フォラメン

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 ビル爆発事故の報が飛び込んできたとき、局で手の空いているカメラマンは僕だけで、ひまなエンジニアはニックだけだった。僕はピアスの端末で中継車の手配をしながら、社屋を駆け回ってニックの姿を探した。彼は非常階段の踊り場で、派手なブロンドにペニスをくわえさせて腰を振っている最中だった。
「ニック仕事だ。おい、さっさとしろ」
 彼は天井を仰いで、絞め殺された七面鳥みたいな声をあげ、ブロンドの頭を股間に強く押しつけた。腰を痙攣させ、それからペニスを引き抜く。紅い唇に精液が滴る。僕は頭を掻いた。
「休憩中に抜くのはやめとけと忠告しなかったか?」
「どこで一発やろうと俺の勝手だ。現場は?」とニックはトランクスをずりあげる。
「サウスダウン」
「行こう」
 と、たっぷりの精液を飲み込んだばかりの金髪がニックに背中から抱きついてきた。豊満な胸を二の腕にすりつけてしなを作る。
「おい、誘淫モードを切れよ」と僕は言った。「くそ、こっちに寄るな」
 どうやら汎用設定にしているらしい女が僕にも身体を押しつけてきたので、思わず荒い声が出た。
「ああ、うっかりしていた。ジェニファ、『修道院に入れ』」
 その言葉を聞いたとたん、美しい金髪《フォラメン》の眼から淫蕩な色が抜け落ちた。ニックから離れると、乳房がこぼれそうなほどに開いた襟を直し、口元をぬぐう。
「そんなに嫌うなよ童貞。俺の女房だぜ」
「もっぺん言ってみろ。あご叩き割って二週間くらい粉ミルクだけで生活させてやる」
「悪い許せ。はは」
 僕とニックはジェニファを踊り場に放置してエレベーターで一階まで滑り降り、受付嬢がにこやかにたたずむロビーを駆け抜ける。もちろんこの受付嬢も人間ではなく《フォラメン》だ。まともな会社の玄関入ってすぐ右手には綺麗な女性が座って微笑んでいるべきだという男の固定概念は、あの世界的な病害ですらうち崩せなかったのだ。
 車のドアを開けたとき、彼方からかすかに地響きのような音が聞こえた。見上げると、摩天楼の合間の空に黒煙が立ちのぼっていた。ニックが車のナヴィモジュラに行き先を告げると、僕を押し込むようにしてドアが乱暴に閉じた。
 車が走り出し、本社ビルがあっという間に窓の向こうに遠ざかる。ニックが耳の下に受信パッチを貼りつけながら口笛を吹いた。ニックの脳内には衛星からの膨大な速報が流れ込んでいる最中だ。
「ぶっ飛んだのは、メタ・フィロマリア教会ビルだ」
「テロかな」
「さあな。あいつら式の祝い事かもしれない。アヴェ・マリーア」
 ニックはふざけて素っ頓狂な声をあげる。
 メタ・フィロマリア教会は、《フォラメン》関連法案が世界百六十カ国で批准されてから半世紀経とうかというこのご時世に、未だ「ダッチワイフを捨てて生命の本来に立ち帰るべし」というイカ臭い教義を掲げてそれなりの信徒と大量のお布施をかき集めている過激派宗教団体だ。サウスダウン・ヒルズにでかでかとマリア像を戴いたビルを構えている。なるほど、あのマッチョ・ビルが吹っ飛んだのか。不謹慎ながら僕は少しだけ愉快になった。
『爆発事故の影響で混雑が発生しています。迂回しますのでルート候補を選んでください』
 ナヴィモジュラが無機質な声で告げ、フロントガラスに九十九里浜リトル・マンハッタンの地図が浮かび上がる。ニックは舌打ちして、映像のルートを指し示した。
『了解』
 ナヴィが答え、車がいきなり横道に突っ込む。僕の顔は窓に押しつけられた。実に粗悪な運転システムだ。
 風景の変化に気づき、僕はニックをなじる。
「おい、崙橋通りをとおるのか」
「なんだ、文句あるのか。いちばん近いんだ」
「いや」
 僕は口ごもる。
「昼間からあんな場所を通らなきゃいけないのか……」
「相変わらずだな。前から思ってたんだが、フィロマリア教会の世話になったらどうだ?」
「うるさいな」
 車が崙橋通りに入った。感じられるはずはないのだが、空気に甘ったるい腐臭が混じったような気がした。
 背の低いビルが多くなる。しかし空は遮蔽型ホロに覆われて、紫や薄紅色に染まっている。ビルの壁面には日本語、ハングル、オランダ語、混成英語の書かれた極彩色の看板がいくつも突き出ていて、蝿が飛ぶのも許さぬほどにみっしりとネオン光彩が入り混じっている。昼間だからまだこの通りは半分眠っているが、それでも歩道を闊歩する煽情的な服装の女、女、女――《フォラメン》たち。鼻の穴を広げて歩く男たち。
 街路樹に手をつき尻を持ち上げて男に後ろから貫かれ喘いでいる《フォラメン》と目が合ってしまった。黒髪で、ティーンエイジャの型だった。僕は顔をしかめて目をそらす。
「最近、東洋系で童顔のが流行ってるよなあ。俺はあれ、どうもだめだ」
 ニックがにやにや笑いながらつぶやいた。


 ウィルスにつけられた名前は《シャーリアー》という。
 千夜一夜物語の聞き手である残虐王の名に由来するこの病原体は、南米から持ち込まれた類人猿が伝染源であるとされている。この哀れな猿にはウィルスのような大層な名前は与えられなかった。船が南アフリカ共和国に到着した二十四時間後、人々を襲った大量噴血死現象の混乱にまぎれて行方がわからなくなったからだ。
 南極回りの航路によってウィルスがオゾンホール越しの紫外線を受けた、あるいは氷山の下に溜まっていたガスと反応した、もしくは極低温がRNAになんらかの影響を及ぼした――。様々な学術的四方山話が囁かれるのは、もっとずっと後になってからのことである。そのとき世界はただ、戦慄していたのだ。喜望峰の先端から惑星全土へと広がっていく、圧倒的な『死』の冷たさに。
 夜ごと妻を殺し続けたササン朝ペルシア王の名前がそのウィルスに与えられたとき、すでに世界人口の五十パーセントは死滅していた。ほぼ正確に半数であることは疑いようがなかった――《シャーリアー》ウィルスは人間の女性だけを死に至らしめる病毒の運び手だったのだ。男達にはなんの影響もなかった。男達はいつもと同じように朝を迎え、同じベッドで血まみれになって息絶えている妻を発見した。
 その後、世界を覆った混沌については、僕はほとんど知らない。
 もちろんあの大虐殺に関する記述は多いのだが、信頼できる国家レベルの情報ともなると、何人かの大統領や首相とローマ教皇の名前が英雄的修飾を添えられて簡素に記されているだけだ。
 人々は、あまり語りたがっていないように思える。
 僕達は、僕達の祖父の世代は、うまくやったのだ――想像を絶するほどに。世界人口の半数が二十八日間で死滅するという未曾有の危機に瀕して、崖のふちでもがき、均衡をとり、科学の力でもって秩序を地上に取り戻したのだ。
 もっと誇っていいはずだ。僕はそう思う。
 しかし、戯体開発者の名前が街の名前につけられたりすることもなければ、クローン実験の最初の成功日が休日になるようなこともなかった。
 男達は、飄々と、その恩恵だけを次の世代へ、次の世代へと受け渡しているだけに見える。おそらく、誇る相手が消えてしまったからなのだろう。
 世界に再びの平穏をもたらしたのは、二種のテクノロジーだった。
 ひとつは、ゲノム完全把握によるクローニング技術。
 もうひとつが、高似女性形愛戯体――グロテスクなまでに美しく高多機能に進化したダッチワイフの終着点、《フォラメン》だ。


 車が崙橋通りから飛び出すなり、もうもうとした黒煙がフロントガラスを覆った。
「一人二人轢いてもわからなさそうだな」
 ニックが毒づく。歩道は野次馬で埋まっていた。サイレンがわんわんと泣きわめいている。僕は右目にモノクルカメラを取り付け、フォーカス調整を兼ねて車外の映像を流しで映した。
「ニック。連邦当局がもう出張ってるよ」
 ほとんど三角錐に近い形の緑色の特殊車両が、瓦礫の散らばった路肩にずらりと並んでいる。
「中の画がほしいな。ヘリ映像だけじゃ数字が取れねえ」
「どうやって」
「出るぞ」
 車を六車線車道の端に止める。すでに報道関係と消防車とでサウスダウン・ヒルズの通りはパンク寸前である。ニックが乱暴に開いたドアは隣の車にぶつかりそうになった。
「記録開始、サウスダウン・ヒルズ、フィロマリア・ビル」
 声を手首のレシーバに吹き込みながらニックが走り出す。僕もぐずぐずしていられない。中継車の撮影モードを自走させると、車の間を縫って車道に出た。
 シュールな光景だ。ヴェイルをかぶり微笑を浮かべた巨大なマリア像が、道路に逆さまに突き刺さっている。その高さはビルの地上三階まで届くほどで――そしてフィロマリア・ビルはその三階から上が綺麗さっぱり吹き飛んでいた。なぜか隣接したビルはガラスが砕けているだけであまり爆風の被害が及んでいないように見える。やはりテロだろうか、と僕はモノクルカメラでビルの残骸を舐め尽くすように撮りながら思う。いつだったかメキシコで見た、指向性爆弾による放送局破壊がちょうどこんな感じだった。
「裏に回ろう」
 ニックが耳打ちした。まるでマリア像を守護する聖騎士団みたいに、連邦公安局の制服組がぐるりと現場を取り巻いて、野次馬とカメラを威圧している。なにか叫び声が聞こえるが、サイレンとローター音にかき消されて聞き取れない。
 僕とニックは二つ隣のビルの隙間から裏手に回った。エアダクトや投棄物のたまった狭い路地を、ほとんど泳ぐように進んでいくと、焼けた空気が漂ってきて、呼吸ができなくなる。表通りの喧噪がつむじの彼方に遠ざかって意識が希薄になる。ニックはうなじを真っ赤にしながらそれでも這い進んだ。止めようと思ったが声が出ないので、僕も後に続く。
 熱風が顔に吹きつけた、そう感じた瞬間、足下の感覚が消滅した。
 悲鳴をあげるひまもなかった。尖った岩塊に四肢を何度も何度も何度もぶつけながら、僕は暗闇の中を転げ落ちていく。


 僕を覚醒させたのは、POTのアラームだった。
 はっとして顔を持ち上げる。とたんに後頭部をえぐられたような痛みが襲ってくるが、おかげで意識が一発ではっきりした。
 暗い。目を開いているのになにも見えない。僕の右手首のPOTが泣きわめく声だけが響いている。この着信音は社用だったはずだ、と僕は思い出す。
 腹の下敷きになっているらしい左腕を引っぱり出そうと身体をひねると、背筋と脇腹に痛みが走った。あちこちぶつけたらしい。左手の指をPOTに伸ばしかけたとき、なにかが僕の右手を踏みつけた。
「動かないで」
 声がした方に僕は顔を持ち上げた。
 目が慣れてくると、暗闇の中にぼんやりと輪郭が浮かび上がってくる。だれかが僕のすぐ前に立って、右手を踏んづけている。その足を払いのけてPOTの通話をつなごうとしたとき、人影がかがみこみ、僕の額になにか冷たいものをごりっと押しつけた。
「動かないで。通信にも出ないで」
 若い女の声だ。女?
 不意に闇に火花が走り、明かりがついた。
 目が慣れてくる。人影はかがみこんで、僕の顔をのぞきこんでいた。繊細な目鼻立ち、艶のある唇。白い肌をふちどる柔らかな栗毛。
 《フォラメン》?
 額に突きつけられているものは――短針銃か、あるいはスタンロッドかはわからないが、敵意はじゅうぶんに伝わってきた。《フォラメン》の中にはハウスキーパーとして機能するように、マスター以外の人間に対して威嚇・排除を試みるプログラムがなされているものもある。僕はからからになった喉をひくつかせながら、なんとか声を絞り出した。
「あ、ええと、ヨルダン条約第十八条免責条項、こちらに害意はない。警戒モードを切断せよ」
 おぼろな記憶をたぐって要請する。ヨルダン条約は《フォラメン》に起因する様々な社会問題を解決するために締結された国際工学規定で、第十八条免責条項を暗唱すればひとまずはメイドにいきなり脳天をぶちぬかれるという事態は免れるように造られているはずだった。
 けれど、女はさらに強く僕の頭を瓦礫の中に押しつけた。
「なに言ってんの? いいから黙ってて。上の方で大勢まだうろちょろしてるんだから」
 僕は絶句した。まさか。
 いや、定期体検をスルーした違法改造? 免責条項が適用されていない旧式? 彼女の手が、混乱する僕の頭を割れたコンクリートの間に押し込む。
 純白のワンピースの襟からのぞく彼女の肌をじっと見つめた僕は、それが愛戯体のものではないことを確信する。人間だ。こいつは人間だ。
「あんた、だれだ」
 僕にただひとつ思いつけた合理的な解答は、きわめて精巧な整形手術を受けた男であるというものだった。そういう悪趣味な連中はいくらもいる。けれど、僕の中のなにか本能的な部分が、彼女を前にして否定を叫んでいた。あるいは神の手によってもぎ取られた鎖骨がうずくとはこういうことをいうのかもしれない。
「だから、大声あげないでってば」
 彼女は押し殺した声で言った。
「せっかくあの爆発で、マリア気違いどもから解放されたんだから。ここでだれかに捕まったんじゃなんにもならない」
「解放された? あんた教団に拘束されてたってことか?」
 僕もつられて低い声で訊いた。メタ・フィロマリアならばそれくらいやっていても不思議ではない。
「拘束。まあそうだね」
 彼女は苦々しい顔をした。僕はますます確信を深めた。《フォラメン》にこんな表情は作れない。なぜなら需要がないからだ。僕の鼓動が早まった。なぜこんなタイミングで?
 こいつはほんとうに人間の女なのか。
 そうだとしたら、なぜ今も大気中のいたるところに棲息しているはずの《シャーリアー》ウィルスの影響を受けないのか。
「ねえ、あなたは何者? ここに入ってきたのはあなた一人?」
 彼女が天井の暗い穴を見上げながら言う。僕はそのときようやくニックのことを思い出した。僕はニックを追いかけてビルに近づき、脆くなった地面を踏み破って地下まで落ちてきたのだろう。ひどい高さから落ちたようだ。地下二階か三階か?
「おい、落ちてきたのは僕だけか? もう一人いなかったか」
「もう一人いたの?」
 落ちた直前のことを思い出そうとする。崩落の瞬間、ニックはとっさに跳躍して空調の外部機かなにかにつかまったところを見たような気がする。落ちたのは僕だけか?
「それはまずいね。ここに落っこちてきたってこと、知ってるやつがいるのか。ぐずぐずしてると探しに来る……」
 僕の右手を踏みつけていた彼女の足の力が少しだけゆるんだ。その隙を見逃さず手を引き抜きPOTのメニューを呼び出そうとするが、すぐさま銃口が僕の頬に深々と食い込んだ。
「妙な真似しないでくれる?」
「待て、待てって、通話はしない、呼び出し者を確かめるだけだ。ニックが、もう一人のやつが無事かどうかわかる」
「目玉以外を動かしたら、撃つよ」
 画面を見るだけで、先ほどの通話が第八中継車――つまり、僕とニックが乗ってきた車――であることがわかった。ニックは無事だ。巻き込まれずに車まで戻ったのだ。
 そう彼女に告げると、彼女は僕の腕をつかんで瓦礫の中から引っぱり起こした。そこでようやく僕は、自分が落っこちてきた空間をながめ回すことができた。とにかく広い。生きている照明がまばらなので向こう端がどれほど遠くにあるのかは暗くてよくわからない。最初、円柱が数メートルほどの等間隔で縦横に並んでいるように見えたが、それらは円柱ではなく天井までの高さをもつガラス製のカプセルだった。中はぼんやりと発光する薄緑色の液体で満たされている。発電所だろうか。いちばん手前のカプセルは崩れた天井の下敷きになって割れていた。床はびしょ濡れだった。
「出よう。たぶん地下水かなにかに繋がってる出口があると思う」
 僕の後頭部に銃を押しつけ、地下室の奥の暗がりへと促す。
「なんで僕を連れてくんだ」
「だってあなた、このまま帰したら、わたしのこと喋るでしょ」
 それもそうだが――
「だいいち、なんでこそこそ逃げようとするんだ。あんた犯罪者なのか?」
 そう言って彼女の顔をうかがうと、彼女は《フォラメン》には決して真似のできない凄絶で蠱惑的な笑みを浮かべた。
「教団の連中は、《原罪》って呼ぶこともあったね。最初に罪を犯した者エヴァ、その末裔。今の世界で、わたしが出ていったら、やっぱり犯罪者ってことになるのかな?」


 地下水路を何時間歩いたかわからない。
 僕がマンホールを押し上げて外界に出たときには、すでに日が暮れていた。落ちた場所と同じようなごみだらけの路地裏だったが、サウスダウン・ヒルズからはかなり離れた場所だろう。迷路のような地下を明かりも持たずに歩いたので、ここが千葉のどのあたりなのかさっぱりわからなかった。あるいは地球を貫通してアルゼンチンに出てしまったのかもしれなかった。
 彼女は拳銃を片手に握っているせいで穴から這い出るのに苦戦していたので、手を貸して引っぱり出してやった。
「ありがと」
「今ならこの手をねじり上げて銃をもぎ取って逃げられるけど」
 僕は彼女の右手首を握ったまま言った。
「ああ。ほんとだ、うかつ」
 意外なことに彼女は笑った。十代の少女のように屈託のない笑顔だった。なぜだかわからないが僕はとてつもなく恥ずかしくなり、彼女の腕を放した。
「どうしたの。逃げないの」
「銃をしまえよ。表通りに出たら怪しまれるぞ」
 彼女は目を丸くした。
「なに言ってるの……」
「僕に突きつけたまま歩くつもりか? 三歩あるく間に警官が一ダース寄ってくるぞ」
「だからって」
「逃げないし大声でだれかを呼んだりもしない。約束するから銃をしまってくれ」
 彼女は、訝しそうな顔をした。
「いいか、第一に僕はあのビルに不法侵入した、だからあんたを警察なりなんなりに突き出すときにはその事情をごまかす言い訳を考えなくちゃならないし、あっちはプロだからそんなのはすぐに見破る。第二に、僕はこれでもジャーナリストだ。しがないヴィジュログ会社のカメラマンだけど、あんたみたいな特ダネを捨てる気はさらさらない。わかったか?」
 理由はもうひとつあったが、それは口に出せなかった。もし日没前で、彼女の艶やかな栗毛や透き通るような肌や快活な瞳を太陽の下でもう一度見てしまったとしたら、その最後の理由も思わず口にしてしまったかもしれない。
 彼女は煤や埃で汚れたビルの壁面にしばらく背中を預けて、考え込んでいた。やがて、彼女は銃をワンピースの胸に突っ込んだ。
「これでいい?」
「その服じゃ、なにか胸に呑んでるのが外からまるわかりだけどね」
 そう言って僕は笑った。彼女は笑わず、訊いてきた。
「ところで、ここは? まだニューヨークの中なの?」
 彼女は狭い空を仰ぐ。僕は眉をひそめた。ニューヨークだって?
「あんたの言ってるニューヨークってのはまさか、水爆でできたあのクレーターのことか? 北米東海岸の」
「水爆……?」
 彼女の顔に唖然とした表情が浮かぶ。
「おいおい。ニューヨークってなクレーターの中の平和記念公園のことだろ? ここがそんなのどかな場所に見えるのか? いったいどこの田舎の生まれだよ、あんた」
「ニューヨークだよ」
 彼女はつぶやく。その瞳は、僕を見ていなかった。
「なんだって」
「ニューヨークで生まれたの。わたしが生きてた頃は、ニューヨークは人が住む街だった。世界でいちばんでっかい都会だったの。そんな。水爆……?」
 なにを言っているんだ、こいつは。
 ニューヨークがかつて世界最大の都市だったことくらいは歴史の知識として僕も持っていた。しかしそれは九十年前、あの病害発生直後の混乱期に大陸間弾道弾が撃ち込まれるまでの話だ。今は巨大な外輪山に囲まれた盆地に緑が敷き詰められ人工河が流れ……しかし、彼女は、そこで生まれた……?
 彼女のうわごとのようなつぶやきを聞きながら、僕はようやくその答えにたどり着いた。
「凍結睡眠か」
 彼女は顔をあげ、僕を見た。闇の中で目の下がちらと光を反射した。泣いているのだろうか。
「あんたは、ウィルスが広まる前に凍結睡眠に入ったんだな」


 僕らは表通りに出ると、人気のない歩道を交差点まで歩き、タクシーをつかまえた。下水を這いずり回ってきたせいで二人ともすさまじい悪臭がしたが、幸い千葉のタクシーは完全無人化されているので問題なかった。
「教団の連中はなにも教えてくれなかったの」
 車が走り出してしばらくしてから、彼女は言った。
「わたしは部屋に閉じこめられて一歩も外に出られなかったし。ただ、たまにやつらがマンハッタンどうのこうのって言ってたから、てっきりニューヨークにいるんだと思ってた」
「ここは九十九里浜リトル・マンハッタンだ。千葉特別行政区さ」
「チバ?」
「日本だ」
「でも、日本人なんて教団でも一人も見なかったけど」
「日本人はもういないよ。一人残らず消えた」
「一人残らず? どうして?」
「さあ。はっきりしていない。ウィルスで女が死滅してから、自殺したり、発狂したり、半島に戦争を仕掛けたり……なんだろうな、日本人の男は残らず狂っちまったんだ。今はもういない。適応できなかったんだ」
「そう」
 彼女はしばらく黙って、窓の外を流れる千葉特別行政区の画一的な街並みをじっと見ていた。
「なんで凍結睡眠に?」と僕は訊いてみた。
 ひどく間を置いてから、答えが返ってきた。
「少年院にいたの」
「なんだそれは」聞いたことのない単語だった。
「ええと。更正、施設? 若い子供専用の」
「ああ、なるほど」
 僕はひどく納得した。彼女は更正施設にいたのだ。なるほど。
「それでね。ある日、学者みたいなのが大勢でやってきて、わたしらの何人か選んで、実験に協力してくれたら残りの刑期ゼロになるって。それで、悪くない話だなと思って」
「ちょっと待て、刑期ゼロってのはつまり、残りの刑期を冷凍装置の中で過ごすってオチか」
「そうだったみたいだね。カプセルに入る前は知らなかったけど」
 そして、彼女はカプセルの中であの虐殺の日々を迎えたわけか。
「詳しく知らないけど、わたしのカプセルだけ無事だったんだって。戦争とか、色々あったんでしょ? 教団の連中、『神の与えたもうた奇蹟だ』って」
「奇蹟じゃなくてなんだっていうんだ」
 街をクレーターに変えるほどの水爆の爆発の中を生き延びたんだぞ?
「だから、わたしは、あいつらのご神体だったの」
 現存する、人間の女性。
 それはたしかに、メタ・フィロマリア教会にとっては理想的な信仰のシンボルとなるだろう。
「わたし、カプセル出てからもずっと空気カラカラの気持ち悪い小っさな部屋に閉じこめられてたんだけど。こないだワクチンの開発に成功したんだって。それで、もう外に出ても平気だって。それから、あの爆発」
「爆発の原因はわかるか?」
 ジャーナリスト魂がむくむくと頭をもたげてくる。目の前にいるのはスクープのかたまりなのだ。
「爆弾作ってたみたいだよ。なんだっけ、『汚らわしい生命複製の中枢を爆破し神の御手に委ね』とか言ってた。わたしを担ぎ上げる準備ができたから、なにか派手なこと始めるつもりだったみたい」
「クローニングオフィスを吹っ飛ばそうとしてたのか」
 やはりろくでもないテロリストの集団だったのだ。爆発の原因は実験ミスかあるいは仲間割れか? いい気味だ。
「ねえ、あいつらに聞かされた話だけだから、わたしまだ信じられない。ほんとに女は一人もいなくなったの? ほんとに世界はぶっ壊れちゃってもう戻らないの?」
 彼女は僕の顔をじっと見た。僕は目をそらして窓の外に向けた。
 タクシーは大きく曲がり、住宅街への急な坂を上り始めた。
 もう日はすっかり暮れている。斜めに傾いた視界の中を、人工樹木のシルエットと、ビルの窓の明かりが等間隔で流れ落ちていく。遮蔽フィールド越しの世界は無音だ。見慣れた、僕の住む世界。
「女はいなくなったよ。でも壊れてない」と僕は答えた。「なんとかやってるよ」


 タクシーは僕の家の前で停車した。
 車から降りた彼女は、巨大な庭付きの三階建てを見上げて訊ねてくる。
「なに、ここ?」
「僕の家」
「ええ? ちょ、ちょっと待って、他にだれか住んでるんじゃないの?」
「心配要らないよ、独り暮らしだ」
 無人タクシーは閑静な高級住宅街の車道を滑り去っていった。
 声紋照合でゲートを開くと、彼女を連れて庭に入った。
「金持ちだったんだね。その歳で……こんなでかい家に独り暮らし?」と背後で彼女がつぶやく。
 僕らが玄関にたどり着いたとき、不意に隣家の方から声がかかった。
「よう、ぼうず! お帰りかね!」
 隣のモダンアート風のコンクリート建築の二階側面。テラスになった部分に煌々と明かりがともり、カウチに寝そべって手を振るでっぷりした男のシルエットが浮かび上がっている。
「こんばんはジェンキンズさん」
 そう言いかけて僕は、ジェンキンズ氏の裸の下半身にしがみついているもう一つの人影に気づいた。テニスウェアを着た、十歳くらいの型の《フォラメン》だった。ジェンキンズ氏の巨体に比べてあまりに小さいのでとっさにはわからなかったのだ。痛々しいほど細く白い少女の両脚は醜く肥満した中年の腰にからみついている。幸いなことに結合部はスコートのフリルに隠れて見えなかった。
 少女の、鼻にかかったなまめかしい喘ぎ声が聞こえてくる。
「うわっ、なっ」
 背後で彼女が声をあげようとした。僕はあわてて玄関のドアに手のひらを押し当ててロックを解除すると、彼女を押し込んだ。
「なんだ、ぼうずもついに宗旨替えして《フォラメン》買ったか。良さそうな型じゃねえか」
 ジェンキンズ氏は水揚げされたシャチみたいに腰をびくびく波打たせて少女を下から突き上げながら、下卑た笑い声をあげる。
「ええ、まあ。それじゃ」
 曖昧に返事をすると、僕も玄関に身を滑り込ませる。
「な、な、なにあれ? あんな」
 彼女は軽い恐慌をきたしていた。
「落ち着けよ。ばれたらどうするんだ」
「あ、あなた平気なの? あんな変態露出狂の隣で生活してるわけ? それにあれ、どう見ても小学生じゃない!」
 変態露出狂。新鮮な響きだった。
「あれは《フォラメン》だよ。見ればわかるだろ」
 彼女はぽかんとした顔をしていた。
「……ダッチワイフ?」
「ダッチワイフじゃない。《フォラメン》。僕らの新しいパートナー」
 愛戯体開発当初のキャッチコピーそのままの古い文句を口ずさむ。同時に僕は甘い感動を覚えてもいた。彼女は驚いている。見晴らしの良いテラスで裸をさらし愛戯体の個人調整済みヴァギナにペニスを突き立てて腰を振っている光景を目にして、驚いているのだ。
「……ねえ、僕の祖父さんが死ぬ一年くらい前にこんなことを言っていた。あの病害とその後に起きた恐慌、戦争で人類は多くのものを失い、九十年かけてそのほとんどを取り戻した。秩序も平和も未来も伴侶も一から作り直したんだ。でもほんとうに失ってしまったものが二つだけあるって。なんだかわかるかい」
 彼女は青ざめた顔のまま、玄関脇のアンティークの木棚に腰を下ろした。唇が震えていた。
「生理用品と、羞恥心」
「笑えないよ」と彼女は言った。僕は肩をすくめた。僕もこれを聞いたときは笑わなかった。生理用品というものがなんなのか知らなかったし(後になってネットの博物辞書で調べて知った)、羞恥心について考えるにもまだ若すぎたからだ。
「あなたも……ええと、あれ、《フォラメン》? だっけ。あれ、持ってるの」
 彼女は上目遣いに僕を見ながら、ひどく言いにくそうに訊く。僕は首を横に振った。
「どうして。だって、金持ちなんでしょ」
「その話はシャワーの後にしよう」
 二人とも下水でどろどろに汚れているのを、彼女もようやく思い出したようだった。
 バスルームの扉から顔を出して、彼女は言った。
「あのね。ごめんなさい」
「なにが?」リヴィングに戻ろうとしていた僕は足を止めて訊き返した。
「銃で脅したりして」
 僕は笑って手を振った。
 リヴィングに戻ると、ひどい匂いのする上着を脱ぎ捨ててゴミ箱に放り込み、それからニックのPOTを呼び出した。
『生きてたのかよ! あの後さらにビルがまた崩れたし、てっきり俺は』
「おかげさまで。地下室に落っこちてね、でも大した怪我はない。下水を通ってなんとか抜け出したよ」彼女のことは黙っていることにした。「社では騒ぎになってる?」
 ニックは声を落とした。
『いや、俺がスケジューラをこっそりいじったんで、おまえは今パラグアイに臨時出張してることになってる』
「そりゃやりすぎだ。これからでも社に戻ろうと思ったんだけど」
『直帰したことにしとけ。色々と面倒だ。ところで、おい、画は撮れたか?』
 僕はそのときはじめて、モノクルカメラを紛失していることに気づいた。なんてことだ。あれは備品じゃなくて個人的に買ったやつだったのに。今まで思い出しすらしなかったのだ。そのことにも少なからずショックを受けていた。
『おい、どうした』
「え? ……ああ、ごめん。いや、カメラは、落ちたときになくしちまった」
『それでよくおまえは無事だったなあ。まあいい、車に残ってた画像だけでなんとかでっち上げる。あと三十分くらいしたらそっちに送るからフォト合わせ頼む』
「うん」
 通話を切ると、バスルームからシャワーの音が聞こえてきた。
 僕はソファに深く身を沈めて、大きく息を吐いた。なんて一日だろう。しかもまだ終わっていない。バスルームに、今、女がいる。本物の、人間の女が。
 最後に《フォラメン》を抱こうと試みたのはいつだっただろう? 入社した年か。同期のニックに勧められ、断りきれず、酒を浴びるほど飲んでからレンタル店に行ったのだ。駄目だった。
 でも、と僕は思う。
 細やかな水音を聞きながら。
 疲労がじわりじわりと手足の指の先まで広がっていく。
 でも、今、そこにいるのは人間の女だ。《フォラメン》じゃない。
 気づくと僕は勃起していた。おいおい、勘弁してくれ。なんだこれは。スクールボーイか僕は。しかし妄想は止まらなかった。バスルームの戸を押し開け、彼女をタイルの床に組み敷いて、乳房にかぶりつき、いきり立ったペニスを。
「あ」
 致命的なことに気づいた。おかげで僕の妄想は打ち切られたが、そんなことを言っている場合ではない。
 バスルームまで行って磨りガラスの戸を叩いた。
「な、なに?」
 シャワーが止まり、慌てた声が返ってくる。
「あんた、その、替えの服とか持ってないよな」
「……うん」
 僕はため息をついて居間に戻った。五分ほど考えたが、最初に思いついた以上の解決策はなさそうなので、実行すべくサンダルを突っかけて家を出た。
 少女型《フォラメン》の膣内にたっぷりと射精したばかりのジェンキンズ氏は大変機嫌が良く、十種類くらいの《フォラメン》用下着を喜んで貸してくれた。そのほとんどは布というより紐だけでできていて下着としての用をなさないような代物だった。
 それから、買ったばかりの《フォラメン》の試運転について熱弁を振るいだしたので、僕は礼を行って家に逃げ帰った。


「僕の通っていた高等工学院には愛戯体造形学科があったんだ」
 僕と彼女は居間のテーブルに向かい合って座り遅い夕食をとっていた。彼女は僕のTシャツとデニムパンツを着ていた。サイズが大きすぎるのでシャワーを浴びる前よりもさらに子供っぽく見えた。あるいはほんとうに十代なのかもしれない、と僕は思った。彼女の食べ方は、どうやら僕らの時代の食器に慣れていないようだということを差し引いても、ひどく行儀が悪かった。
「実習用の《フォラメン》のサンプルや部品が倉庫にぎっしり詰まっていてね。まるで死体置き場だった」
 その様子を想像したのか、彼女は顔をしかめて舌を突き出した。
「教師もモルグって呼んでいたな。僕は映像学科だったから入ったことはなかったんだけど、夏休みの終わりに造形学科のダチ何人かに誘われて忍び込んだんだ。つまり、本式稼働するやつがあるから味見しようぜ、と。嫌だったんだが断りきれなかった。で、僕は倉庫で、本物の手足を発見しちまった」
「本物?」
「《フォラメン》の部品に偽装してあったのさ。ばらばらにして。もっとも、ほとんど偽装なんてする必要はない、そっくりなんだから。切断面の処理と防腐加工だけだ。あとで警察に聞いたけど、少なくとも六ヶ月間はそこに置かれていたものらしい。だれも気づかなかったんだな」
「じゃあなんで、あなたは」
「才能、かな」
 僕はため息をつき、空になったトレイを脇に押しやってテーブルにひじをついた。組んだ自分の両手に視線を落とす。
「昔からそうだった。僕には人間とフォラメンの皮膚の違いが、見ただけでわかっちまうんだ。技術者はあり得ないと否定していたけどね、きちんとテストした結果、間違いないとわかった。というか僕はその事件が起きるまでは、どうしてこいつらはあんな気色の悪いまがいものの人形とファックして平気なんだろう、とずっと考えていたんだ。おかしいのは自分の方だなんて、考えもしなかった。調べてみたら、何万人かに一人の確率で、いるんだな。僕みたいな、要らない眼力を持ってるやつが」
 一息に喋ってから、僕はようやく彼女の顔を見上げた。彼女は手を止めてチョップスティックをテーブルに置き、僕の顔をじっと見つめ返してきた。
「だからこの家にはダッチワイフ置いてないんだね」
「そう」
「事件はどうなったの?」
「わからない。それから後は警察の手に任されて、僕は知らない。ただ、事件のせいで、僕はとんだ副業を背負わされることになった」
「副業?」
「違法《フォラメン》を見分ける仕事さ。男性型の《フォラメン》は開発製造が禁止されているだろ?」
「知らないよ。そうなの? どうして?」
 ああそうか、と僕は頭を掻く。
「ま、専門家の受け売りなんだけど。一つ目の理由は、古典的なアンドロイドと人間の尊厳どうのこうのに関する倫理的なもの。二つ目は、このままでは世界中がホモだらけになっちまうっていう被害妄想を持った政治家とか教会関係者の意図。三つ目は、これがいちばん重要なんだが、犯罪に使われる可能性があるからさ」
「……テロとか?」
「そう。自爆テロを人形にやらせたらさぞかし効率がいいだろうさ。あるいは盗聴、盗撮なんかもね。《フォラメン》が女性形だけであれば少なくとも警戒できる」
「でも、密造する輩はいるんでしょ」
「だから僕の出番。最近では大統領選の交遊演説につきあわされた。講堂に出入りする男どもの中に、違法《フォラメン》がいないかどうかチェエックする。警察からもよく依頼が来る。規制したって違法開発は後を絶たないからね。そして僕はカメラマンの仕事の五六倍をその仕事で稼いで、この馬鹿馬鹿しい庭付き三階建てを買った、というわけ」
 酒なんて一滴も飲んでいないのに、喋りながら酔っぱらってしまったような気分だった。明るい照明の下で見る彼女の瞳は吸い込まれそうなほど深く美しかった。
「でも、独り、なんだね」と彼女は言った。
「うん」
 彼女は立ち上がった。銃をベルトに挟むと、シャツの裾で隠す。
「ごちそうさま。ありがとう。もう行くね」
「おい、なんだって? 待ってくれ」
 僕は彼女を追いかけて廊下に出た。
「どこ行くつもりだよ」
「さあ。わからない」
 彼女は顔だけ僕の方に向けていたずらっぽく微笑んだ。
「でもあなたには関係ないでしょ?」
 僕はひどくあわてていた。あわてていることを彼女に悟られたくはなかった。しかも、彼女がとっくに悟っていることにも気づいていた。
「行くところなんてどこにもないだろ。未登録《フォラメン》と間違われて保健局に通報される。生身の女だってばれたら大騒ぎになるぞ」
「心配なの?」
 僕は黙りこくる。ああ、その通りだ。僕はあんたが心配だ。心配してなにが悪い?
 玄関のドアに寄りかかり、彼女は僕をじっと見つめている。僕の言葉を待っている。おい祖父さん、と僕は思った。僕らが失ったものがもうひとつあったよ。こんなときにさらりと身をかわすための気の利いた一言だ。あるいはゲイのコミュニティではそんな駆け引きのやり方が生き残っているのだろうか。おそらく残ってはいまい。それは、何万年かかけて男が女から教えられてきた技術だ。僕らの世界には必要ないものなのだ。
「その服は僕のだ」と僕は言ってみた。「勝手に持って行くなよ」
 激しい後悔が襲ってきた。もし鏡があったら子供みたいに真っ赤になった僕の顔が見られただろう。
「わかったよ。脱いでく」
 彼女はTシャツのすそに両手をかけた。チェックメイトだった。僕は近づいて彼女の腕を取った。
「心配だから、しばらくここにいろよ」
「いてほしいの?」
 僕は彼女の肩を玄関に強く押しつけた。
「あんたは卑怯だ。わかっててからかってる」
「うん。ごめんなさい」
 彼女の指が、僕の頬をなでた。
「じゃあ食後のお茶にする?」


 敗北感と甘苦しい喜びでこそばゆい思いをしながら二人分のコーヒーを淹れていると、家のパーソナルスフィアに通信が届いた。キッチンの壁モニタにメールの内容を呼び出すと、ニックからだった。

 ――モノクルカメラはどうやら破損したようだが、穴に落ちてから壊れる直前までにとらえた映像を数百フレームさらうことに成功した。人影らしきものが映っている。細かい調整を頼む。明朝09:00の配信までにはあげてくれ。 ニコラス――

 添付された動画はほとんど暗闇と崩落音で埋まっていたが、光量調整をすると最後の方にわずかに人の足らしきものが映っているのがわかった。僕はその手前の、ひどく視界が揺れているあたりのフレームを取りだしてフィルタをかぶせて色調補正を繰り返した。銃を構えた彼女の姿が闇の中に浮かび上がり、僕はため息をついた。
 厄介なことになってしまった。





       2

『我らは二度と失敗しない。悪魔の妨害には屈しない。千葉本部は失ったが、主と御母の威光があまねく届く世界中に、我らの同志は存在する。これは報復ではない、裁きである。汝らがセントラル・クローニングオフィスと称する生命冒涜の中枢、そしてチューリヒの連邦事務局、そこが最初の裁きを下される場所である』
 粗い画像の中で、メタ・フィロマリア教会の上位司祭の紫衣をつけた初老の男は、『アヴェ・ヴェルム・コルプス』の甘く壮麗な混成四部合唱の旋律にのせて淡々と犯行声明を読み上げていた。
『しかし我らも無慈悲ではない、汝らにいくばくかの猶予を与える。先の千葉本部爆破で連邦当局が我らから奪った聖物をすみやかに返還せよ。期限は――』
「この直結イカレ野郎はいったいなんのことを言ってるんだ?」
 チャールストン部長が画面をあごで示して、だれに訊ねるともなくつぶやいた。昼休みで、編集部オフィスには僕を含めて四五人の社員がたまっていたが、みんなくつろいだかっこうでそのニュースを見ていた。部長は尼僧のかっこうをさせた四つん這いの《フォラメン》を椅子替わりに使っている。たまにその椅子は苦しそうに喘ぐ。部長は筋金入りのサディストなのだ。
「あの爆発は当局の差し金ですってか。は。教科書に載せたいくらいの被害妄想だな」
「なあに被害妄想と嘘予言はカルトの両輪でしょ。車輪があればあとはアホが金で扇いで走らせてくれる」
「聖物ってのは」
「マリア像のことか? あのビルのてっぺんの」
「もうあれは相模湾の埋め立て材にでも使われてるだろ」
「じゃあなんだ。ビルん中にイエス様の産着でも隠してあったのか」
 同僚達のお喋りを聞きながら、僕は黙ってヌードルをすする。爆発事故から一週間、そろそろ民衆の興味が逆さまマリア像からNFLスター選手のゲイカミングアウトに移ろうとしていた矢先、教会は犯行声明を発表したのだ。
 間違いない、教会が取り戻そうとしているのは、彼女だ。
 なにをどう調査したのか知らないが、教会は連邦当局が彼女の身柄を確保していると信じているのだ。
「おい」
 呼ばれて振り向くと、ニックがいつの間にか戻ってきていた。僕はニックに引きずられて廊下に出た。
「おまえ、やっぱりあの画像になにか映ってたんじゃないのか?」
 僕は内心びくびくしながら首を横に振った。
「たしかに人影っぽかったけど、足だけだよ。顔はわからないし」
「ほんとか? じゃあなぜヴィジュログに載せなかった」
「おい。声がでかい」
 僕は階段室にニックを引っぱり込んだ。
「いいか相手はテロリストだ。あんな大して情報価値のない画像を流して刺激したくない」
「穴に落っこちて頭打ってからずいぶん社会派になったもんだな」
「そうじゃない、僕やおまえが危ないって言ってるんだ」
 怪しまれずに言い訳できているだろうか、と思いながら、僕は必死でニックを案じている振りをした。
「あいつらはなんでもするぞ? ニュースソース守秘義務なんて狂信者の前じゃにんにくほどの役にも立たないよ。それに部長やデスクになんていって説明するんだ。僕らのやったことはかなりぎりぎりだぞ?」
 ニックはしばらく壁に寄りかかって腕組みし、僕の顔をじろじろ眺めていた。それから、黙って階段をのぼっていった。信じてくれただろうか? なにも言わなかったことに一抹の不安が残った。どうしよう、あの画像は削除すべきか。社のスフィアにも、それからニックのパーソナルスフィアにも保存されているだろう。さすがに手が出せないし、なにかしたらかえって怪しまれる。


 その日は早退した。
 家に戻ると、隣家のバルコニーでジェンキンズ氏は水兵のかっこうをした少女型《フォラメン》を犯している真っ最中だった。ちょうどクライマックスにさしかかったあたりらしく、見つからずに家に入ることができた。
「お帰り。飲む?」
 彼女は、下着の上にTシャツ一枚というかっこうで、リヴィングのソファに座ってビールをラッパ飲みしていた。彼女のリクエストで昨日買ってきたやつだ。僕自身はビールが好きじゃない。
「ビールの味は、いっぺん世界が壊れても変わらないんだね」
「服を着ろよ。なんだそのかっこう」
 彼女はきょとんとした目をして、自分の脚を見下ろした。シャツの裾からすらりと伸びた美しい素足だった。
「着てるよ?」
「あんたの時代はどうか知らないが、僕らの世界じゃその格好は半裸っていうんだ」
「あのね」
 彼女はガラステーブルに壜を置いて立ち上がった。彼女がブラジャーをつけていないことに僕は気づいた。
「これはね、誘ってるの。さすがにわたしも一週間とぼけられると、ちょっと自信がなくなってくる」
 僕は唾を飲み下し、彼女から目をそらした。
「やめろよ、そういうの」
「ひょっとして、襲い方がわからない? 教えてあげようか」
 彼女の甘い声が近づいてくる。僕はスーツを脱いでカーペットに乱暴に叩きつけた。
「なんだよそれは。《フォラメン》の真似事か。僕はそういうつもりであんたをここに置いてるわけじゃない」
「うそつき」
「なんとでも言え」
 僕は冷蔵庫から飲料水のボトルを取りだしてがぶ飲みした。
「抱いてくれると、わたしが楽なんだけどな。だって、かくまってくれてるし、ご飯も食べさせてくれるしビールも買ってきてくれるし」
「だからそういうつもりじゃないって言ってるだろ」
「じゃあ、いつになったら襲ってくれるの?」
 彼女の声は面白がっているようでもあり、真剣そのものにも聞こえた。目をそらしているから僕には判断がつかなかった。彼女の顔を見たら、あの唇に魅入られたら、なんと答えてしまうかわからなかった。
「してもいいって言ってるのに」
 僕は答えない。
 してもいいからするものではないはずだった。それでは、気の向いたときに機械人形に精液を流し込む世間の連中と一緒だ。しかし、じゃあ、いつならしてもいいんだ? 僕は彼女の問いに、自分の問いに、答えを見いだせない。
 したいか? yes. 気が狂うほどしたい。
 では彼女を今押し倒すか? no. 今はだめだ。
 ではいつ? わからない。わからない。その答えが書いてある教科書は、九十年前のあの戦争で残らず焼けてしまったのだ、たぶん。
「もうこの話はやめよう」
 そう言って僕はボトルの水を飲み干し、リヴィングを出た。
 彼女なら答えを知っているのだろうか。


 夜中に突然叩き起こされ、僕はベッドから転げ落ちて額を床に打ちつけてしまった。
「大変。来て」
 暗がりで彼女が言った。心臓がものすごい上下運動を繰り返していた。
「なんだよ、なにがあった」
 僕は引きずられるようにして書斎に連れて行かれた。書棚の間に取り付けられたモニタの一つが闇の中でぎらぎら光っていた。アナウンサーがこわばった声で興奮気味に喋っている。
『……の画像は爆発事故直後に撮られたとされるもので、分析の結果、人影らしきものが映っていると判明しました。これが補正後の画面です』
 画面が切り替わった。髪が長く、ワンピースを着た細身の人影が銃を突きつけている画像が大写しになった。腹の底がさあっと冷えていくのがわかった。なぜ、あの画像が?
『女性の形に見えますな』アナウンサーの隣で解説者が言う。『メタ・フィロマリア教会は愛戯体完全否定の聖母信仰ですからな、《フォラメン》が発見されるのはおかしいが』
『整形者という可能性も考えられますが』
『それも教義で禁止されておりますな。いや、教団員のだれから、つまりその、禁欲に耐えきれずに所持していたという可能性はありますが』
『はは』アナウンサーの乾いた笑い。
 どこの番組だろう、僕はモニタに触れて詳細情報を呼び出した。うちの会社じゃない。ゴシップを主に扱う小さな配信会社だ。
「……これ、映ってるの、わたし、だよね?」
 彼女がつぶやく。彼女の顔はモニタの光で青白く浮かび上がって見える。僕は放心して肘掛け椅子にすとんと落ち込んだ。
「あなた、録画してたの? どうやって? だって……」
 ニックだ。
 画像の出所はニックしかない。あいつが他社に売ったのだ。
 僕は寝室にとって返してPOTをつかむと、ニックのプライヴェイトアカウントを呼び出した。暗い部屋でベッドに腰掛け、呼び出し音を数えながら、膨れ上がる不安を抑えようと努力する。深呼吸。ニックは出ない。くそ。今何時だ? 日付が変わったところか。ジェニファとまた変態プレイ中か。ニック。くそ。出ろ。ニック!
 呼び出し音が途切れた。
『……ya?』
「ニック、おい、ニュース見たか。チャンネル1143だ」
『おまえ今何時だと思って……』
「あの画像が流れてるんだぞ、僕がモノクルで撮ったやつ」
 おまえが売ったんだろう、と糾弾したい気持ちを抑えて、低い声で僕は言う。まだニックを信じたい気持ちはあった。
『ああ、あれか。もう流れてるのか。渡したのは夕方なんだがな。早いな』
 ニックの言葉に、腰の力が抜けた。
『おまえ、なんで隠してたんだよ? 女がばっちり映ってるじゃねえかよ。なんだおい、まさかあそこでなにかあったのか?』
「いや、それは」
 そうだ。先に嘘をついたのは、僕の方なのだ。どうすればいい。なんていって説明すればいい?
『俺もうちの社から配信するのはこりゃやべえと思って、よそに渡したけどな。おい、なにか知ってるなら言えよ、やばいことか? だれかに脅されて……』
「違うんだ、ニック、ちょっと説明しづらいことなんだけど」
『なにが……ッ』
 唐突に、ニックの声がものすごい衝撃音によって遮られた。僕は思わずPOTを投げ出してしまった。
『……ンだおまえらッ……やッ』
 なにかが倒れる音が続いてPOTからあふれ出す。僕はPOTを拾い上げて「おい、ニック? どうしたんだ、ニック!」と叫んだ。返答のないまま、いきなり通話はぶつりと途切れた。
 僕は震える手でもう一度ニックを呼び出す。応答がない。画面には『通話相手はなんらかの理由により応答不能』の表示が出る。
「どうしたの?」
 声をかけられてびくりと頭を上げると、部屋の入り口に彼女が立っていた。
「なにかすごい声したけど」
「いや……わからない」
 沈黙したPOTを手のひらの中で何度もひっくり返す。
 そこで僕は、昼間、僕自身がニックに言った言葉を思い出した。
 ――いいか相手はテロリストだ。
 ――あいつらはなんでもするぞ。
 ぞくりとした。そしてはっと思い至り、枕元のパーソナルスフィア端末を操作して家のアクセス履歴を呼び出してみた。一見、異状はない。ワームスキャナを噛ませてみた。ごく短い走査時間の後、画面に異状が表示された。僕は固い唾の塊を飲み下した。
 僕の家のスフィアに不正なアクセスをした者がいる。ほんの数分前、つまりニックの通話が切れたあたりだ。個人情報に触れられた可能性がある。名前、職業、住所――
 住所。
 僕はベッドから飛び降りると、寝間着の上にそのままコートを羽織った。彼女の腕をつかんで玄関に向かう。
「な、なに?」
「逃げる。連中にばれた」
 彼女も一言で呑み込んだようだった。出がけに家の電源とデータアクセサをすべて閉鎖し、僕らは車に乗り込んでガレージを飛び出した。坂を下りるとき、同じ形をした二台の真っ白なワゴンが並んで対向車線をやってきた。ヘッドライトの光の中、ワゴンの鼻面にペイントされた聖母像が浮かび上がり、僕は戦慄してアクセルを踏み込んだ。


 ニックの死は、東京のモーテルのテレビで知った。ヴィジュログエンジニアのニコラス=トムプソン0053は自宅で何者かに喉を掻ききられて死亡しているところを隣家の住人に発見された、とキャスターは告げた。
「0053て、この数字はなに?」とベッドに腰掛けた彼女が訊いた。
「クローニングナンバーさ。五十三人目のニコラスってこと」
「え? ああ。そうか。子供、作れないんだっけ」
 突然画面に、喉をばっさりと切り裂かれ口がひとつ増えたようになったニックの生々しい死体が映し出された。彼女は息を呑んだ。
「死体、放送するんだね……この時代は。ひどいねこれ」
 顔が青ざめている。僕はテレビの電源を落とした。
「こんなに頭のいかれた連中だとは思わなかったよ。マリアの愛を説いてるんじゃなかったのか」
「あなたの、友達……だったんでしょ? あの人」
 友達。
 僕は首を横に振った。ニックはただの同僚だった。だから僕も嘘をつけたし、ニックも僕に黙って画像を他社に売りつけたりできたのだ。僕らがほんとうに友達同士だったら、と僕は思った。ニックは死なずに済んだかもしれない。
「僕が殺したようなもんだ」
 彼女の隣に突っ伏し、枕に顔を埋めた。
 五十三人目のニコラス=トムプソンであっても、僕にとっては、たった一人のニックだったのだ。
 なにかぬるい慰めの言葉を期待していたのかもしれない。あるいは撫でてほしかったのかもしれない。けれど彼女はそんなことはしなかった。ベッドから立ち上がる気配がしたので顔を上げると、彼女の姿はなかった。鍵をはずす音が聞こえた。彼女は部屋のドアを開けて出ていこうとしていた。
 僕はあわてて駆け寄り彼女の肩をつかんで乱暴に引っぱり戻した。ドアのロックをかけ直す。
「正気か? 奴らが探してるんだぞ、逃げるときに気づかれなかったなんて保証もない」
「うん。だから出てく」
「なんで」
「だって、探してるのはわたしでしょ? これ以上、あなたに迷惑かけられないよ。殺されるかもしれないのに」
「出てってどうするつもりなんだよ」
「わからないけど、あなたには関係ない」
「関係ない、だって?」
 僕は彼女の身体をベッドに乱暴に投げた。
「いいか、僕はあんたをかくまおうと決めたんだ。僕の意志で、だ。そのせいでニックは死んだ。もう一度言ってみろ、どこが関係ないんだ」
 彼女は呆けた顔で僕を見つめていた。肌がかすかに赤く染まった。うつむき、つぶやく。
「ごめん」
 僕は爪が手のひらに食い込むほど強く握りしめていた拳を、ゆっくりと開いた。うなだれた彼女を前にして、憤りが粘着質な音を立てて戸惑いに変化していく。くそ、なんなんだこいつは。どうしてそこで謝れるんだ。これが女なのか。僕らのご先祖様たちは、こんなものと一緒に暮らしていたのか。敵うはずがない。
 絶望的な気分で、ベッドに潜り込んだ。
 しばらくして、温もりがぴったりと僕の背中に寄り添った。
「しないの?」
「しない」
「ばか」
 彼女が背中を向けるのがわかった。体温が少しだけ遠ざかった。
 なぜ彼女を抱かないのか、ひとつだけ僕にもはっきりと説明できる理由があった。こんな統計結果がある――バイセクシャルの男性が購入した《フォラメン》は、通常のそれよりはるかに平均耐久年数が長いのだそうだ。つまり、人間を相手にしたことがない僕らは、入れ方も、動かし方も、わかっていないということだ。
 怖いのだ。童貞ゆえのへまをやらかすのが。でも、こんなことを彼女に言えるわけがない。だから僕は赤ん坊のように手足を屈め、背中を丸めて目を閉じた。


 モーテルに籠城して三日目の午後のことだった。車に仕掛けておいたカメラから警報が入った。寝ころんで不味いワインを口の中で転がしていた僕は、警報音でほとんど反射的にベッドから飛び降りると、アクセサを部屋のテレビ画面につないだ。駐車場から見えるモーテルの正面の画像が映し出される。
「なにこれ、どうしたの?」
 肩越しにのぞき込んだ彼女が言う。
「車にカメラ仕掛けておいたんだ。駐車場からホテルの玄関口まで撮って、いくつか条件設定して警報を……ああ、こいつらだ」
 暗い画像の中、僕の車のすぐ隣に黒いバンが停まった。ドアが開き数人の男が出てくる。一様に紺色のスーツを着てサングラスをかけている。
「教団?」
「たぶん……いや、ちがう」
 僕は思わず自分が見たものを信じられず、テレビに額をくっつけるようにしてまじまじと見た。確信が持てず、アクセサをいじって画像を拡大し、色調補正し明度を上げた。間違いなかった。
「教団じゃない、こいつら」
「じゃあ、普通のお客かな。逃げなくても大丈夫……」
「そうじゃない。こいつら、《フォラメン》だ」
「ええ?」
 サングラスの男達は駐車場を出て玄関のガラスドアに入った。画像からは姿を消してしまう。
「先頭の男だけ人間だ。あとはみんな《フォラメン》だ」
「だって男だよ」
「違法擬体ってことだよ。僕にはわかるって、前に話しただろ?」
 何者なのかわからない、《フォラメン》であるということは少なくとも教団の連中ではないが、こいつらは危険だ、と僕の直観が告げていた。あのタイプの《フォラメン》は中東で軍用に使われているのを見たことがある。
「とにかくここにいるのはまずい」
「わたしたちの部屋がどこかまでは、わからないんじゃ」
「いくらでも調べようがあるさ。出よう」
 非常階段に出ようとしたとき、背後からあわただしい足音がいくつも聞こえてきた。彼女はドアを叩きつけるように閉めると、腰の銃を引き抜いてノブに一発撃った。短針銃だから音はしなかったがノブはずたずたになった。開けるのに時間がかかるだろう。
 モーテルの裏は、ちょうどいくつものビルに挟まれた多角形の中庭になっていた。廃棄された井戸の底みたいにゴミがたまっていて、饐えた匂いが淀んでいた。僕らは非常階段を下りきり、フェンスをよじ登って路地を抜けて裏通りに出た。東京は半ばスラムになっており土地勘がなければ宿から出て百メートル歩くだけですぐに迷うと聞いたことがあるが、そんな心配はなかった。右手の五叉路からタイヤの悲鳴を連れて走り込んできた真っ白なワゴンが僕らの目の前で急停車したのだ。車の側面に微笑む聖母の顔、"META-PHILOMARIA"のロゴ。僕は彼女の腕を取って歩道を左へと走りだした、アスファルトの上にばらばらと散る大勢の足音、背中にずんと突き刺さる衝撃、次の瞬間には僕は地面にあごを打ち付けて倒れている。視界で星が弾けた。一瞬おいてすさまじい痛みが背骨とあごに噛みついてきて、僕は身をよじった。だれかが僕の右腕を後ろにねじり上げ、肩の関節がみしみしと軋み、僕は思わず悲鳴をあげた。
「やめて!」
 彼女の声。
 僕は顔を上げた。目に血が入っているのか、視界はぼんやりしていたが、紫と白の僧衣を着た男達がまわりを取り囲んでいて、彼女もまた僧衣の男達の腕にとらわれていた。
「その人を殺さないで。その人はわたしを助けてくれたの。その人を殺したらわたしも舌噛み切って死ぬよ」
 僧衣の男達はたじろいだ。と、そのとき、別の足音が駆け寄ってくるのが聞こえた。視界をほとんどふさがれ、痛みで全身を犯され意識すら朦朧としていたそのときの僕には、その規則正しい複数の足音が、人間のそれではなく《フォラメン》のものであることがわかった。
「やつらだ」「くそ、撤収」「こいつどうする」「一緒にのせろ」
 後部に押し込まれ、車が走り出した。銃撃戦の音が聞こえた。後部座席の僧衣の男たちが左右の車窓から身を乗り出して、追っ手に向かって発砲しているのだ。さすが慈悲深き聖母マリアの敬虔な信徒だなと僕は思った。腕を突っ張ってわずかに身体を起こし、ぎりぎりと痛む首をねじって前の座席を見ると、そこには心配そうに僕を見下ろす彼女の顔があった。無事だ。僕は安堵して気を失った。





       3

 上海にあるセントラル・クローニングオフィスの爆破を、僕は動画で見させられた。世界中のヴィジュログ会社が涎をたらして欲しがるような絶好のアングルとタイミングの画像だった。爆破した当人達が撮影したのだから、当然だろう。
 教団が要求していた『聖物』であるところの彼女が奪還できたというのに、どうして爆破したのか、という疑問に、彼らはすんなりと答えてくれた。僕はベッドとテーブルとアクセサひとつしかない気味の悪いほど清潔で真っ白な部屋に監禁されていて、とにかく退屈だったので、ニュースをあさったり、たまに教えを説きに来る司祭に質問したりして気を紛らわせていたのだ。
「我々が欲していたのは、クローニング技術なのです」
 髪が長く、若さのせいか女性的な顔をしたその司祭は、しれっととんでもないことを言う。
「あなたは、我々が思想だけ肥大した脆弱な組織だと思っていますね? そんなことはないのです、我々は主に命じられたあるべき世界を実現するだけの実行力を持っています。よいですか? 我々の祖父達がウィルスの鉄槌を受け伴侶を失い、打ちひしがれていたとき。成すべきは忌まわしいリリスを造り出すことではなく、エヴァを再生することだったのです」
 彼らは《フォラメン》のことをリリスと呼ぶ。アダムの偽りの妻。反吐が出るほどわかりやすい比喩だ。
「そもそもあなたは《フォラメン》という言葉の意味を知っていますか?」
 僕は首を振る。そういえば、何語なのかも知らない。
「そうでしょう。多くの者は知らないままに堕落した。世界は誤った。悪魔に惑わされ、堕落の都に成り下がりました。しかし、主は我々に第二のエヴァをくださった。あの核の炎の中で彼女が生き残ったことが、奇蹟の証です。主はお守りくださったのです。我々は彼女を遺伝子ベースとし、世界人類が正常な生命のサイクルを取り戻せるようになるまでのクローンを造り出します」
「クローンは生命への冒涜じゃなかったのか?」
 うんざりしながら僕は訊ねた。
「生命の本来を復活させるために必要な措置ですよ。それに、アダムは神が土から作られましたがエヴァはアダムから作られました。女を男の手で複製することにはなにも問題はありません」
 見事なダブルスタンダードだな、と僕は思った。
「再び、男と女が慈しみあい、産み、増やし、地に満つる日が戻ってくるのです」
 彼女の存在は、教会のプロパガンダによってすでに世界中に喧伝されていた。一大センセーションが巻き起こっていた。世界中で、科学者、神学者、政治家、小説家、歴史家が水掛け論を戦わせていた。
 なぜ奴らは僕にテレビとウェブアクセサを与えたのか? おそらくは布教のためだろう。世界がもはや彼女の存在を無視できないことを、《フォラメン》とクローニングで支えられてきた世界が彼女の出現によって揺らいでいく様を、僕に見せたかったのだろう。
 でも、僕の知っている真実は、ひとつだけだった。
 こいつらは人殺しだ。
 僕の欲求もまたひとつきり。
 彼女に会いたかった。


 その願いはじきに叶えられた。
 その日も僕はベッドに腰掛けてテレビとウェブアクセサにべったりと張り付き、猛スピードで流れていく情報に首まで浸かってぼんやりと考え事をしていた。すでに日にちの概念は消えていて、拉致されてからどれほどの時間がたったのかもわからなくなっていた。
 唐突に部屋のドアが横滑りに開いた。
 廊下に立っている線の細い人影を見て、僕はようやく狂気が訪れてくれたのかと思った。やっと楽になれる。でも、それは現実だった。現実の彼女が、今や腰まで伸びた栗色の髪と白いフレアスカートの裾をさらさらと揺らして僕に歩み寄ってきた。ドアのすぐ外であの長髪の若い司祭が「五分だけですよ」と言ってドアを閉めた。
「よかった、無事で」と彼女は言った。
 僕はなにか言葉を発しようとして、激しくむせ込んだ。胸に熱い塊がつかえていた。
「大丈夫?」
 彼女が、いつかのように僕の隣に腰を下ろして、背中をなでてくれた。
「ごめんなさい、無事なんてものじゃないよね」
 彼女の声は暗くなる。
 それから、沈黙が降りた。
 なにを喋っていいのかわからなかった。会って話したいことはたくさんあったはずなのに。そもそも、なぜ彼女がここに来ることができたのだろう。教団にとってはなんとしても守るべき聖女のはずなのに。そして僕は唐突に直観する。僕はもうすぐ殺されるのだ。だから教団側が最後の慈悲を見せた。あるいは殺されるのは彼女の方かもしれない。もしくは両方。
「……あんたが産まれたのはどんなところだ?」
「え? なに、いきなり」
「いいから。聞きたいんだ」
 彼女は不思議そうに首を傾げたが、足下に視線を落とし、ぽつぽつと語りだした。
「ケープ・コッドって知ってる? ニューヨークからね、五百キロくらいかな。なんにもない海っぺりの田舎。空気がかさかさで、まだ舗装されてないような砂利道だらけで。父さんと母さんはちっちゃいドラッグストアやっててね。わたしはハイスクールのころ家出してニューヨーク行っちゃったんだけどね。田舎の空気がどうにも好きになれなくて……」
 父。母。知識にはあるが、僕の世界には必要のない言葉だった。彼女の話には何度も「家族」という単語が出てきた。彼女は自分で家を出たくせに、「家族」が恋しかったのだ。でもクローニングオフィスのカリキュラムの中で十七歳まで育ち、そのままアパートメントの一室を与えられた僕にはその「家族」という概念を彼女と共有することができなかった。彼女の声の心地よい響きは、ただ雨滴のように僕の耳朶から首筋へと伝い落ちていった。
「あなたのことも、なにも知らないんだよね、わたし」と彼女は言った。僕は首を振った。
「話してもたぶんあんたにはわからないよ。使っている言葉が違いすぎる。あんたの言う通りだ、世界はいっぺん壊れて、もう二度と元には戻らないんだ。聖母マリアの信徒が聖書を斜め読みして平気で人殺しする世界だぜ、ここは」
「でも、あなたは助けてくれた」
「なにもしてないよ」
 僕は無力だ。抗うこともできず捕まってしまった。むしろ僕がいなければ彼女はなんとか隠れおおせたのではないかとさえ思える。
「最初に見つけてくれたのが、あなたでよかったよ」
「やめてくれ」
 その目で見ないでくれ。《フォラメン》が女性のすべてを完全再現したなんて宣伝文句は嘘っぱちだ。愛戯体はこんな破滅的に優しい目をしたりしない。なにも責めないで見つめるだけで僕の矜持を粉々にしたりしない。
 彼女が出ていってしまった後で、長髪の司祭が部屋に入ってきて言った。
「エヴァはもうすぐ殺されるでしょう」
 僕は彼の言ったことがしばらく理解できず、電源が切れたままのアクセサの黒い画面をじっと見つめていた。それから顔を上げた。彼の顔には哀しみと困惑の入り混じった泥水のような色の表情が浮かんでいた。
「いつだかあなたに、エヴァのクローニングを進めているという話をしましたね。そのときにあなたは言った、クローンは教義に反するのではないかと。そう考えるのはあなただけではありません、教会の内部にもクローニングに反対する一派があります」
 なぜこいつはこんな話を僕にするのだろう、と思いながら、黙ってベッドの上でひざを抱える。
「しかし我々は立ち止まるわけにはいかない。世界の再生はもう目前まで迫っているのです。だから――DNAバックアップが完了し次第、彼女を殺します」
 反対派を、黙らせるためだけに?
 マスターが消えてしまえば、もはやコピーを使うしかない。
「不思議ですね、どうしてあなたにこんな話をしてしまったのでしょう」
 司祭は微笑んだ。
「憐れんでください、彼女は全人類の罪を背負って死に向かわれるのです。かつて主がそうしたように」
 司祭はそう言い置いて部屋を出ていった。強酸のような怒りが僕の内部から胸を食い破ってあふれてきた。全人類の罪だって? おまえらの勝手な都合で殺すんじゃないか。ならどうしてその反対派とやらを皆殺しにしない。朝日を浴びる白木のバルコニーに並べて巨大な鋸で端から首をそぎ落としてやればいいのだ。僕の思考はどろどろとした血で染まった。気づくと、強く握りしめた枕のカバーが破れて綿がこぼれだしていた。
 僕はアクセサの電源を入れた。
 この窓はウェブに繋がっている。原理的に、ウェブにアクセスする以上、こちらからなにも情報を送信しないというのは不可能だ。もちろんこれは教団の与えてくれた機械で、ルータも教団が管理しているから、データフィルタがしっかりしているしセキュリティも固い。しかし、手はあるはずだった。
 僕はアクセサから拾える情報を片っ端からドットに変換して描画子三千二百万の巨大な画像を作った。どこに監禁されているのかもわからないが、アクセサとルータの情報になんらかの分析を加えれば、あるいはさらなる手がかりがつかめるかもしれない。僕にその力はないが、世界は広いのだ。
 ウェブにアクセスする。制限された閲覧機能を最大限に拡張して、ある仮想スフィアに入室した。ウェブ技術の最先端を行くのは大企業の開発部でも連邦の研究室でもない、薄暗い個室で日夜自家中毒的にプログラムを進化させているハッカーたちだ。彼らの傑作ウィルスをアクセサにわざと引き込む。背景に指定された僕の画像が、ウィルスによって食い破られた教団のセキュリティをくぐり抜け、八分おきにアップロードされはじめた。世界は広い。いずれだれかが画像を解読し、この場所に至ってくれるかもしれない。それが連邦警察の目に届くことを祈った。そしてやつらが教団のくそったれな紫と白の僧衣を横一列に並べてガトリング砲で挽肉にしてくれることを祈った。もはや祈ることしかできなかった。僕は毛布に潜り込んで目を閉じた。


 やつらは信じられないくらい早くやってきた。二日後のことだ。
 腹に響く他人の鼓動みたいな連続音で僕は目を覚ました。ドアの外から聞こえるその音が銃声だと気づくのにしばらく時間がかかった。それから悲鳴。僕はベッドから転げ落ち、床を這ってドアまで行った。銃弾の響きでドアがびりびり震えている。足音が部屋の前を横切り、少し走ったところで崩れ落ちるのがわかった。
 なんだ、なにが起こっている?
「中の人、下がって伏せていてください。炸薬を使います」
 扉越しに声が聞こえた。僕は後ずさってベッドの下に隠れた。
 鈍い爆発音とともに、ドアのノブのあたりが砕け散って穴があいた。強引に引き開けて部屋に入ってきたのは、ヘルメットと防護服とグレネードランチャーで武装した男の一団だった。連邦当局だろうか? 助かった。
「拉致されていた人ですね? もう大丈夫です、ほぼ制圧しました」
 先頭の男がヘルメットのヴァイザーを上げて鋭い眼を見せ、手を差し伸べてきた。僕はベッドの下から這い出て、彼の手を取った。
「あの、女の子は」
「そちらも無事確保しましたよ」
 男はにやりと笑う。僕は腰が煮溶けてしまうほど安心した。男に手を引かれて、ふらふらと部屋の外に出る。廊下には数メートルおきに紫の僧衣の死体が転がっていて、血が壁や床を汚していた。
 警察がここまでやるだろうか、という疑問がふと浮かんだ。テロリストだから、断固とした処置をとったのか? それとも軍隊が出動したのだろうか。戸惑う僕の耳に、男の言葉が響く。
「これでフィロマリア教団もおしまいですな。わたくしどもも、あなたと彼女と両方手に入れることができた」
 僕は呆気にとられて男の顔を見た。
 そのとき、武装集団の他の男達が一斉にヴァイザーを押し上げて顔を見せた。僕は悲鳴をあげそうになった。ヘルメットの中にあるのは、まったく同じ顔。そして、皮膚を見るだけでそれとわかる違和感――こいつらは、人間じゃない。《フォラメン》だ。
 僕は思い出す。モーテルに隠れていたとき、僕らを探しにきた、教団とは別の集団。軍用の男性型《フォラメン》。
「あ、あんたらは、警察じゃ、ない、な」
「いつ警察だと言いましたか?」
 ただひとり人間であるその男はにこやかに笑った。
「わたくしどもは愛戯体開発企業の者です」


「前々からフィロマリア教団には注目していたのですよ。あ、紅茶のおかわりはどうです?」
 僕は首を振って、ティカップをテーブルの端に押しやった。
 連れてこられたのは、ゴージャスな屋上庭園のあるビル。ただし目隠しをされてきたので場所がどこかはわからない。千葉と季節がほとんど変わっていないので、日本か、中国大陸の沿岸部か、あるいは南ヨーロッパか。どちらにせよひとつ確かなことは、僕が檻から別の檻に移されただけだということだ。
 陽光をたっぷりと浴びたカフェテラスに、僕を救出(そして再拉致)したあの男と二人きり。ぞっとしないシチュエイションだった。男は開発企画部長のエーリッヒ=セムクロイツと名乗った。防護服ではなくぱりっとした上物のグレイのスーツに身を包み、獅子のたてがみのような髪型をした男は、たしかに一流企業の重役に共通したあくの強い傲岸さを漂わせていた。
「病害を生き延びた女性が教団によって拘禁されているという情報は前々からキャッチしていましたしね。我が社の製品の品質向上のためにも、ぜひとも生身の女性サンプルはほしかった。なんとなれば、わたくしどもは九十年間、本物を見ずに偽物を作ってきたわけですからな。しかしあの教団も精神異常者の集合にしてはガードが堅い。内部に手の者を潜り込ませて揺さぶりをかけましたが、まさか内乱で本部ビルを爆破するとはね。狂信者は手に負えませんな」
「あれは、あんたらがやったことか」
「さよう。手ひどい失敗でした。しかし、教団の言い方にならうなら、主が奇蹟を起こされた、といったところですか。しかもふたつ、です。彼女が無事だったこと。あなたがその彼女をかくまったこと」
「僕が……なんだって?」
「わたくしどもが探していたもうひとつが、あなただったのですよ。わたくしどもでは《犬の眼》と呼んでおります。お気を悪くなさらず、俗称ですよ。あなたは、《フォラメン》と人間の皮膚を見分けることができますね?」
 僕は黙った。
 なぜ知っている? 僕が識別能力者だということは、連邦政府と警察しか知らないはずだ。僕の動揺をエーリッヒは読みとったようだった。
「もちろん最初から知っていたわけではありませんよ。しかしあなたのパーソナルスフィアに教団がハッキングをかけたときに、便乗して読ませていただいたのですよ。わたくしも宗教を始めようかという気持ちになりましたね。探していた二つが両方とも同時に手に入ろうとはね」
 僕は黙ったままだった。かまをかけられているのかもしれない。相手の目的もわからない。
「ですから、わたくしどもの目的は、完璧な愛戯体の開発です」
 腹の底が冷えた。心を見透かされているみたいだ。
「完璧なサンプルとして、彼女を求めていました。また、人と《フォラメン》との差異を完全になくすために、あなたのような識別者の協力を求めてもいました」
「僕にも見抜けないような《フォラメン》を? そして人間そっくりの男性型を量産して中南米の政変なんかに送り込むわけだ。儲かってしょうがないな、それは」
「さて、男性型、とは?」
 エーリッヒはとぼけた。組んでいた手を広げ、すっかり冷めた自分の紅茶を一口ふくむ。
「ともあれご理解が早いようで喜ばしいですな。ご協力感謝いたします」
「僕が協力するとでも?」
「もちろん」
「寝言は寝て言え。それから」
 僕は立ち上がって椅子を蹴倒した。
「さっさと殺せよ」
 僕は今度こそ彼女を助けられなかった。助けようと打った手さえ、彼女を別のもっと冷たい枷につなぎとめる結果にしかならなかったのだ。
 エーリッヒは乾いた声で笑った。
「協力いただければ、試作機完成の暁には彼女とお引き合わせいたしますよ」
「そんなのが餌になるとでも思ってるのか。僕はね、もううんざりしてるんだ。彼女には二度と会いたくないし、あんたらに協力するつもりもない。おあいにく様だったな。銃弾がもったいないというならすぐそこから飛び降りるよ、フェンスを開いてくれ」
 僕は菜園を囲むフェンスの向こうの青空を指さした。それでもエーリッヒは笑うのをやめなかった。
「彼女が欲しいでしょう? あなたを掻き傷だらけにする茨の園のような複雑性を持った彼女ではなく、あなたをただ受け入れ慰めてくれる彼女です」
 僕はしばらく虚空を見つめ、それからもう一度エーリッヒの張りついたような笑顔を見た。彼の言っていることがわかった。僕はほんの少しだけ揺らいだ。その揺らぎをエーリッヒは見逃さなかった。
「わたくしどもなら、ご提供できます」





       4

 完成までには二ヶ月を要した。
 最初の一ヶ月、僕は毎日開発部の素材テストにつきあわされ、ほとんど眠るひまもなかった。しかし皮膚素材が洗練の極みに達すると、もう僕の仕事はなかった。プロトタイプができあがるまで、僕はビルの屋上庭園でテレビとアクセサに囲まれた怠惰な日々を過ごした。外出は一切禁じられていたが、快適な生活だった。
 意外なことに、人間の女性が発見されたというニュースは日に日に沈静化していった。教団崩壊当初こそ様々なウェブコミュニティで論がかわされたが、やがて教団の資金源に関する様々な黒い噂に話題はすり替わり、彼女のクローニングベースは急速に忘れ去られていった。二ヶ月経つ頃にはすでに教団幹部らの下世話な裁判が始まり、彼女が話題にのぼることはまったくなくなってしまった。
「予想されていたことでしょう」とエーリッヒは言った。「一世紀もこのシステムでやってきたのです。クローンで次世代を育み、愛戯体で性欲を処理し、と。今さら本物の女が出てきた、といったところで、新種のアゲハチョウが発見されたくらいのものですよ。世界は女を必要としていないのです。人類はこれまでうまくやってきたのだから」
「ずいぶんな自信だな。《フォラメン》開発が神聖な事業みたいに聞こえるよ」
「そこまでうぬぼれてはいませんよ。《フォラメン》の意味をご存じですかな?」
 僕は首を振った。またその話か。どういう意味があるというんだ。
「ともかく、人間はそもそもが変化を望まない生き物なのです。秩序を好むのです。いずれ行き過ぎる混乱だとわかっていれば、人々はただ耳をふさいでベッドに潜り込むだけですよ」
 相変わらず彼の物言いは僕をひどくいらだたせたが、その論旨には賛成できた。もう、僕らは戻れないし、戻りたいとも思わないのだ。
 二ヶ月たって、僕はエーリッヒに連れられて開発室の最奥の実験室に入った。様々な器具のせいでさらに細くなった横長の部屋で、僕が入っていくと、白衣を着た何人もの技術者達が拍手して口々に「おめでとう」と言ってくれた。
 口の中に嫌な味がした。
「始めましょう」
 エーリッヒの言葉と同時に、部屋の照明が落ち、器具の置かれた側の壁一面が透過した。壁の向こうもこちらと同じ大きさの横長の部屋だった。ただし、真ん中に壁があって二つの小部屋に区切られている。
 左右の部屋に一人ずつ、彼女が座っていた。
 彼女が、二人いる。
 髪の色も、官能的な唇も、水色の手術着の袖から見える引き締まった手足も、深い鳶色の眼も、まったく同じだった。
 肌も。
 奇妙なうめき声が自分の喉から漏れるのがわかった。
「違いが、わかりますか?」
 横でだれかが言った。僕は故障したロボットアームのようにただ何度も何度も首を横に振った。白衣の男達が抱き合って試作品の完成を喜び始めた。小部屋の彼女は、両方とも身じろぎもしない。こちらは見えないのか、視線も定まっていない。
 エーリッヒが近づいてきて言った。
「どちらか選んでください。お望みの方の彼女を、差し上げますよ」
「ほんとうに、どっちかが本物でどっちかが《フォラメン》なのか?」
「もちろん」
「じゃあ」
 僕の喉はからからに乾いていて、うまく言葉が出てこなかった。
「向こうからこっちが見えるようにできるか?」
「できますが、そうなれば見分けがついてしまいますよ。よろしいのですか?」
 エーリッヒはにやりと笑う。僕は不意にその顔を殴りつけたくなったが、息を大きく吐いてこらえた。
「いいよ。間違わないようにしたいんだ」
 うなずくと、エーリッヒはパネルを操作した。
 左の小部屋の彼女の肩がびくりと引きつり、それから立ち上がった。その目は、まっすぐに、間違いなく、僕を見つめていた。彼女は駆け寄ってくると、透明な壁を何度も叩き、僕になにかを言った。
「声も聞こえるようにできますが」とエーリッヒが言った。
「いや、いいよ」絶望的な気持ちでつぶやいた。
「では、選ばれますか」
 僕はうなずいた。
 うつむき、のろのろと手を持ち上げ、彼女を指さした。


 久々に戻る自宅はひどいありさまだった。逃げ出した後に教団の連中が押し入ったのだろう、ゲートは破壊され、玄関のドアも外れていた。夕暮れということもあって、庭の枯れかけた芝生の上には息苦しいほどの寂寥感が淀んでいた。
「掃除が大変だな、これは」
 そう言って彼女の方を振り向くと、微笑みが返ってきた。
 彼女の手を引いて、玄関への石段を昇りきりノブに手をかけたとき、隣家の庭からあの懐かしい胴間声が聞こえた。
「よう、ぼうず! しばらくぶりだな。なんやら大変だったみたいだが、無事だったかね」
 ジェンキンズ氏は庭に敷いた広いレジャーシートの上に裸で立っていた。セーラー服を着た少女型《フォラメン》が二人、氏の前と後ろにそれぞれひざまずいて、一人は睾丸を、一人はおそらく肛門を、小さな舌でちろちろと愛撫していた。ひどく安堵している自分自身に僕は苦笑した。ようやく家に帰ってきたのだ。
「もしやその恋人と長期旅行だったかね。試運転は終わったか?」
 僕は手を振って家に入ろうとしたが、ふと思いついて訊いてみた。
「ジェンキンズさん。《フォラメン》って言葉の意味、知ってますか」
 ジェンキンズ氏は不思議そうな顔をした。その顔が一瞬後に歪み、「うむっ」とくぐもった声があがった。彼の怒張した陰茎の先端から白濁した精液が勢いよく少女の顔にぶちまけられた。
 粘液でどろどろになったペニスを二人の少女に口で清めさせながら、ジェンキンズ氏は答えた。
「知っておるよ。ラテン語で『穴』のことさな」
 それから彼は呵々と笑った。
 なるほど。
 僕は礼を言って、彼女の背中に腕を回し家に入った。埃っぽい空気が充満していた。疲れ切っていた僕は彼女を連れてすぐにベッドルームに向かった。
 ベッドに並んで座り、僕は少しの間だけ目を閉じて、彼女と出会ってからこれまでのことを考えた。それから目を開き、彼女の胸元を見つめながらコマンドワードを囁く。
「誘淫モードON」
 もっと気の利いた言葉に差し替えよう、と考えながら、僕はしなだれかかってきた彼女の唇を唇で受けた。



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