紅の初恋

       1

 リンがファルトにはじめて出会ったのは十四歳の時だった。
 五月の終わりで、皇宮の中庭には色とりどりの石楠花や芥子の花が咲き誇っていた。
「もうすぐ殿下がここを通るわ。リン、隠れましょう」
 一つ年上の従姉のニルセが、花摘みをしていた手を止めて言った。
「殿下って?」とリンは訊いた。
「高貴な方よ。でも、あたくしとはよく遊んでくださるの。さ、あなたたちは部屋の中で待っていてちょうだい」
 ニルセは侍女たちをさがらせると、リンの手を引いてあずまやの柱のかげに隠れた。
「リン、あなたにも花の冠をあげる。殿下にお目にかかるかもしれないのだし」
 そう言ってニルセは、菫の花を編んで冠を作ってくれた。リンの髪に載せると、微笑む。リンは自分では花冠を作ることができなかったので、嬉しく思った。
「でも、ここに二人隠れるのは無理がないかしら」
 リンはあずまやの細い御影石の柱を指さす。ニルセも首を傾げた。
「そうね。あたくしはあちらの茂みに潜っていることにする。……リン、いらっしゃったわ。隠れて、殿下をおどかしましょう」
 ニルセはひらりと衣の裾をひるがえしてつつじの茂みに飛び込んだ。リンが柱に身を寄せたとき、ちょうど石のアーチをくぐって人影が三つ中庭に入ってくる ところだった。
 左右の二人は見知っていた。一人はリンの伯父、つまりニルセの父親であるロージウム大公だった。もう一人は年始の宴などで何度か見たことのある顔で、た しか騎士団の団長。
 その二人の間を歩いているのは、見事な銀髪の少年だった。紫地に金刺繍のチュニックを着ているので皇族とわかった。
 三人が花壇の間を抜けてあずまやのそばにさしかかったとき、不意に銀髪の少年が足を止めた。
「どうなさいました、殿下」
 伯父の声が聞こえた。リンは顔を引っ込め、身を固くして柱に背中を押しつけた。
「ふふ、見つけた」
 軽やかな少年の声。草がかき分けられる音が近づいてきたかと思うと、突然手首をつかまれ、リンは柱の後ろから引っぱり出された。
「いつも同じやり方で驚かそうったってそうはいかないよ、ニルセ!」
 目の前に、銀色の髪にふちどられた顔、オルフの湖面のように深い紺碧をたたえた瞳があった。
 顔が紅潮するのがわかった。
「どうしたんだいニルセ。今日はおとなしいね? そら、見つかった隠れ鬼の罰はこうだ」
 少年の両手がリンの脇腹に伸びた。触れられただけで反射的にリンは彼の身体を突き飛ばしていた。
「殿下ッ」
 大公の声が飛ぶ。少年は霞草の花壇に倒れ込んだ。
「まあ、殿下!」
 茂みの中からニルセが駆け寄ってきた。
「と、とんでもないことを! リン、お、おまえ」
 大公が目を白黒させている。リンにはいったいなにが起きたのかわからなかった。ただ伯父の剣幕に押されて、後ずさる。
 ニルセに手を借りて少年が身を起こした。
「あれ? ニルセ? ――ニルセが二人いる」
 少年が、リンとニルセの顔を見比べながら言った。
 一人ことの成り行きを見守っていた騎士団長が、笑い出した。


「こちらは我が弟ハザード子爵の娘、リンにございます。リン、殿下にお詫びなさい」
 大公がようやく落ち着いた声で言う。
「や、それには及ばない。悪いのは僕だ」
 少年は裾についた土を払うと、リンに近寄ってきてひざまづいた。
「非礼をお許しを、レディ」
「あ、あ、い、いえ」
 リンはなにか答えようとするが言葉がうまく出てこない。
「殿下ッ、臣の娘にひざなどついてはなりませぬ」
 大公が声を荒げた。騎士団長は「まあまあ、ロージウム卿。花畑では盗人も罪にならぬと申すでしょう」と言って、また笑い出す。
「さっきはニルセだと思ってくすぐろうとしてしまったんだ。許してほしい」と少年は大公を無視して続ける。
「殿下、それではあたくしならいきなりくすぐってもよいように聞こえますわ」とニルセが頬をふくらませて口をはさんだ。
「ニルセならかまわないだろう? それにしても、よく似ている。双子みたいだ」
 少年は笑って立ち上がった。
 と、リンの頭にじっと視線を注ぐ。リンはまた頬が熱くなるのがわかった。
「冠を台無しにしてしまったみたいだね」
 言われて、気づいた。少年を突き飛ばしたときだろうか、花冠を落としてしまったらしい。
 少年は赤い芥子の花を二輪摘むと、リンの右耳の上に差してくれた。
「貴女はたぶん、菫より紅色の花の方が似合う」


 三人が行ってしまった後で、リンはニルセから少年の名を教えてもらった。
「ファルト……」
「そう。皇太子殿下」
 午後の茶会でリンはもう一度ファルトを見かけた。国王の隣の席から笑顔を向けてくれたが、それが自分へなのか、隣に座っていたニルセへの笑みなのか、そ んなことを考えているだけでその日の夜は一睡もできなかった。





       2

 十六になったリンは、ニルセに誘われて夜会に顔を出すようになった。父にも早く社交界に慣れるようにと言われていたが、甘い林檎酒と焼けた肉と香水の匂 いが立ちこめる夜のサロンの空気はどうしても好きになれなかった。
 その日もリンはバルコニーに出て、手すりにもたれガラス戸ごしにパーティの様子をぼんやり眺めていた。冬の予感を孕んだ風は背後の黒い森をざわめかせ、 リンの薄いドレスの背中をちくちくと刺した。
 会場がしんと静かになったかと思うと、どよめきが弾けた。舞台に置かれたクラヴサンの前で、ニルセが立ち上がり、抱えきれないほどたくさんの花束を受け 取っていた。演奏が終わったらしい。
 ニルセの鍵盤の腕前は見事だとリンも思う。自分はああいったことはからきしだ。琴に触れたら弦を切ってしまいそうだし、詩など最初の一句を考えるだけで 熱を出して倒れるかもしれない。
 輝く銀髪がニルセに近づくのが見えた。ニルセの笑顔が夏の盛りのひまわりのようになる。
(……ファルト)
 弦楽が始まる。ファルトはニルセの手を取ってダンスフロアへと誘う。リンはガラス戸に背を向けた。
 どこかの男女の口さがないさえずりが、分厚いガラスを通しても聞こえてくる。
「……大公の御息女でしょう。申し分ないわね」
「殿下もニルセ様がいらっしゃるときは必ず夜会に顔を出すとか」
「まあ、ふふ」
「陛下もロージウムとは親密にしたいだろうし、願ったりかなったりだね」
 それ以上聞きたくなかった。リンはマフラーを首に巻き付けると、テラスの下でさんざめく森の闇に見入る。
 ――ファルト。
 ――しょせん、わたしには届かない星だ。
 ――従姉妹とはいえ、ニルセは大公の娘、わたしの父は子爵領をひとつ守っているきり。
 ――こうしてせっかく同じ宴に顔を出したというのに、わたしにはファルトに声をかける勇気もない。

『――壊してしまえばいい』

 不意の声に、リンは顔をあげた。
 夜の真ん中に、深い紅色の影がわだかまっていた。
『なにをくだらないことに心煩わされている? すべて、壊してしまえばいい』
「黙って」
 リンは吐き捨てた。
 それは、リンが幼い頃から時折現れる幻だった。必ずリンが独りのときに浮かんでくる。そうしていつも退廃的な言葉を投げてくる。
『人の喜びになんの意味がある。おまえはとうにその虚しさを理解しているはずなのだ。なぜ悩む。なぜ迷う』
「やめて」
『おまえは――』
 背後で、戸が開く音がした。赤い靄はかき消えた。
 リンが振り向くと、ファルトがグラスを二つ手に立っていた。
「殿下」
「こんなところにいたんだね。ほうぼう捜してしまったよ」
 戸が閉まる。喧噪混じりの華やかな弦楽が遠くなる。
「ま、待って、来てはだめです」
「――どうして?」
「なぜ、なぜって。殿下は主賓ですから」
 声がうろたえているのが自分でもわかった。あの赤い影が現れた後は、人に会いたくなかった。ましてやファルトなら――
「僕にだってテラスで涼む権利くらいあるだろう」
 いつの間にか隣に来ていたファルトから、グラスの一つを渡された。
「わたし、お酒は」
「酒じゃないよ。松ヤニ入りの水だ。僕も酒はあまり好きじゃないんだけれど、十八になってからは子供の振りも通用しなくなってね。つらい」
 ファルトは微笑み、グラスに口をつける。
 リンはうつむいて、グラスの中でさわさわと弾けている気泡を見つめた。なにを喋っていいのかがわからない。せっかくファルトが来てくれたのに。
「馬術の大会で優勝してしまったんだってね?」
「えっ? あっ」
 リンは危うくグラスを取り落としそうになった。
「サロンではだれも知らなかったけれど、騎士団ではちょっとした話題になっていたよ。ハザード子爵家の代理で出た令嬢にトロフィをかっさらわれたって」
「あ、あれは、たまたま、です」
「騎士団長は剣の腕も褒めていたよ。いやだな、そんなに赤くなることはないじゃないか?」
 リンはテラスから逃げ出した。
 ホールに入ると、分厚いカーテンのかげに隠れる。大勢の紳士たちに囲まれて談笑しているニルセの姿が目についてしまった。
 ――『おまえが男に産まれていたらな』……
 ――父の口癖だ。
 リンはカーテンの襞の間に隠れたまま、長い長い舞曲が終わり宴が酩酊の中に沈みきってしまうのを待った。ファルトにもらったグラスは握りしめたままだっ た。
 彼らの会話を耳にしたのはそのときだった。
「ロージウム大公……すっかり調子づいておりますな」
「まったく。これで娘御を送り込まれて後宮まで牛耳られてはたまらん」
「百年仕えた我々を差し置いて、これほど重用なされるとは。陛下も現金に過ぎる」
「灸が必要ですかな」
「まさしく」
 パーティ会場にはあまり似つかわしくない中年の男達だった。彼らはカーテンに背中を向けていたため顔はわからなかったが、リンはその声をしっかりと記憶 に刻みつけた。
 嫌な予感がした。





       3

 二年後、戦があった。後世になって知られるところだが、「王国としての」ディアス最後の外征だった。
 長い太平に王国軍は倦怠し、馬上槍試合と典礼行進のためだけの飾り物に成り下がっていた。山賊軍によるキルスレーン攻略を許し、あまつさえ夜盗の衆に 「王国」を名乗らせてしまったのは、皇軍の堕落ここに極まれりといったところだろう。
「僕が出る」
 皇太子ファルトの言葉に、皇宮はひっくり返った。必死に引き止めようとする両親や臣下を前に、しかしファルトはぴしゃりと言い切った。
「他にだれが、王国の威信を取り戻せるというのですか。父上、あなたが八翼十軍率いて征かれますか」
 反論はついになかった。
 同じような一幕がハザード子爵家でもあった。長女リンが遠征軍に参加すると言い出したのだ。
「おまえは女子なのだぞ」
 さすがにハザード子爵は激怒した。しかし、
「わたしに武芸で勝てる者が城下におりますか」
 というリンの一言にはだれもが口をつぐまずにはいられなかった。実際、リンが獲得していた天覧試合のトロフィには勲準一等と同等の価値があり、近衛兵へ の仕官資格がすでに保証されていたのだ。もちろん女子に関する規定はなかった。女子が優勝できるなどだれも考えていなかったからだ。
 ただファルトを近くで守りたい一心で、両親の反対を押し切ってリンはキルスレーン遠征に参加した。
 ファルト二十二歳、リン十八歳の冬のことだった。


 道中二ヶ月余りの時間があったにもかかわらず、キルスレーン攻略作戦はまとまらなかった。近衛の一人として軍議に立ち会っていたリンにはすぐにその理由 がわかった。だれ一人として軍略をまともに学んだ将軍がいなかったのだ。
「山賊の集団など我が勇猛なる王国兵団が軽々と踏みつぶせましょうぞ」
 二ヶ月前まで甲冑などつけたこともなかった将軍が、たるんだ腹を叩いて豪語する。
「キルスレーンの複雑な街路では騎兵など無力同然ですぞ!」
 敗走したキルスレーン守護役はなぜか自慢げに言い返す。この繰り返しで、まったく進展しなかったのだ。軍はイスパーンにまで進んでしまう。
 ある夜の軍議で、代わり映えのしない茶番に倦んだのか、ファルトが後ろに控えていたリンにふと訊ねた。
「なにか意見は?」
 リンはひどく驚いた。
「意見など」
「いいから、言ってごらん」
「殿下、おたわむれを」と将軍の一人が笑った。
 リンは少し迷ってから、正直に自分の考えを口にした。
「――イスパーンからの水軍の貸し出しをお受けするべきでしょう。軍を二手に分けて、半数を海から進めます」
「なにを迂遠な。だいいち、イスパーンの占い爺どもにこれ以上借りを作れと申すのか」
 だれかが口をはさんだのでリンは言葉を切ったが、ファルトに促されて続けた。
「キルスレーンの重要施設は海側に集中していますから、港から運河をおさえて進入。内部から城門を開いて陸進勢を招き入れ、挟撃します」
「馬鹿な。そも、二手に分けたら本陣の守りはどうなる」
「近衛がおります」
「図に乗るな小僧!」
 罵声が飛んだ。リンは女性であることを隠して軍に参加していたが、将軍達にとって青二才に見えることにかわりはなかった。
 しかしファルトの声が場を鎮める。
「採用しよう」
「殿下ッ。まことでございますか」
「将軍、イスパーン元老院に使者を。水軍側の選定は僕がやる。解散」
 驚嘆と怒声が渦巻く天幕を、ファルトはリンを連れて抜け出した。


 一ヶ月後、キルスレーンの城門は港側から侵攻した王国軍によって破られた。
「四翼騎兵団突入しました!」
「港を完全制圧!」
 キルスレーンを望む丘に組まれた本陣に、次々と伝令が駆け込んでくる。ファルトはリンを振り返り、満足そうに微笑んだ。
 そのとき、陣の背後で爆発音がした。馬がいななき総立ちになる。
 ――敵襲ッ?
 振り向くと、燃え上がる幕が目に入る。その向こうできらめく無数の刃。矢の雨が降りリンの足下の草にも突き刺さった。陣のそこかしこで悲鳴があがる。
「殿下をお守りしろッ」
 近衛隊長がそう叫んだ直後に、矛槍で頭を砕かれて倒れた。熊のような大男たちが何十人となだれ込んでくる。
「ここ近衛兵なななにをやっておるッ」
 将軍の一人が情けない声で叫ぶのが聞こえた。リンは細身の剣で戦斧の斬撃をいなし、鎧の継ぎ目に鋭い突きを入れて次々と敵を始末しながらファルトの姿を 探した。
 ――接近に気づかないなんて、不覚だった!
「やつだ! ディアスの皇族だ狙え!」
 その声にリンは反応する。ファルトを見つけた。のろくさと逃げ回る幕僚たちに囲まれて身動きがとれないでいる。山賊軍の一団がファルトたちに迫りつつ あった。白兵戦の経験など皆無の将軍達が瞬く間になぎ倒されていく。
 矛の一振りがファルトの手から剣を叩き落とした。
 ――間に合って!
 屍体を踏みつけ、跳躍した。敵の背中を台にしてさらに高く。リンの足下を、十数人のキルスレーン勢が過ぎる。ファルトの目の前に着地した瞬間、矛がリン の背中を強打した。
「リンッ!」
 ファルトの悲痛な声。一撃はしかし、背中に回した剣で受け止めていた。腕に激しいしびれが走る。が、かまわず立ち上がり、振り向きざまに斬り払った。男 が腕を落とされてのけぞり倒れる。
 ――ファルトはわたしが、守る。
 屈強なキルスレーン軍の兵士たちは、分厚い城壁のように二人を何重にも取り巻いていた。
 無数の刃が振り上げられる。怒号が耳をつんざいた。


 日没の少し前に、戦いは終わった。キルスレーンの街のあちこちでは黒煙がくすぶり、夕陽を映した入り江のところどころでは流れ出した黒い油が燃えて黄昏 を汚していた。
 城壁にはディアスの紅い軍旗が並び、海風を受けてはためいている。
「殿下、ご無事ですかっ」
 リンは軍医の天幕に駆け込んだ。ファルトの腕に包帯を巻いていた老軍医が跳び上がって驚く。
「ああ、かすり傷だけで済んだよ」と、ファルトが振り向いた。
「よかった……」
「貴女は、怪我一つないんだね」
「え? え、はい。……幸運でした」
「運なものか。一人で二十人を――なんて――」
 ファルトはなぜか寂しそうな目になった。
 立ち上がり、リンの肩に手を置く。
「貴女がこの遠征に来てくれて、よかった」
 リンは泣きそうになった。ファルトにすがりつきたくなる衝動を必死に押し殺した。
 天幕の外では、大勢の兵士達が歌うディアス軍歌が響いていた。





       4

 翌年の四月に、ファルトはニルセと正式な婚約をかわした。
 ロージウム城で開かれた婚約祝いのパーティにはもちろんハザード家も招かれたが、リンは仮病を使って欠席した。どんな顔でニルセに会えばいいのかわから なかった。
 城の自室でベッドに潜り込み、どこにも行き着かない物思いに身を浸していると、またあの紅い影が現れた。目を閉じた暗闇の真ん中に、血のしみのように浮 かび上がり、頭の中で声が響く。
『――欲するものがあるのなら、なぜ奪わない』
 ――奪う?
『そうだ。壊せ。そして奪い取れ』
 ――なにを……
『おまえはそういう者だ。その力があり、意思がある』
 ――黙れ。
『立ちふさがるすべてを焼き尽くせ。略奪せよ……』
「黙れ!」
 リンは頭にかぶった毛布をはねのけた。紅い影は消えた。暗く冷たい寝室に、ひとりきりだった。


 五月、皇宮から鹿狩りの案内が届いた。
「春の鹿狩りとは、皇族内々だけで行うものだったはずだがな……」
 父のハザード子爵は訝った。
「招かれたのはわたしだけなのですか?」
 リンは信じられずに訊き返す。父は黙って招待状を渡した。
 たしかに、招待にはリンの名前しか書いてない。書状は国王、王妃、そして皇太子ファルトの連名だった。
 ――ファルト……どういうことだろう。
「新しい皇族に迎え入れるということでロージウムのニルセを招くというのなら、話がわかるのだが」
 父は額に手をやる。
 心が躍った。理由はわからないが、ファルトが自分を皇族だけの集まりに招いてくれた。それが嬉しくてしかたがなかった。リンの空想はふくらむ。
「おまえはそんじょそこらの男より腕が立つからな、護衛ということかもしれん。甲冑をつけて剣を持っていくか?」
 父の皮肉も耳に入らなかった。


 皇有禁猟区は深い針葉樹林だった。名も知れぬ野草が下生えのそこかしこで慎ましやかな花をつけていた。
 木々が開けた丘の上で、国王・王妃をはじめ皇室の主立った面々があぶみを並べて談笑していた。鹿狩りとはいうものの、弓を手に馬を走らせているのは年若 い王子たちくらいだった。
「狩りはしたことがないのかい?」
 すぐ隣で白馬にまたがったファルトが訊いてきた。鹿を追っている一団を馬上からぼんやり目で追っていたリンは、はっと我に返り、しどろもどろに答えた。
「え、ええ。弓は……いくらかやりましたけれど」
 ファルトは苦笑した。
「レディにするような質問ではなかったね。すまない。貴女と話していると、つい……」
「い、いえ、お気になさらないでください」
 リンはあわてて手をぶんぶん振ってファルトの言葉を遮った。
 ――たぶんファルトはこう言おうとしたのだ。『つい、女であることを忘れてしまう』と。
「……そ、それに、殿下からいただいたこの服は弓には向いていませんし」
 リンが着ているのは、数日前に皇宮から届けられた遠乗り用の厚手のドレスだった。東方織りの貴重品だ。
「ああ、そうだね。一段ときれいだ」
 ファルトはむずがゆそうな笑顔を見せた。
「ニルセに贈ったらとてもよく似合っていたんだ。だから貴女にもきっと似合うと思った」
 同じ服を先月ニルセに自慢されたことをリンは憶えていた。複雑な心境だった。
「禁猟区に入ったのははじめてだよね。向こうに、とても景色のいい丘があるんだ。案内するよ」
 ファルトはそう言って馬の腹を叩いた。リンもそれに続く。二人きりになれるのが嬉しくて、手綱を握った手が震えた。
 きつめの勾配をのぼっていくと、左右の木々が深まってきた。梢の重なりが頭上で閉じ、あたりがひんやりと暗くなる。
 先を行くファルトが鞍上で振り向いた。
「はじめて会ったときを憶えているかい?」
 どうしていきなりそんな話をするのだろう。内心首を傾げながら、リンはうなずく。
「……はい」
 花咲き乱れる王宮の中庭。隠れていたリンの手を突然つかんだのが――十八歳のファルトだった。
「あのときはほんとうに驚いたよ」
「わたしも」
「もし、貴女が――だったなら……」
 ファルトの碧い瞳が翳る。
 森が開けた。陽光があふれる。黒々とした森が広がっている。森の果てのさらに先、なだらかな起伏を繰り返す草原が見渡す限り続き、地平のあたりには王都 の城壁の白い影がかすんでいる。
「きれい……」
 リンはため息をついた。そのとき、
 鋭く空気を裂く音がした。
 胸に衝撃が突き刺さる。はずみで、リンの身体は鞍から投げ出された。
 視界が青い空だけになる。背中から草の上に落ちたのだ。なぜか痛みがない。かわりに、息ができない。
 おそるおそる首を持ち上げる。ドレスの脇腹に深々と、太い矢が突き立っていた。
 ――苦しい。
 指先の感覚が消えていく。矢の刺さった部分だけが火照ったように熱く、脚も頭も腕も霧の夜のように冷えていく。目を開けているはずなのにあたりが暗い。
「――くせ者! くせ者だ!」
 ファルトの叫び声、いくつもの蹄の音。
 リンの意識は闇の中に呑まれた。





       5

 全身が灼けるようだった。石の天井がぐるぐると回っていた。
 だれかが苦い液体や乾いた草の葉を何度もむりやり口に含ませた。吐き気で腹がねじれそうだったが、吐こうにも身体が動かなかった。
「この毒で助かった例は――」
「なんということだ」
「下手人は」
「暗殺――」
「禁猟区に忍び込むとは」
「ロージウム大公が」
「殿下に――」
 耳に入ってくる言葉さえ、引っ掻くような痛みに感じられた。高熱のせいで意識はかすみ、だれが喋っているのかさえわからなかったが、ファルトの声だけは 聞き分けることができた。
 聞きたくはなかったが、耳をふさぐ力もリンには残っていなかった。
「賊は吐いたのか」
 ファルトが囁くように言った。
「はい。薬を使いました」
 だれかが答えた。聞き憶えがあるような気がした。騎士団長――?
「殿下の御予測の通り、北領三公の差し金でございました。ロージウムのニルセ様を狙うよう命じられたと」
「そうか。やはり……長く仕えてくれた諸侯だけれど……」
「皇室とロージウム大公の結びつきが強まるのが、面白くなかったのでしょう。しかし殿下の計略のおかげで、獅子身中の虫を一網打尽にできます」
「うん」
 足音が近づいてきた。すぐそばにファルトがかがみこんでいるのがわかった。リンは声をあげたかった。手でその顔に触れたかった。
「リン様にはお可哀そうなことをしましたな。影武者に使うとは」
「いや。これでいいんだ」
 ――ファルト?
「このひとは、こうなるべきだった」
 ――なにを言っているの、ファルト?
「殿下とリン様は親密であるようにお見受けしましたが」
「そうだね。僕もリンのことが好きだった。でも」
 ――でも? なにを言うつもりなのファルト?
「……ときどき、怖くなった。このひとの持っているものに。武術や軍略だけではない、瞳の奥の方に、底知れない、真っ赤ななにかが、渦巻いているのがわか るんだ。だから――怖かった。このひとは、いつか大きな禍を呼び込むような……そんな予感がした」
 ――やめて。
「だから、このような計画を立てられたのですか」
「そう」
 ――やめて! 嘘! 嘘!
「わたくしには理解しかねます」
「うん。自分でもなにを言っているのかはわからないよ」
「いずれにせよ、助かりますまい」
「――行こう」
 足音が遠ざかる。
 ――行かないで。
 扉が軋り、静かに閉じた。
 ――行かないでファルト。

 暗闇に取り残された。
 寒さと熱と痛みに、もはや抗う気力すらなかった。
 リンは漆黒の中でうち捨てられた人形のように沈黙していた。
 そして、

『――壊せ』

 あの声が聞こえた。

『おまえに与えられたものがなんであるか、理解しただろう。受け入れよ。そして――滅ぼせ』

 その紅は、リンの意識の中で、すでに靄ではなくなっていた。巨大ななにかの形を取りつつあった。一対の翼が暗闇の天を突き、禍々しい鉤爪の四肢が暗闇の 大地をえぐった。
 リンは顔をあげた。
 爛々と光る二つの眼があった。
『おまえはヒトに生まれるべからざる者だった。思い知っただろう』
 リンは長い間黙ってその眼光に魅入られていたが、やがて小さくうなずいた。
『おまえの肉体は滅びようとしている。受け入れなければ、やがておまえは混沌の渦のひとうねりと帰すだろう。選べ』
 闇が震えた。
『受け入れるか?』
「――わたしに、力を?」
『受け入れるか?』
「――すべてを滅ぼす力は、要らない。ただ」
『受け入れるか?』
「――この想いを、断ちきる力を」

『受け入れるか?』

 リンは手を差し伸べた。
 紅と闇が混じり合い、弾けた。
「あなたの名は?」
 意識がばらばらになりそうなほどの上昇感の中で、リンは訊ねた。
 紅が答えた。
『アズキール』





       6

 息を吹き返したリンに、皇宮は大騒ぎとなった。父母は諸侯の面前で恥ずかしげもなく泣き崩れた。すでに治療を投げ出していた皇宮付き医局は「奇跡」と感 嘆した。
 ファルトもリンの恢復を喜んでくれた。その笑顔が嘘か真実か、リンは知りたいとも思わなかった。


 数日後、北方を治める三人の公爵がリン暗殺を企てたとの噂が都を駆け抜けたが、具体的な処分が下されるには至らなかった。ただし、後になってその三者と もがトリアッドとの交易独占権を王国に返上した。ファルトは持ち札を巧く使いこなしたのだ、とリンは思った。


 その年の暮れにリンは王立学院に入った。設立以来はじめての女性学士だった。反対した父親にはきっぱりと、「自分は女を棄てる」と言った。


 八年後、国王崩御。
 ディアス王国最後の君主、ファルト二世が即位した。
 そのさらに二年後、王妃ニルセの推薦により宰相となったのは、まだ年若いリン=ハザード子爵であった。


 宰相リン=ハザードが機械兵団を率いて叛旗を翻し、王都ディアスを陥落させたのはさらに二十二年後のことである。
 皇宮謁見の間でファルト二世を捕らえたリン=ハザードは、王位禅譲を迫り、書状にサインした瞬間にファルト二世を斬殺した。このときリンは婚礼の髪飾り を身につけていたと禁史書には記されているが、真偽のほどはさだかではない。



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