縛鎖の王国

 証言台に立った津原被告は、とても六人を殺害した凶悪犯には見えなかった。光の加減によっては栗色にも見える髪は無造作に伸ばしていたが絹布のように柔 らかそうで、深緑のシャツの襟からのぞくうなじは白く細く、その後ろ姿は女性と見間違えそうなほどほっそりしていた。
 人定質問とそれに続く罪状認否において、津原被告は裁判長と以下のような対話をした。記者にあるまじきことだが、わたしはそのとき、津原被告の姿を直に 見て直にその言葉を聞いた衝撃のあまりメモを取り忘れていたので、事後に記憶に頼ってこれを書き記している。発言の細部は異なっているかもしれないが、い くらかの描写で場の雰囲気を補って書き起こすこととしたい。

      *

 裁判長は、ヒラメを四角い箱に無理やり押し込んだような顔をした五十歳後半くらいの男で、丸眼鏡が低い鼻頭からずり落ちそうだった。名前を失念したの で、ここではヒラメと呼ぶことにする。ヒラメは言った。
「名前と、誕生日、職業を言いなさい」
 津原被告は、変声期中の少年のようなかすれた高めの声で答えた。
「津原俊虎。一九七八年一月八日生まれ。無職」
 べったりとした口調にヒラメ裁判長はあきらかに呑まれ、鼻白んでいたが、咳払いをして検察官を見た。検察官は眉根にしわを寄せたまま起立し、起訴事実を 順番に読み上げていった。
 津原俊虎は先月二十四日午後九時ごろ、コンビニエンスストア前の駐車場で座り込んで喫煙していた男性四人(いずれも二十一歳無職)を素手で殴って殺害。 その後、自転車で現場から逃走すると、二百メートルほど離れた路上に停めてあった自動車の運転席にいた三十四歳の男性をやはり殺害。くわえてこのとき自動 車にも損傷を与えている。損傷、と陳述書は控えめに表現していたが、後に知ったところによると修理不能なほどに叩きつぶされていたらしい。さらに、自宅付 近まで戻ったときに、犬の散歩で通りかかった二十八歳の女性とその飼い犬を殺している。
「被告人は殺人の事実を認めますか」
 ヒラメがわざとらしく重低な声で訊いた。津原被告がうなずいただけだったので、ヒラメはやや高い声で質問を繰り返した。
「認めるよ」と津原被告は答えた。
「なぜ、このような犯行に及んだのですか」
 ヒラメが、司法に携わる者にしてはやや軽率な質問を発した。しかし無理もないとわたしは思った。日本中が知りたがっていることなのだ。なぜ殺したのか。 そしてもうひとつ、この男は何者なのか。
 津原被告は背筋を伸ばすと、手すりに両手をそえ、語りだした。かすれた声がいくぶんはっきりし、法廷内にしっかりと響いた。
「コンビニを出ようとしたらドアのそばに四人がたむろしていて、コーヒーの空き缶を灰皿がわりにしていてひどく嫌なにおいがした。四人とも頭の悪そうな醜 い顔をしていたので殴って殺した。それから自転車で逃走というのは間違いだ。僕は逃げていない。ただ家に帰ろうとしただけだよ。帰り道の途中で歩道に乗り 上げて停めてある車があった。ちょうど電柱の真横で自転車が通れないようになっていて腹が立ったので車をどけようとしたら、運転手が乗っていて携帯で笑い ながら話していたので車ごと潰した。アパートの前まで来たら小型犬を連れた女が向こうからやってきた。僕は小型犬が嫌いだ。しかもそいつはよく吼えるやつ だった。おまけに飼い主の女は幼児語で小型犬に話しかけてたしなめていた。非常に不愉快だったので犬を蹴り殺し、飼い主もブロック塀に叩きつけて殺した」
 陳述はよどみなかった。警察での証言とも一致していた。法廷内はしばらくの間、呼吸を搾り取られてしまうような沈黙に支配されていた。検察官はうつむ き、弁護人は額に手を当てて天井を仰いでいた。沈黙を破る義務はなぜかヒラメに一任されてしまった。それは裁判官の仕事ではないようにわたしには思えた。 今は検察側の冒頭陳述をするべきときではないのか?
「なぜ」そう言いかけて、先ほどの質問の繰り返しになってしまうことに気づいたのだろうか、ヒラメは口ごもり、言い直した。「腹が立ったから殺すなど、許 されることではない。倫理というものはないのか」
「それはあなたたちの倫理であって、僕の倫理じゃない」
 津原俊虎は変わらぬ口調で言った。わたしはスカートの上に置いた拳を強く握りしめた。これだ。これが聞きたかったのだ。百二十倍ほどの抽選をくぐり抜け てこの傍聴席にいる全員が、おそらくは同じ気持ちだっただろう。
「裁判長。あなたの部屋にゴキブリが出たとしよう。あなたはその虫がただ気持ち悪いという理由だけでスリッパで叩きつぶして殺すはずだ。ではあなたはゴキ ブリから倫理的糾弾を受けたとして罪を認めるのか?」
「我々はゴキブリではない」
 ヒラメの顔が真っ赤になっていた。もはや裁判でもなんでもない。わたしからは背中しか見えなかったが、津原俊虎がかすかに笑うのがわかった。
「ゴキブリに謝罪しよう。失礼な物言いだった。あなたがたと僕の差異に比べれば、ゴキブリとあなたがたとのそれは問題にならない。ゴキブリだって二千匹集 まれば人を殺せる。僕が言いたいのはこういうことだよ、裁判長。倫理というものの根幹にはある前提が存在している。つまり『人間は人間を殺せる』というこ とだ。故にあなたがたは倫理で個人を鎧わなければならない、しかし僕は違う。僕はあなたがたを殺せるが、あなたがたは何億人かかってこようと僕を殺せな い。したがって僕らの間には倫理は存在し得ない。倫理ではなく慈悲と言い換えてほしい」
 ヒラメの顔色が赤から青に変わった。言葉はなにも出てこない。津原俊虎は肩をすくめた。
「失望したよ裁判長。そこはあなたが『では慈悲はないのか』と訊いて、『もちろんない』と僕が答えるところだ。裁判も退屈なものだな」
 津原俊虎は言い終えるとヒラメに背を向けて証言台から降りた。
「待ちなさい」
 ヒラメの上擦った声が飛ぶが、津原俊虎は気にもかけず法廷右手にある出口に向かった。「廷吏!」とヒラメが叫ぶよりも早く廷吏席から事務官が二人立ち上 がって津原俊虎に駆け寄った。津原俊虎が振り向くと、廷吏は二人とも見えない壁に鼻面をぶつけたように立ち止まってひるんだ。無理もない。津原俊虎を逮捕 しようとした警察官や、取り調べをした刑事がどんな目にあったのか知らないはずがないのだ。
「どこへ行く」
 まだ若い方の廷吏が声を張り上げ、勇気ある行動に出た。津原俊虎の肩をつかんだのだ。わたしは目を覆った。鈍い音がして、廷吏の身体は法廷の天井に叩き つけられた。傍聴席の人々が総立ちになり、法廷は悲鳴と怒号に押し包まれた。津原俊虎は特別に施錠されていたはずの鉄扉を蹴り開くと、ねじ曲がった鉄板を 押しのけて法廷を出ていった。

       *

 ところでわたしは、逮捕されてから告訴されるまでの間に津原俊虎に一度だけ会ったことがある。もちろん拘置所で面会したわけでもないし保釈されたわけで もない。そもそも警察は彼を勾留できなかったのだ。警察官十数人が重軽傷を負って、N署の拘置所と玄関が破壊され、ようやく警視庁は津原俊虎の身柄を抑え ておくことが不可能だと判断した。逮捕から初公判までの間、彼は今まで通りに自宅であるアパートから勤務先の雀荘に通う生活を続けていた。
 雀荘《赤鳥》はN駅から十分ほど歩いたところにある商店街の雑居ビルの三階にあった。営業しているのかどうかすらよくわからない薄汚れた定食屋とコイン ランドリーの間にある非常階段を上ると、麻雀牌をくわえたペリカンのような鳥の描かれた看板灯と無骨な鉄扉がわたしを出迎えた。扉を開くとむっとしたヤニ 臭い熱気と大勢の喧噪が顔に吹きつけた。入ってすぐ右手にソファがあり、その上にはスポーツ新聞や漫画雑誌が散乱していた。店内には雀卓が六つ。どれも椅 子が男達で埋まっていた。わたしが入ってきたのに半数くらいが気づき、好意的とはとてもいえない視線が一時集まった。わたしは無意識に目をそらした。左手 奥は壁で仕切られて厨房になっており、天井の真ん中では巨大なファンがゆっくり回って紫煙をかき混ぜていた。
 厨房から黒いエプロンをつけた初老の男が出てきて、エプロンの裾で手を拭きながら寄ってきて言った。
「いらっしゃい。フリーで? お名前うかがってもよろしいですか」
「ええと。高木律子です」
「はい。当店のルールを説明いたします。東風戦で千点百円のワンスリー、祝儀は一発赤裏五百円……」
「ごめんなさい、麻雀を打ちに来たわけではないんです」
 わたしは慌ててそう言いながら、店内を目で探った。手前右側の雀卓の椅子に、一人だけ異様に目立つ若い男が座っていた。ワイシャツにネクタイをしめベス トを着ているので店員だろうとわかった。新聞やテレビで見た津原俊虎に間違いなかった。
「ははあ」
 初老の男はわたしの視線の先に気づいて、察したらしかった。
「ところで、外、警察いました?」と男はいきなり話題を変える。
「はい。ここに入ろうとしたら職務質問されました。名刺渡したら通してくれましたけど」
「営業妨害だよね」と男は笑った。わたしが名刺を手渡すと、眉をひそめて字面を眺めてから言った。「記者さんか。前はけっこういっぱい来たけど、女の人が 一人で来るってのは珍しいな。みんなびびっちゃってるんだよね。ま、どうぞ。飲み物くらい出しますよ、烏龍茶でいい?」
 わたしは少々面食らいながらもうなずいた。歓迎されるとは思っていなかったからだ。男が登山用のスティールカップに烏龍茶を入れて持ってきてくれた。ソ ファに座るようにわたしにすすめると、自分も腰を下ろす。
「でもあいつ、なにも喋らないと思うけど。今までいっぱい取材に来たけど喋らなかったし」
「店長さん、でしょうか」
「ああ、はい、申し遅れました、ここのオーナーの藤川いいます」
 藤川は身体をわたしの方にひねって頭を下げた。そばの雀卓で打っていた、太った禿頭の中年男が振り向いて笑った。
「なにかしこまってンの社長」
 藤川は禿頭の男に歯をむいて怒ったふりをして見せると、またわたしに向き直った。
「彼を雇っていることで警察からはなにか言われないんですか」とわたしは小声で訊いてみた。逮捕されながらも雀荘の店員を続けているというのが疑問だっ た。
「だってべつに違法じゃないでしょう」と藤川は言った。「匿っているわけじゃない。警察が来たら、どうぞ連れていってください、ですよ。できるんならね」 そこで近くにいた客たちが一斉に声をあげて笑った。わたしは津原俊虎の様子をうかがった。彼は背筋を伸ばし、青白く冷め切った顔をして、雀卓の真ん中を じっと見つめ、精巧な機械仕掛けのように牌を持ってきては卓に置くことを繰り返していた。
「ロン。一万八千の三枚」と、彼の真正面に座っていた空色の作業着姿の男が椅子から跳び上がりそうな勢いで言った。津原俊虎の冷静な顔が少し歪んだ。カラ フルな棒状のものを彼は作業着の男に手渡すと、「社長、ラスト。ワン欠けです」と言った。「シュン、そろそろパンクか?」と同じ卓の男が冷やかす。津原俊 虎は恨めしそうな顔で、サイドテーブルの籠から紙幣を取り上げて卓の真ん中に置いた。藤川がソファから立ち上がる。
「俺が入って少しあいつに話をさせようと思ってたけど、どうも手がふさがっちゃったみたいだ。お姉さん、どうします待ってます?」
「ああ、いえ、今日は帰ります、失礼いたしました」
 わたしはハンドバッグを取って立ち上がった。
「お忙しいのにお邪魔してごめんなさい」
「いやいや」
 出しなに後ろに視線をちらと向けると、ほんの一瞬だけ津原俊虎と目があった。津波で全滅した南国の島に一人だけ取り残された少年のような目をしていた。 わたしは満足して雀荘《赤鳥》を出た。一つだけ収穫があった。津原俊虎は麻雀が弱い。
 店の玄関口で二人連れの男とすれ違った。二人とも派手なペイントのTシャツに腰からずり落ちそうなだぶだぶのズボンをはいて耳と顎と鼻にピアスをしてい た。片方が煙草を床に投げ捨てて痰を吐いた。「ここ有名な雀荘なの?」「知らないのお前ニュース見てる?」と彼らは甲高い声で喋りながら店に入っていっ た。わたしは煙草と黄色い痰を大きく迂回して階段を下りた。
 ある予感にとらわれて、わたしは雑居ビルから少し離れた狭い古書店の店頭で雑誌をめくりながらそれを待った。黄ばんだ文芸誌や文庫本が積み重ねられた店 内には明らかに私服警官とわかる肩をいからせた男が二人いて、立ち読みをする振りをして雀荘《赤鳥》を監視していた。年老いて染みだらけの顔をした店主は 世の中のすべてに無関心そうに、細長い店の奥まったところにあるカウンターの向こうで本の袖に値札を貼る作業を黙々と続けていた。
 うめき声が聞こえて、わたしは顔を上げた。雀荘《赤鳥》への入り口である階段から、二つの人影が転げ落ちてきてアスファルトの上に這いつくばるところ だった。わたしと入れ違いに店に入った二人の若者だった。それから階段口にもうひとつ人影があらわれた。津原俊虎だ。わたしは雑誌を投げ捨てて駆け寄っ た。二人の若者が同時に立ち上がり、やや髪が長い方がよく聞き取れない怒声を張り上げて津原俊虎につかみかかった。はじめて直に見る津原俊虎の殴打は美し かった。下半身と頭はまったく動かさず、かすかに上半身をひねって右肘を腰の後ろに沈ませると、次の瞬間にはつかみかかっていた若者の身体が比喩ではなく 宙に舞っていた。おおよそビルの二階まで届きそうなほどに跳ね上げられたその肉体は、やがて揚力を失って落下し、真下にいて呆然とそれを見上げていたもう 一人の若者に激突した。ようやく悲鳴が響いた。商店街のそこらじゅうに待機していた警察官たちが湧いてきて津原俊虎を取り巻いたが、だれ一人として腕の届 く範囲内に近づける者はいなかった。
 津原俊虎が階段に戻ろうとしたとき、一度だけ振り向いた。わたしと視線が合ったのだと思うが、それが彼との共通認識だったかどうかは今もってわからな い。
 私は足早にその場を立ち去った。

       *

「どうして雀荘で働いていたの?」
 もっとずっと後になって、わたしは彼にそう訊いてみたことがある。
「あそこには僕より強い人がいっぱいいた」と彼は答えた。「もちろん、麻雀で、だけど。そういうのって悪くない」
「じゃあ、わざわざ店の外に叩き出してから殴ったのは、店を壊したくなかったから?」
「他にどんな理由がある」

       *

 しかし津原俊虎は初公判を退席したその足で失踪してしまった。あの日、裁判所の外には、馬鹿馬鹿しいことだがおよそ四百名の機動隊員が待機していた。裁 判所を出た津原俊虎には四方からジュラルミン盾の壁が殺到した。裁判所の玄関口前は血の海になったという。発砲許可も下りた。津原俊虎の頭や身体に何発も 着弾する瞬間をテレビカメラが捉えた。しかし彼は倒れなかった。累々と横たわる機動隊員の屍を踏みつけて歩き去り、そのまま姿を消した。
 警察の捜索は何週間も空振りを続けた。世間は急速に津原俊虎に対する関心を失っていった。多くの人は動物園の檻から虎が逃げたほどにしか考えていなかっ たし、実際それはかなり真実に近かった。だから、わたしが独自に津原俊虎の行方について調べることを社のデスクに告げると、デスクは大変嫌そうな顔をし た。
「今さら津原か」
「見つかれば話題になります」
「あてはあるのか」
「いえ」
 馬鹿か、とデスクは吐き捨てたが、それ以上なにも言わなかった。わたしはそれを了承のしるしと受け取り、社を出た。どうしようもなく引っかかっているこ とがあった。津原俊虎はなぜ、今になって突然自らの生活を打ち壊したのだろう。自分と人間との間には倫理が成立しないと彼は裁判で言ったが、それは間違い だとわたしにはわかっていた。たしかに人間は彼を殺せないが、損害を与えることはできる。好意を向けない、対話を拒否する、無視する、という手段によっ て。そして倫理を拳で叩き壊した津原俊虎には、人間側からのそれら消極的攻撃が今現実にくわえられている。倫理で成立していた均衡が破れたのだ。なぜ、今 になって彼は破壊したのだろう。雀荘《赤鳥》で彼と言葉を交わせなかったことをわたしは後悔していた。あのときは顔を見るだけで十分だと思っていたのだ。
 夜になるのを待ってから、わたしは中央線に乗って、N駅で降りた。改札を出て階段を下り、半円形の駅前広場から放射状に伸びる道の一つを進む。平日だっ たが人通りはかなり多かった。携帯電話の代理店の前で売り子が大声を張り上げていた。牛丼店の前の道路には自転車が数え切れないくらい止められていて道幅 を狭めていた。繁華街を抜け、日当たりの良くない坂道を下る。急にあたりは暗く静かになった。車道と歩道を灯台躑躅の植え込みが隔てていた。葉はかすかに 紅葉していたが、排気ガスのせいか萎れている気もした。津原俊虎も毎日この道を歩きこの花を眺めたのだろうか、とわたしは思った。
 目当てのコンビニエンスストアが車道の向こうに見えた。車四台分ほどの駐車場のついた小さな店だった。店内からの照明のせいでぎらぎらと目立って見え る。わたしは早足で車道を渡ると店に入った。
 カウンターにいた大学生くらいの店員は、事件の直前に津原俊虎を見ていた一人だった。
「よく来る人でしたよ。家がこのへんなんでしょ。あの日も弁当買ってからちょっと雑誌立ち読みして、それからすぐに出ていきました。そしたら、あれで しょ。もう、びっくりした、店のドアのガラスなんか血まみれになって」
「雑誌?」
 わたしは雑誌コーナーを振り返った。店を入って左手すぐ、氷菓用冷蔵庫の向こうにあり、カウンターからはよく見える位置だ。「なにを読んでいたかわかり ますか」
「いやそこまでは」
 ここにきっかけがあるはずなのだ。雑誌。糸口がそこにあるとすれば。
「彼、どのラックの前にいました?」
 雑誌棚は三つあり、漫画雑誌、女性雑誌、その他芸能雑誌などに分類されていた。店員は「ええと」と目を細めてからのろのろと指を持ち上げた。「あっちか な」芸能誌や情報誌などがまとめられている右端の棚を指さす。
「事件のあった日、どんな雑誌が置いてあったか調べられません?」
「いや、それは無理」
「できるよ。伝票調べれば」わたしのすぐ背後から声がかかった。わたしは驚いて振り向いた。ひどく丸まると肥った店員が立っていた。ユニフォームの前のボ タンが止められないほど下腹部が出っ張っている。
「そんなこと、してもいいんすか」
 大学生の店員が口を尖らせる。
「いいから。レジやって。客来てる」
 肥った店員が隣のレジを指さした。おにぎりと缶コーヒーを抱えた中年のサラリーマンが不機嫌そうに立っていたので、大学生店員はあわてて「いらっしゃい ませ」とそちらに向かった。
「捜査も大変ですね」と肥った店員が言った。どうやらわたしを警察と間違えているようだった。わたしが微笑み返すと、男も笑った。何重にもたるんだ顎の肉 のしわに汗がたまって光っていた。
「事件当時の雑誌でしょ。すぐ調べられます」と男は言った。

       *

 わたしの五日間は国立国会図書館の中で費やされた。

       *

「休暇なんて取れるわけないだろう」とデスクは電話の向こうで言った。わたしはその朝、携帯電話で社に連絡を入れながらボストンバッグに服や化粧品や生理 用品を詰め込んでいた。
「有休なんて幻だ、まぼろし」
 津原俊虎を見つけた、とは言えないわたしは、しばらく口ごもった。確信があるわけではなかった。どちらかといえば当て推量だ。
「だいたいおまえ、先週も勝手に」
 じゃあ辞めます、と言って電話を切ってしまいたかった。わたしは津原俊虎に浸食されようとしていた。自ら倫理を破壊したい衝動が先週から抑えきれなく なってきているのだ。
「ともかく、四日休みをもらいます」
 デスクが怒鳴ったのでわたしは通話を切ると電源も落とした。手の中の緑色の携帯電話をしばらくじっと眺めてから、ゴミ箱に放り込む。カアーテンを開い た。窓の外の青い空にはちり紙の切れ端のような小さな雲が一つだけ浮かんでいた。旅に出るにはいい日和だった。

       *

 獣道は何度も岩に遮られ、曲がりくねっていた。湿気がひどく、森の底には淀んだにおいの空気がたまっていた。苔のせいで足下は滑りやすく、羊歯の群生が 躓きやすい石の突起や太い木の根を覆い隠していて、ひどく歩きにくかった。バスを降りてからもう何時間たっただろう。ひざが震えていて、濡れた土に足を踏 みおろすたびに関節が弾みで外れてしまいそうな妄想にとらわれた。立ち止まったら、自分の確信が崩れてしまいそうで、わたしはうなだれたままひたすら足を 前に運んだ。駅前の図書館で話を聞いてくれたあの老人は、たしかにこの道を行った先あたりであの鳥が発見されたと言っていた、さらには、二週間ほど前に まったく同じ質問をして山を登っていった若い男がいた、間違いない、間違いない。
 不意に水音が聞こえた。
 斜面がなだらかになり、腐葉土の間に横たわる光が見えた。水だ。川と呼べるほどの太さではないが、行く手を遮って土のくぼみの間を水が流れている。いず れ川に育つはずの、湧き水の通り道だ。わたしは水の流れに沿って斜面を降りた。やがて水流は岩場にぶつかり、ばねのようにねじ曲がった渓流となっていた。 崖から張り出した岩におそるおそる乗り、見下ろすと、流れはささやかな滝をつくって深いくぼみに流れ込んでいた。小さな滝壺は無骨な大岩に囲まれ、その岩 のひとつにしゃがみ込んでいる人影があった。
 わたしは岩から飛び降りた。津原俊虎はゆっくりと顔をこちらに向けた。彼の右手には頭を食いちぎられた魚が握られて、胴体をぴくぴくと震わせていた。彼 の唇の端からは血が滴り、汚れきったシャツや膝までまくり上げたジーンズパンツにも飛沫が散っていた。
 口の中のものを飲み下してから、津原俊虎は言った。
「よくわかったね、ここにいるって」
 わたしはボストンバッグを岩の上におろし、その上に腰を落ち着け空を仰いで大きく息を吐いた。それから、バッグの背ポケットに入っていた雑誌のコピーを 見せる。津原俊虎は微笑んだ。その記事の見出しには『トキの人工受胎失敗 生殖能力なし』とあった。
「絶滅したと思われていた朱鷺が、ここで見つかった」とわたしは言った。「この山で。今年初めのこと。保護されたその鳥は、中国朱鷺の雌との人工授精が試 され、そして失敗した。すでに生殖能力がなかった。あなたはコンビニでこの記事を読んだんだね? そして、自分の世界を捨てた。六人を殴り殺して」
 津原俊虎は手にしていた魚の身を口の中に突っ込むと、咀嚼し呑み込んでから汚れた手を川の水で洗った。答えはしばらく返ってこなかった。津原俊虎は手を 洗い終わった後も、じっと水面に映っていくつもの断片に分かたれ揺れている自分の顔を見つめていた。
 やがて彼はゆっくり立ち上がり、長い影が岩の上に伸びた。彼の頭がかすかに沈み、握りしめた拳が腰に添えられ、頭と下半身を残して上半身だけがわずかに ひねりをくわえられる様をわたしは呆然と見ていた。空気を切り裂く鋭い音がした。水音がかき消えた。衝撃がわたしの腹を貫いた。わたしの意識は身体からは じき出され、津原俊虎の拳を叩き込まれたわたしの肉体が真後ろに吹き飛んで岩盤に激突する様を目の当たりにした。岩に縦に亀裂が走り、まっぷたつに割れ た。盛大で重苦しい水音に、わたしの意識は身体へと引っぱり戻された。口から内臓が全部漏れ出てしまいそうなすさまじい痛みをこらえながら首をねじ曲げて 後ろを見ると、巨大な岩の左半分が滝壺に沈んでいくところだった。
 足音がして、わたしは向き直った。津原俊虎がいつの間にか目の前にいた。彼の細い腕がわたしを抱き寄せた。生きている。わたしは彼の拳に撃ち抜かれ岩に 叩きつけられ、それでも生きている。当たり前だ。人間ほどもろくはできていない。
「では、あんたが僕の花嫁か」
 わたしの耳元で、喜ぶでもなく、哀しむでもなく、ため息でもつくように津原俊虎は囁いた。
「わたしを見つけだすために、殺したの?」
「他にどんな理由がある」
 わたしは目を閉じた。体中の血が指先から流れ出していくような脱力感にとらわれた。津原俊虎の体温がむしろ肌に痛かった。
「あなたはもっと強い人だと思っていた」とわたしは呟いた。「じゃあ、わたしとここで交尾して子供を大勢作ってその子供とまた近親相姦していずれわたした ちの王国を築こうというわけ」
「馬鹿馬鹿しい」
 津原俊虎は吐き捨てると、わたしから身体を離した。
「僕は倫理がほしかっただけなんだ。僕を縛ってくれる力が。人間は僕を殺せない、地上の何者も僕を殺せない、だから僕と同じ生き物の力がほしかった。確信 はなかった、でも他にもこの世界のどこかで人間のふりをしてひっそり生きている同類がいるんじゃないかとはずっと思っていた。他にだれが殺せる。他にだれ が僕を縛り付けられるっていうんだ」
「わたしにも殺せないよ」
 津原俊虎は川面に目を落として黙り込んだ。
「なにを驚いているの。あなたにわたしは殺せなかったじゃない。どうしてわたしにあなたが殺せると思うの」
 津原俊虎の細い輪郭がしゃがみ込んで丸まり泥玉のような小さな塊になった。曲げた両膝の上にあごを載せ、彼はじっと流水の表面に視線を注いでいた。水音 がいつの間にか戻っていた。
「わかってた」と彼は言った。「でも、ひょっとしたら僕よりも強いなにかがやってくるかもしれないって期待していたんだ。それは間違いだった。たとえ僕よ りも圧倒的に強い何者かが花嫁としてやってきたとしても、そのときは僕がそいつを殺せない」
 お互いが弱くなければ倫理は生まれない、と津原俊虎がつぶやいたとき、わたしの背後で岩が崩れ落ちる音がした。それから世界を呑み込むほどの水音。割れ た岩盤の片割れが伴侶を追って滝壺に倒れ込んだのだ。しぶきを含んだ冷たい風が背中から吹きつけた。津原俊虎の姿はじっと見ている間にもどんどん縮んでい くように見えた。
「あなたは弱い。わたしはあなたを殺せるよ」
 そう言ってみた。彼は顔を上げた。
「わたしがここで立ち去れば、街に帰ってあなたを忘れれば、わたしの中のあなたは死ぬ。もうだれの中にも存在しない」
「だれもいない森の中で倒れた樹は、音を立てない?」
「そう」
 わたしがうなずくと、津原俊虎は微笑んだ。少し強い向かい風が吹いたら泣き出しそうな笑顔だった。
「じゃあ、あんたが決めてくれ」
 卑怯だ、とわたしは思った。なぜ、ここにいてくれと言わないのか。なぜ消え失せろと言わないのか。
「わたしがあなたを殺したら、あなたもわたしを殺したことになるよ。二人だけしかいないんだから」
「そんなことない」
 津原俊虎は立ち上がった。
「僕は、たとえあんたが行ってしまっても、あんたを忘れない」
 崖の上の茂みから山鳥が羽音をけたたましく響かせて飛び立った。一羽、二羽。
「僕を殺せる人がいた。それで僕には十分だ。だから、あとはあんたが決めてくれ」
「わたしは」と言いかけて、口ごもる。力は押し殺して生きてきた。なぜならそれが倫理だから。人はわたしを殺せる、だからわたしも人を殺してはいけない、 それが世界を縛り付けている。でも湿った森と尖った岩と川と滝と津原俊虎だけで成り立つこの世界にその鎖はない。たとえ殺されてもわたしを殺しはしないと 津原俊虎は言った、それはわたしを縛り付けるまったく新しい鎖に他ならなかった。わたしは岩の上から一歩も動けなかった。ではこれがわたしの、そして津原 俊虎の望んでいた世界か。
 津原俊虎が素足を伸ばし川に踏み入った。水流が彼の細い足を受け止め、優しくふくらみ、また落ちくぼんだ。彼が腰を曲げ、腕が一閃すると、川の中から銀 色のなにかをつかみ上げた。津原俊虎はそれを空に掲げた。陽光を受けて、魚は水しぶきを飛び散らせながら生命と死の予感に身をよじらせていた。



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