ムジカへの手紙

 ムジカというのがその殺し屋の名前だった。
 姓はわからない。あるいはムジカというのが姓なのかもしれないし、もしくはなにかの略称なのかもしれないが、ともかく他の呼び名は知られていない。だか ら、封筒の宛名は『ムジカ』とだけ書く。
 中の依頼状にまず記すのは、殺してもらいたい相手の名前だ。それから殺したい理由。そして料金を同封する。
 数多く流布して枝葉末節食い違うムジカに関する噂の中でも、料金については特に多くの説がある。最も人気があるのが一律千二百六十円だという説だ。噂が 伝えられるのが主に、金銭的に余裕のない中高生たちの間だからだろう。

       *

 頼子はボールペンを握った手を止め、便箋代わりのルーズリーフをくしゃくしゃに丸めて捨てた。もう心に決めたはずなのに、いざ準備を整えてしまうと、書 けない。
 ゴミ箱は書きかけの手紙であふれそうだ。
 勉強机の上には、『ムジカ』と宛名書きをした茶封筒、千円札とコイン四枚がすでに用意してある。あとは依頼状だけだった。
 頼子はため息をついて、時計を見た。十一時を少し過ぎている。
 立ち上がり、机の正面のカーテンをたぐった。結露したガラスを拭う。窓の外はもう真っ暗で、街灯がぽつりとともり、庭木やつつじの垣や道路のアスファル トや向かいの家のガレージのシャッターをぼんやりと照らしている。
 不意に寒さを思い出し、頼子は両肩を抱いて背中を震わせ、椅子に座り直した。
 新しいルーズリーフを取り出す。もう迷っている時間はなさそうだった。依頼状は夜中の十二時に、ある特定のポストに投函しなければならない。
 殺す相手。
 ――『里中頼子』。
 いちばん書き慣れた、名前。
 殺す理由。
 生きていたくないから。
 生きている必要がないから。
 わたしは……だから。……が……ないから。
 ルーズリーフにしずくが落ちて、染みが拡がり、インクがにじんだ。まぶたを閉じると、さらに二滴、三滴、涙がぱたたたと紙を鳴らす。
 いけない。こんなことを書いちゃいけない。
 殺す理由にはただ一言、『いやだから』と書いた。
 そのルーズリーフを折って、料金と一緒に封筒に入れる。糊をしたところで、不意に力が抜けた。
 ――なにをしてるんだろう、わたしは?
 お伽話みたいな噂を真に受けて。そんなポストがあるかどうかもわからないのに。それより、今すぐこの部屋で首を吊ればいいのだ。カッターナイフで手首を 切ればいい。始発電車を待って飛び込めばいい。どこかのマンションの屋上から飛び降りれば――
 かさ。かさ。
 乾いた音が聞こえる。
 気づくと、頼子の右手が封筒を握りしめて震えている。封筒の端が小刻みに机を引っ掻いている。
 頼子はこわばった右手の指を苦労して開くと、つぶしてしまった封筒のしわを伸ばした。
 立ち上がり、壁にかけてあったダッフルコートを羽織る。
 ――行こう。
 階段を下りてすぐの廊下で、頼子は母親とすれ違った。こんな深夜に娘が出かけようとしているのに、母親はなにも言わなかった。頼子の方をちらと見たよう な気もするが、聞こえよがしにため息をつき、首を振っただけで、階段を上っていってしまった。
 頼子には母親の他に家族がいない。
 だから、もう止める者はなかった。


 伝えられるところによれば、ムジカのポストへの行き方はこうだ。
 まず踏切を探す。駅から遠く、まわりにあばら屋と空き地くらいしかなく、軽自動車も満足に通れないような狭い踏切がよいとされている。
 電車が絶えた真夜中にこの踏切を渡る。渡って少し歩き、十字路にぶつかったらそこを右折する。もういちど十字路に出たらそこもまた右に曲がり、進む。当 然、道は再び線路と交わるはずだが、そうはならず、両手に土塀の続く長い上り坂が現れたら、成功である。坂道をのぼりつめると道は行き止まりになり、そこ にさみしくポストがひとつ立っているという。


 頼子は坂道をのぼっていた。
 両手にうねうねと土塀の影が続いている。勾配も道幅も一定ではなく、街灯のひとつもないので、歩いているだけで気分が悪くなった。
 噂を頭から信じていたわけではない。特に、ポストへの道筋の話は、噂の現実と非現実を隔てる境界線だと思っていた。魅力的なお伽話で、試してみるのも容 易だけれど、実際にやってみようという話になれば、「線路が消えて坂道が現れるはずはない」という「現実」に阻まれて笑い話に変わる、そんな境界線。
 でも、そのとき頼子は坂道をのぼっていた。
 たしかに四つ辻を二度、右に曲がった。静かな住宅街はいきなり、この土塀の坂に呑み込まれた。足音が、ざく、ざく、とはっきりしたものに変わった。アス ファルトではない。土だ。
 頼子は坂のとば口で、すぐに引き返そうと思った。まさかほんとうに坂があるものとは思っていなかったのだ。夜の街をひとりで歩いて、妙な熱に浮かされた 頭が冷めればいいと、それくらいのつもりだった。けれど、現実の境界線はどこにもなかった。足下が土に変わったのを感じてすぐに振り向くと、今まで歩いて きた街路は消え失せていて、街灯も民家の明かりも見当たらず、ただ濃い灰色の蛇の背のような下り坂が後ろにずっと続いていたのだ。
 呆然としていたのがどれくらいの間かはわからない。
 頼子は坂をのぼりはじめた。明かりのない夜の下りは見るからに危なっかしかったし、道の先がどっぷりと闇に沈んでいて呑み込まれてしまいそうだったから だ。
 暗闇の中を、どれくらい歩いただろう。じきに、勾配がゆるくなり、坂は尽きた。土塀が道を閉ざしている。
 袋小路に、なにかが立っていた。頼子は息を呑み、立ちすくんだ。最初その細長い影を人だと思ったのだ。
 不意の風が、土塀の向こう側の竹林をざあとかき鳴らした。
 頼子も、その影も、動かない。
 しばらくして、人ではないと頼子は気づいた。人影はこんなに寸胴ではないし、背も低すぎる。
 近寄ってみた。
 それはポストだった。一本足の四角いポストではなく、時代物の映画にしか出てこないような筒型のポストだ。
 ――ほんとうに、あった。
 思わず、両手で触れてみる。細かい凹凸だらけのペンキの感触。金属の確かな冷たさ。
 ――ほんとうにあったのだ。
 頼子はしばらく、ポストに両手をついて、笠のようになったその頭頂部に息を吐きかけていた。暗闇にはだいぶ眼が慣れ、白く凍てついた息と、ポストの鈍い 赤が重なるのがわかる。
 ポケットから封筒を取りだした。
 投函口に差し込もうとして、手が止まる。
 ――坂道も、ポストもほんとうだった。それなら。
 ムジカの仕事は、依頼状を受け取って一週間以内に必ず遂行されると言う。
 ――なにを今さら。わたしはこうするために、ここに来たのに。楽になれるなら。手紙を出すだけで、だれかが楽にしてくれるなら。
 頼子は手紙を押し込んだ。
 指の間から、封筒がするりと闇の中へ抜け落ち、ややあって、ポストの底の方でちりん、と音がした。入れておいた硬貨が鳴ったのだろう。
 頼子は踵を返すと、下り坂を走りだした。

       *

 翌朝、目を覚ましてみると頼子はベッドの上で、おまけにちゃんとパジャマを着ていた。
 坂道からの帰り道はどうにも記憶がはっきりしないし、着替えた憶えなどまったくなかった。夢だったのだろうか、と頼子は思う。あまりといえばあまりに平 凡なオチだが、それがいちばんすっきりする。
 机の上にはボールペンと、中身の入っていないルーズリーフの空き袋があった。ゴミ箱は丸めたルーズリーフで埋まっている。
 千二百六十円はどこにもない。
 ――やめよう。考えるのは。
 制服に着替え、鞄を持って一階に下りた。
 居間では母親がテレビを観ながら食パンをかじっていた。頼子の顔を見てもあくびをするだけで、なにも言わない。
 頼子は洗面所に行って顔を洗い髪を梳かすと、居間に戻って母親に「行ってきます」と言ってみた。答えはなかった。母親はふんと鼻を鳴らし、テレビのチャ ンネルを変えた。
 頼子は家を出た。食欲はなかったし、アナウンサーは七時のニュースですと言っていた。下手をすると遅刻だ。


 頼子の通う女子校は山の上にあって、専用のバスが駅との間を往復していた。けれど頼子はいつも駅から学校までの長い上り坂を歩いた。バスの中でクラスメ イトに見つかったら嫌な顔をされるし、足を踏んづけられたりスカートをはさみで切られたりする。逃げ場所もない。だから頼子は毎朝、片道四十五分のつづれ 折りの山道を黙々と歩く。
 慣れた道だったが、その日に限ってはあの夢の暗い坂道を思い出して、地面からほとんど顔をあげることができなかった。道路の脇には乾燥しきった枯れ葉が 分厚く積もり、裸の樹木の足下を覆い隠していた。
 二度、バスが頼子を追い越した。まるで歩行者の頼子のことをまったく見ていないような乱暴な運転で、頼子は枯れ葉の中に深く踏み入ってバスをやりすごさ なければならなかった。
 校門のところで、バスからちょうど降りてきた背の低い三つ編みの後ろ姿を見つけた。クラスメイトの郁恵だった。
「郁恵ちゃん。おはよ」
 頼子はかなり離れたところからそう言って手を振った。
 郁恵はこちらを見て、はっと頼子に気づき、笑った。その笑顔が引きつって青ざめているのが頼子にははっきりとわかった。
 続いてバスから、きれいな栗色の髪をした背の高い生徒が出てくるのを見て、頼子はあわてて振っていた手を引っ込めた。クラス委員長の相川紫織だった。そ の後からも、頼子のクラスメイトたちが次々に降りてくる。
 頼子は、門柱のすぐそばにある銀杏の木のかげに隠れた。
「郁恵、どうしたの?」と相川が訊き、
「いえ、なんでもないです」と郁恵が答えるのが聞こえた。
 クラスメイトに敬語を使う郁恵が少しかわいそうになった。自分を無視して行ってしまうのもしょうがないと思った。以前、頼子に英和辞典を貸したというだ けで、相川とその取り巻き達がトイレで郁恵を殴っていたのを目撃したことがある。
 頼子はそのとき、個室に閉じこもり便器にしがみついて息を殺していることしかできなかった。幼稚園からの幼なじみで、ただひとりの友人である郁恵を助け ることができなかった。
 だから、せめて、自分のせいで郁恵に迷惑がかかることは避けようと思っていた。


 頼子の机は教室のいちばん後ろの廊下側、他の席からかなり離れた場所にある。白い菊の花を一輪さした花瓶が置いてある。この学園に入ってからいつもこう なので、頼子はもう気にしないことにした。片づけたりしたら相川たちからなにを言われるかわからないし、担任教師も見て見ぬ振りをしていた。
 頼子が椅子に座ると、すぐ前で喋っていた生徒達が一斉に口をつぐんでこちらを見た。その顔がみるみる青ざめる。彼女たちは解散してめいめいの席に戻って しまった。
 よくあることなので、それも気にしない。
 ただ、すぐ後ろがゴミ箱なのは閉口した。クラスメイトたちは紙屑とかペットボトルとか生理用品のビニルだとかをゴミ箱に向かって投げる。ゴミ箱にうまく ホールインワンするのはまれで、たいがいはそれて扉や掃除用具入れや頼子の机にあたる。けっこうな高確率で頼子の顔や身体にも的中する。でもだれも謝りは しないし、拾ってちゃんとゴミ箱に入れる人もほとんどいない。
 入口の近くなので、ドアから入ってきた生徒が座っている頼子にぶつかることもよくある。いつだったか、休み時間に横の壁にもたれてぼうっとしていたら、 突然戸が開いて後頭部をひどく強打したこともあった。見ていた何人かは大笑いしていた。それ以来、頼子はつねに入口への警戒を怠らないようにしている。


 昼休みのチャイムが鳴った。
 数学教師の肥ったオールドミスは、試験範囲の話を打ち切って、どすどすと足音を響かせて教室を出ていった。クラスメイトたちは示し合わせたように立ち上 がり、伸びをしたりいきなり雑談を満開にさせたり弁当を取り出したりし始めた。
 四つ前の席の郁恵が、頼子の方をちらと見た。頼子が笑うと、露骨におびえた顔を見せた。朝のことを気にしているんだろうか、と頼子は思った。
「気にしないで」
 と、口だけ動かして伝えた。伝わったかどうかはわからない。
 相川が郁恵の席までやってきて言った。
「郁恵、購買行ってきて。アップルパイと烏龍茶」
「あ、あたしも。オレンジの五百ミリ」
 と別のだれかが言い、
「メロンパンと、あとお茶系、てきとうに。郁恵、あんたこないだ炭酸買ってきたでしょ、マジやめてよね。ほんと使えないんだから」
 とまた別のだれかが言った。だれも代金は渡さなかった。郁恵は立ち上がり、教室を出るときにもう一度だけ頼子の方を見た。


 踊り場の窓からオレンジ色の夕陽が差し込んで、下りの階段に長くぎざぎざになって伸びている。
 頼子は窓枠にひじをついて、校庭を見下ろした。四階の窓からでは、四百メートルトラックも、ジョギングしている陸上部員たちの姿も、六面のテニスコート も、校庭を囲む常緑樹の並びも、みんな玩具の箱庭めいて見える。
 頼子はここから望む景色が好きだった。放課後は毎日のようにこの踊り場にやってきて、校庭や、県境までずっと続く林ばかりの山肌を眺めた。上はもう屋上 への扉で、この階段を使う人間がほとんどいないのも気に入っている理由のひとつだった。
 隣の中等部の校舎も丸ごと見渡せた。去年まで頼子もあちらに通っていた。中等部の教室でも郁恵は下働きで、頼子の机は葬式ごっこの会場だった。変わらな い。そういうことって、おそらくは最初から決まっていて、永遠に変わらない。
 空に目を移した。雲の流れがはっきりとわかるくらい速い。いわし雲たちが流れ進む先、西の山間に陽は沈みかけ、稜線が黒くくっきりと炙られている。
 頼子は携帯電話の時計を見た。五時を過ぎている。もうそろそろいいだろう。
 頼子が放課後の時間をこの踊り場で過ごすのは、景色のためだけではなかった。授業が終わってすぐに学校を出る帰宅部のクラスメイトたちとバスに同乗しな いためだ。帰り道くらいバスを使う権利は自分にもあるのじゃないかと頼子は思う。
 階段を下りようとして、ふと足を止めた。
 四階の廊下にまで伸びていた夕陽が、二つの影に遮られている。
 頼子自身の影と、その隣に並ぶもう一つの影。
 振り向いた。
 窓の外に、その少年は逆さまにぶら下がっていた。
 後ろで束ねた長い髪がまっすぐ下に垂れている。鋭い目は頼子を捉えている。
 ガラス窓が引かれた。冷たい風が吹き下ろす。頼子はよろめいて、壁に手をついた。
 少年は窓枠から中に上半身を入れ、身を屈めて背中を見せ、くるりと半回転すると、後ろ向きに踊り場に着地した。それからすぐに頼子の方に向きなおる。
 背丈や顔のあどけなさは、小学生でも通りそうだった。ただその眼光だけが不相応に険しい。やたらとポケットの多いカーキ色の上下を着ていて、ズボンの裾 はブーツの中に入れてテープでぐるぐるととめてある。首からは明らかにサイズの大きすぎるゴーグルを下げていた。第一次大戦の複葉機パイロットのようない でたちである。腰につけたウェストポーチは可愛らしい白ウサギの顔の形をしていて、それだけが浮いて見えた。
 少年は後ろのポケットから、くしゃくしゃにつぶれたベレー帽を出してかぶった。それから、頼子の方に一段、また一段と下りてくる。
 頼子は、動けなかった。
「あんた、里中頼子だな?」
 二段上で少年は立ち止まり、言った。かろうじて頼子が少年を見上げる形になる。
「おい。訊いてんだよ。あんた里中頼子だろ?」
 頼子は、混乱しきった頭を、ただ縦に動かす。
 ――だれだろう、この子は?
 なぜわたしの名前を知っているんだろう?
 今、窓の外から(四階の窓の外から!)入ってきたけれど――
「俺はムジカだ。今朝、あんたからの依頼を受け取った」
 頼子は、息を呑んだ。
 ムジカ。
 ――だって、あれは。
 ――夢じゃなかったのか。
 ――くだらない噂話じゃなかったのか。
「自分で呼んどいてずいぶんな態度だな。なにか喋れよ。ったく、これだからガキからの依頼はいやなんだ」
 ムジカは舌打ちし、ベレー帽ごと頭をぼりぼりと掻いた。
「ガキにガキと言われては、そこのお嬢さんもあきれ果てるばかりだよ、ムジカ」
 甲高い、べつの声がした。頼子は、とっさに声の主を捜した。しかし、他にだれもいない。ムジカが裏声でも使ったのだろうか? 聞こえてきたのは、たしか にムジカが立っている方からなのだが。
「それにきみは日頃から礼儀がなっていないね。相手に名前を訊ねるより先に名のりたまえよ」
 ようやく、それに気づいた。
 声がするたび、ムジカの腰についた白いウサギのウェストポーチの蓋がぱくぱくと動いている。ウサギの口にあたる部分だ。
「うるせえ黙れ、おせっかい兎」
 ムジカがポーチをひっぱたいた。甲高い声は沈黙した。
「ええと。話がそれた。里中頼子、あんたの依頼は受けられない」
 頼子はそこではっと気づいた。
 ――わたしは、依頼状に殺してほしい人間として自分の名前を書いただけだ。依頼人がだれかは書いていない。それなのに。
「わ、わたしからの手紙だって、どうしてわかったの?」
「ん」
 ムジカは、はじめて頼子から目をそらした。
「そんなのはどうだっていいだろ」
 しかし、ウサギのポーチが再び口を開けた。
「お嬢さん。あなたは知ったことじゃないかもしれないけれど、この不肖ムジカのところに舞い込む依頼の六件に一件は自殺でね。そういうのは手紙を見ればだ いたいすぐにわかる。たとえば変な染みがついていたりとかね」
「おまえは喋りすぎンだよ」
 ムジカはまたポーチをはたいた。
 頼子は顔が熱くなるのを感じて、一段下に後ずさってしまった。
「とにかく」
 ムジカは帽子をかぶりなおした。
「あんたからの依頼は受けられない。それだけ伝えに来た」
「どうして?」
「どうして、って」
 ムジカはウサギのポーチに視線を落とす。
「どうして、なんて訊かれちった」
「だから言っただろう、ちゃっちゃと終わるような案件じゃないと。そのくらいは依頼状を受け取ったときに予想してしかるべきだよ、きみはプロだろうが」
 ポーチが答える。
 今度はムジカはポーチを殴らなかった。天井をにらんで考え込む。
「ねえ、どうして? じ、自殺は、だめってこと?」
 頼子はもう一度訊ねた。
「ンなこたねえよ」
 ムジカは相変わらず視線を頼子からはずしたまま答える。
「自殺断ってたら商売あがったりだからな。それはそれとして」
 その先を言い淀む。
 頼子は一段のぼって、またムジカに近寄った。
「じゃあ、どうして」
 ムジカはようやく頼子の顔を見た。二人の目はほとんど同じ高さにある。
「わかったよ」
 しばらくしてムジカは言った。
「わかりやすく教えてやるから、ついてこい」
 階段を下りて廊下を歩き出す。頼子はあわててその後を追った。
 廊下で何人もの生徒とすれ違った。しかしだれもムジカのことを見咎めなかった。気づいてさえいないように見えた。
 ――わたしはいつの間にかまた、夢の中に入り込んでしまったのだろうか。
 目の前の少年の、ベレー帽からはみ出した長いポニーテイルが歩みにあわせて揺れるのを見ながら、そんなことを頼子は思った。
 ムジカは、校舎のはずれの非常階段へと出る扉の前で立ち止まった。ねずみ色のペンキ塗りの鉄扉には、『使用禁止』と赤いペンで書かれた紙がはってある。
 頼子はその扉をたまに使っていた。クラスメイトに見つからないように一階に下りるときなど重宝した。しかし、使用禁止の張り紙にはそのときはじめて気づ いた。いつからはってあったのだろう?
 ムジカは鍵を外して、外の非常階段に出た。
「なにしてンだよ。来いよ」
「え。でも。使用禁止って」
「気にすンな。いいから出ろっての」
 ムジカに手を引かれて、頼子も外に出た。
 風が強くなってきていた。頼子は首をすくめて、手すりにしがみついた。そこは非常階段のいちばん上で、見晴らしがよく、校舎の裏の山の斜面がずっと先の 谷をくねって流れる河まで見渡せた。しかし、すぐまわりは低い手すりと狭い金属の足場だけで、眺めがいいというよりも足がすくんだ。
「ほら。あれ」
 ムジカが言って、手すりから身を乗り出し、下を指差した。
 眼下、アスファルトの地面。つつじの植え込みの脇に、花束が置いてあった。白い花をいくつか束ねた簡素な花束で、しおれかけている。
「思い出した?」
 ムジカは頼子の顔をのぞきこむ。
 頼子は息を詰まらせて首を横に振った。それは半分嘘だった。なにかを思い出しそうだった。
 非常階段。
 白い花。
 あの日も夕方は風が強かった。
「あんた、あそこから落ちたんだ」
 ムジカがそっと言った。
 頼子は手すりを握りしめた。手の中の金属の冷たさだけが現実に思えた。
「なに、それ」
「あんた、もう死んでんの。だからあんたを殺すっていう依頼は受けられない」
「うそ」
「うそじゃねえよ」
「だって、わたし」
 そこからは言葉にならなかった。頼子は自分の顔、それから胸に手をあて、身体の輪郭を確かめた。ムジカをにらんだが、視界の隅で白い花がぎらついて見え た。
「ったく。だからヤなんだよ、こういうガキは」
 ムジカがぼやくのを、頼子は遠く聞いていた。
「ムジカ。きみの怠慢が原因だろう。荒っぽいことをしてもかまわないから、早くお嬢さんに自覚させてあげたまえよ」
 ウサギのポーチがぱたぱたと言った。
 ムジカの舌打ち。
「あれ、めんどうなんだよな」
 ムジカはポーチに手を突っ込んで、しばらく探っていた。やがて、取りだしたのは一枚のビスケットだった。
「これ」
 手渡された。
「なに?」
 頼子はそれを受け取る。なんの変哲もない、丸いビスケットだ。
「割れ」
「え?」
「割れっつってんの。ぱきっと」
 首を傾げながら、頼子はムジカの言う通りにした。ビスケットを握った両手に力をこめる。
 ビスケットは真っ二つに割れた。
 と、突然、頼子の視界がぐにゃりと歪んだ。ムジカも、非常階段も、空も山も。
 そして頼子は虚空に放り出された。

       *

「おい。ぼうっとしてンなよ」
 ムジカの声で、頼子ははっと気づいた。
 見回すと、そこは見慣れた部屋だった。勉強机とベッドと本棚。窓から床の絨毯に差す朝陽。自分の寝室だ。
 ただ、ひとつ、見慣れないものがあった。
 否、それはよく知っているものだった。あまりに見慣れているけれど、こうして真正面から、それ本来の姿を見たことは一度もなかったもの。
 頼子自身が、クロゼットの前に立っていた。
 リボンをとめ、スカートをあげて、ブレザーに袖を通す。それからその頼子は頼子の鼻先を通り過ぎて机に近づくと、鞄を机の上にのせて開け、引き出しから 水色の布を取りだして鞄に詰め込んだ。
 ――あれは。
 頼子は思いだした。
 ――あれは、先週の家庭科の授業の時に持っていったクッションカバーだ。間に合わないから家で刺繍したんだった。
「あれが、ちょうど一週間前のあんただ」
 隣でムジカが言った。
 ――わたし? これが、わたし?
 頼子には、それが自分自身であるとどうしても納得できなかった。自分と同じ姿形をしている。でも、わたしはこんなに青い顔をしていただろうか。いつもこ んなに眉根にしわを寄せていただろうか。
 知らない。わたしはこの子を知らない。
 それは、頼子の知らない里中頼子だった。
 里中頼子は、部屋にいるムジカにも頼子にも気づいていないようだった。支度を終えると、頼子の身体を通り抜けて部屋から出ていった。
 頼子は自分の腕や身体を見下ろした。かすかに向こうが透けて見えるような気がした。
「追いかけるぞ」
 ムジカが頼子の肩をつついた。
 里中頼子は、洗面所で顔を洗うと、居間でぼうっとしている母親にはなにも言わずに玄関に向かった。
「ゴミ出しといて」
 居間から母親の声が聞こえた。玄関にはふくれたゴミ袋が二つ置いてあった。里中頼子はそれを片手でつかんで家を出た。ムジカと頼子はそれを追ってドアを すり抜けた。


 電車の吊革につかまって揺られている自分の顔を見ながら、わたしはこんなに暗い顔をしていたのか、と頼子は思った。
 駅に着いた。里中頼子はため息をつくと、網棚から鞄をとって電車を降りた。頼子は知らずと、かつての自分のため息を数えていた。起きてから二時間とたっ ていないのに、もう六回目だった。
 里中頼子はしばらく駅のプラットフォームのベンチで時間を潰した。降りた客たちが階段に向かうのをじっとながめている。いつもやっていることだった。改 札でクラスメイトに会わないようにするためだ。電車もわざわざ最後尾車両を選ぶ。
 フォームに待ち客しかいなくなってから、里中頼子は立ち上がった。


 長い坂道を上り、里中頼子は学校にたどりついた。
 教室。
 ゴミだらけの机。白い花が置いてある。里中頼子が席につくと、教室の前の方からちり紙が飛んできて額にあたる。投げた生徒は悪びれもせず、肩をすくめて 友人とのお喋りに戻ってしまう。
 自分のすぐ後ろに漂いながらそれを見ていた頼子は、ふと気づく。机の上の白い花。牛乳瓶に水を入れて、貧相な造花を一本さしてある。
 今朝、自分の机にあったのは、ちゃんとした花瓶に、菊の花だった。
 ――いつから?


 チャイムが鳴った。
 頼子ははっと顔をあげた。里中頼子は鞄に教科書を詰めて立ち上がっている。時計を見ると、三時半。
 時間が放課後まで飛んでいた。
 里中頼子は、急ぎ足で教室を出た。
 ――そうだ。この日は駅前の郵便局でお金をおろそうと思って。
 授業が終わってすぐのバスでないと間に合わない。里中頼子は足を速めた。廊下を走り、近道である非常階段のドアを開けた。『使用禁止』の張り紙はそのと きはまだなかった。
 階段を踏み鳴らして駆け下りる、里中頼子の後ろ姿。
「ここだ。よく見ろ」
 耳元でムジカの声がした。
 頼子はその瞬間まで、ムジカの存在を忘れていた。ムジカの細い腕が伸びて、それを指差した。頼子は、自分が自分から目を離していたのに気づいた。
 里中頼子の後ろ姿は、非常階段の手すりの向こう、なにもない空中にあった。
 その両手が空気を虚しく掻いた。
 頼子には、その身体がしばらく宙に浮かんでいるように見えた。でもそれは錯覚だった。自分の後ろ姿は視界からかき消え、細い悲鳴が追いかけて落ちていっ た。
 そして、ぐしゃり、となにかが潰れる音。
 その後の空隙に流れ込んでくる沈黙。
 頼子は、じっと、自分が束の間浮かんでいた虚空をにらみ続ける。その向こうには澄んだ冬の青空がある。


「思い出したか?」
 ムジカが言った。

       *

 世界は再び茜色に染まっていた。
 眼下、アスファルトの上には白い花束がある。
 ――戻っている。
「わかったろ。あんたはもう死んでる。だから殺せない」
 ムジカは頼子の隣に立って、一緒に花束を見下ろしている。
 頼子は床に崩れ落ちた。
 ムジカの腕だか脚だかにしがみつく。
 ――わたしが。死んでいる。
 ――じゃあ、今の今までのわたしは? なにをしていたの?
 身体の熱が、さっきまで熱だと思っていたものが、すうっと退いていく。それを離したくなくて、頼子は少年の身体に抱きついた。
「おい。わからねえのかよ。あんたただの幽霊。さっさと成仏しろ」
「わからない」
 頼子はうわずった声で答えた。見えてはいないけれど、ムジカが顔をしかめるのがなぜだかわかった。
「わからないよ。だって、わたし。なにも。なにも、変わってないのに」
 ここから落ちた後の一週間。
 落ちる前の十五年間。
 なにひとつ、変わっていない。
「ずっと、わたし、いないのと同じだった。だれもわたしのこと見てなかった。だれにも触れなかった」
 だから、なにも変わっていない。
 だから、殺してほしかった。
 ムジカは深く息をついた。それから、頼子の手を払いのけると、かがみ込んだ。ムジカの幼い顔が、頼子のすぐ近くにあった。
「知ってるよ。あんた、あそこから落ちるよりずっと前に、もう死んでたのと同じだ。でも、殺したのはあんただ」
「わたし?」
「そ。あんたが自分で自分を殺したの。気づかねえうちに」
「そんな。わたし」
 ムジカはポーチから抜いた手を頼子の前に突きつけた。
 その手には、またビスケットが一枚。ただし、今度のは雪のように真っ白なビスケットだ。
「特別サービス。見せてやる。割れ」
 頼子は動けない。
 ムジカは頼子の手をとって、ビスケットを無理矢理握らせた。頼子の両手を包み込むようにして、力を加えた。
 手のひらの中でビスケットが砕けた。

       *

 頼子は、一階の教室の窓の外から、中を見つめていた。一枚だけガラス窓が開けられて、カーテンが風でふくらんでいるのが見えた。そこに一人の少女が立っ ていた。
 それが自分だと最初は気づかなかった。
 制服がちがう。同じデザインのブレザーだけれど、紺色ではなく柔らかいグリーンだ。それに、背丈が低い。
 ――中学生のわたしだ。
 自分ひとりだけだと思っていたが、教室の中にもうひとつだけ人影があった。頼子は窓に近づいた。
 中学生の自分は、その人影に気づいて振り向いた。ひとりの少年だった。やはり制服を着ている。同級生だろうか。
 その顔には、見憶えがあった。名前は思い出せない。でも、わたしは、この子を知っている。
 少年がなにか言った。
 聞こえない。
 聞こえないのではなく、この情景には音がない。
 無音の世界だ、と頼子は気づく。中学生の自分は口の動きさえ見えないので、なんと答えているのかもわからない。
 少年ははにかみ、顔を朱に染め、しょっちゅう目をそらしながら喋り続けている。中学生の自分の背中がどんどん縮んでいっているような錯覚に頼子は襲われ た。
 突然、中学生の自分が駆け出した。少年の横を通り、教室を飛び出し、戸を叩きつけるように閉めた。音はなかったが、教室全体が、風景全体が震えたような 気がした。
 ひとり残された少年は、机に手をついてうつむいた。
 その姿が、ぐんぐんと遠ざかる。
 景色の色が薄れ、白い光に呑み込まれる。

       *

 再び気づくと、頼子が見つめているのは、手のひらの中の白いビスケットの破片。
 顔をあげると、兎のポーチ。
 ムジカは立ち上がっていて、再び階段の下を見つめている。
 ――あの風景。
「見ただろ。あれが、あんたが自分を殺した瞬間」
 ムジカが顔をこちらに向けないまま言った。
 ――いつだったかは、思い出せないけど。あの男の子は。なにを言ったのだろう。わたしはなんと答えたのだろう。わたしは。どうして。逃げだしたのだろ う。
「わたしは。わ、わたし」
「あんた、ちゃんと生きてた。勝手に自分で殺したんだよ。まわりのせいにすンじゃねえよ」
「で、でも。だって」
「ほら」
 ムジカが指差した。
 足音が聞こえた。頼子は手すりの間から顔を出して下をのぞきこんだ。
 一人だけではない。足音からして、四、五人。校舎の角に、三つ編みの髪が見えた。そしてブレザーの肩。
 少女達は、頼子が落ちた場所までやってきた。中の一人、郁恵の手には新しい花束がある。他の四人も、みんな頼子のクラスメイトだった。
 郁恵がひざを折って、古い花束と新しい花束を取り替えた。
 それから彼女たちは、目を伏せ、両手を合わせて沈黙した。
 だれも動かない。
 祈りが、聞こえてくるような気さえした。
 ――みんな、わたしを。
「あんたはべつに天涯孤独ってわけじゃなかった。そう気取ってただけだよ」
「あ、ああ、ぁ」
「気づいてなかっただけだ」
「ぅ、う」
 頼子は床に這いつくばった。
「みんなちゃんとあんたのことは見ていた。あんたのことを気にしてた。あんたが全部閉じたんだ」
 ムジカは静かな声で言った。
 少女達の黙祷はまだ続いている。
「他人のせいにすりゃ楽かもしンねえけどよ。もう気づいただろ。認めろよ。あんたはかわいそうな被害者じゃない。どこにでも転がってる普通の女だ。ただ失 敗しただけだよ」
「ムジカ。もうやめたまえよ」
 ウサギのポーチがそう言って遮った。
 ムジカは足下に視線を落とした。
「終わったのだよ」
 なにもない金属の床に、白いビスケットのかけらだけが散らばっていた。

       *

 陽は沈んでしまったが、西の空はまだほの明るい。
 電信柱のてっぺんに腰掛けて、ムジカは宵闇に浸っていく街並みを眺めていた。起伏のない住宅地がどこまでも続いている。
「ひどい仕事だったものだね」
 腰のポーチがつぶやいた。
「ひどい依頼主に、ひどい標的に、ひどい殺し方だ。だいたい最後のあれはなんだね。事実を見せつけても成仏しないからって、あんな粗悪な捏造記憶を与える なんて。実に優美でないね」
「うるせえな。俺は殺し屋なの。映画監督やってるわけじゃねえんだ」
 ムジカはぼやいた。
「それにしてもひどい。だいたいあのお嬢さんは中学高校と女子校だろう。なんでクラスメイトの男の子が出てくるのだね」
「漫画かなんかで読んだんだろ、ああいうシーン」
 ムジカは鼻を鳴らした。
「まさか、俺だってあんなちゃちい偽記憶信じて成仏するとは思わなかったさ」
「それに、あの男の子の顔。ありゃムジカ、きみじゃないか。どういうつもりだったんだね」
「しょうがねえだろ。あの女の記憶に、他に男の顔がなかったんだから」
 さすがにウサギのポーチは黙り込んだ。
 遠くで鴉ががなっている。
 ムジカはベレー帽をとって髪をほどき、かき回した。
「どうして、依頼を受けられないほんとうの理由を教えてやらなかったんだね」
「別件で同じ依頼を受けてるからって? 教えてどうすんだよ。ますます成仏しなくなるじゃねえか」
「ショック療法というものだよ」
「うるせえ。その依頼人が来た。ちょっと黙ってろ」
 ムジカはポーチをはたいた。
 人通りのない狭い路地。向こうの辻を曲がって、ひとりの少女が路地に入ってきた。背丈が低く、髪は三つ編みで、紺色のブレザーの制服に、さらに濃紺の コートを羽織っている。
 少女が電柱の真下を通りかかるのを見計らって、ムジカは飛び降りた。
 少女は跳び上がるようにして立ち止まった。
「あんた、浜西郁恵だろ」
「え。あ」
「俺はムジカだ」
 郁恵の顔が蒼白になった。塀に手をついて身体を支える。腰は今にも砕けそうだ。
「あんたからの依頼通り、里中頼子を階段から突き落として殺した。先週だな。でも、ちっとやり方がまずくて、殺しきれてなかった」
「そ、んな、ほ、ほんとに」
「信じてもいねえやつに依頼されたかと思うと鬱になるなあ。まあそれはそれだ。今日、きっちり殺した。だから」
 ムジカは一歩、郁恵に近寄った。
 郁恵は塀にぺったりと背をつけた。唇が震えている。
「だから、あんたももう、心にもねえ供養はしなくていいよ」
「ぁ、は」
「同級生にも言っとけ。もう、里中頼子が見えちまうことはないって」
 郁恵はひざを折って地面にくずおれた。
「じゃ、じゃあ、あれ、やっぱり」
「本物だよ。あんたら一週間、里中頼子の幽霊と一緒に授業受けてた。貴重な体験だったろ」
「あ、あぁあ」
「でももう、出ない。おしまい。消えた」
「ご、ごめんなさい」
 郁恵はアスファルトに突っ伏した。
「ごめ、んなさい、そんな、そ、そんなつもり、なかったの。あ、相川さんが、う、噂聞いて、お、面白そうだから、た、試してみろって、それで、わ、わた し」
 ムジカは頬を掻きながら、震える白いうなじを見つめる。
「頼子、ちゃん、こ、殺すつ、もり、なんて、なかった、の。ごめんなさい。ごめん、なさい」
「俺に謝られてもな」
 仕事だし、とムジカはぼやく。
「それで。おい、ちょっと聞けよ。本題」
 郁恵はのろのろ顔をあげた。涙でぐちゃぐちゃになっている。
「一週間以内に仕事終わらなかったからな。規定で、料金半額返すことになってる」
 ムジカはポーチの中から六百三十円分の硬貨をつかみ出すと、広げた手のひらにのせて郁恵の鼻先に差し出した。郁恵の堰は切れた。喉の奥からしぼり出すよ うな泣き声をあげて、また両腕に顔をうずめ、うずくまってしまう。
「受け取れよ」
 ムジカは冷たく言った。
「里中頼子の、命のお釣りだ」
 泣き声はひときわ大きくなった。
 ムジカは顔をしかめて、しばらく待った。
 嗚咽がやがてしぼむ。郁恵は亀のように地面に硬く丸まって、ごめんなさい、ごめんなさい、とつぶやき続けていた。
 ムジカは硬貨をばらまいた。何枚かはアスファルトを打って甲高い音をたて、何枚かは郁恵の頭にぶつかって弾んだ。
 ムジカは郁恵の横を通って歩き出した。


「なあ」
 ムジカがようやく口を開いたのは、踏切の前だった。遮断機が下りてカンカンカンカンと警告音が鳴り響いていた。
「聞いてるか、おせっかい兎」
「聞いているとも」
 電車がやってきた。けたたましく空気を引き裂き、掻きむしり、押しやり、断続的な光でムジカの顔を照らしながら、行き過ぎる。
 音が止み、遮断機があがった。スクーターがムジカを追い越し、向こう岸から渡ってきた自転車とすれ違う。
「料金、値上げしようかと思うんだけど」
「なぜに」
 ムジカは歩き出す。
「だって千二百六十円は安すぎるだろ」
「高すぎるね」
「そうかな」
「そうだとも。人ひとり殺しているだけだよ、きみは」
 線路を渡り終え、ムジカはため息をついた。
 答えず、歩き出す。
 信号もない暗い十字路で、その姿はかき消えた。




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