ラストハロウィン

 ・前夜祭


 暗闇に血の匂いが充満していた。がらんどうの丸い部屋の床は、すでにその面積の半分がどす黒く濡れ、天井近くの窓からかすかに差し込む白い曙光は、床に 落ちて深紅に燃えている。
 血だまりの中に少女はひざまづいていた。震える腕を伸ばし、目の前でうつぶせになっている少年を抱き起こす。血みどろの胸に耳を押し当てる。リズムは途 絶えていた。
 もうひとり、背後に倒れている少年の方を見やる。上半身はほとんど血の海に沈んでいる。
「どうしてこんなふうになっちゃったんだろう」
 少女はつぶやいた。答えの代わりに、はるか階下でなにかが崩れる音が聞こえてきた。それから、階段を駆けのぼる無数の足音。
 もともとわたしが始めたことじゃない。少女はそう自分に言い聞かせようとした。わたしのせいじゃない。わたしのせいじゃない。これはわたしの戦いじゃな い。そしてこのまま目をつむって、温かい血の中で眠ってしまおうとも思った。
 でも、と声がした。これはわたしがが始めさせたことなのだ。身勝手な自分の想いのために。だからこれは、わたしが終わらせなければいけない。
 少女は腕をほどいた。少年の上半身がごろりと床の上に転がり落ち、想像していた以上に金属的な音をたててうつぶせになった。
 傍らの床に横たえられていたずしりと重い銃身を引き寄せると、高圧電源を開放し、安全装置のプラスティックテープを引きちぎった。







 ・10月25日


 長く続いていた銃撃の音がやんだ。
 日が暮れかけていた。実験机の上にオレンジ色の陽が細く差してきていたので、それに気づいた。秀樹は磨いていた拳銃と雑巾を机に置いて立ち上がった。教 卓の椅子でウォークマンに聴き入っていた夏美が、ヘッドフォンを外して顔を上げる。
「お……終わったの?」
 震えている夏美の声を無視し、カーテンをそっと開いて、窓から向かいの校舎を見下ろした。玄関口の右脇の壁が崩れて瓦礫の山をつくっている。そのまわり に紺色の制服姿の警官が何人も見える。昨日は見なかった私服のコート姿もいる。みんな忙しく動き回り、内容は聞き取れないけれど怒鳴り声が頻繁に聞こえ る。
 部屋のドアが開いた。秀樹は振り向いた。入ってきたのは長身にダウンジャケット、あみだにかぶった野球帽。リクオだった。
「秀樹。交替だ」
「腹減って死にそうって顔してるよ」
 秀樹は窓枠に腰を下ろした。
「まあ、な」
 リクオはジャケットを脱いで丸めて椅子に置くと、机の上に積んであったポテトチップスの袋を開けた。
「辛子マヨネーズ味ねえの?」
「けっこう集まってきたね。警察」
「ん。そだな。階段の瓦礫、あっという間にどけられたよ。爆破してもあんまし意味なかったな」
 リクオの言葉に、スナックをかじるばりぼりという音が続く。
「おまえも食べる?」
 とリクオは、教卓の椅子に座っている夏美に声をかける。
「いらない」
「あっそ」
「じゃあ、先に一階に回ってバリケード補強してくるよ」
 そう言って秀樹は、ナップザックに針金やペンチを入れて肩にかけた。と、ドアがまた開いた。現れたのは、ひざまである青いコートにアイシールドつきのヘ ルメット。秀樹とリクオは同時に椅子を蹴倒して立ち上がり、腰の拳銃を抜いて侵入者に突きつけた。
「待って待ってあたしあたし! 撃つなって」
 少女は手を振って、それからヘルメットを脱いだ。明るいオレンジのメッシュの入った髪がこぼれ出る。
「キリカ。なんだよそのカッコ」
 リクオは肩をすくめて銃をおろした。キリカは賢い猫みたいな笑みを見せると、上着を脱いだ。
「いいでしょ、これ。さっき職員室んとこのトラップに十人くらいひっかかってたの。これ着てたからもらっちゃった。あとガス銃」
「機動隊が来てるの?」
「あ、あれ機動隊かあ」
 キリカはのんきに納得する。
「早いな。秀樹どうする? 機動隊が出てきたら南校舎は捨てるって言ってただろ」
 リクオはポテトチップスを一袋食べ終わり、銃をベルトに押し込みながら立ち上がった。「渡り廊下落としてここにこもった方が守りやすいよな」
「落とすって。一体なにするつもり?」
 夏美が口をはさんだ。
 秀樹は答えず、もう一度窓の外を見る。向かい側の校舎、教室の窓から机のひとつひとつまで見える。黒板の上の筋になったチョークの消し跡まで、不思議な くらいはっきり見える。
 いつの間にか、キリカが隣に来ている。秀樹の視線の先を指差す。
「二年六組だね」
 秀樹はうなずく。
「昨日まであそこで授業受けてたなんて、信じられないな」
 校門に、灰色の人影が何十人も集まっているのが見えた。機動隊だ。
「もう、いいじゃん、二年六組は」
 どうせもう戻れないんだし、とキリカは秀樹の肩を叩いた。
 秀樹は長い時間をかけて息を吐き出すと、腰のホルスターからトランシーバーをとりあげた。
「西山? こちら化学室。聞こえてる?」
『はい西山。どうぞ』
「いまどこ」
『三階、視聴覚室の前。十五分前に三十人前後が裏門から中庭に入ったのを確認。交戦は威嚇射撃のみ。電波信管すべて正常。残弾十八』
「そこまで訊いてないよ」秀樹は苦笑した。「化学室に撤退。校舎はもう捨てることにした。渡り廊下をねずみ取りに使うから、歌でも歌って機動隊をおびき寄 せて」
『俺、秀樹とちがって音痴』
「……冗談だよ。そのくらいわかってよ。じゃ」
 通信を切るのとほとんど同時に、呼び出し音が鳴る。
「はい化学室」
『あ、僕。ねえねえ見た? 機動隊来てるよ? もうすごいの、スターウォーズの帝国兵みたい。全部で百人はいるんじゃないかな』とミッキの声。
「ミッキ、帝国兵はいいんだけどさ」
 秀樹はトランシーバーを左手に持ち替えた。
「渡り廊下を落とすから。撤退」
『ダッシュで?』
「ダッシュで。渡り廊下で西山と合流して、バリケードをてきとうにふさいで。てきとうでいいからね」
 きっちりふさいだら、ねずみが通れなくなるから。そう心中でつぶやくと、読みとりでもしたのか隣のキリカが可笑しそうに目を細める。
『了解』
 通信が切れる。
 秀樹はキリカとリクオに親指を立てて見せる。キリカの笑顔の向こうで、夏美の顔が歪んでいる。秀樹の視線を受けると、夏美はヘッドフォンをかぶり、両手 でぎゅっとおさえて目を閉じた。

       *

 機動隊員のひとりは、校舎を見上げた。中庭をはさんで向かい合って立つふたつの校舎は、築三十年の歴史もうなずける外観だった。褪せたクリーム色の壁に は、ところどころ黒いひびが走っている。アルミサッシの窓枠がそれぞれの階に整列し、ねずみ色のプラスティックの雨樋がそれを教室ごとに区切っている。
 『分棟』に目を移し、彼はため息をついた。
 四年前に増築されたその四階建ての『塔』は、理系の実験室や資料室などを集めてあるところから『科学棟』と呼ばれていた。『塔』の底面は、長方形のひと つの角を切り落とした五角形で、人肌にも似たピンク色の壁がそこから地上十五メートルの高さにまで屹立している。屋上には、大型の天体望遠鏡だろうか、 真っ白な半球形のドームが設えられている。
 高校生たちが立てこもっているのは、この『塔』のどこかだ――おそらく、最上階の化学実験室だろう、窓が分厚い暗幕でふさがれている。
 科学棟の二階と、南校舎の二階とは渡り廊下でつながっている。その渡り廊下だけが、唯一科学棟への進入路だった。『塔』の一階には、おそらくかつては一 流ホテルの玄関口を思わせるガラス張りの入口があったはずだが、いまやそこは階段ごと爆破され、瓦礫の真ん中に分厚いシャッターがおりている。
 北と南の校舎内に設置されたバリケードはすべて撤去が完了した。狡猾なブービートラップが何人かの犠牲者を出し、そしてこれはもっと重要なことだが、拳 銃と催涙ガス銃が高校生たち犯人グループの手に渡った。
 しかし、たった今、渡り廊下の入口に積み上げられたバリケードの撤去が完了した。校舎内で交戦していた数名の高校生たちがすべて科学棟に逃げ込んだこと も確認されている。
 午後五時十五分。
 渡り廊下側面の窓から、ヘルメットとジュラルミン盾の輝きがいくつも見えた。
 これで終わりだ。
 待機要員である彼は、夕映えの中に立つ『塔』のシルエットを見つめながらそう確信した。爆発音が轟いたのはその瞬間だった。

       *

 幅四メートルほどの渡り廊下の入口には、大量の机が天井まで積み上げられ、機動隊員たちの進路をふさいでいた。机の脚はそれぞれ念入りに針金で固定して ある。先頭の隊員がニッパーでその針金を切断した。机はなるべく隙間がなくなるように複雑に噛み合わせてあり、バリケードを崩すのにはかなりの時間を要し た。人ひとりぶんの隙間ならばすぐに作れたが、狭い場所をひとりずつ通過している間に狙撃されるおそれがあった(実際に犯人グループのそういった戦術によ りかなりの被害が出ていた)ため、バリケードはすべて解体することになっていた。
 午後五時十五分。
 解体作業は終了した。机はすべておろされ、壁に押しつけられている。機動隊三個小隊は二列縦隊で渡り廊下を進み始めた。
 廊下の中ほどで先頭の隊員は足を止めた。
 科学棟と渡り廊下との境目あたりの床に、なにかが置いてある。それは、小さなラジカセだった。
 かちゃり、とカセットテープが回りだし、やがてフルヴォリュームでとげとげしいギターリフのイントロが流れ出す。そして、中性的な艶のある歌声。隊員た ちの多くは、その歌に聞き憶えがあった。若い隊員の中には曲名を知っている者も多かった。一年ほど前に大ヒットした、ロックバンド『ライカ』のシングル 曲。
 ――『Bomb You Up』。
 次の一瞬、轟音が歌をかき消した。廊下の床を激しい震動が突き上げ、同時に天井が崩れた。渡り廊下全体が蛇のようにのたうち、砕けた。窓ガラスが外に向 かって割れ散り、一瞬後に壁もまた同じ運命をたどった。
 機動隊の最後尾の数人は、爆風で校舎に押し戻され背後の壁に叩きつけられながら、それを見ていた。コンクリートの巨大な棺桶が、二十数名を抱えながらひ しゃげ、支えをもぎとられ、つぶれ、崩落する様を見ていた。かすかに悲鳴の混じった、すさまじい怒号のような激突音が響いた。粉塵がもうもうと舞い上が り、校舎と科学棟との間に立ちこめた。
 焼けつく臭いの霧が晴れた。
 さっきまで校舎と科学棟とをつないでいた橋があったところには、痛々しく鉄筋の骨組みが突き出し、コンクリートの破片が飛び散り、凄惨な大穴が口を開け ている。
 歌は止んでいた。

       *

 崩れた渡り廊下から爆散した粉塵が、風に巻かれてようやく散り散りになり、ひっきりなしにサイレンが鳴り響いている。
「やっと、戦争らしくなったかな」
 秀樹は言って、カーテンをおろし、振り返った。化学実験室には六人全員が集まっていた。全員がそろって顔を合わせるのは、二日前の『開戦』以来のこと だ。
 西山が電波信管の遠隔操作機を机の上に置いて、秀樹のそばに寄ってきた。
「電波信管はけっこう心配だったけど」
「ナイス一発だよ、西山」
 言って秀樹は、西山の両の手のひらを手のひらでひっぱたいた。ホームランバッターを祝福するチームメイトのように。西山は顔をしかめながら、同様にリク オ、ミッキの祝福を受けた。キリカはからから笑いながらチョコスナックを袋ごと西山の頭にばらまいた。
「あれ、半分くらい死んじゃったよ、きっと」
 教卓の椅子でひざを抱えていた夏美がぽつりと言った。
「人質は黙ってろ」
 リクオが吐き捨てるように言ったが、夏美は続けた。
「ねえ、いつまでこんなことやるつもりなの?」
「いつまででも」秀樹は冷たく言い放った。「分かってないな。こっちには勝ち目がないんだよ。勝ち負けの問題じゃない。そもそも勝つ条件が存在しないん だ」
「どういうこと?」
 夏美は訊ねた。秀樹はあきらめたようにかぶりを振ると、組んだ両手に顔をうずめた。リクオは黙ったまま、中折れ式のガス銃の銃身を点検している。キリカ はポテトチップスをかじっている。西山は夏美から露骨に顔をそむけた。
「どうやったら僕らの『勝ち』になるのさ、逆に訊くけど?」と、ミッキが秀樹のあとを引き継いで言った。
「……こっちの駒は王将一枚と歩が五枚。向こうは金銀飛車角二十枚ずつ。でも王将はいない。だから僕らは勝てない」
「まあ、そういうこと」と秀樹。
「でも」と、西山が袖に付着したチョコスナックのかけらを神経質に払い落としながら言った。
「金銀飛車角、二十枚ずつあったら、後ろの方の駒、動かせない」
「皮肉がきいてるね」キリカはころころと笑った。
「バカみたい」夏美はそう吐き捨ててそっぽを向いた。ウォークマンをポケットから出して教卓に放り投げる。
「それ、ずっと聴いてたの?」
 秀樹が訊ねた。
「銃の音とか、聞きたくなかったから」と夏美。
「あの曲?」とキリカが身を乗り出した。
 夏美のいちばん近くにいたミッキが、ウォークマンのふたを開けて中のテープを確認し、キリカにうなずいてみせた。キリカは顔を輝かせ、
「夏美ちゃん、ずっと聴いてたんだ、ねえ、ねえ、どうだった? わかった?」
「わからないよ!」
 夏美はヘッドフォンを教卓に叩きつけた。
「こんなの、ただの歌じゃない! みんな、おかしいよ! こんなののために、爆弾作って、人殺して……」
「夏美ちゃん」
 近づいたキリカの手を振り払って、夏美は化学準備室に駆け込んだ。扉が大きな音をたてて閉まる。
 しばらく、五人ともが黙りこくる中、救急車のサイレンが足下の方から虚ろに響いていた。
「は。おかしいだろうね」
 最初に口を開いたのはミッキだった。
「憶えてる? 秀樹がさ、最初にあの『宣戦布告』書いて持ってきたとき。僕ら、だれも秀樹が頭おかしいとか思わなかったでしょ。みんなでノッてはしゃいで さ。――それって、やっぱりおかしいんだよね」
 西山が苦笑してうなずく。リクオは鼻を鳴らして、ひざの上のガス銃に視線を戻す。秀樹は押し黙ったままだ。
「憶えてるよ」
 キリカは答えた。あれは一週間以上も前のことなのに、まるで昨日みたいに思える。







 ・10月17日


 その日の放課後、民俗音楽研究部室には五人が集まっていた。バンドメンバーのキリカ、秀樹、リクオ、ミッキ。それに化学部長の西山。教室の四分の一ほど の狭い空間の中に、キリカの朗読する声が響く。
「『……本日午前七時三十分をもって、我々は地球全人類に対し宣戦を布告する。一九九九年十月ン日 代表者 飯岡秀樹』――っぷ」
 全文を読み上げた後、こらえきれずキリカは噴き出してしまった。
「秀樹、いいよぉこれさいこー。低予算の深夜アニメみたい」
 リクオは舌打ちして、キリカの手からそのファクス用紙を引ったくった。グランドピアノの上に広げると、西山とミッキもそれをのぞきこむようにして読む。

 ――同志・志摩香織の死は、また期せずして起こった我らの敬愛すべきKeishiの死は、我々についに明確なる敵を示してくれた。戦うべき敵はこの世界 全てであると、我々は確信するにいたった。貴重なる同志二人の損失の責はこの地球に生活する全人類が負うべきものであり、またその責は死によってしか贖わ れない。しかしこの贖罪の要求が拒否されるであろうことは明々白々である。したがって、本日午前七時三十分をもって、我々は地球全人類に対し宣戦を布告す る。 一九九九年 十月 日(日付は空欄になっている) 代表者 飯岡秀樹――

「おまえ文才ねえな。ひでえよこれ。アホ中学生みてえ」
 リクオが紙の端を指でぴんと弾いて言った。
「いいんだよべつに。そんなこと本気で思ってるわけじゃないんだから」と秀樹はむくれた。
「なら、正直に書けばいいじゃんか」すかさずリクオが切り返した。「これは後追い自殺です。でもただ死ぬだけだとカッコ悪いのでちょっと派手に暴れます」
「うるさいなあ。だいたい、なんで口出してくるんだよ。西山に爆薬のことで相談しただけなのに。君たちには関係ないの。茶化す気なら帰れよ」
 秀樹は言って、ピアノのふたをばたんと閉めた。
「茶化してるわけじゃないよ。あたしはかなりやる気! だって面白そうじゃん!」
 キリカは親指を立ててみせた。秀樹はキリカの額を二本の指で強く突っついた。
「ぁいたっ」
「思いっきりふざけてるじゃんか」
「ふざけてないよっ! だいたい、西山君にだけ話すなんてひどいよ秀樹。あたしらそんなに信用ないの?」
 ない、と答えようとしたとき、リクオが秀樹の手首をつかんできた。
「秀樹。腕相撲するぞ腕相撲」
「え? なんで。いきなり」
「いいからいいから。バンドのパート決めるときにもやったじゃんか。黙って勝負しろっつの」
 リクオは秀樹の手をつかんだままグランドピアノの向こう側に回ると、キリカに目で合図した。キリカはにんまり笑ってうなずいた。
「レディ、ゴゥ」
 勝負は一瞬だった。叩きつけられて真っ赤になった手の甲をさすりながら、秀樹はリクオのガッツポーズをにらむ。
「というわけで俺の方が強いから俺参加決定な」
「あ、じゃああたし買い物係やる。食べ物とかいっぱい買いだめしとかなくちゃでしょ」
「ちょっと待って」と秀樹は二人を止めようとした。
「たてこもるんなら、化学室がいいんじゃないかな」
 ぽつりとミッキが言った。全員の視線が集まり、ミッキは少したじろぎながら言葉を続けた。
「いや、あそこならさ。一階の玄関にシャッターがあるでしょ。渡り廊下をふさいじゃえば、守りやすいんじゃないかなって」
 キリカが興奮してピアノをばんばん叩いた。五線譜ノートのページを破くと、鉛筆で四つの五角形を縦に並べて描いた。いちばん上には丸を描き、下から二番 目の五角形の右側には細長い四角をくっつける。
「なんだよ、これ」と言うリクオを押しのけてミッキが「あ、わかった。科学棟の見取り図でしょ」「ひでえ絵」「なんだよー。あたしこれでも中学の頃、美術 3だったんだよ」「それ自慢になってないよキリカ」「美術の成績は関係ねぇだろ」「もう、そんなのはどうでもよくてさ。こことここにバリケードを作るじゃ ない? そんで、ここふさいで」
 はしゃぐキリカとリクオとミッキ、見る見るうちに大量の×印で埋まっていく図面。秀樹はため息をつき、西山と顔を見合わせてから、帰りの支度を始めた。

       *

「本気だったんだ」
 帰りの電車の中で、秀樹は言った。後の三人はF市に住んでいるので。T市方面への下り電車に一緒に乗っているのは西山だけだった。
「ひとりでやるつもりだったんだよ」
「知ってる。秀樹はいつだって真剣」
 秀樹の隣で吊革につかまり、気だるそうな視線を窓の外に泳がせながら西山が答える。十月の日は短い。外はもうすっかり暗くなっている。秀樹はギターを左 肩にかけなおして、手すりにもたれた。
「でも、まあ。だれかに止めてほしかったから、みんなにあんな正直に喋っちゃったのかな」
「だれが止めたって?」
 西山が眉をひそめてこちらを向いた。秀樹と二人だけの時の西山は、いつもの敬語も使わない。
「みんなが、秀樹を止めるために茶化したって?」
 秀樹はぽかんとして西山の顔を見つめた。電車がカーブにさしかかり、大きく傾いた。あやうく後ろに転びかけて、秀樹はあわてて手すりにしがみついた。
 西山は鞄のジッパーを開くと、秀樹に中を見せた。ぎっしり詰め込まれた教科書やハードカバーの本やノートの間に、ベージュ色の太い紙の筒が何本か押し込 まれているのが見えた。秀樹は西山の顔を見上げた。
「……ダイナマイト?」
 西山はうなずいて鞄を閉じた。
「まだ実験してないけど」
 二人はしばらく黙って吊革にぶらさがり、窓の外を流れていく街の灯りをながめた。上り電車とすれ違い、大勢の人間を乗せた明るい窓が目まぐるしく過ぎて いった。レールの音は眠たくなるような四分の五拍子を刻み続けていた。
「ショックだったのは秀樹だけだとでも思ってるのか?」
 西山が言った。秀樹はなにも答えなかった。電車が駅に停まり、二人の背後でドアが開く音、それから出入りする無数の足音が聞こえた。しばらくして電車は 前後にがくんと揺れ、また走り出した。
「そう言えば、夏美は今日どうしたの? 西山、いつも一緒に帰ってるのに」と秀樹は言ってみた。「化学部員は二人だけなんだから。大事にしないと逃げられ るよ。前から思ってたんだけど、夏美ってさ、おまえのこと――」
「話そらしてる」
 西山はぴしゃりと言った。秀樹はまた黙り込んだ。
 駅を四つ過ぎ、二人の下車する駅が近づいてきたころ、秀樹はぽつりと言った。「わかったよ」
 西山はうなずいて、それからこちらをじっと見つめてきた。次の言葉を待っているのだろう。秀樹はため息をついた。
「やろう」







 ・10月18日


 次の日から、『戦争』の準備が始まった。キリカはずっと思っていた。まるで学園祭の準備期間みたいだ、と。
 実際に、N高校は十一月三日の文化祭に向けてあわただしくなりはじめていた。放課後はあちこちのクラスで模擬店の内装工事が進められ、文化系クラブは夜 遅くまで残って練習していた。カモフラージュにはうってつけだった。
 必要な物は様々だった。民音の部室はすぐにそういった物資でいっぱいになった。バリケードのための針金や釘、工具。トランシーバー。食糧。
「食糧買いに行ってくるよっ」
 そう言って部室を出たキリカに、なぜかあとの四人全員がついてきた。
「荷物持ちはそんなにいらないのに」
「荷物持ちじゃねえよ。おまえに任せるとどうせ甘いもんしか買ってこねえだろ」
「リクオなんてポテチの辛子マヨネーズしか買わないじゃない」
「……柿の種。あとチーズ鱈」
「待て西山。それちがうだろ。酒のつまみじゃねえか」
「僕も柿の種好きだよ。あ、あとね、バナナ牛乳」
 秀樹のわざとらしいくらい大きなため息で、会話は中断された。
「あのさ。わかってる? 一週間以上たてこもるんだよ? 保存がきいて、かさばらなくて、値段が安いやつじゃなきゃ」
「やだよそんなの」、キリカは真っ先に反対した。「缶詰とか乾パンとかでしょ? まずそー」
「みんなで買いに行こうよ。僕らはコンビニに行くから、秀樹と西山はディスカウントに行けば」
 結局ミッキの言うとおりになった。
 バリケードのための机や椅子は、階段裏にこっそりと集め、組み上げて針金で固定する作業を行った。キリカはこのスリリングな作業がいちばん好きだった。 薄暗がりで、隣に秀樹がいて、階段をだれかが通るたびにどきどきしながら息を潜めた。
「なんかこっそり悪いことしてるみたいだね」とキリカは言った。
「こっそり悪いことしてんだよ」と秀樹は答えた。

       *

 その日の夕方、河原で爆破実験をした。大量の電池ケースをつなげた不格好なリモコンのスイッチを西山が押した瞬間、二十メートル離れたところにある盛り 土が粉々に吹き飛んだ。キリカは爆竹のような高く乾いた破裂音を想像していたが、響いてきたのはまるで大地そのもののうなり声のような轟きだった。足下が ぐらりと傾いたような感覚は、あるいは錯覚ではなかったのかもしれない。湿り気のまじった砂塵が辺り一面にもうもうと巻き上がり、それは川面からの風に巻 き込まれるまでしばらく漂っていた。
 四人の視線は西山に集まっていた。
「すげえな、これ」
 リクオが口を開くまで、一時間にも二時間にも感じられるほどの沈黙があった。
「人殺せるな」
「殺せる」と西山は答えて、爆心地に近づいた。地面は大きくすり鉢状にえぐれて黒く焦げている。
「あんなに小さいダイナマイトでもこのくらい吹っ飛ばせるんだね」とミッキが、興味津々そうに西山の背中に寄っていった。
「正確に言うとダイナマイトじゃない。TNT」
「なんだよTNTって」とリクオも西山のそばに行く。
「トリニトロトルエン」
「だからそれがなんだって訊いてんの。俺は文系だっつの」
「爆薬」
「おまえ馬鹿にしてんのかよ」
 ミッキがそのやりとりを聞いて笑い出す。
 キリカは、隣に立って砂煙を見つめている秀樹の顔をちらとうかがい、それから爆心地の方に視線を戻す。
 西山がいなければ秀樹はこんなことを始めようとは思わなかっただろうな、とキリカは、拡散してゆく砂煙の行く先をじっと目で追いながら思った。







 ・10月23日


「あ、ちょっと待ってくれ西山君」
 放課後、化学実験室を出ていつものように民音部室に向かおうとした西山を、化学部顧問が呼び止めた。
「なんですか」
「え、あー、いや、その」
 顧問教師は三十手前の若い男で、夏美に言わせると『伸吾(西山のことだ)と並んでいると伸吾の弟みたいに見える』らしい。
 顧問教師はおどおどと西山を化学準備室に招き入れると、扉を閉め、声をひそめて言った。
「あ、あのさ、西山君最近、よく民音部の方に行ってるみたいだけど」
「文化祭の準備を手伝ってるんです」
「あ、そうだね、いや、でもさ、西山君は化学部の部長なわけだしさ、化学部は幽霊部員ばっかりで、実質西山君と奥村さんの二人でやってるようなものだし さ」
「化学部の発表の準備もだいたい終わってます」
「あ、そうなの、そうか、ならいいんだけどさ。いや、なんか奥村さんが心配してたんで」
「夏美には自分から言っておきます」
「うん、そ、そう」
 顧問教師は日誌をいじり回しながらうつむいて、口の中でまだもごもご言っている。
「西山君はよくやってくれてると思うんだけどさ、でも最近、民音部の連中、夜遅くまで部室に残っていたり、たまに化学室に押しかけてきたり、いや、にぎや かなのはいいんだけど、一昨日なんか九時過ぎても残ってて警備員さんに怒られてただろ」
「すみません」
 西山が頭を下げると、顧問教師はおびえたように首をすくめた。
「今日で民音の方の準備も終わりですんで」
「そう。それならいいんだ」
「行ってもいいですか」
「あ、うん」
 西山は準備室を出た。扉を閉めるとき、顧問教師が大きくうなだれて息をついているのが見えた。
 二日後に爆破されて地面にたたき落とされるはずの渡り廊下を歩きながら、西山は思った。やはり夏美はなにか自分と秀樹たちが妙なことをやっているのに気 づいているらしい。口出ししてこなければいいのだが。
 民音の部室にはだれもいなかった。少し考えて、今日が水曜日であることを思い出す。民音が週のうちただ一日、音楽室で練習できる日だ。
 廊下の突き当たりにある音楽室の防音扉からは、激しいドラムのリズムがかすかに聞こえていた。西山はノブに手をかけ、思い直し、扉に背をもたれて目を閉 じた。秀樹の歌声が頭にしみ込んでくる。

       *

「中入って待ってればよかったのに」
 そう秀樹が訊いても、西山は答えなかった。憮然として頭をさするだけだ。
 音楽室での最後のセッションが終わって、キリカが勢い良く音楽室の扉を開けたら、外で待っていた西山の後頭部を扉が強打したのだ。
「ごめんね西山君」
「もういい」
 西山はばつが悪そうにそっぽを向いて、下駄箱から靴を取りだして履き替えた。
 先に靴を履いていたミッキとリクオが校門のところで待っていた。秀樹たちが合流しても、立ち上がろうとしない。だれもなにも言わず、他のだれとも視線を 合わせようとしなかった。
「みんな、明日は学校に来ちゃだめだよ」と秀樹は言った。
 キリカが目を丸くした。
「なんで」
「なんで、って……階段あちこち爆破するんだよ。危ないじゃんか」
 キリカはぽかんとした顔で、あやうく肩のかばんがずり落ちそうになった。やがて秀樹の言葉の意味がわかったのか、噛みつくような勢いで言ってきた。
「秀樹、ひとりでやるつもりなの?」
 ミッキが顔をあげた。リクオは門柱にもたれたままふんと鼻を鳴らした。
「当たり前じゃん。なんだと思ってたんだよ」
「だって、あたし、あたしたち今まで」
「今まで手伝ってもらったのはありがたいと思ってるよ。でも、こっから先はみんなは関係ない。わかってんの? 全部終わっちゃうんだよ? そんなことにみ んなを巻き込めないよ」
「あたしは巻き込まれるつもりだったよ。ていうかもうとっくに巻き込まれてるじゃない」キリカは顔を真っ赤にして続ける。「今さらここまで来てひとりでや るはないでしょ! ねえ! あんたたちもなにか言ってよ!」
 キリカは西山を、それからミッキを振り返り、リクオの肩を平手で強く叩いた。リクオはわずらわしそうに片眉をあげると、
「俺は明日、朝六時登校。他のやつのことは知らね」
 ミッキも微笑んでうなずいた。「僕もそのつもり」
 秀樹は細いため息をもらすと、四人の顔を順繰りに見た。キリカの顔は喜色で溶けかけたバタークリームみたいだ。
「勝手にすれば」
 秀樹はきびすを返し、足早に校門を出た。キリカのぱたぱたという足音が追いかけてくる。







 ・10月24日


 駅の駐輪場の入り口の脇で、少女がひとり、自転車のサドルに腰掛けてぼうっと空を見ていた。差し渡し二百平米はあろうかというだだっ広い駐輪場。隅の方 には鉄屑寸前の錆だらけになった放置自転車の山。それを除けば、数えるほどしか自転車は置かれていない。午前五時十分、始発もまだ運行されていない早朝 だ。少女の息も手でつかめそうなくらいくっきりと白い。
 駅から駐輪場の横を通って、幅の広い坂道がずうっと続いている。その両脇には背の高い集合住宅がまるでドミノ倒しの板のように整然と並んでいる。勾配の きつい山の斜面を、どうにか妥協できるほどにまで削って開発されたベッドタウン。無意味な坂道と、無意味な公園と無意味な雑木林ばかりの街。
 ドミノの合間を縫って、一台の自転車が坂のずっと上の方から下りてくるのが見えた。他に道をゆく人は一人もいない。自転車に乗っているのは少年だ。厚手 のジャケットを着ていて、大きなスポーツバッグを背負っている。
 少年の乗った自転車は驚くくらいのハイスピードで駐輪場の入り口に滑り込んだ。スタンドをおろしてチェーン錠をかけようとしたところで、彼はようやく少 女の存在に気づいた。
 二人はしばらく、お互いの言葉を待ちながら、視線をほんの少しだけ重ねて向かい合っていた。
 先に口を開いたのは少女の方だった。
「何をするつもりなの」
 そう言ってから夏美は、眼鏡をはずして曇りを拭った。秀樹は大きく息を吐き出し、それからスポーツバッグを肩からおろした。
「戦争」
 壁に粘土を押しつけるような口調でその一語だけを口にすると、彼は駅の方に歩き出した。夏美もその後を追いかける。
「なんなの、それ? 最近あんたたちおかしいよ? 伸吾まで巻き込んで、一体なにしようとしてるの」
「戦争だよ、戦争。それに言っとくけどね、西山は自分から手伝うって言ってきたの。他のやつらもそう。もともと一人でやるつもりだったんだ」
 二人は自動改札を抜け、階段を下りてプラットフォームに出た。人の姿はまばらで、向こう岸とあわせても四五人といったところだろう。
「ついてくんな。今日は本当に危ないんだから」秀樹は言った。
「知ってるよ。あんたたちが化学室で話してるの、けっこう聞いてたから。ねえ、本気なの? その、爆破するとか……」
「やれやれ、聞かれてたのか」秀樹は肩をすくめた。
 フォームの一番向こうの端から、手で触れそうなくらい濃密な風の塊がうなりをあげてやってきて二人のまわりを駆け抜けた。秀樹のジャケットと夏美のス カートはそれを受けて大きくはためいた。構内放送が、間もなく上り電車が到着することを告げた。
「もうこれしかやることが残ってないんだ」
「香織のこと?」
 夏美は秀樹の顔を覗き込んだ。
「それもある」
 秀樹は穏やかに笑っていた。
「――いや、夏美に格好つけたってしかたないか。それが全部だよ」
 夏美は言葉を失った。狂ってる。それが最初に感じたことだった。でも、人間のまともな言動なんてものはそもそも、これからも生き続けていくという前提の 上に成り立っているのだ。その前提を自ら取り除いてしまった者に対して、一体何が言えるだろう?
 秀樹にはもはや守るべきものがひとつとしてないのだ。たったひとつ残されていたそれを、壊してしまったのはわたしなのだ。
 夏美が何か言いかけたその時、けたたましい音を響かせながら列車がフォームに滑り込んできた。
「……にして」
 秀樹は眉をしかめた。列車の轟音にかき消されて、聞き取れなかったらしい。
「なに? 聞こえないよ」
「私を人質にして!」
 夏美は叫んでいた。

       *

「僕はいいと思うよ。ていうかナイスアイディア」とミッキは言った。リクオは眉をひそめたが、なにも言わなかった。
 午前六時。科学棟四階の化学室に全員が集まっていた。西山は夏美の顔を見ると露骨に不機嫌そうになった。
「夏美には関係ないのに」
 夏美がなにか言い返しそうになったのをさえぎって、キリカが口をはさんだ。
「あたしも賛成。夏美ちゃんが人質ってのも、なんか、あれだけどさ」
「おい。マジ言ってんのかよ」
 リクオがようやく口を開いた。
「邪魔にしかなんねえだろが。帰れよ夏美」
「でもさ、長期戦になるんならすごく安心だと思うけどな、人質がいると。警察だって下手に動けなくなるし」
「ンなわけねえだろ。夏美は知り合いじゃねえか。人質にならねえだろ」
「なるよー。あたしが警察だったら」
「キリカは絶対警察に向いてないと思うけどな」
「そういう問題じゃねえだろ」
 だん、と大きな音がした。キリカは跳び上がった。器具棚のガラス戸がびりびりと震えた。秀樹が鞄を机に叩きつけたのだ。騒いでいた三人ともが黙り込ん だ。
「もう決めたんだ」
 言いながら秀樹は鞄を開ける。
「夏美は人質にする。でも条件がある」
 秀樹が鞄から取りだしたのは、ハサミだった。それを夏美に差し出し、
「髪を切れ。人質の証拠にするから。それができなきゃ、出てけ」
「ちょっと、秀樹?」
 食ってかかってきたキリカを、秀樹はにらみつけて抑えた。夏美の手にハサミを押し込み、
「どうせ、できやしないだろ。帰れよ」
 夏美は唇を引き結んで、手のひらの中のハサミを見つめ、それから秀樹の顔に視線を戻した。
 ミッキは脱力したように机に腰を落とす。リクオはうなずいて一歩後ずさる。西山も押し黙ったままだ。全員の視線が夏美に集まっている。キリカはようやく 理解する。これは、夏美にあきらめさせるためにやっていることだと。
 夏美はもう一度、ハサミに目を落とした。
 キリカは息を呑んだ。
 夏美はハサミに指を通すと、両手を頭の後ろに回し、左手で髪をまとめて持ち上げた。ざぐり、と、音がして、夏美の肩のまわりを断ち切られた髪が何本か舞 い落ちていった。
 左手に残った一掴みの長い髪を、夏美は実験机の上にそっと置いた。そして右手を振り上げ、その髪の束の真ん中に、持っていたハサミを力任せに突き立て た。
 キリカはすくみあがった。
 夏美の目には涙がいっぱいにたまっていた。だれかがなにか一言、あるいは指一本でも動かせば、夏美は爆発してしまいそうだった。重たい沈黙の中で夏美は きびすを返し、化学準備室の戸に姿を消した。
 秀樹は目を伏せてため息をついた。その瞬間、キリカは手を振り上げ、秀樹の頬を張り飛ばしていた。乾いた音が化学室の沈黙を破った。
「秀樹のばかっ!」
 キリカは叫んだ。自分も涙目になっているのがわかった。秀樹がなにか言おうと口を開きかけた。キリカはそれを吹っ切るように背中を向けて、夏美の後を 追って準備室に飛び込むと、戸を叩きつけるように閉めた。

       *

 秀樹は椅子に座り直し、それから憮然とした顔でうつむいた。四人の少年たちはしばらく、無言で視線を床に落としていた。
「あんまり感傷的になるのはやめようよ、秀樹」
 ミッキが下を向いたまま言った。秀樹は顔をあげた。
「僕らはこれから何人も殺すんだよ。必要になれば人質だって殺すんだよね。違ったっけ?」
 秀樹は生気のない顔でうなずいた。
「人質の髪の毛くらい、なんてことないよ」
 秀樹は机の上の髪の一房を手でまとめると、それをまたはなした。髪の毛は不吉な曲線形を描いて机の上に広がり落ちた。
「そうだね」
 秀樹は立ち上がり、ジャケットを脱いで机の上に放った。
「ぐだぐだやってる暇はないね。バリケードを組み立てよう。あと一時間ちょいだ」

       *

 午前七時三十一分二十二秒。
 C市警察署、A新聞東京本社及び都立N高校職員室のファクシミリが『声明文』を受信した。同時刻、N高校内四ヶ所の階段に仕掛けられた爆薬が、時限信管 により爆発した。この最初の爆破による死者は0名、負傷者は二名(同校生徒)。







 ・1月25日発売『月刊ミュージア三月号』より抜粋


――今回のアレンジは、ライカにしては土臭いというか、前の二枚同時シングル(『Never Knows』、『V.I.P Scream』)に比べてずいぶん重たい感じが強いけど?
Katsumi「Keishiが突然ブルースに目覚めました(笑)」
Yuichi「アジアツアーで大麻をいっぱい手に入れたからね(笑)」
Katsumi「まあなんにしろ、ウチはアレンジから何からほとんどKeishiがあらかじめアイディアを持ってくるんですよ。各自もそれをいじったりす るけど、それは例えば俺だったらフィルのタムを少し増やすとか、その程度の変更で、大体Keishiの持ってきたとおりになってしまう」
Yuri「天才だから(笑)」
――なるほど。リズム隊はそうすると、ほとんどデモテープと同じになってしまう?
Yuri「いや、そこまではいかない。かえってギターの方がデモテのまんまになってると思う。Keishiはベースにはあまりこだわらないんですよ。俺の 好みでシンコペ増やしたり上の方で遊んだりしても何も言わない」
Yuichi「確かに俺はよく突っ込まれるな。後藤さん(プロデューサー)よりあいつの方がうるさい(笑)。ずいぶん前に一度、仮歌だけ聴かせてもらった ことがあって、その時に、きっとこれはかっちりした8ビートでやるんだろうと思って。だからオケ入りのデモ聴いたときはびっくりした。ギター跳ねてるし」
Katsumi「いっぺん、Yuichiがどうしてもって言うんで8ビートでやってみたんだよな」
――どうだったんですか?
Yuichi「俺の負け(笑)」
――ヴォーカルの感じもずいぶん変わってますよね。ファンクっぽいというか。
Yuri「本人はあまり気にしてやってはいなかったみたいだけど、俺らがどんどんアレンジを太い方向に引っ張っちゃったから、自然とそうなったんだと思 う」
Katsumi「いや、アレンジに影響されて歌い方変えるほど繊細な奴じゃないだろ(笑)」
――なるほど(笑)。イントロとソロの直前の、ワーミーみたいな音はどうやってるんですか?
Yuichi「あれは、俺のESPのピックアップがイカレた音(笑)。レコーディング中に突然ぶっとんで、でも面白い音だからってんでイントロにも張り付 けて使うことにしたんだ。もう二度と出せない(笑)」
Yuri「Keishiが、自分の考えてなかったアレンジを認めた貴重な例だね(笑)」
――今回、詞は久しぶりの女性視点ですね。やはりリアリティが凄いなと思うんですけど。
Yuri「Keishiはオカマだからね(笑)」
Yuichi「いや、実際、女の歌書かせるとすごいよ、あいつは。俺には絶対無理だね。『待つためだけに 生まれてきたのじゃないと 分かってはいても』 とか、絶対に書けない。何かの拍子で書けちゃったとしても、一ヶ月くらい立ち直れないと思う」
Yuri「一ヶ月くらい男に戻れない、と(笑)」
――カップリングの『グラフィカ』についてですが。これはまたシンフォニックというか。
Katsumi「これ、もともとインストの曲じゃなかったっけ?」
Yuichi「そう。ホーンセクションが入ってたんだけど、それを全部歌に変えたんだ。だから歌詞が半分くらい『あー』とか『うぉうおー』とかなんだよな (笑)」
Yuri「ブリッジの部分でハモってるのはYuichiと有賀さん(キーボード)です。これも貴重だね(笑)」
――なんというか、ライカの世界観みたいなものが強く押し出された曲という印象がありますね。
Katsumi「Keishiの曲の傾向として、それはけっこう強いと思う。俺らもそうだけど、音楽のパワーみたいなものを頭から信じてるんだよね。ダサ い言い方だけど、世界を変えられるっていうか」
Yuri「世界はどうか知らないけど、人間一人の人生は充分変えられると思う。僕らのCDが出るたびに、百枚単位で買い込んで借金してる人とかいるらしい よ」
Yuichi「人生変わってるな、それは確かに(笑)」







 ・取材テープより抜粋


『……あ、これ録音されてるんですか? わたしの名前、出しませんよね? 大丈夫? ええ、はい。あ、そうです。キリカちゃんは、あ、阿久津さんのことで す、うんそう阿久津桐花。はい。一年のときにわたしと一緒に吹奏楽部(ブラバン)に入ったんです。そう。すごくドラム巧かったですね。でもすぐにやめ ちゃったんですよ。なんか先輩たちともめたとかで。ええ。それで、民音に入って。そうそう民音と吹奏楽部(ブラバン)、すっごく仲悪いんですよ。なんでっ て、あのほら、音楽室って練習場所カブってるじゃないですか。うちは部員多いから、週に四日音楽室で練習できるんですね。それで合唱部と、あと民音が一日 ずつ。ええ。でも、民音ってあの五人が入るまでつぶれかけだったんで。別に定期演奏会とかやるわけでもないし、去年の文化祭でもなにもやらなかったし。ラ イカのコピーばっかしやってるんですよ。あ、けっこう巧いんですけどね。ギターとかそっくりだし。まあその、同好会みたいなものだし音楽室使わせるなんて もったいないっていうか。あ、わたしが言ってるんじゃなくて、ですよ。そういうこと言う先輩も多くて。あと、あそこ、なんかキモいんですよね。雰囲気が。 だってなんか部室狭くて暗いし。自殺者だって出たでしょ。そう。志摩香織さん。ライカのKeishiの追っかけ自殺でしょ? 信じらんないけど、あーなん かわかる、っていうか。はい。だから今回のもね、あ、驚いてるんですけど、もちろん、でもね』

『……どこの記者さん? あ、週刊Gですか。ああはい。知ってます。ええ、ビビリましたよそりゃ。朝登校したら学校燃えてたし。あーでも、リクオって中学 ンときからけっこうやばいやつだったんで。ああそうです。補導歴何回かありますよ、確か。やっぱよく調べてますね。勉強もあんましてなさそうだったから、 俺と同じN高に入れたのマジ不思議で。頭良い不良って最悪っつうか。民音に入ってからおとなしくなってましたけどね。マジでベース練習したりして。二、三 回聞いただけなんだけど、巧いんですよねあいつのベース。Yuriそっくりで。あ、Yuriってライカのベーシストね。ああはい三木とは同じクラスで。え えあいつも頭いいっす。模試やるといつも一桁順位で。三木も民音だったんですね。え? あ、いや、今知りました。ええ。いや、民音そのものを知らないやつ もいるんじゃないかな。めちゃめちゃマイナーな部ですよ。え? 飯岡秀樹? って民音の部長? いや、全然知らないっす』

『……ああはい、いや、校長から、マスコミにはなにも言うなって釘を刺されたんですけどね。はい。そういうのってねえ。ええ。あ、だからあんまり詳しいこ とは、その、喋れませんけど。ええ。はい。私、顧問です。いや民音部じゃなくて化学部の。あ、これ絶対書かないでくださいね。学校にばれたらまずいですか ら。はい。そう、西山伸吾と奥村夏美が化学部員です。二人だけみたいな部で。ええ、他にも幽霊部員はいるんですけどね。ええ、西山はちょっとした天才でし たね。高校の化学の授業なんて必要なかったんじゃないかな。ちょっと近寄りがたいやつで、友達も少なかったと思いますよ。ええ。だから私もね、民音の連中 がたまに化学室でだべってても特に注意しなかったんですよ。ええ。でも、先々週くらいかな、なんか集まって妙なこと始めてたんで。ええ。文化祭の準備か な、と思ってたんですけど。まさかねえ。あんなことやるなんて。ええ。爆薬は、多分。……西山ですね』







 ・10月2日発売『週刊G』より抜粋


 一日午後八時ごろ、ロックバンド『ライカ』のヴォーカリスト橘啓司さん(23歳)が東京都練馬区のマンションの事務所浴室で死亡しているのが発見され た。発見したのは『ライカ』のバンドリーダーでドラムス担当の畠山克巳さんで、一日朝に橘さんから電話で「渡すものがあるから今夜事務所に来てくれ」と言 われたという。
 練馬区警察署によれば、橘さんは刃物で手首を切っており、遺書と見られるメモとカセットテープが発見された。争った跡などもないことから、自殺と断定し ている。遺書には、死後に発表してほしい曲についての要望が書かれていたという。
 『ライカ』は九十六年、シングル『Red Zone』でデビュー。これまでにシングル十一枚、アルバム六枚をリリースしている。発表したレコードすべてが売り上げランキングで一位を記録している ヒットメーカーであり、作詞作曲をすべて担当していた橘さんの死は、大きな衝撃を呼んでいる。







 ・10月26日


「遅い。なにやってたんだグズ」
 マクドナルドに飛び込むなり、入口の脇の席に座っていた津山にそう怒鳴られて、皆川政夫は首をすくめた。
 津山から社に電話があり、十いくつの資料を集めてN高校そばのマクドナルドまで持ってくるようにと言われたのはほんの一時間半前のことだ。
「先輩に言われた取材のテープ起こしだってまだ終わってなかったんですよ。それなのに、もう」
 思わず皆川が反論すると、
「おまえの仕事が遅いだけだろが。さっさとよこせ。おい、どこ行くんだよ」
「飲み物。注文してきます」
「あ、じゃあついでに俺のも。ダブルチーズバーガーとテリヤキバーガーとナゲット五個入りマスタードソース、アイスコーヒー。それとピクルス抜いてくれ。 憶えたか?」
 皆川は津山の前のトレイを見た。たっぷり二人前はあっただろうハンバーガーやポテトの紙ゴミが乗っている。
「なんだよ」
「まだ食べるんですか」
「うるせえ早く行け」
 皆川がハンバーガーや飲み物を満載したトレイを抱えてカウンターから戻ってきたとき、津山は皆川が持ってきた分厚い資料をぱらぱらと手早くめくってい た。皆川が席につくと、紙束の端をそろえて皆川に突っ返す。
「『月刊ミュージア』の九十六年分が丸々ねえな。あと、A新聞の二十二日夕刊が抜けてる」
「もう読んだんですか」
「当たり前だろが」
 出版社に就職して津山に出会うまでの皆川は、『速読術』というものをインチキ超能力の一種だと信じていた。
「『ミュージア』はバックナンバーが見当たりませんでした。問い合わせましたがあっちにも在庫がないとかで。A新聞は、そのう、すみません」
「使えねえな、ンとに」津山は盛大な音をたててコーヒーをストローですすり上げ、「まあいい。どう思った」
「は? なにがですか」
「これだよこれ。テープ起こしたのおまえだろが。生徒と先公が色々言ってンだろ」
「はあ、まあその」皆川はポテトを一本つまんで口に運んだ。「五人とも、わりとまともな生徒だったみたいですね。成績もいいし、非行歴も上原理久央以外は きれいなもんです」
「それだけかよ」
「あー、『ライカ』のファンだったのは確かみたいで。クラブ活動でも『ライカ』の曲ばっかりやっていたみたいですし。だからその、Keishiが死んだか らアレっていうのも」
「馬鹿かおまえは。なんだ、カリスマ歌手の追っかけ自殺だっつうヨタ話をおまえも信じてンのか?」
「でも、でも、先輩。民音部の一人は、志摩香織でしたっけ、実際に十月一日に自殺してるんですよ。それに、各地でKeishiの後追い自殺は実際に起きて いるんです送られてきた犯行声明にも、それっぽいことが書いてあったじゃないですか」
「そんな単純な話じゃねぇよ、これは」
 津山はペーパーナプキンで指についたケチャップを拭うと、胸ポケットから煙草を取りだして火を点けた。
「自殺ってのは楽な方にふらっと逃げることだぜ。わざわざTNT作って機動隊呼んで花火あげるなんてするわけねぇだろ。あの渡り廊下の爆破。ありゃ狙って やったんだ。もう十四人死んでるんだぜ」
「あ、爆弾はTNTだったんですか」
「なンだよ知らなかったのか」
「自分は先輩みたいにパイプがないんです」
「警察にコネつくる方法教えてやる。軽いゴタ起こして拘留くらえ。五回もやりゃあ顔見知りになる」
 皆川はため息をつくしかなかった。
「警察にはひとり知り合いいますけどね」
「なんだよ。初耳だぞ」
「高校出て以来、同窓会で一回会ったきり、って程度ですから」
 グズだな、と津山はお決まりの文句で皆川をなじり始めたので、あわてて話題を変えた。
「それで、中からはなにか言ってきてないんですか。要求とか」
「ねえな。それも妙なところだ。連中からの発言は、最初の声明のファクス、それから昨日、塔の入口に落ちていた、人質の肉声入りのテープと髪の毛。それっ きりだんまりだ」
「人質って、あいつらの知り合いでしょ?」
「そう。奥村夏美。飯岡秀樹、西山伸吾とは家が近いんで、小学校の頃からのつき合いらしいな。あと志摩香織もだ」
「人質って狂言なんじゃ」
「警察の考えじゃ五分五分。人を殺せる連中だってのはわかってるからな、下手に動けないだろ。でもまあ、俺に言わせりゃ百パー狂言だな」
「どうしてですか?」
「こいつらはそういうことをするやつらじゃねえ」
「はあ」
「身内だけのパーティに、ノリの悪いよそ者は入れたくねえだろ」
「先輩、まるで犯人に会ってきたみたいに言いますね」
「これから会いに行くんだよ」
 津山は煙草をアイスコーヒーの中に放り込んで、立ち上がった。皆川はかじりかけのハンバーガーをあわてて口に押し込んでオレンジジュースで流し込むと、 津山を追って店を出た。
「先輩、それってどういうことですか?」
「だから。連中に直で取材すンだよ。わかんねえことが多すぎる」
「どうやって?」
 津山は答えない。昼間だというのに人気のない商店街を、N高校と反対の方へと足早に歩く。
 バイパスと交わる十字路で、不意に津山は振り返った。小走りだった皆川は危うくぶつかりそうになって、のけぞりながら立ち止まった。
 津山は上着の内ポケットからくたびれた分厚い手帳を取り出すと、皆川に押しつけた。
「先輩? これ……」
「預かっとけ」
 それは津山がいつも携帯している取材メモ帳だった。
「ちょっと穴に潜ってくるからな。あー、編集長にはおまえがてきとうに説明しとけ」
「てきとう、って」
「てきとうだよ。俺は市役所に行くから。やるのは今夜だ。イケたらおまえの携帯につなぐから、レコーダー用意しとけ」
 皆川が言葉を返す前に、津山は赤信号を駆けて渡った。大型トラックがクラクションを鳴らしながら走りすぎていった後には、もうその後ろ姿は見えなかっ た。

       *

 真夜中の『科学棟』はタールのような闇が充満していた。
 地下のボイラー室の最奥にマンホールがあり、そのふたが小刻みに音をたてていた。やがて、ごりっ、と大きな音がして、ふたがわずかに浮き上がり、少し間 を置いてから大きく開いた。
 津山は両腕を突っ張ってマンホールから身体を引き抜いた。ずぶ濡れになったレインコートを脱ぎ捨てる。清浄な空気の中に出てみると、自分の身体がひどい 異臭にまみれているのがよくわかった。顔をしかめてポケットからペンライトを取りだし、光でまわりの暗闇をさっとなで斬ってから手早く消した。出入り口は 開いていた。
 津山が歩き出したその瞬間、不意にボイラータンクのかげからなにかが飛び出してきた。声をあげる間もなかった。激しい火花が刹那、暗闇をはじき飛ばし、 津山は倒れた。

       *

 意識を取り戻したとき、まず津山が感じたのは、高い崖から放り出されて落ちていくときのような身のすくむ感覚だった。手足を振り回してもがこうとした。 でもその手足がなかった。
 津山は頭を起こした。平衡感覚が、頭痛といっしょにじわりじわりと戻ってくる。自分の身体は床に横たえられているのがわかった。手足がしびれていて、四 本とも爪楊枝くらいの細さになってしまったような感覚だ。
 目の焦点が合う。暗い部屋だが、天井があるのがわかる。窓から外の明かりが少しは入ってきているのだろう。
 と、だれかの頭がにゅっと出てきて津山の顔をのぞきこんだ。
「あ、起きた」
 女の子だった。色黒で、眉は細く、暗いので何色かわからないが髪を染めているのは確かだ。
 津山は身体を起こそうとしたが、力がまったく入らない。
「動けないと思うから。無理しない方がいいよ」
 とその女の子が言った。足音が聞こえて、もうひとりの人影が現れた。
「あ、ミッキ。おっさん起きたみたい」
「へえ。早いね。あのスタンガン、西山が改造したやつだから、半日は寝てるはずなんだけど」とその少年は答えた。
「でもこのおっさん、面の皮厚そうだよ」
「なるほど」
 少年もかがみこんだ。目の前の顔がふたつ並ぶ。津山はなにか言おうとして口を開いたが、舌が動かなかった。とぎれとぎれのうめき声しか出てこない。
「ああ、喋らない方がいいよ」と少年が言って、津山の額をおさえて頭を床に押しつけた。
「意識は大丈夫なのかな」と、津山にVサインを突きつけ、「これ、何本に見える? 二本に見えたらうなずいて。三本に見えたら首振って」
 津山は苦労して首を縦に何ミリか動かした。
 少年は立ち上がった。
「秀樹を呼んでくるよ」
 女の子はうなずいて、
「足もしばっといた方がいいかな」と訊いた。
「そうだね」少年は答え、津山の視界から消えた。ようやく自分の手が背中に回されて縛られていることに津山は気づいた。
 五分ほどして、懐中電灯の明かりが部屋に入ってきた。さっき出ていった少年ではなかった。背丈はあるほうだが体つきは華奢で、日本人離れした白い肌の少 年だった。これが飯岡秀樹だろう、と津山は思った。写真を見たのだ。そばについている女の子は阿久津桐花だ。出ていった少年はミッキと呼ばれていたから、 あれがおそらく三木俊平。
 人質の奥村夏美の姿が見られないのが残念だった。狂言だという直観の確信がほしかったのだが。
 飯岡秀樹がかがみこんだ。青白く生気のない顔が、津山の胸のすぐ上にある。
「あんたが警察の人じゃなくてよかった。週刊Gの、えーと……津山さん」
 秀樹が指の間でくるくる回しているのが自分の名刺だと津山は気づいた。
「よく下水道なんて思いついたね」
「子供心を忘れないたちでね」
 皮肉のつもりで津山は言った。舌の麻痺はほとんどなくなっていた。秀樹は薄く笑うと、キリカに耳打ちした。
「やっぱりマンホールはふさいじゃおう。警察だって気づくだろうし」
 それから津山の名刺を握りつぶすと、机の上に放った。
「で。津山さんはなにをしに来たのかな」
「仕事だよ」
「取材に来たってこと?」
 キリカが身を乗り出して嬉しそうに言った。「ねえ、ここのこと、すごいニュースになってる?」
「キリカ。声大きいよ」
「もちろん」津山はうなずいた。少女が顔を輝かせるのを見て、なんて無邪気にはしゃぐのだろうと思った。どこにでもいそうな、普通の高校生だ。どうしてこ んな子供たちが、爆弾を作り、学校にたてこもり、警察を罠にかけて何十人も殺したりできるのだろう。
「君たちの事件は大手三紙とも三日連続で五段記事だよ。未成年だから名前は出てないけどね」
「だってさ! 秀樹」
 キリカは秀樹の肩をばんばん叩いた。
「ちょっとキリカ静かにしてて。それで? 津山さん。なにを訊きたいのかな」
「色々とあるけどね。君たちの考えていること。これを始めた動機。目的」
「なんでこんなことを始めたのか、ってこと?」秀樹は言いながら、机の上に腰をのせた。
「さあ、ねえ。はっきりとは答えられないんだよ。声明文は読んだんでしょ?」
 津山はうなずいた。
「書いてある通りだよ、だいたい。もう、生きてる必要がほとんどなくなったから、あとはやり残したことをやってるだけで」
「やり残したこと?」
「戦争」
 秀樹は窓の向こうをじっと見つめていた。津山はもっと突っ込んで質問しようとしたが、思いとどまった。多分無駄だろう。こういう目をしてこういうしゃべ り方をする人種に、津山は何度か対話を試みた経験があったが、彼らは自分が話すべきでないと信じていることは絶対に口に出さない。
「君も同じ理由?」
 すぐそばにしゃがみこんでいたキリカに話を振ってみる。キリカは少しびっくりした顔を見せ、それから戸惑って上目遣いになった。
「そうね……。あたしは、ただ秀樹についていってるだけだし。うちのバンドのリーダーだから」
 こちらは茶化して言っていることがすぐに分かった。本当の理由はもっと他にあるのだろう。けれど津川は質問をかえた。
「いつまで続けるつもりだい? どこまでやったら目的達成なんだ?」
 秀樹は笑って手を振った。
「全人類に謝ってもらうまでだよ。香織の前で」それから彼はまた視線を窓の外に投げた。「まあ、月末まではやろうと思ってるよ。三十一日は……ハロウィン だし」
「ハロウィン?」津山は訊き返した。
「トリック・オア・トリート」秀樹はつぶやいた。
「そんなところだろ」
 不意に、後ろから声がした。首をねじって見ると、背後の棚のすぐ脇にドアが一つあり、中から一人の少年が出てきたのが分かった。
 髪が短く、上背の秀樹よりもさらに背が高い。青と茶色の縞模様の入った半袖のシャツを着ており、肩幅が広く、よく日焼けした少年だった。
 彼は手を伸ばすと、津山の胸元や腹をごそごそとさぐり、脇の下の肌着の裏に隠してあった携帯電話をあっという間に見つけだした。通話状態になっている。
「うまいもんだ」
 秀樹は言った。津山は薄笑いを浮かべるしかなかった。
「人質が増えたね」
 キリカが素っ気なく言う。
「いいから。マンホールふさいできてよ」
 秀樹はそう言って親指でキリカをせっついた。彼女は下唇を突き出すと、ぱたぱたと足音をたてて部屋を出ていった。
「おい、おっさん」
 津山はつばを呑み込んで、ほとんど真上にあるリクオの顔を見上げた。
「こんなところに一人で忍び込んだら、どうなるか分かんねえのかな」
 津山はなんと答えていいか分からなかった。舌の根もとが乾き、ひりひりと痛んだ。
「俺達が何もしないと思ったのかな。生きて帰れて、立派な記事を書けて、賞でももらえると思ったのかな」
 リクオは津山の真正面に向き合うようにして膝を折った。津山は目を見開き、叫び声をあげようとした。リクオはその口を手でふさいだ。津山の頭は後ろの棚 に叩きつけられる。
「秀樹。その携帯持っててくれ。音がよく聞こえるようにさ」
 秀樹は無造作に携帯電話を受け取ると、自分も津山のひざのあたりにしゃがんだ。リクオはベルトから拳銃を抜くと、津山の胸の真ん中に銃口を押しつけた。

       *

 津山の叫び声は喉の奥で血だまりに飲み込まれた。顎が痙攣し、半分開かれた口の両端から黒くどろりとしたものがあふれ出た。そして白目をむき、前のめり に倒れた。
 どす黒いしみが、ゆっくりと男の腰のまわりから床の上に広がっていく。秀樹はその様をしばらく見つめていた。
「――リクオ」
 秀樹はやっとのことで口を開いた。
「あっさり死ぬもんだね」
 リクオは銃を握った手をおろした。肩から肘にかけての筋肉が、小刻みに震えていた。
「当たり前じゃんか」
 リクオの声はかすれていて、ほとんど聞き取れなかった。







 ・10月28日


 常緑樹の並木が続く広い車道の脇に、車が停まった。運転席から降りた大島尚子は、助手席のドアを開けようとした柿沼繁夫を止めた。
「柿沼さんはここで待っていてください。私ひとりで行きますから」
「おい。なに言ってンだよ」
「だって、この間は柿沼さんと稲賀崎さんで来て、おびえてなにも話してくれなかったんでしょ?」
 尚子はドアを閉めると、開いた窓から中に顔を入れていたずらっぽく言った。
「柿沼さん、顔怖いですから。いかにも刑事ーっ、って感じで。それじゃ普通の人は引いちゃいますよ」
「ば、馬鹿野郎。だからっておまえ」
「お願いですから。ね」
 尚子は柿沼を言いくるめると、つつじの植え込みを飛び越えて歩道に入り、坂をのぼり始めた。左手は芝生を植えた急な斜面が壁のようになっており、その上 には背の高い集合住宅が何棟も整列していた。
 階段を上り、駐車場を抜けて、大きな円形の広場に出る。手帳にメモした住所と、広場の掲示板にあった団地案内図を見比べ、尚子はようやく飯岡秀樹の家を 見つけた。
 団地にはエレベーターがなかった。階段を八階ぶん上ると、十月も終わりというのに身体が火照ってきて、尚子は『飯岡』と表札の出た玄関の前でコートを脱 いだ。
 インタフォンを押す。
 一分ほど待ったが返事がない。
 もう一度押してみる。やはり返事がない。
 署を出る前に電話したのだから、いないはずがなかった。おそらくは――。
「飯岡さん。先ほどお電話しました大島です。いらっしゃいませんか」
 ややあって、扉の向こうで人の気配がした。ノブが回り、玄関が小さく開いて、くたびれきった女性の顔が現れる。尚子は頭を下げた。
「C市警察署の大島です。はじめまして」
 それから警察手帳を見せる。わざわざドアを開く前に名のったのは、安心させるためだった。飯岡秀樹の母親、飯岡喜美子は、連日のマスコミ取材攻勢や、心 ないいたずら電話などで神経をすり減らしているのだろう、目は充血し、黒々とくまができていた。
「あがらせていただいて、よろしいですか?」
 喜美子はうなずくと、玄関のチェーンをはずして、尚子を居間に通した。
「お茶でよろしいですか」と台所に行きかけたので、
「あ、どうぞおかまいなく。それより、さっそくですが、秀樹君のことについておうかがいしたいのですけれど」と尚子は言った。
 喜美子は沈痛な面もちで、食卓をはさんで尚子と向かい合って座った。
 尚子はほんの数秒、この目の前の中年女性を観察した。息子である秀樹とは、色白であることを別にすればあまり似ていない。写真で見た飯岡秀樹は、いかに も活動的で利発そうな鋭い目を持った好少年だったが、この母親は、くしゃくしゃに使い古された雑巾を思わせるほど、疲れ切っていてしわだらけだった。
 それに、非常に神経質そうだ。家の中が不気味なくらい丁寧に整理整頓されている。テーブルの脚は床のタイルの境目に正確に合わせて置かれ、かすみ草を生 けたコップはそのテーブルの角からきっかり四十五度二十五センチ離れたところに置いてあった。束ねられたカーテンのしわは櫛で梳いたように揃っていたし、 棚の中の食器は大きいもの順にきれいに右から陳列され、マグカップの絵柄は全て手前を向いていた。尚子は目まいすら覚えた。
「何度もうかがったお話ですが、まず、秀樹君のここ数週間の様子から、もう一度思い出していただきたいのですが。何かおかしなところはありませんでした か?」
 尚子は、まずはとっくに聞き出している情報の確認を一つずつ済ませていった。
 事件の前の一週間ほどは毎日帰りが遅かった。
 また、貯金をまとめておろしていた。
 事件当日は、テストが近いから朝から学校で勉強すると言って朝五時過ぎに家を出た。聞いていた話と食い違いはない。
「朝早く学校に行って勉強ですか。いつもテスト近くなるとそういうことをするような勉強熱心なお子さんだったんですか?」
「あ、はい。いえ、家ではほとんど勉強していなかったのですが、学校で予習や復習をしていたようで、成績はそれほど悪くはなかったみたいです」
 尚子はおや、と思った。喜美子の口調が軽くなったのだ。
「N高といえば都立トップレベルですけれど、第一志望だったんですか?」と尚子は訊ねてみた。喜美子は顔をあげ、その日はじめて尚子の目を見て答えた。
「ええ。いえ、第一志望というか、あの子は滑り止めなしで受けたんです。私は心配だったので私立の併願をすすめたんですけれど。ねえ」
 なるほど。キィワードは学校の成績か。
「中学校の頃はどんなお子さんでした? やっぱり成績はよかったんですか?」
 尚子は注意深く話題を過去へ過去へとシフトさせていった。中学校。小学校。喜美子が具体的に答えるのはテストの点数や成績表のことばかりだった。話はつ いに秀樹が二歳だった時にまで到達した。
「離婚されたのは、秀樹君が二歳の時でしたね」
 喜美子は急に口ごもった。そしてうなずいた。
「秀樹君に、その、離婚という概念みたいなものを正確に教えたのはいつごろでしょうか。父親がいない本当の理由を」
「小学校にあがってすぐ……だったと思います。それまでは、仕事で遠くに行っているのだ、と」
「五つ上のお兄さんがいましたね。こちらは父親方に引き取られたということですが」
「ええ、あの人も子供を手放したくないと強く言いまして、特にあの人の母親がしつこく孫は自分が預かるということを言ってきましたので、折れてしまったん です。今思えば……やっぱり、兄弟引き離すべきではありませんでした」
 尚子は内心、まずい話題を出してしまったなと思いながらも質問を続けた。
「お兄さんがいないことで特別寂しがったりはしたんでしょうか」
「はい、最初の頃は。でもそのうちに直樹のことは口にしなくなりました。物心つく前でしたので……」
 喜美子はそれっきり黙り込んだ。あからさまに、秀樹の兄のことに触れたくないような口振りだった。尚子は仕方なく話題をかえた。

               *

 母親の許可を得て、尚子は秀樹の部屋に入った。
 奇妙な部屋だった。
 尚子は高校生の頃、何度か男友達の部屋に入ったこともあり、刑事になってからも数回、この年頃の男の子の部屋を見る機会があった。でも、秀樹の部屋はそ のどれとも違っていた。
 きれい過ぎる、と、まず尚子は思った。念のために母親に確認したが、片づけたりはしておらず、彼が二十一日の朝に出ていったままだという。
 六畳ほどの部屋で、床は毛足の短い絨毯敷だ。ベッドが右側にあり、左手の壁には押入がある。入り口正面には窓、そのすぐ横には天井までの高さの大きな本 棚が置いてある。本棚の下半分は棚板が取り払われていて、ステレオアンプやスピーカー、ギターのアンプ、その他見たこともないようなオーディオ機器が積み 重ねられていた。
 ベッドの上には、エレクトリックギターが無造作に寝転がっている。深いワインレッドのボディに、油性ペンで誰かのサインがしてある。
「K…e…ish…i。橘啓司のだ。直筆?」
 奇妙なギターだった。なにせ間近でギターを見る機会などなかったので、尚子は最初それがなぜなのかわからなかった。いちばん細い弦を指で弾くと、柔らか い音が鳴った。
 そうか。ようやく尚子は気づいた。そのギターには、弦を渡した首の部分の板にあるべき金属の区切りがひとつもなかった。まるでヴァイオリンみたいだ。
 尚子は部屋を見回した。あるべき様々なものが欠けている。
 勉強机がない。それがまず、この部屋の違和感の一因だった。机らしきものと言えば、窓の下にあるコーヒーテーブルみたいな一本足机だけだ。
 テレビもない。ゲーム機の類もない。壁にはポスターの一枚も貼っていない。本棚に並んでいるのは楽譜と音楽雑誌ばかりで、漫画の一冊すら見あたらない。 交響楽の総譜、洋楽のバンドスコア、ピアノ曲集、そしてもちろん『ライカ』の楽譜もある。全部で二百冊はあるだろうか。でも音楽関係以外の本や雑誌は一切 置いていない。異常だ。
 今まで回ってきた、三木俊平や上原理久央の部屋にも同様の傾向が見られたが、ここは最も極端だった。とても人間の生活できる空間とは思えない。
 積み重ねられた音響装置の一番上に、見慣れないテーブル型のテープレコーダーが置いてあった。スライダーやつまみがパネルの上にずらりと並んでいる。 テープが中に入ったままだ。尚子は苦労して電源を探り当てスイッチを入れると、そのテープを再生してみた。
 しばらく、ホワイトノイズが続いた。尚子は本棚からてきとうに楽譜を一冊抜き取って、ぱらぱらと開いて眺めた。五線譜やおたまじゃくしを見るのなんて高 校以来だ。
 ぷちっとノイズが弾け、柔らかなクリーントーンのギターのアルペジオが部屋の中に流れ出した。
 やがて、少年の歌声。
 尚子の手から楽譜がすべり落ちた。
 それは不思議な声だった。幼く、細く、頼りない子供の声。ただ、千年に一度だけ砂漠を濡らす静かな雨のような、確かな意志を持った歌声だった。
 それは不思議な歌だった。単純な旋律のように聞こえたが、それでいて音の連なりをたどろうとすると、手を差し伸べたほんの数センチ先をいつもその旋律は 漂っていて、触れることは永遠にできないような気がした。
 尚子の中からなにかがこみ上げてきた。
 不意の衝撃で、それを包んでいた甲殻は泡のように弾けて消え、それは潜在意識の深海に解き放たれた。それは海面の光を求めて歓呼の声をあげ、螺旋を描き ながら浮かび上がり始めた。それは遙かな過去に、彼女自身が切り離し、黒い布にくるんで深淵の底に沈めたはずの何かだった。痛ましい記憶であり、幼い欲望 であり、焼け付くばかりに甘美な憧憬だった。彼女は思わず身震いし、膝を折ってベッドの枠にしがみついた。
「……ぅく……は…ッ……」
 声に出したら、なにか叫びだしてしまいそうで、尚子は必死にこらえた。
「どうかされましたか」
 喜美子の声がした。尚子ははっとして目を開けた。いつの間にかこめかみが痛むほど強くまぶたを閉じていたのだ。
 部屋の入口から喜美子はこわごわと半分だけ顔をのぞかせていた。
 イメージの奔流は、まったく消えていた。ゆったりと単調なギターのストロークと少年の歌声は、まだ続いている。尚子は顔を赤くしながら、あわてて立ち上 がってスカートの裾を直した。
「なんでもありません、ごめんなさい。――これは、秀樹君が歌っているんでしょうか?」
「ええ、秀樹の……声です」
 尚子はしばらく、窓の外の雑木林の暗がりに視線をさまよわせながら、その歌声に聴き入った。すぐそこのベッドに秀樹が腰掛け、ギターを膝に乗せてつま弾 きながら歌っているような気がした。

       *

 尚子が車に戻ると、柿沼は読んでいた写真週刊誌から顔を上げた。
「なんだおまえ。嬉しそうな顔しやがって。なんかでかい収穫でもあったのか」
「え? そう見えますか? 別に、調書通りのことしか話してくれませんでしたよ」
 尚子は運転席に腰を下ろすと、コートを後部座席に放り投げた。
「めずらしいですね、柿沼さんがその手の週刊誌読んでるなんて。こういう娘が好みなんですか?」
 と、表紙の下着姿のグラヴィアを指差す。
「馬鹿。そうじゃねえ。この記事だよ」
 柿沼が広げて見せた見開きには、
『N高立てこもりテロ・単独潜入した本誌記者殺害される!』
 という見出しが踊っていた。
「ああ、これ」
 と尚子は鼻で笑って、シートベルトをしめ、エンジンをかけた。
「発行差し止めになったんですよね?」
「今朝、回収されたはずだ」
「馬鹿なことしてくれましたね。週刊誌の記者ってみんなこんなに考え無しばっかりなのかな」
「週刊Gの編集部は、この記者は以前から暴走して強引な取材をやる傾向があって、今回も独断専行だったと言っているがな」
「言い訳でしょ、そんなの」
 さらりと言って、尚子は車を発進させた。窓の外の並木が流れ始め、車は急な坂を下っていく。
「週刊Gでしたよね? 私、そこの編集部に知り合いひとりいますよ。高校の同級生で、半年くらい前に同窓会で久しぶりにあったんだけど。記者なんてみんな 犯罪者だって言ってましたよ」
「ふむ」柿沼は曖昧に答えた。
 車は坂を下り終え、国道に入った。
「その記者。四階から投げ落とされたんでしたっけ」
「ああ。殺されてからな。死因は心臓へ一発、だ。夜中の二時に現場の人間が銃声を聞いている」
「言い訳のしようもないですね」
「ないな」
 尚子は、柿沼にもあのテープを聴かせようと思ったが、そう言えばこの車のカセットデッキはちょうど故障中だったと思い出した。どうしよう。また聴きた い。だれかに聴かせたい。

       *

 C駅前のロータリーで尚子は車を停めた。
「おい。こんなとこで停まってどうすんだ。トイレか?」
「ちがいますよ。私、寄るところがあるんで、すみませんけど先に署に戻っててくれますか」
「は? なんだそりゃ。おい大島」
 尚子はさっさとシートベルトを外してドアを開けた。
「私の友達に、音楽に詳しいやつがいるんで。そっち方面からの専門家の意見を聞いてきます」
「大島! てめえいつも勝手なこと……」
「二時間で戻りますからっ!」
 尚子は車を降りると車道を突っ切って駅の切符売り場に駆け込んだ。振り向くと、柿沼の車の後ろでタクシーが立ち往生し、クラクションを連打している。い まいましそうな顔をして運転席に乗り換える柿沼に手を振ると、尚子は切符を買って改札を抜けた。上り路線に急行が駆け込んでくるところだった。
 C駅から急行で一駅のところで尚子は降りた。駅前には三階建てのスーパーや新築のマンションが並んでいるが、駅から二百メートルほども離れれば、たちま ち畑が広がり木造の古い家屋が点在する田舎になる。背の高い建物がほとんどないので、南の方にあるN高校の校舎が小さく見える。
 駅から出てすぐに電話をかけた。
「あ、淳君? 私、大島。そう。久しぶり。でもないか。うん、うん。ちょっと頼みたいことがあってね。ああうん、まあ、仕事関係かな。うん。実は今、H駅 で降りたところ。うん。今からそっち行ってもいい? 迷惑じゃない? うん。じゃあ」
 そのアパートは、小さな竹やぶの裏にあった。尚子はトタン屋根のついた階段をのぼった。一段ごとに建物全体が泣き叫んでいるみたいに軋む階段だった。 『井崎』と表札のある208号室のドアをノックする。呼び鈴すらついていない。ドアノブはもげかかっている。
 しばらくして、中から「どうぞー入っていいよー」と男の声がした。尚子はやれやれと首を振って、ドアを引いた。
 入ってすぐは台所になっていて、床には空のペットボトルや牛乳パックが林をつくり、流しには汚れた食器が山積みされていた。おまけにかび臭い。尚子はつ ま先立ちで奥の部屋まで歩いた。
 戸を開けると、部屋の真ん中に座っていた井崎淳が振り向いて、
「や、や、大島さん」と笑った。ヘッドフォンを首にかけ、肩がほとんど露出するくらい襟の広がってしまったよれよれのTシャツを着ている。下半身は、床に 散乱した大量の五線譜に埋もれている。
「いつ来ても、足の踏み場もないね、この部屋は……」
 尚子は部屋を見回した。壁には色とりどりのギターが五本も吊され、右手の壁際にはキーボードが三段重ねでラックを占領し、天井につっかえそうな本棚には 楽譜や音楽雑誌がぎっしり並び、入りきらない楽譜が床やベッドの上にあふれている。
 飯島秀樹の部屋とは、なにかが決定的に違っていた。尚子は、この部屋で淳が眠ったり、食事をしたり、床の紙に足を滑らせて転んだり、CDの収納場所に悩 んだりするところを簡単に想像できた。
「あ、ちょ、ちょっと待って、今片づけるから」
 淳は楽譜をまとめてベッドに投げ、半畳ぶんのスペースをつくった。ベッドの下から、紙みたいに薄い座布団を出してきて尚子にすすめる。
「淳くん、最近はなんの仕事してるの?」
「え? あ、あ」
 淳はベッドに腰を下ろすと、足をばたばたさせて言い淀んだ。
「……ごめん、訊いた私が悪かった」
「ライヴハウスに行ったりするとさ、よく女の人が声かけてきて。たまにお金くれたり」
「いつかあんたが刺されることになったら、私ら警察が困るから、ちゃんと関係した女の人は名前訊いてメモっときなさいよ」
「う、うん。わかった。そうする」
 真面目に受け答えされたのがおかしくて、尚子は噴き出してしまう。高校のころにはまるで小学生みたいに見えた淳は、二十六歳の今になってようやく高校生 なみの外見になっている。なにかくすぐられてしまう女性が多いのもわかる気がした。
「あの、それで、頼みたいことって?」
「そうそう。これ」
 尚子はハンドバッグからカセットテープを取りだした。
「聴いてみて」
 淳は首を傾げながらテープを受け取ると、デッキに入れて再生ボタンを押した。腰の高さくらいまである巨大なスピーカーから、やがてギターの音が流れ出 す。
 一コーラス目が終わったあたりだった。淳の背中が小刻みに震えていることに尚子は気づいた。それから、秀樹の歌声に混じって、むせるような音が聞こえ た。
「淳君? どうしたの?」
 聞こえていないようだった。尚子は淳の肩をつかんで、振り向かせた。淳の顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「う、ぅ……」
「やだ、ちょっと大丈夫?」
 尚子はテープを止めようとした。その手首を、淳がつかんだ。驚いて淳の顔を見ると、淳は唇をわななかせながら小さく首を振る。
「とめ……ないで……」
 最後の和音が溶けて消えてしまうまで、淳は尚子の手をつかみ、胸に顔を埋めながら泣き続けた。テープが回りきり、音を立てて止まると、淳は尚子から身体 を離し、立ち上がって台所に行った。顔を洗って戻ってきた後、「ごめん」とつぶやく。
「ううん。気にしないで。私も最初聴いたとき、そうなったから」
 ここまですごくなかったけど、と胸の内で尚子は付け加える。
「――なんなのかしら、この歌」
 まだ苦しそうな淳の背中をさすりながら、尚子はつぶやいた。淳は巻き戻しのボタンを押す。
「また聴くの?」
「うん」
「やめといたら」
「大丈夫だよ、多分」
 大丈夫ではなかった。淳はまた目を真っ赤にしてしがみついてきた。尚子も思わずその細い肩を抱き返したくなった。巻ききったテープが停止音をたてるま で、歌が終わったことにも気づかなかった。
「ごめん、大島さん……」
 顔を真っ赤にしながら淳は後ずさる。尚子も、淳の顔をまともに見られない。
「これ、歌ってるのだれ?」
「んー……」
 警察としては飯岡秀樹の名前を出すわけにもいかないし、N高校事件との関連すら知らせてはいけないだろう。尚子は少し悩んだ。しかし淳はあまり気にして いない様子で、続けて訊いてきた。
「それで、この曲がなに?」
 尚子はまた黙り込んでしまう。
 自分はなぜ淳にこの曲を聴かせようと思ったのか。淳ならなにをわかってくれると思ったのか。
「なにか――あると思うの、この歌には。出所はちょっと言えないんだけど、でも、淳君ならなにかわかるんじゃないかと思って、あー、その、ごめん、なんか 私言ってることめちゃくちゃだね」
「MDにダビングしてもいいかな」
「え? ああ、うん、もちろん」
 MDに録音しながら、二人は三度目を聴くことになった。淳は枕に爪をたててこらえていた。
「詳しく調べてみる。なにかわかったら、電話するよ」
 カセットを返しながら淳は言った。
「うん。ありがと。私の携帯番号、知ってるっけ?」
「あ、こないだ教えてもらった……けど、なくしちゃった」
 尚子はMDのラベルに携帯の番号を書いて渡した。
「じゃあ、お願い」
「うん。……ありがと、大島さん」
「……なにが?」
 淳は笑って首を振っただけだった。

       *

 アパートを出たところで尚子は、カセットテープのケースを取りだし、裏のインデックスをもう一度確認した。
『ラストハロウィン
 作詞/志摩香織
 作曲/飯岡秀樹』
 志摩香織。
 十月のはじめに、屋上から飛び降りた少女。
 ふと、あの曲のイントロがかすかに聞こえた。淳がまた聴いているのだろう。外にまで漏れて聞こえるのだから、かなりの大音量だ。尚子は唐突に、淳の部屋 に戻りたくなった。あの曲をオートリピートで際限なく一日中聴いていたくなった。
 尚子は頭を振って耳をふさぐと、アパートに背を向け、駅の方へと走り出した。







 ・10月29日


 きいいん、と、化学室の窓の外から耳障りな甲高い音が聞こえた。スピーカーのハウリング音だ。ミッキは食べかけだったレトルトのパスタを置いて立ち上 がった。リクオは銃を手にして窓際に駆け寄り、カーテンを少しずらした。予想以上に強い陽光に目がくらむ。
 科学棟を取り巻く警察機動隊の輪の中に、昨日まで見かけない男女がいた。女性の方がハンドスピーカーの取り外し式マイクを片手になにかをがなりたて、男 性はラッパ型の拡声器の方を小脇に抱えている。
「おい、ミッキ。あれ、おまえの親じゃねえか」
「え。どれ」
 ミッキも隣にやってきて、カーテンをたぐり、窓ガラスに顔を押しつけて地上を見る。
「ほんとだ。あっちにいるの、西山とかリクオのお父さんじゃない?」
 ミッキが指差した方、校門前に設営されたテントのそばで、明らかに警察関係者ではない私服の人間が四五人、制服姿の警官となにか話し込んでいる。
「なるほど。そういえば、この手で来たか。今さらなのが不思議なくらいだね。『ご両親はクサバのカゲで泣いているぞ……』」
 リクオは目を細めて地上を見下ろす。自分の親は両方とも来ている。秀樹の親はいない。確か母子家庭だった。夏美の親も見えない。表向きは被害者だからだ ろうか。
「なるほど」
「なに?」
「いや。俺ら、とっくに世界を三つ四つ壊してたんだな、と。家族ってやつ」
「ああ」ミッキは窓から顔を離すと、肩をすくめた。「オードヴルみたいなもんでしょ」
「それより、ミッキ。おまえの親さあ」
 リクオは、スピーカーの二人を指差す。
「あの場所、踏んづけてるぜ」
 ミッキはもう一度カーテンに頭を突っ込んだ。両親が立っているのは校舎のすぐ脇のコンクリートの床で、そこにはまだ、二十四日前に染みついた血痕が黒く 残っていた。
 香織が墜ちた場所。
 ミッキは実験器具の棚のひとつに歩み寄ると、機動隊から奪ったガス筒――いわゆるガス銃――を取りだした。さらに、床のダンボールから細い紙包みを取り だして、ガス筒の中折れ式の銃身に詰め込む。
「リクオ。みっつ数えたら窓開けて」
「なにするんだよ」
「黙らせる」
「おまえ、それ、西山がてきとうに改造した銃だろ。暴発するんじゃねえか」
「それならそれでいいじゃない。……一」
 ミッキは窓に近寄って、脇にガス銃を固定して構えた。
「二」
 リクオは窓枠に手をかけて後ずさった。
「三」
 リクオは手を引いた。開け放たれた窓から、ミッキの母親の歪んだ声が吹き込んでくる。『……んなことしたって何にもならないでしょう、何か言いたいこと があるなら暴力じゃな……』
 空気が弾け、ミッキの身体が反動でのけぞった。弾丸は乾いた摩擦音の尾を引きながら、わめきたてるスピーカーの口に向かってまっすぐ落ちていった。リク オは無意識に目をそらした。
 重い爆発音が轟き、カーテンが舞い上がった。窓ガラスが一斉にびりびりと震える。濃い粉塵の塊が四階の窓に届くほどの高さまで立ち上がる。金切り声、怒 号がそれに続く。リクオは立ちすくむミッキを押しのけると、窓を叩きつけるように閉めた。
 ミッキの腰のトランシーバーが鳴る。
『化学室? 今のはなに?』
 秀樹の声を無視し、ミッキはトランシーバーの電源を落とした。窓ガラスに額をつけて、爆心地を見下ろす。
 コンクリートの上に、放射状に黒と赤とがぶちまけられていた。絵の具を床に叩き付けたように。そしてその中心付近には、何か雑多な物が入り混じった醜い 塊が分散してこびりついているのが見えた。黒く焦げ、くすぶりながら煙を上げている。
 紺色の人垣は乱れ、幾人かは地面に倒れている。警官のうちの数人が、こちらを見上げて何かを怒鳴った。
 リクオはカーテンを引いた。だらんとおろされたミッキの手からガス銃を取ろうとして、ふと気づき、表情を硬くした。
 ミッキは笑っていた。
 肩を震わせ、口元を手でおさえ、声を漏らしてミッキはしばらく笑い続けた。リクオの視線に気づき、顔を手のひらで覆うが、それでも笑うのをやめない。
「……おまえ、なんか変わったな」
「そう?」
 ミッキは棚にガス銃を投げ込むと、冷めてしまったパスタにまたとりかかった。リクオも、半分残った辛子マヨネーズ味のポテトチップスを取り上げる。
「香織が自殺してからだよな。おまえも」
「なに、それ。おまえも、って」
「秀樹とか西山はさ。笑っちゃうくらい落ち込んでよ。でもおまえは、べつに香織のことはなんとも思ってないように見えたけど」
「なんとも思ってなきゃ、こんなとこにいないよ」
 ミッキは空になった紙皿をゴミ袋に投げ込むと、口の端についたミートソースを指でぬぐった。
「そりゃそうだ」
「それに。香織は自殺したんじゃないよ」
 ミッキは自分の銃のシリンダーを押し出して弾丸を確認し、またベルトに戻した。
「殺されたんだ。秀樹に」
 ばり、と音がした。リクオは驚いて自分の手元を見た。無意識に、ポテトチップスを袋ごと握りつぶしていた。ジーンズの太ももにきつね色の破片がこぼれて いる。
「笑えねえよ、それ」
「だって笑い話じゃないし」
 ミッキは烏龍茶を飲み干すと、空になったペットボトルもゴミ袋に投げ込んだ。鈍く虚ろな音が響き、やがて遠くから聞こえてきたサイレンの音に混じる。

       *

『……んなところに一人で忍び込んだら、どうなるか分かんねえのかな』

『俺達が何もしないと思ったのかな。生きて帰れて、立派な記事を書けて、賞でももらえると思ったのかな』

『秀樹。その携帯持っててくれ。音がよく聞こえるようにさ』

 それから、銃声が耳に突き刺さる。

 何度も聴いたテープだった。皆川はイヤフォンをはずすと、ウォークマンをポケットにしまった。冷めたコーヒーを一口飲んでから、テーブルの上に広げた資 料や原稿をまとめて鞄に入れ、席を立つ。
 喫茶店を出ると、あたりはもうだいぶ暗くなっていた。十月の日は短い。暗いピンクと灰色のタイルが市松模様に敷き詰められた歩道を、駅とは反対の方へと 歩き出す。
 歩道橋を渡ると、大きな街路樹が続く上り坂に入る。新築の分譲住宅が整然と両手に並んでいる。どの家もまったく同じ外観をしているので、めまいがした。
 歩きながら、もう何度読み返したかしれない手帳をまた取りだして開く。津山から、殺される前日に託された取材手帳だ。
 なにしろどこまで行っても同じ景色ばかり続くので、一ブロック歩くごとに手帳の住所を確認する。二十分ほど歩いて、目的の家の前に到着した。表札には 『志摩』とある。狭い庭と、半地下の車庫のついた、ごく平均的な二階建ての家だ。
 インターフォンを押そうとして、やめる。
「なにやってんだろうな、俺」
 この家は今やだれも住んでいないのだ。志摩香織が中学生にして独り暮らしをしていたと津山の手帳で知ったときは、皆川もずいぶん驚いたものだ。
「津山さんならなあ。当たり前みたいな顔してずかずか入り込むんだろうけど」
 門に手をかけて、皆川はしばらくためらう。
 ここで立ちつくして独り言をぶつぶつ言っていたら、それこそ通報されかねない。そう思い、門を引いて庭に入った。
 玄関の前で立ち止まる。
 なんで俺はここに来たんだろう。あの高校生たちについても、『ライカ』についても、志摩香織についても、なにも知らない。ただ、津山の手帳に頻繁に名前 が出てきたから、ここに来ればなにかがわかるかもしれないと、単純に考えただけだ。
「ガキか俺は。これじゃ仕事さぼってるのと変わらないじゃないか。中に入れるわけでもないし……」
 なにげなくノブを回してみた。がちゃり、とドアは手前に少し開いた。皆川はノブから手を離して飛び退いてしまった。まさか開いているとは思わなかったの だ。
 もう一度、おそるおそるノブに手を伸ばしたとき、ドアが大きく開いた。中から女性が顔を出す。
「どなたですか? この家は今……」
「お、大島?」
 皆川の声は裏返っていた。尚子も目を丸くする。二人はしばらく絶句して顔を見合わせていた。
 先に事態を把握したのは尚子の方だった。
「だれかと思えば」と尚子は肩をすくめた。「皆川君じゃない。久しぶり。こんなところでなにしてるの? ひょっとして仕事中?」
「あ、あー、うん」
 皆川はしどろもどろになりながらうなずいた。もちろん尚子は、皆川が週刊Gの記者であることを知っている。つい半年前の同窓会で会ったときに話した。
「大島は、こんなとこでなにやってんの?」
「仕事中よ、もちろん」
 尚子はドアの中に顔を引っ込める。
「家宅不法侵入で引っぱってもいいんだけど、同窓生のよしみで見逃してあげる。週刊誌のネタになるようなものはここにはないよ。あなたのとこ、出しゃばり な馬鹿が一昨日不幸にあったばっかりでしょうが。ちょっとは自重しなさいよ」
 皆川は閉まりかけたドアに飛びついて、こじ開けた。尚子がびっくりした顔で振り向く。
「ちょっと、皆川君。入っちゃ……」
「志摩香織、一九八二年十月三十一日生まれ。父親は指揮者の志摩俊文、母親はチェリストの志摩由音。志摩香織が四歳の時に、両親ともツアー中の飛行機事故 で死亡」
「……なに言ってんの、皆川君?」
「叔母の住むこの家に預けられることになったが、十三歳の時にその叔母夫婦も交通事故で死亡。祖母が引き取ることになったが、転校をひどく嫌がったため、 この家で家政婦を雇って暮らすことになる」
「よく調べてるじゃない。わかったから、さっさと出てきなさいよ」
 尚子が強く引いたドアの隙間に、皆川は脚をひざごと突っ込んで止めた。
「今年十月一日にN高校舎屋上から飛び降りて自殺。死亡推定時刻は七時三十五分。ちなみに、橘啓司の死亡推定時刻は八時ちょうどだ」
 尚子の腕の力がゆるんだ。
「なんで……そんな正確に知ってるの」
「調べたのは俺じゃない。津山先輩だ。あの人は確かに出しゃばりだったけど、馬鹿じゃなかった」
 尚子はしばらく、皆川の顔をじっと見つめていた。それから深く息をつき、扉を引っぱっていた手を離した。
「わかったわよ。馬鹿って言ったのは取り消す」
「志摩香織は橘啓司の追っかけ自殺じゃない」
「警察をあんまり馬鹿にしないで。そんなのちょっと考えればわかるでしょう。橘啓司の自殺が最初に報道されたのは一日の夜十時。その時にはもう志摩香織は 死んでる。二人の自殺は無関係よ」
「ちがうんだ。無関係じゃない。逆なんだ。橘啓司が志摩香織を追っかけて自殺したんだ」
 ぽかん、という音が聞こえそうなくらいの間があった。尚子は皆川の顔を上目遣いでのぞきこんで、
「……頭大丈夫? 皆川君。意味不明だよ」
「俺だってよくわからないよ。でも、先輩の手帳にそう書いてあったんだ。先輩はなにかつかみかけてたんだと思う」
「そんな、だって……」
 不意に、甲高い電子音が会話を引き裂いた。尚子は内ポケットから携帯電話を取り出す。
「はい。……あーすみません。今? 志摩香織の家です。ええまあ。個人的に、もう一度調べたいことがあって。え? ……はい。わかりました。戻ります」
 尚子は携帯電話をしまうと、皆川を押し出して自分も玄関の外に出た。「おい、大島?」
 鍵をかけ、皆川を押しのけて走り出す。皆川も思わず追って駆け出していた。
「なんなんだよ、おい!」
「あなたもこんなとこで遊んでないでN高に行ったら? また二人殺されたわ」
「二人? だれが?」
「ハイエナは大人しく公式発表待ちなさい!」
 尚子は門を飛び越えると、塀の向こうに消えた。すぐにバイクのエンジン音が聞こえ、遠ざかる。
 皆川は庭に立ちつくしていた。
 また二人、死んだ。これで死者は何人だ? 機動隊員十四人……津山雅人……そして今日……十七人。
「なんなんだよ、おい」
 皆川の喉からそんな言葉が漏れる。
「なんでそんなに殺すんだ。なにがやりたいんだよ。おい。なんとか言えよ!」
 皆川の声は、夕刻のひんやりした風に静かに吸い取られる。死んだように静かな街には、人の気配すらない。
 皆川は、社に戻ろうと門に手をかけた。そのとき、無視の羽音のようにかすかな旋律が聞こえてきた。振り向く。平坦な電子音だ。
 皆川の唇が震えた。言葉が、旋律に引き寄せられて口からこぼれだしそうになった。知っている。自分はこの歌を知っている。『ライカ』の歌だ。―― 『Never Knows』。
 皆川は目を閉じ、耳を澄ませた。芝が風でこすれあうだけで聞こえなくなってしまいそうなほどの小さな音だ。音の源の方へと足を踏み出す。
 いつの間にか、歌は自分のすぐ足下で響いている。コーラスの旋律が何度もループしている。皆川は目を開いた。音は唐突に途切れた。
 庭の端だった。手入れされていない芝が茶色く枯れて禿げている.。皆川は丸い葉をたくさんつけた草の一群れを踏みつけていた。その草に隠れた地面の一部 が、不自然に盛り上がっていた。
 かがみ込んで、土をのけてみた。固く乾いた土の塊が四角く持ち上がった。棺の蓋のように。穴の中に、小さな鈴が二つついた紐が埋まっていた。引っぱり出 してみると、それは空色の携帯電話だった。液晶画面が緑に輝き、たった今着信があったことを告げている。
「嘘だ」
 もれた言葉は芝生の上にぼたりと落ちた。皆川は、もう一度液晶画面に映った着信先の名前を見た。
「だって。おまえはもう死んでるだろ」
 だれもなにも答えなかった。皆川はその番号に折り返しでかけようと、ボタンに指を置いた。しかし、押すことはできなかった。理由はわからない。悪寒が指 を押しとどめた。
 皆川はため息をついて、携帯電話のメモリを探った。登録されている番号はごくわずかだった。阿久津桐花、飯岡直樹……。メールは一件も残されていなかっ た。
 携帯電話をポケットに入れ、皆川は志摩香織宅を出た。二ブロックほど歩いたところでそのことに気づき、立ち止まって振り向いた。まったく同じ横顔の家が ずっと向こうまで続いている。トンネルの中みたいだ。さっきまでいた家がどこなのか、見当もつかない。
 十月一日に志摩香織が学校の屋上から飛び降りてから、およそ一ヶ月たっている。でも、携帯電話の電池はまだ生きていた。だれかが充電したのだ。だれが?
 あそこに埋めたのはだれだ?







 ・最後の通話


『……もしもし? 大島さん?』
「あ、淳君? なに?」
『あの、訊きたいんだけど、あの曲作ったのってだれ?』
「だれって。んー、詳しくは言えないんだけど、高校生だよ」
『高校生? 演奏してるのも、その高校生?』
「そう」
『そんな。……』
「どうしたの、淳君」
『信じられないよ』
「高校生だってのが? だって、ギターと歌だけだったじゃない。まあ、下手じゃなかったけど……」
『そうじゃなくて』
「……なに?」
『あんなの、人間が作れる曲じゃないよ』
「……どういうこと?」
『大島さん、今夜うちに来られない?』
「今日? 無理だよ。まだ署にいるの。もう四日も家に帰ってない」
『ちょっとわかったことがあるんだけど。その。僕、喋るの下手だから。直接会って説明しないと』
「さわりだけでも電話で話せない?」
『んん。大島さん、音楽詳しい?』
「全然。楽器最後にさわったの高校の時だし」
『協和音と不協和音てわかる?』
「不協和音て。合ってない音のこと?」
『うんそう。あのね。高さの違う二つの音が同時に鳴るときに、音って空気の振動でしょ。それぞれ周波数があるよね。その周波数の比が、二対三とか、三対四 とか、簡単な整数の比になるのが協和音。複雑な比になっちゃうのが不協和音ね。わかる?』
「……うん、なんとか。ずいぶんデジタルなんだね音楽って」
『そう。たとえば、んー、ドミソの三つの音は周波数の比が四対五対六になってるから、協和音なの。ここまで大丈夫?』
「うん。だいたい。でもそれ、なんの関係が」
『やっぱり、実際に音で聴かせた方がわかりやすいんだけどな。ちょっとでいいから会えない?』
「ごめん、今日は無理。明日の夜……空くといいんだけど……」
『じゃあ、ほんとにざっとだけ。今、和音の周波数が簡単な整数の比になってるって言ったよね。でもね、それ、嘘なの』
「え?」
『今、世の中にある音楽の和音てね、ちょっとずつ音がずれてるの。たとえばドミソの和音だと、えーと、四対五.〇四対五.九九。だからね、今ある音楽のほ とんどは不協和音なの』
「……なんで?」
『んん。詳しく説明すると長くなるけど。その方が便利だから』
「便利って」
『あのね。たとえばドミソの音を完全な四対五対六に調整しちゃうと、ドミソの音は完璧でも、たとえばレとファのシャープとラの和音とかが、もうめちゃく ちゃな不協和音になっちゃうの。すごく単純な曲ならいいんだけど、複雑に転調する曲が作れないのね。……実際に聴かせてあげる。ちょっと待って ね。…………聞こえた?』
「うん」
『今のが純粋なドミソの和音ね。シンセサイザーいじって作ったの。この音階でレとファのシャープとラを鳴らしてみるね。…………』
「……合ってないね」
『わかる? わかるよね?』
「うん。なんか背中がかゆくなる感じ」
『うん。だから、ね。大昔に、音楽が複雑になっていったときにさ。色んな和音が使えるようにするかわりに、完璧な和音をあきらめて、少しずつ微調整してず らした音階を作ったの。今あるピアノとかギターとかはみんな、音がずれてるの』
「でも。そんなの気づかなかったけどな」
『ほんの少しのずれだからね。気づかない人は気づかないかもしれない。でもね、大島さんは気づいたはずだよ』
「なにが?」
『だって。あの曲が特別だってわかったんでしょ?』
「…………」
『前置き長くてごめんね。あの、ダビングしたあの曲ね、全部完璧な和音でできてるの』
「それって」
『そういう曲がまったくなくなっちゃったわけじゃないんだけど。ヴァイオリンとかはね、ちゃんと完璧な和音を出せるんだけど、でも、ギターで、それに、あ んな複雑に転調する曲を。僕は信じられないよ。コンピュータで作った曲なのかと思った』
「……そうだ。思い出した」
『なに?』
「あの、テープのあった部屋にね。変なギターが置いてあったの。ほら、普通ギターって、長い首の部分が区切ってあるでしょ? それがないの。のっぺらぼ う」
『フレットレス?』
「っていうの?」
『信じられない』
「そんなにすごいことなの」
『だって。ギターは六つの音を同時に鳴らせるんだよ。それを全部』
「…………」
『大島さん?』
「うん。なんか嬉しいな」
『うん。ふう。なんでだろ』
「ありがとう、淳君」
『……ねえ、今日これから会えない?』
「え? だって、今日は」
『あの曲聴いてると、なんか、変な気持ちになるんだ。よくわからないけど、こう……』
「……淳くん?」
『独りで、いると、……』
「淳君? 大丈夫? 淳君?」
『…………』
「泣いてるの?」
『んん。なんでもない。ごめんなさい』
「どうしたの?」
『…………』
「淳君?」
『…………』







 ・10月30日/1


 暗闇の中を閃光が跳ね回った。銃声が夜気を震わせ、硝煙の臭いがバリケードの足下にたちこめる。巨大な耳鳴りのような残響がやがて薄れ、校舎に静寂が 戻ってくる。
 暗がりの中で三人分の荒い呼吸が聞こえていた。影のひとつが、壁とバリケードの隙間から這い出して立ち上がった。
「終わったかな」と秀樹は言う。
 廊下の反対端から、リクオの声がする。
「多分な。あっちは足場もないし」
 バリケードを隔てて五メートルほど向こうには、夜の虚空に向けて大穴が口を開けている。爆破された渡り廊下の傷跡だ。さっきまでバリケードの向こう側に 見えていたいくつもの人影はもう見えない。風に乗って穴の下からかすかにうめき声が聞こえてくるだけだ。
「なんで、今日になって急に。あと一日だってのに」
 リクオはぼやきながら、銃に弾丸を装填する。
「だれかさんのせいで、こっちは実の親も平気で殺せる気ちがいってことになってるからね」
「ほんとのことじゃねえか」
 もう一言返そうとして、秀樹は西山の様子に気づいた。床にうずくまったまま押し黙っている。
「西山? 大丈夫?」
「ん……や」
 西山はようやく上半身を起こした。秀樹は息を呑んだ。ジャンバーの左肩が真っ黒にぬれている。
「おい、これやべぇんじゃねえの」
 リクオも近寄ってくる。
「大した怪我じゃ……ない」
「大した怪我だっつの。おい、これ弾丸貫通してるぜ」
 黒い染みは背中にまで広がりつつある。秀樹は、床にだらりと落ちた西山の左手の甲を銃でつついてみた。反応がない。
「西山、歩けそう?」
「なんとか」
 秀樹はうなずいて、トランシーバーを取りだした。
「――化学室? うん。ドンパチは今終わった。西山が怪我してるから、ミッキと交替。うん。じゃ」
「大丈夫。交替しなくても」
「大丈夫じゃないよ。怪我人は邪魔なだけだから」
 秀樹は階段の方をあごでしゃくる。西山は黙って立ち上がると、左肩を押さえながら、危なっかしい足取りで廊下の角を曲がって消えた。
 再び静寂がやってくる。
 穴の向こうからの物音は途絶えたままだ。秀樹は妙だなと思った。なぜ警察が急に突入する方針に至ったのかはわからなかったが、いったんそうと決めたなら 物量と勢いで短期間に押し切るのが定石だろう。
 秋の終わりの鈍い針のような風が、かつて廊下のあった穴から吹き込んできた。秀樹はジャケットの前をかき寄せた。
「前から訊きたかったんだけどさ」
 ふと、リクオが言った。
「なに」
「おまえと香織ってさ。ヤったの?」
「なにを」
 リクオの忍び笑いが暗がりにこもって聞こえる。
「なにをって。つきあってたのかってこと」
「ああ。そういう意味ね」
 秀樹は手のひらの中で、小さな拳銃を何度もひっくり返した。
「べつになんでもなかった、って言ったらリクオは信じるのかな」
「信じねえな」
「じゃあ、つきあってたことにしてよ」
「嘘つくなよ」
「どっちでも駄目じゃん」
 秀樹も笑った。
「なんで、今さらそんなこと?」
「べつに。なんとなく。どっちにしろ、明日で最後だろ。だから――」
 ガラスの割れる音が、リクオの言葉を遮った。二人はほとんど同時に立ち上がった。音が聞こえたのは、上だ。トランシーバーがミッキの声でわめきたてる。
『秀樹! やられた、そっちは囮だ! 三階!』
 それを半分も聞かないうちに、二人は走り出していた。階段を折り返して駆け上った秀樹の目に、三階の廊下の向こう端から押し寄せてくる青い制服の群れが 映る。重厚なヘルメット、透明プラスティックの盾、そしてガス銃。
 すぐ横をうなり声が駆け抜けた。リクオだ。廊下に飛び出して、わけのわからない叫び声をあげながら銃を乱射する。それに応えるように、ガス弾がばらまか れて天井や壁に突き当たり、青白い煙でたちまち廊下が埋め尽くされた。
「リクオ! 無駄だ戻れ!」
 叫びながら秀樹は火災用シャッターのスイッチを入れる。天井のスリットが、もどかしいほどにゆっくりとシャッターを吐き出し始める。秀樹はリクオの腕を つかんで階段に引っぱり込んだ。間に合わない。科学棟の廊下は短すぎた。機動隊の先頭の数人が、シャッターと床の間の隙間から転がり込んでくる。
 秀樹とリクオは踊り場から銃を乱射した。機動隊の一人が腿を押さえながらうめき声を上げて床に転がる。ほとんどの弾は床や柱に当たって火花を散らし、あ たりを跳ね回った。機動隊員たちは反射的に身を屈めて頭を手で覆った。背後をシャッターに遮られ、身を隠す場所もないからだ。しかし、一人が柱の開閉装置 に気づき、ボタンを押した。シャッターが摩擦に身を軋ませながら再び天井へと飲み込まれてゆく。
 秀樹は歯がみしながら階段を駆け上がった。銃弾も残り少ない。四階のシャッターは、廊下側からしか操作できないように細工してある。そこで持ちこたえる しかない――。
 階段の一番上にミッキの姿が見える。手すりから身を乗り出して、次々とやってくる機動隊に向けて拳銃を盲撃ちしている。
「ミッキ! 逃げろ!」
 秀樹はあらん限りの声で叫んだ。ミッキははっと顔をあげ、廊下に駆け戻る。秀樹は弾の切れた拳銃を投げ捨て、もう一丁をベルトから引き抜き、階段の口で リクオと撃ち合っている機動隊を狙って二三発撃った。一人が首に弾丸を受け、ぎゃっと叫んで倒れる。まわりが一斉に秀樹に気づき、頭上に向かっても銃撃を 始める。リクオは踊り場の手すりの陰にかがみ込んで、不安定な体勢で発砲を繰り返している。足下にはすでに打ち尽くした銃が二丁転がっている。額から右の 頬にかけてが、銃弾を受けたらしく血まみれだ。
 空気をうならせながら、階下の暗がりから何かの塊が飛び出してきた。ひとつ、間を置かずもうひとつ。それは踊り場の壁にぶつかり、ぐしゃりと潰れた。同 時に、白濁色の煙が辺り一面にあふれ出した。秀樹はむせ込み、痛み出した目を拭った。視界がたちまち霞んでぼやける。下の方で、リクオが獣のようなうなり 声をあげるのが聞こえた。さらに立て続けに銃声が響く。
「シャッターを閉めろ!」
 撃ちながら秀樹はミッキに向かって怒鳴る。ミッキは目を見開いて、とまどったように開閉装置に伸ばした手を引っ込めた。
「いいから閉めろ!」
 秀樹の声はすでに嗄れかけている。ミッキは握り拳でプラスティックプレートを突き破ると、『閉』の青ボタンを押した。シャッターが、がりがりとこすれ合 う音を発しながら天井から落ちてくる。
 秀樹はリクオの名を呼んだ。
 それは声にはならず、ただ乾いた呼気が喉と上顎をこすっただけだった。けれどリクオは秀樹の方を見上げた。そして、口元を歪めて満足げに笑った。
 笑ったのだ。
 暗がりの中で、催涙ガスにまみれた中で、表情など見えるはずがなかった。けれど、秀樹にはその時リクオが笑ったのがはっきりと分かった。


 ――それは、高校生活最初の夏休みが始まるほんの一週間ばかり前の、気持ちよく晴れ上がった土曜日の放課後だった。民音部の五人は一年四組の教室に集 まって、バンドの担当パートを決めていた。
 キリカは最初からドラムに決まっていた。秀樹がわざわざ吹奏楽部から引き抜いたのだ。秀樹がギター兼ヴォーカルをつとめることにも反対の声はなかった。 問題はミッキとリクオだった。二人ともベースをやりたがらなかったのだ。パートの問題は大もめにもめ、あやうく喧嘩になりかけた。
「じゃあ、手っ取り早く」と、端から見ていた香織が間に入って言った。
「腕相撲で決めよう」
 二人の激闘は一分近く続いた。机の上で組まれたリクオとミッキの腕は青筋だって震え、二人とも額に玉の汗が浮かんでいた。やがてミッキが力つき、リクオ にねじ伏せられた。
 ガッツポーズをするリクオに、しかし香織はさらりと言った。
「じゃあ、ベースは上原君ね。ベースの方が力が要るから」
 リクオは唖然とし、反論しようとして口を開いた。秀樹もなにか言おうとした。ちょっと待て。そんな決め方ってない。ベースだからって腕力が必要なわけ じゃない。
 けれど、香織の微笑みの前で、そんな言葉はなぜか苦笑に変わっていた。秀樹とミッキとリクオは顔を見合わせ、そろって笑い出した。普段は冷笑めいた顔し か見せないリクオも、この時は本当に心の底から楽しそうに笑っていた。

 そうだ。あの時と同じ笑みだ。


 リクオの笑い顔に、なにかが勢いよく突き刺さった。リクオの身体は踊り場の壁に叩きつけられ、頭が血しぶきをあげて弾けた。それが、秀樹の見たリクオの 最後の姿だ。
 秀樹は後ろ向きに床を転げるようにして廊下に脱出した。その直後、シャッターが冷徹な金属音を響かせて床に達した。







 ・5月25日発売『月刊ミュージア』より抜粋


 タイトルそのままのスタジオ内の雑音、チューニングをしている音、メンバーの会話などがデジタルに収束され、やがて爆発的なイントロへとつながる感動的 な『Free Jam』。前作とはうって変わって疾走感を前面に押し出したナンバーだ。シンプルだが鮮烈な印象の残るメロディ、より鋭くメタリックになったギターリフな ど、ライカは己の王道を進みつつもまた一つの新境地を切り開いたと言っていいだろう。

――ライカにしては珍しく、夏っぽい曲ですね。
Yuri「そうですね。僕らの曲はどちらかと言えば冬っぽいというか、黒っぽいイメージがあるんですけど、今回はなるべくアレンジをタイトにしながらも、 夏を意識した音選びを、と、またKeishiが無茶なことを言いだしたので(笑)」
Yuichi「湘南の夏、っていうよりは北海道の夏、っていう感じ」
Yuri「そうそう。慣れないことはやるもんじゃないよね(笑)」
――あまり湿度が感じられないサウンドは、いつも通りですけれど。
Yuichi「俺もKeishiも、濡れ系のエフェクターは一切使ってない」
Katsumi「濡れ系って何?」
Yuichi「さりげないコーラスとか、クリーントーンでディレイかけるとか。カッティングだととくにありがちでしょ? もともとああいうのは好きじゃな いんだけど。今回は特に意識して避けてみました」
――イントロはすごく印象的ですよね。あれはやっぱりタイトルから思いついたんですか?
Katsumi「いや、タイトルがそもそも、誰かが『フリーダム』を間違って言ったのをそのまま使ったんだって。最初はほんとに『フリーダム』の予定だっ たらしいよ」
Yuri「確かKeishiが弟に、『これってフリードムって読むの?』って訊いたら、『フリージャムだ』っていう答えが返ってきたらしい(笑)」
Yuichi「さすが現役大学生(笑)」
Katsumi「あのイントロはプロデューサーのアイディアです。ボツテイクの逆回転とか混じってるから、注意して聴いてみると面白いですよ」
――ソロは、二人のギターの絡み方がすごく独特ですよね。バロックっぽいっていうか。
Yuichi「最初にKeishiのフレーズが決まって、それの裏メロみたいな感じでやれって言われたんで。俺の方がすごくめんどくさいフレーズ弾いてま す。Keishiのなんか白玉ばっかり(笑)。たしかにわざとバロックっぽくしたところはありますね。チョーキングしたら怒られたし」
Katsumi「ドラムも苦労しました。アクセントがほとんどどこにもないソロなんで、淡々と叩くしかなかった。でもソロ以外のリズムもかなり淡々とした 感じなんで、違いを出すのに色々とやりましたね」
Yuri「僕もバロックに参加してます。ちょっと聴きづらいけど、聴いてみてください」
――全体的に淡々とした曲調ですけど、サビの前とかはきちんと盛り上がっていますよね。あれはやはりドラムだけで?
Katsumi「俺だけで頑張ってます。実はサビ前とラストだけ、ドラムスを重ねるという荒技を使ってるんです。ライヴでは、どうしようかねえ」
Yuichi「この曲は多分ライヴだとずいぶん違う感じになると思う。もともとがシンプルで速い曲だから、同じくらいのレベルのパートを色々と重ねて録っ てるんですよ。ヴォーカルもほとんど全部ハモってるし。そういうところをそぎ落としても、また別の味が出てくると思う。スリーピースっぽくなるというか」
――パッケージデザインについてなんですが(笑)。
Yuichi「ノーコメント(笑)」
Yuri「最初は、『鏡の自分に向かってキスしようとしているKeishi』の予定だったんだよね(笑)。それはあんまりだろう、と。結局、合成で二人の Keishiにしたけど」
――これは誰のアイディア?
Katsumi「本人(笑)。筋金入りのナルシストだから」







 ・5月29日


 キリカは、買ってきたばかりのシングルCD『Free Jam』をデッキに入れて再生ボタンを押した。ハウリングノイズ、椅子のぶつかりあうような音、ざわめき、笑い声――そういった雑多な音が音楽室のスピー カーからこぼれだし、からみあいながら高まり、やがて爆発するように弾けた。疾走感豊かな8ビートのリフにつながる。
 振り向くと、他の連中はすでに紙コップを手にし、お菓子を広げていた。
「あーっひどい、もうミルクティがない」
 空のペットボトルを振り回してキリカは文句を言う。
「あ、ごめん。この人数だとさ」
 ミッキがそう言って、かわりに烏龍茶をキリカのコップに注ぐ。
 民音の五人にくわえて夏美も西山も加わっているので、飲み物も食べ物もかなり多めに買ってきたのだが、一時間ともたずになくなりそうな勢いだった。
「乾杯するんじゃないの?」
「そっか。忘れてた」
 秀樹はジーンズについたクッキーのかすを払い落とすと、立ち上がって紙コップを掲げた。
「えーと。シングル売り上げはまた初登場一位だそうです。かんぱい」
 応えるように、長いイントロが終わり、Keishiの張りつめた甘い声が音楽室いっぱいに広がる。七つの紙コップが空中で軽くぶつかりあった。
「十枚連続だろ。けっこう簡単にとれるもんだな」とリクオは、ポテトチップス辛子マヨネーズ味の三袋目を開けながら言った。
「だって『ライカ』だもん。実力だよ、実力!」
「これ、僕のギターがめちゃくちゃ難しいんだよね。秀樹のパートは楽なのに」
「キリカちゃん、レモンティならあるけどいる?」
「あっちょうだいちょうだい! ありがと夏美ちゃん」
「キリカ。辛子マヨネーズが足りねえ」
「あんたが全部食べたんでしょが」
 ひっきりなしに口を動かしながら、キリカは秀樹の様子をちらりとうかがった。隣に座っている秀樹はさっきから一言も喋らない。きっと頭の中は『ライカ』 の歌でいっぱいなのだろう、そうにちがいない、キリカはそう思おうとした。でも、ときおり秀樹が、一座から離れてピアノの椅子に座っている香織に目を向け るのを見ると、椅子ごとひっくり返してやりたくなる衝動に駆られる。
 ルックスでは負けていない。プロポーションはあたしの方が絶対に上だ。帰りの電車が一緒じゃないのはマイナスだけれど、学校で喋る時間はこっちの方がた くさんある。香織は八組だけど、あたしと秀樹は四組。それに香織はバンドメンバーじゃない。
 あたしの方が、秀樹との距離は近い。そう思いたい。
 でも、香織は秀樹と一緒に曲を作ってくる。あたし達の知らない場所で、二人きりで。おそらく秀樹の部屋だろう。余計なものがなにもないこざっぱりした部 屋で、ギターと、レコーダーと、本棚にぎっしりの楽譜。窓の光を遮るベージュ色のカーテン。それからベッド――。
 キリカは頭をぶんぶん振ってその妄想を追い払った。


「キリカちゃん、どうしたの? なんか元気ないよ」
 ゴミ捨て場に行く途中、夏美に言われてキリカはゴミ袋を落っことしそうになった。
「え? そう? べつに、そんなことないよ、ほら」
 両手にゴミ袋をひとつずつ持って振り回してみせる。
「危ないってばキリカちゃん」
 宴会は二時間ほどで終わったが、七人が(というよりも主にリクオが)食べ散らかしたお菓子や飲み物のゴミはポリ袋三つ分にもなった。じゃんけんで負けた キリカが捨てに行くことになり、夏美がついてきてくれたのだ。
 ゴミ捨て場の建て付けの悪い戸を開くと、すえた臭いがむっと漂ってくる。キリカは顔をしかめながら袋を三つとも中に放り込んだ。
「ひどい連中だよね。女の子にこんな重労働押しつけるなんて」
「じゃんけんで決めようって言い出したのキリカちゃんじゃなかったっけ?」
「え。あ、そうか。はは」
 夏美は校舎裏の狭い道を玄関口の方へと戻り始めるが、キリカが立ち止まったままなのに気づいて振り返った。
「もう。キリカちゃん。なんか変だよ、今日」
「んー」
 キリカは後ろのポケットからドラムスティックを取り出すと、ほとんど無意識に手首の柔軟運動を始める。
「夏美ちゃんてさ。小学校からあの二人と一緒だよね」
「あの二人って……」
 訊き返そうとして、すぐに気づいたのか、夏美は口ごもる。
「……うん。香織ちゃんと秀樹と伸吾と、小学校からずっと同じ」
「あの二人って昔からあんなに仲がいいの?」
 夏美は口をぽかんと開け、それから、奇妙な果実を食べたときのような複雑な表情を浮かべた。しばらくして、眼鏡の奥の目が意味ありげに細められる。
「はあ。なるほどね」
 言われてキリカは、少し照れくさくなって、ひざの埃を払い落とす振りをした。
「ええと。その。ただの幼なじみってだけで。べつに、キリカちゃんが想像してるような仲じゃないと思うよ」
「あたしに勝ち目あると思う?」
 夏美は黙り込む。キリカはドラムスティックをポケットにねじこむと、夏美の肩をばんばん叩いた。
「ごめんね、なんか辛気くさい話しちゃって。大丈夫。あたしがんばるから」
 夏美はぎこちなく笑ってうなずいた。

       *

 その日の夕方、駅のフォームで、キリカは橘啓司の姿を見かけた。
 それは多分、橘啓司だったのだろうと思う。彼は線路をはさんだ反対側のフォームの端の方に立っていた。ブルージーンズに水色のヨットパーカーという格好 で、濃いサングラスをかけていた。でも、テレビや写真で見るのと同じように、肌が不気味なまでに真っ白だったので彼だと分かった。ステージの上ではないと いうのに化粧をしているのだろうか。
 彼はフォームの線路際に立って、ポケットに両手を突っ込み、同じフォームの二十メートルくらい離れたところにいる四人をじっと見ていた。秀樹と香織と、 夏美と西山を。
 おそらく見ていたのは香織だろう、とキリカは後になって思った。
 橘啓司はよく見ると顔だけでなく腕もほとんど真っ白といって良かった。本当に化粧なのだろうか?
 キリカは向こう岸にいるその四人に啓司のことを教えてやろうかと思ったが、騒ぎが起こることを考えてやめた。それにしても、どうして周りの人間は気づか ないのだろう? あんなに目立つ外見なのに。
 その時、啓司がキリカの方に顔を向けた。サングラスのせいで目の動きまでは分からないはずだったが、それでもキリカは、自分がその熱のない硬質の視線に 捉えられるのをはっきりと感じた。そして今度こそ声をあげそうになった。
 警笛がけたたましく鳴った。キリカは一歩後ろに飛び退いた。各駅停車がプラットフォームをこするようにしてすべり込んできて、視線を断ち切った。キリカ の口から出かかった声も一緒に。
 隣で何かを話し込んでいたリクオとミッキが、いつの間にか黙ってこっちを見ていた。キリカは照れ笑いすると、開いたドアの中に急いで飛び込んで空いてい る席を探した。


「ねえ、『ライカ』って」
 電車が走り出したしばらく後に、キリカは不意に言った。キリカはシートに座り、その前にリクオとミッキが二人並んで吊革を支えに立っていた。
「――『ライカ』って、これからどうなっちゃうんだろう」
 リクオが肩をすくめた。
「なにが言いたいんだよ」
「Keishiは……今のこういう状況に耐えられるのかな。だって、ファンも、他のメンバーもだましてるわけでしょ。そういうのって、長続きしないと思 う」
「そんなの僕らの問題じゃないし」
 ミッキが吊革をつかんで身体をぶらぶらと揺すりながら言った。
「そりゃ、全く関係ないとは言わないけどさ。でも、キリカはKatsumiじゃないし、リクオはYuriじゃない」
「お前もYuichiほどギター上手くないし」とリクオが口をはさむ。
「うるさいな。ほっといてよ」
 ミッキはリクオの脇腹を手刀で突っついた。
「それに、大切なのは曲がいいか悪いかで、それに比べれば他のことなんてゴミみたいなもんだよ」
 ミッキはそう言ってにっこりと笑った。キリカにはその微笑みが、ほんの一瞬だけひどく悪魔的なものに見えた。他のことなんてゴミみたいなものだ。確かに そうかもしれない。
 でも、Keishiにとってはそうじゃない。『ライカ』の歌は確実に彼を磨り減らしている。
 KeishiがKeishiであることは、世界を少しずつ浸食し、歪めている。
 これから一体どうするつもりなんだろう。全てを引きずりながら歌い続けるつもりなのだろうか。日本中を酔わせている巨大な幻のために。
 それは、あまりに過酷な宿命だ。自分だったらきっと耐えられない。
「もう、いいじゃない。もう充分だよ」
 二人に聞こえないように、キリカはそっと呟いた。







 ・10月30日/2


 尚子が署に戻り会議室に駆け込んだとき、ちょうどテレビ画面にN高校科学棟の俯瞰映像が映し出されていた。暗闇の中、サーチライトに照らされて塔の姿が 浮かび上がっている。
「どうなったの」
 机の端の席でのんびりお茶を飲んでいる後輩の刑事に訊ねる。
「大島さん、どこ行ってたンすか」
「野暮用で電話。それより」
「少年、ひとり死んだぞ」
 カップうどんをすすりながら、柿沼が言った。テレビの方を向いたままだ。
「突入したんですか」
「二十二時ちょうど。やりあってる間にひとりが事故で死んだ」
 事故ね。便利な言葉だ。尚子は胸中で毒づく。
「あとの四人は人質と一緒に四階にたてこもってる。シャッター破れば、まあ、おしまいだな」
 柿沼の言葉のところどころに、ずっ、ずっ、といううどんをすする音が混じっていて、尚子は事件を中継しているテレビを床に叩き付けてやりたい衝動に駆ら れた。
「人質がいるのに」
「奥村夏美は人質じゃないと本庁が認めたんだろう。こっちにはもう関係のない話だ」
 N高校のこの事件はC署の手に余ると判断され、警視庁に回されてしまった。今の尚子たちの立場は本庁の下働きだ。
「現場に応援で呼ばれてるがな。明日の五時でいいとさ」
「柿沼さんはずいぶんのんびりですね」
 ようやく柿沼は尚子の方に向きなおった。
「なんだ、大島。言いたいことがあるならはっきり言え」
「このまま高校生たち全員、精神鑑定くらって、病院行きで終わりですよ。それでいいんですか?」
「万々歳じゃねえか」
 柿沼はゴミ箱にカップどんぶりを投げ込むと、椅子に反対向きに座り直した。
「あのな、大島。橘啓司が自殺してから今日まで、追っかけ自殺は全国で何件だ?」
「三十……九件です」
「そうだ。くそったれな広告塔のせいだ」
 柿沼はブラウン管の中の『科学棟』を親指で示す。
 ちがう、と尚子は言いたかった。彼らは頭のおかしい子供ではない。なにかの目的のために覚悟を決めて動いている。
 週刊Gに掲載された対話記事が尚子の脳裏によみがえる。ほとんど真面目に受け答えしていないように見えて、なにか重要なことを言っていた。なんだった?  目的についてはなにも言っていなかった。
 いつまで?
 ハロウィン。そうだ。ハロウィンまでだと飯岡秀樹は言っていた。十月三十一日。尚子はテレビの時刻表示を見上げる。あと三十八分。
 と、番組はコマーシャルに切り替わった。画面に黒ずくめの男の姿が大写しになる。細い手足や顔は無機質に見えるほどに白い。身体をくねらせながら歌って いる。
 橘啓司だ。
 尚子は息を呑んだ。画面の中央には曲のタイトルと、『10/31 on SALE』の文字が浮かび上がる。
「これ……」
「あ、これ、『ライカ』のラストシングルらしいですよ」
 後輩の刑事が言った。尚子は振り向いた。
「この曲のテープといっしょに、遺言があったそうです。三十一日に発売にしろって」
「N高校事件のニュースのCMで、橘啓司のレコードを宣伝かよ。くだらねえ狙いしやがって」背後で柿沼が毒づく。尚子にはそれがほとんど聞こえていない。 橘啓司の歌しか聞こえていない。
 目を閉じると、ねっとりと甘い橘啓司の歌声に、飯岡秀樹の乾いた声が重なる。
 あの曲だ。
 飯岡秀樹の部屋で見つけた、あのテープの歌。アレンジはもちろんちがう。ピアノと弦とエレクトリックギターがきらびやかなバックサウンドを編み上げてい る。でも、聞き間違うはずもない。あの歌だ。
 寒気が尚子の全身をなめつくした。
「こんなCM、見たことなかったけど」と後輩に訊ねる。
「流れてンの、昨日からですよ」
「昨日?」
 尚子は目をむいた。
「ほんとに? ほんとに昨日から?」
 尚子の剣幕に後輩の刑事は面食らって、椅子からずり落ちそうになる。
「ええ。新聞広告も昨日からでしたし」
 おかしい。なにかが食い違っている。なにか致命的なボタンが掛け違えられている。尚子はKeishiの歌声を背中に聞きながら、部屋を出た。


「……はい、夜分遅く申し訳ありませんでした。はい。失礼します」
 尚子は電話を切ると、壁にもたれ、深く息をついた。
 電話をかけた先は、『ライカ』の所属しているプロダクション会社だった。そこで尚子は『ライカ』のマネージャーから直接、質問の回答を受けた。
 最新シングル曲が十月二十三日以前になんらかの形で公開されたことはあったか。
 答えは否、だった。
 飯岡秀樹とKeishiはつながっている。そうとしか考えられなかった。でも、いったいどういうつながりだろう。わからない。
 歌手が自殺し、少女が自殺した。少年は戦争を始めた。息子が父親と母親を殺し、父親と母親は兄と弟を引き離した。時空が混乱している。手のつけられない ほどに。尚子はうずくまり、自分の携帯電話を取りだした。もう一度、淳にかけてみる。夜になってから何度もかけているのだが、つながらない。
 ふと、着信があるのに気づいた。淳からだ。ほんの三十分前。尚子は震える手で留守番電話機能を呼び出した。
 メモリには長い沈黙が録音されていた。尚子は目を閉じて携帯電話を耳に押し当てた。なにか聞こえる。かすかな音量だけれど、それがかき鳴らされるギター の乾いたストロークと、少年の細い歌声だとわかる。尚子は立ち上がり、階段を駆け下りて署を飛び出した。

       *

 尚子はアパートの真っ暗な階段を駆け上がり、208号室のドアを叩いた。
「淳君! 淳君、いるんでしょ?」
 浴室の窓からオレンジ色の明かりが見え、シャワーの音が間断なく聞こえているのに尚子は気づく。そして、水音に混じって扉の向こうから響いてくる飯岡秀 樹の歌声。
 尚子はノブを回した。鍵は開いていた。シャワーの音がいっそうはっきり聞こえてくる。
 淳は浴室にいた。バスタブになかば上半身を突っ込むようにしてうつぶせに倒れている。バスタブの底には鮮血がたまり、シャワーから降り注ぐ湯と混じり あって排水口に渦を作っていた。
 尚子は床に崩れ落ちそうになった。けれど、自分の中の刑事である部分がそれを支えた。吐き気がこみあげてくる。左手で口を押さえながら、右手で冷え切っ た淳の身体を起こしてみる。顔は蒼白で、脈はすでになかった。淳の手に、細い金属線が巻きついている。ギターの弦だ、と気づいた。血と皮膚がこびりついて いる。これで手首を切ったのだろう。
 尚子はシャワーをとめ、淳の身体を元に戻して浴室を出た。歌声が全身を包み込む。
 今度こそ立っていられなかった。
 尚子は床に並べてあったペットボトルや牛乳パックの中に倒れた。虚ろな音が散らばる。身体に力が入らない。むしろ心地よいくらいだ。歌はオートリピート で回り続けている。このまま、目を閉じて――


 尚子を引き戻したのは、胸元で震えだした携帯電話だった。ぼやけた意識のまま内ポケットを探り、やかましく暴れるその物体を引っぱり出す。しばらくの間 どうすればいいのかわからず、手のひらで震えているそれをただぼうっと見つめている。
 呼び出し音が、歌をかき乱す。
 ああ、そうか。
 私を呼んでいるんだっけ。
「はい……もしもし」
『あ、大島? 俺。皆川です』
 意識の靄がいっぺんに蒸発する。尚子は上半身を起こして電話を左手に持ち替えた。
「皆川君? なんでわたしの番号知ってるの?」
『いや、それはいいから、それよりも』
「よくない。なんで知ってるの」
 尚子は立ち上がって、服についた埃を払い落とした。
『……ぅ。同窓会んときに、大島の友達だった娘から聞き出したんだよ。ごめん。それは謝る。こんな夜中に電話したのも謝る。話があるんだ、N高校の件で』
「おっきい声出さないで」
 ぼんやりした頭が冴えてくると、かわりに頭痛が浮かび上がってきた。
「週刊誌に売るようなネタはないわよ。あっても、あなたなんかに」
『そうじゃなくて! ええと。一市民として捜査に協力したいんだ』
 ねえ、皆川君。私の隣に今、井崎淳が死体になって転がってるの。あなたも憶えているでしょう? 高校の時クラスで一緒だった。
 尚子はそんなことを言おうとして、出てきたのはけっきょく「なに、それ?」だった。
『じゃあ、手短に言うよ。橘啓司という人間はそもそも存在しなかった』
 尚子は髪をかきあげると、浴室の扉に背中をつけた。大きく息をつく。
 橘啓司という人間はそもそも存在しなかった。じゃあ、あれは誰だというのだ。日本中に百万枚以上も出回ったCDで歌っているあの男は。音楽番組に五分出 るだけで視聴率を五パーセントはアップさせるというあの男は一体誰なのだ。十月のはじめに、自宅のバスルームで手首を切って、淳と同じように体中の血を浴 槽にぶちまけて死んでいた、あの男は。
「皆川君、酔っぱらってんの?」
『しらふだよ。いやほんと、こんな時間にかけたのは謝る。情報は確かなんだ。あいつらがやってたことは、ほとんどわかった。でも』
「目的が、わからない」
『そう』
 尚子にもそれはわからない。皆川も自分も黙り込むと、またあの歌が背中にのしかかってくる。
「あのね、皆川君。今どこにいるの?」
『C駅の前』
「迎えに来て」
 尚子は住所を告げると、通話を切った。
 淳の部屋に入る。秀樹の歌声が充満している。楽譜や雑誌をかきわけてオーディオラックに這い寄ると、MDプレイヤーの電源を落とした。
 細く開いた窓から静寂が流れ込んでくる。
 尚子は携帯電話で時刻を確認した。ちょうど四つのゼロが並び、日付が十月三十一日にかわる瞬間だった。
 ハロウィン。
 遠く爆発音が聞こえた。尚子は窓に駆け寄ってカーテンをまくりあげた。暗い空に向かって太い煙の柱が立ち上っている。N高校の方角だ。

       *

 西山の出血はなかなか止まらなかった。肩に巻いた包帯代わりのタオルは、あっという間に赤く染まる。実験机の上に横になった西山の顔は青白く、唇は透け て見えそうなくらい色を失っていた。
 がん、がん、という音が化学室にまで聞こえてくる。機動隊がシャッターをこじ開けようとしているのだ。キリカが首をすくめて耳をふさぐ。
「大丈夫。シャッター、開かないようにしてあるから。トラップも仕掛けてあるし」
 西山が切れ切れの声で言う。
「ねえ、もうやめようよ」
 手当を終え、血まみれになった両手を拭いながら夏美が言う。
「気が済んだでしょ? 上原君だって……死んじゃっ……たし……」
「西山、ハッパの残りはあと何発?」と秀樹は夏美を無視して訊いた。
「十二発」
「ねえ、秀樹、こんなことしたってもう……」
 夏美の言葉を、血まみれの腕が遮った。西山が身体を起こしたのだ。机からおり、化学室隅のダンボール箱に這っていく。
「伸吾、なにして……」
 箱から取りだした薄黄色の紙巻き――TNT爆薬――を、セーターの腹に次々と押し込む。
「今さら爆薬なんて使わないよ、西山」と秀樹は言った。
「でも、全部使いきらないと。不発弾があったかもしれない。そしたら、原因調べて、次作るときに――」
「伸吾、なに言ってるの?」
 次っていつだよ。そんなのあるわけないだろ。秀樹は言葉を飲み下した。西山の目には不気味な光が灯っている。
 時計を見上げる。もう五分とたたず、午前零時になろうとしている。
「とにかく。ここはもう無理だ。屋上に行くよ」
 新しい銃をベルトにさすと、秀樹は立ち上がった。キリカもうなずいて後に従う。夏美の肩を借りて、西山も化学室を出た。
 廊下ではミッキが銃を構えたまま階段前のシャッターをにらんでいる。シャッターの悲鳴の間隔は次第に短くなり、見てそれとわかる凹みができている。
「屋上に行くの?」
「うん」
 五人は無言で屋上への階段をのぼった。天文台に入るスティール製の大きな扉の把手に秀樹が手をかけたとき、階下でがらがらという金属音が響いた。そして いくつもの重たい足音が、地面の底からわき上がってくる。爆発音はない。ブービートラップは不発だったようだ。
 秀樹は扉を引き開けると、キリカの背中をつかんで中に押し込んだ。
「早く!」
 ミッキがその後に続く。
「伸吾?」
 夏美の悲鳴に近い声が響いた。西山が夏美の腕を振り払って、突然階段を駆け下り始めたのだ。
「待って、伸吾!」
 追いかけようと踵を返した夏美の肩をつかむと、秀樹はドアの中に力任せに投げ込んだ。
「西山、何する気だ!」
 秀樹は手すりから身を乗り出して、廊下にまで飛び出した西山の背中に向かって怒鳴った。彼は振り返りもしなかった。手にはリモコンが握られていた。電波 信管を手動でトリガーするものだ。
「バカ、爆発しなかったのがそんなに悔しいのか」
 秀樹は毒づいた。そして、不意に思い出した。シャッターのところに仕掛けたダイナマイトには、電波信管は入れていなかったはずだ。電波信管が入っている のは、――さっきまで箱に入っていたやつだ。
 秀樹は息を呑んで、ドアの中に飛び込んだ。
「伏せろ!」中の三人に向かって叫ぶ。


 突き上げるような激しい衝撃が、『科学棟』を大きく揺さぶった。窓ガラスがことごとく砕け、天井と床が崩れた。壁は引き裂かれ、数千の破片となって虚空 にはじき飛ばされた。爆風と衝撃は機動隊員達を真っ向から襲い、最前列の数人は半身を引きちぎられて即座に絶命した。立っていられる者はいなかった。将棋 倒しに床の上になぎ倒され、天井の破片がその上に降り注いだ。







 ・8月7日


 その日の朝、化学室には香織しかいなかった。西山はドアから首だけを突っ込んで部屋の中を見回し、他に誰もいないことを三回確かめると、中に入って戸を 閉めた。
 香織はヘッドフォンをつけて携帯用プレイヤーのテープに聴き入っていて、戸が閉まる音で西山に気づいて手をあげた。
「他のやつらは?」
「今日は来ないんじゃない? 夏休みなのに毎日来てる西山君の方が変だよ」
「大きなお世話」
 西山は細菌培養槽をチェックし、結晶体の様子を記録し、三日分たまっていた日報を書き始めた。
「化学部なのにどうして細菌とか扱ってるのかな」香織がいつの間にか横に来ていて、シャーレを覗き込みながら言った。
「化学は、原子物理学より上の全ての自然科学の基本。生物学も地質学も気象学も」
 香織は、ふうんと言ったきり、またヘッドフォンをかぶって曲に没頭した。西山は鼻をぐずらせると、また自分の作業に戻った。
 日報をつけ終えシャーレを冷蔵庫に戻そうと立ち上がりかけたとき、不意に頭に何かがかぶせられた。耳にざらりとしたスポンジの感触が押しつけられる。
 ヘッドフォンだ。気づけば香織が真後ろに立っている。手にはウォークマンを握っている。彼女が再生のボタンを押すと、かすかなノイズの前置きがあり、や がて頭の中に大音量のアンサンブルが流れ込んできた。
 歌っているのは秀樹だった。いつものざらついた深い声。陰鬱なツインギター、ロータリーのかかったハモンドめいたオルガン。けだるい十六ビート、蛇のよ うにうねるベースライン。
「どう?」
 香織が、耳元に囁くように訊いた。
「さあ」
 西山は曖昧に答えた。自分には音楽のことはよく分からない。
「悪くない。でもあんまり目立つ曲じゃない」
「そうかもね。実はこれ、B面用なの。本命はこっち」
 香織はそう言って、テープを止めた。自分を取り巻いていた重厚な音のうねりが突然消えてしまったために、西山は軽いめまいを覚えた。香織はポケットから 別のカセットを取り出して交換する。
 再生ボタンが、銃の撃鉄を引くときのような音をたてた。

       *

 胃がきりきりと絞り上げられているようだ。息をひとつつくたびに、同じ量の吐き気が喉を這い上がってくる。
 西山は流しに顔を突っ込んで、また嘔吐した。朝食を食べてこなかったので、大したものは出てこなかった。真っ黄色の胃液と、あとは苦い匂いのする空気だ けだ。痙攣がしばらく続き、肩から腰にかけての筋肉がセメントで固めたみたいに硬化する。
「大丈夫?」
 香織が心配そうに言いながら、背中をさすった。西山は五回くらい口をゆすいだ後、机の上に突っ伏した。
「大丈夫。大したことない」
「どうしたの、突然」
「その曲」
 西山は震える指で、机の上のプレイヤーを指差した。香織が眉をひそめる。
「なんというか、――何かを引きずり出すんだ。ここのところから」西山は自分の胸を指差した。「ものすごい力で。何かが出て来るんだ。真っ黒い塊が。ほん とうだ。ただ、それが俺にとっては――」
 西山は薄目をあけて香織の上半身をぼんやりと見ながら、ほとんど聞き取れないくらいの小さな声でつぶやき続けた。言葉の最後の方は明瞭とせず、むせびに 混じって消えてしまった。
 香織は手を伸ばし、西山の額を優しく撫でた。そして、頬から顎にかけてのラインを人差し指でなぞった。背骨が溶けて砕けてしまいそうなほど甘い感触だっ た。
「なにする気なんだ」
 西山は言った。今度ははっきりとした声で。香織の表情がわずかに翳った。
「これは、多分最後のシングルになると思う。秀樹がそう言っていたの」
 香織は手元のウォークマンに視線を落とした。
「だから。今度こそは、秀樹の声で。このデモテープのままで、発売するの」
「どうやって。無理だ、そんなの」
「ううん。できるよ。だって、そのためにわたしたちはKeishiを作ったんだもの。わたしが詞を書く。秀樹が歌を作る。直樹がそれを歌って、『ライカ』 の名前を広める。それから」
 香織の言葉そのものが歌みたいだ、と西山は冷たい机に頬を押しつけながら思う。
「直樹は手首を切って死ぬ。直樹の――Keishiのメッセージとテープが遺る。そこにはこう書かれているの。このテープの歌を、そのまま『ライカ』の曲 として発表するように、って」
 西山は何か言いかけたが、言うべき言葉が見つけられなかった。下唇が引きつって小刻みに震え始めた。
「直樹は、そのために生きてきたんだもの」
 これは存在してはいけないものだ、と西山は思った。
 あるいは、まだ存在してはいけないもの。
 香織は、目尻にうっすらと涙さえ浮かべて、かすかに微笑んだ。その微笑みで、西山の心臓は握りつぶされた。この世界に、他の全てを犠牲にしてでも守るべ きものがあるとすれば、この微笑をおいて他にないだろう。西山は敗北感に打ちのめされながら確信した。
「俺は」
 西山は何かを言いかけたが、自分が何を言おうとしているのか分からなくなり、言葉はそこで途切れた。

 ――俺は、何をすればいい? 何ができる?

「人にとって、死ぬことっていうのは」香織が消え入りそうな声で喋り始めた。「死ぬことは、突発事故なの。それは向こうからやってきて、避けられずに起 こってしまうことなの。でも」
 香織の手のひらが西山の髪の毛の中に優しく滑り込んだ。
「本当にごくわずかだけど、死ぬことを自分の行為として選べる人がいる。その人達にとっては、死ぬことは、足を一歩踏み出すことと同じ」
 そうだ。きっと同じだろう。そんなことは生まれたときから知ってたさ。西山は歯がみした。
「あなたに会えてよかった。私たちは幸運だったんだね」
 香織はいっそう優しく微笑んだ。身体のどこにも、声を出す力さえ残っていなかった。
 お前のために、一歩踏み出せっていうのか。
「私と、直樹と秀樹のために」
 そして訪れる、ハロウィンの夜のために。







 ・10月30日/3


 爆発の余韻は長く続いた。キリカは、塔全体がばらばらに砕け、崩れ落ち、自分たちのちっぽけな身体を巻き込んで地面に激突するところを思い描いた。
 揺れがどれほど続いたのかはわからなかった。あるいはほんの半秒ほどのことだったのかもしれない。
 キリカは身を起こした。天文室の床は崩れてもいなかったし、傾いてさえいなかった。黒々とした深い湖の水面のように押し黙って広がっていた。だだっ広い だけの、なにもない広間だ。天体望遠鏡はまだ設置されていない。見上げると、天井に切られた細い窓の向こうの空はまだ真っ暗なままだった。焼けるような埃 の臭いが鼻を刺した。
 暗闇の中で、伏せていた人影がひとり、またひとりと起きあがった。秀樹、それから夏美。
「――伸吾は?」
 夏美の声は、きなくさい闇の中にぽかりと浮かんだ。
「ねえ、伸吾はどこ?」
 秀樹が、ひざ歩きで夏美のそばによって肩に手をかけようとした。夏美はそれを振り払ってドアに駆け寄った。秀樹の反応は素早かった。夏美がドアに触れる 寸前に、後ろから抱きすくめて押さえつけた。
「離して! 伸吾が!」
「頭冷やせよ! 爆弾十二発も抱えてたんだ、生きてるわけないだろ!」
「離して! 離してってば!」
 夏美は泣き叫びながら、秀樹の二の腕や首に爪を立てて掻きむしった。ひじや拳が何度も秀樹の顔にぶつかった。それでも秀樹は離そうとしなかった。
 キリカは、二人がドアの前でもみ合っている様をぼうっと見つめていた。夏美の口から、だれかの名前が何度もほとばしった。でも、それがだれなのか思い出 せない。
 最初、六人いたのは憶えていた。ひとりは戻ってこなかった。目を開けたらもうひとりも消えていた。今は四人だけだ。四人――
 鋭い音が空気を穿ち、キリカの朦朧とした意識は切り裂かれた。
 目の前で、秀樹の身体がゆっくりと力を失い、夏美の身体を伝ってずり落ちた。夏美はつんのめってドアにぶつかりそうになり、手をついて身体を支えると、 音のした方を振り向いた。
 夏美の顔が凍りついた。
 キリカはその視線をたどって、首を後ろに向けた。
 ミッキの手に握られたニューナンブの銃口からは、一筋の青白い硝煙が立ちのぼっていた。それは窓から斜めに差し込んだ月明かりの中にしばらく立ち止まっ た後、空気に溶け込んで消えた。
「行けよ」
 ミッキは夏美に言った。
「もうパーティは終わりだし、君は予定外のゲストだからさ。邪魔なんだよ」
 夏美はミッキを凝視したまま、動かなかった。下唇がかすかに震えただけで、ドアに背中を押しつけたまま、全身が石のように硬直している。
「さっきまで『伸吾君』だった、ぐちゃぐちゃの肉のかけらでも見に行けよ」
 ミッキは夏美に一歩にじり寄った。その手前に身を横たえている秀樹に一瞥をくれ、また言葉を続ける。
「それからちゃんと外に出て、警察に言ってよ。自分は人質だったけど逃げ出してきた。中にはもう犯人達三人しかいません、全員頭のおかしい誇大妄想狂で す、って」
 夏美は首を振った。何を否定しているのかはよく分からなかったが、とにかく何度も何度も首を横に振った。ミッキは眉をひそめ、引き金を引いた。弾丸は夏 美の頭のすぐ横に穴をあけた。
「行けよ」彼は吐き捨てるように言った。
「行っちまえ! こんなところで僕らと一緒にくたばるつもりかよ!」
 夏美は息を飲み込むと、ドアに背中をこすりつけながら何とか膝を立て直した。眼鏡をはずして、ぐちゃぐちゃになった顔を手で拭い、それからミッキの顔を 見上げ、なにかを言おうとした。
 結局彼女は無言のまま、ドアの向こうに姿を消した。階段を下りていくもつれた足音は、すぐに聞こえなった。静寂がひたひたと天文室の中に溜まり、三人を 押し包んだ。
「啓司」
 ミッキの声は不気味なくらいはっきりと響いた。
「立てよ。まだ死んじゃいないだろ」
 しばらく反応はなかった。
 やがて秀樹の右手が何かを求めるようにゆっくりと伸ばされ、壁を探り当てた。両手を壁につき、それを支えにして膝から上を起こし、背後に向き直った。秀 樹のシャツの右の腹は赤黒く染まり、その染みは少しずつ広がっていた。
「なんだよ、その目は」
 ミッキは冷笑混じりに言った。秀樹は脇腹を押さえながら、足を踏みしめて立ち上がった。
「もっとましな顔しなよ。日本中を沸かせたヒットメーカーとは思えないね。ガキっぽい理由で色んな人をだまして、踏みつけてさ。いい気分だろ? テレビも きっといっぱい集まってる。僕もこの祭りに参加できて楽しかったと思うよ。でも」
 ミッキは拳銃を握った右手を持ち上げ、銃口をぴたりと秀樹の額に向けた。
「でも、君は香織を殺した。直樹も。それは許せなかった。おまけに自分ひとりは、ヒーローぶって戦死するつもりだっただろ?」
 秀樹は歯を食いしばってミッキをにらみつけた。
「ただ、僕は――最後にこうするために戦争ごっこにつきあったんだ。分かる? 最後の最後で背中から裏切られる気分はどう? 君は穴だらけになって死ぬん だ。自分からそれを選んで、一歩踏み出して死ぬんじゃない。君が軽蔑してた世の中の何億人もの有象無象と同じように、やってきたものをやり過ごせずに、み じめな失敗の結果として死ぬんだ」
 ミッキの右手の指に力がこもった。
「Keishiは消えた。秀樹も直樹も、消えた。君が消したんだ。香織に謝らなくちゃいけないのは君の方だよ」
 秀樹は目を閉じた。
 両手はだらんと落ち、気丈に踏ん張っていた膝は力つきて折れた。

 銃声は、祝福の刻を告げる鐘の音のように、暗がりに溜まった不浄な静寂を貫いた。
 ミッキの右手から銃が――冷たいままの銃が滑り落ち、骨まで響くほど冷たく硬い音をたてて床に転がった。ミッキの身体は糸の切れた操り人形のように関節 ひとつひとつの力を失い、ほとんど音も立てずに床の上に崩れ落ちた。うなじから鮮血がとめどなく吹き出し、スカイブルーのトレーナーのフードを染め、首か ら背中にかけてが瞬く間に紅の血だまりに飲み込まれた。
 キリカは、自分の手にからみついた不吉な色の煙が薄れて消えてゆくのをじっと見ていた。それから、汗ばんだ手に握りしめた拳銃を床に落とした。
 目の前の骸を踏み越え、ドアの前で目を閉じたまま立ちつくす秀樹のそばに駆け寄る。

「秀樹! ねえ、秀樹! しっかりして!」
 秀樹はうっすらとまぶたを開いた。
 だれかが自分の両腕をつかんで揺さぶっている。やめて。傷口が痛む。そっとしておいて。このまま眠らせて。
「秀樹! やだ、死んじゃいやだ! 秀樹!」
 だれかがだれかの名前を呼んでいる。でも、自分の身体はどこだろう。首から下はどこへいってしまったんだろう? そばにいるのは一体だれだ?

 少年の身体はドアを伝ってずるりと床の上に滑り落ち、足下の血の海の中に沈み込んだ。少女は少年の頭を胸に押しつけるようにして抱きかかえながら、泣き じゃくった。
「嘘だよ、こんなの。嘘だよ。ねえ、秀樹、秀樹……」
 少女の声が、ずっとずっと上の方から聞こえてくる。それはどんどん遠ざかっている。頭上にぽっかりと浮かんだ真っ白な光の輪が見る間に小さくなってゆ く。いや、自分が沈んでいっているのだ。深い深い夜藍色の井戸の中へと。
 あれは自分を呼んでいるのだろうか?

 少女の声はじきに沈黙の水平に消え、光の輪は点になりやがて闇に同化した。そして、少年のまぶたのすぐ上で、なま暖かい暗黒のぬかるみが閉じた。







 ・前夜祭


 暗闇に血の匂いが充満していた。がらんどうの丸い部屋の床は、すでにその面積の半分がどす黒く濡れ、天井近くの窓からかすかに差し込む陽は、床に落ちて 深紅に燃えている。
 夜が明けようとしていた。
 血だまりの中に少女はひざまづいていた。震える腕を伸ばし、目の前でうつぶせになっている少年を抱き起こす。血みどろの胸に耳を押し当てる。リズムは途 絶えていた。
 もうひとり、背後に倒れている少年の方を見やる。上半身はほとんど血の海に沈んでいる。
「どうしてこんなふうになっちゃったんだろう」
 少女はつぶやいた。答えの代わりに、はるか階下でなにかが崩れる音が聞こえてきた。それから、階段を駆けのぼる無数の足音。
 もともとわたしが始めたことじゃない。少女はそう自分に言い聞かせようとした。わたしのせいじゃない。わたしのせいじゃない。これはわたしの戦いじゃな い。そしてこのまま目をつむって、温かい血の中で眠ってしまおうとも思った。
 でも、と声がした。これはわたしがが始めさせたことなのだ。身勝手な自分の想いのために。
 最後にこうなることは、ほとんど予定されていたことだ。分かっていたはずだった。この結末を拒むくらいなら、最初から彼らを引き留めるべきだったのだ。 でもわたしは、ついていくことを選んだ。わたしにとっては、これがわたしとあの女との戦いだったからだ。だからこれは、わたしが終わらせなければいけな い。
 少女は腕をほどいた。少年の上半身がごとりと床の上に倒れ、想像していた以上に金属的な音をたてて崩れるようにうつぶせになった。傍らの床に横たえられ ていたずしりと重い銃身を震える手で引き寄せると、少女はその高圧電源を開放し安全装置のプラスティックテープを引きちぎった。スペアの電源は合計で八個 ある。
 彼女は、各部位を念入りに点検しながら、その武器の制作者の言葉をひとつずつ思い出していた。これは危険な武器で、扱うには細心の注意が必要である。使 用の際には必ず絶縁体の手袋を着用すること。腰だめに構えてまっすぐに発射し、両方の針が相手に達したのを確認してから電流を流すこと。足下が濡れている 場合は絶対に使用しないこと……。
「負けるもんか」
 少女はそうつぶやき、グリップを握りしめた。







 ・10月31日


「おい! 警察がノーヘルでバイク乗っていいのかよ!」
 背中にしがみついた皆川が耳元でわめいた。尚子は答えず、まだ煙をくすぶらせているN高科学棟の姿を見つめながらハンドルを切った。薄暗く人影ひとつな い交差点を、二人を乗せたホンダNRは斜めに走り抜ける。
 夜が明けようとしていた。爆発でえぐられた塔の痛ましいシルエットが、逆光の中に浮かび上がる。バイクは黄色信号を猛スピードで突っ切り、寺院と墓地が 両手に並ぶ長い坂道を下り、悲鳴を上げてアスファルトに黒々とタイヤの跡を描きながら校門に滑り込んだ。居並ぶ制服姿が一斉に振り向く。
「ご苦労様です!」
 言いながら尚子はバイクから飛び降りた。怪訝そうな視線が集まるのを無視して、校舎前のテントに駆け込む。
「C署の大島です! 柿沼警部は――」
 長机のこちら側に座って柿沼が振り向いた。
「大島、おまえ今日非番だろうが」
「そんなことより」
「ちょっ、こっちに来い!」
 柿沼はパイプ椅子を蹴倒して立ち上がると、尚子の手をつかんでテントを出た。校門のすぐ内側の銀杏の木まで引っぱってくる。
「おまえ! 今日は本庁のも来てるんだぞ、おとなしくデパートで買い物でもしてろ!」
 尚子は柿沼の身体を押しのけてテントの方をうかがった。目つきの悪いスーツの男達が何人も、こちらを不審そうに見ている。確かに、警視庁の人間だ。見憶 えのある顔も混じっている。
「柿沼さん、お願いですから。遊びに来たわけじゃないんです。状況を教えてください」
「あいつはなにもんだ」
 尚子の言葉を無視して、柿沼はバイクの横に立っている皆川を指差した。
「週刊Gの記者です」
「おい大島! おまえ、なに考えてんだ? 少年事件だぞ、現場にブン屋連れてくるなんざ――」
「ちょっと柿沼さん落ち着いて。後で説明しますから」
「なにがだ馬鹿野郎! いいからとりあえず出てけ!」
「大島」
 尚子は振り向いた。皆川がいつの間にかすぐ後ろまで来ていた。テントの方を指差している。
「奥村夏美だ」
 尚子は皆川の指差した先を見た。テントの下、刑事達が並んで座っている机の向こう側に、ひとりの少女が見える。髪はぼさぼさで、顔は土気色に翳り、ひび 割れた眼鏡のせいか、目はどちらを見るでもなく虚ろだった。
「あれが?」
「先輩が集めてきた写真で見たよ」
「詳しいなブン屋」と柿沼。
「どうも」
「もう全員捕まったんですか?」
「いや。爆発があって、二十人死んだ。あの娘だけ解放されて出てきた。その後、中に入った連中が三十人、戻ってこない。本庁のやつらがこれからどうするつ もりなのか知らんが多分応援待ち……おい、大島!」
 尚子はテントに駆け込むと、机を飛び越えて夏美の隣に着地した。警視庁の刑事達が目をむいて立ち上がる。
「なんだ、君は」
「なにしに――」
 夏美は尚子のことを見ようともしなかった。その目の前に、尚子はクリップでとめられた一束の原稿を差し出した。やはりなんの反応もない。
「『ライカ』の最新シングルのヴォーカルは、今まで通り橘啓司だったよ」
 夏美の肩がぴくりと震えた。ゆっくりと首を回して、尚子の顔を見上げる。
「ほんとうですか」
 かすれた声だった。尚子はうなずいて、夏美の肩に優しく手を置いた。
「それ。読んでみて」
 机の向かい側から本庁の刑事達が口をはさんでくる。
「大島君。それはなんだ?」
 いちばん年長のひとりが訊いてきた。何度か合同捜査で一緒に仕事をしたことのある、本庁の課長だった。
「課長もどうぞ。あ、柿沼さんも」
 尚子を追いかけてテントに走り込んできた柿沼の鼻先に、尚子は原稿のコピーを突きつける。
「なんだこりゃあ」
 柿沼は紙束を引ったくった。
「この事件のおおよその背景です。彼、皆川政夫記者が書いたものです」
 尚子が指差すと、刑事達はそろって銀杏の木のそばに立つ皆川に目をやり、それからコピーに目を戻す。
 しばらくの沈黙があった。
「ばかげてる」
 だれかが言った。
「ひどいな。オカルト雑誌の記事か?」
 だれもが、鼻を鳴らしてコピーを机に放り投げた。そのとき、空虚な金属音が響いた。倒れたパイプ椅子は尚子の脚にぶつかり、平たく畳まれて地面に伏し た。
 夏美が立ち上がり、両手をついてうつむき、机が揺れるほど激しく震えていた。
「奥村さん」
 名前を呼ぶと、夏美は顔をかすかに横に向けた。
「あなたたちがやっていたことは、そこに書いてあるので間違いない?」
「……はい」
 刑事達が騒然となる。尚子はジャケットのポケットから携帯CDプレイヤーを取りだした。
「これが、今日発売の、そのCDです。レコード会社にもプロダクションにも確認を取りました。その原稿に書いてあることで、間違いありません。でも」
 尚子は隣の夏美をちらとうかがった。
「でも、彼らは失敗したんです。これは、普通のCDです。最後に裏切られたんです。それを、教えに行きたいんです」
 夏美が息を呑む音がはっきり聞こえた。尚子はさらに続けた。
「私が、ひとりで中に入ります。彼らを説得させてください」
 しばらく、だれも口をきかなかった。
 夏美の身体がふらりと泳いで、倒れかけた。尚子はとっさに手を伸ばして支えた。夏美の顔から血の気が引いている。緊張が途切れたのだろう。尚子は夏美を 椅子に座らせた。
「疲れているようだ。病院に」
 課長が言った。隣の若い刑事がうなずいて、駐車場の方へと駆けていった。
「大島君。君が彼らを説得できる根拠でも?」
 尚子はうなずいた。
「私の友人が、昨晩、自殺しました」
 居並ぶ刑事達が眉をひそめた。尚子は言葉を続けた。自分でも、なにを喋っているのかよくわからなかった。
「彼らの作った曲の分析を個人的に依頼していたんです。歌を繰り返し聴きすぎたんでしょう。手首を切って死にました。私は、その、力みたいなものを、この 目で見て、この耳で聴いています」
 声がうわずっているのが自分でもわかった。
「行かせてください。お願いします」

       *

 屋上の天文室へと続く階段の途中には、十数人の機動隊員が蟻の死骸のように転がっていた。
 火薬の匂い、血の匂い、そして肉の焦げた匂いが入り混じってあたりを満たしている。尚子は息を呑んで、その一人の身体におそるおそる触れてみた。青い制 服の胸の辺りに、焼けこげた二つの穴が空いている。ヘルメットの下の目は恐怖と衝撃に見開かれ、舌が口から吐き出されたように飛び出ていた。
 深呼吸して、一歩一歩階段を上った。ポケットの中で、携帯CDプレイヤーを握りしめながら。
 扉の前に立つ。スティールの分厚い扉で、ノブではなく環状の把手がついていた。扉はほんの五センチばかり開いていて、その隙間の向こうの暗闇からは、 ぞっとするくらい冷静な殺気が漂い出てきていた。
「こちらはひとりです。武器も持っていません」
 尚子は、からからに乾いた舌を必死に歯茎とこすりあわせながら言った。
「あなたたちをどうこうしようとして来たんじゃないの。ただ、……ただ、『ライカ』のニューシングルが今朝、手に入ったから、聴いてもらいたいと思って来 たの」
 暗闇の中の殺気はわずかに角度を変えたように思えた。
「中に入れてくれる?」
 尚子はしばらく息を殺して、反応を待った。目を伏せてじっと黙っていると、扉の向こうの息づかいの気配が感じ取れた。
 おそらく――たったひとりのものだ。
 金属製のなにか大きなものが、床にぶつかるがちゃんという音がした。尚子は、はっと顔をあげた。そして扉に手を触れ、おそるおそる引いてみた。
 扉は想像以上に軽く、手前に向かって滑るように音もなく開いた。
 扉のすぐ向こう、かすかな逆光の中に、一人の少女がうずくまっていた。そして、目もくらむほどに広がった血の海の中に、もう二人が身体を横たえていた。 刺激臭が鼻腔を突いた。
「阿久津……桐花さん?」
 尚子の声に、少女はうつろな視線を持ち上げた。
 かつては鮮やかなクリアオレンジだったはずの髪には、そこかしこに血糊がこびりつき、煤と粉塵にまみれてつやを失くしていた。唇は不健康な紫に染まって おり、頬は灰色に汚れていた。ただ、その目には不気味なくらいの決然とした生気が、揺らぐことなく燃えているのが見えた。
 彼女の手には武器は何も握られていなかった。傍らに、黒と黄色のビニルテープでぐるぐる巻きにされた棒状のものが転がっていた。先端に二枚の金属板が取 り付けられ、もう片一方にはバッテリーがテープでとめてある。血だまりの中に棄てられたそれは、まるで彼らをこの戦いへと突き動かした意志の全てを象徴し てるかのようにも見えた。
 尚子は扉の中に踏み込み、少女の目の前に身を屈めて視線の高さをあわせた。少女は微動だにしなかった。それからポケットの携帯用CDプレイヤーを取り出 し、少女の膝の上にのせた。
 少女は銀色の円盤状のそれをしばらくじっと見ていた。尚子はイヤフォンのコードをほどき、端末を少女の両耳にそっと差し入れた。少女はその感触にかすか に身じろぎしたが、尚子が再生のボタンを押すと身体の震えがとまった。
 少女の目は驚きに見開かれ、口から何かの言葉が漏れ出た。それは尚子には、遠く異国の言葉の――北欧かどこかの言葉での、『さよなら』の文句に聞こえ た。
 やがて彼女は目を細め、祈るように天空を仰いだ。頬を止めどなく涙が伝い落ち、埃や血と混ざり合って彼女の手の甲に落ちた。
「Keishiの声だ」
 少女は熱い涙に喉をつまらせながらも、囁いた。
「……どうして?」
「あなた達は、裏切られたの」
 尚子は優しい声で言った。少女は尚子の顔に視線を向け、その言葉の意味をしばらく考えるような目つきをした。唇が無意識に、短い音節の単語を形作った。 声は出てこなかった。ただ涙が、まつげからこぼれ落ち、頬に幾筋もの轍を刻んだ。
 少女はやがてゆっくりと首を横に振り、
「ううん。これで良かったの」と言った。
 彼女は、膝の上のCDプレイヤーを取り上げると、そばに横たわる少年の胸の上にそれを置いた。そして片耳のイヤフォンをはずし、顔と顔を近づけ、少年の 耳にそれを指で押し入れた。
「ねえ、秀樹。聞こえる? ……あなたの歌じゃないよ。いつもの、Keishiの歌だよ。ねえ、聞こえてる?」
 少女は少年の耳元に口を寄せ、甘えるような声で囁き続けた。
「最後のシングルだからさぁ、ねえ、きっと三百万枚はいくよね。レコ大もゴールドディスクももらえるよ。紅白には出られないけど、ねえ。秀樹。この曲は苦 労したもんね。憶えてる? 私なんか、リムの入れ方がしつこいってあなたに何回も文句言われて……」
 尚子はいたたまれなくなって二人に背中を向けた。胸が締め付けられ、熱くなる。天井を見上げて必死に涙をこらえたが、最初の一筋が火照った頬を走ると、 あとは抑えようもなかった。
 部屋を出て扉を後ろ手に閉めた。涙は止まるどころか後から後からあふれ出てきた。冷たい金属の扉に背中をあずけながら、尚子は暗がりの中で、沸き起こっ たその不可解な哀しみがあらかた流れ出てしまうのをじっと待ち続けた。







 ・10月1日


 朱色の残照は丘陵のぼやけた輪郭の上に細く短い線となって見えているばかりだった。屋上から眺めると、他のビルや山並みに遮られることなく黄昏の稜線を たどることができた。
 夕映えはフェンスの上に腰掛けた香織の横顔を照らしていた。夏美には、香織の頬をすみれ色に染める密やかな落陽の火が、なぜだかとてもまぶしく映った。
 香織の目は夏美の後ろの、ずっと遠くの空に向けられていたようだった。風はまったくなく、風化して剥がれたペンキのような形のいくつもの雲は、空に張り ついたように動かなかった。
 やがて香織の目の焦点がゆるんだ。その視線がゆっくりと夏美の顔にまでおりてきた。まるで、たった今夏美がそこにいることに気づいたみたいだった。
「何の話をしていたんだっけ」
 香織がさらさらに乾いた声で言った。
「そんなところに座ってると危ないよ」
 夏美は震える声で言った。震えているのが寒さのせいでないことは、自分でもよく分かっていた。
「ここからだと景色がよく見えるの」香織は言った。「家がいっぱい見える。一戸建ての屋根も、アパートもマンションも。お寺のとんがり帽子も見えるし、お 墓もたくさん見えるよ。車の流れも見える。ヘッドライトの群が、筋になってすれ違って、つうっと流れていくの」
 夏美は、まるで頼りないちっぽけなゴムボートに乗せられて大洋の真ん中に放り出されたような絶望的な孤独感に襲われた。足がすくみ上がり、不意の目まい が訪れ、一歩後ずさった。
 夏美の足が踏みしめたのは、水面ではなく確かなコンクリートの床面だった。むき出しのコンクリートの、冷たくざらついた感触。
「もう、やめて」
 夏美は、体中に残された本当にわずかな自分の意志をかき集め、それをやっとの思いで言葉にした。香織にその言葉が届いたのかどうかはわからなかった。
 ゆっくりと時間をかけて、香織の薄桃色の花弁のような唇は、最も効果的な言葉を探り当てようと虚空をはみ続けた。その間に、落日の最後の一片はすりつぶ されて消えた。
 夏美は言葉を続けた。
「みんなは――伸吾も、秀樹も。キリカちゃんも。あなたの道具じゃない」
 一言ごとに、身体の力が唇から流れ出して溶けてしまうみたいだった。
 香織は目を閉じ、一呼吸を置いてまたまぶたを開いた。
 夏美ははっとした。香織の瞳の色が真っ赤に変わったように見えたからだ。でもそれは反射光による錯覚に過ぎなかった。香織が視線を二人の間の床に落とす と、その赤い光も消えた。
「道具なんかじゃないよ」
 香織はほとんど息を吐くのと変わらないくらいの小さな声で言った。
「人は道具なんかじゃない。人がもし道具なのだとしたら……わたしだってそうだし」
 夏美は視線をそらすことができなかった。可能ならばその場から逃げ出してしまいたかった。けれど脚がこわばって動かなかった。空気ごと凍りついて地面に 固定されてしまったみたいだ。
「あなただって、そう」
 香織は夏美を指差し、それからその指を自分の胸に置いた。
「秀樹と直樹は、最後のハロウィンの夜のために生まれた。わたしとあなたは、今日この時のために生まれたの。ほらね」
 荒々しい風が突然、どこからともなくやってきて、二人のまわりを取り巻いていた凍てついた空気を吹き飛ばした。香織の髪は舞い上がり、風の舌先ではため いた。
 夏美は不意に、自分の身体が束の間自由になっていることに気づいた。こわばっていた膝が、わずかではあるが熱を取り戻しつつあった。足の裏の感触にだけ は、正常な世界の密度とリアリティが残っていた。コンクリートの冷たさと、温かさ。
「他に価値なんてない。人の価値なんて、過去にひとつ、未来にひとつしか存在しない。あなただって気がついてるでしょう?」
 香織の声がほんの少し色を変えた。
「あなたは私を消して、私の全てを背負っていくの」
 夏美は耳を塞いでしまいたかったが、腕の感覚は戻っていなかった。でも、足を地面から引きはがすことはできた。とにかく、ここから逃げ出すのだ。現実に 戻るのだ。伸吾が、秀樹が、キリカが、みんながちゃんと自分の泣き笑いのためだけに生きている世界へ。
 そのとき、夏美の視界の右の隅を、白いものが走って横切った。彼女の顔の横から伸ばされたそれは、真っ白な肌の、本当に真っ白な肌の腕だった。細く骨 張ってはいたけれど、男の腕だ。
 腕はまっすぐ香織の胸に吸い込まれ、掌がその胸倉を突き飛ばした。
 夏美はその時の、自分の右手をかすかに押し戻した香織の胸の感触を、今でも憶えている。踏みしめたコンクリートの、凹凸ばかりのとげとげしい感触も。誰 かを抱き留めるかのように両手を広げて宙に舞った香織の、口元に浮かんでいた最後の微笑みさえも。
 夏美は呆然として、突き出された自分の右手をじっと見つめていた。香織の姿は消えていた。完全に。手のひらの向こうには、ようやく訪れた平坦な宵闇が、 ずっと遠くの空まで広がっているばかりだった。
 どこかから、聞き慣れた旋律が聞こえてきた。夏美は混乱しきった頭で記憶をさぐった。どこで聞いた曲だったろう?
 ああ、そうだ。思い出した。あの歌だ。味気ないのっぺりとしたビープ音だったけれど、それは間違いなくライカの『Never Knows』のコーラスのメロディだった。
 夏美は視線をさまよわせ、音の主を捜した。
 フェンスの足下に、薄緑色のかすかな光が落ちていた。かがみ込んで拾い上げてみると、それはクリアブルーの携帯電話だった。呼び出しのメロディは鳴り続 け、液晶画面は着信を訴えていた。
 夏美は画面に表示された相手の名前を確認すると、しばらくぼんやりと単音の旋律に聴き入った後、電源を切った。
 緑色の微かな光は消え失せ、温かく穏やかな闇が夏美を包んだ。







 ・11月6日


「オランダに似たような話があったな」
 皆川はぽつりと言った。尚子は「ん?」と反応して、水割りの入ったグラスを置いた。
 店は薄暗く、オレンジ色のライトがぼんやりと丸テーブルの輪郭を浮かび上がらせていた。カウンター席のストゥールに座っている皆川と尚子の他には、客は ひとりもいない。初老のバーテンダーが少し離れたカウンター奥で黙ってグラスを磨いている。ゼラニウムの鉢植えの裏側のスピーカーから、モダンジャズの ゆったりとしたスタンダードナンバーが流れていた。
「オランダ? なにそれ」
「オランダの音楽業界がさ、一人のスーパーアーティストをでっちあげたっていう噂さ。美形のモデルの顔写真を使って、一流の作曲家の曲に一流の作詞家が歌 詞をつけて、それをとびきり上手い歌手に歌わせて、最高級のバックバンドにバッキングさせる。そしてそれをあたかも、一人のミュージシャンが作詞作曲演奏 したかのように吹聴して売り出すっていう商業戦略さ。結局デマだったけど」
「それなら日本にも似たような話があったじゃない。CDばっかり出して一回もコンサートをやらない、あの女性ヴォーカルの、なんていったっけか」
「それもこないだ、ちゃんと初ライヴやったじゃねえか」
 皆川はふんと鼻を鳴らすと、ストレートのバーボンを一気に飲み干した。
「結局誰がどれだったのか、分からずじまいか」
「三人とも、よ」
 尚子の言葉に、皆川はとろんとした目を傾けた。尚子はテーブルの上に散乱したピスタチオの殻を一つずつつまんで皿の上に置いた。
「あの三人で……ううん、六人で一人のKeishiっていうミュージシャンだったの。その、オランダの噂話そのまま。それでいいじゃない?」
 皆川は尚子をにらんだ。多感な女子高生みたいに頬を赤らめて笑っている尚子を見ていると、なにか無性に腹が立ってくる。取り残されたような気分になるの だ。
「あいつら、結局のところ何をやろうとしてたんだよ? お前、ひとりで全部わかったようなこと言ってただろ」
「知りたい?」
「教えろよ」
 尚子はハンドバッグから何かを取り出して皆川の目の前に置いた。それは手のひらにすっぽりと収まるくらいのサイズのウォークマンだった。
 イヤフォンに手を伸ばしかけた皆川に、尚子は言った。
「淳君はこれで殺されたの」
 皆川は手を止めて尚子の顔をのぞきこんだ。
「なんなのかは、私にもわからない。やめておいた方がいいかもしれない」
「ここまでつき合わせておいて、そりゃないだろ」
 皆川はイヤフォンを耳に入れた。
 尚子の指がリモコンに触れ、テープが回りだした。


「『ラストハロウィン』」
 再生されてしばらくたってから、皆川が言った。
「そう。でも、歌ってるのはKeishiじゃないでしょう」
「そうだな。メロディが同じだけで、後ろの楽器も全然違う。誰だ、これ?」
「N高民音部。歌っているのは飯岡秀樹」
 尚子は言ってから、自分の口調がなぜだかひどく誇らしげになっているのに気づいて、口元を押さえた。しかし皆川はそんな尚子の様子も全く意に介さないよ うで、イヤフォンを片耳だけはずして言った。
「なるほどね。これもあいつらが作ってたわけだ。デモテープってことだな、これは」
「皆川君、なんともないの?」
 尚子は驚いて訊ねた。
「なにが?」
「なにが、って……」
 尚子は、それを言葉にして説明しようとした。自分の胸に手をあて、秀樹の部屋で自分を貫いたあの感触を回想しようとした。あの時呼び起こされた、深い海 の底から浮かび上がってくるものを、皆川になんとしてでも伝えようと思った。
 そして不意に悟った。そうだ。これこそが、彼らを突き動かしていたのだ。彼らは伝えずにはいられなかったのだ。今の私と同じだ。
 そう思うと、尚子の言葉は自然と笑い声に変わっていた。皆川は眉を寄せた。その表情がなぜだか可笑しく、尚子はいっそう声を高くして笑い出した。唇をし かめ首を傾げる皆川の前で、尚子は肩を揺らしてし笑い続けた。

       *

 十一月の乾いた絹糸のような夜風が、店の外に出た二人を横から斬りつけた。尚子はマフラーを巻き直し、手袋をハンドバッグから取りだした。
 じゃあね、と皆川に言おうと振り向いて、尚子は彼が、唇を曲げて視線をそらし、爪先で地面を掻きながら突っ立っているのを見てしまった。それで、しばら く相手の言葉を待ってみることにした。
「もう一軒行かねえか」と、皆川は思いきって言った。
「冗談」尚子はさらさらと笑いながら切り返した。「明日だって仕事があるんだし」
 皆川はしゅんとした顔でうつむき、無言で手を振って駅の方へ歩き出そうと尚子に背中を向けた。尚子は笑い出しそうになるのをこらえながら、その背中に声 をかけた。
「また来週くらい、誘ってよ」
 それから、皆川が振り向いてなにか言うのが耳に入る前に、踵を返して駐車場の方へと駆けだした。

       *

 皆川は、尚子の青いコートの後ろ姿が角を曲がって消えてしまうのを見送ると、再び歩道を大通りへ向けて歩き出した。尚子のホンダNRの排気音が遠ざかっ ていくのが聞こえた気がした。
 道の途中で、自分のコートのポケットに入っているものに気づき、それを取り出して立ち止まった。
 それは、封筒に入った一束のワープロ原稿だった。数日前に書き上げたものの、色々と迷った挙げ句に未だに提出できずにいるあの原稿だ。
 皆川は歩道の脇でその原稿を広げ、街灯の控えめな明かりの下で文面を読み返した。
『これは、兄弟であった二人の少年と、一人の少女が造り上げた、橘啓司という虚像にまつわる複雑怪奇な事件である。しかしこの事件について述べる前に、こ れだけは読者諸氏に理解しておいていただきたい。これから彼らのいかなる凶行が説明づけられようとも、彼らの生み出した音楽は、やはりこの国全てを熱狂さ せるだけの輝きを持ったものだったということにかわりはないのだ、と……』
「うちの雑誌向きじゃねえよなあ、これ」
 皆川は自嘲気味につぶやくと、手にしたその十数枚のワープロ原稿を縦横に引き裂き、丸めて封筒に押し込んだ。そしてコンビニエンスストアの前にある可燃 ゴミ入れにそれを放り込むと、『ラストハロウィン』の旋律を口笛で吹きながら、光の渦巻く市街地へと歩き出した。



戻る