白薔薇の君

『助けてください。
 わたしには、おじさましか頼れる方がいないのです。』

 エレオノールからのそんな手紙を受け取ったのは四月の終わりのことだった。私はすぐに鹿撃ちと研究会の予定を取りやめにすると、友人である医師のギュス ターヴ=アッセルマンを連れて馬でコムテ・ド・フォワ領へと向かった。
「姫君に会えるのはいいのだが、どうにもきな臭いね」
 後ろの馬上でギュスターヴがぼやいたので、私はついと振り向いた。一日中手綱を握り続けて揺られていたせいで、彼の顔には憔悴が色濃く陰をつくってい た。私は答えず、曇天に目を移す。紺色の闇に染みた森の木々の先端が暗い空を痛々しく狭めていた。
「なんだって馬車にしなかったんだ」
「馬車が通れる道じゃないさ。そうか、先生は白薔薇の谷に行ったことがなかったのだっけ」
 森に入ってからもう三時間はたとうとしていた。馬二頭も並んで通れない、ほとんど獣道といっていい窮屈な道ばかりが続く。一昨日まで続いた長雨で森の地 面はまだぬかるんでいた。
 梢の間に霧がたれ込めてきたのに気づいた。じきにボワモルティエの里――白薔薇の谷だ。私は手綱をたぐって馬の速度を抑えると、エレオノールの可憐な姿 を思い出そうとした。


 私がエレオノールに求婚したのは彼女が十六歳のときだから、もう三年も前のことだ。それ以来、彼女とは会っていない。手紙のやりとりは毎月欠かさなかっ たが、彼女の端正な字で綴られる慇懃な文面を目にするたびに、私は落ち込んだ。もう昔のように笑い合えることはないのかと諦めながらも、楽しげなパリの様 子ばかりを嘘寒い言葉でしたためては投函した。
 母君が行方不明になったとエレオノールが手紙に書いてよこしたのは先月のことだ。わたしはすぐにもボワモルティエに向かおうと返信したが、それには及ば ないと断られた。
 なにも連絡がないままに月がかわり、先日唐突に、助けてください、というあの手紙。私の心は逸った。なにがあったのだろう。たった二行だけの短い手紙 は、私に様々な悪夢を想起させた。


「なんてこった。橋が落ちている」
 ギュスターヴが毒づいたので、私ははっと我に返って手綱を引いた。森は流れの速い川によってぶっつりと断ち切られていた。土が川に落ち込む際で、馬はぶ るると鼻をならし身体を横に向けて立ち止まった。
 たしかに、橋がなかった。道の両手に打ち込まれた杭から、ちぎれた縄が川面に垂れて濁流に洗われている。
「いったん戻るかね」
「いや、この川は他に橋がないんだ。渡ろう」
「正気か。流れも速いし危ないぞ」
「大した深さじゃないさ。急がないと」
 私はひたすらにエレオノールのことだけが心配で、嫌がる馬の腹に蹴りを入れて川の中に進めた。
 向こう岸に上がったときには二人ともズボンがずぶ濡れだった。
「ひどい道中だ。鼠にでもなった気分だよ。なんだってモンテスパン伯はこんなド田舎に居を構えているのかね」
「人嫌いなんだよ。里に余所者が来るのが嫌なんだろう、道を整備しようともしない。もう少しでボワモルティエだ、急ごう、日が暮れてしまう」
 道が徐々に開け、同時にゆるい下り坂となった。両手の深い森がやがて切り立った崖の土面にとってかわる。手ですくい取れそうなほど濃い霧が、馬の脚すら 覆い隠した。
 ボワモルティエの里の入り口にさしかかると、崖の幅いっぱいを塞ぐ柵に出迎えられた。組木には草が粗雑に巻き付けられ、ところどころには暗い色合いの花 が顔をのぞかせている。柵の向こう側の地面にも貧相な花の群れが植えられていた。
「なんだこりゃ。虫除けかね。こんなにびっしりと、これでは馬が入れない」
 ギュスターヴは不機嫌そうに頬をふくらませた。
「虫除けじゃない。魔除けさ。ヒイラギ、ヒソップ、ベルベーヌ、ニンニク……なんでもありだな。やれやれ」
「さすがオカルト研究家は詳しいな。だから田舎はいやなんだ。どこの村でもこんなことをやっとるのかね」
「いや、このへんは魔物の言い伝えが多いのさ。それと、オカルトと呼ぶなっていつも言っているだろう。民俗伝承だよ」
 私は下馬して柵の開く部分を探した。幸い錠前などはかかっていなかった。
「来る早々ずいぶんな歓迎だな。足が凍ってしまいそうだよ、早いところモンテスパン城に行って湯を使わせてもらおう」
 我々は疲れ切った馬に鞭をくれて足早にボワモルティエの里を通り過ぎた。崩れかけたあばら屋の続く村は、まるで疫病の通った後のように静まり返っていた が、厩舎の牛や、時折細く開けられた戸からこちらをうかがう視線で、住人の気配を感じることができた。
 モンテスパン城の門をくぐった瞬間、私もギュスターヴも息を呑んだ。霧よりなお白く浮かび上がり、夜に映える一面の白、白、白――庭園を埋め尽くす白薔 薇の花。霧で重く湿った空気に濃く入り混じった甘い芳香。
「これは。見事なものだな」
「以前来たときは植え込みがいくつかあっただけなんだが……」
 白薔薇の谷の名にふさわしい幽玄とした光景だった。私は一瞬、自分が生者であることを疑ってしまった。踏み越えてはならない境を越えてしまったのではな いか。あの川を渡ったときに、あるいはあの柵を抜けたときに……?
「おじさま!」
 少女の声が、私の妄想を途切れさせた。
 振り向くと、白薔薇の茂みの中から、その小さな人影はまるでにじみ出るようにして現れた。霧と宵闇の見せる錯覚だったに違いないが、薔薇の白がそのまま 人の形をとったような……
「エレオノール」
「来てくださったのですね!」
 純白のドレスの裾をはためかせ、エレオノールは私に駆け寄ってくる。私は慌てて下馬するとその抱擁を受け止めた。エレオノール。蜂蜜のようなその髪。エ レオノール。雪をあざむく肌。エレオノール。彼女の腰に回した腕を私は強く引きつける。
「ああ、お体がこんなに冷え切って。夜道でお疲れですのね。すぐに湯を用意させますわ」
「大きくなったね、エレオノール」
 もう少し気の利いた言葉が出てこないものか。私は自分を呪った。
「背丈などほとんど変わっていませんわ、おじさま」
 身体を離したエレオノールはほほえむ。私は三年前のことを思い出して視線を逸らしてしまう。なんてことだ、相手は十九歳の少女だというのに、これでは私 の方が子供だ。おまけに、つい大きくなったなどと言ってしまったが、エレオノールの容姿は三年前とまったく変わっていなかった。この年頃の少女ならば三年 会わないうちには見違えるほど成長するものではないのか? しかし私の腕の中のエレオノールは、三年前の苦い想い出の中の彼女のままだった。白薔薇の谷の 時は止まっているのだろうか、と私は思ってしまう。
「あー、うん」
 背後で咳払いが聞こえた。
「はやいところ姫のご厚意に甘えようじゃないかね」
「まあ、アッセルマン先生もいらっしてくださったの」
「夜会で一度お会いしただけだが、憶えていてくれて嬉しいですよマドモワゼル。風呂とブランデーをいただけるともっと嬉しい」


 湯を使って人心地ついた後、すぐに夕食の時間となった。しかし、給仕がスープを運んでくる段になっても、エレオノールの父親であるモンテスパン伯爵は姿 を現さなかった。
「伯爵はお加減が悪いのかい」そう訊いてみる。
「なんなら私が診ましょうかなマドモワゼル。ふむいい鴨だ」冷菜をつまみながら横からギュスターヴが口をはさんだ。
 ぼんやりした蝋燭の光ごし、長テーブルの向こう端でエレオノールの顔が翳るのがはっきりわかった。
「……父は、ここ何日も、部屋から出ないのです」
「足でも悪くしたのかな。心配要らない私は外科だ」
「いえ。その……」
 エレオノールはうつむく。さっきからパンにもスプーンにも手を触れてもいない。
「母が、いなくなったことは、お話ししましたよね」
「うん。母君は、まだ」
「はい」
 テーブルに置かれたエレオノールの細い指が、震えた。
「辛いかもしれないが、その、話してくれないかな。母君がいなくなった、とは? 力になれるかもしれない」
 エレオノールが顔をあげ、私を見た。
「ほんとうに、そのままの意味で、母は消えてしまったのです。母だけではありません。女中も二人、失踪しました。一ヶ月たちましたが、見つかりません。父 は……部屋に鍵をかけて籠もりきりで……お食事も召し上がっていらっしゃらないようなのです」
「そりゃあますます私の出番だ。父君は籠城してどれくらい?」
 ギュスターヴがナプキンで口を拭いながら訊ねる。
「もう二週間になります」
 私とギュスターヴは顔を見合わせた。二週間?
「二週間も食事をしないなんてありえんよ。まさか、部屋から出てこないというのは、もうとっくに」
 血相を変えるギュスターヴの言葉を、エレオノールはあわてて手を振って否定した。
「いえ、いえ、大丈夫です。日に一度、女中に水を持ってこさせているようです。わたしもちらと姿を見たり、扉ごしにいくらか言葉を交わしたりはしました」
「奥方がいなくなられたことで、気が塞いでいるのかな」
 私はだれに言うともなくつぶやいた。私の知っているモンテスパン伯爵は厳格で精力的な老人で、妻の行方不明くらいで部屋に閉じこもるとはどうにも考えら れなかった。
「お会いしよう」
 食事もそこそこに、私は立ち上がった。ギュスターヴもうなずいてグラスを置く。
「いえ、あの、でも……」
 エレオノールがなにかを言いかけて口ごもった。
「心配しないで」
 私は微笑んでみた。まだ私は彼女を安心させるくらいの役には立つだろうか。
「不安なんです。あれは」
 エレオノールは私のそばによってくると、そっと胸に額を押しつけてきた。
「あれは、まるで……以前のお父様じゃない、みたいで」


 モンテスパンの館は広く複雑で、伯爵の書斎にたどり着くためには暗く曲がりくねった廊下や階段をいくつも通り過ぎなければならなかった。医療道具の入っ た鞄を抱えたギュスターヴは三階まで上ってきたときにはすでにふうふうと荒い息をついていた。
 書斎は四階の奥まった場所にあった。
 私は手にした燭台の明かりで重厚そうな扉を照らし、呼吸を整えてから二度ノックした。
 しばらく待ってみたが返事はない。
 再びノックし、呼びかけてみる。
「伯爵、私ですベルナール=カルノーです。ご無沙汰しておりました、お邪魔しております。このような夜分に申し訳ございません」
 扉をじっと見つめながら待つ。中に人の気配はまったくといっていいほど感じられなかった。いないのではないか。常識的に考えて、一月も食事なしで生きて いられるはずはないから、こっそり抜け出してどこかで食べているのかもしれない。
 私はギュスターヴを振り返り、肩をすくめた。
 そのとき、ドアの向こうでごとりと音が聞こえた。私は背中をねぶる悪寒にほとんどのけぞるようにしてドアに向き直った。
 つづいて聞こえてきたのは、かすかなうなり声。
 うなり声?
 私はわずかに後ずさる。
 しばらくの静寂の後、扉の向こう側からくぐもった声がした。
「ベルナール君か」
 私の緊張は一息でほどけた。歩み寄ろうとすると、扉をびりびりと震えさせるほどの声が飛ぶ。
「寄るな」
 私は思わず燭台を取り落としそうになってしまった。ノブに手を伸ばした状態で凍りつく。
「わしはだれとも会えぬ。疾く去れ」
「伯爵、どうなさったのです。お体が悪いのであれば、アッセルマン君を連れてきました」
「去れ」
「伯爵!」
 それきり扉は沈黙した。


「どうにも不可解なことが多すぎるな」
 階段を下りながらギュスターヴが言った。私は黙ってうなずいた。
「そもそも奥方が『消えた』とはどういうことだ。下女も消えたって? 森で迷ったのかね」
「奥方は館の外にはまず出ない人だったよ。詳しいことはエレオノールに――いや」私は彼女の青ざめた顔を思い出した。「使用人に話を聞いてみよう」
 我々は厨房に赴いた。以前来たときが三年前なので館の構造をほとんど忘れかけていて、あやうく迷ってしまうところだったが、なんとかたどり着くことがで きた。
 料理人はおどおどした女中だった。
「さっきは素晴らしい料理をありがとう」
 私は相手の緊張を解くためにそういった。彼女の兎のような目は私とギュスターヴと医療鞄の間を往ったり来たりしていた。
「それで、訊きたいことがあるんだ。その、伯爵は――ほんとうに食事をしないのかい」
「え。は、はあ。最初はお持ちしてたのですけど、旦那様が持ってこなくていいとおっしゃって」
「そうか。じゃあ、妙なことを訊くが」私は乾いた唇を舌で湿らせた。「食べ物がこっそりなくなっていたりはしないかな。つまり、その、伯爵が真夜中に部屋 を抜け出して」
 女中はぽかんとした顔をしていたが、やがて私の話を呑み込めたようだった。
「い、いえ。あたし以外が台所をいじったらすぐわかります。それに、旦那様はそんなはしたない方じゃ」
「ああ。済まない。そんなつもりじゃないんだ」
 女中が仕事に戻りたがっているのがわかった。私は心中で舌打ちした。三年前に来たときと同じ料理人だったら話もしやすかったのに。
「奥方がいなくいなったときのことを憶えているかな」
「……いえ、あたしは」
 我々はもごもごと口ごもる料理人を後にして厨房を出た。
 ベッドメイクをしていた女中をつかまえて、再び奥方について訊いてみた。彼女は奥方が失踪する直前と直後を見ている重要な目撃者だということがわかり、 かなり詳しい回答を得ることができた。
「今年に入りましてから、流行の風邪でございましょうか、奥方様や下女の何人かが立て続けに伏せりまして。顔など青いまでに白く。ええ恐ろしゅうございま した。何週間たてど良くならず。はい。今年はお庭の薔薇を潰して葡萄畑にし、ワインを仕込んでみようと旦那様と奥方様が計画なさっていたのですが、それも やむなく」
「ほう、いいね。このへんは霧が深い気候だしワインにはよさそうだ」
 ギュスターヴが話の腰を折ったので、私は咳払いしてにらみつけ、女中に話を続けさせた。
「ちょうど一ヶ月前のことだったと思います。あたくしは朝に奥方様にお薬を持っていきました。その後、三階の階段の手すりが壊れてましたので修理を。慣れ ていませんでしたので半日かかりました。ええ、旦那様、奥方様、お嬢様の寝室、これは三つとも三階の西棟にございますが、あの階段を通らなくては階下にも 別の棟にも行けないのでございます。あたくしはずっと階段を修理しておりまして、終わった頃にちょうど昼の粥を別の女中が持ってきましたので、あたくしが かわりに奥方様に届けたのです。そのときには、ベッドは空っぽでございました」
「きちんと探したのかね、そのう、熱もあったりしたのだろう奥方は。あまり言いたくはないが、開いている窓からこうふらりと……とか」
 ギュスターヴの言葉に女中は首を振る。
「窓には錠が下りてございました」
「エレオノールの部屋に行った、ということは?」と私も訊いてみた。
「あたくしも最初そうとしか思えなくて。隣の部屋にいらっしゃったお嬢様と一緒に、両方の部屋を念のために探してみたのですけれど、奥方様はいらっしゃい ませんでした。だって、人一人でございます。いれば気づきます」
 それもそうだ。
 では、奥方は煙のように消えた? それならばまだ、ギュスターヴが言うように熱に浮かされて窓から落ちたという方が納得できる。
「……他に、なにか気づかなかったかい」
「いえ。なにも……あ」
 女中は視線を宙にさまよわせた。
「なんだい」
「あの、シーツが」
「シーツ?」
「はい。奥方様のベッドのシーツが、なくなってございました」


 他の女中にも話を聞いてみた。
 消えた二人の女中は奥方と驚くほど状況がよく似ていた。やはり一ヶ月前のことだ。部屋で休んでいるはずが、ふと来てみるといない。そしてベッドのシーツ がなくなっている。ただし、奥方ほどには外出していない確固たる証拠があるわけではなかった。
「館の外も、もちろん探してみたわけだね」
 私はかなりうんざりしながら、七人目の女中に、七度目の同じ質問をしていた。女中はうなずいた。
「でもこのあたりは森も霧も深うございますから」
 我々は女中部屋を辞した。
「この館には男手がおらんのかね。本格的に探すのなら女だけじゃつらかろう。階段の修理まで女中にやらせるとは珍妙な」
「伯爵以外の男はいないんだよ」
「ほう? なぜ。ははあ伯爵の後宮気取りかね」
「いや」
 私は少しためらってから、結局話すことにした。あるいはこの件に関係のあることかもしれない。
「伯爵はソドミイだ」
 ギュスターヴは片方の眉をぐいと持ち上げて訝しそうな顔をした。
「しかし奥方も令嬢もいらっしゃるではないかね」
「若い頃から悩んでおられたらしい。女性に触れるとどうにも嫌悪感がこみ上げてくると。しかし伯爵は厳格な方だったし、そういうご自分が認められなかっ た。すさまじい自制心でもって砂上の城のごとき結婚生活を築き上げ、子まで成したのさ。館に男がいないのはそういう理由だ」
「えらく禁欲的なソドミイもいらっしゃったものだな。それはソドミイとは呼ばないのではないかね。――む」
 ギュスターヴはふとなにかに気づいたらしく、私の顔をのぞきこんだ。
「伯爵がかつて君に望外の援助を申し出たのは、その美男子ぶりが一役買っているというわけかね」
「それ以上言うな。言えば君は私の友でなくなるぞ。私は伯爵を尊敬しているんだ」
 ギュスターヴは沈痛な顔になり、下唇を噛んだ。
「すまなかった。許してほしい」
「君に話したのは、この件になにか絡んでいるかもしれない、私一人ではそれを見落とすかもしれない、そういう理由からだ」
「信頼を裏切るような真似はしないと誓うよ。しかし、伯爵が籠城している理由はこれで説明がつくのではないかね」
 ギュスターヴの言ったことを、私は少し考えてみた。
「いや。それだけでは理由になるまい。だってこれまでは普通に生活できていたのだろう。そもそも、女性を見るのも嫌なわけではないのだ。君は異性愛者だ が、自分に当てはめて考えてみたまえよ。男と臥所を共にするなら嫌悪も感じようが、顔を合わせたり食事をするくらいなんともなかろう」
「それもそうだな」
 うなずいてから、ギュスターヴは大きなあくびをした。
「すまない。馬に揺られてひどくくたびれたようだよ。この件で医者のお役目はあるのかね? 跡形もなく消えた女性など、それこそオカルトの出番ではないの かね」
 我々は疲れた身体を引きずって、それぞれにあてがわれた寝室に引き上げた。ベッドに潜り込むなり、眠りはすぐにやってきた。


 ひどい悪夢から逃げ出すようにして私は目を覚ました。
 カーテン越しに弱々しい外の光が入ってきていた。ベッドから抜け出そうとすると節々が痛んだ。丸一日の馬旅はそうとうこたえたらしい。
 窓に寄ってカーテンをめくる。見えるのは霧と木々のぼんやりした陰影ばかり。ボワモルティエは年中曇り空で、陽光が差すことなどまずないのだという。夢 の余韻でどんよりしていた私の意識はまだ片足を眠りの小川の向こう岸に残しているみたいだった。
 ふと私は、館の玄関の真上に張り出したバルコニーを思い出した。あそこからなら、見事な白薔薇の園が一望できるだろう。空の光が望めぬなら地上の光だ。
 バルコニーには先客がいた。霧に溶け込んでしまいそうな細い後ろ姿が、私の気配に気づいたのか振り向いた。
「おはようございます、おじさま」
 エレオノールが微笑む。私は「おはよう」と答えると、彼女の隣まで歩み寄った。
「早起きだねエレオノール」
「おじさまたちが遅いのですわ。わからないでしょうけれど、もう九時を回っていますのよ」
 私は曇天を見上げた。太陽がどこにあるのかさっぱりわからない。
「そうか。この谷はいつもこんなだね。気が滅入らないかい」
「子供の頃からここで暮らしていましたから。それに」
 エレオノールは手すりの向こう、眼下の庭を手で振り示す。
「この子たちがこんなに元気良く咲くのも、この気候のおかげなのですわ」
「ほう」
 私は庭を見下ろした。
 裂かれたパン生地のような濃い霧の間から、みずみずしい白い花の群生がこぼれ出て輝いている。真珠のように見えるのは朝露のせいだろう。館は白薔薇と霧 の海の中にぽつりと浮かぶ孤島のようだった。胸を締め付けられる光景だ。
「この世のものとは思えない……」
「特別な品種ですの。あまり太陽が強いと育たないのだとか。肥料にも苦労しましたわ。窒素分が豊富にないとだめなのだそうです」
「窒素?」私は貧しい化学の知識をあさった。「それはたしか空気中に含まれるものじゃなかったかね」
「そうなのですけれど、植物が育つのにも重要なのだそうですよ。わたし一人で薔薇園を管理しているので、勉強したんです」
「一人で、か。この広さを。肥料を撒くのも大変だろう」
「ええ。でも最近、撒布しやすい肥料を見つけましたので……」
 薔薇のことを話すとき、エレオノールの顔には自然なほほえみがあった。私は少し安心した。母がいなくなり、父が閉じこもってしまい、彼女は溺れるような 思いであの手紙をしたためたに違いないのだ。私は役に立っているだろうか。ここに来たことだけで、彼女を慰めてやるだけで。
 しかし、薔薇の花びらにたまった朝露のような我々のささやかな時間は、頭上から響いてきた獣のうなり声のようなものにかき消されてしまった。私は館に飛 び込むと階段を駆け上がった。
 西棟三階、伯爵の書斎の前でギュスターヴが尻餅をついていた。
「なにがあった」
「し、診察を、と思ったんだ。中から奇妙な音が聞こえて、そ、それで、扉を開けようとしたら、あ、あれは、あれは」
 ギュスターヴは口をばくばくさせて震えている。私は扉に飛びついて引き開けた。
 扉の中には闇があり、そこに白い顔がぼうっと浮かび上がっていた。充血してぎらつく眼が私をにらみ、「シアッ」という蛇を思わせる呼気音が聞こえた。私 は思わず飛び退いた。
「……伯爵?」
 たしかにそれは伯爵だった。しかし、なんと変わり果てた姿だろう。肌は女のように生白くなり、眼球は落ちくぼみ不気味な光ばかりが強くなり、唇はひび割 れ紫に染まっている。
「去れと言ったはずだ」
 乾ききった不快な声で伯爵が告げた。
「二人ともこの館から出て行け。さもなくば、わしは……」
 扉が叩きつけられるように閉まった。
「お父様! お父様!」
 閉じられた扉にエレオノールが駆け寄り、古木の表面を拳で何度も叩く。しかしもはや返答はなかった。
「あれはいかんよ、尋常ではない。専門医を連れてくるべきだ。外科の私では手に負えないよ。ひょっとすると」
 ギュスターヴは口ごもる。エレオノールの背中にさっと目を走らせると、私の耳に顔を寄せて囁いた。
「精神を病んでいるかもしれない」
「やはり」
 私はそこで、ギュスターヴの襟が血で汚れているのに気づいた。
「血が付いているぞ。む、怪我をしているのか」
「ああ、これか」
 ギュスターヴはハンカチを取りだして、首筋を拭った。
「伯爵に、その、噛みつかれたんだよ。驚いたね。くそ、けっこう深いな、消毒せねば」


 ボワモルティエには医者がおらず、私は森を出たところにある別の村まで行くことになった。
「でも、橋が落ちていると聞きましたわ。危険です」とエレオノールは言う。
「あの橋はいつ落ちたんだい。来るときはずいぶん苦労したよ」
「今年はじめに雷で焼けてしまったのです。普段はボワモルティエだけで事足りるからと、手つかずでいたのです。ごめんなさい」
「エレオノールが謝ることじゃないさ。少々濡れれば済むことだ」
「ベルナール君、もし医者がいなくてもこの薬だけは手に入れてきてくれ」
 ギュスターヴから、薬の名を書き連ねた小さな紙を受け取った。
「パリまで医者を呼びに戻るべきかもしれないな」
「いや、伯爵の容態は一刻を争う。錯乱状態で暴れるから、男手もほしいんだ。村に着いたら、だれかを使いに出して医者を呼びにやらせればいい」
「わかった」
 エレオノールを置いて出かけるのは不安だったが、館には二人しか男がおらず、ギュスターヴはいざというときのために残っていなければならない。私がもう 一度橋のないあの川を渡るしかないのだった。
 昨日までの疲れがまだ残っているように見える愛馬の手綱をとり、私は白薔薇の館を後にした。
 ぬかるんだ土がいくぶん固まっていたため来るときよりはましな道中であったが、やはり川渡りは閉口した。相変わらずの曇り空だったが、森を出たときには 雲間から太陽がかすかに顔を覗かせ、いくぶん気持ちが軽くなった。
 アポリネールというのがその村の名で、来たときに世話になった馬小屋の主はまだ私のことを憶えていてくれた。
「医者なんざいませんよ、旦那。神父様にでも頼みますかね」
「いや」
 神父が必要なのは葬式のときではないか。縁起でもないと私は思う。
 頼まれていた薬も、村長の家で譲ってもらえたが、全部はとてもそろわなかった。
「はァ、伯爵様がご病気と。難儀なことですな。一昨年くらいまでは、遠乗りでうちの村にもよくいらっしぇえました。最近はとんと。へェ。このような田舎で すだで、ろくなものもございません。都に人を遣わせますだ」と、村長であるしわくちゃの老人は言う。
「頼む」
 私が村長の家を辞そうとしたとき、玄関口で不意に声をかけられた。
「あの、もし」
 振り向くと、少女が――否、髪を伸ばした小柄な少年が廊下の角からおずおずと身体を半分だけ出してこちらをうかがっていた。肌が白く頬に朱がさし、女と 見紛う美しい少年だ。私はなぜかその少年を見て、どきりとした。
「伯爵さまの、ご容体は……そんなに悪うございますか」
「君は?」
「あ、あの、トマと申します」
 トマは村長の孫だと言う。
「伯爵を知っているのかい」
「え、ええ、村にいらっしゃった折にはうちに泊まっていただいたこともありますし」
「そうか。伯爵の具合はあまりよくないよ。部屋に籠もりきりだし」
「そうですか。この間いらっしゃったときはまだお元気そうだったのに……あっ」
 トマは口に手を当てて顔を真っ赤にした。私はそれを見て、彼の言葉に訝しさを覚えた。
「前に伯爵が来たのはいつだい? 正直に言ってくれ」
「えっ、あの、その」
 私はそこで、彼を最初に見たときのささやかな衝撃の正体を知った。トマは私がまだ少年だった頃によく似ているのだ。
「大丈夫。だれにも言わない」
 微笑んでみせる。
「……半月ほど、前のことにございます」
「村の人達はそれを知らない」
「はい」
 トマの言葉は震えていた。
「そうか。想い人を案じているのだね。よくわかるよ」
 私はトマに歩み寄り、その肩にそっと手を置いた。
「大丈夫、伯爵のそばには医者もついている。私の親友だ。薬も手に入ったし心配要らない」
 気休めを言うと、トマは涙目のままようやく微笑んだ。
 村を出て来た道を馬で戻りながら、私は伯爵のことを考えた。やはり愛人がいたのだ。美しい妻と娘を持つ夫/父親を演じながら、隣村に忍びでやってきては 自らの愛欲を密かに紛らわせていたのだ。奥方はそれに気づいただろうか。気づいたとしたら……?


 館に戻ると、ギュスターヴはまだ書斎の扉の前にいた。
「鍵をかけられてしまってね。こちらも座り込みだよ。なにか発作でも起きたら大変だ、蹴破ってでも入る」
 疲れ切った顔で笑う。
 薬がすべてそろわなかったことを告げると苦い顔をした。
 もう一度扉を叩き伯爵に呼びかけてみたが、気味の悪いうなり声が返ってきただけだった。
 夜になり、我々は寝室に引き上げた。
 私はベッドの上で、奥方や女中の消失について考えてみることにした。伯爵のことに追われて顧みるひまもなかったが、人が消えているのだ。放置していられ る事件ではない。
 事件?
 そう、これは事件だ。何者かが奥方や女中を連れ去ったのだ。一ヶ月前のことだ、もはや三人とも生きてはいないかもしれない。奥方の件に至っては不可解な 謎が残る。完全な閉鎖空間からどうやって消え去ったのだ? それに、伯爵のあの病状。あれは、まるで……
 扉にノックの音がした。
 私は飛び起きた。
 再びノックの音。それから、しゃがれた声。
「ベルナール君、わしだ。いいかね」
 伯爵だ。私はガウンを身体に巻き付けてベッドから降りた。
「伯爵、ですか?」
「そうだ。入れてくれ」
 なぜこんな深夜に? そう思いながら私はノブを握った、そのときすさまじい悪寒が身体を――その者永久に呪われ招かれざる地に踏み入ること能わざる―― 駆けめぐった。
 いけない。
 開けてはいけない。
 しかし遅かった。私の手はわずかにノブを回し、扉が向こう側へとほんの少しだけ動いた。次の瞬間、すさまじい勢いで扉が引き開けられ、ノブを握っていた 私の身体は廊下に引っぱり出されて床に倒れた。真っ暗闇の中で、だれかの身体がのしかかってきた。生臭い息が顔にかかり、闇の中にぎらつく紅い瞳が浮かび 上がっていた。
「……伯爵ッ?」
 腕を押さえ込まれ、首筋にも指が巻きついてきた。その指のあまりの冷たさに私は絶叫しそうになった。伯爵をふりほどこうともがいたが、杭で床に打ち付け られでもしたかのようにまるで私は無力だった。伯爵が大きく口を開き、長く伸びた犬歯がむき出しになった。なんということだ、これは、これは――
「……もろもろの……天は主の栄光を表し……大空は御手のわざを示す……この日、言葉をかの日に伝え、この夜、知識をかの夜に送る……」
 私の口から祈りの言葉が流れ出た。伯爵の喉から、蜥蜴を押し潰したときのような響きが漏れ、次の瞬間には私を床につなぎとめていた重圧が消えた。
 私はむせながら立ち上がった。廊下の向こう端に二つの紅い光が見え、すぐに角を曲がって消えてしまった。
「ギュスターヴ! 起きろ!」
 私は隣屋の扉を叩いて友人を起こした。さらには館じゅうを駆け回って、エレオノールや女中たちの目を覚まさせ、食堂に集めた。
「暖炉に火を! ありったけの蝋燭をともせ、火を絶やすな!」
「おじさま、どうしたことですの」
 寝間着にガウンを巻き付けたエレオノールは蒼白な顔で訊いてきた。
「いいかいエレオノール。他のみんなも聞いてくれ、今夜は絶対にこの食堂から出てはいけない、だれかが訪ねてきても部屋に入れてはいけない」
「……おじさま?」
 扉が開き、ギュスターヴが薪の束を手に入ってきた。
「ベルナール、どういうことなんだ」
 私はそれを無視してエレオノールに訊ねた。
「この館に拳銃はないか? ないのか。では杭だけで戦わなければならないのか。鉈とナイフのある場所を教えてくれ」
「おい、ベルナール説明しろ!」
 私はギュスターヴを部屋の隅まで引っぱっていって耳打ちした。
「奥方や女中が消えたからくりがわかった。信じがたいが、この目で見たのだ、答えはこれしかない」
「では伯爵が」
「おそらく」
「しかしこの気違いじみた真似はどういうわけだ」
「わからないのか、君だって噛まれただろう、あれから身体に異常はないか? 心は正常を保っているか?」
 ギュスターヴは青い顔でうなずく。
「しかしそれが」
「伯爵はヴァムピイルだ。血を啜る魔物だ」
「馬鹿な」
「私だってそう思う。伝承を研究してはきたが、本物に巡り会うとは思いもしなかったさ。しかしそれが事実だ」
 我々は薪を鉈とナイフで削って、二本の杭を作った。心配するエレオノールに「夜が明けるまで絶対に扉を開くな」と念を押して、燭台と杭を手に食堂を出 る。
「我々が伯爵の自制心のたがを外してしまったんだ、おそらくは」
 廊下を早足で歩きながら、私はギュスターヴに説明する。
「伯爵は女の肌に触れることを嫌う。血を吸いたい欲望に駆られても、この館には女しかいない。それに、魔物に堕ちた自らを認めたくはなかったのだろう、そ れで部屋に閉じこもっていたんだ」
「そこに、男である我々がやってきてしまったわけか」
「そうだ」
 皮肉なものだ、と私は思った。エレオノールを助けるためにやってきたのに、結果として自分が彼女を苦しめる発端になってしまった。
「しかし、私はまだ信じられんよ。そんなものがこの世にいるのかね」
「体温のない身体、獣のごとき牙、闇に光る紅い目、聖書の言葉を嫌う……他にどう説明する」
 ギュスターヴは黙り込む。
「それに、奥方は部屋から忽然と消えた。なによりの証拠だ」
「どういうことだ?」
「しッ。着いたぞ」
 私は蝋燭を持った手を掲げた。伯爵の書斎の扉が闇に浮かんだ。
「いるのかね、この中に」
 私はノブを回してみた。鍵がかかっていた。中にいることの証拠だ。
「蹴破ろう」
「引く扉だぞ。どうやって」
 仕方なく我々は杭でノブを叩き壊し、穴に指を突っ込んで留め金を外した。
「開けるぞ」とギュスターヴが扉のかげに隠れる形で言う。私は彼と視線をかわすと、「いいか、ためらうな、隙があれば心臓に杭を突き刺せ」と返した。
 ギュスターヴがうなずき、扉を引いた。私は身を低くして部屋に飛び込んだ。すぐに右手の闇の中から獣のうなり声が襲いかかってきた。私はとっさに燭台を それに向かって投げつけた。燭台は壁に当たって蝋燭の火が飛び散った。肩に痛みが走り、次の瞬間には私の身体は絨毯の上に引き倒されていた。
「ギュスターヴ!」
 私は喉から声を絞り出した。廊下からの光で伯爵の形相が目に入った。干からびた皮膚の中に埋もれそうになった二つの紅い目だけが呪わしい生気に燃えてい た。
「ベ、ベルナアアァァァァアル」
 伯爵の喉から涎に混じって不気味な声が絞り出され、私の顔に落ちかかった。私の心臓は縮み上がった。押さえつけられた右手から力が抜け、杭が床に落ち た。牙をむいた伯爵の顔が迫る。喉がこわばって、言葉が出てこない、祈りの言葉すら出てこない!
「おおぉ、神よ!」
 ギュスターヴの声がした。私のすぐ目の前で火花が散った。燭台で殴りつけたのだとわかったのは、床に散らばる蝋燭の火を見てからだ。伯爵の身体がもんど り打って部屋の奥まで転がり、書棚に背中をぶつけるのが見えた。私はギュスターヴの手から杭をもぎ取ると、突進した。伯爵の身体がばね仕掛けのように跳ね 起きた。「がァッ」という声が耳に突き刺さる。その胸に、体重を乗せた杭を深々と埋め込んだ。
 伯爵の絶叫が館を震わせた。
 私と伯爵はもみあったまま書棚に激突し、本が雨のように降り注いできた。
「ベルナール! 大丈夫か!」
 ギュスターヴが私の襟首をつかんで引っぱり出してくれた。伯爵は――伯爵の身体は、折り重なった本の下で、ねじくれ、干からび、やがてつうんとしたにお いを残して完全に分解した。
 そこにはただ灰の山が残っているきりだった。
 私は荒い息をつきながら、ギュスターヴの身体を這い登るようにして立ち上がった。
「見ろ、ギュスターヴ。これが奥方の消えたからくりさ」
 床に盛り上がった灰の山を指さす。
「ヴァムピイルは死ぬと灰になる」
「では奥方も」
「ああ」
 そのとき、廊下で悲鳴が聞こえた。私は部屋を飛び出した。エレオノールが壁に背中を押しつけ、書斎の奥を凝視しながら震えていた。
「エレオノール。あれほど、部屋を出るなと」
「でも、でも、おじさまが心配で。あ、ああ、お父様、お父様が」
 私はエレオノールの身体を掻き抱いた。
「もう大丈夫だ。悪夢は終わったよ」
 その耳に囁きかける。自分に言い聞かせているようでもあった。
「もう心配は要らない。終わった。みんな終わったんだ」
 エレオノールの冷え切った身体から、がっくりと力が抜けた。私の腕の中で、やがて嗚咽が始まった。


 翌朝、私とギュスターヴはすぐにパリに発つことになった。伯爵が一人死んだのだ。これから様々な面倒事がエレオノールの身に降りかかることとなる。私は できれば彼女のそばにいたかった。両親を亡くしたばかりなのだ。しかし私はモンテスパン伯爵の死を目撃した一人でもあり、今後のことをさばくためにギュス ターヴ一人にパリでの諸々を任せてしまうわけにはいかなかった。
「このようなことにおじさまを巻き込んでしまって、ごめんなさい」
 涙ながらに言うエレオノールを残し、我々は馬に乗ってみたび森に足を踏み入れた。都に戻ってからのことを考えると、暗澹たる気分になった。
「では、女中も奥方もヴァムピイルにされていたというわけか」
 隣の馬上のギュスターヴが暗い声で言う。
「そうだ。そして、殺害した後に、ベッドに残った灰をシーツごと運び出したのさ。奥方のときは、棚の中にでも隠したのだろう。人一人隠すのは容易なことで はないが、シーツに包んだ灰ならばどこへでも隠せる」
 自分で説明していて、嫌な気持ちが口の中に広がった。
「しかし、なぜ伯爵はそんなことをしたんだろう」
「さあ。わからない。奥方となにか確執があったのかもしれない」
「女中は」
 私は首を振った。
「だいいち灰を運び出した理由がわからんよ。殺人を知られたくなかったのかもしれないが、灰を残しておいたって、だれも殺人とは思うまい。ヴァムピイルな んてものがこの世にいるとは」
「そうだな。しかし、もう……」
 もう真実もまた灰になってしまったのだ。知る術はない。本音を言えば私は二度とモンテスパンの館には戻りたくなかった。エレオノールを連れてくるべき だったのだ。あんな呪われた場所に置いてくるなんて。
「もう一つわからないことがあるな」ギュスターヴが言った。森は深さを増し、あたりは湿った暗がりが立ちこめていた。
「伯爵は女嫌いだろう。しかしヴァムピイルを感染させるためには肌に牙を突き立てなければならない。当たり前だが、奥方も女中も女だ。どうしたことだろう ね」
「それは……」
 私は口ごもった。たしかにその通りだ。しかし――
「あるいは逆に、女中か奥方が最初にヴァムピイルだったのかもしれないね。恐ろしい想像だが、病原菌のようなものだからな」ギュスターヴは鞍の上で身を震 わせる。「まあ、大した問題ではないのかもしれない。いずれ本当のことはわからないのだからな」
 やがて川のせせらぎが聞こえてきた。
「馬で渡るのは二度目、いや、君は四度目か。勘弁してほしいものだな」
 私は手綱を引いて馬を止めた。
 ――そうだ。なぜ気づかなかった?
 ギュスターヴも何歩か先で馬を止めて振り向く。
「どうしたベルナール君」
「奥方をヴァムピイルにしたのは、伯爵ではない」
「なに?」
「言っていなかったか。昨日、この先の村に薬をもらいに行ったとき、私は伯爵の愛人に会ったんだ」
 私はトマのことを話した。伯爵が、ほんの半月前にトマに会いに行っていたこと。
「だが、それがどうした」とギュスターヴは眉をしかめる。
「奥方も女中も、消えたのは一ヶ月前だ。しかし伯爵は半月前に館を出てトマに会いに行っている。つまり、奥方や女中をヴァムピイルに感染させたのは伯爵で はないし、伯爵の方が奥方か女中に感染させられたわけでもない。伯爵は半月前まではヴァムピイルではなかったのだ」
「なぜそう言える? トマが伯爵は元気そうだと言ったからか? 確証にはなるまい」
「そうじゃない、わからないか? ヴァムピイルは流れる水を渡れないんだ」
 ギュスターヴはゆっくりと、馬の向いている方にある川に目をやり、それから私の方に向き直った。
「そうすると……どうなる」
「こういうことだ。伯爵をヴァムピイルに感染させたヴァムピイルが別にいる」
 そのとき、私の中ですべてがつながった。
 伯爵と奥方を殺した理由。
 灰を運び出した理由。
 私をここへ呼んだ理由。
 私は馬を返すと、ギュスターヴの制止する声を振り払って白薔薇の谷へと走り出した。


 私が館に戻ったとき、エレオノールは白薔薇の茂みの中にいた。手にした袋の中から――おそらく肥料なのだろう――粉を掴みだして薔薇の根に振り撒いてい る。
「おじさま?」
 馬から下りた私に気づき、袋を手にしたまま駆け寄ってきた。
「どうなさいましたの?」
 無邪気なほほえみだった。私の胸はきりきりと痛んだ。彼女の背後に広がる白薔薇の群れに目をやり、分厚い曇天を見上げ、それから土に視線を落とした。
 長い間、私は沈黙していた。決心がつかなかった。
「……おじさま?」
 やがて私は顔をあげる。
「エレオノール。その袋の中に、伯爵も奥方もいらっしゃるのかい」
 彼女は目を見開き、私の顔を見つめてきた。それから、またゆっくりとほほえみを戻す。
「いいえ。お母様の分はもう撒いてしまいました。おかげで綺麗に咲きましたわ」
 神よ。私を地獄へ落としてください。そう私は祈った。最初から答えは示されていたのに。
「二人を殺そうと考えたのは、薔薇園を潰して葡萄畑にする計画を聞いてからだね?」
 エレオノールはうなずく。
 私は確信した。彼女が愛しているのはこの白薔薇だけなのだ。
 ではやはり、彼女はそのために私を呼んだのだ。自制心ゆえに自室に閉じこもった伯爵を釣り出すために、私はこの白薔薇の谷に呼ばれたのだ。釣り針はその 役目を十二分に全うした。伯爵を手ずから灰に変えてしまったのだ。深い絶望が私を包んだ。
「エレオノール。君は……」
 私はなにかを言おうとした。それは言葉にならなかった。
 三年前と変わらない、時が止まったままの少女は、すぐそばの茂みから一輪の白薔薇をちぎり取った。花弁に唇を寄せると、花は見る間に萎れ、黒ずみ、散っ た。
 君の時はいつから止まっている?
 私の声にならない問いに、エレオノールはほほえみだけで答えた。
「おじさま。わたしと一緒に来ますか?」
 彼女が言った。白い右手を差し伸べてくる。
「わたしと一緒に、この永遠に来てくださいますか?」
 エレオノールが私を誘う。エレオノールの紅く輝く瞳が私を招いている。私は、魅入られたように私は、その手を……

「ベルナール!」

 背後で声がした。
 私は振り向いた。門の向こうに、駆けてくるギュスターヴの馬が見えた。
 笑い声が聞こえ、向き直ると、エレオノールの姿は薔薇の茂みの中に溶け込むようにして消えていくところだった。
「エレオノール!」
 私は叫んだ。霧が私の声を吸い取り、虚しいこだまを返してきた。
「エレオノール!」
 白薔薇が風にざわめいた。いっそう妖しく、艶めかしく、芳しく。
 ではこれが三年前の答えか、エレオノール。
 私は土の上にひざをつく。
 あの手を取るべきだったのだろうか。彼女と共に永遠の時を? それとも神の徒として呪わしい心臓に杭を打ち込むべきだっただろうか。わからなかった。私 にはわからなかった。
 ギュスターヴの馬の蹄音が近づいてきた。
 私は立ち上がり、さんざめく白薔薇の園に背を向けると、馬の鞍に飛び乗った。ギュスターヴが私を呼ぶ声が再び聞こえた。
 館の門をくぐるとき、一度だけ私は振り返った。白薔薇と霧に埋もれた館は、まるで墓標のように見えた。



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