翼の名前

 カタカタカタカタと乾いた音が寝室に充満していた。ぼくはベッドに腰掛けて、その騒音と、階下から漂ってくる香油のきつい臭いに顔をしかめながら、遅い 朝食をとっていた。
 いつもは骨を思わせる部屋いっぱいの木製の模型たちが、今日はみんな動いていた。ニナおばさんが今朝、可動部分という可動部分に油を差してぜんまいを巻 いたからだ。
 ろばくらいの大きさのオーニソプタ(羽ばたき飛行機械)が左右の翼をくゆらせている。違い棚にボルトで固定された複葉機の模型がプロペラで弱い風を送っ ている。天井から紐で吊られた小さなヘリコプタが、ゆるやかな楕円を描いて部屋を行き来している。
「エスタ!」
 ニナおばさんがドアから顔を出した。
「あんたまだ食べてんの? そろそろ出るから早く支度しなさいよ」
「ねえ、なんでこいつら動かしてるの。うるさくってしょうがないよ……」
「なに言ってるの。あんたのお父さんの形見でしょうが、みんな。年に一度くらい、油でも差して動かしてやらないと錆びちゃうでしょ。それより、ほら。カワ フタ着て。もう香油はかけてあるから」
 そう言うニナおばさんは、すでにカワフタを着ている。カワフタというのは黒く染めた麻の貫頭衣のことで、なにかまじめな催し物があるときには香油をしみ こませたこの服を着るのがこの地方のならわしだ。冬至祭とか、初漁式とか。
 葬式とか、墓参りとか。
「べつにぼく行きたくないよ。おばさんだけで行ってきてよ」
「あんた毎年そう言うね。罰当たりなんだから。あんたのお父さんでしょうが。いい? 死んだ人を粗末にするとね、ろくな大人にならないんだよ」
「あんなやつ、父親なんかじゃ……」
 突然、目の前が真っ暗になった。香油の強烈な甘い匂いが頭を包んだと思ったら、脳天にがつんと衝撃が落ちてきて、星が散った。かじりかけの黒パンを床に 落としてしまった。
「ほんと罰当たりなんだから!」
 ニナおばさんが、カワフタをぼくの頭にかぶせてその上から殴ったのだ。
「あのねえ! 村の連中がどんな噂しようとあたしゃ気にしないよ! でもあんたは家族だったんでしょうが。あんたまでそんなこと言うなんて……」
 ぼくは頭のこぶをさすりながら、しぶしぶカワフタを着た。まあ、カワフタはまだいい。
「はい。あんたはこれ、つけなさい」
 ニナおばさんが差し出したのは、ひびの入ったごついゴーグル。
 父の遺品だ。
「どうしてもつけなきゃだめ?」
 ニナおばさんの目がみるみるつり上がる。ぼくはあわててゴーグルを首にかけた。かすかに潮の匂い。
「なんでこんな目立つのつけなきゃいけないの。ベルトとか靴とか、目立たないやつでいいじゃん……」
「目立つ遺品じゃないとだめなの。だれの墓参りに行くのかひと目でわかるようにつけてるんだから」
 まったく、こんなならわし、だれが決めたんだろう。
 ニナおばさんは父の潜水帽をかぶっている。カワフタとの組み合わせはひどく間抜けに見える。髪の毛をつけわすれた人形みたいだ。
「じゃあ、行くよ」
 ニナおばさんは階段を下りていった。
 ぼくは床の黒パンを拾って口にくわえながら立ち上がる。ちょうど旋回してきたヘリコプタがこめかみにぶつかった。
「いっ……たぁ……」
 頭をおさえてうずくまる。
「エスタぁ! なにしてんの、早く!」
 階下からおばさんの声、
「今行くよぅ」
 ぼくは二つ目のこぶを手で押さえながら立ち上がり、部屋を出ようとして、ふと振り向いた。
 いつもの錯覚だ。父の命日にだけ動く飛行機の模型たち。その羽ばたきや回転音を聞いていると、ぼくはきまってこの幻にとらわれる。
 模型たちが地を蹴って、空に飛び立つ光景。
 ただの錯覚だ。
 推力を失ったヘリコプタは、死にかけの虻みたいに宙をよろよろしている。羽ばたきの音は、ぜんまいのゆるみにつれて眠たげに低く間延びしていく。
 模型はボルトで、紐で、万力で、縛りつけられている。それに、こんなおもちゃが空を飛べるはずがない。
 残骸だ。


 家を出て、岬へ続く道の途中で、さっそく近所の子供たちに見つかった。ぼくはニナおばさんのかげに隠れるように歩いたのだけれど、やつらは目ざとく、ぼ くに声をかけてきた。
「よぉ、エスタ。また親父のゴーグルぶらさげてんのか。そろそろ親父のあと継いで詐欺師になンのか?」
 真ん中の太っちょが言って、後ろの四人がげらげら笑った。ぼくはうつむき、歯を食いしばり、指が折れるくらい握りこぶしに力をこめた。
「ほっときな。カワフタ着てんだから、ばかなことするんじゃないよ。罰が当たるよ」
 おばさんが前を向いたまま小声で言った。
 やつらはいっそう声高に、
「二人だけじゃしめっぽいだろ。おれたちも一緒に行ってやろうか」
「供えの酒はねぇけどよ。ちょうど、おれションベンしたくてたまらねえんだ」
 肩をわななかせながら、ぼくはそいつらの前を通り過ぎる。


 父の話をしよう。
 父はほとんど非の打ち所がないくらい完璧によそ者だった。帝都の出身というだけでも充分なのに、そのうえ父は学院の研究室に籍を置く考古学者で、おまけ に子爵家の四男坊だった。
 十六年前に父がこの漁村にやってきたときの村人たちの驚きようといったら、はぐれ大海蛇が発見されたときみたいだった。そうニナおばさんは語る。
 父は遠縁のニナおばさんを頼ってこの村にやってきて、住みついてしまった。長年の研究の結果、かつて栄華を誇った有翼人たちの遺跡が、この村の沖合に沈 んでいることがわかったのだという。
 なにしろ貴族の息子だというので、当時の村長が色気を出して、自分の娘を使ってなにくれとなく世話を焼かせた。村長の下心は見事に効を奏して、つまりこ の村長の娘というのがぼくの母親だ。二人の婚約が公になったとき、父は村の若い男たちの恨みをずいぶん買ったという。
 父が村に移り住んでからたったの一年半で二人は結婚し、その年の暮れにはぼくが産まれていた。
 子爵家から資金がざばざば出たので、父の事前調査も順調に進み、あっという間に村じゅうから人手が集まって、引き揚げ作業が始まった。発見されれば多大 な技術革新がどうのこうのという話なので、調子に乗って村長も出資した。
 崩壊は唐突だった。
 父やその他多数の作業員を乗せたサルベージ船『イスタシス号』は、沖で時化にあって沈没した。帰還者ゼロ。
 母は周囲の制止を振り切って捜索のために嵐の海へ船を出し、父の後を追って帰らぬ人となった。
 ちょうどその頃、まるで意地の悪い神様がタイミングをはかったみたいに、父の実家である子爵家が破産した。そのあおりを食ったのか、数日後には村長一家 が夜逃げした。
 そのあと帝都から派遣されてきた学院の人たちとかお役人とか借金取りとかの口から、真相が明らかになって、村の人たちは激怒した。確かに父は学院の研究 員だったけれど、引き揚げ作業は学院で認められないままの父の独断専行だった。だいいち有翼人の存在そのものも偉い学者さんたちの間ではまだ認められてい ないのだという。
 こうして父は詐欺師になった。きちんとした葬式も、母のぶんしか行われなかった。父の葬式はニナおばさんがひとりでひっそりと済ませたらしい。
 この話を聞いてぼくは、ほんとうに大人ってばかだなあと思った。
 だって、大昔に、羽根のはえた人間が空に浮かんだ街で暮らしてたなんて、だれがどう聞いてもただのお伽話だ。人が空を飛べるはずがないじゃないか。
 そんな駄法螺をふくような男と結婚しちゃう母もばかだし、夜逃げしなきゃいけないほどお金を出しちゃう村長もばかだし、信じて手伝った村の人たちもばか だ。
 母はそんな詐欺師を追いかけて死んじゃったから、まだいい。
 かわいそうなのは、残されたニナおばさんだ。あの詐欺師が村にやってきたのはニナおばさんのせいだと、いまだに陰口をたたかれている。


「――なんで、あんなやつの墓参りに」
「なんか言ったかい?」
 隣を歩くニナおばさんが聞きとがめる。ぼくはあわてて首を振る。
「そら、しゃんとして、前を向いて歩きな。カワフタを着てるときはね、一歩一歩がお祈りの言葉と同じなんだよ」
 おばさんは手に持った白百合の束でぼくの頭をなでた。
 それからぼくとおばさんは、黙ったまま坂を上りきった。
 道が途切れ、青々とした叢海が広がる。潮風にさんざめく草原はうねりながらなだらかな斜面を滑りおり、彼方の海に同化している。どこかに草原と海の境界 である崖があるはずなのだけれど、高台からぼんやりとその茫洋とした景色を眺めていると、どこまでが陸でどこからが海なのかわからなくなる。
 この景色だけは気に入っていた。
 草のうねりの中に、ところどころ真っ白な岩が突き出ている。波に洗われる孤島を思わせるシルエット。
 近寄ってみると、滑らかに磨かれた表面と幾何学的な外周とで、あきらかに人工物だとわかる。岩は直線上に列を成していたり、円を描いて並んでいたりす る。
 確かにこの地方には遺跡が多い。村の人たちがだまされてしまった原因の一つだ。それらの柱には、翼のある人間や翼のある船が描かれていたりもする。
 これも、ただの残骸だ。
 柱のうち、いちばん岬の突端に近いやつが、父の墓だ。正確に言うと、ニナおばさんが勝手にそう決めた。死体もないし、ちゃんとした葬式も出せなかった し、村の墓地に墓を作ることも認められなかったから。
 膝丈に生い茂った波立つ草をかきわけてしばらく斜面を歩くと、やがて地面が平らに落ち着き、岬の輪郭が海から持ち上がって見え始める。崖の際、草がまば らになった岩場に、わずかに斜めに傾いだひときわ背の高い柱がある。
 父の墓だ。
「あれ?」
 柱の前に、人影が見える。
「おばさん、墓んとこにだれかいるよ」
「へえ? あたしには見えないけど」
 村の男は総じて遠目が利く。船乗りの血のせいらしい。ぼくも例外ではなかった。遠すぎて男か女かもわからないけれど、だれかが墓の前に立っている。
「まさか、あたしらの他に墓参りに来るやつがいるわけでもないだろうし」
「墓参りじゃないよ、たぶん。だってカワフタを着てない」
 人影は白っぽいかっこうをしていた。
 ぼくの足は好奇心で速まった。村の人たちは父の一件以来、遺跡を忌み嫌っているので、岬の近くで人を見かけたことなんて一度もなかった。
「ほんとだ。だれかいる。村の者じゃなさそうだけど……」
 と、おばさんもぼくにつられて早足になる。


 先客は、女の子だった。
 女の子は柱に向かって、つまりぼくたちに背を向けて立っていて、栗色の長い髪と真っ白なスカートのすそが潮風にあおられて音をたてるくらいはためいてい た。
 柱の前には、白い花が散らばっている。そして女の子の足下には分厚い本が数冊、ベルトでしばられて置いてあった。
 足音に気づいたのか、女の子が振り返り、ぼくと視線があった。
 思わず、目をそらしてしまった。
 彼女は――ひとことで言って、まぶしかった。真っ白な服なんてそのとき生まれてはじめて見たし、まったく日に焼けていない肌は透き通るようだった。背丈 から言っても、たぶん歳はぼくと同じくらいだと思うけれど、ひどく大人びて見えた。
「あんた……」
 おばさんが、最初に口を開いた。
「村の者じゃないね。なにしてんだい、こんなとこで……」
「あのう、ひょっとして」
 女の子は風になぶられる髪を手で押さえながら、言った。
「あなた方もエルベル・ファビウス先生の、お墓参りに?」
 その名前を聞いて、ぼくは身を固くした。父の名前なんて、久しく耳にしていなかった。こうして知らない人間の口からその名前が出ると、貴族っぽい響きが ひどく嫌味ったらしく聞こえる。
「あんた、エルベルのこと知ってるのかい」
「ええ! それはもう!」
 女の子の顔がぱっと輝いた。もののたとえでなく、ほんとうに光をまきちらしたようにぼくには見えた。
「わたしの兄が、先生の教え子だったんです。先生の書かれた本はみんな読みました。今はわたしも、先生のいた学院の同じ研究室にいるんです。先生はわたし の憧れなんです。特に、有翼人文明発祥に関する考察は緻密で、でも大胆で……」
「ちょっと、あんた。黙っとくれ」
 ニナおばさんがぶっきらぼうにさえぎった。
「このかっこう見てわからないのかい。あたしらは墓参りに来たんだよ。まずそっちが先だよ」
「あっ、ご、ごめんなさい」
 女の子はぴょんと柱の脇に飛び退いた。
 おばさんは手に持った百合の花を半分ぼくに手渡した。ぼくは女の子に姿を見られないように、おばさんの左側に回った。
 百合の花を半分に折り、またそれを半分に折り、手のひらでもみ潰す。それを柱にこすりつけ、円を描き、その円を半分に断ち切る縦の線を引く。
「ヤスタスファ、カスケデュゥスタ、エヌモミエッラ、イスタシシカァ」
 おばさんが村に伝わる弔いの言葉をつぶやく。ぼくもそれにあわせて、うろおぼえなその言葉をたどる。
 それから、黙祷。
 毎年、この黙祷の時には、海のどこかに沈んでいる父に向かって頭の中で考えつくかぎりの罵声を浴びせていた。でもその日は、すぐ横にいる女の子のことで 頭がいっぱいだった。
「変わった風習ですね、お花を潰しちゃうなんて……」
 女の子が訊いてきた。
「相手は死人だからね。花だって死なせてからくれてやらなきゃ、向こう側に届かないだろ」
 手ぬぐいで手を拭きながらおばさんが答えた。それから、足下に散らばった花に目を落とし、
「この花、あんたが摘んできたのかい」
「ええ」
「これも潰しちゃうよ。そういう決まりだからね」
「あの、でしたら」
 女の子は手早く花をかき集めて拾い上げた。
「わたしに、やらせてもらえませんか」
 ぼくは面くらい、おばさんの顔を見上げた。おばさんもあっけにとられている。
「潰して、丸を描いて、真ん中に棒を描けばいいんですよね?」
「ああ。いや、よそ者にやらせることじゃ……」
 女の子の顔がはっきりわかるくらい曇った。おばさんは口ごもり、それからため息を吐き出した。
「わかったよ。エルベルを弔っとくれ」
「いいの、おばさん。カワフタも着てないのにそんなことさせて……」
 ぼくが小声で文句をつけると、
「うるさいね。わざわざエルベルのために都から来てくれたんだよ」
「ありがとうございます」
 女の子が微笑むので、また光が散らばった。
「うん、そう。よく潰して。丸は右回り、線ははみ出さないようにね。それから、『ヤスタスファ、カスケデュゥスタ、エヌモミエッラ、イスタシシ カァ』……」
「ヤスタスファ、カスケデュゥスタ、エヌモミエッラ、イスタシシカァ」
 女の子はよどみなく弔いの言葉を繰り返した。そして、
「……我ら常闇の尾の縁に、汝ら業亜の翼の腹に」
「なんだい、それ」
「この、弔句の意味です」
 目を閉じたまま、女の子は答えた。
「へえ。意味なんてあったのかい」
「ええ。これは失われたエネリッシュ、つまり有翼人文明の言語です。ファビウス先生の後を引き継いだ学生たちによって、この言語を持った民族がかつて広域 に文明を築いていたことが明らかになっています」
「死んでからも人をだましてんだ、あいつ」
 ぼそりともらしたぼくの言葉を、おばさんは聞きとがめた。
「エスタ。墓の前でまでお父さんを悪く言うんじゃないよ」
「……エスタ?」
 女の子のまんまるの瞳が、ぼくを見つめた。ぼくはおばさんの背に隠れた。
「イスタシス・ファビウスさん? 先生の息子さんの?」
「なんだい、この子のことも知ってるのかい」
「わぁ! お会いできて光栄です!」
 女の子はぱっとぼくの目の前に回り込むと、ぼくの両手を取ってぶんぶん振った。彼女の手はびっくりするくらい冷たかった。あるいはぼくの手が火照りすぎ ていたのかもしれない。
「先生の最初の本、『航空随想』の献辞に、エネリッシュ文でこう書いてあるんです。『我らが子をなしたとき、イスタシスと名付けよう。これは……』」
「やめろよ」
 ぼくは彼女の手を振り払った。
「知ってるよ。ぼくが小さい頃、あいつが何度も何度もしつっこいくらい教えてくれた。エスタのエネリッシュ読みだろ」
「そうです、『翼』っていう意味です。イスタシス。素敵な名前」
「二度とその気持ち悪い名前で呼んでみろ。ぶっとばしてやる」
 もう少し柔らかい表現で、普段通りの声色で言うつもりだった。でも、出てきたのはそんな低い声だった。
 女の子が青ざめた。
「エスタ! なんてこと言うんだい」
 おばさんがぼくの頭をはたいた。さっきのこぶに直撃。ずきん。
「痛いな、もうっ」
「お父さんがつけてくれた名前だろ! 気持ち悪いとはなんだい!」
「気持ち悪いよ! あいつと一緒に沈んだ船の名前と同じじゃないか!」
 言葉が、堰を切ったようにあふれ出た。
「ぼくが一緒だと船が沈むとか言われて、釣りにも連れていってもらえないんだ! おばさんだって、詐欺師の親戚って呼ばれて迷惑してるくせに!」
 一言ごとに、おばさんの顔がかげっていくのがわかったけれど、自分でも止めようがなかった。
「なんで、毎年こんなやつの墓参りしなきゃいけないんだよ。昔人が空を飛んでたなんて法螺話で金集めて人集めて、うさんくさい本まで出して――」
 おばさんが握りこぶしを振り上げた。ぼくは反射的に両手を持ち上げて頭を守ろうとした。
 ぱん、と小気味よい音がして、頬に火がついた。
 その平手打ちは、まったく予想しない方向から飛んできたものだった。ひっぱたいた女の子自身が、まるで信じられないといった顔で、真っ赤にはれた自分の 手とぼくの顔を交互に見つめていた。
「あっ、あのっ、ごめんなさい、でも、あの」
 加害者のくせに、彼女はほとんど泣きそうになっている。それを見て、ぼくの中のなにかどす黒いものがふくれあがる。
 なんだこれは。
 なんでおまえが泣いてるんだ。
「先生を、ぶっ、侮辱しないで、ください」
 目の奥が熱い。
 出てきそうななにかを抑えようとして、ぼくは柱を思いきり蹴りつけた。
「エスタっ! なんてことするんだい!」
 おばさんがぼくの両肩をつかんだ。
「うるさいな! はなしてよ!」
 ぼくは自分でも信じられないくらい乱暴にその手をたたき落とした。「なんだよ、こんなの!」
 首から遺品のゴーグルをむしりとると、ぼくはそれをあらんかぎりの力で柱のむこうに――海にむかって投げた。
「エスタぁっ! このばか!」
 ぼくは柱に唾を吐きかけると、もときた道を走りだした。おばさんの声が追いかけてくる。急に強まりはじめた海へ吹き下ろす風が、その声を散り散りに吹き 飛ばす。
 深い草の斜面を一息もおかずに駆け上がり、今の一部始終をあの女の子はどんな顔で見ていたのだろうかと急に気になり、振り向こうとしてためらい、震えて いる自分のひざを殴り、そのまま村に続く砂利道をまた走りだした。


 ぼくが家に戻ったのは、日暮れ間近だった。
 先に家に帰っておばさんを待っているのも気まずいので、海岸をぶらついていたのだけれど、帰るふんぎりがつかないままにこんな時間になってしまった。
 陽が傾くにつれて真っ黒な雲が空にたれ込め、沖の方でときおり雷鳴が轟くようになり、しかたなくぼくは家路を急いだ。この地方は三日にいっぺんくらい決 まって天気が荒れるのだ。
 玄関の前に立つと、中からはシチューの美味しそうな匂いがした。
 おそるおそる扉を開けて、なるべく音をたてないように中に入る。
 おばさんは台所にいた。こっちに背を向けたまま、抑揚のない声で、
「おかえり、エスタ」
「あ、あのっ。ただいま」
「もう晩飯だよ。皿並べとくれ」
「はぁい……」
 食器棚のところに行く。意味もなく忍び足になってしまう。
「あの。さっきは、ごめんなさい」
 皿を差し出しながら、小声で言ってみる。
「そのことは、後でね。とりあえず飯にしよう」
 おばさんは鍋から皿にシチューをよそうのだけれど、まだぼくの顔を見てくれない。
 怒ってるんだ。当たり前だけれど。
 黙ってしまうと、気まずさがふくれあがるような気がして、
「あの、おばさん、あの女の子はどうしたの。……怒ってた?」
「そこにいるよ」
「あ、お邪魔してます」
 勝手口からひょいと顔を出したのは、確かにあの女の子だった。濡れた手をエプロンで拭いている。
 たぶんその時のぼくの顔は激しく間抜けだったと思う。
「ちょっとエスタ! シチューこぼれるよ!」
 おばさんに言われるまで、手に持った皿が傾いていることに気づかなかった。足に熱いシチューがこぼれ落ち、ぼくは飛び上がった。


 三人での食事なんて、もうほとんど記憶にないくらい久しぶりだった。ぼくはしじゅう押し黙ってパンをかじりシチューをすすっていた。ニナおばさんは、そ れはもうよく喋った。
「じゃあ、イーシャちゃん、山むこうからこの村まで歩いてきたってのかい。峠のあたりは道がきつかったろ」
「ええ。帝都からの馬車はあそこの街どまりですから。クラスメイトとよく山に遊びに行くんです。別荘を持っている人がいるんですよ。泊まりがけで、山でと れたものを料理したりして……。だから山歩きは慣れてるんです」
「へえ。どうりで山菜の扱いが上手いんだね。あたしが作るより美味しいよ、これ」
 あんなスカートひらひらのかっこうで、山歩き慣れているもないもんだ、とぼくは思う。
 イーシャと名のった女の子は、品の良い手つきでパンを少しずつちぎって口に運びながら――パンってのは口でちぎるものだと思っていたけれど――ニナおば さんと談笑している。
 ひどく居心地が悪かった。
 だいたい、なんでこの女の子はうちで晩ご飯を食べてるんだろう?
「……エスタ。ちょっとエスタ。あんた聞いてるの?」
 おばさんの手がぺちんとぼくの額に触れた。
「え。あ。なに」
「イーシャちゃんに謝っときなさい。あんなひどいこと言って」
「いいんです、ニナおばさま」
 イーシャはぼくの顔をちらりと見て、すぐに視線をそらした。
「ファビウス先生は、学院でもあまり良く言われていません。わかっていました。でも、その、イスタシスさんの口からあんなふうに言われて、ついかっとなっ てしまって……」
 女の子の上目遣いがほとんど暴力的な圧力を持っていることを、ぼくはこのときはじめて知った。
「ごめんなさい」
 なにも言えなくなって、パンの切れ端でシチューをかき回す。
「でも、でも、先生は、ちゃんとわたしたちに遺してくれたんです。まだ学会では認められていませんけど、これまでに発見されたエネリッシュの文書もぜんぶ 学生の有志が解読したんですよ。それで、判明しました。やっぱり先生は間違っていなかったんです」
 イーシャの声は、同じテーブルのぼくとおばさんではなく、どこか遠くの人に語りかけているように聞こえた。目も、見ているのは、たぶん海のむこう。
「この村の沖に、有翼人の都が沈んでいます。いくつもの古文書の記述が一致してその場所を示しています。わたしは、それを発見して、先生の汚名をすすぐた めに、来たんです」
 余計なお世話だ。
 よっぽどそう言ってやりたかった。
「発見する、って、まさかあんた。海に潜るつもりじゃないだろね」
「ええ! もちろんそのつもりです! 潜水訓練も受けてきたんですよ」
 おばさんが露骨なあきれ顔を見せる。
「悪いこと言わないからやめときな。このへんの海域はね、魔物が棲んでるんだから。しょっちゅう嵐雲が集まってきて時化るし、平海なのに渦はできるし」
「でも、普通の海では考えられないくらい色んな種類の魚が集まってくるんですよね? だから、漁場としては素晴らしいって」
「よく知ってるね。エルベルの本にでも書いてあったのかい」
「はい。ですから、やっぱり先生の推論は間違ってなかったんです」
 なにが『ですから』なのかさっぱりわからない。
 ぼくはもうそれ以上その場にいたくない思いで、残りのシチューをかきこむと立ち上がった。
「ごちそうさま」
「エスタ。あんたの部屋、片づけときな。イーシャちゃんを汚い部屋に寝かせるわけにはいかないだろ」
「ええ?」
 ぼくと、イーシャの声が重なった。
「それ、どういうことだよ?」
「だって、あんたの部屋のベッドがこの家じゃ一番ましな寝床だろ」
「そんな、夕食いただいたうえに、泊めていただくわけにはいきません」
「なに言ってんのイーシャちゃん。だいたいあんた、ねぐらはどうするつもりだったのさ?」
「ですから宿に……」
「宿なんてあるわけないだろ、こんな田舎に。だいいち、この雨じゃ外歩かない方がいいよ」
 おばさんの言うとおり、雨戸は風と横殴りの雨とでやかましく鳴っている。
「あのぅ、でもそれ、やっぱりまずいんじゃないかな……」
 ぼくはしどろもどろに口をはさむ。
「だって、一緒の部屋で、っていうのは……」
「なに赤くなってんだい、この子は」
 おばさんはあきれ顔で言ったものだ。
「あんたは台所で寝るんだよ。遺品を投げ捨てちまった罰だ」


 ぼくの部屋のベッドのまわりはぐしゃぐしゃだったので、イーシャを部屋の外で待たせて、急いで片づけた。シーツに食べかすが落ちていたり、枕から変な匂 いがしたりで、ここで寝られるのはかなり恥ずかしい。
「あのぅ」
 イーシャが戸口から顔を出す。
「やっぱりいいですよ、わたしが台所で寝ますから……」
「いいよ遠慮しなくて」
 取り替えるのは何日ぶりだろう、と思いながら、シーツをひっぺがして、新しいのを敷く。
「すごい部屋ですね……」
 振り向くと、イーシャは壁や天井の模型に目を奪われている。
「これ、先生のコレクションですよね。素敵」
「うん。捨てちゃえばいいのに、おばさんがとっておこうって言ってきかないんだ。だから」
 汚い枕はしかたないのでベッドの下に隠す。
「この部屋で寝るの、ほんとは好きじゃないんだ。だから、使っていいよ」
 イーシャはぼくの顔を見て、それから視線を天井のヘリコプタとの間で往ったり来たりさせ、けっきょく無言でベッドに腰掛けた。
 沈黙を雨音が埋める。
「じゃあ、おやすみ」
「先生は、詐欺師なんかじゃないです」
 ぼくは部屋の戸口のところで立ち止まった。
「――そういうの、村の人が聞いてるところで言わない方がいいよ。あの詐欺師のせいで、家族が死んじゃった人はいっぱいいるんだ」
 実のところ、ニナおばさんもその一人だ。おばさんの旦那さんは『イスタシス号』の乗組員だった。
「だいたいさ。昔、羽根の生えた人間が暮らしてたなんて、本気で信じてるの? だって、これだけ国中に遺跡があって偉い学者さんたちがほじくりかえしてる のに、羽根の生えた人間の骨とかも見つかってないんでしょ」
「ちがうんです。有翼人というのは、一般に広まっている俗称です。先生の三冊目の著書の序文に、こうあります。『有翼人なる名の生き物は、実は存在しな い。それは、翼あることを忘れていなかったかつての我々人間の名に過ぎない』」
 ぼくはイーシャの顔から目をそらした。小難しいことを語るときの彼女の顔はひどくきらきらしていて正視できない。
「有翼人というのは、わたしたちのことなんです。昔、人はみんな空を飛べたんです」
「へえ。じゃあ飛んで見せてよ。今すぐ」
 嫌な笑みを浮かべているだろうなと自覚しつつ、ぼくは茶々を入れた。
「だから、わたしたちは、忘れてしまっているんです。空を飛ぶための言葉と心を」
 飛ぶための言葉と心?
「エネリッシュがどうして失われたか知っていますか? 言葉っていうものは、そう簡単に消えたりするものじゃないんです。でも、現在わたしたちが使ってい る言葉はエネリッシュとは単語も文法も品詞構成もまったくちがうものです。これは――」
 意味の分からない学術用語がずらずら並ぶので、ぼくはだんだんうんざりしてきた。
「――神様の罰なんです」
 かみさま?
 腰がくだけるかと思った。ぼくはイーシャの目を盗み見た。冗談を言っているようには見えない。
「……かみさま? 学者さんなのに、神様なんて言ってていいの?」
「イスタシスさんは、神様を信じてないんですか?」
 そんなやつがいたとしたら。
 たぶん、ぼくは産まれていなかっただろう。父がこの村にやってくることを、母との結婚を、許すはずがないから。
「神様はいるんですよ。先生もそう仰ってます。先生の著書はお読みになったことありますか?」
 ぼくは首を振った。文字は父に教わったけれど、父が死んでから文字の書いてあるものになんてほとんど触れていない。
「じゃあ! これ、差し上げます。『航空随想』の初版本です、えへ、わたし、これ七冊買いましたから。保存用と閲覧用と、あとは人にすすめるための進呈用 です」
 イーシャは荷物の中から赤い表紙の厚い本を取りだしてぼくの手に押しつけた。
 いちおう、最初のページを繰ってみる。知らない言葉が扉絵の中に並んでいる。読めるのはエルベル・ファビウスという父の名前だけだ。
「それが序文です。『我らが子をなしたとき、イスタシス(翼)と名付けよう。これは空への憧憬の祈りであり、大地への畏敬の祈りである』。先生がこの村の そばの遺跡で見つけた碑文なんだそうです」
 イーシャの目がいっそう遠くなる。ぼくが本をベッドに投げ出したのにも気づいていない。
「有翼人たちは、かつてオリハルコン鉱によって重力を斥力に変換して空を飛ぶ技術としていました。でも、畏敬の祈りを忘れた彼らの慢心と飽くなき欲望は星 界に届かんばかりになり、お怒りになった神様は、オリハルコン鉱を操るための言葉、つまりエネリッシュを人から奪ったのです。だから、現存するオリハルコ ン鉱はすべて強力な重力源です」
「いい夢見られるといいね」
 ぼくはあきらめて、階段をおりようとした。
「この村の沖に、有翼人の都を支えていた莫大な量のオリハルコン鉱が沈んでいるはずなんです! 嵐も、歪んだ海流も、ぜんぶそのせいです。先生の仮説は間 違っていなかったんです。わたしが見つけて、それを照明してみせます!」


 翌朝早くに目を覚ました。
 慣れない台所の硬い床で寝たせいか、身体のあちこちが痛かった。
 雨はあがったらしい。雨戸の隙間から青白い朝の光がもれていて、外が人の気配でざわついている。
 冷たい水で顔を洗うと、上着を羽織って家を出た。
 この村には周期的に嵐がやってくるので、雨がやんだ直後というのは漁師の稼ぎどきだ。浜には人だかりができ、帆を張られた船影はいつもよりずっと勇まし く見える。
 日の出と同時に漁に出た一番船が、帰ってきたところらしい。浜に網が広げられ、桶を担いだ人たちが坂を上り下りしている。もうすぐ子供たちの仕事が始ま るだろう。ごっちゃになった網をほどいたり、網にからんだ海藻や石くれを取り除いたり。
 ぼくは大きく伸びをすると、海辺への坂道を走りだした。


 子供衆ではぼくがいちばん早起きだった。ひとりで網いじりをしていると、いっぱいの魚で重たくなった網を引きずった船が次々と戻ってくる。男たちのしゃ がれ声が浜に響く。
 太陽がすっかり水平線の上に姿を現したころ、ようやく他の子供たちが浜にやってきた。魚群に群がる海鳥みたいにやかましくしゃべくりながら、網にたかっ て仕事をはじめる。
「こらっ。ガキども! 網を足で扱うんじゃねえ!」
 大人に何度そう怒られても、やつらは面倒くさがって網を足で蹴りほぐす。
 そのうち仕事に飽きたのか、中の一人が、
「おい。エスタ」
 ぼくは聞こえていないふりをして、網にからみついた海藻に集中した。
「おいこら、エスタ。おまえん家に昨日、見かけない女がいたよな」
 わざわざぼくの正面に回り込んで、ぼくが作業している網を踏んづけて、そいつは話しかけてきた。
「ん」
 一応、返事をする。
「ありゃあ都会もんじゃなかったか、なあ、おい」
 肩をすくめて、作業に戻る。
「ああ。俺も見た、その女」
 後ろから別のだれかが話に加わった。いいから仕事しろよおまえら、とぼくは思いながら、だんごになった網をいじくる。
「だれだよ、あの女。知り合いか?」
 知るか。
「そういえば、エスタの親父の墓を探してたって、うちの母ちゃん言ってたぜ」
「じゃああの詐欺師親父の知り合いか」
「でもまだ子供だったぜ。俺たちと同い年くらいの」
「あぁわかった。詐欺師が都会で別の女と作った子供だ」
 ぼくがこらえきれずに立ち上がったとき。
 船着き場の方から、まさに話題の主の声が聞こえた。
「お願いします! 謝礼はお支払いしますから!」
「しつっけぇ娘だな! 仕事の邪魔だって言ってンだろうが!」
 半裸で汗だくの漁師たちの間に、イーシャの真っ白いシルエットが見える。ぼくは頭が痛くなった。なにしてるんだ、あいつ?
 面倒を起こされて、またニナおばさんがなにか言われるのもいやだったので、ぼくは立ち上がってイーシャに駆け寄った。
「乗せていっていただけるだけでいいんです、引き揚げ作業はわたしひとりでやりますから!」
「そンなに潜りたきゃ泳いでけ!」
 漁師の一人がイーシャの肩を突き飛ばした。
「きゃっ」
 イーシャの細身が傾いで、宙に泳いだ。倒れかけたその身体を、駆けつけたぼくはすんでのところで支えた。
「あ、ご、ごめんなさい。……イスタシスさん」
 ぼくはむっときて、抱えた彼女を地面に落っことした。
「いたっ」
「何度言えばわかるんだよ。ぼくの名前はエスタ。変な名前で呼ばないで」
「だからって落とすことはないと思います……」
 服についた濡れた砂を払い落としながら、イーシャは立ち上がった。
「なにしてんの、こんなとこで。今、漁で忙しいんだから、うろうろしてちゃだめだよ」
「沖まで連れていってくださる船を探してたんです。すぐにでも潜水調査を始めたくて」
 もう、ため息しか出てこない。
「あのさ。イーシャは学生なんだろ。学院で勉強してなよ。お勉強でそれらしいことがわかれば、専門の人がちゃんと潜水でも調査でもやってくれるだろ」
「そんなの、待っていられません」
 イーシャはきっぱり言う。
「先生の仮説は学会でまったく認められていないんです。だから予算も回ってきません。ちゃんとした調査なんてできないんです。ですから、まず確かな結果を 出したいんです」
「だからさ。どうしてなんでもひとりでやろうとするの。イーシャには潜りなんて無理だよ、ここの海はそんなに甘くない」
「やってみなきゃわからないです!」
 無性に腹が立ちはじめた。なんでこいつは、なんでもかんでもうまく行くと信じ込めるんだろう。
「おい、小僧!」
 野太い声で呼ばれて、振り向いた。真っ黒に日焼けした古参の漁師がぼくをにらんでいる。
「船の回りがはえぇんだ。くっちゃべってねぇで仕事しろ」
「はぁい! ごめんなさい!」
 イーシャをほっぽって、網のところに戻った。
 他の子供たちの視線がうるさい。でも、なにかまたからかってくると思ったけれど、やつらは遠巻きにぼくのことをじろじろ見ているだけだ。
「イスタシスさん!」
 真後ろから呼ばれて、ぼくはひっくり返りそうになった。
 いつの間にかイーシャがそばに来ている。
「な、なに?」
「あ、あのっ、船を出してくださる方、心当たりあったら教えてくれませんか」
 街に帰れ、と怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られた。とにかく、目の前のその女を追い払ってやりたかった。
「イーシャ。船は扱えるの」
「え。え? ああ、はい。実際にやってみたことはないですけれど、潜水訓練のときに、少し教わりました」
 机の上のままごと。
「あっち。岩場こえたとこにもうひとつ狭い砂浜がある」
 ぼくは立ち上がって、船着き場の南端を指差した。岩礁が大きく陸に食い込んで、険しい岩壁になっている。
「そこにね、古いおんぼろの小舟が棄ててある。もう持ち主のじいさんは死んじゃってて、使ってもだれも文句言わないから」
 そんなにやりたければ、船も自分で動かせば? と、目で付け加える。
 さすがに戸惑うかな、と思ったら、
「――ありがとうございます! やってみます!」
 イーシャはぼくの手を握ってぶんぶん振った。あきれた都会っ子だ。
 なにかもうひとこと言ってやろうと思ったときには、すでに軽い足取りで岩場の方に駆け出している。
 やれやれ。
 まあ、実際に舟のおんぼろっぷりを見ればあきらめるだろう。船材は雨ざらしで腐っているし、船底なんてほとんど抜ける寸前だからだ。


 昼過ぎに、空が急に暗くなった。
 沖合に黒々とした雲が集まりはじめ、風が強まり、大人たちは帆をたたみもやいを固くし漁具を片づけはじめた。
 昨日の雨が控えめだったぶん、今回の嵐は戻りが早い。おさまってから半日とたっていなかった。
 あっというまに暗雲は空を埋め尽くし、稲光が雲のおもてを滑り、雷鳴がそれに応じる。大荒れになりそうな雰囲気だった。ぼくら子供衆も、こんがらがった ままの網をまとめて共同倉庫に放り込むと、家路を急いだ。
 家に戻ると、おばさんが家じゅうの雨戸をかたっぱしから閉めている最中だった。ぼくもそれを手伝う。
 一階も二階も閉め終わり、ランプに火を入れたところで、イーシャの姿が見えないことに気づいた。まさかまだ戻ってきてないのだろうか。
「ねえ、おばさん、イーシャは? まだ帰ってきてないの?」
「それがねえ、あの子、いっぺん戻ってきたと思ったら、荷物かかえて飛び出してっちゃったんだよ。ほら、潜水服とかが入ってるやつ。どうしよう、心配だね え。降り出す前に戻ってくるかしらねえ」
 潜水服を持って、
 飛び出していった?
「探しに行った方がいいかしら……、あ、エスタ!」
 おばさんの言葉をほとんど聞かないまま、ぼくは家を飛び出していた。


 音で耳の中が痛くなるくらい、風は激しさを増していた。ごつごつした岩場で何度も転び、足が擦り傷だらけになった。
 さびれたその浜にたどりついて、ぼくは呆然となった。
 棄てられていたはずの廃船は姿を消していた。砂の上には、名残の朽ちた木材が散らばっているだけ。
 波打ち際からいくぶん離れた砂地に、白いものが落ちていた。イーシャの服だ。きれいにたたまれて腰ひもで結わえられ、重石が乗せてある。
「あの、ばか」
 口を開いてみたら、そんな独り言がぼろりと漏れた。
 ほっといて帰ろう。冷静な声が頭の中でそう提案する。でもぼくは岩場を駆けのぼり、高台に立って、濃い闇のうねる海面に目をこらした。分厚い雲のせいで 夜のように暗く、どこまでが空でどこからが海なのかもよくわからない。見つかるはずがない、さっさと帰らないとこっちまでやばいぜ、冷静な声はそう続け る。
 海面をなめるようにしていた視線に、なにかが引っかかった。水平線のわずかに手前、どろりとした紺色の海にまじった、ほんの少しの異質な色彩。
 意識を集中すると、それは確かなものにかわった。間違いない。
 舟だ。


 船着き場で舟の固定作業をしている大人たちがまだ数人残っていた。
「ガキ! とっとと家に帰れ! 今日の嵐は並みじゃねぇぞ!」
 風に負けないほどの大声ですごまれた。けれど、ひるまず、
「お、沖にまだ出てる舟があるんです! 助けにいかないと……」
「いい加減なこと抜かすな、船は全部戻ってンだ! いいから失せろ邪魔だ!」
「ほんとうです! あそこ!」
 沖を指差して、ぼくは必死で訴える。
「どこに船なんか見えるってンだよ!」
 なんで、ぼくに見えてあんたらに見えないんだ、船乗りのくせに。
「小舟なんです、村の者じゃなくて、街から昨日来た女の子が勝手に、」
 ちがう、ぼくがあの舟を使えって言ったからだ。
「よそ者のことなんざ知るか!」
 突き飛ばされて、砂の上に仰向けに倒れた。
 そのとき、頭のどこか大事なところを打ったのかもしれない。起きあがったとき、ぼくの心はすでに固まっていた。
 船着き場のはずれの小屋に走った。そこには、子供衆が釣り遊びに使う六人乗りの舟が置いてあるのだ。


 少し手を休めるだけで、波にオールをもぎ取られてしまいそうだった。見てはいけないと思いながらも、目を開くたびに、陸が遠ざかり、闇と波濤にまぎれて 見えなくなっていくのがわかった。
 ひと漕ぎごとに首をねじって、進む方向にイーシャの舟が見えるかどうか確認しなくちゃいけない。そんなことをもう何百回と繰り返しているせいで、身体 じゅうの筋肉が悲鳴をあげていた。
 やがて非情な雨が降り始めた。火照った皮膚は、冷たい水滴で引っ掻かれるように痛んだ。
 ほとんど意識を失いかけながら漕ぎ進むうち、ふっとオールの抵抗が軽くなった。このあたりの海域でときおり発生する、奇妙な海流につかまったのだ。ちっ ぽけな船体は波の指先でもみくちゃにされ、ぼくは船縁にしがみついて放り出されないようにするのが精一杯だった。
 イーシャの舟が、竜骨の反り具合がわかるほどにまで近くに見えた。
 竜骨?
 目の前が真っ暗になった。
 転覆している。
 手遅れだったんだろうか?
 と、ひっくり返った舟の腹にはりついた栗色の髪に気づいた。それから、艫にしがみつく小さな手。
「イーシャあっ!」
 あらんかぎりの声で呼ぶと、イーシャは顔をあげた。その目が暗闇の中をさまよい、じきにぼくにたどりつき、安堵でとろけそうになるのがわかる。
 イーシャをぼくの舟にひっぱりあげるのと同時に、腐ったぼろ舟は波にもまれて文字通りまっぷたつに砕けた。
「ばか! ばかばか! 死ぬ気かよ、あんなぼろ舟で沖に出るなんて! 荒れ模様なの、見ればわかるだろ?」
「ごめんなさい、でも! 嵐のときじゃなきゃだめなんです、雲が集まっているっていうことは、オリハルコン鉱が活性周期にあるっていうことなんです、ほ ら!」
 イーシャは、ぴったりと肌にはりついた潜水服の胸からそれを取りだして、ぼくの目の前に差し出した。
 片手にすっぽりおさまるくらいの、なんの変哲もない濡れた黒い石片だった。
「見つけました、オリハルコン鉱です」
 彼女の血の気の引いた顔は、でも誇らしげに輝いている。
 こんな、石くれのために。
「ふざけんな!」
 吐き捨てた。波がぼくの気持ちを具現するみたいに船体を激しく揺さぶった。
「生きて帰れないんなら、最初っからそんなことするなよ! ぼくの知らないところで勝手に死ねばいいんだ! ぼくをっ、ぼくをおいてくなよ!」
 自分でも、なにを言っているのかよくわからなかった。頭の中で、目の前のイーシャといつかの記憶の父がごちゃごちゃに混ざっていた。たぶん、そのときぼ くは泣いていたと思う。
「そんな、石っころのために! ばか!」
「石ころじゃありません!」
「石ころで空が飛べんのかよ!」
「あとは言葉なんです、言葉さえ見つかれば、……きゃあっ」
 大きな波が舟を突き上げた。イーシャが両手をつっぱって船底にへばりつく姿が、ものすごい速さで頭の後ろに遠ざかっていく。
 ぼくの身体は宙に放り出されていた。
 刹那、凍りついたような沈黙がぼくを包んだ。次の瞬間、ぼくは暴力的に冷たい海の中にいた。
 イーシャが舟から身を乗り出してこちらに手を伸ばすのが見えた。二度目の高い波がそれを粉々にした。舟は舳先を真上に向けて立ち上がり、イーシャもろと も海面に崩れ落ちた。
 海水をかきわけて、彼女に近づこうとした。喉を水が埋め尽くし、ぼくの呼吸を奪った。二人の伸ばした手の間には、ほんのわずかの、けれど絶望的な分厚さ の海水に隔てられた距離があった。うねりがぼくの身体をねじ切るほどの勢いで巻き込み、イーシャから引き離そうとした、そのとき、
 ぼくの指先になにかが触れた。
 つかみ、引き寄せた。イーシャの手に、それのもう一方の端がからみついている。
 信じられない思いで、ぼくはそれをたぐり寄せた。革ひもにつながるガラスの感触。記憶にあるひび割れ。
 捨てたはずの、父のゴーグル。波と海流に押し流され、漂い、今またぼくの手にあって、
 イーシャとつながっている。
 偶然だろうか?
 ――神様はいるんですよ。先生もそう仰ってます。
 イーシャの名前を呼んだ。開いた口は再び海水でふさがれた。届いたかどうかはわからない、けれど、
「――イスタシス……!」
 彼女がぼくを呼ぶ声は、聞こえた。
 それから、光が見えた。
 光?
 確かに光だ。闇の中、イーシャの胸のあたりに、はっきりと赤い光が見える。
 唐突に、僕の頭は海面を突き破って、肌を切り裂くほどの風の中にさらされる。波が砕ける音がはっきりと聞こえる。呼吸が苦しくなくなっている。伸ばした 腕のすぐそこに、イーシャの顔があって、濡れそぼった髪が首筋に巻きついている様まではっきり見える。彼女が胸に押し当てている左手の指の間から、鮮やか な炎の色の光があふれ出ている。
 握りしめた石が、光っている。
 海の水位が下がったのだろうか、とぼくはあたりを見回す、そんなはずはない。水位が下がったところでこんな風に水から抜け出してしまうはずがない。
 水が下がっているのではない。
「……ぼくらが浮いてるんだ……」
 つぶやきは暴風に蹴散らされたはずだったけれど、イーシャはぼくにうなずいてみせた。
 海面は今や、ぼくとイーシャの足先をなぶっている。
「……これが、祈りの言葉だったんですね。先生は、ちゃんと遺してくれていたんですね」
 どちらからともなく、ゴーグルの紐をたぐり、ぼくらは肩が触れ合うくらいまで近づいた。
 耳元でイーシャがなにかささやいた。大昔に失われた祈りの言葉だと、なぜかその時のぼくにはわかった。ぼくの名前が、その祈りの中に静かに織り込まれて いた。
 ――我らが子をなしたとき、『翼』と名付けよう。これは空への憧憬の祈りであり、大地への畏敬の祈りである――
 風が、甲高い音をたてて頭上から足下へと吹き下ろした。海面があっという間に遠ざかって、波もうねりも見えなくなった。


「まだ信じられないです」
 ぼくの肩にしがみつきながら、イーシャが震える声で言った。上空の風はなお激しく、雨粒が渦を巻いている。ぼくも彼女も、身体の芯まで冷え切っていた。 ただ、握りしめた石――オリハルコン鉱だけが、暖かく光を放っている。
 信じられないのはぼくも同じだった。叩きつける雨がなければきっと夢だと思っていただろう。でもたしかに、ぼくらの頭上にも足下にも、空があった。
「親父は、知ってたのかな。祈りの言葉のこと……」
「……知っていた、はずですよ。だって……」
 雨交じりの風が顔に真正面からぶつかってくる。はるかな眼下の海面が、後ろへ後ろへと流れはじめる。
「だって?」
「だって、わたしの尊敬する先生ですもの」
 ぼくは鼻をならして、前に向き直った。
「ところで、ねえ、なんだか前に進んでいるような気がするんだけど」
「はい。進んでます」
「陸がどっちかわかるの?」
「はい、もちろん。ほら、あれです」
 イーシャが指差す先を目でたどった。ずっと向こうに、まばらに散った白い光の粒が見える。村の明かり? そんなはずはない。この雨だし、みんな雨戸を閉 めて閉じこもっているはずだ。
 風を切る音が激しくなり、イーシャの髪が背中に流れてばたつきはじめた。加速しているのだ。光はぐんぐん近づいてくる。
 やがてその光がなんなのか、ぼくにもわかる。
 草原の斜面に点在する、あの遺跡の白い柱だ。なぜ光って見えるのかは、わからないけれど。
 やがて暗闇の中から海岸線が浮かび上がる。海に大きく切れ込んだ岬の突端に、ひときわ目立つ光の点があって、それがまるでぼくらを手招きするように明滅 している。
 そりゃあ出来過ぎでしょう、神様。


 ぼくらは岬の父の墓のそばで、嵐が退いていくさまを眺めていた。迷いがなくなったようなまっすぐな風があっというまに雲を吹き飛ばし、洗い晒しの澄んだ 夜空が広がった。
 嵐が静まるのと呼応するように、オリハルコン鉱は光を失い、やがては液体みたいに細かい砂粒になって崩れてしまった。
「そんな……せっかく見つけたのに」
 イーシャは泣きそうな顔をして、きらきらした砂が指の間からこぼれていく様を見つめていた。風に吹き飛ばされて跡形もなくなってしまうと、脱力してぺた んと地面に崩れ落ちた。
「どうしよう。あんなに苦労して、持ってきたのに……」
「また、見つければいいんじゃないの」
 彼女が、緩慢な動作でぼくを見上げた。
「街一つぶんのオリハルコン鉱が、沈んでるんでしょ。まだまだいっぱいあるんだから」
 イーシャはもう一度、海に目をやった。ぼくは彼女の隣に腰をおろした。全身がけだるかった。このまま地面に寝転がって眠ってしまいたいくらい。
 再びぼくの方に向き直ったイーシャには、あのぴかぴかの笑い顔が戻っていた。
「そうですね。また潜ればいいんですものね」
 それから彼女はひざをぱんと打ち鳴らして、立ち上がる。
「わたし、またこの村に来ます。船一隻買えちゃうくらいお金貯めて、海のこともいっぱい勉強して」
「イーシャは、勉強だけしてなよ。また、潜りに行くたびに溺れられたらかなわない」
「溺れてなんていません! ちょっと船をひっくり返してしまっただけです! それに、」
「だからさ。海のことは海の人間に任しておきなよ。ぼくとか」
「机上の研究だけじゃ先生の学説は……今、なんて言いました?」
 照れくさくて、ぼくはひざを抱えてイーシャから顔をそむけた。
「潜るのはぼくがやるから、って言ったの」
 しばらく、返事がなかった。
 なにか妙なことを言ってしまっただろうか、気に障るせりふがあっただろうかと、ぼくがおそるおそる顔をあげると、
 イーシャの顔がすぐそこにあった。向き直ったひょうしに頬と頬が触れてしまった。ぼくは驚いてのけぞった。
「ありがとう、イスタシス」
 いつの間にかイーシャはぼくを呼び捨てにしている、それに気づいてさらに照れくさくなって、
「だから、その変な名前で……」
「変な名前じゃないです」
 まっすぐな目。柔らかい笑み。ぼくは口ごもり、
「……変な名前で呼ぶのは、オリハルコン鉱がまた見つかるまで、とっておいたら」
「――そうですね」
 それからぼくらは顔を見合わせ、イーシャは声を立てて笑った。ぼくはくしゃみで応えた。
「帰りましょう。風邪ひいちゃいそうです」
「そうだね」
 おばさんも心配しているだろうし。
 立ち上がって斜面へと歩きかけ、ぼくは父の墓を振り返った。
 光はすでに消えている。墓参りの紋様も雨に流されて消えている。でも、今まで年に一度ずつ見てきた墓とは、なにか違って見える。
「エスタ。どうしたんですか」
 イーシャに呼ばれ、ぼくは父に背を向ける。
 握りしめていたゴーグルを――かつて父のものだったそれを首にかけ、濡れた草地の斜面を、確かな足取りで登りはじめる。



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