猫は笑わない

 ところでどうして最終電車なんかに乗るはめになったのかというと、サユリさんのせいだ。
 サユリさんは僕の高校時代の同級生で、なのに「さん」づけで呼ぶのは、彼女が僕より一ヶ月と半分だけ誕生日が早く、束の間ひとつ年上になるその十月二日 から十一月二十二日までの期間、きまって姉貴風を吹かせるからだった。
「ねえ、きみは昔、『性格だけ良い女と顔だけ良い女の方がいたら、顔が良い方を絶対に選ぶ』って言ってたよね」
 これが飲み屋に入って最初の一杯を注文してからの第一声だった。僕はそれを聞いて終電を覚悟した。
「言ったっけ」
 僕は、つきだしのひじきをかき回しながら憶えていないふりをした。
「『顔を変えるのには金がかかるけど、性格を変えるのは無料でできるから』って。言った」
 くだらないことをよく憶えている人である。僕がそのせりふを口にしたのはたしか高校一年生のときだから、八年前だ。リッキー=ネルソンの息子兄弟がまだ 痩せていてひげもはやしていなかった頃である。
「時効になってないかな」
「人殺しの時効って何年くらい?」
「十五年。たしか」
「それより長いと思うのね。そういう無神経なせりふって。重罪だよ」
「待って。僕はそれなりの考えがあってああいうことを言ったんだ。高一のころは馬鹿だったからそれ以上口が回らなかったけど、今なら補足説明できる」
「ふむ。暫定球というわけだね。認めよう。喋っていいよ」
 僕らのテーブルに、モスコミュールとトマトジュースが運ばれてきた。つまみは注文しなかった。サユリさんは待ち合わせの前に軽く食べたというピツァで、 僕は緊張感で、それぞれ腹一杯だったからだ。
「僕が言いたかったのはつまりこういうことだよ。性格の悪い人間なんてそもそも存在しない。性格の良い人間もいない」
「ふん」
 彼女のモスコミュールは半分になっていた。
「ちょっとずつ違ったものが色々あるだけで、客観評価できない。客観評価できるのは顔だけだよ。だから、そういうふうに材料を二つ抽象的に並べられたとこ ろで――」
「ねえ、ちょっと。今の」
「なに?」
「今のことば。もう一度言ってみて」
 モスコミュールは空になっていた。
「どれ?」
「客観なんとかってやつ」
「客観評価」
「リピート」
「きゃっかんひょうか」
 サユリさんは濡れたコースターを僕の頬にぺたんと貼りつけた。
「虚しくならない?」
「そうだね」
 僕はコースターをはがして灰皿に捨てた。
 サユリさんは二杯目の注文のために店員を呼んだのだけれど、せわしなく店内を動き回っているエプロン姿は一人としてこちらに気づいてくれない。サユリさ んは肩をすくめると、僕のトマトジュースを奪い取って飲み干してしまった。
 僕はそういう彼女の意外な寛容さと狭量さにいつも驚かされていた。僕の高校三年間はほとんどその発見と驚きで費やされたといっていい。
「じゃあ、どうしてあんなことになったんだろう」
 サユリさんはテーブルの端の醤油さしに向かってそう訊ねた。
 あんなことというのはどんなことなのか、僕は訊き返さなかった。殴られるからだ。八年も経てば人間少しは成長するものだ。
 サユリさんの言う「あんなこと」をブラックボックスとして、なんとか話がつながるように僕はせりふを考えてみた。
「単純に、距離感の問題だと、思うけど」
「なにそれ」
「だからさ。あんな狭い部屋にあれだけの人数がいたんだから、そういうことが起きてもしかたがないってこと」
「部室の面積のせいなわけ?」
 いつのまにかサユリさんは僕の顔をちゃんと見ていた。僕の言った「あんな狭い部屋」が、高校の時の合唱部の部室であることも理解できたみたいだった。
「だって、ほら、プルトニウムは一カ所に一定量集めると勝手に反応を始めるんだよ」
 そう言うと殴られた。
「男女関係と化学反応をいっしょにしないで」
 原子核反応は化学反応ではないし、その区別は化学の定義の根幹に関わる重要なものだけれど、そういうことを説明したりすると今度は足が飛んできかねない ので、僕は首をすくめて黙った。
 しかし、我ながらプルトニウムの話はうまいたとえだと思う。


 というわけでプルトニウムの話をしよう。まずは原子爆弾の作り方から。
 プルトニウム239はある一定範囲内に十キログラム足らずが集まっただけで連鎖反応をはじめて爆発する。だから、五キログラムずつの塊を作って、それを 真ん中に仕切りのある容器に分けて入れ、起爆したいときには仕切りをはずせばいい。
 僕が高校時代に所属していた合唱部の部室が、ちょうどこの原子爆弾の容器の片側に該当した。ドア一枚を隔てた隣は音楽教師が使っている準備室だった。
 きっかけは、たしか新しいティンパニを音楽準備室に運び込むときだったと思う。
 音楽準備室は奥まった奇妙な場所にあって、廊下に接しておらず、音楽室か合唱部の部室を通らないと中に入れない。音楽室経由だと楽器が大きすぎて通過で きないポイントがあることが発覚し、ひさしく使われていなかったもう一つのルート――準備室と合唱部部室の間の戸口の鍵が開けられることになったのだ。
 先生と数人の合唱部員とで楽器を運び込んだ後、お疲れさまと言って先生がお茶とお菓子を出してくれたらしい。そして、それまで大して交流もなかった合唱 部と先生は急激に親しくなったという。その日から僕の二年生の十二月まで、つまり合唱部が廃部になってしまったその日まで、準備室と部室との間の戸は鍵が 開けっ放しだったという話も聞いた。すべてが伝聞調なのは、僕がほとんど部活動に顔を出さない幽霊部員だったからだ。
 音楽の先生はジュンコさんという人だった。三年生はジュンちゃんと呼び、二年生や僕たち一年生はジュンコさんと呼んでいた。なので名字は憶えていない。 二十四、五歳くらいで、肌が白くて黒目がちで、面白いくらい髪が長くてさらさらだった。かすれたような高い声でたどたどしく喋った。見るからに内気でおと なしそうな人だったけれど、それが素顔でないことを少し後で僕は知った。セックスのあとで彼女はきまって煙草を吸い、身体のどの部分から出てくるのか不思 議に思えるくらい深いコントラルトの声で、人生におけるあらゆる不満を吐き出した。だれにたいしてもそうだったのかどうかは知らないけれど、とにかく僕と したあとはそうだった。
「べつにねえ、私は教師になりたくてなったんじゃないんだよ」というのが、ジュンコさんのベッドの中での口癖だった。
「あなたたち高校生を見てると、いつもいらいらするし」
「どうして」
「毎日毎日、十歳も年下の人間百人と顔を合わせてるとね、息がつまりそうになる。だって、昔、まだ欠陥がなかったころの私を思い出しちゃうもの」
「欠陥」
「そう。聞いたことない? 人生は積み重ねるものじゃないの。それは年寄りのひがみ。人生はただ単純に磨り減っていくだけなの。人間が曲がりなりにも成長 するのは、十六歳の十一月まで。そのあとはただ退化して、しぼんで、縮んでいくだけ。そういう下り坂をまだ知らないあなたたちの相手を、仕事だからって毎 日うんざりするほどさせられて、今まさにしぼんでいく最中の私が平気でいられると思う?」
「先生、十六歳の十一月になにかあったの」
 ジュンコさんは答えなかった。ただ僕の肩に歯を軽くたてて、それから枕に突っ伏してしまった。長い髪はめいっぱい乱れて、僕と彼女の太ももにからみつい ていた。
 たしか、僕が十六歳になったばかりの十一月のことだったと思う。


 人間の成長は十六歳の十一月でピークを迎える。その説を、僕は十年後に再び目にすることになった。図書館でなにげなく手に取った本に書いてあったのだ。 ギトォ=グラブロックの『魔女の理由』という小説で、スコットランドの森の中にある老人介護施設で暮らす六人の爺さんたちが延々と自己嫌悪を垂れ流し合う という話だ。日本語訳にして七百ページにわたって老人の愚痴が続く。成人してからの自分がいかに下らない人生を歩んできたか、どれほど愛されずに日々を過 ごしたか。
 老人の一人、バードリという元不動産屋は、昼食にオートミールを運んできた看護士をつかまえてこう語る。
『きみ。いったいに人生というものは山にたとえられるが、あれは間違いだ。山は麓に始まって嶺を経て麓に終わる。すると赤ん坊と老人はともに麓である。笑 わせるね。これが正しいなら、この豚小屋になぜわしらと一緒に赤ん坊がいないのだね。いのちはただの下り坂だ。赤ん坊は十七年かけてしわを伸ばされ、十六 歳の十一月に坂を転げ落ちはじめる。なぜというに、この世の中はなべて急勾配の下り坂なのさ。そら、立っているのがやっとだろう』
 看護士は立っているのがやっとのバードリをはいはいとなだめて椅子に座らせ、食事を与える。バードリはオートミールを胸じゅうに撒き散らしながら下り坂 についての話を続け、その夜に脳出血で倒れ、この物語の最初の死者となる。
 僕はバードリの葬式で他の老人達がそろって棺桶にフォークや糸鋸の刃を投げ込むシーンまでを読んでから、その本を棚に戻した。口の中がざらざらした。
 図書館を出るともう真っ暗だった。十一月の日没はひどく突然だ。僕はスーパーに寄り道するのをあきらめてまっすぐ部屋に帰ることにした。帰り道の途中に 長い下り坂があった。両手に民家の塀が続く狭い道で、街灯もほとんどは水銀が浮いているのでひどく暗くて歩きづらい。世界は下り坂である、それはひとつの 真実かもしれない。
 でも、と僕は坂を下りながら思う。
 坂が下りか上りかを決定づけるのは坂自身ではない。そこを歩く人の向きである。
 僕は試みに後ろ向きで坂を下ってみた。四歩目で転んだ。後頭部をアスファルトにしたたかに打ちつけ、世界が大きく揺れて空の月が三つに増えた。
 痛みでぼんやりした逆さまの視界の真ん中を、黒い野良猫が横切った。電柱の影に消える間際、僕の方を見て笑った気がした。


 この話を叔父にしたら、「猫は笑わないよ」と言われた。
 叔父は獣医で、千葉の奥地で動物病院を開業している。たまの休日に僕を誘いだして池袋あたりで酒を呑む。その日は中華料理店だった。
「ペットの飼い主は全員馬鹿だ」
 彼の口癖だった。
「犬が人間を見てすり寄ってくるのは、『甘えると食べ物がもらえる』と理解しているからなんだ。動物は人間が考えているよりはるかに頭がいい。食うことと 寝ることと身の危険を回避することにかけては俺たちよりよっぽど狡猾なんだ。同時に、それ以外のことは考えていない。別物なんだよ。なあ、たとえば、電動 泡立て器は人間より優秀だと思うか?」
「さあ。ホイップクリームを作るときくらいしか使わないし」
「ギター弾くのにも使えるかもしれないぞ」
「ポール=ギルバートだってそんなことはしないよ」
「だから猫は笑わない。犬は笑うが人間の笑いとは意味がちがう」
 話がまるでつながっていなかったけれど、僕はわかったふりをすることにした。
「そういう話まとめて、本でも出したら?」
「そのうちな」
「でも叔父さん、ペットの飼い主のおかげで生活できるんでしょ。なのに馬鹿にするんだ。本に書いたらまずいんじゃない?」
「馬鹿は本を読んでもペットとの接し方を変えたりできないから、儲けが減ることはないよ」
「そうじゃなくて。この獣医は客を馬鹿にしている、って思われたらどうすんの」
 叔父は小さなグラスの底に氷砂糖を敷くと、熱い紹興酒を注いだ。飴色の液体の中で砂糖が音を立てて爆ぜる。
「世の中の人間は否定的な一般論が大好きなんだよ。だれにとっても他人事に読めるからだ。ほんとは否定されているのは自分なのにな」
 それはうまく文章を書いた場合だけじゃないだろうか、と僕は思ったけれど、黙っていることにした。そんなことを言ったら「だから原稿はおまえに頼む」と 返ってくるにちがいないからだ。叔父が本気かどうかわからないけれど、ペット好き向けの実用書なんて死んでも書きたくない。しかし叔父のおごりで呑んでい る最中にそういう断りは言いづらい。
「本のタイトルは、そうだな、『飼ってはいけない』かな」
「やめなよ」
「ベストセラーになって一年後に、違うペンネームで『あれは実は男女関係にも応用できる』とかいう内容の、これまた下らない本を出す。これまたベストセ ラー」
 気が付くと紹興酒は二本目だった。僕は熱い烏龍茶で口の中の油を洗い流すと、叔父を急かして店を出た。
 地下鉄東西線の駅で電車を待つ途中、訊いてみた。
「絵美さんとなにかあったの?」
 絵美さんは叔父の奥さんで、やはり獣医だ。夫婦間には喧嘩が絶えない。しかし叔父はそういう個人的に弱いところを自分から僕に話したりはしない。ただ話 の内容が荒唐無稽になるので、なんとなくわかる。
「離婚するときの慰謝料を印税で稼がないとな」と叔父は笑った。真剣なのか冗談なのかわからない。人間の笑い顔はそういうものを隠してしまうのだ。たしか に猫の笑いとも犬の笑いともちがう。


 東急ハンズで電動泡立て器を買った。ギターを弾くためだ。
 回転する部分に四枚のピックを瞬間接着剤で貼りつけて固定する。回転部は二つあるので、一弦と六弦を同時に弾けるのではないかという僕の目論見は見事に 外れた。スイッチを入れたとたん、出っぱったピックの先端がお互いに引っかかって弾け飛んだのだ。そのうち一枚は僕の額に突き刺さった。
 教訓はこうだ。酔っぱらいの言うことを聞いてはいけない。


「その怪我はなんだよ」
 僕を見るなりモトジは僕の額を指差して言った。まだ夕方だったので、店の座敷席にもカウンターにも他の客はいなかった。
「ちょっとアフガニスタンに行ってきたんだ。もう少し口径の大きな銃だったら死んでたよ」と僕は嘘をついた。ピックで怪我をしたなんて言うと、続きの説明 が面倒くさい。
 注文をとりにやって来た女将さんに酔鯨の冷やを頼むと、モトジの向かいに座った。
「まあ生きててよかった。こうして酒が呑める」
「うん」
 モトジはすでに焼酎に突入していた。テーブルの上に置かれた七輪の網にだいぶ焦げがこびりついているところを見ると、かなり前からやってきて飲み食いし ていたようだ。
「結婚するらしい」
 モトジは突然言った。主語を必要以上に略すのは、高校時代から変わらない彼の悪癖だ。
「そりゃおめでとう」と僕は答えて、運ばれてきた酒に口をつけた。「きみはたしか長渕とモー娘が大っ嫌いだったよね。披露宴では『乾杯』と『ハッピーサ マーウェディング』を歌ってあげるよ」
「俺じゃない。サトシだよ。同窓会でちょろっと言ってただろ」
 僕は思いだしてうなずいた。昔から空気を読むのが大変苦手だったサトシは、合唱部の同窓会に僕らとまったく面識のない婚約者を連れてきて、裏で大いに顰 蹙を買っていたものだ。
「来月、式だとさ」
「出ないよ」
「なんで」
「三万円払って料理も酒も不味い宴会に出るくらいなら、募金して赤い羽根でマフラーでも作るよ」
「勝手にしろ。俺は出る」
「どうしたの? 人間ドック行ったら末期癌が見つかって残り少ない人生を浪費することに決めたとか?」
「馬鹿。俺は最近、考え方を改めたんだ。なあ、結婚っていうのはつまり『俺たちはこれから毎晩ゴムなしでセックスします認めてください』という恥ずかしい 宣言だろ。その宣誓式である結婚披露宴でどれだけ恥ずかしいことをしようが、結婚の恥ずかしさに比べれば屁でもない」
「セックスは恥ずかしいかな」
「恥ずかしくないと思うんならスクランブル交差点の真ん中でやれよ」
「今度やってみるよ。青信号の間に終わるかな」
「馬鹿」
 まったく教訓を生かさないまま、僕はモトジの話につき合った。黒豚の炭火焼きや久保田の純米の味に比べれば、モトジの支離滅裂な話なんて屁でもない。
 二時間の協議の末、「披露宴ではさだまさしの『秋桜』を歌う」という結論に至った。この場合の結論というのは酔いつぶれる寸前にモトジが漏らした言葉、 と同義である。僕はモトジの尻ポケットから財布を抜いて勘定を支払うと、彼を背負って店を出た。
 夜風に触れたモトジがあやしい蠢動を始めたので、僕は彼を道ばたに投げ捨てた。彼は身を二つ折りにして、側溝の中に胃の内容物を残らず吐き出した。
「気分はどう?」と訊いてみると、「最悪」と返ってくる。
 僕はそばにあった自動販売機で冷たいお茶を買うと、這いつくばっているモトジの後頭部に中身を注ぎかけた。缶が空になってしまうまでモトジは動かなかっ た。
「結婚式じゃなくて葬式の話じゃなかったの?」
「知ってたのかよ」
「うん。僕にも電話来たから」
 モトジは僕に背を向けたまま立ち上がった。蛍光灯の光の下、彼のうなじを緑茶が流れ落ちていくのが見えた。
「おまえ、ジュンコ先生とやったのか?」とモトジは言った。僕はうなずいた。後ろを向いている彼には見えないだろうと思い、けれど言葉に出さなくても答え はわかっているだろうとも思った。
「じゃあ、結局、合唱部の男でやってないのは俺だけか」
「たぶん、先生にとってモトジだけ特別だったんだよ」
「おまえそれ本気で言ってんのか?」
「なわけないでしょ。でも、死んじゃった人のことじゃない。その人がなに考えていたかなんて、勝手に想像するしかないよ。ポジティヴ・シンキング。振り向 けば世界は上り坂でできている」
 モトジはまだ僕の顔を見ない。
「ところで、飲み代モトジの財布から勝手に払っておいたよ」と言ってみた。
「てめえ」
 ようやく彼はこっちを向いてくれる。目には光がある。僕は笑って逃げだした。




戻る