Raining


 僕が教室の戸を開けると、窓際の机の前に立っていた浅倉さんが振り向いた。部屋には他にだれもいなかった。とてもよく晴れた十月の放課後で、窓から斜め に差し込んだ陽が、浅倉さんのセーラー服や白い肌、手にした鋏、ニス塗りの机やその上に散らばった切り落とされたばかりの髪の束を柔らかく灼いていた。
 彼女は二秒くらい僕の顔を見ると、また窓の外に視線を戻した。校庭の方からは金槌の音やフォークダンスの音楽や笑い声が聞こえてきていた。
 ざぐ、と音がした。僕は手に持っていたペンキの缶を落としそうになった。浅倉さんの右の三つ編みが鋏と手のひらの間をすべり落ちて机の上でのたくり、鳳 仙花がはぜるみたいにほどけた。
 逆光の中で、浅倉さんの赤毛の粗い切っ先が透けて燃えていた。
「後ろ髪、変になってないかな」
 浅倉さんが言った。僕は首を振った。
「よかった」
 浅倉さんはにっこり笑うと、机の上の髪の毛を残らず床に払い落とした。
「でも小宮君、なんで戻ってきたの? みんな中庭で大道具作ってるんでしょ」
 僕は気まずくなって、手にしたペンキ缶に視線を落とした。クラスメイトたちはみんな、文化祭のお化け屋敷で使うセットを中庭で作っていた。その途中で、 だれかが言い出したのだ。
『浅倉の机にペンキで悪戯書きしよう』
 いつもはマジックインキで悪戯書きしているので、担任教師に見つかるたびにシンナーで消すように言われる。消すのはたいてい僕の役目だ。クラスメイト全 員が示し合わせて犯人は僕だと告発するからだ。実際、悪戯書きの半分以上は僕の手によるものだった。みんな自分の手は汚したくないし、僕はちょっとすごむ だけでなんでも言うことを聞くような人間だったからだ。
「今日はペンキ使って描くんだね」
 浅倉さんが僕のすぐそばまで来て、缶をのぞきこみながら言った。
「……あ」
「わたしの机。でしょ?」
 浅倉さんの視線が僕の太もも、脇腹、胸を伝って僕の目までたどりつく。
「わたしね、小宮君の絵、好きなんだ。先週描いてた、あの馬とおじさんがセックスしてる絵とか。巧いよね」
 それは男子生徒数人の冗談まじりのリクエストを僕が真に受けて書いた絵だった。次の日にすぐに教師に見つかって消すように言われた。
「……ごめんなさい」
 僕はそのまま後ずさって教室から逃げだそうとした。浅倉さんが僕の腕をつかんで、窓際まで引きずっていった。
「今日はなんの絵?」
 浅倉さんの机は、木目に残ったマジックインキの跡で黒ずんでいた。髪の毛がまだ数本残っていた。高いビルの屋上から、アスファルト道路にこびりついた鴉 の死体を見下ろしているみたいだった。どうやら僕は逃げられないらしい。
 床にペンキの缶をおろして、蓋を開けた。熱くこもっていた臭気が流れ出して、意識が一瞬だけ遠くなる。中に沈んでいた刷毛を取り出すと、水色の液体がし たたって、ねっとりした湖面を揺らせた。
「水色のペンキだ。いいね。小宮君の絵のセンスって、なんだかうちのお母さんとよく似てる」
 僕はなにも答えずに、刷毛の端を使って机の上に線を乗せ始めた。クラスメイトたちのリクエストは、全員一致で『首吊り自殺の絵』だった。我らが二年四組 は大変な団結力を誇っている。その団結力を支えているのが、浅倉さんを最下層とし、僕をそのひとつ上に据える逆ヒエラルヒーだった。
 一学期の終わりまで、教室における最下層民は常に僕だった。夏休みの最後の日、ある事件が発覚して、浅倉さんが僕の足下に転がり落ちてきた。彼女の双児 の弟が母親のアトリエから死体で発見されたのだ。
 彼女の母親、画家の浅倉純子はまだ逮捕されていない。二学期始まってすぐに二年四組では『指名手配』が流行語になり、浅倉さんの机は真っ黒になった。


「わたしの下の名前、読める?」
 浅倉さんがそう言って机の端を指差した。マジックインキで書かれた『浅倉文生死ね』の文章が消えずにうっすらと残っていた。僕はそこをすぐにペンキで塗 りつぶした。
 首吊り死体の絵は天井と紐と頭までできあがっていた。
「読めない」
「『ふみ』。まあ、読み方だけだと普通だよね。弟がね、こう」
 浅倉さんはまだ乾いていない絵のペンキに指をつけると、『化生』と書いた。
「読める?」
 僕は首を横に振って、死体の腕のラインにとりかかった。
「これで『かお』って読むの。二人とも文化の日に生まれたから、わたしが文生で弟が化生。お母さんひどいネーミングセンスだよね。化生(けしょう)って。 バケモノのことじゃない」
 ということは二週間後、文化祭の当日に浅倉さんは十七歳になる。永遠に十六歳のままの弟から一歩遠ざかる。
 どうして彼女は僕にこんな話をしているんだろう、と思った。どうして自分の机が汚されているのにそれを喜ぶそぶりなんて見せるんだろう。なぜ僕をなじら ないんだろう。
 刷毛を持つ手が痺れてきた。線のタッチが粗くなっている。いけない。さっさと描いてしまってこの場から逃げだしたいと身体が訴えている。
 どれだけ僕自身が卑劣な臆病者だとしても、絵にだけは嘘はつきたくなかった。たとえ蠅のたかる牛糞の絵でも、脚をM字に開いた中年女の絵でも。
 死体のスカートのしわ、失禁のしみ、力なく床を指した足の指までを僕は丹念に描いた。その間ずっと浅倉さんの息づかいが聞こえていた。校庭から響いてく る音楽がオクラホマミキサーからマイムマイムに変わった。ヘブライの祈りが通じるのなら雨が降ってくれればいいと思った。こんなに晴れているなんて、ひど すぎる。
「これ、わたし?」
 僕が描き上げてすぐに浅倉さんが言った。たしかにモデルは浅倉さんだった。わかってくれたことに喜んでいる自分が嫌になった。
「でも、髪長いままだね」
 僕はようやく浅倉さんの顔を見上げた。実を言うと彼女の三つ編みの髪が好きだった。
「髪。どうして切ったの」
 僕は訊いてみた。
 なんとなく、と浅倉さんは答えた。


 中庭に戻ると、もうすでに片づけが始まっていた。大きなセットにはビニールシートがかぶせられ、小物はプレハブの倉庫に運び込まれる。
「あ。小宮。飲み物買ってきて」
 男子生徒の一人が僕に気づいて言った。
「俺ポカリ」
「炭酸系ならなんでも」
「でかいペットボトル五六本でいいんじゃないの? あと紙コップ」
 あっという間に話がまとまった。出費元に関してはだれもなにも言わなかった。すでに暗黙の了解になっていたのだ。僕は財布の中身を考えて、気づかれない ようにため息をついた。今月は新しい絵の具を買おうと思っていたのに。
 コンビニエンスストアに行って、重い袋を両手にぶらさげて教室に戻った。袋が手に食い込んで、指先が真っ白になっていた。クラスメイトたちは僕が描いた 絵を見て大笑いしながらペットボトルの蓋をひねり、コップを回した。そしてマジックインキを持ち出し、僕の絵に品性のない注釈を加え始めた。
 もちろん浅倉さんの姿はなかった。僕は鞄を持ってそっと教室を出た。


 次の日から、妙な噂が立った。つまり浅倉さんが髪を切った理由が僕だというものだ。どうやら僕と浅倉さんが二人きりでいるところをだれかが目撃したらし い。
 休み時間に、男子生徒三人によってトイレに連れ込まれた。三カ月ぶりのことだ。
「思春期してンね、小宮君」
「おい。猿が俺らに無断で進化すンじゃねえよ」
 腸が凍りついた。声も出なかった。浅倉さんが牛の屍になってくれたおかげで、僕はそれを洗う賤民の立場に昇格できたはずじゃなかったのか。現に、二学期 になってからは一度も殴られていなかったのに。
「で、なに? もう浅倉とヤったの?」
 一人が僕の頭を便器に突っ込んだ。鼻と唇が臭い水に浸かって、吐き気が喉を転がり落ちてきた。
「教室でそういうことしちゃいけませんよ」
「学校の机ってよ。バイキンすげーんだって。だからそういうところでヤると性病やばいらしいよ」
「じゃあ小宮、消毒してやらなきゃな」
 水音が僕を押し包んだ。後頭部を踏みつけられ、僕の頭は流れ込む水の中に深く押し込まれた。鼻が痛む。手を突っ張って身体を起こそうとする。背中が重 い。だれかが乗っかっているのだ。苦しい。
「しょんべんて消毒に使えるんじゃなかったっけ」
「それ蜂に刺されたときだろ」
「いいんじゃねえの」
 ジッパーをおろす音が聞こえた。


 昼休みに担任教師が僕のところにやってきて、浅倉さんの机の絵を消すようにと事務的な口調で言った。ずぶ濡れになった僕の髪や制服についてはなにも言わ なかった。教師の顔には僕と同じ色が浮かんでいた。あきらめだ。
「ペンキなんです。落ちませんよ」
「削り落とせるだろ」
 首を吊った浅倉さんの絵は、ひげやすね毛を書き加えられ、尖った乳房を与えられていた。おまけに乳首と尻から奇妙な光線を発していた。僕は彫刻刀を使っ てペンキをこそげ落とした。後ろの席で弁当を広げていた女の子が含み笑いをするのが見えた。
 屋上かどこかでお昼を食べているだろう浅倉さんのことを思った。僕の絵と似ているという、彼女の母親の絵を見てみたかった。


 文化祭が近いというのに、僕が美術部で描いている絵はちっとも進んでいなかった。イーゼルに載っているのは、上三分の一ほどが青く塗られただけのカンバ スだった。下の白い部分にごちゃごちゃと書き込まれている下書きのラインは、床に散らばった浅倉さんの髪の毛を思い出させた。
 僕はカンバスを裏返して隅に追いやると、美術室を見回した。だれもいない。美術部員は書類の上では僕を含めて六人いることになっているけれど、文化祭で 展示できる絵はたぶん、僕がこれまで描いてきた五点だけだろう。
 その五枚の絵は美術室の後ろの棚の上に並べて立てかけてあった。人物画はひとつもない。だれにもモデルを頼めなかったからだ。五つとも牛の絵だった。遠 くからだと、どれもピンクフロイドの『原子心母』みたいに見える。
 浅倉さんの母親が息子を殺して、そのせいで浅倉さんがおとしめられて、僕は生まれ変わり、牛じゃない絵を描けるようになるはずだった。でも実際は、なに も描けなくなっただけだった。
 僕は美術準備室に入って、ペンキを探した。水色の缶は流しの下に突っ込まれていた。かなり古いものらしく、蓋は固まっていて、こてでこじ開けなければな らなかった。
 青く塗ったカンバスに、刷毛で首吊り死体を描いてみた。どれほど塗り重ねても浅倉さんにならなかった。
 浅倉さんの机になら、どんなものでも描けるのに。
 チャイムが鳴った。外は真っ暗で、時計は七時を指していた。僕はあきらめてカンバスを塗りつぶした。


 浅倉さんの母親は海外に逃亡したらしいことが、その後の警察の調査でわかった。その小さな新聞記事を読みながら僕は、このまま状況が固定されてしまうこ とを望んだ。浅倉さんの母親は永遠に見つからず、浅倉さんは無視され机を汚され、僕は牛の絵を描き続けるのだ。


「でもお母さんはきっと戻ってくるよ」
 浅倉さんはそう言った。十月最後の土曜日で、僕はいつものようにシンナーをしみこませた雑巾で浅倉さんの机を拭いていた。他のクラスメイトたちはみんな 中庭に行ってお化け屋敷の最後の仕上げをしていた。
「もうすぐわたしたちの誕生日だし」
「戻ってきてほしいの」
「うん」
「なんで」
 浅倉さんは信じられない、といった顔をして僕の目をのぞきこんだ。僕はあわてて視線を机に戻した。浅倉さんの机はニスがはげ落ちて凹凸だらけだった。
「だってわたし、お母さんのこと好きだもの」
「でも。自分の子供を、さ」
「それは関係ないでしょ」
 なにとなにが関係ないのかはよくわからなかった。
「お母さんが浅倉さんのためを思って、戻ってくるってこと」
「ん。ちがう。あの人はわたしのこと、あんまり好きじゃないよ。化生のことは気に入っていたけど。それも関係ないの。わたしはお母さんが好きなの。だか ら、お母さんを戻せるの」
 僕には、不器用な牧童が牛の鼻にロープをかけて必死になって厩舎に引っぱり戻そうとしているところしか思い浮かばなかった。


 機関銃みたいな勢いで降り注いで文化祭の初日を叩きつぶした大雨は、翌日、十一月三日の朝に止んでしまった。気が滅入るくらいの秋晴れだった。
 中庭には屋台が連なり、ウェイトレスの格好をした女子生徒やうさぎの着ぐるみやサンドイッチマンが呼び込みの声をはりあげ、構内放送はひっきりなしにイ ベントの案内を流していた。
 僕はひとりで暗い美術室にいた。絵をどうやって展示するか考えていたのだ。牛の絵が五点と、水色ペンキをべったり塗っただけのが一点。古い順に並べるの は芸がないような気がした。端に水色ペンキを置くくらいなら、ない方がいい。奇数なら水色ペンキを中央に置くところだけれど、六点ではどこに置いてもアン バランスに見えた。
 結局、イーゼルに載せて丸く絵を並べることにした。牛のリヴォルヴァの中に一発だけ仕込まれた水色の弾丸。
 美術室を訪れる人はまだ一人もいなかった。やはり暗いのはよくないのかもしれない。僕はカーテンを開けた。向かいの校舎の色とりどりの垂れ幕が目に入っ たので、やっぱりカーテンを閉めようとして、そこでふと気づいた。
 屋上に人影がある。
 真っ白な格好をしている。
 手に持ったなにかが、陽を反射して光った。
 僕は美術室を飛び出した。


 僕が屋上の扉を開けたとき、浅倉さんの両腕はすでに血まみれだった。左手で手すりをつかみ、右手に持った鋏の刃を左の二の腕に食い込ませていた。白いT シャツにも、白のスリムジーンズにもまばらに血が散っている。
「なにしてるんだよ!」
 僕は駆け寄って、鋏をむしりとった。浅倉さんはとろんとした目を僕に向けた。
「髪がないから腕を切ってるの」
「なに言って……」
 浅倉さんは向かいの校舎に視線を戻した。
「見て」
 彼女が指差す先を僕も思わず見てしまう。お化け屋敷になった二年四組の教室だった。廊下には順番待ちの行列ができている。
「盛況だね」
「それより! 保健室行かなきゃ!」
「あと十五分待って。邪魔しないで」
 彼女の両手が僕の胸を突いた。その反動で、浅倉さんはくるくる回りながら僕から離れていった。重力がなくなったみたいだ。
 屋上の真ん中まで漂って行くと、両腕を広げ、空を仰いで、さらに勢いをつけて回り始めた。腕を伝って血が指先からほとばしり、コンクリートの床に飛び 散った。
 踊っているのだ。
 かすかな羽音のようなものが聞こえた。それが浅倉さんの歌っている声だと気づくのに、しばらくかかった。でもそうとわかってしまった瞬間、階下の喧噪 が、まるで空気が薄くなるみたいに聞こえなくなった。
 無音の世界の中、浅倉さんの白い手足が複雑な曲線を描き、それを血の赤がなぞった。すべてが凍りついた中で、彼女の両腕だけが風だった。風は彼女の身体 に巻きついて胸を抱きしめ、空と地面に向かってまたほぐれた。
 遠くから、歯の奥に響くような音が近づいてきた。
 浅倉さんが空に手のひらをかざした。
 見上げると、雲ひとつない真っ青な空の真ん中を、細くくっきりした飛行機雲が貫いて伸びていくところだった。
「向こうからも、ちゃんと見えたよね」
 ぽつりと浅倉さんが言った。僕ははっとして彼女を見た。踊るのをやめ、まぶしそうに目を細めて、太陽に向かってまっすぐ飛んでいく飛行機を見つめてい た。
「晴れててよかった」
 僕はなにも言えなかった。
 少しずつ現実の音が戻りつつあった。トランペットやトロンボーンの音、演劇のプログラムを読み上げる放送、いくつもの足音、エアコンの排気音。それから 自分の呼吸。そういった音たちが、順番に息を吹き返していった。


 その日、成田空港で浅倉さんの母親が逮捕された。
 僕はそのニュースを見てすぐに、牛をスケッチした五冊のクロッキー帳をすべて台所で焼いて捨てた。






 八年後で、雨の日だった。
 高校を卒業した僕はぱっとしない美大に潜り込んで美術史を勉強し、県立の美術館の学芸員になっていた。
 週はじめから開かれている僕の企画した美術展は、ひどく客足が悪かった。雑誌の取材も五件しか来なかったし、展示期間中の最初の土曜日だというのに、午 前中に県庁から来た偉そうな人たち相手に列品解説をしてしまうと、もうひまになってしまった。
 この展覧会が終わったら、僕は解雇されるかもしれない。
 気づくと僕はまたその絵の前に来ていた。
 浅倉純子の画。題は『化生』とある。燃えさかる炎の中に立つ少年の絵だった。真っ白な服を着ていて、広げた両腕には火の舌がからみついている。僕はその 少年の顔を見上げる。
 ずっとこの絵のことばかり考えていた。高校を卒業してからも、僕はずっとこの絵に取り憑かれていた。答えはわからなかった。僕は変わらず牛の絵を描き続 けていた。
 空を突き破って進む飛行機雲。
 切り落とされてはじけた三つ編み。
 回り続けるからっぽの牛と、そこにひとつだけこめられた水色の弾丸。
「――小宮、くん?」
 不意に後ろから声がした。
 僕は息をつまらせて振り返った。
「やっぱり。小宮君だ」
 浅倉さんはあの日と同じように白いスリムジーンズに白いTシャツで、ホースラディッシュのような色のカーディガンを羽織り、シンプルな銀色のイヤリング をしていた。髪は肩まであり、頬や顎や首筋はほっそりと洗練されていて、もう絵の中の少年と同じ顔には見えなかった。
「来てくれたんだ」
 やっとの思いで、それしか口にできなかった。
「新聞広告に、お母さんの絵が載ってるんだもの。びっくりしちゃった」と浅倉さんは笑った。「でも、小宮君。この美術展、ちょっと趣味悪いよ。『自殺した 画家展』なんて」
「浅倉純子だけじゃ作品が少なくて展覧会にならなかったんだ。それに」
 言葉が喉につっかえて、うまく喋れなかった。僕はうつむいて言葉を続けた。
「あんなことがあった画家だから。話題性狙って、こういう形にするしかなかった。まわりじゅうから反対されたけど」
「そんなにお母さんの絵が気に入ったの?」
「浅倉さんが、来てくれるかもしれないと思って」
 僕は上目遣いで浅倉さんの顔をうかがった。彼女はまるで聞いてないみたいな素振りで、『化生』に描かれた弟に見入っていた。
 僕らのまわりを、いくつかの足音が通り過ぎていった。『化生』の前で足を止める人間は他にだれもいなかった。そのとき、絵が八年の時を隔てたいびつな鏡 となっていることにもだれも気づかなかった。
 やがてかすかな雨音だけになる。
「きれいだね」と浅倉さんは言った。
 僕はそうは思わなかったし、そんなことを訊きたいわけじゃなかった。
 じゃあ、なにを訊きたいの?
 浅倉さんが僕を見る。
「浅倉さんのしたことは全部無駄だったんだ」
「無駄って?」
「だって。君のお母さんは、逮捕されてすぐに自殺しちゃったんだよ」
「知ってるよ」
「お母さんは戻ってこなかったんだよ」
「そうだね。でも」
 浅倉さんは両腕を広げた。それぞれ中指と親指を寄せ、手の甲を下に向ける。絵の弟と同じポーズだ。でも浅倉さんの方は笑っている。
 それから腕を下ろし、一面ガラス張りの外壁の向こうの駐車場で雨垂れに打たれているまばらな車たちをながめる。
「でも、晴れてたよ。それでいいじゃない」
 僕の方に向きなおる。
「今日みたく雨なら、きっと泣けてた」
 僕は首を振った。なにを否定しているのか、自分でもよくわからなかった。
 今日はありがとう、と浅倉さんはつぶやいた。出口の方へと歩きかけて、最後にもう一度だけ立ち止まって振り向く。
「小宮君、まだ絵描いてるの?」
「ううん」
「そう。わたし、あなたの絵は好きだよ。あの文化祭の日も、ちゃんと美術室に行ったんだから」
 僕はスラックスの尻で手の汗をぬぐった。
「水色の絵がいちばん良かった」
 浅倉さんはロビーの方に歩き去った。僕はひとりになった。もうだれもいなかった。牛さえも僕の中には残っていなかった。振り向くと、あの日の屋上に僕は 立っていて、教室でだれかが笑っていた。




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