アルバム・エヴェレスト SIDE - A



 ジョンと、ポールと、二人のジョージと、
 それからリンゴと、
 彼らを愛した全ての人々へ。









第一章 1+1+1=3 (4:17)

    1991年 6月


 婚約したのは、僕が十歳の時だった。

 僕はその頃、稲城市の丘の上にある一軒家に両親と一緒に住んでいて、小学五年生だった。相手の女性は、僕と同じ家の住人で、僕より一年と九ヶ月年上で、 名字が同じで、どういう偶然からか両親まで同じだった。僕は彼女のことをユーキと呼んでいた。漢字で書くと優希で、正式な読み方は「ユキ」だったらしい。 僕はこれをつい最近――彼女がいなくなってしまってから――ようやく知った。
 そんなことも知らなかったのだ。僕は、彼女について。
 彼女の顔は、これはもう宿命的に忘れられない。たとえ何かの加減で思い出せなくなったとしても、鏡に向かってちょっとうつむいて唇をすぼめて目を大きく 開けば、ユーキの顔になる。そっくりなのだ。二人とも、鼻のまわりは父から、目元やあごのラインは母から受け継いだらしい。わりとハイセンスな選択だと思 う。組み合わせが逆だったとしたら、僕も多少は人生に対して悲観的になっていたかもしれない。
 とにかくそうして、二十歳になった今も、ユーキは僕の鏡像の中でともに成長を続け、ともに老いを重ねている。

 たぶん、何かの冗談だったのだろうとは思うけれど、僕とユーキは結婚の約束をした。一九九一年。僕が十歳で、彼女が十二歳になったばかりの六月のこと だった。話のきっかけはよく憶えていない。プロポーズのせりふも思い出せない。ただ、彼女が、しつけの悪い猫に対してそうするように僕の首根っこを腕に挟 み込んでぎゅっとおさえつけ、それから右のみみたぶに唇を触れさせて、囁いた言葉だけは克明に記憶している。
「行こう、今すぐ。私と一緒に」
 前後のつながりが分からないから、その言葉も、いったいどういう意味合いで出てきたのか分からない。ただ一つ確かなことは、彼女のその言葉に、僕がつい に応えられなかったことだ。

 ユーキに関しての僕の記憶は、実のところ不思議なくらいあやふやだ。年子だったから中学卒業までのほとんどの年月を同じ学校で過ごしていたはずなのだけ れど、どういうわけか僕は十代前半のユーキという人物像について、ほとんど具体的な事象を思い出すことができない。たぶん、高校以降の二人の選んだ道が まったく別の方向だったからだろう。
 ユーキは、都立校の中でも最難関と言われているK高校に進学し、級長やら生徒会活動やら軽音楽部のPAやらをめいっぱいエンジョイしながら、毎晩睡眠時 間を削ってこりこりと勉強を続け、国立の医学部に現役合格して、まっとうで将来有望な理系大学生になった。
 僕はと言えば、私服通学が認められていることのみを判断基準にして選んだぱっとしない高校に入学し、中途半端にシニカルな校風の中で中途半端にシニカル な三年を過ごし、ギターを弾くことと詞を書くことを中途半端におぼえ、卒業して家を出て、フリーアルバイターになった。
 高校生のころのユーキは毎晩遅くに帰ってきて一人で夕食を食べ、僕の寝ている隣で夜の三時頃まで勉強し(部屋が一緒だったのだ)、僕がレム睡眠を愉しん でいる早朝に目を覚まして、テニス部の朝練のために午前七時に家を出ていた。あんな生活のリズムでよく過労死しなかったものだと今になって思う。
 とにかく、朝から晩まで口をきかないこともしょっちゅうだった。一度も顔をあわせないで一日が過ぎることだってあった。だから、僕がユーキに関して憶え ていることはほとんどない。

       *

 それでも、いくつか思い出して書いておこうと思う。
 一つはっきりと憶えているのは、マンホールのことだ。
 僕とユーキが通っていた小学校は、家から歩いて十五分のところにあった。ただこの十五分という通学時間は、まともに舗装された道路を通った場合のもの で、とある抜け道を使うと十分足らずで済んだ。
 開発中の分譲住宅地の片隅、まだ雑木林をなぎ倒して土地をならしただけの雑然とした荒れ地だった。粗い砂利と土が混じり合った地面にはセイタカアワダチ ソウの群れが根を張り、真っ黄色の花を誇らしげに空に向けて突きつけていた。丸木の杭と緑色の鉄条で大雑把に囲まれた敷地には、「市有地」の白い看板が一 人寂しそうに突っ立ってペンキを日焼けさせていた。
 通学路は、その荒れ地一帯を大きく迂回して山を下り、国道をかすめ、再びなだらかな勾配をたどって学校に至っていた。いっぽう抜け道はその荒れ地の真ん 中を突っ切って、学校横の歩道橋の足下まで通じていた。
 そのマンホールは、抜け道の終点近くにあった。
 地面はほとんど砂利と石ころばかりになり、目の前にはくじらの腹みたいな形の大きな歩道橋があり、宅地造成中ののっぺりとした大地を南北に貫く幅四十 メートルの六車線道路がその下に横たわっていた。
 縦に埋め込まれた土管の上端が砂利だらけの地面から二十センチばかり突き出していて、マンホールの蓋がついたコンクリートの分厚い円盤がその上に乗っ かっていた。
 円盤はきっちりと土管の口をふさいでいたわけではなく、子供一人ならば楽にすり抜けられるくらいの隙間があった。その穴を最初に発見したのは、たしか ユーキだったと思う。
 僕とユーキは、そこを自分たちの秘密基地に認定した。そして懐中電灯や武器(おもちゃの拳銃)や食糧(お菓子だ、もちろん)を用意して、マンホールの中 に入り地下道を探検した。震えが来るぐらい素敵な体験だった。
 我々の調査によって、基地は三つの「ミサイルはっしゃぐち」と、「地上ていさつ室」と「しれい室」と、それらを直列でつなぐ通路で構成されていることが 判明した。入り口の縦穴が「ミサイルはっしゃぐちA」。その底から、腹這いになっていかないと通れないくらい狭い横穴がのびていて、「ミサイルはっしゃぐ ちB」につながっている。ここから縦穴がまた上に向かってのび、別のマンホールの蓋に突き当たっている。同じように狭い横穴が「はっしゃぐちB」の底から さらに奥に向かってあり、AやBと同じ縦穴である「はっしゃぐちC」に通じている。
 「はっしゃぐちC」からは、かがめば歩けるほどの広い通路が奥に続いており、その先は「地上ていさつ室」だった。ここは直方体の広い部屋で、天井の一部 には金属の網枠がはまっていてそこから地上の光が入ってきていた。排水溝の下だったらしい。空気の湿り気が増し、黴の匂いがした。床には、雨水で流されて きた砂泥が溜まっていた。
 「地上ていさつ室」の奥にはさらに広い通路がのび、その先に「しれい室」があった。
 その空間にはじめて足を踏み入れたときの、憧憬、畏怖、好奇、そんなものがない交ぜになった不思議な感動を、僕は今でも思い出すことができる。
 巨大な空間だった。部屋に入ってすぐの場所は横に長い足場になっており、その先は唐突に床が途切れ、断崖絶壁になっていた。薄暗かったせいもあるのだろ うけれど、底も見えなければ部屋の向こう側の壁さえ見えなかった記憶がある。
 横長の足場の隅から、崖面に打ち込まれたかすがい型の梯子が、ずっと下の方に続いていた。僕とユーキはその梯子をおりてみた。梯子はつるつるとして滑り やすく、何段おりても底にたどり着かないような気がした。怖かったので、下は見ないようにしていたのだ。
 四十と八段で、梯子は床に到達した。
 確固たる壁と床が確認できると、僕を圧倒していた茫洋とした雰囲気はかき消えた。懐中電灯の光でさぐってみると、その部屋の底面は、学校の教室の一・五 倍ほどの広さしかなかった。
 部屋の真ん中を、両手を広げたくらいの幅の川が流れていた。
 川は左手の壁に開いた丸い穴から流れ出て、右手の壁に口を開けた全く同じ形の穴に呑まれていた。深さは子供のひざくらいまでで、流れはゆるやかだった。 水音は全くしなかった。
 部屋の向かい側の壁に、僕たちがおりてきたのと同じような梯子がついていた。僕は懐中電灯の光でその梯子の先を照らしてみた。梯子は五メートルくらいの 高さでぷっつりと途切れ、その脇に丸い穴がぽっかりと口を開けていた。穴から水が壁を伝い落ちた形跡があり、水苔が細長い逆三角形をつくって壁にはりつい ていた。
 梯子の頂点と穴との間には五十センチほどの距離があった。あの梯子を登ってあの穴に入るには、何かサーカスじみた特殊技能が必要なんだろう、とその時の 僕は思った。資格のない者は、あの先には行くことができないのだ、と。
 僕は、懐中電灯の電源を落とした。「地上ていさつ室」からの頼りない光だけで、川や梯子や丸い穴がぼんやりと見えた。たぶん、暗闇に目が慣れていたせい だろう。
 不思議なくらい静かな部屋だった。地上からたかが十メートル足らずの深さだということが信じられなかった。無言で流れ続ける川が、あたりの音や動きや熱 や生命をみんな吸い取ってしまっているかのようだった。
「ここが、まんなかだね」と、ユーキが言った。
「うん」と、僕は言った。
「ここが私たちの領土だっていうしるしに、何か壁に書いておこう。ヒィロ、油性ペン持ってきてたでしょ」
 ヒィロというのは、ユーキ専用の僕の呼び名だった。当時の僕はその呼び名を使われるのがなんだか恥ずかしかった。どうしてかはよくわからない。ゼロカス タムのパイロットと同じ名前に聞こえるからかもしれない(いや、よく考えたら、一九九一年にはガンダムWはまだ放映されていない)。普通の人はヒロとかヒ ロアキとか呼んでいたのに、ユーキだけが真ん中の音を間延びさせて呼ぶのだ。
 僕は彼女に言われたとおり、ポケットから緑色のマジックインキを取り出して、壁に「国璽」を描いた。まず円形を描く。その中心から、扁平な二等辺三角形 の羽を四枚、風車のように広げる。昔のカプコンのゲームに必ず登場していた隠れキャラの「やしち」というやつだ。僕はその当時その図形がお気に入りで、家 や学校のあちこちにその「やしち」を落書きしてまわっていたのだ。赤地の旗が共産主義者を象徴するように、六芒星形がヘブライの民を象徴するように、「や しち」はその当時の僕や僕の属していた何らかの領域を象徴するシンボルだった。
 それから、その下に僕とユーキの名前をきちんと漢字のフルネームで書いた。
『高峯優希 高峯宏彰』
 日付も入れた。
『1991/6/3』
 ユーキが僕の手からペンを取り上げて、二人の名前の横にこう付け加えた。
『まんなか に とうちゃく。』
 後になって考えてみれば、奇妙な表現だった。「終点」だとか「行き止まり」だというなら話は分かる。まんなかというのは、一体どういう意味だったのだろ う?
 とにかく、その「しれい室」の暗闇と、川の静かな流れと、梯子と、部屋に通じる四つの穴――「地上ていさつ室」から続く通路の出口、向かい側の壁に開い た穴、川の流れ出る穴と流れ込む穴――は、僕の原風景にしっかりと刻まれた。ユーキの、「まんなか」という言葉と一緒に。
 後に、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読んで僕が受けたひそやかな衝撃は、たぶんこの原風景に起因するものだと思う。
 世界の心臓。それが、ずっと後になってから僕がその部屋に与えた名前だった。四つの穴があり、生命と腐敗と鉄の臭いがあり、世界の透明な血液が音もなく 流れていた。

 ユーキと婚約したのは、たしか、その世界の心臓を発見した次の日のことだ。







第二章 なにげないしぐさが (3:00)

    1996年 2月


 スミカのことについて話そうと思う。
 スミカは僕より一ヶ月と二十二日だけ年上で、小柄で、英才教育を受けたいるかみたいにきりっと引き締まった上品な体つきをしていて、笑い声がころころと 可愛らしかった。歌が上手かった。ダイアナ=ロスとジャネット=ジャクソンのレパートリーはかなりのものだった。演劇部員でもあり、いつも男の役をやって いた。
 笑い方もしゃべり方も(セクシュアルな意味合いで)ひどく挑発的で、強情でお節介焼きでおまけに惚れっぽかった。
 ひとくちに言って、ひどく目立つ少女だった。
 人が集まれば真っ先に喋りだし、雷が鳴れば真っ先に泣き出す。そういうタイプの女の子だった。ある種の行動力に大変恵まれていた。例えば、今まで必要以 上の会話をほとんどしたこともなかったただの「同じクラブの部員」という間柄に過ぎない無口な男に、バレンタインデーのプレゼントとして手作りのチョコ クッキーを持ってくるとか、そういった類の行動力だ。
 キスも上手かった。胸はあまり大きくなかった。
 バイセクシュアルだった。

 僕は高校で民俗音楽部に所属していた。民俗音楽というのはつまりロック・ミュージックのことだ。スミカは僕と同じように入学してすぐの四月に入部した部 員たちの一人だったから、はじめての出会いというと新入部員歓迎会の席上ということになるのだろう。
 残念ながら、十五歳だった頃のスミカを、僕はよく憶えていない。
 こうして過去の色々なことを文章にしてみると、自分の記憶力というものが呆れるほど頼りないことに気づかされ、背筋が寒くなる。キーボードを叩く指に、 「oboeteinai」という綴りが染みついてしまっているのが怖い。一体僕は、これまでにどれだけの大切なことをなくしてきたのだろう。
 記憶というのは人格そのものだと何かの本で読んだ。誰もがはじめは、ちょっと神経細胞の肥大した哺乳類として生まれて、その無垢な魂に記憶を塗り重ねな がら成長し年老いていくのだ。それなのに、僕のポケットには穴が開いていて、入れたものはあとからあとからこぼれ落ちていく。おおざっぱに試算してみたと ころ、僕の人間的成長は小学校三年生の時点で停止しているらしい。変化は存在している。新しい何かを少しずつ受け入れることはできる。けれどそれと同量の 何かが、確実に闇に漏れ出ていく。宿命的なホメオスタシスだ。這いずり回るばかりで、一センチだって昇ることができない。
 話を戻そう。僕は、高校に入ってすぐの頃、スミカの存在を認識していなかった。スミカは一年生の二学期までは週に一度か二度くらいしか民俗音楽部に顔を 出さなかった。民音よりもさらに部員が少なかった演劇部の活動で忙しかったからだ。僕は僕で、毎日放課後になると音楽室前にやってきて、廊下に置いてある 調律の狂ったピアノに向かって独りでビリー=ジョエルやらブライアン=アダムスやらを歌っていた。
 他の部員たちはみんなバンドのメンバーに組み込まれていたけれど、僕はそのころギターが弾けなかったし、彼らの好む日本のミュージシャンや八十年代のア メリカン・ハードロックの曲なんてほとんど知らなかったから、必然的に部内で孤立するようになった。セッションにはコーラス要員やゲストのキーボーディス トとしてたまに参加する程度だった。ただ僕は、ピアノが思い切り弾けて、大声で歌が歌えればそれでよかったのだ。
 だから、一年生の三学期、スミカがすでに十六歳になり僕が十六歳の誕生日を二週間後にひかえたその二月十四日が訪れるまで、僕と彼女との接点は全くと 言っていいほどなかった。

 その土曜日の午後、僕は民音の部室――と言っても、ほとんど楽器や楽譜の収納スペースなのだけれど――で独りでピアノを弾いていた。たしかシカゴの21 のどれかだったと思う。スミカがこっそり部屋に入ってきていたことに、最初は気づかなかった。
 いつの間にか、彼女はパイプ椅子を持ってきて僕のすぐ隣に座っていた。僕は半音下降進行のフレーズを弾くときに目を閉じるくせがあったから、そのせいで 気づかなかったのだと思う。
 目を開けると、楽譜がモトリークルーのバンドスコアにかわっていた。僕の指は止まった。隣にいるスミカに気づいた。
「あ、起きた」と彼女は言った。
「――別に、寝てたわけじゃない」と僕はぼそぼそした声で言った。
 彼女は僕の方に椅子をぐっと寄せると、スコアの真ん中あたりのページを開いて譜面台に強く押しつけた。僕は彼女の真っ白な手首を眺めながら、彼女の名字 を思い出そうとしていた。誰かが「スミカ」と呼んでいたことしか思い出せなかったのだ。彼女の名字。なんとかモトだ、たしか。坂本。山本。松本。どれも違 う気がする。
「ねえ、この曲、Eに移調して弾ける?」
 スミカが開いたページの曲は、『ホーム・スウィート・ホーム』だった。僕が唯一知っているモトリークルーの曲だ。イントロのピアノリフもコード進行自体 もシンプルなので、移調して弾くのはなんとかなりそうだった。僕は穴だらけの記憶のポケットから彼女の名字をほじくりだそうという作業を放棄して、黙って イントロにとりかかった。
 またベースの半音下降進行だ。僕は自然と目を閉じた。
「You know I'm a dreamer……」
 四小節目から、スミカの歌が僕のピアノにかぶさった。僕がスミカの歌をきちんと聴くのはそれがはじめてだった。あやうく右手がコードを見失いそうになっ た。
 まっさらで、透明で、あたたかい声だった。空気そのものが変質してしまったように思えるほどの存在感を持った声だった。胸が熱くなった。呼気が喉のすぐ 下で膨らんで凝り固まった。コンクリートで護岸された海辺に腰掛けて、濁った深緑の下から白い波頭がしみ出し、ちぎれ、また砕けて散り散りになるさまを眺 めていた。ねずみ色の分厚い雲が空に隙間なくしきつめられ、重たい潮風に乗って雨の気配が僕の頬をなでた。脇に置いた小さな革製のかばんが、きいきいと鳴 き声をあげた。
「どうしたの?」
 スミカの声で、僕は我に返った。一コーラス目の終わりで、気づかないうちに手を止めてしまっていたらしい。
「えっとねえ、ちょっと高いかも。E♭でやってみてくれる? 二コーラス目の頭から。あとちょっとテンポ抑えめで」
 スミカは僕にこまごまとした注文をつけると、ピアノの右端を叩いて演奏開始の合図を出した。僕が二小節前から始めると、すぐにあの破壊的にセンチメンタ ルな歌声が始まった。鍵盤が指を押し戻す感触が、ひどく痛々しかった。呼吸のもどかしさはまだ続いていた。彼女がフレーズの切れ目に息継ぎをするたびに、 僕もやっとの思いで肺にたまったものを吐き出し、急いで空気を飲み込んだ。
 彼女はDでもやってみてくれと言い、Dでフルコーラス歌ったあとでまたEでやってみてくれと言った。時々演奏をとめてテンポの指示を出したり、サビの最 後の低音パートを僕に歌わせたりした。ときおり彼女の手が僕の身体に触れた。後で知ったことだけれど、彼女は人と話すときにごく自然にスキンシップを示す 人間であるらしかった。でもその時の僕はもちろんそんなこと知る由もなかったから、彼女の指の背が僕の肩や背中にくっつくたびにどきどきしていた。窒息死 しそうだった。彼女にとってそれは、ほんのなにげないしぐさだったのだろうけれど。
 一通り歌い終えると、彼女は僕に意見を求めた。
「どのキーが良いと思う?」
 正直なところ、彼女の声は低音から高音までどこをとっても伸びやかで、どのキーでも非の打ち所がないくらい素晴らしかった。でもそれだと話が進まないの で、僕は少し考えてから、「Eがいいかな。低音があんまりない曲だし、Eならギターもやりやすいから」と答えた。
「そうね」と彼女は言って、にっこり笑った。それから、ふと思い出したように「あ、そうだ」と言って、棚から自分のかばんを取ると、透明なビニールでラッ ピングされたものを取り出して僕に手渡した。
 ぱりぱりの透明なビニールの中に入っていたのは、チョコレートクッキーだった。袋の口は畳んで扇状に装飾され、オレンジ色のリボンでとめてあった。
「ヴァレンタイン・デイだから」と、スミカは言った。まるで、今日は不燃ごみの日だからこの袋お願いね、とか、明日は自治会の会合だからこの回覧板回して くださいね、といった感じの、照れのかけらもない言い方だった。
 僕はそれを受け取って、しばらく手の中でいじくり回していた。どう答えていいかわからなかったのだ。鼻の頭のあたりに、スミカの視線を感じた。彼女はな んだか僕を責めるように、じっと見つめてきた。
 僕が黙ってもじもじしているうちに、入り口外の廊下から大勢の足音と話し声が聞こえてきた。屋上のペントハウスで練習していた先輩たちが戻ってきたの だ。戸口のところに前嶋先輩が姿を現すと、スミカはそちらに駆け寄った。
「クニさん、『ホーム・スウィート・ホーム』、やっぱりEにしよう」とスミカが言った。クニさんというのは前嶋先輩の愛称だ。
「Eだってさ」と前嶋先輩は、またべつのギタリストの人にスミカの言葉を伝えた。げえ、またキー変えるのかよ、とその人は文句を言った。屋上練習で使って いたドラムセットが部室に運び込まれて、さらに四、五人の部員たちが部屋に入ってきた。部屋の人口密度は一気に上昇して、体の向きを変えるだけで肩と肩が ぶつかってしまうほどになった。
「あ、そうだ、チョコ配るね」
 人が集まったところで、スミカが言った。かばんから、透明なビニールで包装されたチョコレートクッキーを一抱えほども取り出して、男子部員たちに一人一 人手渡した。手作りだと彼女が言うと、歓声があがった。僕は、ほんの少しだけれど失望を味わった。でも、考えてみれば当たり前のことだった。彼女が、まさ か僕一人のためにクッキーを焼いてくるなんてことがあるわけはないのだ。

       *

 たぶん、その後の色々なごたごたを省みると、僕はその日その時、そのことに気づくべきだったのだと思う。
 けれど、もちろん、過ぎ去った他の多くのものや人々や帰らぬ日と同じように、そのこともまた取り返しのつかない記憶として鋳固められ、記憶の槽の冷たい 水銀に放り込まれ、それから僕のポケットの穴を通ってどこかの暗黒にこぼれ落ちていった。どうしようもない。
 オレンジのリボンがかけられていたのは、僕がもらったクッキーだけだった。
 啓示は、けれど僕の指の間をすり抜けていった。僕がそれに気づいたのは、高校を卒業してだいぶたってからだ。







第三章 銀の槌 (3:26)

    1999年 5月


 そのギターには、うさんくさい与太話がいっぱいくっついていた。
 持ち主であるレイシは、何回目かのスタジオ練習の時にそのギターを僕に見せて、いつもの囁くような声で、それでもいくぶん自慢げにその話をしてくれた。
 僕はそのとき高校を卒業して一年がたった十九歳で、レイシはひとつ年下だった。僕と前嶋先輩とケンタで組んだバンドは、卒業してからもギタリストのレイ シを加えて活動していたのだ。
 レイシはそのギターを『北海道』と呼んでいた。古めかしいエピフォン・カジノで、ピックガードには大きなへこみがあり、シールドジャックは接触が悪く て、いちいちガムテープで固定しないとノイズがやかましかった。ボディの裏側に赤黒い菱形の染みがあって、これが『北海道』というあだ名の由来になってい た。ネックを下に向けると、たしかにその染みは北海道の形そっくりに見えるのだ。
「このギターの正式名称は、『チャップマン』っていうんです。フルネームはマーク=デイヴィッド=チャップマン」
 レイシはまずはじめにそう言った。どこかで聞いたような名前だったけれど、詳しいことは思い出せそうになかった。
「ヒロさんて、79年生まれでしたよね」とレイシは訊いてきた。
「ううん、80年。早生まれだから」と僕は応えた。
「あ、そうか。俺も80年生まれです。80年の12月8日。この日、何の日だか知ってますか?」
 僕は少し考えてから、首を横に振った。
「1980年12月8日、ニューヨーク・セントラルパーク近くで、マーク=デイヴィッド=チャップマンという男が、スタジオ帰りのジョン=レノンを襲って 拳銃で殺害しました。その時にジョンが持っていたギターが、これです。この染みはジョンの血です」
 僕はその北海道形の血の染みを見下ろし、ネックの付け根におそるおそる触れ、それからレイシの顔を見上げた。
 レイシの口元には、皮肉っぽい笑みが浮かんでいた。
 数秒にらめっこしたあと、レイシは破顔した。僕は彼の肩をどやしつけた。それから僕らは、顔を見合わせて笑った。
「ギターはケースに入っていたはずでしょ? なんでボディに染みがつくの」と僕が訊くと、
「ジョンの血は特別なんですよ」笑いをこらえながらレイシが答えた。
 前嶋先輩がチューニングを終えて、話に割り込んできた。
「ちょっと、そのカジノ見せてみ」
 前嶋先輩は『北海道』のネックの付け根をつまみあげて、指板をなぞった。
「……十六フレット目だ。ちぇ、とりあえず合格」
「何の話?」と僕は訊いた。
「カジノってな、今出回ってるのは、ほとんどが日本製か韓国製の復刻版みたいなやつなんだよ。そいつらはネックとボディのジョイントが十七フレット目に なってるんだ、ハイポジションが押さえやすいように。でも、当時のカジノはつなぎ目が十六フレット目だったんだよ」
 僕は先輩の手元をのぞき込んだ。ネックを区切っているフレットの金属棒を、数えてみる。確かに、十六番目の区切りでネックはボディに食い込んでいた。
「じゃあ、これは、つまり、本物ってこと?」
 前嶋先輩はギターをレイシの手に押しつけると、エフェクターのペダルをがちゃがちゃ踏みながら笑った。
「本物って、なんだよ。本当にジョン=レノンのギターかってことか? 言っとくけど、旧式と同じ十六フレット目でジョイントした限定版が日本でも発売され てるし、アメリカのギブソンはビートルズが使っていたのとそっくりなカジノを作って売り出したっていうぜ。それかもしれない。っていうか、お前ほんとに信 じてるのか、ジョン=レノンの血がどうのこうのって」
 前嶋先輩はベースのヘッドでレイシのお尻を突っついた。レイシは笑ったけれど、何も答えなかった。
 スネアドラムの張りを調整していたケンタが、練習開始を大声で告げたので、その話題はうち切られた。

       *

「不吉なギターなんです」
 スタジオからの帰り、レイシは僕と二人きりになったとたんにそう言った。『北海道』の話の続きだと気づくのに、少し時間がかかった。彼はよく、ひどく唐 突な話の切り出しかたをするのだ。
 僕の住んでいるアパートは、いつも練習で使っているスタジオから歩いて十分くらいのところにあった。独り暮らしの僕の部屋は、当時知り合いたちにひどく 重宝がられた。ちょうどスタジオにも近かったので、スタジオ練習が終わった後のミーティングは僕の部屋でやることも多かった。前嶋先輩やケンタはバンドと はまた無関係に、毎週日曜日にひょっこり部屋にやってきてはゲームをしたり競馬中継を観たりした。
 その日は前嶋先輩もケンタも忙しいらしく、二人ともバイクと車でさっさと帰ってしまった。僕は駅までレイシを送ることにした。午後十一時を回っていて、 終電まであまり時間がなかった。
 駅までの道すがら、レイシは不吉なギターの話をした。
 前の持ち主は彼の三才年上の従兄で、四年前に風呂場で手首を切った。
「発見されたときに、このギターを抱えて死んでいたらしいんです。でも変なんですよ、確かに死因は出血多量のはずなのに、風呂場に血は一滴も落ちていな かったらしいんです。シャワーがお湯出しっぱなしだったんで湿気もすごかったそうなんだけど、ギターは全然濡れてなかったそうです。ボディも塗装も無事 だったし、音も悪くなっていなかったし」
「現場を見たの?」
 僕の問いに、レイシは首を振った。
「従兄は青森に住んでたんです。小さい頃はよく夏休みとかに遊びに行ったりしたんだけど、中学に入ってからは全然会ってなくて」
「ギターやってたんだ、その人。レイシにギターを教えてくれたりしたの?」
「いや、俺のは独学です」
 レイシは言って、左手に下げた真っ黒なハードケースに視線を落とした。
「このギターをもらってから、始めたんです。その従兄の遺言が、小さなメモ用紙にたった一行だけ走り書きしてあって、『ギターを令嗣に渡してください』 だったんです」
「それだけ?」
「そうです。変でしょ」と言って、レイシは鼻で笑った。
「でかい人でした。身体もでかくて顔もでかくて態度もでかい人でした。俺、初対面で『おいレイシ』って呼び捨てにされたのを憶えてます。会うたびに人の悪 口ばかり言ってました。知り合いの悪口じゃなくて、いろんな有名人の悪口です。政治家とか、科学者とか、ミュージシャンとか。妄想癖があったのかな。訳の 分からないことばかり言ってました」
「その人が、どうしてジョン=レノンの遺品のギターなんか持ってたのさ?」
 暗い話題になりつつあったので、風向きを変えようとして僕はからかい半分にそんなことを訊いてみた。レイシはその質問を無視した。
「孤独な人だったみたいです。『レイシちゃんといるときだけあの子はよく喋るのねえ』って、伯母さんが言ってました。確かに、俺以外の誰かと喋っているの を見た記憶がないんです。伯母さんや伯父さんとさえ、口をきかなかった。『ああ』とか『うん』とか、それぐらいです、口にするのは。なのに、俺といるとき には、そりゃあもうべらべら喋るんです。プールの栓を抜いたみたいに。泊まりに行ったときにはいつもその人の部屋で一緒に寝ていたんですけど、二人で布団 に入った後でも何かぶつぶつ言ってるんですよ。それで時々『おいレイシ聞いてるか?』って俺の肩をつっついたりするんです」
 僕らは赤信号で立ち止まり、旧甲州街道を流れゆく車のヘッドライトの残照をしばらく眺めた。車道を挟んだ向かい側、二十四時間営業のディスカウントスト アの店頭には照明が煌々と灯り、誘蛾灯にひかれた虫たちのように、数人の若者たちが駐車場の入り口にたむろして、何をするともなくしゃがみ込んで煙草を 吸ったりフェンスに寄りかかって携帯電話をいじったりしていた。
 信号が変わった。僕らは黙って横断歩道を渡り、ディスカウントストアの前を通り過ぎた。
「その人のこと、あまり好きじゃなかったの」と僕は訊いた。レイシは笑って首を横に振り、
「いえ、けっこう好きでしたよ、俺は。まわりのほとんどの人から煙たがられているだろうなっていうのは、小学生の俺にもなんとなくわかりました。でも、俺 はその人をどうしても憎めなかった。俺とよく似ていたから、かもしれないです」
 レイシはそこで言葉を切って、僕の顔を見つめてきた。
「紙おむつみたいな人でした」
「紙おむつ?」
 レイシは淡く笑ってうなずいた。
「吸水性が高くて、でも容量が少なくて、すぐにぱんぱんになってしまう。あの人は、きっと、人生のはじめの方で、不運にも汚物だかおりものだかをいっぱい に吸い取って、それで満タンになっちゃったんです。本当はもっと、色々なことを学べたはずだし、色々な人とわかりあえたはずなのに」
「それは、ええと、感受性の話」
 僕が言うと、レイシは小さくあごを引いた。
「――だから俺は、時々、ヒロさんがものすごくうらやましくなるんです。紙おむつとか生理用ナプキンのCMで、よくあるじゃないですか。『強力新製品、 たっぷり吸い取っても表面はさらさら』――」
 僕は黙っているしかなかった。
 レイシの言っていることは、わからなくもなかった。彼の言う紙おむつ的人間を、僕は容易に想像することができた。傷つきやすく、コミュニケーションに過 敏感で、それでいて狭量で、しかも内面の暗黒は人のぬくもりをしじゅう求め続けているのだ。
 けれど、レイシの僕に対する認識は、間違っていた。激しく間違っていた。本人がそう思うのだから間違いない。
 僕のポケットには穴があいているだけなんだ、と、僕はレイシに説明しようとした。踏切の向こうを急行電車が駆け抜け、僕の言葉をずたずたに引き裂いた。


 レイシは切符を買った後、自動改札口の前でしばらくうつむいて立ち止まっていた。何かを言おうか言うまいか迷っているようなそぶりだった。
「レイシ?」
 僕が声をかけると、彼は顔をあげた。唇が半開きになり、それからきゅっと強く結ばれ、また開いた。
「ヒロさん。俺の話、信じてくれないですよね」
 僕はびっくりして、首を横に振った。レイシはドライアイスの匂いのする笑みを浮かべた。
「いいんです、無茶な話だったし。でも、これだけ、見ておいてください」
 レイシは、ケースから『北海道』を取り出して僕に手渡した。それから自動販売機でスポーツドリンクを買って、プルリングをあげた。
 彼は、飲み口の金属が鋭くなった部分に左の人差し指を押し当てて力をこめた。じきに血がにじみ出す。
「レイシ……」
 言いかけた僕を遮って、
「ギターを持っていてください、ボディの裏を上にして」
 レイシの声の迫力に押されて、僕は言うとおりにした。左手でネックをつかみ、右手はストラップのピンのあたりにそえて、ボディの背板を上に向けた。街灯 の貧相な銀灰色の中で、北海道形の黒い血痕がぎらりと光ったような気がした。
 レイシはギターの上に切った指を差しだして、その上で缶を傾けると、切った指先を洗うようにして缶の中身をギターの上に注いだ。僕は驚いて、反射的にギ ターを持った手を引っ込めようとした。「動かないで!」というレイシの声が、僕の全身を凍り付かせた。
 飲み口から流れ出した濁った液体は、レイシの指にからんで血と混ざり合い、ギターの背板を打った。その時、不思議なことが起こった。
 北海道形の血痕が、まるで内部から光を発するかのように、鮮やかな紅色にかわった。ボディを打った液体は、そのまま広がることなく、幾筋かの流れになっ て血痕に引き寄せられ、『北海道』の海岸線をふちどり、細かく泡立ち、それから吸い込まれて消えてしまった。
 消えてしまったのだ。
 レイシは缶の中身をすっかりギターの上にぶちまけた。ボディはまったく濡れていなかった。くすんだニスの光沢の上には、飛沫の水滴一つ見当たらなかっ た。みんな北海道が吸い取ってしまったのだ。
 僕はしばらく絶句して、その血痕をじっと見つめていた。血痕は渇きを癒し終えると、ゆっくりと色彩を失って、また元通りの黒に戻った。
 レイシは僕の手から『北海道』をそっと抜き取ると、ケースに収めた。留め金をおろすぱちんという音で、僕はようやく現実に引き戻された。
「じゃあ、また来週」
 レイシはそう言って、改札を抜けて行ってしまった。各駅停車新宿行きの到着を告げる構内放送が、かすかに聞こえた。レイシの背中が階段に消えると、遅ま きながら、僕の心臓の鼓動が痛いくらいに高まり始めた。

       *

 旧甲州街道沿いの歩道を歩きながら、僕は、たった今見た不思議な現象について考え続けた。考え続けたというのは正確な表現ではないかもしれない。意識が あの数十秒間に強く拘束されていたと言った方が正しいだろう。僕の思考は、レイシの指と、血を洗うアイソトニック・ウォーターと、鮮血の色に輝く『北海 道』の映像をリピートし続けていた。横断歩道を渡るとき、あやうく大型トラックに轢かれそうになった。赤信号にも気づかなかったのだ。
 アパートに戻り、階段をあがったところで僕はぎょっとして立ち止まった。僕の部屋のドアの前に、誰かがうずくまっていたからだった。
 その人影は僕の気配に気づくと、顔をあげ、背中をドアにこすりつけるようにして立ち上がった。隣の家の玄関灯の光が、トタン板の間から差し込んできてい て、彼女の顔を照らした。
「ヒィロ? おかえり……」
 ユーキはそう言って、僕の方に二三歩近づき、よろけて自分の足につまづき、僕の腕の中に倒れ込んだ。







第四章 いとしい人 (3:26)

    1996年 4月


 二番目に話すのは、前嶋先輩のことだ。
 実は、僕はこの前嶋邦生という人物について、多くを語ることができない。口は達者なくせに自分の話題は注意深く避けておいて、聞いているこっちにはそれ を気づかせないという、得難い才能の持ち主だったからだ。
 前嶋先輩に自分のことを喋らせるには厳しい条件を必要とした。まず、聴き手が一人か二人であること。これは簡単。次に、先輩の好物であるドクターペッ パーを飲ませること。これは困難だった。学校のそばの自動販売機では売っていなかったからだ。最後に、聴き手に最低でも女の子が一人はいること。この条件 のせいで、先輩のシリアスな話を聞くときには隣にいつもスミカがいた記憶がある。
 先輩自身の話は、『クニさんのちょっといい話』というタイトルで九章立てになって先輩の頭に収納されていて、ドクターペッパー一缶で喋ってくれるのは一 章ぶんだけだった。
 僕が聞いたことがあるのは、『クニさんのちょっといい話』の6と7と8だけである。しかも、今となっては内容を憶えているのは7だけだ。なので、それを ここで引用することで、前嶋先輩の紹介とするしかない。


 『クニさんのちょっといい話・7』のはじまりは、前嶋先輩の高校一年生の十二月だ。正確に書くと、前嶋先輩の「一回目の」高校一年生、ということにな る。
 前嶋先輩は、中学を卒業してまずF高校に入学した。小さい頃から保健室が大好きだった先輩は、高校でも保健委員になった。それから平穏に半年が過ぎて、 十二月のはじめ、先輩はF高校を自主退学した。保健委員の副顧問だった教師を殴ったらしい。
「なんで殴ったの?」と僕は訊ねた。
「『スプリングマンのテーマ』って聴いたことあるか?」
「ううん」
「あの曲聴くと、たいていの人間は殴ってもいいように思えてくるからおすすめだ。今度貸してやる」
 さて、さしもの前嶋先輩も、中退して長すぎる冬休みを前にして途方に暮れた。親にもこっぴどく叱られた。そこで先輩はどうしたかというと、ありったけの 貯金を下ろし、スキー板を担いで東北行きの夜間バスに飛び乗って逃げたのだそうだ。
 なにせ十一月である。雪も少ない。スキー場にはほとんど人がいなかった。でもここからが前嶋邦生の前嶋邦生たるところで、先輩はゲレンデでひとりの女子 大生と知り合うのだ。
「ちょっとちょっとちょっと」、隣でスミカがのけぞった。
「クニさんの童貞喪失は『ちょっといい話』の9番でしょ? こないだ話してくれたじゃない」
 そんなエピソードまで喋っているのか、と僕は内心驚いた。
「だから。このときはなにもなかったんだ」
 先輩とその女子大生はシュプールの交差点で二、三それっぽい言葉を交わした後、別れた。そして夜、宿のロビーで再会。泊まっている場所が同じだったの だ。僕ものけぞりたくなった。語り手が先輩じゃなかったら文芸部に入部をすすめるところだ。
 女子大生は先輩の泊まっている部屋にやって来た。そこで、十六歳の男と十九歳の女は、なぜか着衣を乱すことなく、お互いの行き詰まりつつある現状につい て語り合ったのだそうである。
 彼女は大学をやめようか悩んでいた。すべてがつまらない、けれど、学校には行かなくちゃいけないんじゃないかという気持ちだけでずるずると続けている。
 そこで先輩は、彼女から「学校に行かなくちゃいけない気持ち」を五百円で買い取った。彼女はスキー場のバカ高いビールをその五百円で買って飲み、翌朝、 二人は別れた。
 翌年四月、前嶋先輩はJ高校の入学試験を受け、合格した。つまり、その一年後に僕が入学することになるこの高校だ。『ちょっといい話』の7番はここで終 わっている。

       *

 一年生の頃、僕にはただの一人も友達がいなかった。僕の中学からJ高校に進学したのは僕一人だったし、自分からクラスメイトに話しかけるなんてことは一 切なかったし、昼食時には購買部で買った総菜パンを民音部室のピアノの椅子に座って独りで食べた。前に書いたように、バンドにはほとんど参加しなかった。 友達ができるはずがなかった。
 僕はべつだん、人嫌いなわけではなかった。外界との接触をかたくなに拒否していたわけでもなかった。僕にはただその必要がなかっただけなのだ。
 当時、僕のまわりには征服すべき百万の物語世界があり、吐き出すべき詞があり、歌があり、ジョン=レノンがありポール=マッカートニーがありジム=モリ スンがありボブ=ディランがありロジャー・ウォーターズがありジミ=ヘンドリクスがあった。フレディ=マーキュリーとブライアン=メイとロジャー=テイ ラーとジョン=ディーコンがあった。活字で記された革命と白黒写真に写った歴史とカセットテープに吹き込まれた恋があった。胸の裏側のあたりから日々ふつ ふつと湧いてくるささやかな自己顕示欲は、部室のピアノに向かって『ピアノ・マン』を歌っているだけでたいてい解消できた。夏にCメイジャーのハーモニカ を買って、僕の自己顕示欲処理はほぼ完璧になった。高校生と理由もなく世間話をする必要なんて、どこにもなかった。
 そういう話をスミカにしたら、思いっきり笑われたことがある。
「君は、ばかだね」と、フライドポテトをかじりながら彼女は言った。マクドナルドの店内は、帰宅前の学生やサラリーマンでごった返していた。
「おかしいよ。必要がないから、話さないなんて」
 僕はむっとした顔で反論した。
「だって、誰かと話すっていうのは、その、重労働じゃないか」
 コップに残っていた炭酸飲料を飲み干す。
「労働?」
 スミカは眉をひそめた。
「人と話すのは労働なの?」
 僕は言葉に詰まった。スミカはじっと僕の顔を見つめてきた。彼女は、自分の眼差しが及ぼす効果をよく心得ている。それは言裏にこう問うていた。私と話す のも労働なの? と。
「ごめん」
「なんで謝るの」
「労働っていうのを訂正してもいいかな」
 僕はそのころ、言葉というものに対してアメフラシのように鈍感だったのだ。
「どうぞ。じゃあ、君にとって人と話すというのは?」
 僕はスミカの視線を受けて跳ね回る心を必死に抑えつけながら、慎重に言葉を選んで喋り始めた。
「――たとえば、夜中に突然、激しい尿意をもよおして目が覚めたとする。で、トイレに行っておしっこをする。すっきりするよね、それで。一種の快感と言っ ていいと思う。でも、おしっこをしてすっきりするのがいくら気持ちいいからといって、望むときにいつでもおしっこが出るわけじゃない」
 僕は言葉を切って反応を待った。スミカは何も言わなかった。彼女の顔をうかがいながら、僕は付け足した。
「それと、同じことだと思うんだ、人と話すっていうのは」
 そこまで聞いてから、彼女は僕の頭を平手で――けっこう強く――張り飛ばした。彼女にしては異例の我慢強さだったと言える。
「お下品なたとえ話使わないの」
「でも、大筋は伝わったでしょ」
「確かに。だから君は一日に三回くらいしか会話できないんだね。しないんじゃなくて、できない」
「そう。それに、普通、人は決まった場所で用を足すのものだし」
「私はトイレか」スミカはまた僕の頭を小突いた。そのとき、笑っている自分に気づいて僕はひどく不思議な気持ちになった。人と話していて楽しい思いをした ことなんて、スミカに会うまではただの一度もなかったのだ。
 僕らはマクドナルドを出た。
 駅の前のバスターミナルで、スミカは突然言った。
「こんど、野川公園に行こう」
「え?」僕は聞き返してしまった。
「野川公園、知らないの?」
「うん」
「そうか、まあ、あんまり有名じゃないしね。野川は知ってるでしょ、いつも自転車で通ってるんだから」
「野川って、あの、いつも水のない川?」
 スミカは苦笑いしてうなずいた。
 野川について。
 僕は一年生の三学期から、片道四十分の道のりを自転車通学することにしていた。毎朝の満員電車というものがどうにも我慢できなかったからだ。稲城の家か ら高校にいたるルートはいくつかあって、品川通りルートをとると、くだんの野川を渡ることになる。
 異常な川だった。正確を期せば、少なくとも夏の間はそれを川と呼ぶことはできなかった。水が干上がってしまって流れていないのだ。水たまりになって川底 に点在していればまだましなほうで、暑気盛んな時期になるとゴミとヘドロだらけの悲惨な川底が完全に露出することになった。水のない野川の話は、調布や狛 江の住民にとってはわりとメジャーな笑い話のネタだったようだ。
 閑話休題。
 スミカは話を続けた。
「その野川の少し上流にね、上流って言っても府中市内だけど、でっかい公園があるの。何にもないけど、いいところだよ。静かだし。ね、行こう」
「えっと。何しに」
 愚問だった。まったく、後から考えて自分でも呆れるくらいの愚問だった。教科書に載せて見開き二ページ分のイラスト付き解説とコラムまで添えてしまいた いくらいの愚問だった。当然、スミカは呆れた顔をした。怒られなかっただけ幸運だと思うべきだったのかもしれない。
「――芝生に転がってお昼寝したり。あずまやでお弁当食べたり。雑木林でムササビを追いかけたり」
「ムササビがいるの?」
「いない。たぶん」
 僕は黙り込んで、自転車のスタンドをおろし、駅の改札そばの円柱にもたれた。通過電車注意のアナウンスにかぶさるようにして、急行八王子行きが足下を駆 け足で通り過ぎてゆく。
 電車の足音がじゅうぶん遠ざかってしまってから、スミカが言った。
「人生の無駄遣いだ、とか思ったでしょ」
「思ってないよ」と僕は嘘をついた。
「今度の日曜。ひま?」
「うん。今のところ」
「じゃあ、武蔵野台の駅の前。丸正んとこね。お昼の一時に」
 待ち合わせの約束をして、僕らは別れた。プラットフォームへと下りる階段に彼女が消えてしまうのを確認してから、僕は自転車のスタンドをはねあげ、ライ トのスイッチを入れた。

       *

 日曜日の野川公園は、春の草木の匂いでいっぱいだった。
 野川公園は、野川と東八通りの交差点に作られた広い緑地帯をフェンスで囲っただけの場所だ。学校の敷地四つか五つぶんくらいの広さがあり、雑木林があ り、あずまやとベンチを並べた広場があり、河岸の芝生敷きのなだらかな斜面があり、尾瀬沼の湿地帯みたいに渡し板の足場を巡らせた深い草地があった。
 幸い、天気は上々だった。僕とスミカは公園の入り口に自転車をとめると、敷地内を歩いて回った。家族連れの姿がよく目に付いた。公園内の野川には、ささ やかではあるけれどきちんと水が流れていて、ズボンをひざまでたくしあげた子供たちが裸足で水遊びをしていた。
 僕らは雑木林の歩道を散策し、東八通りを越える歩道橋を渡って公園の北側に行って、河岸の芝生に座って弁当を食べた。スミカが二人分のサンドウィッチを 作ってきてくれたのだ。
 その日のスミカは、前嶋先輩(クニさん)の話ばかりしていた。彼女が民音に入部した理由は、百パーセント前嶋先輩目当てだったという。
「新歓のときにさ、民音のやったライヴ憶えてる?」
 民俗音楽部は、四月に開かれた新入生歓迎会上のコンサートで、大昔のフォークソングのヒット曲をハードロックにアレンジしていくつも演奏したのだ。選曲 が面白かったので、僕もよく憶えていた。
「『若者たち』とか『あの素晴らしい愛をもう一度』とか」
「そうそう。メタルアレンジのやつ。クニさんがベース・ヴォーカルで。あれ観て、もう、一撃。即入部決定」
「一目惚れ」
「そうとも言うね」
 彼女は水筒に入った麦茶を内蓋に注いで僕に手渡し、外蓋に自分の分を半分くらい注いで一口飲んだ。それから、僕の肩に頭をのせた。前にも書いたと思うけ れど、そういうスキンシップをためらいなくやってしまう女の子なのだ。
「スキー旅行、行ったでしょ。冬休みにみんなで」
「僕は行ってない」
 去年の年末に、前嶋先輩が呼びかけて、民音部員の何人かでスキーに行ったということは、話だけは聞いていた。
「もう、ひどかった。安手のパック旅行でね、バスはとまって旅館まで歩かされるわ、シベリアの収容所みたいに寒い体育館に二時間閉じこめられるわ、夕食は 出ないわで」
 僕のあごの下で、スミカはくすくす笑った。
「一応、旅館の部屋は二つ予約したんだけどね。夜になっても、みんなで男部屋の方に集まって、寝ないで喋ったりゲームしたりだったの、もちろん。それで ね、クニさんがちょっとロビーまで飲み物買いに行ったすきに、みんなで共謀して部屋の扉に鍵かけて閉め出しちゃったのよ。ちょっとしたいたずらでね。そう したらクニさん、本気で怒っちゃってね。なにしろその旅館、廊下にはまともな空調が効いていなくて、とにかく寒かったのよ。みんな面白がって三十分ぐらい 扉を開けずにおいたら、クニさん怒って扉蹴飛ばして、どこか行っちゃったの。で、私が探しに行ったの」
「見つかったの」
「うん。外にいた」
「そと?」
「旅館の外。駐車場のとこ。雪だるまの上に座って、MD聴いてた。私も隣に座って、イヤフォン片っぽ分けてもらって、一緒に聴いたの。どんなの聴いてたと 思う?」
 僕は、わからないというふうに首を振った。
「ジュン・スカイウォーカー(ズ)。ユニコーン。レベッカ。リンドバーグ。そんなの」
 僕は目を丸くした。当時はまだ前嶋先輩の趣味をよく知らなかったし、ライヴで演っている曲なんかから推測して、ハードコアパンクとかグラムロックとか、 そっち方面の人だとばかり思っていたのだ。
 スミカは小声で、リンドバーグの『君のいちばんに』のブリッジの部分を歌った。

 君のいちばんに 本当はなりたかった――

「それからねえ。クニさん、自分の話を色々してくれた。『クニさんのちょっといい話』の10番。ここの部分はオフレコ。なので、本人の承諾がない限りお聴 かせできません」
「それは残念」と僕は言った。
「それから、私、告白された」と、スミカは言った。
 僕は黙ったままでいた。言葉が思いつかなかったのだ。
「ひょっとして、みんなが共謀してはめたのはクニさんじゃなくて私だったのかもしれないね。考えすぎだけど。とにかく、私、クニさんに告白されたの」
 スミカもそこまで言って、黙りこくってしまった。僕らは、川の向こう岸の斜面で遊んでいる三人の小さな子供たちをながめた。男の子が二人で、女の子が一 人だった。彼らは段ボールをそりのかわりにして、滑らかな芝生のスロープを滑り降りながらはしゃぎ、転げ回り、また斜面を駆け上がるということ繰り返して いた。
 川面に目を移すと、水流の間に置かれた大きな石の足場の上で、ブリーフひとつの格好をした四歳か五歳くらいの男の子が、悲愴な声で母親を呼んでいた。川 の真ん中までやってきて、急に水が怖くなって戻れなくなったらしい。
 黄色と黒の縞模様をした虻のつがいが、宙をもつれあいながら僕の鼻先まで飛んできて、また川の方へと去っていった。そして、沈黙がひたひたと僕やスミカ を浸食し始めた。
「何か質問は?」と、たまりかねたようにスミカが言った。
「それから、どうなったの」と、僕は無感動に訊いた。
 スミカは僕の肩の上で首を回して、ものすごく哀しそうな目で僕を見た。それから、言葉を一つ一つ切るようにして、言った。
「私と、クニさんは、つきあうことになりました。今では、彼が、私のダーリン」
 違和感が僕を押し包んだ。どうして僕はこんな柔らかな陽光の降り注ぐ公園で、女の子にもたれかかられて、誰かと誰かがスキー旅行がきっかけでつきあい始 めることになったなんて話を聞いているのだろう。何かが間違っている。何かが致命的に掛け違えられている。
「でもね、私、君のことが好きなの」
 スミカはごく自然に、息を吐くのと変わらない調子でその言葉を口にした。そして僕はそのとき唐突に、『クニさんのちょっといい話』第10章のまっただ中 にいる自分に気づいた。
「君の身体が好き。脚が好き。冷や麦みたいに細くてつるんとした腕が好きなの。これ、どうしようもないの」
 スミカは身体ごと僕の方に向き直って、ほとんど体重の全部を預けてきた。僕らは折り重なって芝生の上に倒れた。







第五章 たこつぼ庭園 (2:49)

    1999年 5月


 ユーキは僕の胸に額をぐりぐりとおしつけると、急に全身の力を失って床にくずおれかけた。顔を近づけなくても、漂うアルコール臭が鼻につく。彼女は僕の 太股に頬をあずけて、寝息なんかたてはじめた。アパートの廊下の暗がりで、僕はしばし途方に暮れた。冗談じゃない。こんな場所で寝られたら困る。
 僕はしかたなしに、ユーキの身体を引きずるようにして部屋に運び込み、二枚並べた座布団の上に寝かせた。彼女は膝上二十センチくらいのジーンズのスカー トをはいていて、それが下着が見えてしまうくらいまでずり上がっていたので、僕は裾をひっぱりおろした。
 スカートをはいた彼女になにか違和感をおぼえて、僕は記憶にあるユーキのスカート姿をさがしてみた。すると中学校の制服にまで遡らないと出てこないこと がわかった。ユーキの通っていた高校は私服が認められていたし、彼女はいつもクリーム色のコットンパンツやスリムジーンズばかりはいていたからだ。
 毛布をかけてやると、ユーキは五分ばかりおとなしく寝ていた。それからやおら毛布をはねのけてブラウスの胸をはだけ、うつぶせになると、平泳ぎを始め た。僕はそれを横目で見ながら、文庫本や楽譜の散乱したテーブルの上を片づけ、たまっていた郵便物のうち公共料金の支払い請求書をより分けてそれ以外を全 部ごみ箱に捨て、電子ピアノの上に出しっぱなしだったCDの山を片づけた。
 ユーキが泳ぐのをやめて「のどが渇いた」と騒ぎ始めたので、冷蔵庫に入っていた麦茶の一リットルパックを与えた。彼女は五秒でそれを全部飲み干してし まった。
 のどの渇きがおさまると、ユーキはおとなしくなった。両腕をまくらにしてテーブルに突っ伏している。頬や鼻の頭が真っ赤だ。
 最後にユーキに会ったのはいつだったろう、と僕は思った。確か正月に実家に戻ったとき以来だ。電話だってここ半年なかった。僕は彼女に住所を教えただろ うか? そんな憶えはなかった。まあ、僕の住所くらい知る方法はいくらもある。あるいは彼女は府中をうろついていて偶然僕の部屋の前まできてしまったのか もしれない。もしくは僕の匂いをたどってきたとか。僕が府中に住んでいるということは知っていたわけだし。(後になって知ったことだけれど、ユーキの通っ ている大学は府中市にあって、彼女の住んでいるマンションは僕のアパートから一キロと離れていなかった。僕はてっきり、ユーキは実家から通学してるものと ばかり思っていたのだ)
 CDデッキの電源を入れて、ランダムモードで再生してみた。『原子心母』のイントロの低いうなりが、スピーカーから静かにフェイドインし始める。それに つれて強烈な眠気がやってきた。土曜日は、午前中にアルバイト先から帰ってきて、そのまま夜のスタジオ練習まで寝ずに通すので、いつもそうだった。特にそ の日はレイシに奇妙なものを見せられたり、ユーキが突然酔っぱらってやってきたりで神経が高ぶっていたから、その緊張がピンクフロイドのおかげで一気に解 けてしまったときのギャップは劇的だった。
 僕はほとんど暴力的な勢いで眠りに引きずり込まれた。昏倒、というのが正しいだろう。夢は見なかった。

       *

 目が覚めると、目の前に鏡があって、僕の顔が上下逆さまに映っていた。
 僕は「鏡像はどうして左右が逆になるのに上下は逆にならないのか」について詳しく解説した本のことをとっさに思い出した。その本を読みながら、僕は、鏡 像の左右が逆であることがなぜ本にして解説するほど不思議なことなのか、そちらのほうが不可解だとずっと考えていたことも思い出した。紙に書いた文字を裏 側から透かして見れば左右が逆になっているのは当たり前で、それが鏡だとどうして『不思議なこと』になってしまうのだろう。
 それはそれとして、鏡に自分の顔が上下逆さまに映っていたら、これはもうじゅうぶんに大事件だった。おかしいのはそれだけではなかった。鏡に映っている のは目を閉じた僕だった。じゃあそれを見ている僕のまぶたは一体どうなっているのだ。
 ねぼけた頭の靄が一枚ずつはがれていって、僕は昨日のことを少しずつ思い出した。まず蘇ってきたのは、『北海道』に吸い込まれるスポーツドリンクとレイ シの血だった。それから、僕を轢き殺しそこねた大型トラックの強烈なヘッドライト。それから、僕の太股に寄りかかったユーキの赤ら顔。僕の頭はその映像で 急激に覚醒した。
 上体を起こした。ユーキが僕の隣で毛布にくるまって眠っていた。鏡なんてどこにもなくて、僕が見ていたのはユーキの顔だった。僕と彼女は二人して太極図 みたいなかっこうで床に転がって寝ていたのだ。
 時計を見ると、午後一時を十分ばかり回っていた。昨日最後に見た時計の記憶から睡眠時間を計算して、僕は仰天した。いくらなんでも十三時間は眠りすぎ だ。こんなんじゃ脳味噌が腐ってしまう。
 それに、その日は昼過ぎから前嶋先輩とケンタが遊びに来ることになっていた。僕は歯も磨いてなければ顔も洗っていない。髪はぼさぼさだし、全身汗くさ かった。
 とりあえずユーキを起こすことにした。肩を揺すぶってみる。起きない。頬を叩いてみる。やっぱり起きない。背中を蹴飛ばしてみても、毛布をひっぺがして 敷き布団代わりの座布団を二枚とも引っこ抜いても、ユーキは目を覚まさなかった。仕方なく僕は、カラヤンの振るベルリン・フィルのベートーヴェンを大音量 でかけっぱなしにし、タオルと下着を持って風呂場に行った。たぶん、第一楽章が終わるまでには目を覚ますだろう。
 頭を洗っている最中に、チャイムが鳴った。「おおっす」という前嶋先輩の声が聞こえた。まずい。こういう日に限って来るのが早い。
 玄関を開ける人の気配がした。前嶋先輩ではない。先輩もケンタも、返事がないのに勝手に人の家のドアを開けるような非礼な人間ではない。だれかが中から 玄関を開けたのだ。だれか?
「はあい」というユーキの声が聞こえた。僕は浴槽のふちに足をぶつけてしまった。続いて聞こえた前嶋先輩のせりふは、これはもう大傑作だった。
「ヒロ、お前、なんでスカートなんてはいてるんだよ……」

 あるいはユーキの髪がもう少し長ければ、その惨劇は起きなかったのかもしれない。または、ユーキがちゃんと誤解を解こうという努力を見せれば、被害は最 低限で済んだのかもしれない。
 ともかくユーキは玄関口で前嶋先輩の言葉を聞いて、ぽかんとした顔をしたあと、その意味を悟って大笑いした。その後も、前嶋先輩が何を言ってもけらけら と笑うだけだった。僕がたまりかねて風呂場の窓から頭を出すまで、前嶋先輩はユーキのことを完全に僕だと勘違いしていたらしい。
 事態が落ち着き、僕が風呂からあがって三人が部屋にそろった後。
「だって、体つきとかで、わかるでしょう」とユーキは言って、風呂上がりの僕の方をちらりと見た。それから肩をすくめて、今度は前嶋先輩の方に目をやり、
「やっぱりわからないか」
「わからないねえ」と先輩。
 たしかに僕は背もあまり高くなかったし、肩幅もないけれど、あそこまで気づかないなんてあんまりだ。
 僕と前嶋先輩とユーキは、部屋の小さなテーブルを囲んで、先輩の買ってきた氷菓を食べていた。喋っているうちに先輩とユーキはあっさりと意気投合して、 僕の知らないイギリスのバンドの話題で盛り上がり始めた。僕はそのときまで、ユーキがブリティッシュ・パンクを聴いているなんてまるで知らなかったのだ。 ユーキがパンク?
 一時間くらいたって、またチャイムが来客を告げた。たぶんケンタだろう。僕が立ち上がろうとすると、前嶋先輩が小声で言った。
「待てよ。試してみよう。お姉さんに出てもらうんだ」
 それを聞いて、ユーキもにやりと笑った。
 結論から言えば、ケンタは前嶋先輩ほどの笑える反応を見せてくれなかった。僕と先輩は寝室のドアを五センチほど開けてその隙間から玄関の様子をうかがっ ていたのだけれど、ケンタはユーキを見て最初は驚いた顔を見せたものの、すぐに「あれ、ひょっとしてヒロアキのお姉さん?」と言った。そういえばケンタに は、僕に瓜二つの姉がいることを話したことがあった。先輩は露骨に期待はずれと言いたげな顔をすると、寝室の戸を開けて僕と一緒に玄関に行き、ケンタに種 明かしをした。
 ケンタも、やはりあっさりとユーキとうち解けた。どうも彼女には、人を惹きつけ、人の警戒心を解かせ、空気にあわせて適切な話題を次々と引っぱり出す天 性の才能があるらしかった。普段、苦悩する数学者みたいなしかつめらしい顔をしてドラムの話と競馬の話とやりくりの話(彼は高校時代、民音部の会計担当 だった)しか口にしないケンタに、はじめて会って三十分かそこらで、好きな女の子のタイプまで喋らせたりしたのだ。僕はちょっとユーキを尊敬してしまっ た。
 午後三時になったので、僕らはテレビで競馬中継を見た。もともと、前嶋先輩やケンタが日曜日にうちに集まるようになったのは、競馬のせいだった。僕のア パートは東京競馬場から自転車で五分くらいの距離にあって、馬券を買った帰りにちょっと寄るのにうってつけの場所だったからだ。
 正直に言って、僕は競馬にはほとんど興味を持てなかった。もともとギャンブルが好きなわけではないし、サラブレッドを見て美しい生き物だと思うこともな かったし、色とりどりの勝負服が交錯するターフの上の戦いにロマンがあると感じたこともなかった。それでも、先輩やケンタと一緒に毎週競馬中継を観ていた おかげで、僕は二十世紀最後の三年間に活躍した中央競馬の競走馬をけっこうくわしく憶えている。
 競馬中継が終わってしまった後で、僕らは麻雀をしたりボードゲームをしたりして遊んだ。僕の家の押し入れにはなぜか『アクワイア』とか『スコットランド ヤード』とか『カタンの開拓者』とか『フンタ』といったボードゲームの類が大量に眠っていて、多人数で遊ぶのに困ることはなかった。
 ユーキと、僕と、前嶋先輩やケンタが同じ部屋にいて、道路を引いたりホテルをたてたりクーデターを起こしたりしているというその状況に、僕は不思議なノ スタルジーを覚えた。誰もが間違って与えられてしまった仮面をつけて間違った役割を演じているのだけれど、それがある種のあたたかみのある滑稽さを醸して いるような、そんな奇妙で親密な空気だった。
 午後九時に、先輩とケンタは帰った。部屋には僕とユーキが取り残され、部屋を包んでいた温もりはぎこちなくこわばって、凍り付いた。僕はコップや麦茶の 紙パックを片づけ、台所で洗い物をし、ユーキはCDケースの中身をごそごそと探っていた。
 流しで食器を洗っていると、寝室の方から聞き慣れた曲が聞こえてきた。僕らのバンドのデモテープだった。ユーキが見つけだしてかってに再生したらしい。 僕は洗い物もそこそこに済ませると、あわてて寝室に戻った。身内にとはいえ、やはり自分で作曲して演奏した曲を聴かれるのはなんとなく気恥ずかしい。
「これ、あんたのバンドの曲?」
 ユーキはカセットテープのケースを指差して言った。ケースの背に「デモテープ1」ときっちり書かれているのだ。僕はうなずいた。
「なんて曲?」
「『アルタ前』」
「ふうん」
 ユーキは、カセットケースを両の手の平の間でくるくる回しながら、しばらくテープに聴き入っていた。『アルタ前』のメインヴォーカルは僕だった。本当は 前嶋先輩にヴォーカルをとってほしかったのだけれど、歌詞が気に入らなかったらしい。
「これ、ピアノは誰が弾いてるの」
「僕」
「やっぱり」
「やっぱりって何」
「へたくそ」
 余計なお世話だ、と僕は思った。
『アルタ前』が終わって、曲は『湘南ハッキング』に切り替わった。僕がバンドのためにはじめて書いた曲だった。
 ユーキは壁際にしゃがみこんで、折り曲げてそろえたひざの上にあごを乗せていた。ダークブルーのパンティがしっかり見えていたけれど、僕は気にしないこ とにした。
「あんた、プロになる気あるの?」
 テープが『ポテトパイ』のピアノソロにさしかかったあたりで、唐突にユーキが訊ねてきた。僕はしどろもどろになりながら答えた。
「うん……一応」
「一応って何よ、一応って。もっとしっかりしなさいよ。賭けてもいいけど、あんたこのままだったら一生フリーターのまんま、四十歳くらいでのたれ死ぬわ よ」
 それはおそらくその通りだろう、と僕は思ったので、何も答えなかった。たしか正月に顔を合わせたときも似たようなことを言われた気がする。
 僕は働くのが死ぬほど嫌いだった。たかが自分という一個の人間の衣食住をまかなうために、貴重な人生の三分の一だか四分の一を下らない作業のために費や すなんてまっぴらだった。というより、労働が人間にとって必要であるという当たり前の事実が、何かひどく原理的な、原罪的な誤りであるとしか思えなかっ た。やりたいことだけやり、言いたいことだけ言っていたかった。必然的に、僕の将来の選択肢は、職業芸術家しかあり得なかった。
 そういうひどく限定された選択肢の中で、僕に思いつけたのはロックミュージシャンだけだった。
 ――というようなことを僕はいちいちユーキに説明しようかとも思った。でも、おそらく彼女は笑うだろう。そしてきっと理解してくれないだろう。それに、 僕という人間がどうしようもない無精者であり、フリーターという猶予期間の中でまったく真剣さとほど遠い生活を送っているのは、これはもう厳然とした事実 だった。今の僕が何を言っても、それは負け犬の遠吠えであり、たにしの寝言に過ぎなかった。
 だから、僕は黙っているしかなかった。
『カタルニアンブルー』の最後の和音がフェイドアウトすると、後には沈黙の中で回り続けるカセットデッキの稼働音だけが残った。僕は開けはなった窓枠に腰 掛けて旧甲州街道を行き交う車を眺め、ユーキは壁にもたれてテープが無言で回る様をぼんやりと見ていた。
 テープがB面の最後まで回りきり、がちゃりと音を立てて止まると、ユーキは立ち上がってスカートの裾を直した。
「そろそろ帰る」
「ああ、うん。わかった」
「また来週、来るかも。日曜は家にいるんでしょ?」
「……たぶん」
 また来週?
 ユーキは玄関まで行って靴を履き、もう一度僕の方を振り返ってカウボーイ風の敬礼をした。
「じゃあね」
 その時僕はようやく気づいたのだけれど。
 四ヶ月半ぶりに見る彼女は、やっぱりとても綺麗だった。







第六章 あなたが欲しい (7:44)

    1996年 6月〜8月


 三番目は、ケンタの話だ。
 ケンタは、ほとんど全部を最初から最後まで知っていて、何もかもが終わった後でそれを僕に話してくれた。彼は、たいがいそういう役回りの男だった。色々 な人間が彼のところにやってきて、ごみを捨てて去っていく。彼はごみの中から使えるものと使えないものをよりわけ、使えるものは博物館にならべ、そうでな いものは焼却炉に放り込む。その作業だけで、彼の人生の大半は食いつぶされていた。
 たぶんそのせいだろうと思うのだけれど、ケンタの外見はえらく老けていた。最初見たときには教員の一人かと思ったほどだ。若白髪の目立つくせっ毛は、彼 の老け顔を助長していた。おまけにいつも、えび茶色のベストとか折り目の消えかけたダークグレーのスラックスとかを身に着けていた。Tシャツとかジーンズ を着ていたところを一度も見たことがない。
 まわりからは「おやじ」と呼ばれ、本人もそれを認めて、自分の老け顔をいつもジョークのネタにしていた。自分からやると言ったわけでも、他人から推薦さ れたわけでもないのに、一年生の二学期からすでに民音部の会計業務を取り仕切っていた。
 そして、とくに人望が厚いわけでもなく、話術に長けているというわけでもないのに、人間関係の様々な情報は彼のところに自然と集まった。人間の集団には まず、いつでもきれいで容量のたっぷりあるごみ箱が必要であることを、ケンタは誰よりも理解していたのだろう。そして、これもまた大切なことだけれど、ご み箱は(よほどのことがなければ)喋らない。

       *

 高校二年生の一学期、僕とスミカは何度かデートした。デートと呼んでいいのかどうかはわからないけれど、とにかく二人きりで何度か会って話をした。たい ていは土曜の午後とか日曜日だった。スミカから電話がかかってきて呼び出されるのだ。僕はその度に自転車で片道二十分かけて府中市まで出てきた。駅前なん かで待ち合わせて、ショッピングにつき合ったり、ファストフードの店に入って三時間も彼女の話を聞いたりした。
 不思議な期間だった。僕を取り巻く光景が、どこもかしこもふわふわと微熱に浮かされていて、頼りなかった。スミカと一緒にいるときはいつも、重力が半分 くらいになってしまったように感じられた。自分が何をしているのかがよくわからなかった。自分が何を喋ったのかも、スミカからどんな話を聞いたのかもほと んど思い出せない。女の子から好意を示された自分が一体どんな反応を示すのか、当時の僕は全然想像がつかなかったのだ(自分のことなのだけれど)。

 はじめてキスしたのは、六月のなかばだった。

 梅雨の合間に気持ちよく晴れた日曜日の午後四時だった。陽は物憂げに傾いて、多摩川の河川敷に広がる公園や多目的グラウンドや玉石の敷き詰められた草地 やすすきの群生をまんべんなく乾かしていた。
 僕はスミカからの電話を受けて、是政橋の府中側のたもとで彼女を待っていた。腕時計を持ち歩かないたちだったので、何分くらい待ったのかはわからない。 三十分か四十分か、それくらいだと思う。僕は立入禁止区域の木の杭に腰掛けて、自転車のフレームに足をのせてウォークマンを聴いていたので、スミカがやっ てきたのに気づかなかった。スミカがこっそりと僕に近づいてきてお尻のあたりを突っついたので、僕は驚いて杭の上から転げ落ちそうになった。
「遅れてごめん」と彼女は言った。「待った?」
 こういうシチュエイションで男が言うせりふというのは千年くらい前から決まっているのだけれど(『今来たばっかりだよ』)、僕は気の利かない正直者だっ た。
「ここに着いたときかかっていた曲は『マイ・ベスト・フレンド』だったけど、今は『ゴッド・セイヴ・ザ・クィーン』だ」
 僕がイヤフォンを指差して言うと、スミカは笑って首をかしげた。
「『ゴッド・セイヴ・ザ・クィーン』って、セックス・ピストルズの?」
 どうも話が通じていないようだった(当たり前といえば、まあ当たり前だ)し、それ以上説明するのも面倒だったので、僕はその話題を早々にうち切った。
「行こう」とスミカは言って、僕の腕をとった。
 僕らは多摩川沿いのサイクリングロードを、関戸橋の方に向けて歩き出した。スミカは自転車に乗ってきていなかったので、僕の自転車は橋の下に置いていく ことにした。
 僕らは最初のうち、ただ黙って歩いた。スミカが一言も口をきかなかったからだ。赤茶色のまっすぐな道を、ただひたすら西へと歩いた。僕らの左手を、川は ただ静かに東へと流れていた。どこかでトランペットの練習をする音が聞こえた。風は少し強くなり、道の脇に並んだポプラの並木がざわめいた。
 僕らは水門のそばで一休みした。生活排水が河に流れ込んでいる合流点の脇で、水色の塗装の背の高い足組みとコンクリートの分厚い水門に沿って、河岸にお りる幅の狭い階段が続いていた。川面から一段高くなった河岸の広い敷地は、芝生がしきつめられた公園になっていた。僕とスミカはその端っこの、コンクリー トの崖面が河に落ち込んでいるきわに座って川面を見つめた。
 スミカは、彼女の兄の話をしてくれた。
「うちの兄貴はね、シスコンなの」と、彼女は注意深く言葉を選びながら言った。
「うちには門限ができたんだけどね、それって兄貴が決めたの。ほら、二年生になってから民音がけっこう忙しくて、帰るのが遅くなったことが何度かあったで しょ。そしたら兄貴が怒ってね、門限八時って決めちゃったの。八時よ八時。もう二十世紀も終わろうかっていうこのご時世に。私も文句言ったんだけど、なん でかお父さんがそれに大賛成しちゃってね、門限が八時に決まっちゃったの」
「お兄さん、なにやってる人? 学生?」
「ううん、会社員。大学出て、今年で二年目かな」
 僕は十八歳になったら家を出て独り立ちするべきだという信念を持っていたので、まだ一度も会ったことのないスミカの兄に対して最初からいくらかのマイナ ス評価を与えることにした。男のくせに就職してからも親と同居しているような輩には、きっとろくなやつがいないだろう。これはおそらく偏見だろうけれど。
「普段はまともな人間なんだけどね、私とか妹のことになると、頭のねじがぽんとはずれちゃうのよ。いつだったか妹が高熱出して寝込んだときなんか、三日も 休みとってつきっきりで看病したりしたこともあったの。車の免許とってからは、なにかっていうと私を車で送り迎えしたがるし」
「いいじゃない。愛されてて」
「君は他人事だからそう言えるの。実際、家でいつも顔をつきあわせてる私の身にもなってみてよ。そのうち使用済みナプキン調べて生理が順調かどうかチェッ クし始めるんじゃないかな」
 それはさすがに気味が悪い。
「多分あれはお父さんの血筋ね。お父さんも、昔から娘に変な幻想を持ってたもの。ピンクでふりふりの恥ずかしい服着せたり、ピアノ習わせたり日舞の教室に 入れたり。私専用のアルバムと妹専用のアルバムと持ってて、今でもことあるごとに写真とりたがるしね。小学校卒業したあと、女子大までエスカレーター式の お嬢様学校に入れようとしたから、私、わざと入試で悪い点とったの」
「よく都立の共学高校に入学するのを承知したね、そんな人が」
「高校入試の時も、お上品な私立の女子校をいっぱい見繕ってくれたわよ、もちろん。それ全部蹴って、都立高校に行くって言ったら、お父さん卒倒しちゃっ た。妹はね、わりと素直な性分だから、お父さんの言うとおりにミッション系のお堅い女子中に入ったんだけど、私は絶対にそういうの嫌なの」
「お父さんとか、お兄さんが嫌いなの」と僕は訊いてみた。彼女の口調からは、自分の家族を笑い話のねたにしているのか、それとも真剣に疎ましく思っている のか、判断がつかなかったからだ。
 スミカは息を止めて僕の顔を見た。あらためて問われたことに驚いているみたいだった。
「そう――ね」、彼女は息を細く細く吐き出しながら言った。
「嫌っているわけではないと思う。なんていうのかな、私が嫌だと思うのは、ある種の状況なのね。あの人たちが幻想を抱いて、私にそれを押しつけて、それを 私が百パーセント受け入れて、本当はそういうふうにできたらどんなにか楽だろうし、あの人たちが私のことを大切に思ってくれているのは痛いほどわかるんだ けど、でも、それでも、それでも……」
 彼女はうわずった言葉を切って、息を継いだ。
「だから、たぶん、私が嫌っているのは、――妹だと思う。受け入れているもう一人の私。なれたかもしれない私。そうなりたかったかもしれない私。だって、 あの子、可愛いもの。姉の私から見ても、本当に可愛いし、素直だし」
「スミカは可愛いよ。前に言ったと思うけど」と僕は口を挟んでみた。
「そういうこと言うのやめて」と彼女は素っ気なく答えた。
「私に、何も押しつけないで。何も期待しないで。私はただ、君の身体が好きなだけなの。君が欲しいだけなの」
 それから僕らは川のおもてに映った夕日を眺め、ごく自然にくちづけをした。スミカはキスのあとで僕の胸に顔を押し当てて、声をたてずに少し泣いた。

 そのようにして僕らは何度か会って話をし、雰囲気がそちらに傾けばキスをしたりお互いの身体にさわったりした。
 はじめてのセックスもやっぱり河原だった。彼女は僕の身体にまたがって、僕のペニスを手で導き、腰を震わせ、僕の首を両手で絞めた。なにがなんだかよく わからないうちに僕は射精し、激しい脱力感の中で息苦しさにもがいた。首に強く絡みついた彼女の指を引き剥がし、顔にはりついた髪の毛を払ってあげると、 彼女は泣いていた。
 はじめてではないのだと彼女は言って、僕の肩に爪を立てた。僕は何を言っていいのかわからず、黙って彼女の髪をなでていた。

 六月が終わるまで、僕とスミカの奇妙な、それでいてある意味では親密な関係は続いた。それを「愛人関係」と評したのは、ケンタだ。もっとずっと後になっ てからの話だけれど。
 そしてその愛人関係は、多くの愛人関係がやはりそうであるように、唐突に終わった。

 六月最後の土曜日の夕方に、スミカから電話がかかってきた。電話を受け取ったのは、ユーキだった。親は二人ともまだ仕事から帰ってきていなかった。
「名前はよく聞き取れなかったけど、女の子から」とユーキが言った。僕は嫌な予感がして階段を駆け下り、受話器をとった。僕に電話をかけてくる女の子なん てスミカ以外考えられなかった。
「ねえ、今すぐ出てきて」と、スミカは今にも吹き消されてしまいそうな声で言った。そのあと、彼女の声は支離滅裂なことをつぶやくばかりになって、僕が何 を言ってもまともな反応は返ってこなかった。はっきりとはわからなかったけれど、泣いているみたいだった。
「そこ、どこ?」という僕の質問に、彼女はなんとか答えてくれた。僕は家を飛び出した。
 自転車で向陽台の坂を一気に下り南多摩駅の近くまできたところで、雨が降り出した。傘は持ってきていなかった。是政橋を渡って府中市に入る頃には、雨足 がかなり強まっていた。
 スミカは、中央高速自動車道の高架下で僕を待っていた。じっとりと濃いねずみ色の空から雨はひっきりなしに降り注いで、地表を打っていた。彼女はコンク リートの短いトンネルの出口近くにかがみ込んでいて、僕の自転車のブレーキ音で顔をあげた。目に泣きはらしたあとがあった。
 僕が自転車からおりると、彼女は何も言わずに抱きついてきた。僕がその身体を受け止めると、指で僕の唇を探り、それから彼女の舌が僕の口の中に入ってき た。彼女の唇は冷え切っていて、自分の体温がひどくはっきりと感じられた。けれどじきに、いろいろな感触が混じり合って、何が温かくて何が冷たいのかよく わからなくなった。ただ、僕は僕の中にスミカの圧倒的な存在感を感じていた。触れあった腕や胸や足の触感、雨に濡れた服の布地の冷たさ、それから口の中の スミカの匂い、スミカの味、スミカの舌の動き、そういった何もかもが混濁して、僕を押し包んでいた。めまいがするほどだった。
 だから、スミカが離れてしまうと、僕の胸から腹にかけて巨大な穴がぽっかりとあいた。それはどう控えめに見ても、僕自身より何倍も大きな穴だった。僕は あやうく道路の上に崩れ落ちそうになって、自転車のサドルをつかんで身を支えた。髪の先からしずくがぽたぽたと落ちて、足下のアスファルトのくぼみを黒く 塗った。
「ねえ、君はなに?」と、スミカは涙声で言った。
「君は私のなに? 何を考えているの? 私のことをどう思っているの? 私に何をしてほしいの」
 僕はじっと黙っていた。何を答えていいかわからなかった、というより、彼女が何を言っているのかよく理解できなかったのだ。頭の中ではなぜかずっと『傘 がない』のメロディがぐるぐると回っていた。
 スミカはまた喋りだした。
「私が電話で君を呼ぶでしょう。そうすると君はこうやっていそいそとやってくるよね。それはどうして? 私がどういう人間なのか、何を求めてるのか、何度 も話したよね。それでも君は私が呼ぶとやってくるわけ? 私、クニさんとつき合ってるんだよ。それでもこうして君と会ってるの。君の身体が欲しいから。そ れで、君は私のことが好きなの? ねえ、私、いつもいつも独り相撲しているような気がするんだけど、それは君のせい?」
 彼女は僕のシャツの襟にしがみついて、吐き出すように喋り続けた。土砂降りになりつつある雨のせいで、彼女の声がどこか遠いところから聞こえてくるよう な錯覚にとらわれた。
「私だって、自分が君に対してずいぶん勝手なことしてるって、わかってる。でもね、こういうのってしょうがないの。だって、私、君が好きなんだもの。本当 に好きなんだもの。ねえ、君はそれわかってる? 本当は今日、君と会うのをもうやめようって、電話で言うつもりだった。でも、君の声を聞いたら、あんなこ と言っちゃった。やって来た君の顔見て、決心ぼろぼろに崩れちゃった。だめなんだよ。決められないんだ。ねえ、君はどうなの?」
 僕はやっぱり、何も答えられなかった。スミカの肩をそっと、壊れ物でも扱うような手つきで抱いていた。
 たとえ嘘でもでっちあげでもいいから、何か答えておくべきだったのだと、今になって思う。でも、僕は哀しいくらい不器用な正直者だったし、おまけに救い がたい臆病者だった。だから彼女の叫びを洗いざらい聞いてしまった後でも、ただ黙っていた。理由ははっきりしている。僕はその時はまだ、彼女のことがあん まり好きじゃなかったのだ。

       *

 二日後の月曜日、僕は教室でケンタから手紙を受け取った。スミカからの手紙だった。どうしてケンタがスミカからの手紙を預かっているのか、そのときは訝 しく思った。まだその頃は僕とケンタはあまり親しくなかったので、ケンタとスミカが幼なじみで家が近いということも、ケンタが治安維持のために暗躍してい ることも知らなかったのだ。
 レポート用紙二枚にしたためられたその手紙は、だいたいこんな内容だった。

 ――ヒロアキへ。
 昨日はごめんなさい。私も色々あって、あなたに会ったとたん取り乱してしまいました。私はあんまり泣き虫なほうでもないので、あれだけ私の泣くところを 見たのは、ケンタをべつにすればあなただけです。あんまり人に話さないでね、恥ずかしいから。
 あれからまたじっくり考えたのだけど、やっぱり、「普通のお友達に戻りましょう」。えへ、他に言葉が思いつかないや。まあ、とにかくそういうことです。
 思うに私とあなたは、タイミングが悪すぎたし、踏まなきゃいけないプロセスをとばしすぎてたと思うのです。えーと、まあ、色々な意味で。だって、私たち まだ知り合ってから四ヶ月くらいでしょう。実際、わたしはあなたのことを民音に入部したころから知っていたし、目を付けても(あはは)いたわけなのだけ ど。あなたが私を、なんというか、「認識」するようになったのはここ最近のことだよね。そうでしょう?
 私たちにはお互いに、やるべきことがたくさんあったはずなのに、それをほっぽりだしてあんなこと(あんなことや、こんなこと)やっていたから、バチがあ たったのだと思います。クニさんのこともその一つ。これは私の「やるべきこと」だったわけだけど。
 私、しばらく民音を休みます。演劇部に集中することにしました。あと、校内で私を見かけても、話しかけないで。決心がまた崩れてしまいそうだから。冷却 期間が過ぎたら、私の方から話しかけます。九月の文化祭までには、きちっと民音にも戻ります。たぶん。
 そうしたら、ちゃんと普通のお友達になりましょう。
 色々と、ごめんなさい。
 ありがとう。
橋本澄香  

       *

 そうして、僕とスミカは「普通の友達」の一段下にまで戻った。

       *

 七月になって、前嶋先輩が部活に来なくなった。
 先輩は部内では貴重なベーシストだったし、部の中心メンバーの一人だったから、実に困ったことになった。夏休みが明けたら文化祭が控えているというの に、まともなスタジオ練習ができないのだ。
 これこれこういう理由で休むという連絡もなかった。三年生の先輩たちに訊いてみたところ、どうも学校を休んでいるようだった。けれどその理由を知ってい る人間は誰もいなかった。そして、手紙に書いていたとおり、スミカも民音に顔を出さなくなった。校舎の中でたまにすれ違うことはあったけれど、彼女は僕を 完全に無視した。
 僕はおそろしく孤独な七月を過ごした。僕が学校で喋る相手といえば、スミカと前嶋先輩だけだったのだ。その二人が同時に僕の前から姿を消してしまった。 登校してから下校するまでの九時間か十時間、一言も喋らない日々がまた始まった。
 授業が終わると民音部室に行って前嶋先輩のベースを引っぱり出して一人で練習した。部室に転がっていたぼろぼろのアコースティックギターを修理して、 コード弾きの練習もした。三日目でやっとFメイジャーとB♭メイジャーが押さえられるようになった。あの、人差し指で六本の弦を一度にべたっと押さえない といけないやつだ。ボブ=ディランの『モザンビーク』と『ブロウィン・イン・ザ・ウィンド』をギターで弾きながら歌えるようになった。先輩がよく弾いてい たエリック=クラプトンの『シグニィ』をおぼえた。
 先輩やスミカがまた部活にやってきて、僕がギターを弾けるようになっていることに驚いてくれるのを期待した。
 二人が一度も姿を見せないまま、一学期が終わり夏休みがやってきた。

       *

 僕は夏休みが始まってからも、毎日学校に行って部室に顔を出した。ひょっとしたら先輩かスミカが戻ってきているかもしれないと思ったからだ。けれどその 期待はいつも空振りに終わった。
 僕は朝八時に学校に来て、一日中ピアノを弾いたりギターの練習をしたり歌を歌ったりして過ごし、夕方五時のチャイムで家に帰った。他の民音部員も練習の ために学校に来ていたりもしたけれど、僕は彼らの練習にはまったく参加しなかった。僕と外の世界をつなぐ糸は切れたままだった。誰も僕には触れられなかっ たし、僕も誰にも触りたいと思わなかった。必要がなければ、コミュニケイションという労働は発生しないのだ。スミカは笑ったけれど。
 生まれてこのかた経験したこともなかった、寒くじめじめとした夏がそうして過ぎていった。陽の光がいつも目にとげとげしく、暑気は酸のように僕の肌を焦 がした。グラウンドで気持ちよさそうに汗を流したり、プールサイドではしゃいだり、渡り廊下の日陰で談笑したりしている人たちを、僕はうらやみ、また憎ん だ。自分の中に嫉妬や憎しみの感情がまだ残っていたことが、僕を少なからず驚かせた。
 帰り道、自転車で独り多摩川の川べりを走っていると、僕はスミカのことを思い出さずにはいられなかった。僕らが触れあっていたのはたいした時間ではな かったけれど、その間にずいぶんとお互いの大切なものを共有してしまったのだ、と僕は思った。それなのに、彼女ひとりが何かにけりをつけて、ひとりで納得 して、ひとりで全部を終わらせてしまった。ようやく手探りで何かを見つけかけていた僕は、暗闇の中に取り残された。真夏の夕映えに向かってペダルをこぎな がら、僕はそういった自虐的な感傷にじっと耐えた。
 すべてをスミカのせいにしてしまうことは、たやすかった。彼女の方から僕に興味を持って、僕に近づいてきて、僕を求めて、僕の童貞を奪って、そして去っ ていったのだ。僕は何もしなかった。何も選び取らなかった。独り相撲、と僕は思った。確かにその通りだ。
 だとしたら、僕は今どうしてこんなに苦しんでいるのだろう。
 しばらく考えた末、僕はその痛みに名前をつけることにした。ハートブレイク。
 至極単純なことだ。僕はスミカがいなくなってみてようやく、自分が彼女に惹かれていたことに気づいたのだ。タイミングが悪すぎた、とスミカは手紙の中で 言っていた。まったくその通りだった。
 ものごとを単純化してみると、僕のハートブレイクはいっそう大きくなった。シカゴの曲ばかり一日中聴いたりしてみたけれど、なんの効用もなかった。

       *

 八月のなかばに、前嶋先輩が戻ってきた。
 僕はその日、音楽室前の廊下のピアノに向かって、ぼうっとしていた。その日はブラスバンド部が音楽室を使う日で、防音のドアの向こうから吹奏楽用にアレ ンジされた『メモリー』の甘い旋律が聞こえてきていた。
 そのままうとうとしてしまったらしい。気がつくと、日がずいぶん傾いて、チャイムが聞こえた。廊下の窓から、渡り廊下の外壁についた大時計を見ると、午 後五時だった。
 民音部室に人の気配がした。何か重いものを引きずる音や、ハイハットが揺れてぶつかり合う音、それからアンプの電源が入ったときのノイズが聞こえた。
 その後で聞こえてきたのは、まぎれもなく前嶋先輩のベースだった。腰のあるリッケンバッカーの温かな低音。低出力のアンプのおかげで心地よく自然に歪ん だ、懐かしい音だった。
 僕は立ち上がりかけて、ふと思いとどまった。先輩は僕を見て何と言うだろうか。スミカと、僕と、先輩との間で、僕の知らない何かがこじれて、その結果二 人が僕から離れていった。僕から、というのは自意識過剰かもしれないけれど。
 先輩は僕を見て、どう思うだろう。僕に対して腹をたててはいないだろうか。前みたいに普通に話しかけてくれるだろうか。僕は、自分から先輩に話しかけら れる自信はなかった。
 先輩がゆったりとしたテンポで、簡単なカデンツァの練習をはじめた。部室の戸は開いていて、音ははっきりと聞こえた。姿は見えなかったけれど、先輩がス トラップを思いっきり長くとって、壁にもたれて、両手をだらんとさせて少し億劫そうにベースを弾く姿を、僕はありありと思い浮かべることができた。
 部室に入っていく勇気も、そのまま逃げだしてしまう卑屈さもないまま、僕は譜面台をにらみ、ずっとピアノの前に座っていた。そして生まれてはじめて自己 嫌悪というものを味わった。
 僕はそれまで、自分というものを否定する人間――何かを選んだ結果ではなく、それを選んでしまうことそのものに悲観する人間を、馬鹿だと思っていた。で もそれは誤りだった。僕らには、どうしようもない時というのが確かにある。いずれ潮満ちて水没してしまうつまらない浅瀬の上で、立ちつくしてしまう時があ る。そういう時に僕らに与えられた選択肢は、声を殺して泣くことか、声をあげて泣くことだけだった。僕はその時その事実を、痛いほど理解した。
 先輩のベースがヘ長調のスリーコードをゆったりと行き来し始めた。FからCへ――またFへ――B♭からまたFへ――。そして僕の耳に、胸の中に、聞き慣 れたメロディを呼び起こした。
 僕は汗で粘った指をひざからひきはがし、鍵盤の上に置いた。長い間迷ってから、結局ミュートペダルを入れてしまう自分に腹が立った。僕にはもうそれしか 残されていなかったのに。
 先輩の弾くFのルートにあわせて、鍵盤を押し込んだ。抑えつけられてもこもこしたピアノの和音の上に、か細い声で頼りなげなメロディラインを乗せた。歌 というより祈りに近かった。
"Hey Jude, don't make it bad
 Take a sad song and make it better……"
 二コーラス目からドラムが入った。これも部室の中からだ。僕は驚きながら、ミュートペダルをはずした。先輩ひとりではなかったのだ。僕の声は自然と大き くなった。右手のコードストロークは、解き放たれたように装飾音をつむぎだしはじめた。
 三コーラス目で先輩の低音パートが僕の声に重なった。僕と先輩の声は上になり下になり複雑に絡み合いながら、僕の中のJudeを、先輩の中のJude を、世界中のJudeを励まし、背中を叩き、声援を送った。そして僕らは絶叫しながら、際限なく繰り返されるコーダに突入した。FがE♭によろめき、B♭ がそれをたぐりよせ、再びFにしみ込むようにつながる。永遠に回り続ける四小節。うねるような二十四ビートのシャフルのリズムが、螺旋を描いて高まってい く。"La-lala-lallala――Lallala――"頭をうち振るたびにきらきらしく汗の粒が飛び散り、僕の指の一本一本が歓喜に捕らわれた獣 のように鍵盤の上を跳ね回る。どれほどの時間、その四小節を繰り返したかもわからなかった。練習を終えたブラスバンド部が音楽室から出てきたことにも僕ら は気づかなかった。彼らの大半は僕らを奇異の目で見たけれど、中に何人かノリのいい奴らがいて、トランペットとトロンボーンとテナーサックスが突然アンサ ンブルに加わった。シャウトと回りくどいカデンツァで彼らを歓迎し、僕らは演奏を続けた。ブラスバンド部の部長が止めにはいるまで、およそ四十分くらいだ ろうか。
 その後も、『レディ・マドンナ』を演り、『バック・イン・ザ・USSR』を歌った。トランペットの人がイントロを吹き始めたので、コード進行も歌詞もう ろ覚えのまま『ガット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ』をやった。
 一通り歌い尽くしてしまうと、部室の中から汗みずくの前嶋先輩とケンタが出てきた。先輩はセッションにつき合ってくれたブラスバンド部員の人たちと握手 を交わし、それから僕の背中を強くひっぱたいた。
「汗かいたな、久しぶりに」
「文化祭でもこれやろうか。一時間ぐらいずっと」とケンタが言った。
「客、みんな帰るぞ」と先輩は笑いながら答えた。
 結局僕はその日、先輩とまともな会話ができなかった。視線を交わすことすらできなかった。でも、先輩の頬に光る汗を見て、それからくたびれきった自分の 手首に目を落として、ケンタや先輩のの笑い声を聞いて、夏も悪くないなと思った。

       *

 どんなに長い曲も、永遠に繰り返すことのできる麻薬的なフレーズも、レコードに録音しておさめるためには、いつかフェイドアウトして終わらせなければい けない。
 でも、僕らはレコードじゃない。
 僕がその日学んだのは、そういうことだ。







第七章 陽が差して (3:05)

    1999年 6月


 ユーキが週に一度、僕の部屋に遊び来るようになった。酔いつぶれて僕の部屋に泊まって、次の日にやってきた前嶋先輩やケンタと一緒に遊んだあのとき以来 だ。
 彼女はきまって日曜日の午後に電話をかけてくる。
「ねえ、誰か来てる?」
 前嶋先輩かケンタが僕の部屋にいると、彼女はすぐにやってくる。時々、天気がひどいときとか東京競馬場で大レースがあるときなんかは二人とも日曜日に遊 びに来ないことがあって、そういうときにはユーキも欠席した。でもまあ、ほぼ毎週日曜日、彼女は僕の部屋にやってきて、僕の作った昼飯を食べ、競馬中継を 観て、先輩やケンタと一緒に麻雀をしたりプレイステーションでゲームをしたりした。
 他人事ながら、僕はけっこう心配してしまった。ユーキは理系の学生である。前嶋先輩やケンタみたいな文系のぐうたら大学生とちがって、レポートは山ほど 書かなきゃいけないし実験もあるし単位はきびしいし、日曜日以外に自由になる時間はまずないはずだった。おまけに彼女は高校生の頃から男によくもてたか ら、恋人がいないとは考えにくかった。貴重な日曜日の午後をいつも弟の部屋で過ごしたりしていて、平気なのだろうか。
 僕はそんなことを訊くわけにはいかなかったけれど、前嶋先輩はなにげなく訊ねてみたことがあったらしい。彼氏とはいつ会っているのか、と。その質問、 ひょっとして前嶋先輩はユーキにコナかけるつもりだったのかもしれない。
 ユーキの答えはこうだったという。
「君たちの知らないところで、ちゃんとやってるわよ。土曜の夜とか」
 ちゃんとやっているらしい。なにをどう、ちゃんとやっているのかはわからなかったけれど。
 ユーキと前嶋先輩は、僕から見ても不思議なくらいに仲が良くなった。お互いに携帯電話の番号やメールアドレスなんかを教えあって、僕の知らないところで 連絡を取り合ったりしていたらしい。

 ユーキがうちに来るようになって三週間目くらいの日曜に、レイシがめずらしく遊びに来て、そこで二人ははじめて顔をあわせた。はじめて、というのは僕が 知る限りはじめて、ということで、どうもその時の二人のやりとりからすると、以前からお互い知り合いだった可能性が強いのだけれど。
 レイシは午後五時くらいに突然やってきた。僕とユーキと前嶋先輩とケンタはその時『カタンの開拓者たち』で大いに盛り上がっていて、ケンタの手札には羊 毛と鉄鉱石がたっぷり、先輩の目の前には騎士団がずらり、僕とユーキは島を縦断する道路を競り合っていて、次のサイコロ次第で誰にでも優勝の目があるとい うきわめて緊迫した状況だった。
「振っちゃだめだよ、まだ振っちゃだめだよ!」
 サイコロを握りしめたケンタに念を押して、僕は玄関に行った。扉を開けると、ギターケースを持ったレイシが立っていた。
「あ、みんないるんですか」と彼は、玄関のたたきを埋め尽くす四人分の靴を見て言った。
「うん、いっぱい来てるよ。どうぞ」
 レイシは寝室に入ってくるなり、ユーキを見て目を丸くした。ユーキはユーキで、部屋に入ってきたレイシを見て腰を浮かせた。
「あ、あんた……」とだけユーキは言って、口ごもった。レイシの方は声の出し方を忘れてしまったような顔をして突っ立っている。
「レイシのこと、知ってるの」と僕はユーキに訊いた。ユーキはそれを耳にしてあわてて首をぶんぶんと横に振ると、
「ううん、どこかで見た顔だなとは思うんだけど」
「そう言えば、レイシの行ってた高校って」とケンタが言って、僕はようやく思い出した。そうだ。レイシとユーキは出身高校が同じだ。年齢も二つ違いだか ら、高校で見知っていた可能性はある。僕がそう言うと、
「ええ、……俺の、先輩です。高校の」
「そうか、そうなんだ、ええと、二コ下かな」とユーキは言った。レイシはうなずく。
「たぶん、大学も同じです。よく医学部の方で見かけるもの。どうしてうちの大学にヒロさんがいるんだろうって、いつも思ってました」とレイシが言った。 ユーキは噴き出した。
「大学も同じなのお? 本当?」
 レイシは自分の通っている大学名を言った。学部は違うけれど、確かにユーキの行っているところと同じだった。
「世間は狭いよねえ」というユーキの言葉で、その場は何事もなくおさまった。
 ケンタの振ったサイコロは7の目が出た。僕らが盗賊の襲撃先についてあれこれ騒いでいる間、レイシは壁際に座ってユーキの顔をじっと見つめていた。
 その後で僕らは、ピザの出前を頼んだ。先輩がその日の競馬でわりと配当のいい馬券を当てたのだ。やって来たピザを食べながら、前の日にスタジオで録音し たテープをみんなで聴いた。ユーキはいつものように僕のギターと歌をぼろくそにけなし、レイシのリードギターをほめた。
 九時過ぎになって、彼らは僕の部屋から引き上げていった。あとにはピザの匂いと、外れ馬券と、レイシのまわりに漂っていたぎこちない空気が残った。

       *

 七月のはじめに、高校の民音部の同窓会があって、僕はスミカと一年ぶりに再会した。いや、二年生の三学期あたりからほとんど顔を合わせてもいなかったか ら、そこから計算すれば二年半ぶりということになる。
 その同窓会は僕と同学年だった部員たちだけのささやかなもので、参加者は僕とケンタとスミカを含めて六人だけだった。
 僕らは柴崎の駅で待ち合わせた。僕が到着したときにはまだ誰も待ち合わせの場所にいなかった。なにしろ僕はその日徹夜のアルバイト明けで、寝ずに午後三 時を待って家を出たのだ。着くのが早すぎたらしい。
 最初にやってきたのはケンタだった。彼は真っ黒でごわごわのズボンを履いて、釣り人が着ているような分厚いジャケットを着ていた。ほんとうに季節感のな い男なのだ。
「他の連中は?」
 僕が首を横に振ると、彼は苦笑した。
「まあ、遅刻常習犯ばっかりだったからなあ」
 確かにそうだった。民音部のみんなで待ち合わせをすると、必ず三人は遅刻するやつがいて、出発時間は少なくとも三十分はずれこんだものだった。
「いちばん遅刻したやつが今日の払いをもつってことにしておけばよかったね」と僕は言った。
 約束の四時までに、他の三人は順調に現れたのだけれど、スミカだけがなかなか姿を見せなかった。これに乗っていなかったら遅刻確実、という各駅停車が 行ってしまい、改札を抜けて出てくる一群にも彼女の姿はなかった。僕らは「今日はスミカのおごりだ」なんてことを言い合って笑った。ケンタがスミカの携帯 電話に連絡を入れようとしていると、プラットフォームのずっと向こうの方からスミカがやって来た。
「久しぶり」と彼女は言って、淡く微笑んだ。ぴったりとした藤色の上品なワンピースを着て、右手に銀色のブレスレッドを二つつけていた。高校の頃と、あま り変わっていなかった。髪型は少し大人っぽくなったかもしれない。背丈や体つきは僕の記憶そのままだった。化粧はほとんどしていなかった。ちょうど具合良 く力を抜いた感じのその笑みで、僕はやっぱりどきりとした。僕だって、高校生の頃から何一つ変わっていなかったのだ。
 最初に入った喫茶店では、スミカはケンタと二人で暗い顔をして、みんなに聞こえないような小声でずっと喋っていた。僕を含めたあとの四人は、大学がどう とか、アルバイトがどうとか、誰と誰が別れたとか、誰が妊娠しただとかそういった当たり障りのない話題をやりとりした。僕はそのあいだじゅうずっとスミカ の声に耳を澄ませていたのだけれど、話の内容はついに聞き取れなかった。
 喫茶店で二時間ほどだべったあと、カラオケに行った。スミカは洋楽を歌わなかった。ジャネットもマライアもセリーヌも歌わなかった。意表を突いて演歌か と思ったけれど(僕は高校時代、何度か彼女の演歌をカラオケで聴いたことがあった。なかなか見事な小節回しだった)、そうでもなかった。彼女が歌ったの は、最近日本で流行始めた女性ヴォーカルのリズム&ブルースだった。どれも暗い曲調の歌ばかりで、しかも上手なので、聴いているだけで気持ちが滅入ってし まった。
 カラオケのあと、予約していた飲み屋に行って、お好み焼きやもんじゃ焼きを食べながら酒を飲んだ。僕はかなりの下戸なので、レモンサワーで乾杯につき 合った。
 スミカはまたケンタと二人だけで鬱な顔をつきあわせて喋り始めた。これじゃいけない、と僕は思った。僕はスミカと久しぶりに会えるというので、飲めもし ないのにわざわざ同窓会なんかに参加したのだ。
 僕の向かいに座っていた女が、飲み始めて三十分だというのに早くも出来上がってしまって、テーブルにあごをのせて愚痴をたれはじめたので、僕はこの女に ケンタをあてがうことにした。
「ケンタ、席かわって」
「え、なんで」とケンタが驚いて言った。ケンタだけではなくて、スミカも不思議そうな目で僕を見ていた。僕自身、この時に限ってなんであれほどの行動力が ひねりだせたのか、よくわからない。
 とにかく僕はスミカの隣に座った。
「なんでさっきからケンタとばっかり喋ってるのさ」と僕は言った。
 スミカはそれには答えなかった。嬉しそうに目を細めて、僕の頬のあたりをじっと見つめてきた。むりやり作った表情のようにも見えたけれど。
「ヒロアキは、……変わらないね」と彼女は言った。
「そうかな」と僕が言うと、テーブルの向かいに座っていたTとMがそろってスミカに賛同した。
「全然男らしくならないねえ、君は。肌も、あいかわらず綺麗だし」と言って、スミカは僕の頬骨を指でなぞった。僕はそのしぐさに、またどきりとさせられる ことになった。
「なにか、あったの」と僕は、なるべくさりげない声をつくって訊いてみた。「ケンタと、暗い顔して話してたでしょ」
「ふむ。ちょっとね。私ももう二十歳近いですから、色々あるのです」
「男だろ」とMが意地悪い口調で言った。スミカはそちらをきっとにらんで、けれど何も言葉を返さず、生ビールのジョッキをあおった。
 酒の力は偉大なもので、三十分ほどたったころには、スミカは己の不幸を僕とTとMに向かってつらつらと話していた。
「とにかく、こんなに腹が立ったことはないわよ」と彼女は言った。「だって、昔の男に会ってるって言ったって、こういうふうにただ飲み屋で飲んでだべって るだけよ? それに二人きりで飲んだのはその時だけだし。けど、私そういうの黙っているのいやだから、全部話すのよ、彼に。そうしたら怒るの。もうそいつ とは会うな、とか言って」
「でも、モト彼とそうやってしょっちゅう会ってるっていうの、今の彼にしてみれば不安でしょ。仕方がないんじゃない?」と僕。
「そんなこと言ったって、モト彼とは同じ演劇サークルなのよ。仕方がないのはこっちだよ。それにね、別れたって、友達に戻っただけだし。友達と飲みに行く ののどこがいけないの」
 そういうのは男として容認するべきだと、Mは迎合気味の意見を言った。僕は、それはどうかと思った。当事者の男にしてみれば、そんな理屈はくそくらえ で、不安なものは不安なのだ。とくに、相手はスミカだ。思わせぶりが服を着て歩いているような女だ。僕は会ったこともないスミカの彼氏に同情し始めている 自分に気づいた。
「だいたい、最近の彼はちょっとひどかったの。お正月にスキー旅行に行ったんだけど、二日に私をほっぽって長野の実家に帰っちゃったのよ。一月二日は私の 誕生日だから、一緒にのんびりするつもりだったのに」
 それは確かにひどい、と僕も思った。
「で、電車で帰るのも面倒だから、その演劇サークルのモト彼呼んで車で東京まで送ってもらったんだけど、そのこと話したら彼はまた怒るし」
 僕はその演劇サークルのモト彼にも深く同情した。彼らはきっと女運がひどく悪いにちがいない。
「で、決定的だったのは先月の事件。彼がね、バイト先の女の子とちょっと仲良くなって、ふたりきりで映画観に行ったっていうの。それだけなら、まあ許せる けど、彼そのこと私に黙ってたのよ。それで私がそのことで問いただしたら、最初『四、五人で行った』って嘘ついたのよ。私はなんでも正直に話してたのに。 そういうのって許せる?」
 TとMは、今度こそそろってスミカに賛同した。それはひどい。男として最低だ。街で見かけたらきっと殴ってる。
 僕は、根気強くスミカの彼氏の味方を続けた。
「そういうのってさ、喋らない方が相手を不安にさせないっていう心遣いかもしれないじゃない。それに、スミカはなんでも正直に話したっていうけど、つい言 いそびれちゃったことってのも、まったくなかったわけじゃないでしょ。そういうのってお互い様だと思う。だから、それくらいで腹を立てるってのも」
「それくらいじゃないわよ!」とスミカは怒鳴った。
「その、彼が一緒に映画を観に行った女の子ね、彼はその娘とはなんでもないって言ってたのよ。でも、さっき電話で、その娘とつき合うことになったから別れ ようって、いけしゃあしゃあと」
「さっき?」と僕は驚いて口をはさんだ。「さっきって?」
「さっきよ。駅に着いて、改札出るちょっと前」
 僕とTとMは、さすがに絶句した。
 なるほど、それで電車が着いてからもしばらく駅から出てこなかったのか、と僕は納得する。でも、いくらなんでも、同窓会の当日、待ち合わせ時間ぴったり に、恋人から別れの電話がかかってくるなんて、できすぎだった。
 スミカがなんだかふさいでいたように見えたのも、ケンタに愚痴ってばかりいたのも、ダイアナ=ロスを歌ってくれなかったのも、これでぜんぶ合点がいっ た。
 と、TとMがスミカにさらに同調してその彼氏の悪口を言い始めた。彼らの論旨はこうだった。曰く、その男は最初からスミカと別れたがっていたにちがいな い。そしてそのバイト先の女の子に目を付けてちょっかいを出していた。そちらとうまくいくかどうかわからないうちはスミカともずるずるつき合っていたけれ ど、落とせるめどがついたので適当に理由をでっちあげて別れ話を持ち出した。最低のエゴイスト野郎だ。別れて正解だ。
 会ったこともない人間の悪口を、よくまあそこまで言えるものだと僕はなかば感心しながら聞いていた。そして、それだけ男を根拠もなくこきおろして、スミ カ自身はみじめな気持ちになったりしないのだろうかとちょっぴり心配した。
「一方的な視点で、そうやって人を悪く言うのはよくないよ」と僕が常識的な意見を言うと、
「ヒロアキには、どうせわからないわ」とスミカは言った。なんだか高校生の頃にも似たようなことを言われた記憶がある。
 そのあと僕ら四人は、セックスについての下らない話で盛り上がった。スミカは「身体の相性がいかに重要か」について熱弁を振るい、セックスの相性に関し ては演劇サークルのモト彼がとにかく最高だった、と語った。
「男にはわからないでしょうけどね、女だって、やっぱり気持ちよくなりたいんだよ。お互いの性格とか趣味とはまた別に、身体の相性って、大切なの」
 僕は乳房の形の分類についてスミカに説明してやった。釣り鐘型とか、お椀型とか、ロケット型とかについてだ。半分以上は口からでまかせだった。日本人の 八十五パーセントはお椀型だとか、ロケット型は北欧やロシアに多いとか、特定の形状の釣り鐘型は体内発電が活発で疑似超能力者が多いとか。彼女は釣り鐘型 とロケット型の違いについて知りたがったのだけれど、僕にもそんなのはっきりと説明できなかった。
 Tは今の恋人とつき合って一年になるけれど、まだセックスをしていないのだと言った。一つ年下で、まだ高校を出たばかりで、つき合った男も自分がはじめ てなのだそうだ。
「なるべく雰囲気つくったりしてるんだけどさ、俺も、ほら、あんまり押しが強くないからさ。彼女も大人しい方だし。それで、向こうもできないことに負い目 みたいなもの感じてるのがわかるんだよな、一緒にいると。そういうのって、本当につらい」
 もうすぐ彼女の十八歳の誕生日なので、そこで勝負をかけるのだと彼は熱っぽい目で語った。僕らは三人がかりでそれにエールを送った。スミカは「絶対に避 妊を忘れちゃだめよ」と四回ぐらい念を押した。
 それからスミカは、僕がコンドームを常時携帯していないことについてあれこれ説教をたれた。彼女もかなり酔っていたのだろう。同年代の熱気に囲まれて、 僕はとても温かな気持ちでいっぱいになっていた。心地よく不安定な、そんな矛盾した雰囲気の中で、僕の胸はつうんと甘く痛んだ。高校を出て以来、いや、ス ミカに「失恋」して以来、久しく忘れていた感情だった。
 十一時半に僕らは店を出た。

 酔いつぶれてしまったもう一人の女の子を、ケンタは多摩市まで送り届けるはめになった。卒業してからも、相変わらずケンタはそういう役回りの男だった。
 僕ら六人は調布駅で別れた。Tは調布市民で、Mは相模原の方で独り暮らしをしていた。府中方面に行くのは僕とスミカだけだった。
 電車の中で二人きりになってしまうと、僕らの間には不思議なくらい話題がなかった。会う前は、話したいことが十二トントラック三台分くらいあったはずな のに。僕の腕にもたれて、窓の外の夜景の流れをじっと見つめているスミカを前にして、僕は言葉の不必要性を痛感した。
 僕らは、あれがすべてだった。あれでじゅうぶんだった。僕らが必要としていたのは互いの肉体であり、ぬくもりだった。言葉や、心は、どこかでやるせない 誤りに汚されてしまう。僕らは不完全な人間であることを自覚して、それゆえに自分に与えられたいちばん完全なものを、誤りようのない肉体を好意の証にし た。
 あれは、まぎれもない愛情だった、と僕は思った。スミカの手の甲に、自分の右手を重ねて、そっと握った。温度は感じられなかった。体温が同じなのだ。
 ケンタは、僕らのあの四ヶ月足らずの関係を「愛人関係」と表現した。この上もなく的確な表現だった。ケンタには百二十点と花のマークのスタンプをあげた い。僕らはあの四ヶ月、愛人どうしだったのだ。お互いが、与えられるものと受け取れるものをすべて共有して、僕らはあの時愛し合っていたのだ。誰がなんと 言おうと。
 武蔵野台の駅で、僕らは下車した。僕が一緒に降りたことに、彼女は少し驚いたようだった。
「家まで、送っていくよ」
 僕の言葉に、スミカは意地悪く応えた。
「少しは、気遣いってものを学んだみたいだね」
「ねえ、門限は大丈夫なの」と僕が訊ねると、
「私も、もう大学生よ? 兄貴も家を出たし」と彼女は笑った。

 彼女を家まで送り届けたあと、武蔵野台の駅に戻ると、最終電車が行ってしまっていた。僕は東府中のアパートまで歩いて帰った。夏の夜は涼しく、少し湿っ た夜風がほてった肌に心地よかった。







第八章 世界が丸いから 空が青いから (2:45)

    1999年 9月


 啓示はいくつもあった。僕が気づかなかっただけだ。

       *

 ユーキが僕の部屋のトイレに、プラスティック製の蓋付き容器を設置した。これはなんなのかと訊くと、
「ナプキン用のごみ箱」という答えが返ってきた。

       *

 残暑厳しいさなか、ユーキが風邪を引いた。僕は午後十一時に彼女からの電話で叩き起こされた。
「あのね、ポカリスエットと、鼻づまり用のシートを買ってきて」と彼女は鼻づまりの声で言った。
「鼻づまり用のシート?」
「薬局に売ってる。鼻の上に貼りつけると鼻づまりが治るの。あと、ポカリは1・5リットルのペットボトルで、できれば冷やしてないやつ」
 こんな時間に薬局が開いているもんか、と僕は、オーディオのデジタル時計を見ながら考えた。
「ヒロアキのうちの近くにディスカウントショップがあるでしょ、深夜営業の。多分あそこで売ってる」とユーキは、僕の考えを見透かしたようなことを言っ た。そして彼女の住むアパートの住所を教えてくれた。
 そういえば、ユーキから借りているCDが何枚かあった。僕はそれをかばんに入れて部屋を出た。そうだ、ブライアン=アダムスとかリチャード=マークスと かを貸してもらおう。急に聴きたい気分になってきた。
 彼女のアパートは、僕の部屋から自転車で二十分くらいの距離にあった。彼女の通う大学の、ほんとうにすぐそばだった。車道を挟んで向かいに、大学敷地の むくの木の林が見えるのだ。僕の住んでいるアパートよりもずっと新しく、それはアパートというよりはマンションだった。ユーキ自身も、以前、「不動産屋は アパートだって言ってたけど、オートロックドアとエレベータがついてないだけで、あれはどう見てもマンション」と言っていた。
 まず、敷地が塀で囲ってある。ブロック塀ではなくて、赤茶色の煉瓦風のしゃれた塀だ。入り口には金属のアーチがかかっており、そのアーチから渋い色合い の四角い金属板がぶらさがっていて、「美好ハイツ」と刻んである。敷地には芝が敷いてあって、右手の塀際には橘の植え込みがあった。庭はよく手入れされて いて、小石一つ落ちていなかった。二階建ての建物は沈んだグレイで、二階の廊下への階段は真っ白なペンキ塗りの木製だった。それぞれの部屋には、テラスま でついていた。ヴェランダではなくてテラスだ。部屋の南側のガラス戸の外側に大きな台形の床が張りだしていて、南ギリシア風の装飾を施した手すりがそれを 囲っている。パラソル付きのテーブルと椅子を置いて、キチネットと冷蔵庫を置いてもまだ余裕があるほどの広々としたテラスだ。実際にテーブルと椅子を置い てあるテラスもあった。ちょっとした菜園にしてしまっている住人もいた。僕は、そこが本当に東京都府中市なのか、一瞬疑ってしまった。
 ユーキは寝室のベッドの上で、毛布にくるまっていた。髪はぼさぼさで、顔はいくらかむくんでいて頬と鼻頭が赤かった。窓を閉め切って冷房もつけていない ので、部屋にはむっとするなま暖かい空気が充満していた。ユーキのパジャマの袖は汗で手首にはりついている。
 ユーキの部屋に来るのははじめてだったので、僕は思わずきょろきょろしてしまった。想像していた以上に女の子らしい部屋だった。木枠の本棚にはファッ ション雑誌がずらっと並んでいるし、ピンクパンサーのぬいぐるみが合計で十匹くらい、白いうさぎのぬいぐるみも五匹くらい、テレビやオーディオや食器棚の 上やその他あちこちに座っているし、ベッドの枕元には小さなフォトスタンドがいくつも置いてあった。僕や前嶋先輩と一緒に撮った写真もあったし、知らない 女の子と写っている写真もあった。フォトスタンドのうち二つは写真が入っていなかった。床にはトレーナーやブラジャーやスカートや薬の瓶やスナック菓子の 袋や500ミリリットルのペットボトルが散乱していた。
 僕は頼まれていたものを渡すと、何も言わずに床を片づけだした。
「ごめん」
 ユーキはもそりとした声で言った。目の焦点があっていない。
「何か食べた?」と僕が訊くと、ユーキは床に落ちているチョコスナックの空き箱を指差した。僕はため息をついて、台所に行った。
 冷蔵庫には、ビールと日本酒とワインとアイスクリームしか入っていなかった。僕は二度目のため息をついた。そういえば、ユーキは料理というものをほとん どしなかった。僕らの両親は僕らが小学生だったころから料理を教え込み、週に一度は家族の夕食を作らせた。僕はそれなりに調理技術を向上させたものだけれ ど、ユーキの料理音痴は結局ほとんど改善されなかったのだ。
 ぐちゃぐちゃに食器を突っ込んだままのシンクの中から、なぜか六個パックの卵が発見された。野菜かごには粉末のワカメスープと、しおれかけた長ネギが一 本と、生姜が入っていた。床に置きっぱなしのコンビニエンスストアの袋から、ビーフジャーキーが見つかった。ご飯は炊いてあった。なんとかなりそうだっ た。
 ビーフジャーキー卵綴じ丼と生姜スープを作って寝室に戻ると、ユーキはポカリスエットをラッパ飲みしていた。僕がどんぶりを差し出すと、「食欲があんま りないの」と言った。
「いいから、無理にでも食べなよ」
 ユーキは卵綴じ丼を三口食べ、スープを半分飲んだ。残りは僕が食べた。
 洗い物を終えて、三角コーナーにたまった生ゴミを捨てようとして、僕はそれを見つけた。台所の可燃物ゴミ入れの中に、大量の写真が無造作に突っ込んで あった。僕はそれを取り上げた。ユーキと、知らない男が並んでいるシーンが目に入ってしまったからだ。
 どれも、ユーキとその男のツーショット写真だった。男は背が高く、健康そうに日焼けしていて、くっきりと彫りが深く精悍な顔立ちをしていた。ただ、二枚 に一枚は口を開けて舌を出したりレンズに向かって親指を突き立てたりしているので、必要以上に間抜けに見えた。
 ロケーションは様々だった。大学の中らしき場所が一番多かったけれど、どこかの砂浜や薄暗い森の中、後ろの方に大きな灯台が見える駐車場、テニスコー ト、新幹線の車内なんてのもあった。
 ユーキはどの写真でも、僕の記憶にまったく存在しない作り笑いを浮かべていた。作り笑いというのは僕の主観で、あるいはそれがユーキの本来の笑い方だっ たのかもしれない。それはわからない。
 写真の内の何枚かは、真っ二つに引き裂かれていた。
 僕は写真をごみ箱の奥の方に押し込むと、その上からさらにごみを詰め込んで、上から完全に見えないようにした。長居をするべきではなかったのだ。
 寝室に行って、もう帰ると言った僕を、ユーキは呼び止めた。
「……ヴァレンシアの三枚目のアルバム、買ったの。貸そうか?」
「ううん、今度でいいよ」
 僕は素っ気なく言って、彼女の部屋から逃げだした。CDを返すことも借りることもあきらめていた。一秒でも早く、ユーキの前から姿を消したかった。なぜ だかは、よくわからない。
 帰り道、街灯に照らされた静かな住宅地の車道を自転車でのろのろと走りながら、僕はあの写真のことを考えた。ストレートに考えれば、あれらが示唆するこ とは一つだけだった。

       *

 ユーキが、僕らのバンドのスタジオ練習に顔を出すようになった。彼女は僕の知らない間に、前嶋先輩やケンタとかなり親しくなっていたのだ。
 その日、前嶋先輩の車からユーキが降りてきたのを見たときには、僕もレイシもちょっと恥ずかしいくらい驚いてしまった。レイシは驚いたというよりうろた えたといった方が正確かもしれない。
 ユーキは高校時代、部員でもないのに軽音楽部のPA(パブリック・アドレス、要するに拡声機器全般)を担当していたくらいだから、ミキサーの前に立たせ ておくとなかなか便利だった。配線もレベル調整も録音もやってくれる。ただ、機器の扱いについてはやたらとやかましかった。シールドコードを踏んづけると 怒る。アンプの落としかたを順番通り(ゲインを落として、ヴォリュームを落として、それから電源)やらないと怒る。マイクの向きを勝手に変えてハウリング を起こすと怒る。シールドをくせにそってきちんと巻かないとやっぱり怒る。しかも、誰かを叱ったり頭をぽかりと殴ったり偉そうに説教垂れたりすることを、 どうやら愉しんでいるふしがあった。彼女はこんなに子供っぽい人間だっただろうか。
 スタジオにいる間、ひどくはしゃいでいるユーキとは対照的に、レイシはいつもむっつりと黙り込んでいた。まあ彼の場合、ユーキがいないときだってあまり 喋らないのだけれど、ユーキと同じ部屋にいると、ひどく居心地の悪そうな顔をするのだ。不機嫌そうなわけではなくて、どちらかと言えば恥ずかしがっている ように見える。レイシは童顔だから、ほんとうは不機嫌そうな顔をしているのが、そう見えてしまうだけなのかもしれないけれど。
 それで、練習が終わった後はみんなうちの部屋にやってきて飲み会になるのだ。僕の部屋の冷蔵庫は、いつの間にかビールが一ダースほど常備されることに なってしまった。
 レイシはやっぱり十二時前に帰ってしまうのだけれど、先輩やケンタは車があるからといって長居するし、ユーキは最初から泊まり込むつもりでいる。それで たいてい三人とも酔っぱらって、みんなで雑魚寝して日曜の朝を迎えることになった。

       *

 そんないつも通りの土曜日の夜だった。レイシは練習が終わってすぐに帰ってしまい、ユーキと先輩とケンタは僕の部屋に押しかけてきた。
 僕がグレープフルーツサワーのミニ缶を一本あける間に、あとの三人によって缶ビール半ダースが全滅した。その間、話したことといえばハードロックやヘ ヴィメタルのバンド名を使ったしりとりだけだった。ユーキの提案により、しりとりはクィーンから始まった。「Qで終わるバンド名なんてめったにないから、 そうすると出てこなくて寂しいでしょ」というのがその理由だった。
 クィーン→
 ニール=ヤング→
「ソロでもいいの? バンドじゃなくて」と僕が言うと、
「オーケーだろ。でないとつながらなさそうだし」と先輩が言った。
 ジェネシス→
 スティング→
 ガンズ・アンド・ローゼス→
「そう言えば、Sで終わるのってやたら多くないか?」と先輩。
「Sで始まってSで終わるのって、いくらでもありそうじゃない?」とユーキ。しばらくそれが続く。
 ストレイ・キャッツ→
 ストラトヴァリウス→
 スマッシング・パンプキンズ→
 サザン・オールスターズ→
「日本のでもいいの?」
「サザンならオーケー」
「やばいやばい、Sから脱出しよう」と、自分の番で焦るケンタ。
 スラッシュ→
「スラッシュは微妙だね。ソロってことでいいのかしら?」とユーキ。
「まあ、認めよう」と先輩。なんだか偉そうだ。
 ハロウィン→
 ニルヴァーナ→
 エアロスミス→
 ハイロウズ→
「ハイロウズはオーケー?」
「ハイロウズならオーケー」
「でもまたSだよ」
「あ」
 先輩がSのつくバンド名を考えている間にビールが切れたので、僕は冷蔵庫から烏龍茶とミネラルウォーターとウィスキーと氷を持ってきた。ユーキは自分の グラスに氷を放りこんで指三本分くらいのウィスキーを注ぎ、もう一つグラスを用意して僕のために薄い烏龍茶割りを作ってくれた。
「あ、思いついた」と先輩が言った。
 サイモン・アンド・ガーファンクル→
「それロックなの?」とユーキが意地悪に指摘すると、
「ロックだろ」と先輩はむきになった。
 ルナシー→
「ルナシーはだめだ」と先輩が即座に言った。
「なんでだよ」とケンタは口をとがらせた。
「だってもくそも、ロックじゃねえもん」
「じゃあリンドバーグもだめか」
「リンドならオーケー」
「なんでだよ偏見だろそれ?」
 偏見だと僕も思った。まあ前嶋先輩はリンドバーグのファンらしいから、当然なのかもしれないけれど。言いあいをする二人とも、ろれつと目つきがだんだん 怪しくなってきていた。
 リンドバーグ→
 グレイトフル・デッド→
 ドリームシアター→
「レッチリだとまたSに戻るよね」とユーキ。
「うん。やめとけ」
「じゃあライオットね」
 ライオット→
 TOTO→
 オジー=オズボーン→
「オズボーン? N? じゃあ、ネルソン」と僕が言うと、ユーキは僕の肩をどんと突き飛ばして、さも嬉しそうに言った。
「ぶぶーっ。オズボーンの綴りの最後はEでーす」
  エクストリーム→
 エマーソン・レイク&パーマー→
 R.E.M→
 メガデス→
「またHだ……。Hって、あんまりないのよね」と、ユーキは頭を抱えた。
 ウィスキーのボトルはいつの間にか空になっていた。僕のグラスには、ほとんど百パーセントの烏龍茶とかわりない薄い烏龍茶割りがまだ半分も残っている。 彼女がまだ飲み足りないような様子だったので、僕はまた台所に行って、料理用にしまってあった吟醸酒を持ってきた。
「ヒステリックスはどうかな」
 戻ってきた僕に、彼女が言った。
「なに、それ? 聞いたことのないバンドだけど」
「上条淳士の『TO−Y』に出てくるバンド」
「漫画じゃん」
「だめかな」
「だめなの?」僕は先輩にそう訊こうとして、そこでようやく気づいた。先輩もケンタも、いつの間にか酔いつぶれて寝ていた。先輩は部屋に二枚しかない座布 団を両足に挟み両腕で抱きしめるという体勢。ケンタはウィスキーの角瓶を枕代わりにしている。
「あははは、寝てる」とユーキは言った。彼女自身も顔が真っ赤だ。前嶋先輩のTシャツの背中がまくれあがって肌が露出したところに、ペットボトルのふたを 押しつけて赤い丸の跡をつけたりしている。僕が何も言わずに見ていると、今度は先輩のベルトをはずしてズボンを脱がせようとし始めた。さすがにそれは止め た。
 ユーキはけらけら笑いながら壁にもたれかかり、足を開いてごろんと投げ出した。その日も膝上丈のスカートだったので、僕は目のやり場に困ってしまった。
 前嶋先輩の尻を足の指でつつきながら、ユーキがぼそりと言った。
「ねえ、ヒロアキ。私がクニさんと寝たって言ったら、どうする」
 僕はひじのそばにあったソーダ水のボトルを倒してしまった。中身がテーブルの上に広がる。幸い、あまり残っていなかったので、被害は最小限で済んだ。
 こぼれたソーダ水を雑巾で拭いたあと、僕はユーキに言った。
「本当?」
「だから、本当だったらどうする?」
 ユーキの目はどろんとしていて、爬虫類のようだった。寒気がした。
「本当だったら――」
 僕はそこまで言って、言葉につまった。本当だったら? 何を言おうとしているんだ僕は。ユーキと前嶋先輩が寝る。――前嶋先輩のでかい手が、ユーキのブ ラジャーのフロントホックをはずして、小ぶりの乳房をつかみだして、優しく唇をつける。ユーキの指が先輩の股間に滑り降りて、ペニスをまさぐる。火照った 脇腹をお互いの舌が這いのぼる。身長差がありすぎるからシクスティ・ナインはできないかもしれない。『大丈夫、二人横になって、クニさんがちょっと背中を 屈めればいいのよ』ユーキの声。
 だから、どうしたというんだ。そんなの二人の勝手じゃないか。僕はそう思おうとした。でも、だめだった。悪寒が膵臓のあたりから、むかでのように身をく ねらせて喉元まで這い上がってきた。そのイメージは、あまりにグロテスクだった。
 僕はそれを素直に口にしてしまった。
「気持ち悪いよ」
 ユーキは濁った目で僕の口もとを見つめていた。笑っているのか、あきれているのか、よくわからない表情を浮かべていた。それからグラスに残ったウィス キーをあおった。
「嘘だよ」とユーキは言った。そして、今度はまちがいなく笑った。肩を揺らせて。
「私が寝るわけないじゃない、こんな人と」
 彼女の声には、なまぐさい金属臭が混じっていた。僕は背中の筋肉がこわばるのを感じた。
「私は、ね、ヒロアキ。優生学を信じているの」
「優生学」
「そう。人間にはあからさまに『優れた』個体と『劣った』個体があって、優れた個体どうしの子孫はやはり優れた個体になる可能性が高い。逆もまたそう」
「『優れた』個体って」
「私は、学歴社会を肯定する」
 ユーキは首をぴんとのばして言った。僕は唾を飲み下した。病気の獣のもろくなった背骨が折れたときのような、ひどく嫌な音がして、口の中に腐った血の味 が広がった。
「K高校くらいのレベルのところに入学すれば、いやでもわかるよ。大学に進めば、もっとはっきり見えてくる。学業成績がいい人間っていうのはね、やっぱり 頭が良いの。優れているの。きちんと努力できる人間だし、世の中を見て、そこにある状況を理解できる人間なの。それに、そうじゃない人間は、徹底的にそう じゃないの。駄目なやつは駄目なの。私があのすかした進学校で三年間使って学んだのは、そういうこと。上には上がいて、下には下がいるの。偏差値はそれを 正確に順序づけるの。だから私は、学歴社会を肯定する。人間の優劣は確かにあるし、それを今の受験システムは誤りなく評価できる」
「それは、つまり」
 何かを言わなければいけないような気がして、僕は口を開いた。言いながら僕は、目の前で喋っている女の子が誰なのか、だんだんわからなくなっていた。
「それはつまり、人間の価値は一本のものさしで計れるっていうこと?」
「そう。ベクトルではなくてスカラー値」
 この女は誰だろう、と僕はぼんやりした頭で考えた。どうして僕とこんな話をしているんだろう。僕と同じ顔をしていて、同じ姓を持っていて、同じ暗闇の中 から出てきた女。でも、彼女の頭の中では、僕の知らない二十一年間の中で育まれた、僕の知らない一次元の世界が回っている。
「人間の価値は一種類だけなの」
「そんなことない。かもね。でも、『優劣』っていうことなら、判断基準は一種類だけ。私はそう信じているし、ひとにもこれを理解することを要求する。彼氏 だって、私の考え方を理解してくれて、私と同じレベルの男から選んできたもの」
 そう言ってユーキは、赤ら顔で眠りこけている前嶋先輩とケンタに目をやった。哀しい目だった。憐れんでいるような、うらやんでいるような。それはほんと うに哀しい目だった。
「先輩とか、ケンタは、ユーキより『下』の人間なの……」
 僕は訊ねた。本当はそんなこと、聞きたくはなかった。でも、口をついて勝手に出てきてしまったのだ。ユーキは泣きそうな顔になって答えた。
「そうだよ」
「じゃあ、僕もユーキより『下』なんだね」
「そう……そのはずなのにね」
 ユーキは目を伏せ、テーブルの上に突っ伏した。
「ねえ、ヒロアキ、……あんたどうして大学に行かなかったの?」
「どうして、って」
 あのことをユーキに説明しなければいけないのかと思うと、気が重くなった。けれど、説明しないわけにはいかないようだった。
「行く必要がなかったから。僕はね、ユーキ。真面目に働くのがきらいなんだ。きらいっていうより、身体が受け付けないんだよ。真面目に働いて、給料もらっ て、休みの日に趣味に精出して、嫁さんもらって子供作って……っていう、普通の生活が。だめなんだ、どうしても。おぞましいって思っちゃうんだ、そういう の。それに気づいたのは、――そう、はっきり気づいたのは高校二年生くらい。だから、僕はミュージシャンをめざすことにしたんだ。大学なんて、行く必要な いでしょ」
「でも、行こうと思えば行けたでしょ」
「そりゃあ、まあ」
「高校だって、ちょっと勉強すれば、私と同じK高に入れたでしょ。あんた頭良いんだから」
「そうかもしれないけど、でも僕は勉強きらいだったし」
「私はね、ヒロアキ」
 ユーキが顔をあげた。頬が上気して、目がうるんでいた。僕はどきりとした。それは、ちょうど――僕が『失恋』した日の、スミカと同じ目だった。
「私はね、あんたがずっと私の後ろをついてくるもんだと思っていたの。だからK高じゃなくてJ高を受けたときには、ちょっとびっくりしたけど、私より多少 出来が悪いからしかたないか、なんて思ってた。でも、大学に行かないでフリーターはじめてバンドやってるなんて知ったときには、本当にびっくりしたの。そ んなの私の足跡じゃないじゃない。
 あんたは覚えてない? 昔、小学校の頃、あんたほんとに素直で、私の言うことなんでも聞いて、私にいつもくっついてた。朝、通学するとき、いつも私の十 メートルくらい後ろをちょこちょこついてきて、私が『ヒィロ?』って呼ぶと、『なぁに?』って答えて、私はそれが嬉しくて、百メートル歩くごとにあんたを 呼んでた。覚えてる?
 ねえ、私、いつからあんたのことを『ヒィロ』って呼ばなくなったんだろ」
 僕は黙ったままだった。何を言っていいのかわからなかった。ユーキはグラスにミネラルウォーターを半分注ぐと、それを両手で持って自分のへそのあたりま でおろして、水面をじっと見つめた。
 やがて、彼女はまた口を開いた。
「あんたは私の――デッドコピーだと思ってた。顔は同じだし、頭の出来はちょっとだけ劣るし、私とちがって運動神経ないし、でも、でもね、あんたが小学三 年生の時に交通事故に遭って……」
 交通事故? 交通事故だって?
「足を折ったでしょう。それで、一ヶ月入院して、ギプスくっつけて退院してきたとき、ああ、これから私はあんたを守ってやらなきゃいけないんだ、って思っ たの。だって、私のコピーだけど、私よりずっとずっと弱いんだから。正直言って、ちょっぴり嬉しかった。優越感。でもね」
 僕は激しく混乱していた。交通事故? 小学生の頃に? そんな記憶はない。ユーキは酔っぱらって妄想をしゃべりたてているのだろうか。
「でも、退院してきたあんたは、なんだかちょっと変だった。覚えてる? 退院してはじめて登校した日のこと。三年生の教室は四階にあってさ、退院したばっ かりでギプスに松葉杖だったあんたを心配して、私が荷物だけでも先に運んであげようって言ったの。そしたらあんた、すごく怒ったの。『一人でできる』っ て。あれは、ショックだった」
「ねえ、それって」、僕はたまらなくなって口をはさんだ。「その交通事故って、いつのこと?」
「憶えてないの? あんたが十歳だか十一歳のとき。全治三ヶ月くらいかな。左の太ももに、でっかい手術痕があるでしょ」
 手のひらにじっとりと汗がにじんだ。すぐに左脚を確かめようかとも思ったけれど、そこにある事実が恐ろしくて、動けなかった。僕の記憶力がいくら信頼お けないといっても、いくら十年も前のことだといっても、自分が交通事故に遭ったことをすっぱり忘れてしまうものだろうか?
「あの事故で、あんたはなんだか変わっちゃった。ううん、変わったのは私の方かもしれないけど。その時から私、薄々気づいていたんだろうと思う。『こいつ は、私とはちがう人間なんだ』ってこと」
「そんなの」、僕は少しためらってから言った。「そんなの、当たり前じゃないか」
 ユーキはぎこちなく笑った。
「私にとっては当たり前じゃなかったの。当たり前じゃないだけじゃなくて、それは、そう、許せないことだった。明らかに間違っていることだった。私にとっ ては。でも、それも、そう――」
 ユーキが言葉を区切る間隔は、だんだんと短くなりつつあった。
「あんた、中学生のころから作曲を始めたよね。あれが、私には不思議でしようがなかった。どうしてあんたにそんなことができるのか。どうして、私のできな いことをあんたができるのか。本当に、不思議でしようがなかった。ねえ、私、あんたに内緒でピアノ練習してみたり、曲を書いてみようとしたり、したんだ よ。知らなかったでしょ? でも、だめだった。そんなの、できるわけがなかった。あんたに――」
 ユーキの目から、不意に、ひとかたまりの涙がぼろりとこぼれ落ちて、音を立ててテーブルの上に落ちた。彼女は何か忘れ物を思い出したときのような顔でそ の飛び散った水滴を見つめ、続けた。
「あんたには、勝てないと思った。私と、私と同じ頭なのに、あんたは、曲を書いたり、詞を書いたりできるし、独学でピアノも弾けるようになったし、ギター も覚えたし、私は、そんなこと、何一つできないのに、あんたは、大学も――行かずに、十八でぽっと家出て独り暮らしはじめて、何も、だって、わ、私、」
 ユーキの顔がぐずぐずに崩れた。うつむいてテーブルと自分の胸の間の空間に視線を落とし、肩を震わせながら、彼女は泣いた。洟をすすりあげながらぐずぐ ずした声で喋り、喋りながら泣いた。
「ずっと、私、あんたには勝てないと思ってた。あんたのところに毎週やってきて、セッションに、PAで割り込んで、それで、なんとかあんたに、認めて、ほ しかった。認めてほしかったの。何か一つくらい、あんたのできないことを、私ができるっていうことを、見せつけてやりたかった。でも、そんなこと、すれば するほどみじめで、私は、だから、それでも、来ないわけにはいかなかったし、だから、私がここに来ているのは、クニさんと、ケンタがいるから。クニさん が、優しいから。ケンタが、私を安心させてくれるから。この二人がいなければ、私、多分、この部屋には来ないと思う。あんたの顔、まともに見られないも の」
 体中の空気を絞り出すようにして言い終えると、ユーキの声は途切れ途切れの嗚咽にかわった。僕は呆然として、彼女のはだけた襟からのぞいているすらりと した鎖骨のふくらみをじっと見つめていた。僕がその時考えていたのは、ユーキのことでも自分のことでもなかった。前嶋先輩やケンタのことでもなかった。 『カリフォルニア物語』のことだった。
 僕とヒースとのちがいは、いくつかあった。彼は本当にユニークで、人にうらやましがられる価値のある魅力的な人間だったけれど、僕はといえば、ただ ミュージシャンを目指すなんて口先だけで大きなことを言っているつまらないフリーアルバイターに過ぎなかった。ヒースは、多少歪んだ形ではあったけれど、 兄と父を愛していた。僕を満たしているのは、好奇心でかろうじて致命的でないまでに薄められた、宿命的で純粋な無関心だった。
 でも、共通項もあった。彼は二十二年間、兄の中の暗黒に気づかなかった。そこでのたうっていたコンプレックスに。僕だって二十年間気づかなかった。
 でも、これは僕とヒースの共通項というより、人間という愚かな哺乳類の、哀しい最大公約数だった。僕らは、絶対にわかりあえない。なぜなら僕らの魂と か、意識とか、人格といったものは、不完全な五感を通してしか世界に触れられないからだ。僕らはその不完全な五感のフィルターを通して得た世界のイメージ を、信じるか、無視することしかできない。
 そのことを僕は哀しいとは思わなかった。ただ再確認しただけだった。ユーキは背中を小刻みに震わせて、泣き続けていた。

 午前三時頃、彼女は黙って立ち上がり、部屋を出ていった。玄関のところで一度だけ肩越しに振り向いて、僕に何か言いたげな視線を向けてきた。彼女の黒髪 が暗がりに溶け込んで、酔い醒めの青白い肌と泣きはらした赤い頬が、ぼうっと光っているように見えた。
 それが、僕の見たユーキの、最後の姿だった。

       *

 次の週に、ユーキは死んだ。



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