとした僕の口に、拳が叩き込まれた。僕は仰向けに倒れて、生ゴミの袋に頭を突っ込んだ。
「いきがってンじゃねえぞ、中坊」
「おい。寝てンなよコラ」
 ネクタイをつかまれ、引っぱり起こされた。相手は三人――というのがわかった瞬間に、次の一撃が僕の視界を真っ赤に塗りつぶした。僕はまた饐えた臭いの 中に埋もれた。さらに、腕を踏みつけられ、脇腹に爪先が食い込んだ。激痛で、僕は残飯の中をのたうち回った。
「は。小僧が店に来ンじゃねえよ。稼いでいい気分かぁおい」
 相手がだれだかわかった。さっき僕に負けて出ていったあの高校生たちだった。
「キミが強いせいでボクたち帰りの電車賃もねーのよ。わかる? お金持ちなんだから寄付してくれよ、なー」
 一人が言って、後の二人が台本にそう書いてあるみたいに声をたてて笑った。僕はゴミの中に埋まりながら、身体の力を抜いた。財布を持って行かれて、片が 付くのなら、それで――
 うめき声は、三つ同時に聞こえた。
 それから、なにも聞こえなくなった。
 全身が鈍い痛みに包まれていて、だるかった。甘ったるい腐臭がなぜかひどく懐かしい気がして、僕はしばらく目を閉じて自分の荒い呼吸を数えていた。
「死んだふりしてンじゃねえ」
 手首をつかまれた。僕の身体はゴミ袋の山から引っこ抜かれた。高校生たちが、すぐ横のゴミ袋に、ほとんど逆立ちみたいなかっこうで突き刺さっていた。ぴ くりとも動かない。
「きったねえな、おまえ……」
 沢村は顔をしかめながら、僕の髪についたゴミを払い落とした。僕はなにか言おうとしたけれど、むせてしまって言葉にならなかった。
 鞄に入っていた数学のプリント二枚を犠牲にして、顔の汚れを落とした。
「あ、ありがと、さわ……」
「礼とか言うンじゃねえよ、キモい」
 沢村は吐き捨てるように言った。僕は戸惑ってしまう。最近、いつもそんな感じだった。僕の言葉にいちいち不機嫌になる。
「沢村、今日はどこ行ってたの? おねえさんが、最近沢村見ないねって言って……」
「うるせえな。関係ねえだろ」
「……。これから店に寄るの?」
 店を出るときには、もう八時を回っていたはずだった。
「行かねえよ。俺はおまえとちがって、毎日遊んでるヒマなんてねえ」
 僕は首を傾げた。じゃあ、なんでこんな時間にここにいるのか。でもそれを訊くと殴られそうだったので、かわりにもう一度、
「ありがとう、沢村」
 と言った。沢村は目をむいて、
「礼言うなっつってんだろ! 俺はおまえの用心棒かよ?」
 と怒鳴った。人気のない夜の商店街に、沢村の太い声が不気味に反響する。僕はなにも言えなくなってしまった。沢村は繁華街の方へと大股で歩き出した。僕 もその後を追う。


 目抜き通りに出たところで、沢村は家とは反対の駅の方へと足を向けた。
「沢村? どこ行くの? 帰るんじゃないの?」
 答えはなかった。沢村の姿はネオンに埋もれて見えなくなった。
 僕の頭の中はぐちゃぐちゃだった。カードを引くおねえさんの細い指や、詰め襟にこびりついた生ゴミの臭いや、脇腹に残る痛みや、沢村の怒鳴り声や、そう いったものがどろどろに混ざって、まっすぐ歩くこともできなかった。
 橋を渡って、ブルーベリー畑の四つ辻を曲がろうとしたとき、
「あ、ヒカル!」
 と呼ばれ、僕は振り向いた。貴子が向こうの道から駆け寄ってきた。
「ね、ね、お兄ちゃん見なかった?」
「貴子ちゃん、こんな時間になんで……」
 貴子はTシャツに短パン、サンダルという、十三歳の女の子が夜八時に出歩くにしてはあまりに迂闊なかっこうをしていた。おまけに髪が濡れている。
「お兄ちゃん探してるの! ねえ、ヒカルのところに行ってない?」
「いや、沢村は……」
 と言いかけて、僕は沢村の様子を思い出した。ひどく不機嫌そうだった。さっきまで一緒にいたことを貴子に教えてもいいのだろうか。
「ヒカル、今帰ってきたところ?」
 僕はうなずいた。
「そう。……ヒカルのところかと思ったんだけど」
「とりあえず家に戻りなよ。そんなかっこうじゃ風邪引くよ」
「やだ。絶対だめ。戻りたくない」
 貴子はそう言って、首をぶんぶん振った。僕はようやく思い当たった。
「――また、お父さんと沢村、ケンカしたの?」
 貴子はうなずいた。
「あたしがお風呂入ってたら、あの人いきなり帰ってきたの。酔っぱらってたみたい。今日、お母さん遅番だから、お兄ちゃんと大喧嘩して。それでお兄ちゃん 飛び出してっちゃったの」
 途中から貴子の声に、鼻をぐずる音が混じる。
「あっ、あたしも、怖く、なって、逃げてきたの。やだ。家戻るの、やだ。戻りたくない」
 貴子は僕の腕に顔を押しつけて泣いた。僕は夜道の真ん中で途方に暮れてしまった。
 しばらく泣いて、貴子は落ち着いたようだった。肩の震えがおさまった。
「ねえ、ヒカル」
「なに」
「ヒカル、くさいよ」
「あっ、ごめん」
 僕は貴子を引きはがした。
「さ、さっき、転んでゴミ箱に突っ込んじゃったから」
 貴子は僕の学ランの袖を握りしめて、離そうとしなかった。どうしよう。ほっておくわけにもいかないし、貴子を連れてまた沢村を捜し行くわけにもいかな い。それでなくても最近、僕の帰りが遅いので親がうるさいのだ。
 しかたない。僕はため息をついた。
「とりあえず、僕の部屋に来る?」
 貴子は濡れた目で僕を見上げると、小さくうなずいた。


 僕が麦茶とクッキーを一袋持って自分の部屋に戻ったとき、ちょうど貴子が庭の樹をのぼって窓から入ってきたところだった。
「靴、どうしよう」
 貴子の靴はビニル袋に入れてベッドの下に隠した。親が突然入ってくるとまずいので、部屋の入口の鍵をかけようとして、はたと思いとどまる。
 部屋に、貴子と、二人。
 鍵をかけるのはもっとまずくないか?
「ねえ、ヒカル。おじさん、さっきすごい声で怒鳴ってたけど」
「え? あ、ああ、うん」
 僕は振り向いた。
「最近、僕が帰るの遅いから。父さんキレちゃって」
「ねえ、あたしがいるのがバレたらもっと怒られるんじゃないの? やっぱり帰るよ。そんなに迷惑かけらんないし」
「気にしなくてもいいよ。階段のぼってくる音でわかるから、そしたら、んーと、押し入れにでも隠れて」
「でも。でも」
「いいから。クッキー食べる?」
 貴子はうなずいた。お腹が減っていたのか、僕が持ってきたクッキーを一袋全部食べてしまった。
「貴子ちゃん、お母さんが帰ってくるの何時頃?」
「たぶん一時とか」
「じゃあ、そのころまたこっそり抜け出そう」
 僕はベッドに腰を下ろした。ふと、胸ポケットから紙幣がはみ出ているのに気づく。あわてて財布にしまう。危なかった。これを見られたりしたら、父になに を言われるかわからない。
 貴子が僕をじっと見ていた。
「なに?」
「ヒカルも、賭けゲームやってるんだ」
 財布を落っことしてしまった。
「夜遅いのもそれでしょ? お兄ちゃんに誘われたんだよね。もう。そういう危ないこと、ひとりで勝手にやればいいのに」
「ちがうよ」
 僕は言って、それから自分でも語調が強すぎたように思い、貴子から目をそらした。
「最初は、誘われたからだったけど。今は、自分がやりたいから」
「お金賭けてるんでしょ」
「うん」
「それに、不良もいっぱいいるんでしょ? 危ないよ、そんなの」
 僕はベッドからおりて、貴子の真正面に座った。
「なんで貴子ちゃん、そのこと知ってるの」
「だってクラスの男子が噂してたもん。あの変なカードゲーム、流行ってるし。ヒカルのこともみんな知ってたよ」
「え。なんで」
「なんか強いって」
 僕は照れくさくなって、ベッドの上の毛布をかき回した。
「そんなにお金がほしいの?」
「お金のためじゃなくてさ」と言って、そこで僕は言葉を呑み込んだ。どうして僕はM:tGをやっているのか。おねえさんの顔が浮かんだ。でも、それを貴子 にうまく説明できないような気がした。
「あんまり、そういうの。よくないよ。ヒカルのキャラじゃない」
「うるさいな。関係ないだろ」
 貴子の目にじわっと涙がにじんだ。僕は焦った。ちょっと言葉が強すぎたかもしれない。
「ばか。ヒカルなんて、不良にぼこぼこにされちゃえ」
「ごめん」
 貴子は心配してくれているのだ。それに、その心配は決して杞憂じゃなかった。だって、今し方僕はまさにぼこぼこにされてきたところなのだ。顔に残るよう な傷じゃなくてよかった、と心底思う。
「柄の悪い店なのはわかってるよ。でも、やめない」
「なんでっ」
 貴子が涙声で訊いてくる。
「勝ちたい人がいるんだ」
「たかがゲームじゃん。ヒカル、そんな漫画みたいなせりふ、全然似合わないよっ」
 たかがゲーム。その通りかもしれなかった。でも、『セロファン・フラワー』の煙草臭い熱狂に一度さらされてしまった後では、そんな言葉は一ミリも僕に届 かなかった。
 僕は勉強机の上に散乱していたカードの中から五枚を取ると、ぐずついている貴子の手に握らせた。
「……? なにこれ」
「面白いもの、見せてあげるから。それ、てきとうに混ぜて、広げて。僕に見せないようにね」
 貴子は唇をへの字に曲げて訝りながらも、五枚のカードをぐしゃぐしゃと混ぜて、顔の前に広げた。
「五枚とも、色が違うでしょ?」
「うん」
 僕は貴子の瞳をじっと見つめた。貴子の頬がじわっと朱に染まる。泣き腫らしたあととは別の色に。
「な、なに?」
「貴子ちゃんから見て、右から、赤、白、青、黒、緑」
 貴子の目がまん丸になった。僕の顔とカードを何度も何度も見比べ、それからカードをひっくり返して裏の絵柄を確認する。
「裏に印がついてるわけじゃないよ」
「も、もういっぺんやって?」
 貴子はまたカードを混ぜて僕に突きつけた。反応を見るに、どうやらちゃんとはずしていないらしい。
 色ならわかるようになった。でも、これじゃまだ、追いつけない。
 その時、突然、ドアの外で声がした。
「ヒカル? もう寝てるの?」
 母だ。足音に全然注意していなかった。僕と貴子ははっとして顔を見合わせた。押し入れ――は、間に合わない。貴子は僕のベッドに飛び込んで頭から布団を かぶった。僕もそれに続いた。
「あら。あんたまた散らかしたまま寝て」
 半分開けた戸から母は顔を出して、散らかりっぱなしの部屋の床を見て顔をしかめた。
「コップと麦茶、下に持ってくわよ?」
「うん」
 布団の中で身体をこわばらせながら、僕はうなずいた。母が部屋に入ってくる。背中に貴子の体温がぴったりはりついていた。息でシャツが湿るのがわかる。
「あんた、ちゃんとパジャマに着替えなさいよ。制服しわになっちゃうじゃない」
 コップと麦茶の紙パックをお盆に載せて、母は出ていった。僕は顔を毛布の中に突っ込んで、深く息を吐く。
「おばさん、もう行っちゃった?」
 肩の後ろで、貴子のくぐもった声がする。
「うん。もう大丈夫」
 貴子の感触がくすぐったくて、僕はすぐに布団を出ようとした。ベルトをつかまれて引っぱり戻された。
「……貴子ちゃん?」
「もうちょっと」
「なに?」
「ん。あったかいから」
 貴子は僕の腰に両腕を回して、背中に顔を押しつけてきた。僕は動けなくなった。色んな意味で。
 時計の針は十時半を指していた。


 翌日、沢村がめずらしく一時間目から学校に来ていた。全身が殺気立っていて、すれ違った一年生の尻になんの脈絡もなくひざ蹴りを入れたり、教室に入るな り掃除用具入れの戸をへこませたりしていたので、まともに目も合わせられなかった。貴子がちゃんと家に帰ったのかどうか確認もしたかったのだけれど、話し かけられなかった。
 授業中、沢村はずっとM:tGのカードをいじくっていた。教師が三メートルくらいまで近づいただけでにらみつけた。猛犬みたいだった。
「おい。ヒカル」
 昼休み、沢村の方から声をかけてきた。僕はびっくりして、
「ごっ、ごめん、沢村」反射的に頭を下げていた。
「なにがだよ」
「えっ。いや、その。怒ってると思って」
「俺はおまえのそういうヘコヘコしたところがムカつくんだよ」
「……ごめ……」
「謝るなっつってんだろ」
 沢村は僕に鞄を持たせると、下駄箱まで引きずっていった。
「あの、どうするの、沢村?」
「午後フケるぞ。おまえもつきあえ」
 いやだと言ったらなにをされるかわからなかったので、僕はうなずいて、外履きにはきかえた。それに、沢村の方から話しかけてくれたのは少し気が楽だっ た。
 昼下がりの『セロファン・フラワー』には三人しか客がいなかった。大学生くらいの男たちで、みんな僕のことを知っているようだった。
「お。四中のヒカルじゃん」
「一本やろうぜ。なかなかデカい勝負できるやついなくてさ」
 沢村が大学生たちを追い払った。
「後にしろよ」
「ああっ、ちょっと君たち! なんでこんな時間にいるの!」
 僕は振り向いた。カウンター奥の扉から、おねえさんが出てきたところだった。
「さわむーまた学校さぼったでしょっ。しかもヒカル君までっ」
「黙ってろ。ヒカル。デッキ出せ」
 沢村は僕を椅子に叩きつけるように座らせると、向かいの席に腰を下ろして鞄からデッキケースを取りだした。
「なんかあったの、沢村?」
「デッキ出せっつってんだ」
「中学のうちから授業さぼってると、かけ算もできなくなっちゃうよ」僕のすぐ隣に来たおねえさんが言った。
「うるせぇな」
 僕はしかたなく、鞄からデッキを取りだした。
 一本勝つごとに、沢村は無口になり、カードを扱う手つきが荒っぽくなっていった。僕のデッキは相手の攻撃手段を静かにひとつずつ無効化していくタイプの 遅いデッキだったので、手のひらは汗でびっしょりになった。観戦しているおねえさんも、三人の大学生も、沢村の殺気に押されたのか一言も口を利かなかっ た。
 四回やって、沢村は一本も勝てなかった。五回目も僕が場を制圧しつつあった。店に入ってきてから、どれくらい時間がたったのかわからなかった。沢村は手 の中のカードを凝視していて、僕の顔をまったく見ようとしなかった。
 沢村が少ない手勢で総攻撃をかけた。僕は無言で肯いて、その攻撃を受けた。ライフポイントが一桁に落ち込む。
 次のターン、僕はなにもせずに沢村に手番を渡した。
 沢村の二度目の総攻撃で、僕のライフはゼロになった。僕は手早くカードを片づけ、上目遣いで沢村の顔をうかがった。沢村は立ち上がると、自分のデッキを 床に叩き付けた。大学生たちがおびえて飛び退く。
 そのまま鞄も持たずに沢村は店を出ていった。僕は後を追った。
 暗い階段の踊り場で、僕は沢村に追いついた。
「さ……」
 声をかけるなり、殴られた。視界に火花が散り、僕は床に這いつくばった。
「なめてんじゃねぇよ! 勝手にひとりで強くなりやがってよ、いい気分か? おいコラ!」
 頬が熱く、耳鳴りがしていた。その中で、足音が階段を上って遠ざかっていった。自分の息づかいしか聞こえなくなってしまったあとでも、沢村の言葉が頭の 中でぐるぐる回っていた。

 二十四歳になった今の僕になら、このときの沢村の憤りが理解できる。プライドと、コンプレックス。いつも後ろを歩いていた僕の、背中を見なければいけな い屈辱。でも、十四歳だったそのときの僕には、もちろんわからなかった。ただ痛みだけが残り、涙が疑問を呑み込んだ。

 店の中に戻ると、おねえさんが床に散らばった沢村のデッキを片づけていた。大学生たちは隅っこの方でカードファイルを広げていて、僕が入ってくるとち らっと目を向けて、気まずそうに視線をそらし、会話に戻った。
 おねえさんは沢村のデッキと鞄を僕の手に押しつけた。
「君が悪い」
 僕は涙をこすり落として、おねえさんの顔を見上げた。
「なにがあってもね、ヒカル君。わざと負けるなんてことをしちゃだめだよ。それは、さわむーも、このゲームも、馬鹿にしたことになる。それから、ヒカル君 自身も」
 僕は、沢村のデッキに視線を落とした。何枚かのカードは汚れて曲がってしまっている。沢村が昔から使い続けてきた赤黒のデッキ。
「君はさわむーをぼこぼこにしてやればよかったの。わたしの言ってることわかる?」
 僕はうなずいた。
「うん。仲直りの方法は自分で考えなよ。それから、あんまり学校さぼっちゃだめだよ」
 おねえさんは僕の髪の毛に手を突っ込むと、くしゃくしゃにかき回した。また涙が出てきそうだったので、僕はじっと下を向いてこらえた。





       4

 一学期が終わりに近づいていた。僕は沢村と一言も話せないまま夏休みを迎えようとしていた。
 あの日以来、沢村は『セロファン・フラワー』に一度も顔を出していなかった。沢村のデッキも僕の鞄にしまいっぱなしだ。このままじゃ、話すどころか顔を 合わせる機会もなくなってしまう。
 僕は何度も沢村に声をかけようとした。でも、あの大きな背中が肩をいからせているのを見るたびに、勇気はすぐにしぼんでしまった。おまけにその頃の沢村 は、前にも増して不良仲間とつるむようになっていたし、三年生のこわもてと深刻そうに話をしているところも見かけた。
 二中の不良たちが大挙してやってきたこともあった。校門前に三十人くらいがたむろして、
「出てこいやォラアァッ」
 と連呼するのだ。校庭にまで入ってくることもあった。彼らが口にする名前の中には、沢村もよく挙がっていた。
 夏が輝きを増すにつれて、僕を取り巻く世界が少しずつ少しずつ歪んでいくのがわかった。僕は毎日取り憑かれたように『セロファン・フラワー』に通い、高 校生や大学生から小銭を巻き上げ、そのほとんどをカードに換えていた。そのサイクルを続けることで、なにかをつなぎとめようとしていた。
 貴子が僕のクラスを訪れたのは、終業式の二日前のことだった。


「おい、ヒカル。一年女子がおまえのこと呼んでる」
 昼休み、カードを机に並べて没頭していた僕に、クラスメイトの一人がそう声をかけた。僕は顔をあげて、教室の後ろのドアを見た。廊下の壁にもたれて貴子 が立っていた。思わず持っていたカードの束を机にばらまいてしまう。
「おい、だれだよあれ。ちょっとイイぞ。紹介しろ」
「え。ああ、うん、沢村の妹」
 僕は上の空で答えながら立ち上がった。
「マジ? あれが? 科学的にありえねえ」
 大げさに騒ぐクラスメイトの声を背中に聞きながら、僕は廊下に出た。
 貴子とも、あの夜以来会っていなかった。
「ええと。久しぶり」
「邪魔しちゃった? ごめん」
「いや、そんなことないけど……」
 まわりの視線を感じた。セーラーの線の本数を確認するまでもなく、二年生の教室近くでは見慣れない一年生の貴子は注目の的だった。おまけに男子と喋って いるとなれば人目を引いて当然だった。
「あっちで話そうよ」
 僕は人気のない家庭科室の前の廊下まで貴子を引っぱっていった。
 貴子は最初のうち、僕の胸の辺りを見つめて黙っていた。多分、話したいことがぐちゃぐちゃとありすぎてうまく言葉にできないのだろうと思った。僕もそう だったからだ。
「……ええと。あの日、大丈夫だった?」と、僕は切り出してみた。貴子は顔をあげて、小さくうなずいた。
「お母さん、帰って来てて。あの人酔いつぶれて寝てたから。ありがと、ヒカル」
「沢村は?」
 僕の問いに貴子は言葉をつまらせ、またうつむいた。自分でも、なにを訊いたのかよくわからなかった。
「ヒカル、お兄ちゃんとけんかしてるの?」
 唐突に貴子はそう言った。今度は僕が答えにつまる番だった。
「けんか、してるわけじゃ、ないんだけど」
「ほんとに?」
 貴子はまっすぐに僕の目を見つめてきた。僕はたじろいでしまう。息ができなくなるほど濃密で純粋な視線。沢村の妹なのだ。
「僕は、沢村を怒らせたんだ。たぶん、ものすごく。でも、謝ったら、もっと怒ると思う。どうすればいいのかわからないんだ」
 僕は吐き出すように言った。それから、沢村と同じ色の瞳から顔をそむけた。
「あのね。あたし、よくわからないんだけど」貴子は言って、僕の横に身を寄せて廊下の窓から裏庭に視線を落とした。
「あのカードゲーム、ヒカルに教えてから、お兄ちゃんすごく楽しそうだった。家でも、普段あたしとはめったに話さないのに、ヒカルのこと話してくれたり。 でもね」
 夏服の半袖から伸びた貴子の腕と、僕の腕がそっと触れ合う。
「最近、昔よりずっと不機嫌そうだし。夜帰ってこないし。怪我多いし。あたし思うんだけどね。お兄ちゃんて、ヒカルと全然キャラ違うのに、昔から仲良かっ たでしょ。それってね」
 僕は小学生の頃を思い返す。沢村は昔からガタイがよく、僕はもやしっ子だった。中学に入り、一年生にしてすでに他校に名が通るほどの武闘派となった後で も、相変わらず文系虚弱児だった僕とよくつるんでいた。いつも僕は不思議に思っていたのだ。
「ヒカルの面倒見るのが、なんか楽しかったんだと思う。ヒカルに頼られるのが好きだったんだと思うの。『ヒカルには俺がいないとだめなんだ』って言ってた の、聞いたことがあるもの。でもね」
 僕は耳をふさぎたくなった。貴子の次の言葉が、僕にはほとんど予想できた。
「逆なんだと思う。お兄ちゃんには、ヒカルがいないとだめなの。たぶん。それを、今まで気づいてなかったのに、どうしてか知らないけど、急に」
「だからって」
 僕は乱暴に貴子の言葉を遮った。
「だからって、どうすればいいんだよ」
 僕の肩のすぐ隣に貴子の顔があった。大粒の瞳が、もう一押しで液化して崩れてしまいそうだ。
「わかんない。でも」
 貴子は顔を伏せた。窓枠に置いた僕の手の甲に、手のひらを重ね、爪を立てる。
「そんなのって変だよ。おかしいよ」
 だから、僕はどうすればいいの? だれか教えてよ。
「お兄ちゃんに、ちゃんとわからせてあげてよ。ぼこぼこにして、ヒカルの方が強いってこと見せて。それから、お兄ちゃんが邪魔なら、蹴っ飛ばしちゃって。 でないと」
 僕は、貴子の震える肩をぼんやりと眺める。

 貴子は、おねえさんと同じことを言っている。

 そのとき、僕の頭の中で、唐突に思考が音をたてて回り始めた。濃い霧が陽光に切り裂かれて晴れていくように、その考えは確かな輪郭を形づくり始めた。
 それは沢村についてのことではなく、貴子についてのことでもなかった。僕自身に関してのことでもなかった。
 それはひとつのデッキだった。だれもいない廊下の窓辺で、貴子と肩を寄せ合いながら、僕の頭はそのときデッキを構築していたのだ。隣でなにか涙声が聞こ えたような気がした。でもなにを言っているのかはよくわからなかった。予鈴が鳴ったのにも気づかなかった。


「沢村! ちょっと待って」
 僕が下駄箱のところで沢村を呼び止めたとき、五時間目が始まる本鈴が鳴った。沢村は不良仲間二人と一緒に五六時間目をさぼって帰ろうとしているところ だった。
 振り向いた沢村の眉には不機嫌そうなしわが寄っていた。
「ンだよ」
 僕は荒い息と心臓を必死になだめながら、デッキケースを沢村に差し出した。
「いつかの忘れ物。返そうと思って」
「いらねえよ。もうやめたんだよ」
 ぶっきらぼうに言って、踵を返そうとする沢村の袖をつかんだ。
「勝てないからやめるなんてかっこ悪いよ――」
 ぐあん、と首のあたりに鈍い衝撃があった。僕は襟首をつかまれ、ねじり上げられていた。足が床から浮いているのがわかる。すぐに目がかすんでくる。それ でも僕はなんとか声をしぼりだす。
「一回、だけでいいから、勝負、しよう。今、二万円持ってる。沢村が負けたら、一個頼みを、きいてくれるだけで、いいよ」
 沢村の額のしわが波打った。僕は床に叩き付けられ、激しくせき込んだ。
「なンだよ。おまえが俺に頼むことなんて、あるのかよ」
「うん」僕はしばらく四つん這いで息を整え、顔をあげ、なるべくなんでもない風を装って言った。
「七月のトーナメントに出て」
「やだよ。やる気ねえ」
「だから、負けたらでいいんだってば」
「そんなくだらねえ勝負もやる気ねえ」
「僕が負けたら二万円だよ?」
 沢村は、玄関の外で待つ二人の方に歩き出しかけた。僕は祈るような気持ちで挑発した。
「わかったよ。ハンデつけなきゃ勝負にならないもんね。僕はライフ半分スタートでいいよ。なんなら手札も減らそうか」
 沢村は顔を真っ赤にして振り向いた。鞄を床に投げ出すと、僕の手からデッキケースを引ったくる。
「ハンデなんていらねえよ」
 僕は、歓声をあげて沢村の首に抱きついてしまいそうな衝動を必死にこらえながら、自分のデッキを取りだした。
「おい、沢村。なにやってんだよ」
 待っていた二人が玄関から声をかける。
「うるせえ! 先行ってろ!」と沢村は顔も向けずに答え、デッキをシャフルし始めた。


 ゲームが始まってすぐに、沢村は異変に気づいたようだった。
「おい、ヒカル。てめえ俺のデッキいじったな」
 見慣れないカードが入っているのだから、気づかないわけがなかった。
「うん。だって沢村のデッキ弱いし」
 軽口を叩きながら、僕は内心びくびくしていた。僕の傲慢な態度に、沢村がいつキレてもおかしくなかった。
 実際、沢村のデッキはかなり強化されているはずだった。攻撃力一辺倒だった原型に、僕が妨害手段や回転をよくする要素を付け加えたのだ。長いブランクに よるプレイミスがなければ危ないところだったと思う。ライフポイント3を残して僕はどうにか持ちこたえると、沢村の軍勢を一掃し、ゆっくりと逆転した。沢 村はむすっとした顔でカードをまとめると、サイドボードのカードを取りだしてデッキのカードと入れ換え始めた。
「三本勝負とは言ってないんだけど……」
「うるせえ」
 もちろん二タテで負かした。悔しそうに手札を場にばらまく仕草は、まるっきり昔のそれだった。
 沢村はカードを片づけもせずに立ち上がった。
「ねえ、約束だよ?」
「知らねえよ」
「来週の土曜日、五時からだからね。遅刻したら、僕が二人分登録しちゃうからね!」
 沢村の背中は無言で玄関を出ていき、校門の植え込みの向こうに隠れて見えなくなった。うずくまってカードを片づける僕の耳に、ようやく蝉の声が聞こえ始 めた。


 七月の終わりの午後五時。
 『セロファン・フラワー』店内の蒸し暑さは最高潮に達していた。百人以上の男たちが机と机の間にひしめき、空調は悲鳴をあげていた。スプリンクラーが誤 作動するんじゃないかと思えるほどの熱気だった。
 時折入口の鉄扉が開き、新たな参加者が入ってきてはカウンターに流れておねえさんから登録用紙を受け取り、熱気の中に潜り込んでいった。が、時計の針が 締め切りの五時半に近づくにつれて、それも減っていった。
 僕は入口にいちばん近い席に座って、だれかが店に入ってくるたびに顔をあげた。そしてそのたびに落胆してデッキに目を落とした。沢村はまだ現れていな かった。
 ふと、おねえさんがカウンター奥の扉に姿を消すのが見えた。ややあって、店内のスピーカーから、シンプルでノスタルジックなピアノとギターの旋律が流れ 出した。"VAN HALEN III"の"NEWORLD"。トーナメントの開始を告げる曲だ。
 僕はため息をついて、手元のデッキにまた視線を落とした。沢村に渡すつもりだった赤黒のデッキ。結局、無駄だったんだろうか。
 おねえさんが扉から再び姿を現す。
「じゃあ、始めるよっ。組み合わせ発表するから、みんな壁際に寄って」
 僕は肩を落として立ち上がった、そのとき。
 店の扉が乱暴に開いた。
 自分でも、顔がゆるむのがわかった。泣きそうな顔をもろに見られた。デッキを投げつけてやろうかと思った。
「おい、店長。まだ間に合うだろ」
 おねえさんは沢村の顔を見て、僕の顔に視線を走らせて、それから天井をにらんで、また沢村の顔に視線を戻した。
「遅刻ばっかりしてるとろくな大人になれないぞ」
「うるせえ。余計なお世話だ」
「五秒で書きなさいね」
 おねえさんはボールペンと登録用紙を沢村の顔に投げつけた。僕も調子に乗ってデッキケースを投げつけた。沢村がボールペンを左手で受け止めるのと、デッ キケースがこめかみに突き刺さるのとはほとんど同時だった。
「ヒカルてめえ! 後でぶっ殺すぞ!」
「いいから早く書きなさい!」
 沢村の声とおねえさんの声が同時に店内に響いて、見ていた参加者たちの笑い声に巻き込まれた。
 こうして、『セロファン・フラワー』最後の――そう、最後の――トーナメントが始まった。





       5

 第一回戦、僕の対戦席は壁際だった。対戦相手は背が高くて痩身の大学生くらいの男で、眼鏡の奥の神経質そうな目が落ち着きなくしじゅう泳いで、僕の手や 僕のデッキや、壁にはりついている観戦者を見ていた。
 僕のやる試合には必ずギャラリーが張り付くことになっていた。有名税というやつかもしれない。僕が考えた新しいデッキが、そうやって何人かの口によって 店中に広まり、一週間もするとみんな改造して使っている。そういうことが今までにも何度もあった。
 そのときのギャラリーは四人。
 目の前には、対戦相手。
 コイントスで先手を取り、最初の手札を引き寄せて、僕は思わず口笛を吹きそうになった。
 このデッキはこの後、『セロファン・フラワー』の残り短い最後の歴史を席巻することになる。たった五人が、歴史の証人だった。


「はあ? なんでそうなンだよ」
 最初のターン。僕が立て続けに五枚のカードを使い、すでにゲームが終わっていることを告げると、対戦相手の大学生はまったく納得できないといった顔で訊 いてきた。当然だろう。まだなにもしてないうちから瞬殺されたのだ。おまけに僕のデッキは、発売されたばかりの『ジャッジメント』という新しいセットの カードをふんだんに使っていた。
 僕は最初からもう一度説明した。
 相手はまだ納得できなかったらしく、
「店長!」
 と、審判役のおねえさんを呼んだ。
 おねえさんは机の上に並んだ僕のカードを一瞥して、すぐにうなずいた。
「うん。できるよ。ヒカル君が勝ってる」
 見ていた四人がざわめいた。対戦相手の顔は真っ赤になった。隣の席のやつが、なにごとかとこちらを向いたので、僕は急いでカードを片づけてシャフルし た。
 ぽん、と頭を叩かれた。見上げると、おねえさんが小狡そうな笑みを浮かべていて、それから、黙ってカウンターの方に戻っていった。
 できればおねえさんには最終戦まで見せたくなかったな、と僕は思う。対戦相手がサイドボードをいじり回しながらぶつぶつ言う病的なつぶやきを聞きなが ら、僕は沢村の姿を探した。店の反対側の壁際だった。でかいので遠くからでもすぐわかる。
 がんばれ、沢村。
 僕がおねえさんに勝つために、沢村が必要なんだ。
「おい、次始めていいか。おい」
 対戦相手が言った。僕はほとんど相手の顔を見ないままうなずいた。


 沢村のプレイスタイルは独特だ。
 対戦するとき、身体を開いて斜めに椅子に腰掛ける。両手を顔の前まで持ち上げたとしたら、まんまボクサーのファイティングポーズだ。そして試合中、不気 味なくらい物音をたてない。手札をくしゃくしゃ回すような手癖もない。それに背筋を伸ばしているので、相手は見下ろされるかっこうになる。
 これが沢村の強さの一因じゃないかと僕は思う。
 いくつかプレイミスがあったけれど、萎縮した対戦相手がそれ以上にミスを連発したこともあって、沢村は第一回戦を楽勝した。壁際で見ていた僕は、沢村が カードをケースにしまってすぐに、耳打ちした。
「ブランクありすぎ? 見てて心臓に悪いよ」
「うるせぇな。おまえ、なんだよ。もう負けたのか」
「そんなわけないでしょ」
 二本目も僕は三ターンで片づけてしまい、時間が余ったので沢村の試合を観戦していたのだ。
「どう? そのデッキ。あれからもうちょっといじったんだけど」
「陰険になってンな」
 褒め言葉だと思うことにした。
「沢村と決勝戦で当たれる確率は、二分の一だね」
「ん」
 沢村はうなずきかけて、はたと首を傾げた。
「ちょっと待て。もっと低いだろ。どっちかが負けることだってあるだろ」
 僕は笑って沢村の胸を叩いた。
「会場ぐるっと見てきなよ。半分は青黒で、もう半分は赤だよ。ここ二週間くらい、ずっと僕が青黒と赤ばっかり使ってたから。みんな真似するんだ」
 沢村のデッキケースに視線を落とし、それから沢村の顔をもう一度見上げる。
「どっちも『食える』ようにデッキ組んだから。大丈夫」
「……おまえ、ゴーマンになったな、ほんと」
 沢村のその言葉に、前みたいな棘は、もう、ない。
「うん」
 僕も、否定しない。
 やがて、二回戦組み合わせ発表のアナウンスがあった。僕らは拳を打ちつけ合って別れた。


 最初の違和感は、第三回戦だった。
 対戦相手は店でよく見かける二中生で、打ち消しの豊富な青黒デッキを使っていた。
 些細なことだった。相手のプレイングがひどく荒っぽいのだ。普通、青のデッキは、打ち消しのタイミングを狙うために、自分のターンには大きな動きができ ない。でもその二中生は、打ち消しなどかまわず自分のターンに重たいカードを連発してきたのだ。
 ちょうど僕も手札が悪かったので、その隙につけこむことができなかった。そして勝負が長引いてしまえば相手の優勢を覆すことは難しい。僕は手の内を見ら れることや時間切れも考慮して、一本目はさっさと投了した。
 二本目の手札はかなり理想的だった。さっきみたいな隙だらけのプレイングをしてくれれば楽勝、と思ってはじめてみると、今度は相手の動きがひどく硬い。 慎重に、必ず二回は打ち消しを使えるような状況を残してくる。僕は丹念に相手の余裕を削り取り、手札をすべて使いきってやっとのことで瞬殺を決めた。
 三本目は一本目と同じだった。まるでこっちの手札が揃っていないことを知っているみたいに、ごり押しで動いてくる。
 ただ、サイドボードから入れたカードが火を吹いた。相手の手札補充を根こそぎ奪い取ったのだ。僕がとどめのカードを机に表にした瞬間、
「はい、時間切れ! そのターンでおしまい!」
 おねえさんのよく通る声が響いた。
 危ないところだった。時間切れ引き分けの場合、残りのライフの多い方が勝ちというルールだ。大技一本しか狙えない僕のデッキでは、判定勝ちは絶対に無理 なのだ。


 第五回戦。違和感は確信に変わった。
 ベスト4。僕の隣の席には沢村が座っている。僕はひとまず二分の一の賭けに勝ったわけだ。
 カウンターのすぐ前の机だった。対戦相手の向こうではおねえさんがガラスケースにひじをついて、試合の様子をのぞきこんでいる。まわりは石垣みたいに観 戦者が僕らを囲んでいる。息苦しい。
 僕と向かい合っているのは、またしても二中生だった。むらのある茶色い髪が顔にまとわりついている暑苦しい男だ。三年生だろう、と僕は思った。
 その二中生が最初のカードを場に出した。僕はうんざりした。また青黒だ。
 そして一本目は、まさに第三回戦をそのままなぞっているように進行した。揃わない僕の手札。見透かしたようにやりたい放題の相手。
 見透かしたように?
 手札が見えてる?
 まさか。
 そんなことができるのは、僕の知っている限り、ひとりしかいない。僕はちらと目を上げた。おねえさんと目があった。ウィンクしてきたりする。
「投了します」
 僕はそう言って、カードをまとめた。さっさとサイドボードを交換する。沢村にあれだけ大言壮語しておいて、このままじゃ恥さらしだ。
 二本目も手札が悪かった。僕は相手の打ち消しを浪費させようと、ブラフを打ってみることにした。
「『オアリムの詠唱』」
 茶髪はにたっと笑ってヤニだらけの黄色い歯を見せた。
「いいよ。スルー」
 打ち消さない。僕は絶句する。打ち消されなかったところで、瞬殺パーツのそろっていない僕にはなにもできない。無駄遣いだ。荒くなってきた息を無理矢理 なだめながら、僕はなにごともなかったかのように自分のターンを終えた。
 間違いなかった。手札がばれている。どうやって?
 このままだと負ける。それも間違いなかった。真っ暗な気持ちで次のカードを引いた。
「ばーか」
 沢村の声がした。
「甘ぇんだよ。カードばっか見てっからそういうことになンだ。シャバ僧がよ」
 沢村はカードを片づけて立ち上がる。どうやらさっさと二本取ってしまったらしい。
 カードばかり見てる?
 僕は手札から顔をあげた。そして、それを見逃さなかった。
 相手の視線が、場のカードでも、自分の手札でも、僕の手元でもなく、もっと上の方に泳ぐのを。
 ばざばざっ、と音がした。はっとして見下ろすと、床にカードが散乱している。僕がひじで引っかけて落としたのだ。
「すみません」
 カードを拾いながら、僕は後ろのギャラリーをちらとうかがった。二中の真っ黒な学ランが三、四人、僕の背中にはりつくようにして立っていて、僕と視線が 合うと顔をそむけた。見憶えがあった。たしか、三回戦のときも僕の机のそばにいた気がする。
 なるほど。
 僕は茶髪の顔をにらみつけながら椅子に座り直した。こんなやつらに、負けるわけにはいかない。


「ンだてめえ!」
「いいから外出ろやコラ!」
 僕が三本目に勝った瞬間だった。背後でいくつも怒声が重なった。振り向くと、沢村が両手にひとりずつ、二中生の襟首をつかんでねじりあげている。
「さわむー! やめなって!」
「沢村、ほっとけよ!」
 僕とおねえさんが叫ぶのがほとんど同時だった。
 沢村は首をねじって僕を、それからカウンターの方をにらむと、手をはなした。人垣が大きく割れた空間に、二人がべしゃりと落っこちて尻もちをつく。
「……ってぇなクソ」とひとりがぼやいた。
「なめた真似すンじゃねぇよ」と沢村は吐き捨てた。
「ンだとコラ!」
 たった今僕に負けた三年生も、椅子を蹴倒し僕を押しのけて沢村につめよった。沢村はたちまち五人の学ラン姿に囲まれ、拳がいくつも振り上げられ――
 だあん、と重たい音が響いた。店中の人間がそちらを向いた。
 ガラス張りのカウンターの前に、黒塗りの壇が出現していた。おねえさんがさっと両手をひろげると、紫色の敷布が魔法みたいに現れて、風をはらみながら ゆっくりと舞い降り、壇にかぶさった。
「決勝戦。始めるよ」
 僕を、それから沢村を見て、おねえさんが言った。
 僕はデッキの端を机に打ちつけてカードをそろえると、うなずいて立ち上がった。





       6

 沢村が投げた五百円玉は、ラシャ布の上でいつまでも回り続けていた。
「もうわかってるかもしれないけど」
 僕はそっと言った。百人近くいるギャラリーはみんな黙っていたけれど、それでも沢村と、それからおねえさんにしか聞こえないくらいの小さな声で。
「勝てないよ」
「知ってンよ」
 僕はぽかんとなって沢村の顔を見つめた。五百円玉が倒れた。沢村は自分のデッキからさっさと最初の七枚を取ると、僕の頬を軽く平手ではたいた。
 我に返った僕は、コインを見下ろした。
「なにぼけっとしてるンだよ。おまえの先手だよ」
「あ。うん」
 自分の手札を引いた。最初のターン、相手の手札を破壊するカードを使おうとして、ふと気づく。
 沢村は手札を七枚ともまとめて握りしめ、僕の指先だけを見ている。おまけに僕は、沢村が最初の手札を引く瞬間を見逃した。沢村の言葉のせいで。
 沢村の手札が、わからない。
「沢村」
「なんだよ。いきなり時間稼ぎかよ」
「知って――たんだ」
「おまえが最近、ゲーム中にひとの顔じろじろ見やがるのは知ってる」
 僕は動揺を押し隠すように手札破壊を使った。沢村のデッキは極端な攻撃型で、捨てさせて有効となるカードがほとんどない。でも、とにかく沢村の手札が見 たかった。
 沢村は手札を公開した。捨てさせられるカードはなかった。
「はったりに弱すぎンだよ、おまえは」
 沢村はにやにや笑いながら最初の戦力を投入した。
 僕は焦っていた。沢村は重要なカードを次々と引いてくる。引いてすぐにカードを使われては手札破壊は間に合わない。
 引きも悪かった。僕のデッキは相手を瞬殺するしか能のない不器用なデッキで、最低でも三枚のカードをそろえる必要がある。二枚はすでに揃っていた。『世 界喰らいのドラゴン』と『ネクロマンシー』。この二枚を併用すると、複雑な効果のからみあいによって、僕が場に出しているすべてのカードが消滅し、その後 また場に戻ってくるという永久循環が発生する。そのループの中で無限の資源が汲み上げられる。でも、それを勝ちにつなげるとどめのカードを引けなければ、 ただの役立たずだ。
 僕のライフはみるみる減っていった。沢村の攻撃要員がハードすぎる。
 最後のチャンス、というターンで、僕は結局有効なカードをなにも引けなかった。
 うなだれ、投了と言いかけて、ふと気づいた。
 沢村の攻撃要員のうちの一匹。『卑劣なアヌーリッド』だ。他の生き物が場に出たときに沢村のライフが減るというきついデメリットを背負う代わりに、高い 攻撃力とスピードを備えている。
 視界に白い稲妻が走る。天啓。
 僕は『ネクロマンシー』を机に放り投げた。
「やっと気づいたね」、おねえさんが僕にだけ聞こえる声で囁いた。
 墓地に眠る『世界喰らいのドラゴン』が引きずり出され、永久循環が始まる。とどめのカードは必要なかった。ドラゴンが消滅と場に出ることの繰り返しをす るだけで、沢村のライフは『卑劣なアヌーリッド』によって吸い取られていくのだ。
 沢村はうなずいて、カードをかき集めた。
 僕は天井をにらんで息を吐き出した。


 僕がサイドボードとカードを交換する間、沢村は腕組みしてじっと動かなかった。デッキにもサイドボードにもまったく手をつけていない。
「サイド。換えないの」
「このデッキ作ったのだれだよ?」
 沢村が苦笑いしながら言う。僕は顔を伏せる。
「あのさ、沢村。怒って……」
「怒ってねえよ。そういうこと訊くなっつってんだろ」
 顔をあげると、沢村は視線をそらした。
 僕は沢村のデッキを、青黒や赤のどんなデッキにも負けないように組み上げた。ただ、サイドボードにだけ狡猾な罠を仕掛けた。僕のデッキはいわば一発芸の デッキだ。サイドボードから致命的なカードを投入されると、それだけで動きが完封される。
 沢村のサイドボードには、僕のデッキに効く銀の弾丸が一発も入っていない。そう僕が作ったからだ。
 この決勝戦のためではない。その次の闘いのためだ。
「先手やるぞ」
 沢村が言った。僕はうなずいて最初の手札を引いた。
「『陰謀団式療法』」
 沢村が最初のカードを使った。手札破壊のカードだ。ただし、こっちの手札を見る前にカードを指定し、的中させなければいけない。
 少し迷ってから、沢村は『入念な研究』を指定した。僕は首を横に振って手札を見せた。
 沢村は笑い出した。
 デッキをまとめ、おねえさんに手渡す。観客がどよめいた。僕の手札は完全にチェックメイトの状態だった。沢村はおねえさんの腕を引っぱって立ち位置を入 れ換えると、カウンターのガラスケースに腰を乗せた。
「こら、さわむー! そんなところに座っちゃだめ!」
「うるせぇな。いいじゃねえかよ。俺は準優勝だぞ」
「関係ないでしょ!」
 おねえさんが沢村のふとももを思いきりつねった。沢村は眉をしかめてカウンターから飛び降りると、僕の耳元で囁いた。
「この女、ぜってー最後まで脱がせろ」
「聞こえてるぞさわむー」
 おねえさんが沢村のすねを蹴飛ばした。
「おい中坊! 全部ひっぺがせ!」
「てめえ二タテで負けねえとぶっ殺すぞガキ!」
 観客達が好き勝手にわめき出す。机が拳で打ち鳴らされ、床を踏み鳴らす靴音はサヴァンナに響く太鼓みたいだ。
「きっと、――と思ってた」
 おねえさんがなにかつぶやいた。
「え?」
「表? 裏?」
 おねえさんの指がコインを弾き上げた。高く、澄んだ音をたてて。


 だれもいない『セロファン・フラワー』の店内に、"How Many Say I"のピアノと、祈りのつぶやきのような歌声が響いている。他に聞こえるのは、換気扇の回るかすかな音だけだ。
 僕は後ろ手に扉を閉めた。防火扉は心臓が跳び上がるくらい硬くて耳障りな音をたてた。
 蛍光灯も、いちばん手前を残して消されている。長机の並ぶ店の奥の方は完全な暗闇に飲まれている。ガラスケースのカウンターだけがスポットライトを浴び たみたいに浮かび上がっている。
 壁に掛かった時計を見ると、もう一時だった。
 身体の火照りがまだおさまらない。
 観客達が総立ちになり、僕の勝利を讃えたり罵声を浴びせたりする嵐の中、あのとき、おねえさんがささやいた言葉がまだ耳に残っている。
『鍵を開けておくから、今夜、バックルームに来て』
 カウンターの向こう、バックルームへの扉。
 おねえさんとの試合がほんの数時間前だというのが、まだ信じられない。トーナメントが終わった後、くたびれきって家に戻り、食事もせずにベッドに倒れ込 んだ。目を覚ましたら日付が変わっていて、僕は親に見つからないように二階の窓から抜けだして、また『セロファン・フラワー』にやってきた。
 実はみんな夢だったんじゃないだろうか。
 ガラスケースの脇からカウンター裏に入る。積み上げられたダンボール箱の間、いつもおねえさんがせわしなく動き回っていた場所。
 何度も深呼吸してから、扉をノックした。
「ヒカルくん?」
 すぐにおねえさんの声が中から返ってきて、僕はあわててうなずき、うなずいても相手には見えないじゃないかと自分で自分に突っ込みを入れ、
「はい」と答えた。声がかすれているのが自分でもわかった。
 ノブが回る。扉が細く開き、おねえさんの笑顔がのぞいた。
「入って。散らかってるけど、ごめんね」


 それほど散らかっている部屋ではなかった。広さは八畳くらいだろう。ただ、背の高いロッカーや古いダンボール箱が壁を埋め尽くしているために、ひどく狭 苦しかった。少し大きな足音を立てたら、みんな倒れてきそうだ。
 部屋の真ん中には三人並んで座れるくらいの焦げ茶色のソファが置いてあり、さらに空間を食いつぶしている。
 唯一壁がむき出しになった正面奥の壁には事務机が押しつけてあり、LPのジャケットが何枚も、ポスターがわりに画鋲でとめてあった。机の上には小さな CDラジカセ、それからM:tGのカードが何枚か散らばっており、マグカップとコーヒーポットの口からは湯気が立ちのぼっていた。
「コーヒー、飲む?」
 おねえさんは書類棚からもうひとつマグカップを取りだして僕に訊いた。僕は黙ってうなずいた。
「いいよ、座って」というおねえさんの言葉で、僕はソファに腰を下ろした。おねえさんがマグカップふたつを手に隣に座って、ひとつを僕に渡した。温かい。
 おねえさんがソファの背にもたれてカップに口をつけた。肩と肩が触れ合う。おねえさんは肩口が思いきり開いたサマーセーターにキャミソールという普段着 姿で、首筋も鎖骨のふくらみも胸の谷間の入口さえもさらしている。僕はコーヒーの琥珀色の水面のことだけを考えようとするのだけれど、うまくいかない。
「四月だったよね」
 おねえさんが言った。手が震えて、カップをあごにぶつけてしまう。
「……え」
「はじめてこの店に来たの」
「あ。はい」
 もう三ヶ月だ。
「まだ三ヶ月なんだね」
 現実感が引き潮みたいに消えていく。真夜中にビルの地下の一室で、隣に女の人が座っていて、コーヒーの匂いに甘い人肌の香気が入り混じっている。
 扉の向こうから漏れてくるBGMが切り替わった。絶え間なく向きを変える激しい海風のようなギターリフ。
 ――"Human's Being"。
「はじめてヒカル君を見たとき、ね。わたしに勝つ人はきっとこの子だろうって、思った」
「……どうして、ですか」
「眼」
 僕とおねえさんの視線が吸い寄せられる。鳶色の瞳は濡れて光をたたえている。
「いつから、相手の手札が見えるようになったの」
 僕はおねえさんの顔から眼をそらそうとするのだけれど、いちご色の唇に視線が引っかかって、動かせなくなる。
「よく憶えてないです。はじめてトーナメントを観たときから、なんとなく、この人にはひょっとして手札が見えてるんじゃないかと思って」
「そっか。でも、対応策までは考えなかったな。まさか手札全部伏せてプレイするなんてね」
 相手の眼球に映った手札を読みとる。それがおねえさんの武器のひとつだった。だから僕は手札をみんな台の上に置いたままプレイした。山札からカードを引 く瞬間、すぐ下のカードの背に反射するカードの絵だけで手札を憶えるのだ。この策略のために僕はカードプロテクターをすべて新品で透明なものにした。一ヶ 月をこれの練習に費やした。
 そこまでしてなお、僕は一対一の三本目に持ち込まれ、ライフ2点まで追いつめられたのだ。
「手札が読める相手とやったことなんて、なかったからね。わたしは」
「僕がずっと有利だったんです。沢村のデッキは、僕のに絶対に勝てないように組んだし。だから、ほんとうは、」
 おねえさんの人差し指が、そっと僕の唇をふさいだ。
「ううん。いいの。君は強いよ。君ならきっと、あの人にも勝てるよ」
「……あの人?」
「わたしに手札の読み方を教えてくれた人」
「だれですか?」
「もっと他の質問にして」
 おねえさんが僕の手からマグカップをするりと抜き取って、棚の中に置いた。腕を伸ばしたときに胸が僕の頬をかすめた。
「……ええと。何色が好きですか」
 おねえさんはきょとんとした顔をして、それから笑いがこぼれた。
「それ、ヒカル君が最初にカード買いに来たときの」
 僕もようやくぎこちなく笑い返せる。
「黒かな」
「好きな食べ物は?」
「んー。湯葉が好き。いくらでも食べたいな」
「えと、それから……」
「双子座のB型。スポーツは、昔ソフトボールやってた。ねえ、もっと他に訊きたいことないの?」
 僕はしばらく迷ってから、
「嫌いなタイプの人は?」
 おねえさんはまた笑う。
「普通、好きなタイプを訊くんじゃないの?」
 僕は基本的に臆病者なのだ。
「ううん。CDの棚にベストアルバムばっかり並んでいるような人が嫌い」
「……でも、"Human's Being"はベストにしか入っていませんよ」と僕は言ってみた。ヴァン・ヘイレンのベストなら僕も持っている。
 おねえさんは僕の額を小突いた。
「わたしみたいなのに買わせるために、そういう曲をベストアルバムに入れるんでしょ。他には?」
「……好きなタイプの人は」
 答えのかわりに、僕の肩が抱き寄せられ、おねえさんの唇が僕の唇をふさいだ。


「……っ……はぅっ……」
 うわずった声が、湿った音にときおり混じる。それが自分の声だというのが信じられない。天井と蛍光灯が熱く溶けあってミルクティみたいに見える。
 胸に甘い電流が走った。
「あっ」
 僕はあごを引いて喘ぎ声を押し殺した。
 おねえさんの頭が僕の胸の上にある。鳶色の髪が、頬や首筋、僕の脇腹に汗で張り付いている。僕の乳首をこね回す舌は温かい蜂蜜みたいだ。むき出しになっ たおねえさんの右肩に、一本だけ未練がましく残ったブラジャーの紐が、身をくねらせるたびにずり落ちていくのが見える。
「ん……」
 おねえさんの鼻にかかった声。
 蜂蜜が僕の鎖骨を越えて首まで這い上ってくる。僕は無意識になにかを受け止めようとして両手を持ち上げるのだけれど、どこに触れていいのかわからない。 小指が柔らかい肉の中にうずまる。おねえさんの乳房だ。僕の胸に押しつけられて、身体の横にたっぷりとはみ出している。
「いいよ。さわっても」
 おねえさんが言って、僕の喉をちろりと舐めた。全身がぶるりと震える。
 僕はおそるおそる手を身体の間に差し入れる。温もりが僕の手のひらでとろけた。
「う……ン……」
 おねえさんの舌が入ってきた。僕は目を閉じて、息を止め、両手をしぼった。クリームのような乳房が指の間からこぼれ落ちそうだ。
 舌が絡み合う感触におぼれていて、それにしばらく気づかなかった。なにかがブリーフの中にするりと滑り込んできて、太ももの内側をくすぐった。
「あっ……ちょっ、そこ……」
 僕は思わず上体を起こした。おねえさんの顔に意地悪な笑みが浮かんでいて、僕はベルトをはずされジッパーをおろされていることにようやく気づいた。
 おねえさんの手の中で、硬くなった僕が脈打つのがわかる。僕はおねえさんの顔を見られなくなって、顔を横に向けてソファの背もたれに埋めた。
「んふ。恥ずかしいんだ」
 舌が僕の耳をくすぐった。僕はおねえさんの身体の下でのたうち回った。ブリーフに差し入れられたおねえさんの手が僕をしごきたてる。
「あ、あふ、あ」
「脱がせて。わたしのも」
 おねえさんが、僕の耳を舌でなぶり続けながら囁いた。
 手探りで短いスカートをたぐる。おねえさんの腰の素肌とパンティとの境界線に指が引っかかった瞬間、僕の中でなにかが壊れた。
 乱暴にパンティを引き下ろす。つるりとした尻に手が吸いついて、引き寄せられるように谷間をすべり落ち、温かく濡れた中心に食い込む。
「……ぁっ」
 おねえさんは顔をのけぞらせた。僕の指は――まず中指、それから人差し指と薬指――ねっとりした蜜の中に沈んでいく。おねえさんが片手で僕の頭を抱き寄 せ、もう一方の手はブリーフの中から突き出た僕を握りしめる。
 僕は視界を埋める乳房にむしゃぶりついた。二人の身体がどうなっているのか、どれが僕の指でどれがおねえさんの舌なのかもよくわからない。
「……いいの?」
 おねえさんがなにか訊いた。
 僕は熱ぼったく朦朧とした頭でうなずいた。
 おねえさんが腰を浮かせた。僕を真ん中へ導く。熱い粘膜が僕をぴっちりと包み込んだ。
「ああぁ……んっ」
 おねえさんが腰をくねらせる度に、股間に身体中の血が集まって沸き立つようで、僕も息をつまらせながら腰を振り上げた。止まらない。こみ上げてくるもの が止まらない。子供っぽい声をあげてしまいそうで、すぐ目の前を跳ね踊る乳首を唇でつかまえた。
「あっ、ふぁっ、いっ」
 抑え切れそうになかった。僕はおねえさんの中ではちきれそうで、
「……もう。で……」
 最後の理性が、おねえさんから僕を引き抜こうとした。おねえさんが僕の身体の上で上半身を起こした。僕は深く深く蜜の中に溺れて、それから身体の真ん中 を熱いものが先端に向かって駆け抜けようとするのを感じた。
「だめ。い……いいの。抜かないで。なっ、中に……」
「ぅあっ」
 僕の腰が跳ね上がった。ほとばしりは長い間止まらなかった。おねえさんは僕の肩を抱きしめ、背中に爪をたてて震えていた。僕を包んでいる湿った肉が、搾 りあげるようにゆっくりと動いた。
 やがておねえさんが腰を持ち上げた。僕はぬるりと抜け出てしなだれた。腰から下が全部液化してしまったみたいだった。
 おねえさんが僕の目のすぐ下に唇をつけた。僕は肩をそっと抱き返した。音楽は止んでいて、ふたりぶんの息づかいだけが聞こえた。





       7

「『動く死体』。通るか?」
 相手の大学生が、僕を上目遣いでにらみ、荒い鼻息まじりに言った。煙草のフィルタをきつく噛みながら一枚のカードを出す。
 その日の『セロファン・フラワー』のBGMは"Hot for Teacher"。神経質なリズムの中、紫煙が僕の顔にまとわりつく。
「はいはい。どうぞ」
 僕は『動く死体』を打ち消さない。うんざりして手を振る。
 墓地から『世界喰らいのドラゴン』が出てきたところで、それを手札に戻すカードではじき飛ばし、永久循環をストップさせる。
 大学生は一瞬固まった後、肩を落としてカードを手札に戻した。苦い顔で机の上を見る。彼の出しているカードはすべて『ドラゴン』に喰われてしまい、僕の 優勢は歴然としていた。大学生は舌打ちをして席を立ち、細長く折った千円札を僕の胸ポケットに投げ入れる。
 まわりに十人から壁を作っていた観客たちが、ほうっと息をついた。
「なンだよ。このデッキ。全然弱ぇぞ」
 相手の大学生の捨てぜりふ。
 それはあんたが下手なんだよ、と僕はため息をつく。自分の作ったデッキだったから、もろい部分もよく知っていた。
 立ち上がって伸びをする。頭の芯がぼうっとしていた。何時間ぶっつづけてゲームしていただろう。ポケットは千円札でふくれていて、口の中には嫌な臭いの する唾が溜まっていた。
 『セロファン・フラワー』店内を見回した。夏休みで、僕のように毎日昼から来てゲームをしている学生がいっぱいいて、まだ午後五時にもならないのにパイ プ椅子の半分以上は埋まっている。
 おまけに、そこかしこで『世界喰らいのドラゴン』が踊っている。僕が七月のトーナメントで使ったデッキだ。あっという間に広まってしまった。やれやれ、 なにやってるんだろう、こいつら。
「なんだよ、ヒカル。もうやめンの」
 僕が鞄を取り上げるのを見て、後ろに立っていたひとりが言った。顔なじみの高校生だったけれど、こっちは名前を知らない。
「ううん。ちょっと休憩」
 腰を机の端やだれかの背中に何度もぶつけながら、店の入口脇の自動販売機までたどりつく。コインを入れ、オレンジジュースのボタンを押しながら横目でカ ウンターを見た。
 おねえさんは未分別のカードの山と格闘していた。
 僕は近づいていって、
「あの。手伝いますか」
「あ。ヒカル君。お願い」
 おねえさんはちらっと顔をあげただけだった。五つあるカードの山のうちひとつを僕の方に押しやる。
「色別、レアリティ別。わけるだけでいいから」
「アルファベット順にしなくても?」
「んー。できたら」
 会話はそれだけで、おねえさんはまた作業に没頭してしまう。
 あの夜から二週間が過ぎていた。おねえさんとはカードを買うときにしか喋っていない。向こうから話しかけてくることもなくなってしまった。
 あれは全部夢だったのじゃないかと思えてくる。
 夏の夢。コーヒーの香り。むせ返るように甘い肌の匂い。
 僕はカードから目を離しておねえさんの横顔をちらと見る。鳶色の瞳に影をさす長い睫毛。熟したいちごの色の唇。ふと向こうも目を上げる気配がして、僕は オレンジジュースに逃げ、再び手元のカードの分類に戻る。
「一口、いい?」
「え?」
 おねえさんの声に、僕はどぎまぎしながら視線をあげる。おねえさんは僕の返事を待たずに、もうオレンジジュースの缶を口に運ぼうとしている。
「あ、ど、どうぞ」
 缶の飲み口に触れるおねえさんの唇から、僕はしばらく目が離せなかった。唇をぬぐうピンク色の舌で、あの夜のことを思い出さずにはいられない。
 おねえさんと目が合った。僕はあわてて視線を落とし、カード整理の作業を再開した。いやらしいことを考えていたのを、悟られたりはしなかっただろうか。
 言葉のやりとりは、それっきりだった。
 カウンターに客がやってきたので、おねえさんはそっちに行ってしまった。僕はたっぷり三百枚はあるカードを黙々と仕分けし続けた。


 作業が終わっても、おねえさんは戻ってこなかった。カウンターの向こう端にひじをついて、高校生と喋っている。ときおり笑みをつくる横顔を見ていられな くて、僕はそっと店を出た。
 暗い階段には、午後の熱気がたっぷりと溜まっていた。生ゴミとシンナーの匂いが混じりあって、目眩がしそうだった。階段を上りビルを出ると、しぶとく 残った朱色の西日が僕の目を灼いた。
「……ヒカル」
 呼ばれて、振り向いた僕は、思わず息を呑んだ。
 商店街の狭い通りをいっぱいにふさいで、十数人もの学ラン姿がずらりとならんでいた。二中の不良たちだった。
 彼らの足下に、ぼろ布の山があった。
「ヒカル」
 ぼろ布の山が顔をあげて、もう一度僕の名前を呼んだ。それは沢村だった。まぶたや唇は真っ赤に腫れ上がり、皮膚が裂けて血の筋が轍をつくり、とても人の 顔には見えなかったけれど、たしかに沢村の声だった。
 僕は沢村に駆け寄ろうとした。でも、足がすくんで動けなかった。十数人分の粘っこい視線が、僕を地面にへばりつかせていた。
「ぉ……」
 なにか言おうとした沢村の頭を、ボンタンをはいた足が踏みつけた。二中生たちの真ん中、ひとりだけ長ランを着た背の高い男だった。沢村より大きいかもし れない。ビルの二階から見下ろされているみたいだった。
「おまえ、あの女に勝ったんだって?」
 長ランが言った。
 思わず首を横に振りそうになる。
 長ランが沢村をまたぎ越して、一歩、二歩、近づいてくる。
「は。――おい、こんなチビがこのへんでトップなのかよ、あぁ?」
 訊かれて、後ろにひかえた男達がうなずいた。いくつか見た顔があった。『セロファン・フラワー』の常連だ。トーナメントでイカサマをしていた連中もい た。
「ま、いいや」
 長ランは茶髪をかきあげると、僕の方に向きなおった。
「四中とは話がついた。来週金曜、俺とおまえがこの店で勝負する。五十万だ。ついでに、負けた方はこの通りに出入り禁止」
 五十万?
 出入り禁止?
「で、おまえは負ける」
 長ラン男の細い目が、さらにいやらしく細められる。
「言ってることわかるだろ? カード引くだけで、なにもせずに座ってりゃいいんだよ。……ああ、観客いるからな、恥ずかしかったらもうちょっとうまく負け てくれてもいいぜ」
 その言葉に、取り巻きたちが笑った。
「……なんで、そんなこと、わざわざ」
「ぁあ?」
 ほとんど独り言だったけれど、聞きとがめられた。
「大勢いる前で勝負って形にすりゃ、はっきりすンだろが。おまえら四中がへたれたってことをよ。ついでに、おまえには世話ンなったやつもいるからな。わ かったか?」
 そんなくだらない、不良同士の面子の張り合いで、なにも関係ない僕を――
「わかったかって訊いてンだよ」
 長ランの声が一段と低くなった。僕は視線を自分の爪先に落として、うなずいた。
 不良達はぞろぞろと歩き去った。すれ違うとき、だれかが僕の首筋をぴたぴたと叩いて下卑た声で笑った。
 無数の足音が遠ざかるのを、目を閉じ、歯を食いしばりながら聞いていた。


 やがて夕刻のチャイムが鳴る。
 五時半。
 僕は倒れている沢村にそっと近づいた。
 かがみ込んで、傷の具合を見ようと伸ばした手を、張り飛ばされた。
「触ンな」
「血、出てるよ」
「うるせぇ」
 沢村はのそりと立ち上がった。右足を引きずっている。
「二中とあんなにもめてたなんて、知らなかった」
 沢村はなにも答えず、商店街の出口に向かって歩き出す。僕は、びっこを引きながら歩く沢村の前に回り込んで顔をのぞき込み、言った。
「五十万て、本気なの?」
「黙ってろ」
 腫れあがった沢村の唇の奥から、どす黒い声が漏れる。
「おまえは、黙ってデッキ持ってきて、じっと座って負けるだけでいいんだよ。金は俺らが用意する」
「そんなのってないよ! 出入り禁止なんて、勝手に決めて……」
 沢村が僕の襟首をつかんでねじりあげた。息が詰まり、身体中が熱くなる。
「殴れよ」と沢村は言った。
 その目が、濡れているように見えたのは気のせいかもしれない。
 アスファルトの上に投げ落とされた。胸をおさえてむせる。
「気が済むまで俺を殴れよ」
「なに、言って……」
「殴れっつってンだろ!」
 今度はあごをつかまれて、強引にひっぱり起こされた。
 ほんの十センチのところにある沢村の顔を濡らしているのは、血だけじゃなかった。
「ごめん」
「なんでおまえが謝ンだよ!」
 沢村は僕を突き飛ばし、また歩き出す。
 僕はその背中を見送ることしかできなかった。


 噂はあっという間に広まっていた。
 次の日、僕が『セロファン・フラワー』に行くと、顔見知りの中学生はもちろん、高校生たちからも「今度、でかい勝負するんだって?」みたいなことを言わ れた。
「ヒカルと、二中のアタマが二百万円賭けて勝負だってよ」
「負けた方、全員少年院だっけ?」
 口づてに増えていく尾ひれ。
 店でも、学校でも、僕を取り巻く好奇と侮蔑と同情の視線。
 おねえさんの耳にも入っていただろうけれど、なにも言われなかった。僕の方からおねえさんを避けるようになってしまった。だって、なにを話せばいいのか わからない。
 僕は新しいデッキを組んだ。
 他に、するべきことを思いつけなかった。
 一週間がすぐに過ぎた。


 これは、ずっと後になって知ったことだ。
 『セロファン・フラワー』のトーナメントでは、ひそかにトトカルチョが行われていた。七月の大会で、イカサマを使って高配当を狙った二中勢は、本命馬 (僕のことだ)がイカサマをものともせず順当に優勝してしまったために大損したのだという。それが、二中・四中間のいざこざに火を点けた。
 詳しい経緯はよくわからない。とにかく、四中の三年生も、助っ人で呼ばれた沢村も、数の暴力に倒れた。そして無条件降伏、ポツダム宣言。
 奇しくも、僕が負けるためだけに勝負をするその金曜日は、八月十五日だった。





       8

 その金曜日の午後、台風十九号が本州に上陸した。
 夕方四時過ぎ、僕がこっそりと家を出たときには、すでに分厚い雲が全天にたれこめ、なまあたたかい風が街路樹やブルーベリー畑を乱暴にかき混ぜていた。
 商店街のぼろいアーチが見えたあたりで、ついに降り始めた。濡れないようにリュックをシャツの腹に入れて抱えながら、甘い腐臭の漂う商店街を走った。排 水溝はゴミで詰まっているので、でこぼこの道はすぐに雨水がたまって川みたいになった。くるぶしまで水に浸かっている。
 ずぶ濡れになりながら、ビルの階段に駆け込んだ。
 髪先や袖から雨がたっぷりと落ちて、コンクリートをまだらに濡らした。
 水を含んでまぶたにはりついた前髪を払う。
 顔をあげて、ようやく気づいた。
 踊り場におねえさんがいた。
「……ぁ」
 どしゃ、と足下で音がした。抱えていたリュックを落としてしまったのだ。拾おうとしたのだけれど、手が震えてうまくつかめない。
 おねえさんの足音が階段をゆっくり上ってくる。僕は顔を向けることもできない。
 ふわり、となにか柔らかくて暖かいものが頭にかぶさった。
 バスタオルだ。おねえさんの甘い匂いがする。
「風邪引くよ」
 顔までびしょ濡れでよかった、と僕は思う。泣きそうなのを見られたくなかった。
「だれか、来てますか」
「いっぱいいるよ。こんな天気なのにね」
 おねえさんの声からは、感情は読みとれなかった。怒っているのかもしれないし、あきれているのかもしれない。
「ぜんぶ、話聞いたよ。四中の子たちから」
 僕はバスタオルをむしり取って突き返すと、リュックを拾い上げ、階段を一段一段ゆっくりと下りる。
「ほんとにいいの?」
 答えず、踊り場で折り返す。ぬるま湯のような闇に足先から潜り込んでいく。おねえさんの足音が追いかけてくる。
「ヒカル君」
 僕は二つ目の踊り場で立ち止まった。
「じゃあ。どうすればいいんですか」
 おねえさんに背中を向けたまま、言葉を吐きだした。
 答えはない。
「あいつらは見境ないから、なんでもやるんです。なんでわざわざ店に呼び出したかわかりますか。僕が逃げたりしたら、ここをめちゃめちゃにするって言って るんです」
 それから、もう一つの理由。僕の名誉を泥の中に突き落とすためだ。
 おねえさんがなにか言おうとしたのが気配でわかった。僕はその言葉から逃げるように階段を早足で下った。やがて緑と黄色のライトが現れる。『セロファ ン・フラワー』。
 これが最後になるのかな、と思う。
 やらせ試合を拒否して勝ったりすれば、あいつらは店を完膚無きまでに破壊するだろう。でも、予定通り負ければ、僕はどちらにせよこの商店街に出入り禁止 となる。
 なにをやっているんだろう、僕は。
 扉を開けた。
 煙草の匂い、裸の蛍光灯の病的な光。一斉に僕をにらむ無数の目。
 いつも流れているヴァン・ヘイレンが、その日は沈黙していた。不気味なくらい静かで、他人の鼓動さえ聞こえてきそうだった。
 入ってすぐの長机を、二中生たちが占拠している。真ん中で足を組んでガムをくちゃくちゃやっているのが、あの茶髪の長ランだった。他の二中生もみんな、 夏休みだというのにご丁寧に学生服だ。
 四中も壁際の席に数人いた。ほとんど三年生で、店ではあまり見かけない人たちだった。僕が沢村の姿を探してそちらに目をやると、みんな気まずそうに視線 をそらした。
 沢村がいない。
 店の奥の方の机に、常連たちが集まっていた。二十人くらいはいるだろうか。名前は知らないけれど、使っているデッキやプレイングの癖は一人残らず思い出 せる。そういう人たちだ。ゲームをしているのは一人もいない。二中生たちから距離を置いて、じっとことの成り行きを見守っている。その中にも沢村の姿はな い。
「さっさと座れよ」
 長ランが言った。
「早く終わらせて帰りてぇンだよ。雨、クソ降ってるし」
 僕はうなずいて、机の向こうに回った。そばを通るとき、四中三年生の一人に小声で訊いてみた。
「あの、沢村は?」
 答えは返ってこなかった。
 急に、濡れた身体が冷たく、重く感じられるようになった。沢村がいない。この店に今あるのは、好奇と敵意の目だけだ。
「おい。なに突っ立ってンだよ。早く座れっつってンだろ」
 長ランが言って、パイプ椅子を乱暴に蹴った。僕は逃げだしたくなった。
 店の入口に目をやる。
 おねえさんと目があった。濡れたバスタオルを胸にきつく押し当てて、僕をにらんでいる。その唇が、なにか言葉を形づくった。なんと言ったのかは、わから ない。
「沢村なら、今日は来れねぇだろ」と、取り巻きの二中生の一人が言った。「入院してンじゃねぇの」
「入院……?」
 長ランが話を引き継ぐ。
「一昨日だったかな。あの馬鹿、一人で俺らンとこ来てよ。やっぱこの話無しにしようとか、頭わいたようなこと言うからよ。ははは。サンドバッグだよ、あい つ」
 僕は茫然として、椅子に腰を下ろした。
「やっと始まるのかよ」
 背後に、大勢の気配。常連たちが集まりだしたのだ。パイプ椅子がぶつかりあう音、無数の息づかい。
「ヒカル、また新しいデッキだろ? 期待してンよ」
「五ターンくらいで決めろよ」
「俺、三ターンに千円」
 言葉のひとつひとつが背中に刺さる。
「人気者だな、おい」
 長ランがガムをにちゃにちゃやりながら笑った。そして、机の上のカードを一枚取り上げる。僕を七月のトーナメントで優勝に導いたカード、『世界喰らいの ドラゴン』だった。彼はそのカードにガムを吐き出し、握りつぶして丸めた。
 ギャラリーが一斉に息を呑み、黙る。
「じゃあサービスだ。一本目は、普通にやらせてやンよ。べつに勝ってもいいぜ」
 僕は目を伏せ、デッキを取りだした。


 コイントスで勝った僕は、先手を取った。相手は青白赤の、打ち消し系のデッキ。僕が二ターン目に出した『適者生存』が大回転して、あっという間に生き物 が場に並び、相手の手札を削り落とした。『怒りの天使アクローマ』を墓地から引きずり出したところで、長ランは鼻で笑ってカードをまとめ始めた。
「オーケー、オーケー。投了だよ。満足かよ? じゃあ、次からはよろしく頼むぜ」
 なぜ一本勝ってしまったのか、と僕は思った。そんなにかっこつけたいのか。なす術なく二タテを喰らって負けるところを、後ろで見ているみんなに――それ からおねえさんに――見られたくないのか。
 つまらないプライドだ、と思った。そんなに負けるのが嫌なら、今すぐ机をひっくり返して、目の前の茶髪長ランの顔に一発入れてやればいいのだ。できない くせに。
 この椅子に座った時点で、僕はもう負け犬だ。
「じゃあ俺が先手な」
 二本目、僕はなにもしなかった。ただ、淡々と土地カードを並べるだけだった。背後でひそひそ声が増していった。
「なにしてンだよ、ヒカル」
「ありえねえ。寝てンじゃねぇのか」
 長ランが出してきたたった一匹の妖精に、十回殴られて僕は負けた。そう、これでいい。顔を伏せたまま、カードを集めてシャフルする。前を向いたら、きっ と入口のところで僕を見つめているおねえさんと目が合ってしまう。
「八百長?」
「おい、ざけンなよヒカル」
 無責任に僕をなじる声。椅子の後ろをだれかが蹴飛ばした。吐き気がこみ上げてきた。
「先手やります」
「せいぜい盛り上げてくれよ」と長ランは笑った。
 最初の七枚の手札を引く。土地を出して、なにもせずにターンを渡す。僕を押し包む罵り、せせら笑い、ため息。机の上に、淡々とカードが並んでいく。こん なの八百長ですらない。
 やがて長ランの手勢が攻撃を開始する。
 はち切れそうな手札を抱えながら、僕のライフポイントは少しずつ削られていく。もうギャラリーもなにも言わない。舌打ちとため息だけが聞こえる。
 残りライフ3点。僕のターンが回ってくる。あとはカードを引いて、黙ってターンを返せばいい。僕は踏みつぶされるだろう。そうしたら、嵐の街で溺れよ う。汚水の底でヘドロのように眠ろう。
 最後のカードを引いた。
 そのとき、ぎいいん、と鈍い金属音が響いた。なんの音か、とっさにはわからなかった。二中生たちがそろって立ち上がってそちらを見た。長ランさえも腰を 浮かせて振り向いた。
 店の入口が開いている。
 叩きつけられた金属扉が、いんいんと残響を撒きながらわなないている。四角く切り取られた闇の向こう、緑と黄色のライトの下。
「……沢村」
「さわむー」
 僕とおねえさんのつぶやきが重なる。
 沢村は壁に半身をあずけ、足を引きずりながら扉をくぐった。頭の包帯は右目だけ残してほとんど顔全体を覆っている。店の中に一歩踏み入れたところで、そ の巨体がよろけた。
「さわむー!」
 おねえさんがとっさに支える。
「は。なんだよ沢村。生きてたのか。しぶてぇな」
 長ランが言って、取り巻き達が同じ呼吸であざ笑う。
「今頃来ても遅ぇよ。まあ、なに? おまえが今さらキモい根性見せたところで、どうせ次で終わりだ」
 長ランは僕の方に向きなおり、カードの角で机をかつかつと叩いた。
「おら。さっさとしろよ。なンもできねぇだろ?」
 沢村が、その片方しか見えない目で僕を捉えた。拳を僕に向かって突き出し、親指を下に向ける。
 言葉はなかった。でも、それだけでぜんぶ伝わった。
 手札に目を落とし、相手の手数を確認し、土地の枚数を数える。オールグリーン。もう一度僕は顔をあげる。
 沢村の隣で、おねえさんが僕にうなずいて見せた。
 それから僕は、唐突に思い出す。七月のはじめだ。あの日もこの『セロファン・フラワー』だった。沢村がはじめて僕を殴った、あの日。

 ――なにがあってもね、ヒカル君。

 おねえさんの言葉。
 血の味。
 コーヒーの匂い。

 ――わざと負けるなんてことをしちゃだめだよ。それは、さわむーも、このゲームも、馬鹿にしたことになる。それから、ヒカル君自身も。

 ――はじめてヒカル君を見たとき、ね。わたしに勝つ人はきっとこの子だろうって、思った。

 ――君は強いよ。君ならきっと、あの人にも勝てるよ。

 僕は長ランの顔を見据え、一枚目の手札を使った。
「『強迫』」
「あ?」
 長ランの眉にしわが寄る。
「ンだよ。最後にかっこつけようってか。は。カウンターだ」
 打ち消された。次。
「もう一枚、『強迫』」
「しつけぇな」
 これも打ち消される。
 さらに『陰謀団式療法』。『催眠の悪鬼』。かたっぱしから打ち消される。僕と長ランの手札は一枚ずつ磨り減っていく。
 相手の瞳に映った手札。もう、打ち消し呪文はない。
 五枚目。ここからが本番だ。
「『ヴォルラスの多相の戦士』を出すよ」
 長ランは首を傾げて、僕の手からそのカードを引ったくり、テキストを読んだ。当然だろう。めったに使われない昔のカードだ。
「わかったよ。出せよ。っつーかさっさと終わらせろよ」
 そして六枚目。
「『適者生存』で『怒りの天使アクローマ』を捨てるよ」
 長いランの顔に、驚きの色が浮かんだ。『ヴォルラスの多相の戦士』は、捨て札と同じ生き物に変化する能力を持っている。つまり『怒りの天使』に変身した のだ。
「攻撃。ブロックできないよね」
「おい」
 最後の一枚。
「ダメージが通ったところで『触れられざる者フェイジ』を捨てる」
「おいてめぇ。なにやってンだよ」
「負けだよ」
 長ランが、手札を机に叩きつけて立ち上がった。
「ぁあ? ンだとコラ」
「そっちの負けだって言ってんの」
 触れたプレイヤーを一瞬で敗北させる――『触れられざる者フェイジ』への二段変化。まわりがどよめいた。僕は相手をにらみつけて、言った。
「……出て行けよ。二度と店に来るな」
 声が震えているのが自分でもわかった。長ランの眼がすうっと細められるのまでは憶えている。
 飛んできた拳は見えなかった。えぐられた頬の痛みよりも先に、身体が浮いて、後ろの机に叩きつけられるのを感じた。
「なめンなコラぁ!」
「死ねガキ!」
 怒声と、甲高い金属音がいくつも重なった。暗い天井にパイプ椅子が振り上げられた。固く冷たい感触が僕の脇腹に突き刺さった。這いつくばり、床を鼻血と よだれで汚す。死ぬ気でひじを突っ張って、身体を床から引きはがした。
 まぶたの間に血が流れ込んでくる。狭い視界の中、突き上げられる拳、砕ける蛍光灯、まっぷたつに割れた長机。五、六人に囲まれた沢村の長躯が倒れてガラ スケースのカウンターに突っ込み、派手な破砕音におねえさんの悲鳴が混じる。
「ぁ……ぁぁあああああっ」
 僕の悲鳴だったかもしれない。なにもかも真っ赤に染まる。壊れた机を跳び越え、二中生たちの中に頭から突っ込んだ。
「ンだこのクソがぁっ!」
 襟首をつかまれた。背中に太い杭みたいな衝撃が打ち込まれる。絶対倒れるものかと、相手の学ランにしがみつき、爪を立てた。ひざ蹴りで腹を突き上げられ た。ガラスの破片にまみれてうずくまる沢村。その向こう、青ざめたおねえさんの顔。
 そこが限界だった。
 身体をくの字に曲げ、胃の中身をぶちまけた。生温かい胃酸で濡れた口から。僕の意識がずるずると漏れ出ていった。
 最後に憶えているのは、遠く上の方から聞こえるサイレンの音。
 僕は気を失った。





       9

 僕の残りの夏休みは、ベッドの上で使い潰された。
 両親にはほとんどすべてがばれた。賭事をしていたことも、不良同士の争いに巻き込まれていたことも。そして僕のカードはみんな取り上げられて庭の樹の肥 やしになり、八月の後半を僕はベッドに縛りつけられて過ごした。何度か夜中に家を抜け出そうとしてみたけれど、いつも母親の病的な監視網に引っかかって失 敗した。
 八月の終わり、貴子が見舞いにやってきた。
「あの店、潰れたよ」
 僕はベッドから飛び出した。まだ腫れの引いていない足をテーブルにぶつけて、声をつまらせてうずくまる。
「なにやってんのヒカル……。もう」
「なんで潰れたのっ?」
「なんで、って……。だって警察にあれだけ色々ばれちゃったし。店の人も行方不明」
 行方不明? おねえさんが?
「あと、あのビル取り壊されるって。さっき駅の近く通ったら、工事始まってた」
 僕は部屋を飛び出した。
「ちょっとあんた。どこ行くの」
 玄関で母親に呼び止められるのも無視する。貴子の足音が階段をどたどた下りてくる。
「ヒカル! 出歩いちゃだめだって、怪我人なんだから!」
 パジャマのままサンダルをつっかけ、家を出た。自転車にまたがる。
「待ってよヒカル!」
 貴子の声を吹っ切るように走った。坂を下り、川を渡る。パジャマの裾が風ではためいた。すれ違う人がみんな振り向く。笑う人もいる。
 商店街の入口で、大型トラックに追い越された。黄色と黒の柵が道の向こうに見える。息を切らしてペダルを踏んだ。パジャマは汗で手足にはりついた。
 『セロファン・フラワー』のビルは白いシートで覆われていた。集まった工事車両の間に、ヘルメットをかぶった作業着姿がいくつも見えた。
「おい。立ち入り禁止だよ。危ねぇぞ」
 日焼けした顔に無精ひげの中年の作業員が、僕の肩をつかんだ。
「あのっ、今日、取り壊すんですか」
「ん? ああ、そう。だからあっち行けっての」
「ここの地下に入ってた店は?」
「店? 知らねぇよ。もう中にはだれもいないに決まってンだろが」
「でも……」
 そのとき、確かに聞こえた。
 かすかにワウの混じった鮮烈なギターリフ。
 足下から。地面の、深いところから聞こえてくる。
「中に、だれか」
「あ?」
「音楽が聞こえる。中にだれかいるんです」
「は? 聞こえねえよ。頭大丈夫か? っていうかなんだよ、病院から逃げだして来たのか?」
 作業員は笑って、僕の肩を突き飛ばした。
 僕は男の脇をすり抜けて、ビルの入口に走った。
「おいコラ! 馬鹿かてめぇ!」
 ショベルカーのかげから出てきた二人とぶつかりそうになった。
「なんだおい?」
「だれかそいつ止めろ!」
 地下への階段に飛び込んだ。ひやりと湿った空気。階段を一段下るたび、腿の筋肉やひざの関節がずきずきと痛んだ。
「おい小僧! 一緒に潰されてぇのか!」
 無数の足音が追いかけてくる。痛みで足の感覚が麻痺して、止めようがなくなった。踊り場にさしかかるたびに正面の壁に激突しそうになる。三階分下ったと ころで、地上からの光はすっかり遮られ、僕は暗闇の中を泳ぐように走った。音楽は今や、ベースラインまではっきり聞こえる。ヴァン・ヘイレンだ。
 緑と黄色のライトは消えていた。だから、鉄扉に鼻をぶつけそうになってしまった。鍵はかかっていない。
 開ける。右手にかすかに明かり。バックルームのドアだ。漏れだした光で、店の中がうっすらと見える。机もカウンターもきれいに片づけられていて、なにも ない。打ち放しのコンクリートの床と天井だけだ。ここはもともと駐車場だったのじゃないかと僕は気づく。
 バックルームに入った。
 壁を埋め尽くしていた段ボール箱はきれいさっぱり消えていた。ソファもない。こんなに広い部屋だったのか、と僕は驚く。
 部屋の奥の壁に、事務机だけが残っていた。ライトスタンド、CDラジカセ。あの夜と同じ"Humans Being"。
 ライトスタンドの足下に、カードが一枚置かれていることに気づいた。M:tGのカードだ。裏向きになったそれを、僕は取り上げて表返した。ベッドに横た わって微笑む女性が描かれている。カードの名前は『シャーラザード』。はるか昔の、まだM:tGがフランクなテーブルゲームだった頃の遺物だ。
 シャーラザード。
 夏の夜の、夢語り。
 カードの下の余白に、メッセージが書いてあった。

 『ヒカル君へ。 和泉サクラより』

 僕は今までおねえさんの名前すら知らなかったのだ、とそのときようやく気づく。僕はカードをひっくり返して、まだなにか書き記していないか探した。で も、それだけだった。
 ぜんぶ夢の中に押し込んで、目が覚めたら忘れなさい。
 おねえさんがそう言っている気がした。
 背後でドアが乱暴に開かれる音がして、足音が部屋にいくつも入り込んできた。
「お! いたいた! 困るンだよあんた、勝手に入ンなよ! わかってンのか?」
 肩をつかまれる。僕はなにも言わない。ただ立ちつくす。作業員たちは毒づき、中の一人など僕の頬を平手で強くはたいた。そして三人がかりで僕を地下室か ら引きずり出した。
 僕は商店街のアーチの下に立ち、廃ビルに鉄球が打ち込まれる様を眺めていた。コンクリートがはがれ落ちて鉄骨がむき出しになり、粉塵がもうもうと空に立 ちのぼるのを見ていた。耳の中でヴァン・ヘイレンはまだ鳴り続け、サミー=ヘイガーの歌声が虚ろに聞こえていた。

 Shine on, shine on.......















       断章

「じゃあリーチだ」
 僕の上家に座っているバーコード禿のサラリーマンが、九索を卓に叩きつけ、千点棒を放った。
「お兄さんの五連勝は阻止しなきゃな」
 僕の方を見てにやにや笑い、おしぼりであごの下をぬぐう。
 金曜日の夜で、雀荘は満席だった。フリーの卓が五卓立ち、残りの卓もセット打ちで埋まっている。店内には煙草の煙とカレーの匂いと牌を混ぜる機械音が充 満していた。僕のすぐ後ろの卓で、大学生らしき四人が字一色イーシャンテンで大はしゃぎしている。
 僕は引いてきた二筒を即座にツモ切りした。
「お。強いねえ。はってンの?」と対面の不動産屋。
「二人して打ち合ってくれよ。俺は寝てるよ」
 下家の若い長髪の男が言って、二筒を手出しで合わせ打った。でも僕にはそれが三味線であることがわかる。ペン三筒の待ちから都合良く一筒と字牌のバッタ に変化したのだ。
 次順、僕が場に二枚切れの〈北〉を引いたとき、店のドアが開いてミヤコが入ってきた。
「いらっしゃいませー」
 店員が機械的に声を出して、おしぼりをミヤコに渡そうとする。
「あ、ごめんなさい、やりに来たわけじゃないんです。えっと。あ、いたいた」
 ミヤコは僕を見つけて手を振ってくる。
 今日の収入を数えてみた。潮時らしかった。
 手牌から一筒を捨てる。長髪が嬉しそうに「ロン」と叫んで手牌を倒した。
「安め。ザンニーの一枚。リー棒入るから三着かな」
 これで半荘終わりだった。僕はトップの不動産屋から二着ぶんのもらいを受け取ると、さっさと席を立った。
 預かり料を返してもらうとき、雀荘の店長が小声で言った。
「あの北が止まって一筒が差し込めるなんて、やっぱあんた、牌が透けて見えてるんだねぇ」
「たまたまですよ」
 僕は素っ気なく答えた。
 ミヤコと一緒に店を出ると、もう街はネオンで埋まっていた。黒服にウィンドブレーカーを羽織ったキャバクラの呼び込みが通りに並んで通行人に片っ端から 声をかけている。パチスロ屋の前には貧相なシャツとルーズなハーフパンツ姿の若い男達がたむろして、煙草をふかしながらかわりばんこに自動販売機を蹴飛ば している。飲み屋の入口には大学生らしき一団。
「どこ食べ行く?」と信号待ちの間にミヤコが訊いてきた。
「叙々苑まだ開いてるかな」
「まだ平気っしょー。焼き肉久しぶりだなー」
 ミヤコは僕の腕に腕をからめる。信号が青に変わる。ポケットで携帯が震えた。着信を見ると、ジュンからだった。
「はい」
『あーもしもしーあたしー。今どこー? さっきまでハナとかちぃちゃんとかと呑んでたんだけどー、なんかみんな明日用事あるらしくてー』
「高田馬場。あー、でも今日は」
 ミヤコの横顔をちらりと見る。目が合ってしまう。
『あーなにーもうお帰りモード? なら今からヒカルん家に遊び行ってもいいー?』
「今日はちょっとだめなんだ。ごめん。またね。明日電話するよ」
 返事を待たずに切る。ミヤコは僕が携帯をしまうのを待って、「やっぱヒカルの部屋行こうか」なんて言い出す。


 マンションの入口で、顔見知りの女性とすれ違った。ひとつ下の階の部屋に住んでいる奥さんだった。「こんばんは」と小声で言うと、上品な会釈が返ってき た。
 鏡張りのエレベーターに乗ってすぐ、ミヤコが言った。
「ほんと、このマンションってセレブだよねえ。二十四歳で自前で家賃払ってるのなんて、ヒカルぐらいじゃないの?」
「かもね」
「雀ゴロだって知ったら、さっきの奥様とか失神するかもね」
 少なくとも挨拶はしてくれなくなるだろうな、と思う。
 僕の部屋は十六階にあった。新築のマンションで、同じ階の入居者はまだ僕しかいなかった。だから、暗い廊下に座り込んでいるその小さな人影を見つけたと き、僕は思わず後ずさってしまった。ミヤコも息を飲んで固まった。
 人影は、僕の部屋の玄関の前に座っていた。立ち上がると、廊下の照明で顔が見えた。
 少女だった。小学校低学年くらいだろう。水色の薄手のワンピースから、すらりとした手足が伸びている。肩まで伸びた髪は、しっとりした栗色だった。
 少女と目が合った。僕は不意に、激しい既視感に襲われた。僕はこの少女を見たことがある。よく知っている気がする。この鳶色の瞳で見つめられた記憶があ る。
 どこで? いつどこで出会ったのだろう?
 少女が口を開いた。
「あなた、ヒカル、でしょ?」
「……だれ?」
 僕の言葉に、少女は少し哀しそうな顔をした。
 胸のポケットから、なにかを取りだして僕に差し出す。
 一枚のカードだった。白い枠で縁取られたアラビアの夜。月光の照らすベッドに身を横たえ、微笑む『シャーラザード』。
「見せればたぶん思い出すって、ママが言ってた」
 少女の言葉で、僕の中のなにかが決壊した。記憶が洪水のようにあふれ出した。『セロファン・フラワー』。M:tG。灰になったカードたち。十四歳の夏。
 それから、おねえさん。
「あの人の……子供? 君が?」
「わからなかった?」
 いつの間にか少女の視線が僕と同じ高さにあった。僕は『シャーラザード』を握りしめて、しゃがみこんでいたのだ。
「あたしはすぐにわかったよ。あなたがあたしのパパだ、って」
 僕は呼吸すらできなくなった。身体の内側から音を立てて亀裂が広がっていくみたいだった。少女は僕の顔に額を寄せて、言った。
「お願い。ママを助けて」


(第2章に続く)



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