祈りの歌

       1

 アーウィンは窓枠に腰掛け、宵闇に浮かんだ遠くの街をぼんやりと眺めながら、かすかに聞こえる歌に耳を澄ませていた。
 メタ・ワシントン市は、すり鉢状の広い盆地の内側にぴったりと収まるように造られた円形の街だ。すべての建物がいくつもの同心円を描くように並べて建て られているため、夜になると数千の窓の灯りがきらびやかな光の渦となる。
 渦の中心に、漆黒の柱が屹立していた。遠近感が狂いそうなほどに巨大な柱だ。アーウィンが住む集合住宅ビルは市から遠く離れた外区にあり、街の中心部ま ではホーヴァクラフトでも数時間かかる。それほどの距離にありながら、柱は手を伸ばせばつかめそうな錯覚にすらとらわれる。
 柱を視線で上へとたどっていくと、薄い雲を貫いてずっと伸びていて、その先は夜空に同化して見えない。ときおり柱の表面を銀色の光の滴が滑り降りてく る。
 あれは空を支える柱なのだ、とアーウィンの母は教えてくれた。空の重みで地面が窪んでしまったのだと。
 初等神学校の担任はもう少し詳しく話をしてくれた。アーウィンはあの放課後の会話を思い出す。


 窓から差し込む夕陽に赤く染まった教室で、老教師は話してくれた。
「あの柱はね、アーウィン。神様が作ってくださった梯子だよ」
「はしご、ですか」
「そう。その昔、まだ我々人間が神様の信頼を得ていた頃はね、天と大地を行き来できていたのだよ」
「今は、お空にはのぼれないのですか」
「神様はお怒りになられた。人間が愚かな戦争ばかりしていたからだね。そして柱を閉ざされてしまった。でも神様はまだ我々を見捨ててはおられないのだよ、 アーウィン」
「歌を、くださるから」
「そう。おまえは歌のことだけはわかるのだね」
 老教師はごつごつした手でアーウィンの頭をなでた。
「神様はまだ我々を愛してくださっている。あの柱を通じて、天の御使い達がうたう歌を与えてくださるのだ。《祈りの歌》を」
 老教師はそこで目を閉じ、しばらく《祈りの歌》に身を浸した。街中のどこにも流れるその歌は、教室の中でも聞きとることができた。
「だから統一讃歌教会はあの柱を大聖堂とし、人々を聖別洗礼し、《祈りの歌》に託された神の愛をより広めようと努力しているのだよ。おまえが受ける洗礼と いうものは、神の愛を受け入れることの誓いだ」
「でも、先生」
 アーウィンはおずおずと口をはさんだ。
「ぼくの母様はセンレイを受けていません。どうしてぼくだけ受けられるのですか」
 老教師は目をしばたたき、眼鏡を外して目頭をこすった。
「神の愛はだれにも等しく注がれているのだよ。おまえの母親が非聖別市民だからといって、おまえ自身が信仰告白できない理由にはならない。神の愛が届かな い人がいるとしても、それはその個人に問題があるのだ」
「母様は耳が聞こえないんです」
 アーウィンは叱られるのを覚悟しながら訊ねた。
「神様は、耳が聞こえない人は愛してはくださらないのですか。どうして? 耳が聞こえないのは母様のせいじゃないのに」
 老教師は眼鏡をかけなおし、目を細めた。まぶたは、顔に無数に刻まれた深いしわと見分けがつかなくなる。
「その答えはおまえが教会で見つけなさい」
 大きな手がアーウィンの髪を優しくなでる。
「だが、いいかね、神様を疑ってはならないよ。迷いと疑いは常に人の内にある。洗礼を受けた後は、それを拭い、神の愛を曇りない心で受け入れることに生涯 を捧げなさい」


 明日がその洗礼の日だった。
 夜の冷たい空気の中に、《祈りの歌》の旋律は微細な香りのように漂っているだけだ。大聖堂から遠く離れた外区の貧民街では、神の愛も届きにくいのだろう か。アーウィンはぼんやりと思う。
『アーウィン、まだ起きていたの』
 背後から、平坦な電子音声が聞こえた。
 振り向くと、暗い部屋の入り口に母が立っていた。
『明日は早いのでしょう。もう寝なさい』
 低く抑揚のないその合成音声は、母の顔の右側に埋め込まれた装置から発せられていた。黒い甲虫の殻を思わせるそれは、頬からこめかみ、耳、首筋までを 覆っていた。
「眠れないの」
 アーウィンは答えた。
『なにか不安なことでもあるの』と母は訊いてくる。
 表情のない声のかわりに、母の生身のままの顔左半分は変化が豊かだった。細く形の良い眉が心配そうに傾ぐ。
 母は生まれつき聴覚が完全に欠損していた。手術で頭に埋め込んだ障碍補正装置が言語機能だけを補っていたが、言葉ではない音を聞くことは一切できなかっ た。
「母様は、どうしてぼくがセンレイを受けることを、お許しになったの」
 母は近寄ってきてアーウィンの足下に膝をついた。目の高さが同じになる。アーウィンの手に、母が持っていたそれが押しつけられる。ひんやりとしたなめら かな布の手触り。
 広げてみると、それはアーウィンの典礼服だった。簡素な純白の貫頭衣。母が仕立て直してくれたのだろう。
『わたしは許していない』
 その言葉に、アーウィンはどきりとする。
『それはわたしが許すことじゃないでしょう。あなたが、信じたいものを信じればいい』
 突き放されたような気分になった。
 母の腕がアーウィンの頭を引き寄せた。母の唇が額に触れる。
「母様は、どうしてもセンレイを受けないの?」
『ええ』
「どうして? 神様が信じられないの? そこにも、ここにも、いつもそばにいらっしゃるのに」
 母は黙って首を振る。
 アーウィンは母の身体にしがみついた。
「センレイを受けたら、ぼくと母様は、ちがう人間になっちゃうの?」
『わたしはわたし。あなたはあなた。変わらない』
 母の指がアーウィンの巻き毛を優しくかき混ぜる。
 洗礼を受けるのは自分で望んだことだった。初等神学校の学級ではだれよりも早くアーウィンに信仰告白の許可が下りた。十二歳で聖別市民になれるというの は異例のことであり、そのことを誇らしく思っていた。
 それでも、夜が明けるのが怖かった。

       *

 翌日の朝、アーウィンはいつものように鉄のにおいで目を覚ました。
 カーテンの外はまだ薄暗い。早朝の静けさの中、《祈りの歌》の多重旋律がいくぶんくっきりと聞こえる。
 ベッドに母はいなかった。典礼服に着替えて寝室を出る。仕事部屋をこっそり覗くと、母がゴーグルをはめて拳銃を組み立てている最中だった。銃の密造は技 術が必要なので割の良い仕事だったが、それが聖典で推奨されている職ではないことをアーウィンは知っていた。
 ――罪深い母をお許しください。
 胸中でつぶやき、扉から離れる。なんとはなしに、母とは顔を合わさずに家を出ようと思った。
『おはよう、アーウィン』
 扉の向こうから無機質な電子音声がした。
「おは……ようございます、母様」
 後ろめたい気分にとらわれる。耳が聞こえないぶん、母はひどく勘が鋭い。
『あまり急いで歩かないこと。朝食を食べていないのだから貧血を起こすかもしれない』
 ドライバーを握った手をせわしなく動かしながら、母は言う。
「……うん」
 洗礼の前日から断食する決まりだった。昨日の朝食以来、水の一滴すら口にしていない。
『ホーヴァの乗車料は持った?』
「うん」
『気をつけて』
「行ってきます」
 アーウィンは部屋を出て、階段を下りた。
 ビルの間の深い溝のような道には、金属の削りかすの臭いのする空気が溜まっていた。朝の光などほとんど届かない。見上げると、ビルの頭上はるか高みに黒 い柱が伸びていた。その日はめずらしく雲が薄かった。
 大聖堂を左手に、狭い路地を歩き始めた。
 貧民街の朝は早い。何人もの浮浪者が道ばたにうずくまっていて、襤褸布の山のように見えた。露店も目についた。密造の合成酒やドラッグ、怪しげなROM カートリッジなどが毛氈の上に並んでいた。店頭のポータブルプレイヤーからはどぎついリズムのジャンクミュージックが流れている。教会はドラッグ以上に音 楽ソフトの裏流通を規制していたが、それもレベル120よりこちらの世界では縁のない話だ。
 耳をふさぎ、露店の前を通り過ぎる。単席ホーヴァクラフトが何台か、埃を舞い上げながらアーウィンを追い抜いていった。
 複雑にねじ曲がった道を十分ほど歩くと、密集していたビルが途切れ、岩だらけの荒野が開けた。
 道幅の広いなだらかな下り坂が、街に向かってまっすぐ伸びている。アーウィンは薄暗い曇天を刺し貫く大聖堂の影を正面に見据え、道の端をゆっくり歩き始 めた。


 半時間ほどで、街の外縁部にたどり着いた。
 アーウィンは足を止め、息をついて、歌に耳を澄ませる。
 低くかすかな不変のリズムと、塗り重ねられた通奏低音が甘く意識をしびれさせる。その上に幾重にも編み上げられた、歌声とも弦楽ともつかぬ、荘厳な響 き。空そのものが、アーウィンに近づいてくるような。
 《祈りの歌》。
 統一讃歌教会の信仰の中心をなし、神の恍惚たる愛を伝える奇蹟の歌。メタ・ワシントン市に満ちるこの歌を、しかし母は聴くことができない。それは神に愛 されていないということだろうか。それとも母が神を拒んでいるということだろうか。幼いアーウィンはそんな堂々巡りの疑問を持て余しながら再び歩き出し た。
 いつもの朝ならば、レベル111で左折し、初等神学校へと向かう。しかしその日はちがった。アーウィンは大聖堂を目指し、ひたすらまっすぐに歩いた。レ ベル100より内側に入るのはアーウィンもはじめてだったので、道のタイルが白に変わる境目を越えるときにはいささか緊張した。
 大聖堂の影は近づくほどに太さを増していった。しかし坂道の先を視線でたどっても、まだ距離が目でつかめないほどに遠い。これほど大きな街だったのか と、アーウィンの心は震えた。
 《祈りの歌》は厚みを増し続けていた。
 レベル90を過ぎたあたりからだろうか、アーウィンは一分おきくらいに立ち止まり、目を閉じ、大気に充満している《祈りの歌》の響きに聴き入った。そう せずにはいられなくなっていた。路傍で陶然とたたずむアーウィンを目にして、たいていの通行人は微笑み、会釈をしてくれた。アーウィンの着ている白い貫頭 衣を見れば洗礼に赴く途中だというのは一目瞭然だし、だれしも経験のあることだろうからだった。
 レベル84の駅で大型ホーヴァクラフトに乗った。
 道のりは思っていた以上に長かった。大聖堂のあまりの大きさが距離感を狂わせるのだ。ホーヴァに乗ったときは左手から昇りかけていた太陽が、レベル29 の降車駅に着いたときには正面の大聖堂の影に隠れていた。
 プラットフォームに降り立ち、はじめて見る中心街の景色にアーウィンは目を白黒させる。切り出した氷のように清潔で均一なビルの並び、その足下に彩りを 添える模造樹木のくっきりと濃い緑。歩道を埋める人の群れ。
 なにもかもがアーウィンにはなじまないものだったが、それでも不安を感じなかったのは、大気に優しく織り込まれた《祈りの歌》のおかげだった。


 どれほど歩いたかわからない。
 ふと目をあげると、大聖堂の威容が世界を埋め尽くしていた。それを柱だと認識することは不可能だった。それはそびえる巨大な黒い壁だった。銀色の細い溝 が網目状に走り、壁面を無数の切片に区切っている。見上げると、平衡感覚が崩れた。まるで、その夜のような壁面が大地であり、自分がそれを数百フィートの 上空から見下ろしているような錯覚にとらわれた。
 目眩がしたので、視線を落とした。地面のタイルは濃紺と白の正三角形が互い違いに組み合うパターンになっていた。
 レベル0にたどり着いていたのだ。
 息をついて、もう一度顔をあげた。
 アーウィンの住んでいるビルがすっぽりそのまま入りそうなほど大きなゲートが、正面に口を開けていた。大勢の人々が出入りしている。ゲートの巨大さに比 して、人々はあまりに矮小だった。アーウィンは、いつだったか物理学の授業で行った実験を思い出した。黒いシートに切った細いスリットに光を当てて位相を 揃えた光線を作り出す実験だ。ゲートを出入りする人々は、スリットからの光で浮かび上がった空気中の埃を思わせた。
 自分もまた、埃なのだった。
 アーウィンはゲートに向かった。


 エントランスは広い円形のホールだった。
 直径は教室五つか六つ分ほどだろうか。ぐるりの壁に描かれた長大なひとつながりの壁画は、緑に覆われた大地の平坦な景色だった。
 黒字に銀の刺繍の入った僧衣を着た数十人が、ホールの中央にかたまってひざまづき、床に口づけをしたり天を仰いだりしている。
 《祈りの歌》は、今や旋律が手でより分けられそうなほどはっきりと頭上から響いていた。見上げると、天井は見えない。ホールは深い深い縦穴の底だったの だ。穴の先は闇に呑まれている。
「神の御霊屋へようこそ、弟よ」
 不意に声をかけられ、アーウィンは振り向いた。
 黒い頭巾と僧衣を着けた若い女性が立っていた。両手は、前で合わせた長い袖の中に隠れている。背はアーウィンより頭ひとつ高く、肌はつるりと光沢があ り、かすかに笑みを浮かべていた。
「こちらへ。贖司長がお待ちです」
 女性はアーウィンの手をとって歩き出した。アーウィンはどぎまぎしながらもその後に続いた。
 べつだん驚くことでもなかった。アーウィンが信仰告白を希望した旨は神学校から教会へと伝えられているはずだし、ゲートのところで網膜照合も行われてい たのだろう。
 アーウィンとその尼僧は、ホールの最奥にあったエレヴェータに乗った。密室でも、壁を伝わって《祈りの歌》が聞こえてくる。しかしそれはかえって沈黙を 際だたせ、アーウィンを気まずくさせた。アーウィンはその尼僧の隣に立ち、手を握られたまま、ドアの上の階数表示をじっとにらんでいた。およそ二秒で一階 分上っている。
 二十階。
 三十階。
 エレヴェータは止まる気配もなかった。
「緊張しなくてもいいのですよ」
 と、尼僧が言った。
「洗礼はなにかを試すわけではありませんから。ただ、愛とその喜びを受け入れるだけです。そう硬くならずに」
 アーウィンは階数表示を凝視したまま笑おうとして、失敗した。
 四十階を過ぎたとき、ふと、《祈りの歌》の響きが変化した。アーウィンは振り返って後ろの壁に手をつく。
「どうしました?」
 尼僧が言った。アーウィンはあわてて向き直る。
「歌の、聞こえ方が、変わったんです」
「まあ」
 尼僧は目を丸くし、それから表情を崩して微笑んだ。
「ほんとうに、耳がいいのですね。聞いていたとおりだわ。今、このエレヴェータは大聖堂の中空部を通っているのですよ」
 六十八で表示が止まり、ドアが音もなく開いた。尼僧はアーウィンに出るように手で促した。アーウィンひとりがエレヴェータから降りると、すぐにドアが閉 じた。
 拍子抜けするほど小さな円形の部屋だった。神学校の教室ほどの広さもない。天井も低く、少し息苦しい印象を受けた。敷きこまれた絨毯は深紅を基調とした 複雑で華麗な柄のものだったが、調度の類はまったくないがらんとした部屋だった。
 洗礼というものがどういう儀式なのかはアーウィンも詳しく知らなかったが、漠然と、祭壇の前で様々な祭具を用いて行うものだと思っていた。するとこのな にもない部屋は待合室かなにかだろうか。
 突然、部屋の壁がすべて消え失せた。
 少なくとも、アーウィンにはそう見えた。
 見渡す限りの鈍色の空、ぼやけた褐色の地平線。メタ・ワシントン市を取り巻く荒野。
「神の御霊屋へようこそ、弟よ」
 声がした。
 その男がいつから部屋にいたのかは、わからない。黒地に銀刺繍の僧衣をまとい、頭はまったくの無毛で、紫色のガラスのはまった眼鏡をかけている。背が高 く、恰幅のいい中年の男性だった。アーウィンはその男の立ち姿を見てようやく、僧衣が大聖堂の外観を模していることに気づいた。夜色の地に銀の網目。
「我々を取り巻いているものが見えますか、弟よ」
 アーウィンは、自分が呼ばれたことにしばらく気づかなかった。贖司長――なのだろう、おそらく――が手を伸べて部屋の壁を指したので、そちらを見た。よ うやく、壁が消えたのではなく、外の光景をモニタが映し出しているだけだと気づく。
「……荒れ野です」
「そう。我々の愚かな先祖が焼灼した大地だ。二百年、我々は絶望の淵にあった。洗礼を受ける者はみなこの光景を高みから目に焼き付けることになる。人間を して、この愚行に走らせたものがなんだかわかりますか」
 今度はすぐに答えた。
「無知です」
 贖司長は微笑んだ。
「よく勉強されているようですね。しかし無知というのは言葉が足りない。先人達も、神がおられること、我々が愛されていることは、知識として知っていた。 なぜならそう書かれた書物があったからです。しかし、理解していたわけではなかった。ましてや、確信していたものはひとりとしていなかった」
 突如、《祈りの歌》が、熱く、濃く、空気を満たした。アーウィンは目を細め、歌が降りしきる天を仰いだ。
 天井の真ん中に真っ直ぐの裂け目ができ、それが徐々に開きつつあった。その向こう、中空のシャフトの内壁には無数の青白い光点が何重もの螺旋を描いて並 び、彼方の闇の消失点に向かって集束している。歌はその闇の先から降り注いでいた。
 アーウィンはほとんど本能的にひざまづいていた。
「しかし我々には《歌》が与えられた」
 贖司長の言葉も、ほとんど聞こえていなかった。アーウィンは恍惚のまっただ中にいた。すべてが黄金色の陽光に燃えていた。四拍を刻む太鼓の音は彼の鼓動 と完全に同調していた。身体中の血管の中を、きらびやかな十六拍のタンブリンが駆けめぐっていた。絶え間なく、誘うように、うち寄せるように、何階層にも 積み重ねられた和声がたゆたう。その上に数万の、数億の旋律がまるで有機分子のように絡み合い、アーウィンの意識を押し包む。
「あなた自身の言葉で、信仰を告白なさい」
 贖司長の言葉が、無限に広がる旋律の編み目の狭間に浮かんだ。
「《歌》は言葉を呑み込み、超越するでしょう。神はそれを受け入れられます。あなたもそれを受け入れなさい」
 体内に満ちている焼けつかんばかりの快感が溢れ出る先を探し求めているようで、アーウィンの口は無意識に開いた。どんな言葉がそこから迸ったのか、自分 でもわからない。ただ頬を熱いものが伝い落ちるのだけがはっきりと感じられた。
 アーウィンはそれを知っていた。いつでもそれはアーウィンのそばにあり、見守ってくれたものだった。母の抱擁にも似て、それより深く温かいものだった。

       *

 アーウィンが神学校の校長室に呼び出されたのは、卒業の一ヶ月前のことだった。
 校長は四十がらみで、頭髪が薄く頬肉のたるんだ容貌をしており、嫌みな物言いで生徒達からはひどく評判の悪い男だった。その日も口を開くなり、
「洗礼を受けて一年経つというのに、相変わらずきみの僧衣姿は乞食じみていて不愉快だな」と言った。
「その床に引きずった裾や、まくった袖はどうにかならないのかね? 作業着や寝間着ではないのだよ。まったく」
 アーウィンは自分の身体を見下ろした。洗礼を受けてから、教会の構成員であることを示す銀刺繍の僧衣を着用する許可が与えられていた。初等神学校でその 僧衣を身にまとっている生徒はアーウィンだけだった。
「……すぐからだが大きくなるから、って、母様が大きめのを買ってくれたんです」
 アーウィンは正直に言った。校長の顔には軽蔑と嘲笑の入り混じった表情が浮かんだ。
「やれやれ。僧衣を買い換える金もない貧民も信仰告白を許される時代かね。贖司庁も、教会への金銭的貢献というものを少しは重視してほしいものだ」
 校長は椅子から立ち上がり、デスクを回ってアーウィンに近寄ってきた。反射的に半歩後ずさってしまう。
 校長は一枚の紙をアーウィンに差し出した。
「おめでとうアーウィン。楽司院中等部への奨学生推薦が来た」
 あまりにも素っ気なく言われたので、しばらくその内容が理解できなかった。突き出された推薦状の書面に目を通し、捺された統一讃歌教会贖司長の証印を確 認して、ようやくアーウィンは校長の顔を見上げた。
「……どうしてぼくに……?」
 アーウィンは特に成績が優秀なわけでもなかったし、なにより母親は非聖別市民なのだ。あまりにも不可解だった。
「私が訊きたいくらいだ。きみは知らないかもしれないが、楽司院というのは教会幹部を育成する一流校だよ。名家の御息女しか入学できないはずなのだがね。 おおかた、贖司長猊下の亡くなった御子息にきみがそっくりだったとか、そういうからくりだろうよ」


 担任の老教師は、もう少し好意的な解釈を聞かせてくれた。
「正直に言って、おまえの学識は乳児用の浴槽ほどもないが」と彼は笑った。「教えたろう。知識は心の曇りを拭う布巾だ。曇っていなければ必要ない」
「必要ないのですか」
 老教師はうなずいて、アーウィンの巻き毛をいつものようにくしゃくしゃにかき混ぜた。
「おまえは耳がいい。歌を感じ取る才がある。たぶんそこを見込まれたのだろう。しっかりやりなさい」

       *

 家に戻り、母に奨学生推薦の話をした。
『あなたは教会に入りたがっていたものね』
 銃のフレームにやすりがけをする手を止めて、母は我がことのように嬉しそうに笑う。
「坊主っつうのは給料いいのかね」
 仕事部屋にいた職工の一人が、オイルまみれの手で額の汗を拭いながら訊いた。
「そりゃたんまりもらえるだろうさ。いい服着てるしな。レベル10あたりの邸宅で、合成じゃない肉だのバターだのが食えるさ。仕事といったら、丸い大部屋 で信者に眠くなるまじないかけてやるだけだろう」
 もう一人が混ぜっ返す。
「教会はそんな場所じゃないです」
 アーウィンは憤慨した。
「神様がぼくたちを愛してくださることを、教会は正しく教えてくれるんです」
「その神様にゃ会ったこともねえしな」
 職工は長いスパナで背中を掻きながら言う。
「いもしねぇ奴を拝んでる暇があったら、安酒でも飲むさ」
「神様はいます」
 アーウィンは必死に抗弁した。
「だって、歌が――」
「仕事の邪魔だっつってんだよ、小僧」
 アーウィンは仕事部屋を叩き出された。


 その夜、アーウィンは寝る前の祈りを済ませた後、母に訊ねた。
「母様も、神様を信じていないの?」
 洗濯したミトンやエプロンを窓の外に干すと、母はベッドに戻ってきてアーウィンの隣に腰を下ろした。
『もちろん信じていない』
 さらりと言われた。無機質な機械音声がそう感じさせたのかもしれない。
『だってわたしには感じられないもの。見えないし、触れない』
「神様は、見たり触ったりするものじゃないの。ただ、おられるのだって」
 母がアーウィンの髪をなでた。
『それで?』
「それで――」
 歌をくださるのだ。
 人に安寧と至福をもたらしてくださる。
 でも、それは母には届かない。なぜだろう、神はすべての人々を平等に愛してくださると、教典にも書いてあるのに。
『わたしは、じゅうぶんに幸せ。アーウィン、あなたがいるから』
 抱き寄せられる。アーウィンの頬が母の胸に密着する。小さく聞こえていた《祈りの歌》を、母の鼓動音が覆い隠す。
「楽司院は全寮制です。母様は――さみしく、ないの」
『さみしくなんかない。あなたの声は、どこにいてもわかるもの』
 アーウィンは母の顔を見上げた。母がなにを言っているのか、よくわからなかった。
『ほんとう。あなたの声は、どんなに離れていても感じ取れるの。わたしには、《聞こえる》ということがどういうことなのかよくわからない。でも、あなたの 声は《聞こえる》の。だから大丈夫』
 母は強がりを言っているのだと、アーウィンは思った。自分を安心させようと嘘をついているのだと。
「母様」
 もう一度、母の胸に強く顔をうずめた。
「ぼく、一所懸命勉強します。教会に入って、いつか、母様にも《祈りの歌》が聴けるように。神様が愛してくださることが伝わるように……」
 そのために一生を捧げようとアーウィンは誓った。母の鼓動の中に、再び《祈りの歌》が力強く聞こえ始めた。暖かい幸福感に包まれながら、アーウィンは眠 りに落ちた。





       2

 アーウィンがレイチェルと出会ったのは、楽司院中等部に入学してすぐのことだった。
 その日も、授業が終わるとすぐにアーウィンは席を立った。放課を告げるメロディが教室隅のスピーカーから流れ出す。それは、窓の外から聞こえる《祈りの 歌》を汚さないよう、調とテンポを合わせて作られた旋律だった。それでもアーウィンはその響きを不快に思った。神の手になる完全無欠の《祈りの歌》には、 人間が設えたどんな添え物も貧相なかさぶたに感じられてしまう。
 教官が出ていってしまうとすぐに教室は騒がしくなった。
「レベル14に新しくカフェサロンができたね、どう」
「……女子舎の何人か誘おう」
「昨日の配信ギグ観た? あれさ……」
「カパ・トラックスの新譜出ただろ、もう聴いたか……」
 なんて不遜なんだろう、とアーウィンは思う。神の学舎で、違法なジャンクミュージックの話などを堂々としている。楽司院に来て一ヶ月もたっていなかった が、アーウィンは幻滅のどん底にいた。
 階段状に並んだ長机の間を足早に通り抜け、教室を出る。廊下にはまだだれの姿もなかった。《祈りの歌》もごくかすかにしか聞こえない。息を止めて小走り に廊下を抜け、校舎の端の薄暗く狭い階段を上った。
 やがて《歌》のくっきりとした響きが降りてくる。
 楽司院中等部は男子舎と女子舎に分かれており、両の建物の間には背の高い尖塔が立っていた。その塔の最上階近くの踊り場が、アーウィンのお気に入りの場 所だった。
 踊り場の壁、アーウィンでは背伸びしても届かない高さに、両腕を広げたほどの大きな窓が切ってあった。窓はいつも開け放たれており、正面に大聖堂の黒光 りする威容が見える。
 階段は《祈りの歌》で満たされていた。
 アーウィンは毎日授業が終わるとすぐにここにやってきて、窓の真下の床に座り何時間も歌に身を浸した。塔のほとんどの扉は封鎖されており、だれにも邪魔 されることはなかった。目を閉じると自分の意識と《歌》のハーモニィが渾然一体となって溶け合った。この数時間の至福のために自分は楽司院に入ったのだ、 とアーウィンは思うようにしていた。
 しかしその日、恍惚の時間は乱された。
 階段を上ってくる足音にはすぐに気づいた。放課後のしんとした空気の中を、その足音はなにか確固たる意思を含ませて、こちらへと近づいてくる。三階。四 階。立ち止まる気配はない。
 アーウィンが立ち上がったとき、階段の下に人影が現れた。踊り場で振り返ったその少女の長い黒髪がふわりと広がり、乳のように白い顔がこちらを向き、深 い琥珀色の瞳がアーウィンをとらえた。
 少女はアーウィンを見据えたまま、階段を上ってくる。少女がイヤフォンをしていることに、アーウィンはすぐに気がついた。ピアスに模した極小型のイヤ フォンだったが、アーウィンの耳をあざむくことはできなかった。ごくかすかに音が漏れている。
 階段の途中で少女が口を開いた。アーウィンはそれを押さえつけて先に言葉を発した。
「それ、止めて」
 耳を指さす仕草をしてみせる。言葉を遮られ、少女の表情が曇った。
「《祈りの歌》を汚している。止めて」
 しばらくの間、少女の顔に複雑な表情のせめぎ合いが見られた。やがてそれは薄い笑みに落ち着いた。
「べつにあなたに聞こえているわけではないのだから、いいでしょう」
 神よ、とアーウィンは胸中で嘆息した。なぜこのような涜聖者に、これほど音楽的な声をお与えになったのだろう。
「聞こえているよ。それ、違法ディスクだろう? 聞いてると虫酸が走るよ。止めて」
「ほんとうに聞こえているの?」
 アーウィンはいらだって下唇を噛んだ。
「ねえ、もしほんとに聞こえているのなら」
「聞こえてるんだ。止める気がないならどこかよそに行ってくれよ」
「わたしの聴いてるこの曲、調とテンポをあててみなさいな」
「止めてって言ってるんだ」
 少女の顔にさっと怒りが走った。しかし彼女は声の調子を変えずに続けた。
「あててみなさい。そしたら止めてあげる」
 アーウィンは一瞬、飛びかかって少女の耳ごとイヤフォンをちぎり取ってしまいたい衝動に駆られた。狂暴な妄想を抑えつけて、答える。
「……嬰ヘ短調、130」
 少女はうっとりとした目つきになり、ほうと息を吐いた。僧衣の胸に手を入れて、携帯用プレイヤを取り出すなり、手を振り上げ、その小さな機械を床に叩き つけた。砕ける音が踊り場に響き、ケースの破片が飛び散ってアーウィンの足下に飛んできた。
 アーウィンは声を詰まらせて後ずさった。
「これで気は済んで? アーウィン」
 少女は言って、数段を上りきり、アーウィンの目の前に立った。
「さすがね。二キロ先からでも虫の羽音を聞き取れる、化け物のような耳を持っているという噂だったのだけれど。あながち法螺でもないのかしら」
「どうして、ぼくのこと」
「あなたは有名人ですもの。外区育ちで親が非聖別市民なんて、楽司院始まって以来のこと。もっと自覚を持った方がよくてよ」
「それで? ぼくになんの用?」
「午後の茶会に誘いに来たの。ごく一部の生徒が集まったサロンがあるのだけれど、みんなあなたに興味があるのよ。貧民街出身の人間を観察できる機会などそ うそうあるものでもないでしょう。色々お話が聞きたいわ」
 アーウィンは憤慨を通り越してあきれてしまった。
「背教者の集まりで笑い話のひとつもやれっていうの? 冗談じゃないよ。どこか行ってくれ」
 少女の形の良い眉が歪んだ。
「いまひとつ理解できないのだけれど、それはわたしの招待を拒否しているということ?」
「当たり前だろう。きみの言うとおりにするいわれなんてない」
「信じられない」
 少女の目が大きく見開かれた。
「わたしはレイチェル=スウィムフォードよ。あなたがわたしの言うとおりにするために理由が必要なの?」
「言っている意味がわからないよ……」
 レイチェルと名乗ったその少女の肩が震えているのに気づいた。そのときアーウィンは直観した。さっきまでの彼女の怒りはすべて演技だ。携帯用プレイヤを 叩き壊したりしたのもパフォーマンスに過ぎなかった。でも今、彼女は本気で怒っている。
 レイチェルはそれ以上なにも言わず、踵を返して階段を下りていった。踏みつけられたプレイヤの破片がぱきり、ぱきりと虚ろな音を立てた。
 彼女の姿が見えなくなってから、アーウィンは壁に背中をつけて床にへたり込んだ。しばらくして、ようやく《祈りの歌》の響きがアーウィンの耳に戻ってき た。
 なにか引っかかっているものがあった。
 それが彼女の名前だと気づくのにかなりの時間を要した。スウィムフォードという姓に聞き憶えがあるような気がしたのだ。その日の夕方いっぱいを費やした が、どこで聞いた名前だったのかを思い出すことはできなかった。


 日が暮れてから男子寮に戻った。
 部屋のドアを開けたとたん、中から数本の腕が伸びてきてアーウィンの襟首をつかみ、部屋の中に引きずり込んで床に叩きつけた。
 這いつくばり、背中を踏みつけられたまま、無理やり首をひねって見上げると、ルームメイト四人が残忍な笑みを浮かべてアーウィンを囲んでいた。室長の少 年が顔をぐいと近づけてきて言った。
「なあアーウィン。今まではおまえのことをかわいそうな田舎者だと思ってほっといたが、さすがにそろそろ教育が必要みたいだな。ここにはここのルールがあ るんだよ」
 室長があごでしゃくって合図すると、ルームメイトの一人の爪先がアーウィンの脇腹にめり込んだ。かっと熱くなり、息ができなくなる。すぐに別の足が逆の 脇を蹴りつけた。アーウィンは涎を床にまき散らして身をよじった。うなじを強く踏みつけられ、床板に顔を正面からぶつけ、温かい鼻血が唇を濡らすのがわ かった。
 室長がアーウィンの耳をつかんで頭を持ち上げた。涙のせいで視界がぼやけて、目の前にある僧衣姿はぼんやりとした黒い影にしか見えなかった。
「いいか、頭の悪いおまえのためにわかりやすく説明してやる。レイチェル=スウィムフォードの父親は贖司長猊下だ。わかるか? 教会のナンバー2だよ。こ こじゃ彼女の言葉が法律だ。おまえが今日やったことは、教会に唾吐いたのと同じことだぞ。おい、二度と忘れないように歯の二三本も折ってやろうか?」
 室長は手を離した。アーウィンの頭はがくんと落ちて横様に床にぶつかる。もはや痛みも感じない。
 スウィムフォード。ようやく思い出した。自分に洗礼を施した、贖司長の名前だ。
「は。貧民がいきがるからだ」
「おまえが汚したんだからな、床は自分で掃除しろよ」
 嘲笑混じりの声が振ってくる。アーウィンはじっと動かずにいた。ようやく感覚が戻ってくる。顔が腫れぼったく、じんじんと熱い。耳鳴りがひどい。唇のま わりがぬるぬるしているのは、鼻血だろうか。
 痛みに頬を引きつらせながら、首をねじ曲げて精一杯顔を上に向けた。
「……頼まれたのか?」
 血の泡を吹きながらアーウィンはつぶやく。
「ああ?」
「……レイチェルに」
 ルームメイトの一人が答える。
「彼女がそんなことをすると思うか? レイチェル嬢はただ、今日の午後いっぱい不機嫌だっただけさ。俺達が苦労して取り繕っていたら、おまえの名前が出て きたんだよ。ふん、屑が」
 背中を蹴られた。肺がかっと熱くなる。
 室長が言った。
「『《祈りの歌》なんかよりわたしとのお喋りの方が有意義だってこと、わかっていない』と言っていたぜ。肝に銘じるんだな」
 アーウィンは弾かれたように立ち上がった。腰骨にひどい痛みが走るが、かまわず室長に詰め寄って襟をつかんだ。
「――レイチェルが言ったのか?」
「なんだおい。はなせ」と室長が甲高い声をあげる。
 横から別の男子生徒がつかみかかってきたが、アーウィンはそれを片腕で力任せに振り払った。その男子生徒は勢いを食って背中を二段ベッドの柱にぶつけ た。
 アーウィンは室長に向き直ると、襟首をねじりあげた。
「レイチェルが、そう言ったのか?」
 部屋はしばらくの沈黙に支配された。室長は足をばたばたさせながらアーウィンの手を掻きむしり、他のルームメイトたちは怯えた様子で遠巻きにしていた。
「答えろよ、《祈りの歌》よりも自分の話の方が大事だなんて、レイチェルがほんとうに言ったのか?」
「ほ、んとう、だよ」
「レイチェルの部屋は何号室?」
 室長はまた身をよじってアーウィンの手から逃れようとする。アーウィンは彼の身体を壁に押しつけてもう一度訊いた。
「何号室?」
 室長はか細い声で答えた。アーウィンは自室を飛び出した。


 女子寮の玄関で警備員がアーウィンを鋭く呼び止めた。無視してロビーを突っ切り、毛氈の敷かれた階段を駆け上がった。廊下にいた女子生徒が悲鳴を上げて 壁際に跳び退く。
 豪奢なレリーフで飾られた211号室の扉を乱暴に開いた。
 三脚の丸テーブルを囲んで座っていた女子生徒たちが、一斉に立ち上がった。ティカップが転げ落ちて床にぶつかり砕ける。
「だれ!」
「血! 血が!」
「警備員は?」
 ひとりレイチェルだけが、悠然と椅子にかけたまま、茶を口に運んでいた。
「たいした作法ね」
 カップを受け皿に置いてつぶやく。鋭い視線はじっとアーウィンを突き刺している。
「招待を受けたら血まみれで飛び込んできて一言も口を利かずにらみつけるのが、外区の礼儀なのかしら。残念だけれどもう午後のお茶の時間ではなくてよ」
 アーウィンはテーブルに歩み寄った。台無しになってしまったティセットを挟んでレイチェルと向かい合う。他の女生徒たちはベッドのそばまで下がって震え ている。
「きみが、『《祈りの歌》よりも自分の話の方が大切だ』と言ったのはほんとう?」
 レイチェルの大粒の瞳がさらに大きく見開かれた。
「……ほんとうよ。それがどうしたの?」
「取り消せ」
 アーウィンはテーブルを回り込んだ。
「ひざまずいて取り消すんだ。それは神聖冒涜だ」
 だん、と背後で音がした。振り向くと扉が大きく開かれ、屈強な警備員が部屋に乗り込んできたところだった。アーウィンはたちまち捕まって両腕を背中にね じりあげられた。
「貴様なんのつもりだ? うちの生徒かおい?」
 警備員が耳元でがなりたてる。アーウィンはかまわず繰り返した。
「レイチェル! ひざまずいて取り消せ!」
「いいから黙れ! 気が触れてるのか貴様?」
 警備員がアーウィンを部屋の外に引きずり出そうとする。アーウィンは身をよじって抵抗した。肩の骨が悲鳴を上げた。
「はなしてあげて、警備の方」
 レイチェルが立ち上がって言った。アーウィンは暴れるのをやめた。
「……や、しかし、こいつは」
「いいからその手をはなして。その人はわたしの招待客です」
「……ですがそもそも女子寮は男子禁制」
「あなたが沈黙を守ればそれでよいのではなくて?」
 警備員はアーウィンの背中で黙り込んだ。手の力がゆるむ。レイチェルの目は冷たく細められていた。
「レイチェル=スウィムフォードがお願いしているのです。なにも見なかったことにして、廊下の野次馬さんたちをお部屋に戻す仕事をしていただけるかしら」
「は、はあ」
 アーウィンの身体を押さえつけていた力が離れた。振り向くと、警備員が部屋から出て行くところだった。
「レイチェル、どういうこと?」と、部屋の奥に避難していた女子生徒の一人が声をあげる。
「黙って」
 レイチェルは近づいてくると、アーウィンの正面に膝を折ってしゃがんだ。
「やり方がわからないわ」
 レイチェルに見上げられてアーウィンは戸惑っていた。部屋に飛び込んできたときの熱はいつの間にか消えていて、なぜ自分がこんなところにいるのか、どう してレイチェルが自分の前にひざまづいているのか、わからなくなっていた。
「――やり方なんて、ないよ。ただ心から赦しを乞えばいい」
「あなたには聞こえているの?」
 アーウィンはしばらく考えてからうなずいた。
「どこにおられるの?」
 レイチェルの問いに、アーウィンは黙って一方を指さす。《祈りの歌》は小さく、しかし確かに壁の向こうから聞こえている。レイチェルはそちらへと頭を垂 れ、目を閉じた。
 黙祷を続けるレイチェルの、形の良い耳をじっと見つめながら、アーウィンは動悸が収まっていくのを感じた。《祈りの歌》の平穏が意識に流れ込んでくる。
 気づくと、レイチェルの隣にひざまづいていた。突発的な感情が言葉になり唇をついてあふれようとした。なぜ自分がここにやってきたのか、アーウィンには わからなくなっていた。

       *

 なぜ退学の危険を冒してまであんな暴挙に出たのか、その後レイチェルに訊かれるたび、アーウィンはいつも答えにつまった。ようやく答えらしきものが出せ たのは、二年が過ぎてアーウィンもレイチェルも上級課程に移ったころだった。
 二人はそのとき、楽司院高等部の中庭にある模造樹木の下のベンチに並んで座っていた。
「もし、わたしじゃない他のだれかだったら」とレイチェルは突然言った。「あなたはあんなことをしたかしら?」
「……あんなことって?」
 レイチェルにきつくにらまれ、アーウィンは必死になって話の尻尾を追いかけた。
「たった二年前のことも憶えていないの? あなたの頭の中には音符しか入っていないのかしら」
 そう言われてようやく思い出す。
「ああ。あれがきみじゃなかったら……?」
「そう」
「考えたこともなかった」
「いま、考えて」
 アーウィンは黙り込んだ。
 四、五人の上級生が、ベンチの前を通りすがるときに二人に会釈をしてく。やがて中庭からは人気が絶え、予鈴が鳴る。
「うん。わかったわ」
 レイチェルが突然言って、立ち上がった。
「なにが?」
 アーウィンもあわてて腰を上げる。
「理由がわかったの。早く教室に戻りなさい。わたしは午後は授業がないけれど、あなたのコースは七限までみっちりでしょう」
「待って、ぼくにはなんのことだかさっぱりわかっていないよ」
「即答できないことが答え。そうじゃなくて? だれより敬虔なアーウィン。それはそれとして、今度あなたを父に紹介したいわ。信仰告白のときのあなたは十 三歳ですものね。どれほど成長したのか、父も一度見てみたいそうよ」
 レイチェルは贖司学部の方へと歩き去った。
 午後の授業には遅刻してしまった。遅刻の罰として二十四ページ分の写譜をしながら、アーウィンはようやくなんと答えるべきだったかを悟った。
 あれが純粋に信仰から出た行動であれば――神聖冒涜を犯したのがだれであろうと部屋になぐり込んで懺悔させるべきだ、そう言い切らなくてはならなかっ た。しかしアーウィンは言えなかった。即答できないことが答え。その通りだ。


 その月の末に、アーウィンはスウィムフォード邸へと招待された。レベル3にあるビルひとつが丸ごとスウィムフォード家のものだった。
 レイチェルに連れられ、エレヴェータで屋上まであがった。ドアが開くと、なにも遮るものがない空に大聖堂の漆黒がそびえていた。《祈りの歌》の分厚い旋 律がアーウィンを打ちのめした。
「ああ……」
 無意識のうちにアーウィンは膝を折って、自分の胸を掻き抱いていた。目を閉じ、心身のすべてを圧倒的な歓喜にゆだねる。
「こら。アーウィン」
 脚を思い切り踏みつけられて、アーウィンは跳び上がった。
「この田舎者。挨拶ぐらいなさい」
 レイチェルが眉をつり上げている。
 豪快な笑い声がした。
「大きくなりましたね、弟よ」
 蔓の茂った葡萄棚の下、大きなテーブルの前に、僧衣を着た恰幅の良い男性が立っていた。剃り上げた頭と紫の色眼鏡は、アーウィンの記憶にあるままだっ た。
「し、失礼しました、贖司長猊下」
 アーウィンはあわてて、額が膝にくっつくほどに頭を下げた。太い笑い声がまた降ってくる。
「大きくなりましたね。見違えましたよ。洗礼式は三年前でしたか。楽司院での成績は聞いています」
 かっと顔が熱くなるのを感じた。中等部でのアーウィンは落ちこぼれといって差し支えない部類の劣等生だった。楽典の成績だけが飛び抜けていたため、特殊 課程に進むことができたのだ。ひょっとしたら、とアーウィンは思う。楽司院への推薦がそうだったように、あの特進も贖司長の手回しだったのかもしれない。
 料理の並んだテーブルの向かいの席には、一人の女性がすでに座っていた。顔にはしわが目立っていたが、面影はレイチェルによく似ていた。立ち上がって、 アーウィンのために椅子を引いてくれる。
「いらっしゃいアーウィン。娘から話はよく聞いているわ」
 アーウィンはろくな挨拶もできず、ただぎこちなく頭を何度も下げた。
「あと三年できみも卒業ですね」
 食事の最中に、贖司長が言った。アーウィンはびっくりして手を振る。
「とても単位が足りません。それに、三年で楽司院の卒業試験を通ったなんて聞いたこともないです」
「大丈夫ですよ、きみなら」
 紫のガラスの奥で細い目がさらに細められる。
「楽司庁はきみのような人材を必要としています」
 楽司庁。アーウィンは呆然としてフォークを置いた。教会の最高指導者である楽司長の直属機関。絶対神聖なる《祈りの歌》を研究することを許された唯一の 部署であると聞く。
「来月から、定期検査を受けなさい。学校には私から連絡しておきます」
「検査、ですか?」
「楽司庁の職務はきわめて繊細なものです。きみが神から賜ったその身体を、常に健康に保たねばなりません」
「もちろん勉強も死ぬほどするのよ」とレイチェルが横から口をはさんだ。「そらで楽譜が書けるからってだけで卒業できるほど、高等部は甘くないわ」
 贖司長は肩を揺らして笑う。レイチェルの母親は目尻にしわを寄せてナプキンで口元を押さえる。
 アーウィンは自分の母のことを思い出した。入学以来、一度も家に帰っていなかった。外区には連絡をとる手段すらない。

       *

 母と一度も顔を合わせないまま三年が過ぎ、アーウィンは十九歳になった。授業に忙殺され、十日に一度の休みはレイチェルに連れられて街の中心部を巡った り、教会高官の家に招待されたり、定期検査と称して体中をいじり回されたりして潰れた。
 なにかに押し流されているという感触を、アーウィンはいつも味わっていた。しかし同時に、それは自分を望む場所に運んでくれるという予感もあった。平坦 な日々の中で、母のことを思い出すことが増えた。自分が楽司院に進んだ理由、《祈りの歌》にだれよりも近づくための梯子が、いつの間にか目の前に用意され ていた。
 贖司長の言葉通り、アーウィンは十九歳で楽司院を卒業し楽司庁に入った。しかしそれは最短卒業記録ではなかった。六ヶ月早く、レイチェルが高等課程を修 了して贖司庁の一員となっていたのだ。





       3

 《祈りの歌》は、ごく単純な四小節の和声進行の繰り返しで構成されている。まずG mollの厳しく冷たい響きで始まる。これが、雨の予感に耳を澄ませるようなEs durの和声に展開される。そしてF durの緊張した響きに高まり、高らかなB durの終止形に流れ込む。
 ト短調としてみればこれば偽終止であるが、そもそも導音を含むD durが存在しないので、変ロ長調の変形と見るべきなのだろう。このわずかな不安定さが水車に注がれる流水となり、《歌》の永久循環を作りだしている。同 時に、短調の荘重さと長調の華麗さが凝縮されている。
 しかし、真に圧倒的なのは和声の上で奏でられる旋律だ。
 《祈りの歌》は二十四の対旋律が絡み合ってできている。かたくなな対位法的配置による旋律ではなく、それぞれの旋律はしばしば長二度、あるいは短二度で ぶつかりあう。しかしそれらはたくみなオクターヴ配置によって七度、九度に昇華され、複雑な共鳴を作り出す。
 しかもこの旋律の組み合わせは八小節ごとに組み替えられ、同じ繰り返しは二度と現れない。《祈りの歌》の主題のレパートリーがいくつストックされている のかは確認されていないが、現在集計されているものだけでも千二百を数える。


 《祈りの歌》を機械で分析することは冒涜であるとされ、禁止されていた。従って研究はすべて人の耳と手によって行われていた。アーウィンは人間離れした 聴覚で、フレーズを聴いて即座にそれを二十四の旋律に分解し、譜面に落とすことができた。加えて、跳躍進行やシンコペーションに音楽的な意味合いを見いだ すこともできた。楽司庁の《祈りの歌》分析は急激に加速し、高僧たちはこぞってアーウィンの才能を絶賛した。
 贖司長もわざわざ研究室までやってきてアーウィンを激励した。
「期待以上です。やはり私の見込んだ通りだ。きみを楽司院に推薦したかいがありました」
「前からお訊きしたかったんです。どうしてぼくを、ことあるごとに後押ししたんですか?」
「きみは神に特別に愛された子です。洗礼のときに、私にはそれがわかった」
 しかし、アーウィン自身の心は満たされなかった。レイチェルと会うたびにその不満が言葉になって噴き出した。
「完璧なんだ。研究なんてする余地もないよ。《祈りの歌》は神が作りたもうた秘蹟だよ。譜面に落としても、あの歓喜がどこからやってくるのかなんてわから ない。ただ圧倒されるだけなんだ」
「だからどうしたの」
 レイチェルは不機嫌そうに合いの手を入れる。
「ぼくの母の話はしたっけ?」
「知らないわ、そんなの」
「耳が聞こえないんだ。まったく。だから洗礼も受けられない。でも、神の愛を受けられないように造られた人間がいるはずがない。そうだろう? 人の側に過 ちがあるんだ。聴覚障碍者にだって、《祈りの歌》を受け入れる方法があるはずなんだよ。でも、わからない。わからないんだ」
 レイチェルが顔を伏せたのに気づかず、アーウィンは続ける。
「神の愛がどういう経路で人に伝わるのかなんて、わかるはずがないんだ。そんなことを調べること自体が神聖冒涜に思えてくる。ぼくは楽司庁の職務を誤解し ているのかもしれない」
「わたしと久しぶりに会ったのに、そんな話しかないの?」
 レイチェルは声を震わせて言う。そして決まって機嫌を悪くして押し黙ってしまう。
 母には月に一度手紙を出した。いつも外地へのキャラバンに託していたので、無事届いているのかどうかもわからなかったし、返事はもちろん来なかった。レ ベル120外区から大聖堂へ手紙を届ける手段など存在しないからだ。

       *

 楽司庁で研究をはじめて一年ほどたったころ、アーウィンの要請で大聖堂の七十階に個人用の完全防音室が造られた。《祈りの歌》を、なににも煩わされずに 静聴する場が必要だと上司にかけあったのだ。
 まだ建材の匂いも残る真新しいその部屋で、アーウィンはそれを発見した。
 《祈りの歌》の旋律に、奇妙な音が混じっているのだ。
 最初、それが《歌》に含まれている音だとは信じられなかった。可聴音域ぎりぎりの高音だったし、非常に音量が小さく、しかも和声進行を完全に無視した音 だったからだ。
 しかし、じっと聴いていると、そのフレーズはたしかに、三十二小節に一度挿入されていた。
 アーウィンは部屋を飛び出し、資料室にいた先輩の楽司僧をつかまえて防音室に引っぱり込み、訊いてみた。
「この旋律です。わかりますか?」
 楽司僧は眉をしかめて天井をにらみ、聴き入っていたが、その奇妙な旋律が過ぎ去ったことにも気づいていないようだった。
 何人に確かめてみても同じだった。微細な高音だけで成り立っていて、自分以外の人間にはとても聞き取れないのだ。
 アーウィンは日課をすべて放り出して防音室にこもり、その旋律を楽譜に落とした。完璧であるはずの《祈りの歌》に、雑音がまじっていていいはずがなかっ た。
 大聖堂のどこかの部位が偶然から共鳴して、定期的にそのような雑音を作りだしているのではないかとも疑った。しかしその推測は、楽譜上に完璧に再現され た旋律によって否定された。イ短調の荒唐無稽な音の並びだが、リズムは《祈りの歌》としっかり同調していたし、ピッチのずれもなかった。楽音なのだ。
 ――これはなんだ?
 アーウィンはその旋律を最上段に記した楽譜を何枚もコピーし、記憶している限りの《祈りの歌》の構成旋律をその下段にいくつもいくつも書き連ねた。複数 の旋律からできあがる和音を拾い、並べる。整合性はどこにもない。そもそも調があっていない。純粋無垢な変ロ長調にあってはならないEやHの音が頻出して いる。
 アーウィンは楽譜を投げ出した。
 今や、《祈りの歌》に意識をゆだねても、祝福された喜びを感じられなかった。かすかな音量であっても、一度認識してしまった後では、あの汚れのような旋 律が耳に残る。


「ひどい顔している」
 楽司庁の個人研究室に久しぶりにやってきたレイチェルは、アーウィンの顔を見るなりそう言った。
「あの新しい音響室に籠もりきりらしいのね。食事はしている? まるでインクで描いたみたいなくまができているわ」
「食欲なんてないよ」
 アーウィンは力無く答えた。
「新しい部署が設立されることになったの」
 レイチェルはアーウィンの顔を上目遣いでちらちらと見ながら話し出した。彼女にしては珍しい仕草だった。
「贖司庁と楽司庁から半数ずつ人員を割いて、同権限の研究開発機関をつくるのよ」
「贖司庁と、楽司庁が? わからないな。楽司庁は完全独立だし楽司長の直轄だよ。おまけになんの成果も上げていない」
「これからは、成果を上げられるようになるのよ。あなたがいるから」
 アーウィンはレイチェルの目をのぞきこんだ。
「贖司庁からはわたし、楽司庁からはあなたが代表」
「興味ないよ」
 アーウィンは机に突っ伏した。楽譜の山が崩れて床になだれ落ちる。
「ぼくは楽司庁をやめるかもしれない」
 レイチェルが息を呑む音が聞こえた。
「ここには、なにもないよ。音楽を理解している人間もいないし、研究するための機材もないし、熱も光もない。ぼくが楽司庁に入ったのは――」
「母親のため、でしょう? それは聞いたわ」
 《歌》の素晴らしさをすべての人に伝えるため。けれど、その《歌》にさえも――
 母に会いたかった。せめて手紙をやりとりできれば。
「新しい部署に異動になれば、あなたには楽司正と同等の権限が与えられるわ。通信物だって検閲されずに済むのよ」
 アーウィンは顔をあげた。レイチェルをにらみつける。
「いま、なんて?」
 レイチェルはため息をついた。
「あなた宛の手紙とTラインはすべて検閲されているの。レベル111のとある初等神学校の教官から、月に一度だけあなたに通信が来ているのだけれど、それ はある女性からの手紙をその教官が代筆したもの。だからすべて棄却されているわ」
 アーウィンは感情を抑えつけながら訊いた。
「どうして、そんなことを」
「あなたは非聖別市民の子なのよ。それをこの地位にまで押し上げるために、父がどれだけ腐心したと思って? あなたの足をすくうかもしれない材料はすべて 摘み取っておいたのよ」
 アーウィンは立ち上がって部屋の出口に向かおうとしたが、レイチェルがドアの前に立ちふさがった。
「……どいて」
「行ってはだめ」
「こんな話を聞かされて、そのうえ出て行くなって? ふざけないでくれよ」
「なぜわたしが話したのか、わからないの?」
 手首をつかまれた。
 レイチェルの深い鳶色の目に、アーウィンは吸い込まれそうになる。
「……わからないの?」
「わからないよ」
 手をふりほどくと、アーウィンは研究室を飛び出した。廊下を歩いていた尼僧にぶつかりそうになり、悲鳴をあげさせてしまう。
 レイチェルが走って追いかけてなどこないことはわかっていた。彼女の誇りがそうさせないだろう。命令する人生だけをこれまで送ってきた人間だ。エレ ヴェータに飛び込み、すぐに扉を閉じて一階を入力した。

       *

 近場にあるホーヴァ・ラインの駅には追っ手が差し向けられているだろうと判断し、徒歩で街の外部に向かった。自宅のある北にまっすぐに向かわず、東へレ ベル40あたりまで出てからホーヴァを乗り継いで外区へと向かう。
 僧衣姿のアーウィンはひどく目立った。一度ならず駅で上着を脱いで捨ててしまおうかと思ったが、どうしようもなく視界に入ってしまう大聖堂の黒くくっき りした影と、夕暮れの空にたおやかに響く《祈りの歌》とがそれをためらわせた。
 スラムについたとき、すでに日は沈んでいた。外区の空気を吸うのは七年ぶりで、アーウィンはその埃くささにむせてしまった。
 出てきたときと、なにも変わっていない。襤褸とごみの積み上げられた街路。無遠慮なホーヴァクラフトが行き交う。いくつかのビルは地盤沈下で傾き、壁面 に大きな亀裂が走っている。
 まだ初等神学校生だったころのアーウィンのことは無視していた露店の店主も、身なりのいい今のアーウィンにはめざとく声をかけてくる。
「旦那。カパ・トラックスの新譜が入りましたよ。どうです。脳味噌トロトロもんのトランスで」
 ジャンクミュージックのROMを手に、にやにや笑いながら手招きする。アーウィンのまとう黒と銀が僧衣であることすら、この男は知らないのだろう。露店 店主の、サングラスをかけた毛むくじゃらの顔が近寄ってくるのを手を振って追い払い、アーウィンは暗い道を歩き続けた。母の住むビルにたどり着くまでに、 何度もホーヴァに轢かれそうになった。


 朽ちかけたビルの七階。金属のドア枠の歪み方も記憶にあるままだった。アーウィンは黒ずんだノブに手を伸ばしかけて、固まった。
 教会はこの家の場所を知らないはずだ。貧民街のどこにだれが住んでいるかなど住人にだってわかっていない。しかし調べようと思えば教会権力に不可能はな いだろう。
 そもそも、自分はなにをしに帰ってきた? 
 ただ、母に、会いたくて――
 触れてもいないノブが回り、ドアが開いた。
『お帰りなさい』
 母はまるで変わっていなかった。
 自分と同じように七年の齢を重ねたはずなのだけれど、補正装置に半分隠されたその陶器のような顔は、別れたときの記憶と同じしわひとつなく美しいまま だった。ただ、十三歳のときには見上げていたその母の顔が、十九になった今では自分の胸の高さにあった。
 アーウィンは言葉にならないものに突き動かされて、玄関口で母を抱きしめた。母はアーウィンの背中を優しく撫でた。
『入って。夕食にしましょう』
 障碍補正装置の機械音声は、こんなに温かいものだっただろうか。母の身体からは、懐かしい金属と火薬の匂いがした。
 テーブルには二人分の食事が用意されていた。アーウィンは母の顔を見た。
『あなたが今日帰ってくるのはわかっていたから』
「――どうして?」
『あなたの声が聞こえたもの』
 声が――聞こえた。
『いつか話したでしょう』
 母はアーウィンの腕をとって椅子に座らせた。それきりなにも言わない。
 夕食を共にし、懐かしい自分のベッドに入った。
 母がまた作業を始めたらしい。壁を隔てて、くぐもったモーターの音が聞こえてくる。アーウィンは毛布に潜り込んだ。
 《祈りの歌》のない一日。
 自分がこれまでにないほど温かく安らかな眠りに引き込まれていこうとしてるのに気づいて、アーウィンは愕然として跳ね起きた。窓を開く。メタ・ワシント ン市のきらびやかな光の鉢、その中央を貫く漆黒。かすかに聞こえる《歌》。アーウィンの耳は、この距離からでさえも、あの超高音部の不協音を探り出してし まう。
「神よ」
 真っ暗な寝室、毛布の上でうずくまり、アーウィンは煩悶した。自分がなにかを犯しているような気がした。しかし、それがなにかわからなかった。だから、 懺悔の言葉も出てこなかった。
『アーウィン』
 平坦な機械音声が闇の中で響いた。アーウィンは顔をあげた。母が寝室の入口に立っていた。
『大丈夫?』
「母様。わからなくなりました。ぼくは今、疑おうとしています。赦されることではないのに」
 母は黙ったまま、アーウィンのそばにひざをついた。アーウィンは組み合わせた両手に額を押しつけながら、熱病に浮かされるようにつぶやいた。
「いつだって神に愛されていることを感じてきた。《祈りの歌》がそばにあったからです。でも今ぼくは、神の愛を聴き取ることができない」
『愛は聴き取るものなの?』
 アーウィンは顔をあげた。
『あなたの知っている愛は、聴き取ったものなの?』
 声も出せない。
『愛は言葉ではないの。わたしは洗礼を受けていないけれど、それだけは知っている』
 自分の両肩をきつく抱きしめ、アーウィンは立ち上がった。言葉ではない。言葉。言葉。なんだろう、なにかが引っかかっている。
 言葉ではない。
 言葉。
 天啓が、アーウィンの身体を稲妻のように打ち据えた。
 明かりをつけ、筆記用具を探す。初等神学校にいたころ使っていた譜面タブレットが見つかった。毛布の上に座り、あの穢れた旋律を思い起こし、楽譜に記 す。長い音符の羅列。最初の音はAだ。これはそのままA。次の音が3オクターヴ上のA。2オクターヴ下がり、E。さらにC。次の休符は単語の切れ目か。 AAEC BGC……だめだ、文字七つではとても言葉にならない。いや待て。なぜこうも広いオクターヴに音が分布している? この3オクターヴ上のAは、もっと別の 文字ではないのか。単純に――イタリア音階ではない、英国式に――はじまりがA、ひとつの音がひとつの文字。そのAのオクターヴ上は八つ後の文字、つまり Hか。アーウィンの握ったインプットペンの下で、音符が次々とアルファベットに変換されていく。
 やがてその言葉が現れる。

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「これは」
 アーウィンの頭は混乱しきっている。
 これは、著作権表示ではないのか。
 どういうことだ。
 なぜ。
 頭が焼けつくようだった。
 ひざの上から、楽譜タブレットが落ちてベッドの上に転がった。
 自分はいま、触れてはならない領域に触れている。
 アーウィンはほとんど本能的に立ち上がった。ベッドを飛び降りて玄関に向かう。仕事部屋のドアの隙間からは光が漏れ、まだ母が仕事をしている音が聞こえ ていた。
 ここにいると母を巻き込んでしまう。アーウィンはそう直観していた。帰ってくるべきではなかったのだ。
 ドリルの音がやむ。母が気づいた。アーウィンは僧衣を羽織ると部屋を飛び出した。


 真っ暗な街路に出てすぐのことだった。
 陥没で傾いたビルとビルの間から人影がいくつか飛び出してきて行く手をふさいだ。強烈なライトを顔に浴びせられ、視覚が奪われる。「こいつだ」「や れ」、そんな声が聞こえた。アーウィンは後ずさった。そのとき、後頭部をすさまじい衝撃が貫いた。視界に星が散り、天地が入れ替わり、すぐに完全な闇が やってきた。





      4

 音楽で、目覚めた。
 懐かしい歌。自分はこの歌を知っている。
 《祈りの歌》だ。しかし、以前とはどこか違って聞こえる。旋律のひとつひとつが、なにかしら言葉を伴っているような。そんなはずはないのに。神の音楽は 言葉とは無縁のものなのに。
 アーウィンは、頭の中に押し込まれた鉛のような鈍痛に顔をしかめながら、身体を起こした。
 殺風景な部屋だった。五メートル四方ほどだろうか。緑色の絨毯が敷いてあり、机がひとつ、その上には電気スタンドと、大きな画面のついた入力フォームが ひとつ。それから、自分が横たわっているベッド。
 壁の隅に、収納式の簡易トイレがついていることを示す注意書きとハンドルがある。
 それだけだ。窓もない。
 《祈りの歌》は天井から、やけにくっきりと聞こえる。
 どこだろう、ここは?
 慢性的な頭痛が意識を覆っていた。アーウィンは、とくに痛みのひどい後頭部に手をやって、声をあげそうになった。髪がきれいにそり落とされ、のみなら ず、頭の真後ろになにか細いものが埋め込まれている。
 ぞっとした。自分はなにをされてしまったのか。
 と、正面の壁がすっと消えた。
 壁のむこうに、もう一続きの部屋が現れた。こちらの部屋とまったく同じ大きさだ。絨毯はなく床はむき出しで、中央に机と椅子が置かれ、一人の中年男性が 腰掛けてアーウィンの方をじっと見ていた。男の背後にはドアがある。
「ごきげんうるわしゅう、アーウィン楽司」
 男が口を開いた。
「気分はどうかね」
「ここは……?」
「ここは我が社の特殊オフィスさ。きみのために作らせた」
「我が社……?」
 アーウィンは目をすがめて男を観察した。白髪の混じった硬そうな髪、厳しいしわが彫り込まれた狡猾そうな顔。上等なスーツ。低く重たい声。
「失礼。申し遅れたな。私は、エイドリック=カパ。カパ・トラックスという会社をやっとる者だ」
 カパ・トラックス。
 ジャンクミュージックを裏流通させている黒い会社だ、とアーウィンは思い出す。
「きみにぜひ、頼みがあってね。手荒な真似をしたが、ご足労いただいた」
「背教徒が、ぼくになんの用ですか」
 言いながらアーウィンは自分の身体を確かめる。僧衣は、白い寝間着のような服に着替えさせられていた。手も足も、無事なようだ。軽いしびれが残っている が、なんとか動く。
「きみの音楽の才能を、わたしの会社のために役立ててもらおうと思ってね。つまり、我が社専属のクリエイターになっていただきたい」
「ぼくを解放しなさい。神はこのようなことはお赦しにならない」
 男はくつくつと笑った。
「きみの頭に、そう、それだ。埋め込んだもの。なんだかわかるかね。うん。それはね、旧世紀のある人物の人格転写ROMだ。T.K.と、イニシャルだけで 知られている人物だがね。随一の作曲家だった。ほれ」
 男は天井を指差した。
「きみたちが《祈りの歌》とか呼んでいる曲。これを作った人物だな」
 アーウィンは怒りのあまりベッドを飛び降り、男に詰め寄ろうとした。しかし、机のすぐ手前で見えないなにかに鼻をぶつけた。透過壁だ。アーウィンはいぜ ん、閉じこめられているのだ。
「神聖冒涜はやめろ」
 男をにらみながらアーウィンは叫んだ。
「冒涜じゃない。ほんとうのことだよ。あれは神様が作った曲なんかじゃない。ひとりの人間が、我々と同じ人間が作ったものだ」
 アーウィンは拳で透明な壁を殴った。
 男は椅子から立ち上がり、部屋を歩き回りながら話を続けた。
「ただ、これは、そう、特殊な曲でね。ひとつの曲じゃないんだ。その、T.K.なる人物がその生涯を通して生み出した、何百何千という曲。そのそれぞれか ら、和声進行がまったく同じ部分を抜き出して、同じテンポ、同じキィに調整し、何百何千と重ね合わせたものなのだよ」
 和声進行がまったく同じ――何百何千という曲。
 重ね合わせたもの。
 ひとつの曲ではなく。
「嘘だ」
「嘘じゃない。よく聴いてみたまえ。いわば、きみがかつて作った曲だからね。思い出せるはずだ」
 アーウィンは天を仰いだ。《祈りの歌》が降り注いでくる。織り込まれたいくつもの旋律が、アーウィンの意識の上でほどけ、幾多の歌を、言葉を乗せた流れ を想起させる。
 これは――そうだ、これは――歌だ。口ずさむことさえできる。みんなぼくが書いた歌だ。この旋律、ゆっくりと刻まれる、Rhythm Red Beat Black……それにオーヴァラップする、The Point of Lovers' Night……匂うほどに立ちこめる恋しさと、Wild &Love ……サヴァンナに響く何千もの太鼓のリズム、どこまでも、限りなく一途な恋……Wow、War……、Train Tough……せつなさと……

 アーウィンは透過壁に激しく頭を打ちつけた。
 しかし、歌は消えない。とめどなくあふれ、指先から、耳から、唇から、メロディが滴っている。
「思い出せたかね」
 男の声が遠い。
「けっこう。きみにもわかったはずだ。あの《祈りの歌》とか呼ばれる曲が、なぜ教会をひとつぶちあげられるほどのポテンシャルを持っているのか」
「嘘だ」
 アーウィンは認めたくなかった。しかし、わかっていた、わかってしまった。これは、自分が、否、自分の頭に今埋め込まれている人格の持ち主が、魂のすべ てを注いだ歌たちだ。
「すべて商業的に一大収益をもたらした歌なのだよ、この曲を構成している元の歌は。その最も印象的な部分を集め、凝縮したのが《祈りの歌》というわけだ。 我々は毎日、頭の上からどでかいビジネスチャンスが降ってきているのをぼんやり浴びていたわけだね」
「冒――涜だ」
「きみの仕事も十全に理解してもらえたはずだ。《祈りの歌》を分解する。のみならず、《歌》に使われている以外の部分を作曲して――いや、この場合は思い 出して、と言うべきかな――それぞれの歌のあるべき姿に戻してもらいたい。きみならできるよ。我々が十数年をかけて探し出した、その人格転写ROMの適合 者だからな」
「ぼくが、そんなことを承伏するとでも」
「きみがやるんじゃないよ、アーウィン楽司」
 男の顔が、いつの間にか、透過壁を隔てたすぐ向こうにあり、アーウィンの目を見透かしている。
「私はきみに頼んでいるんだ、T.K.先生」
 アーウィンは言葉を失った。
「じきに、曲を書きたくてたまらなくなってくるさ。頭の上で、自分の作った歌がごたまぜになって流れているんだからね。冒涜というのなら、これの方がきみ に対する冒涜だ。そうだろう?」
 男の言うとおりだった。
 アーウィンの頭の中で、目まぐるしく音が駆けめぐっていた。序奏のリフ。リズムパターン。歌の入り。半音の上昇転調。すべてが、かつてこの手で作りだし たもの。
 アーウィンは、自分が押しつぶされていくのを感じた。
 ぼくは――だれだ?
「良い仕事を期待しているよ」
 男はドアから出ていった。アーウィンは床の上に崩れ落ちる。天井からは《祈りの歌》が絶え間なく降り注いでいた。死んでしまいたかった。しかし、アー ウィンの身体は半ば自身のものではなく、古い古い歌を、かつて自分が作りだした歌を、口ずさんでいた。

       *

 食事の時間と眠るとき以外は机に向かい、曲を書き続けた。
 狂ってしまわなかったのはおそらく、脳に挿入された別の人格のおかげだった。アーウィンが悔恨し発狂しそうになると、T.K.の人格が浮かび上がってく る。入力フォームに向かい音符とコードをつづる。空腹と眠気だけがアーウィンの人格を呼び戻す。
 《祈りの歌》は神の音楽ではなかった。アーウィンはそれを自ら証明しながら、次々と現れる旋律を食いつぶし、食い散らかし、咀嚼し、ジャンクミュージッ クとして排泄し続けた。
 どれほどの日数がたったのか、わからない。
 千七百曲目を書き上げた後、T.K.は沈黙した。
 すべての旋律を思い出し、歌へと還元しつくしたのだ。
 アーウィンの中には、すでに苦悩もなく、信仰もまたなかった。ただ、T.K.の遺した歌への欲望が澱のようにわだかまっていた。しかし、埋め込まれてい るのはROMであり、新しい歌を作り出す力はアーウィンには与えられていなかった。
 食事も拒否し、アーウィンは眠り続けた。

       *

 ある日、あのカパという男が部屋を訪れた。
「アーウィン楽司。ごきげんいかがかね」と、分厚い透過壁の向こう側から言う。アーウィンは毛布の中から頭だけ出して、カパをにらんだ。
「きみの仕事も終わったようだからね。もう逆さに振ったって一曲も出てきまい。今まできみが書いた曲だが、恐ろしい勢いで売れているよ。累計売り上げを知 りたいかね?」
「地獄へ堕ちろ」
「ほ。まあ、きみも私にはもう用なしだ。お迎えの人が来ているよ」
 カパの背後のドアが開いた。入ってきたのは、背の高い禿頭の男だった。紫色のレンズのはまった眼鏡をかけ、黒地に銀の刺繍の入った僧衣をまとっている。
 贖司長。
 アーウィンは毛布を蹴り落として、ベッドから出た。
「どうして、贖司長が、ここに」
 贖司長は薄く笑った。たしかに、笑った。
「アーウィン楽司。あなたは、ここがどこだと思っているのです? こんなにはっきりと《祈りの歌》が聞こえる場所が、他にあると思っているのですか?」
 突如、部屋の壁が消え失せた。
 アーウィンは虚空に放り出されたような錯覚を味わった。残っている壁はドアのついた奥の壁だけで、両手も、ベッドの後ろの壁も、消えている。その向こう に見えるのはねずみ色の空。世界をぐるりと取り巻く褐色の地平。はるか眼下に、街のビルの並びが描く幾何学的な渦がある。
 そんなはずはない。
 ここは、大聖堂なのか。
「ここは昔、洗礼の間に使われていたところです。円形の部屋の方がより効果が高いことがわかって、新調してからは使われていません。今はカパ・トラックス 社に貸与しているのですよ」
 贖司長の声が近くに聞こえた。アーウィンは振り向いた。黒い僧衣がいつの間にか目の前にある。透過壁の一部分が扉のように開いているのが見えた。
「……信じられません。な、なぜ、背教徒と」
「背教徒ではありませんよ。カパ・トラックスは統一讃歌教会の提携企業です」
 アーウィンは贖司長の僧衣の襟をつかんだ。しかし贖司長は涼しい顔でその手首をつかみかえし、ひねると、アーウィンの身体をベッドに押さえ込んだ。
「あっ、あなたも背教徒なのか、贖司長」
「アーウィン楽司。教会の維持に最も必要なものはなんだと思います? 信仰? 人材? 熱心な信徒? いいえ」
 贖司長の手が、アーウィンの後頭部に触れた。埋め込まれたROMをまさぐっている。鈍痛が走った。
「資金ですよ」
 その言葉と同時に、アーウィンの頭からROMが引き抜かれた。すべてが光で焼き払われるのをアーウィンは感じた。真っ白な闇。その中で自分をじっと見つ めている琥珀色の二つの瞳に気づいた。いつの間に部屋にいたのだろう、あのカパという男の隣に、長い黒髪の女が立っていた。


 目を覚ました。
 砂埃の臭いが喉を灼いた。身体がしじゅう揺れて、あちこちが硬いものにぶつかっている。手も足も動かない。
 アーウィンは目を開いた。
「目を覚まさない方がよかったのに」
 すぐそばで聞き慣れた女の声がした。見上げると、レイチェルと目があった。
「レイチェル。暴れたりしないように見ていなさい」
 助手席の贖司長が振り向いて言った。運転席にはやはり僧衣を着た若い男が座っている。
 アーウィンは、自分がホーヴァクラフトの後部座席に乗せられていることを知った。それから、肌に食い込む痛みで、縛られていることもわかる。
 シートに歯を立てて、無理矢理上体を起こした。
 オープンシートの外には、薄暗い荒野が広がっていた。夜明けの薄紫色の光が地平線に立ちこめている。振り向くと、大聖堂が黒く細い紐のように雲からぶら さがっているのが見える。砂を含んだ風が頬に吹きつけた。
「なにも訊かないの?」とレイチェルが言った。
 アーウィンは少し考えてから、うなずいた。
「そう」
 ホーヴァはしばらく走ってから唐突に停車した。運転席の若い僧侶が降車して後部座席のドアを開け、アーウィンを引っぱり出して砂の上に転がす。地面に鼻 をぶつけた。砂が口の中に入ってくる。
 贖司長がホーヴァから降りてきて、アーウィンの肩を蹴って仰向けにした。若い方の僧侶が袖をたぐって銃を取りだし、レイチェルに手渡す。
「祈りなさい、アーウィン楽司。もっともあなたは、祈るべき相手が存在していないことを知っているわけだが」と贖司長が言った。
「やめて、お父様」
 レイチェルは首を振ると、アーウィンの額に銃口を向けた。ちょうど昇りかけた太陽に背を向けていて、顔はよく見えなかった。
「アーウィン。こうしたくなかった」
「取り繕うのはやめなさい、レイチェル。この職務を終えた彼が死ななければならないことは、私が初等神学校生徒のデータベースで彼を見つけたときから決 まっていたことです。秘密を知る人間は少なければ少ないほどいい」
 アーウィンは身体中の力を抜いて、目を閉じた。
 贖司長の言うとおりだった。祈るべき神はいなかった。しかし、まぶたの裏に、その姿が浮かび上がった。顔の右半分を黒くいかめしい機械に覆われた女性。
 あなたのために祈ろう。
 アーウィンは静かに、自分の額に打ち込まれる熱い弾丸を待った。

 銃声は二度聞こえた。

 アーウィンは目を開いた。どさり、と音がして、自分の顔のすぐ横に、レイチェルが倒れた。顔は血まみれになり、頬が破れて奥歯がむきだしになっている。
 逆さまの視界の中、贖司長の身体がダンスステップのように半回転し、それから地面に崩れ落ちた。
 三度目の銃声がして、運転手だった若い僧侶が倒れ砂埃が舞い上がる。
 アーウィンは生きている。
 なぜ?
 荒野の向こうから、ひとつの影が近づいてきた。土煙が影のまわりで沸き立っている。単騎のホーヴァクラフトだ。
 ホーヴァは倒れたレイチェルのそばで停まった。
「母様……?」
 アーウィンの声に気づき、半分が黒く、半分が月のおもてのように白いその貌が微笑む。母の手に握られた粗雑な外観の密造銃の銃口からは、まだ青白い煙が 漂っている。
 母はアーウィンに駆け寄ってくると、銃で縄の結び目を灼き、助け起こした。アーウィンは母の首に両腕を回した。
「どうして」
『聞こえた』
 機械音声が耳元で告げた。
『あなたがあの日、急にいなくなってから、ずっと探していた。今日、声が聞こえた』
「ぼくの声が?」
 母は首を横に振った。
『あなたの声じゃない。べつの』
 そこで言葉を切って、母はアーウィンを抱きしめた。
 別の声。祈り。アーウィンの中で様々な概念が駆けめぐる。届けられた祈り。アーウィンの背中に回された腕の力が強くなる。
 それから、不意に、後頭部に疼きを覚えた。かつてT.K.がいたその穴をアーウィンは強く自覚した。
 母の腕をほどき、死体の一つのそばにかがみ込む。紫の眼鏡は砕け、銃弾に穿たれた眼窩からは血があふれて無毛の頭皮を黒々と濡らしている。死体の着てい る僧衣の懐を探り、それを引っぱり出した。青いプラスティックのROMカード。アーウィンは息を止めて、そのカードを自分の後頭部のソケットに挿し入れ た。
 こめかみにずきりと鈍痛が走る。奇妙な酸味が口の中に広がり、首から下がさあっと冷たくなる。意識と記憶が流れ込んでくる。懐かしさがこみ上げる。
『――アーウィン? 大丈夫?』
 肩に触れるものがあった。アーウィンは立ち上がり、母の手をとる。
「……クリスマスのプレゼントだったんです」
 想いがアーウィンの言葉となってあふれる。
『……クリスマスというのはなに?』
「わかりません。彼がそう言っているんです」
 アーウィンは南の空を仰ぐ。夜明けの空にくっきりと引かれた黒線のような、大聖堂の影。
「自分の歌を、世界中にプレゼントするつもりでした。衛星都市を買い取って、軌道エレヴェータの音声回線を確保し、十二月二十四日の夜に――でも、その日 がやってくる前に……」
 戦争があったのだ。
 すべてが焼き払われた。
 彼が愛した世界、彼が平和の歌を届けようとした世界、彼が欲した世界のすべてが。
 そして歌だけが残された。衛星のプログラムが、約束の日を迎えて、焼けただれた世界に《祈りの歌》を解き放ったのだ。
 その歌は、止める者もないまま、今でも流れ続けている。
 軌道エレヴェータを伝い落ちて、今も――
『聞こえる』
 母の声に、アーウィンは振り向く。
『その人の想いが、聞こえる。あなたの中にいるから』
 電子音声がつぶやく。母の頬には涙の筋がある。
「どんな……想いですか? ぼくにはよくわからない。自分の中のことだから」
 母は首をゆっくりと横に振った。
『わたしにもわからない。これは言葉にできない。だから――これが歌というものかもしれない』
 アーウィンの中でなにかが溶ける。
 《祈りの歌》を聴いたときに感じた愛は、偽りではなかった。あれはT.K.が伝えようとした愛だ。なぜならあれは彼が作った歌、彼の魂から引き出された 祈りだからだ。自分はそれを受け取っていたのだ。そこに神はいない。祈る者と、愛される者の間に、神は存在しない。
 遠く、大聖堂は空を切り分ける黒い糸のように見えていた。アーウィンはかつていた作曲家のために祈った。数千の歌を孕んだ歌は、灰色の大地に蕭々と降り 注いでいた。




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