楽園の三角

       1

 1992年というのは僕が精神的に童貞だった最後の年で、肉体的には十七歳になったばかりの頃だった。十一月末のどっぷり曇った水曜日、五時限目のホー ムルームに担任教師から受け取った全国統一模試のE判定という結果を自分の席に座って三分間じっと見つめた僕は、ブレザーを肩に掛けてそのまま教室を出 た。後ろで担任がなにか怒鳴っていたけれど聞こえない振りをした。六時限目は英語のグラマーだったし担当教師の通称カメゴン五十五歳男は授業中いつも教卓 の真ん前の席でノートに漫画ばかり描いている僕を毛嫌いしていたから、ちょうどその日教科書を家に忘れてきていた僕はあっさり早退することに決めた。なに せEより下はないしカメゴンの頭髪はすでに一本もない。終着駅だ。おりるしかない。
 上履きのまま、渡り廊下から裏庭に出た。真っ黄色に染まった銀杏の木と錆びて朽ちかけた焼却炉の間を通って、裏門を抜ける。そこでとうとう雨が降り出し た。門のすぐ外は左右に続く狭いアスファルトの道、その向こうにある茂り放題の竹藪が、不意に強まった風で掻き回されてテレビの砂嵐みたいな音をたて始め た。頬と首筋に冷たい水滴が何度も落ちかかった。
 校舎に戻るか、それとも交差点の手前のゲームセンターまで全力疾走するか、どちらも面倒くさくなって濡れるままに立ちつくしている僕の足下を、小さな黒 い影が横切った。肥った猫だった。とにかく大きい。額からぴんと立てた尻尾の先まで計ったら一メートルありそうな立派な体躯だ。全身が豊かな黒い毛で、顎 のあたりにかすかに灰色が混じっている。長毛種の血が入っているのだろう。だから肥えてはいても醜くはなかった。見えない膜が猫を包み、雨を弾いているみ たいに見えた。猫は皮を剥いた葡萄の粒みたいな目をちらと僕の顔に向けてから、尻尾を立てたまま道の向こうに歩いていく。
 ずっと後になって何度も思い返すのだが、このとき僕があの猫についていかなかったとしたら、果たして違う結末があっただろうか。そんなことはないだろ う、と僕はすぐさま否定する。僕があのプレハブ小屋を訪れなかったとしても、水谷さんに出逢わないまま卒業してしまったとしても、僕の知らないところでだ れか別の人物が代わりに据え置かれて、本来川が流れるはずのない荒れ地を水が掘り進み、けっきょくは同じ海に至っていたのだろう。だってそもそもの僕が代 用品だったのだから。
 プレハブ小屋は竹藪の中にあった。壁は黒ずみ、トタン屋根のメッキはあらかた剥げ落ちて錆びに覆われ、窓のサッシは歪んでいて、地面から持ち上がった竹 の根のせいか、小屋全体が見てはっきりわかるほど歪んで傾いていた。猫は、壁の下の部分に口を開けた穴からするりと小屋の中に入って消えてしまった。
 高校に入学して十九ヶ月が経過していたけれど、僕はそのときまでそのプレハブ小屋の存在をまったく知らなかった。体育の授業のマラソンで竹藪前の道を 通ったことは何度かあったかもしれないけれど、ひしゃげた屋根も、へこみだらけの壁も、埃と砂がびっしりこびりついてまったく中が見えないガラス窓も、記 憶になかった。
 入り口が見当たらなかったので、僕は太い竹の間に足を踏み入れた。竹のざらついた表面にブレザーがひっかかった。靴は、地面に分厚く積もった腐葉土の中 に沈み込んでしまいそうだった。小屋の裏側に引き戸が見つかった。
 中は意外にもさほど汚れておらず、窓の下に大きめのベッドが押しつけて置いてあり、反対側の隅には学校で掃除用具入れに使っているのと同じロッカーが あった。潰れた喫茶店から盗んできたような飾り脚の丸テーブルがあり、その上には汚れた包帯と鋏、ピンセット、小さな壜がいくつか、洗濯ばさみ、そういっ たものが散乱していて、その真ん中にさっきの黒猫が背筋をぴんと伸ばして座っていた。だれか住んでいる場所なのだろうかと僕は思ったが、少々雨宿りに使わ せてもらうことにした。
 ベッドに腰掛けると、黒猫と目があった。首輪がないので野良なのだろうが、それにしては清潔で品のある顔立ちだった。僕はポケットからくしゃくしゃに なった全国統一模試の判定結果の紙を取り出して、広げて猫に見せてみた。
「どうよ。EだよE。こんな駅弁大学でE判定、狙ったってなかなか出ないよ。これはさ、なにかの啓示じゃないかと思うんだ。僕は他の奴らと違うからさ、受 験なんかであくせくせず、自分の可能性を目一杯活かせる世界に羽ばたくべきだって。十八歳でも遅すぎる、っていう。そう思わない?」
 猫は大きなあくびをした。銀色のひげが、小屋の暗がりの中でかすかな光を受けてきらめいた。僕はその口の中に紙を丸めて押し込んでやろうとふと思った が、用紙を握りつぶしたところで思いとどまった。たまにそういう衝動に駆られるときがある。手を強く握って親指の付け根に爪を食い込ませただけでおさまっ てしまうような衝動だ。
 僕はベッドに勢いよく寝転がった。埃が舞い上がって視界を埋め尽くすのを想像したのだけれど、そうはならなかった。シーツも新しい。やはりだれかが使っ ているのだ。天井には細い鉄骨が×字に組み合わされ、その交点から裸電球が一つぶら下がっていた。
 腹に圧迫感を覚え、顔だけ持ち上げると猫が乗っかっていた。僕は両腕を枕にして、しばらく猫の毛並みが造り出す光沢と陰影に見入っていた。
「嘘をつくのはやめたまえよ有沢くん」
 僕は猫が思っていそうなことをかわりに口に出してみた。それからすぐに自分で答える。
「嘘じゃないよ。僕は小学校のときのテストでは一度も勉強をせずにほとんど満点とってた。ピアノだって一年でバイエル終えてツェルニーに進んだところでつ まらないからやめたんだ。中学ではクラス委員で生徒会の副会長だったし眼鏡なんてかけてもないのにあだ名はメガネだった。高校に入ってからは外見に気合い が入ってきたのか見知らぬ上級生さえ僕が視線を向けると目をそらす」
 猫は僕の口で言う。
「それはね有沢くん、きみがいつもブレザーの袖に腕を通さずに羽織っていて、その『いっぱつ必中』とプリントされた紫色のTシャツが見えているからだよ。 しかも年中同じ格好じゃないか」
「やっぱりそれが原因かなあ」
 二年生の春、修学旅行先の広島の土産物店で買ったシャツだったが、自己啓発の役にはやはり立たなかった。
「じゃあどうすればいいと思う? 正直、もうなにも見えないんだよ。このまま、格闘ゲームの腕だけが上がっていく」
「ゲーセンに行ってもコインを入れずにツルゲーネフでも読めばいい」
「最初の二行でダウン」
「じゃあ江戸川乱歩」
「それはもう図書室にあるの全部読んだ」
「なにしてんの?」
 僕のものではない声が突然して、僕の全身は痙攣した。それでも身体を起こせなかったし猫は僕の腹の上からどかなかった。首だけひねると、小屋の入り口に 立っている人影と視線が合った。体操着姿の女の子だった。1992年というのはまた、あのブルマなる奇蹟の体操着が生き残っていた最後の年でもあった。細 くて白い脚は小屋の中の暗がりにまぶしいほど浮かび上がっていた。体操着の胸には2年F組とマジックインキで書いてあり、痩身に似つかわしくない豊かな膨 らみがその文字を盛り上げて歪めていた。髪はアップにして団子にまとめ、走ってきたばかりなのか、うなじはかすかに紅潮していた。
「あれ、今日予約入ってたっけ? えーと?」と彼女は言いながら、後ろ手に持っていたナップザックをテーブルに置いた。なんの予約かはわからなかったが、 僕は頭だけをベッドから持ち上げた不自然な姿勢のまま首を振った。猫はまだ僕の腹に陣取っていた。
「あ、ああ」
 ようやく声が出る。
「ごめんなさい。雨が降ってきたんで、勝手に入り込んだ。ごめん。すぐ出てく」
 なぜ猫がこんなに重いのだろう、はねのけられないのだろう、と思いながら僕は言った。本当は、あまりのことにびっくりして身体が動かなかっただけなのだ けれど。
「ジンタ。こっちおいで」
 彼女の声で、腹部の重圧が消えた。黒い影の塊はほとんど足音を立てずに丸テーブルに飛び移り、彼女の手に鼻先を触れさせた。僕は起き上がってベッドから 飛び降りた。気まずいのでさっさと出ていきたかったけれど、彼女が出口の前に立っていて露出した太ももから匂い立つようなオーラを放っていたので、近づく のはためらわれた。
「有沢くん、猫と喋れるんだ?」と彼女は言った。僕はのけぞりそうになった。
「いつから見てたの?」
「あだ名がメガネのあたり」
「見なかったことにして。忘れてくれ。記憶を消してくれ」
「そんなの無理だよ」
 それ以前に、なぜ僕の名前を知っているのか。
「だって隣のクラスだし紫シャツ全開の人って有名だし」
 僕は黒猫が出入りしていたあの壁の穴から逃げ出すことを真剣に検討し始めた。
「あと音楽の授業はいつも一緒なんだけど憶えてない? あたしのこと」
 僕は彼女の顔をまじまじと見た。こんな印象的な女の子がいたらまず忘れないと思うのだが、出てこない。僕のE組と隣のF組は芸術選択授業では合同だか ら、たしかに音楽の授業で顔を合わせていてもおかしくはないのだけれど。
 彼女はザックから眼鏡を取りだしてかけた。それから、髪をほどいて肩に垂らす。僕は思わず息を呑んだ。
「水谷さん、だっけ?」
「やっと思い出した」
 水谷さんは笑って、猫を抱き上げた。
 小屋を包む雨音が一段と激しくなった。トタンを叩く雨粒のリズムは、さっきまでは数えられそうなくらいまばらだったのに、もう背景を埋める厚いノイズに 変わっている。
「いいよ、雨宿りしてきなよ」と水谷さんは言って、テーブルを迂回して僕の隣に座った。太ももの間に、黒猫のジンタはうずくまって目を閉じた。
「座ったら?」
 ぽんぽん、と彼女は自分の隣を手のひらで叩いた。僕は口の中で言葉にならない言葉を転がしながら、また腰を下ろした。
「ここ、あたしの家だって言ったら信じる?」
「コンロか電気ポットがほしいね。カップラーメン作れないし」
 僕は水谷さんの脚を見ないようにしながら、けれど視界の端にその素肌をひどく意識しながら、小屋の中を見回した。
「要らないよ。ジンタがいればあったかいし」
 水谷さんは猫の身体を持ち上げると、自分と僕の脚の間に押し込んだ。ジンタは身をよじって抗議したが、水谷さんに額をつつかれるとおとなしくなった。あ たたかい。
「授業さぼってここに来てるわけか」
「有沢くんもそうじゃない」
「僕は猫を湯たんぽにしてベッドで惰眠をむさぼったりしてないぞ。誇り高きロシアのプロレスラーとして、ホウキ頭のアメ公やオカマのスペ公と日々戦ってる んだ」
 ゲームの話だけれど。
「そうか。大変だね。たまにはここでゆっくりしてっていいよ?」
 僕は水谷さんの顔をのぞきこんだ。薄桃色の唇は上側がほんの少しめくれ気味だった。
「水谷さん、しょっちゅうここにいるわけ」
「うん。午後の授業はだいたいさぼる」
「というか今日体育ないだろ、なんで体操着」
 E・F組は体育の授業も合同なのだ。
「これは、うーん、趣味の問題なんじゃないかな? ここに来るときはいつもこのかっこなの」
 この女は頭大丈夫だろうか、と僕は少しだけ思い始めた。十一月で雨なのだが、猫だけでその寒さを帳消しにできるとでも思っているのか。
「あ、でもね、いつでもオッケーってわけじゃなくて。いつ予約入るかわかんないんだけど、ジンタが穴の前でうろうろしてて中に入ろうとしないのはダメのし るしだから」
 水谷さんはよくわからないことを言ったが、それ以上詳しい話はしてくれなかった。訊こうとしたら猫と一緒に毛布に潜り込んで寝てしまったのだ。僕は毛布 からはみ出た二の腕の白さをたっぷり一時間は見つめ続けた。放課を告げるチャイムが遠く聞こえた。毛布は規則正しく上下していた。頭の中で何度か、自分も 毛布に潜り込んでその小さな身体を抱きしめ体操着をめくり上げるところをシミュレートしてみたが、うまくいかなかった。今度はベッドから立ち上がって小屋 を出る案を試してみたが、これも脳内で何度も失敗した。
 小屋を出たとき、すでに雨はあがっていて、冬の足早な陽は沈んで真っ暗になっていた。猫に乗っかられていた腹のあたりに、もやもやしたものがわだかまっ ていた。勃起もしていたから、もやもやの半分くらいは性欲だっただろう。ゲームセンターに行って、普段はやらない脱衣麻雀にコインを投入した。いきなり天 和をあがられてゲームオーバーになった。セクシーポーズの女の子のCGにさんざん馬鹿にされてから店を出た。





       2

 次の日から僕も午後の授業を無視して、その小屋で過ごすことにした。昼休みに購買部で総菜パン二つと紙パック入りの甘ったるい山崎コーヒー500mlを 買って、小屋で猫と差し向かいで食べる。ツルゲーネフはなし。ストローで紙パックの中のコーヒーに息を吹き込んで泡立てながら予鈴を聞き、ベッドに寝転 がって水谷さんの匂いを嗅ぎながら本鈴を聞く。
 水谷さんは、だいたい五時限目の授業時間中に小屋にやってくる。たまに六時限目まで来ないこともあるけれど、二時までには顔を出す。そしていつも体操着 を着ている。
「有沢くんて卒業できないんじゃないの、出席日数足りないでしょ」
「そしたら中退してここに住むよ。水谷さんも足りてないだろ」
「あたしはいいの。最初だけ顔出しておけば出席にしてくれる先生多いから。ここに住むならエアコンほしいな。買って買って」
「電気通ってないじゃん」
 そんな親切な教師がいるのか、と僕は思う。聞いたことがない。
「でもたしかに寒いなここは。毛糸の手袋とか欲しくなる」
「有沢くんはいつもそのかっこだからだよ、寒いの当たり前だよ」
 ブルマに言われたくはなかった。
 水谷さんは僕のコーヒーを勝手に飲む。紅色の唇にストローが触れるのを見て僕はまた勃起する。今度、このベッドでマスターベーションしてやろうかと少し 考えた。猫の目の前で陰茎を必死にしごいていると、戸が開いて水谷さん登場。僕のペニスはさらに硬くなった。
「あたしもほんとは大学行きたいんだけどね。でも、たぶんパパが行かせてくれないと思う」
「花嫁修業か」
「しかも結婚もさせてくれないよ、たぶん。あはは」
「パパと結婚しろよ」
 パパ、という言葉が自分の口から出てくるのを聞いて僕はぞっとする。
「そうだね。いいね。そうするかも」
 水谷さんは僕の隣に仰向けに転がる。ジンタがその脇腹に身をすり寄せる。
「大学行ったっていいことなにもないだろ。テレビで言ってたよ、バブルが崩壊したんだってさ。この先日本はもう落ちてくばっかりだって。プータローになる よ。ギター一本抱えて石油タンカーに密航して外国行って貧乏暮らししようかな」
 水谷さんは眠っていた。ジンタだけがむっくりと顔を持ち上げ、耳をぴくぴく動かして僕の顔を見ていた。僕は二人に毛布をかぶせると、ベッドからおりた。 どこかに行きたかったけれど、財布は空っぽで、船のあてもなく、ギターも持っていなかった。
 翌週の木曜日に、僕は水谷さんの言う『予約』なるものにやっと遭遇した。いつものように竹藪に踏み込んでいこうとすると、小屋の壁際にもさもさした黒い 影がうずくまっていた。ジンタだった。出入り口の穴の前で毛繕いをしていたジンタは、僕をみとめると小さく短く鳴いた。僕は透過性皆無のガラス窓の中に目 を凝らした。水谷さんの、吐息混じりの声が聞こえてきた。それからベッドの軋み。一瞬、間違えたのかと思った。なにを? 人生を? 僕は丸めて捨てられた カシミアのコートみたいなジンタの身体を抱き上げると、『いっぱつ必中』Tシャツの腹に押し込んで、四本固まって生えている竹の間に尻を埋めた。暴れてい たジンタはじきにおとなしくなり、小屋の中からの音がはっきり聞こえるようになった。押し殺した水谷さんの声。どれほどたったのかわからない。やがて、も う一人のぼそぼそいう声も聞こえてきた。声が低い。男だ、と思った。人の出てくる気配がしたので、僕は猫を腹に押しつけたままそっと立ち上がって小屋の右 手裏に回った。そっと顔を出してのぞくと、小屋の戸から出てくる背の高い人影が見えた。うちの高校の制服を着ていた。とっさに確かめた上履きの色は緑、三 年生だった。
 僕は小屋の壁と竹の間に身体をねじ込んで、じっとしていた。手から力が抜けてしまい、猫はシャツから這い出てどこかへ行ってしまった。やがて、後頭部に かすかに、歌が聞こえた。水谷さんが歌っているのだ。かすれていて歌詞までは聞き取れなかったけれど、その旋律には聞き憶えがあった。ザ・クラッシュの 『ロンドン・コーリング』だった。すでに日が沈んでいた。僕は足音を立てないようにそっと竹藪を離れた。
 翌日、四時限目からさぼってプレハブ小屋に行き、ベッドの上を這い回った。何本かの体毛とシーツの染みを発見した。馬鹿じゃないのかと思ったが、そうせ ずにはいられなかった。ジンタは丸テーブルの真ん中に陣取って、季節はずれの蜻蛉の羽みたいにひげをゆっくり上下に動かしながら、僕のことを不思議そうな 目で眺めていた。
 一時半ごろにやってきた水谷さんに、僕は「ねえ、ザ・クラッシュ好きなの? 僕も好きなんだ」と、これ以上は考えつけないほどのさりげない質問をいきな りぶつけてみた。彼女は入り口のところで一瞬だけ固まり、いくぶん乱暴な手つきで戸を閉めてから、「ダメな日って言ったのに」とうつむいてつぶやいた。
 ああ、これか、と僕は思った。こうやって僕は壊してしまうのだ。他のだれでもない、僕自身の足が、砂場の城を踏みつぶして水路を埋めてしまうのだ。もう ここに来るのはやめよう。どうせ水谷さんの太ももを見るためだけに足を運んでいたのだ。けれど水谷さんは僕の隣にやってきて、ほとんど二の腕どうしが触れ あいそうな近くに腰を下ろすので、僕は立ち上がれなくなる。
「パパがくれたの」と水谷さんは言った。
「レコード。『ロンドン・コーリング』。ほんとは捨てようと思ってたみたいなんだけど、どうしてもって言ってもらったの。あたしね、レコードのかけ方知ら なかったから、いつもパパにやってもらってた。そのときはパパ優しいの。それでね、中学生くらいまでは、あの曲ってふるさとを想う優しい歌なのかと勘違い してた。ロンドンが呼んでるから帰ろう、みたいな」
 あの軽快でもの悲しいカッティングギターのリフやインディアンの戦いの踊りのようなメロディから、水谷さんが一体どうやって望郷の念を感じ取ったのか、 僕には見当もつかなかった。あれは革命の歌だ。世界中の下水道や地下鉄やスラムや牢獄の暗闇に潜んでいる戦士達を、声ならぬ声で召集する魔都の讃歌だ。
「優しいふるさとがどこかにあればいいのにね」
 水谷さんはそう言って猫を手招きした。ジンタはテーブルを蹴ってひらりと彼女の太ももに飛び乗った。
「だれも邪魔しなくて、好きなだけ眠れて、あったかくて」
「僕が今、出てったら、ここがそうなるんじゃないかな」
 水谷さんは僕の顔を、さっきのジンタと同じように不思議そうな目で見た。それから笑う。彼女の手が伸びて僕の頬に触れた。冷たかった。首筋から顎にかけ てをなでられながら、僕は不意に自分がいる場所がどこなのかわからなくなった。見渡す限り遮るもののなにもない草原の真ん中に、彼女と猫と僕と三人だけで 座っているみたいな気がした。
 でも水谷さんは次の日の午後、小屋のベッドの上で後ろから男に挿し貫かれて喘いでいた。僕はジンタを抱えたまま、ほんの数ミリだけ小屋の戸を開いて中を 覗いてみたのだ。相手の男は、その日は僕と同学年だった。名前は知らないけれど、顔は見たことがあった。水谷さんは四つん這いになり、ブルマを膝までおろ していた。痛々しいほどに細い腰があらわになっていて、男のペニスが股間に出入りしているところまでしっかり見えた。粘膜の湿った音が聞こえるのはアダル トビデオの過剰演出なのだなとその日僕ははじめて知った。水谷さんの痛ましい声と、太ももがぶつかり合う音しか聞こえなかった。「あ。あ、あ、出る、出る よ」男が口走って、やがて水谷さんの身体を背中から抱きしめて崩れ落ちた。体操着が胸元までまくれあがり、脇腹が見えた。そこには、まるで焼き肉の網を押 し当てたみたいに赤黒い傷跡が無数についていた。僕は走って逃げた。
 金曜日は時間をずらして合計三人もの相手をしていた。昼間からやってきていた肥満体の三年生は、水谷さんに三十秒くらいペニスをしゃぶられただけで射精 してしまい、顔を真っ赤にしてふうふう息をつきながら、ごめんね早くてごめんねと繰り返していた。次の男は、見た顔だなと思ったらハンドボール部の前の部 長だった。僕は入学してすぐに一ヶ月だけ体験入部して、そいつと諍いを起こして退部した経験があったのだ。そいつは水谷さんに尻の穴を舐めさせながら、怒 張したペニスを手でしごかせていた。飛び出した精液は見事な放物線を描いてロッカーの戸にかかった。さすがハンドボール部の元エースストライカーだ。三人 目は、驚いたことに物理学教師の北山だった。授業中すぐに脱線して女房の話をし始めるのでコロンボと異名をとる、髭の剃り跡が青々しくて不気味な四十男 だった。水谷さんはブルマを履いたままコロンボにまたがって腰を八の字にくねらせていた。横にずらしたブルマの股間に突き刺さっているコロンボのペニスは 手首くらいの太さがあって僕は吐きそうになりながらもひどく興奮した。なぜ僕がそんなに詳しく観察できたのかというと、小屋の右手裏のひときわ竹が密集し ているあたりに、のぞきに最適な壁の破れ目を見つけたからだった。コロンボが体操着をたくし上げて水谷さんの胸を揉み始めたので、あの傷跡が背中にも広 がっているのがはっきり見えた。僕は家に帰って三回マスターベーションしたがそれでも勃起はおさまらなかった。
「F組の水谷? ああ、うん。売りやってる、あれ」
そう教えてくれたのは堂島だった。ハンドボール部の現エースで色が黒くて父親が警察のお偉いさんで二年生の冬にして推薦が決まっているとの噂もあるハイス ペック男だが、僕とは中学のときからの腐れ縁で、高校に入ってまで同じクラスで席も近い。帰宅部以外頭になかった僕が体験入部なんて目に遭ったのはもちろ んこいつに誘われたせいである。
「うちの部でもやったやつけっこういるらしいよ。胸でかいんだってさ」
「ここだけの話だけど物理の北山もやってるよ」
「なんでおまえそんなん知ってんの」
「えー、と、におい? ブルマ好きそうな」
「なんでブルマでやってるって知ってんの」
 墓穴を掘った僕は堂島に全部話した。マスターベーションの回数以外は全部だ。僕たちはそのとき駅のプラットフォームの椅子に並んで座って各駅停車を待っ ていた。堂島の部活が終わるまで待っていたので時計は八時を回っていて、吹きさらしのフォームはひどく寒かった。
「水谷、父子家庭でさ。父親に虐待されてるって話もあったけど、ほんとかね」と堂島は言う。
「詳しいね」
「近所の人が、一度、署に来たらしいんだよ。で、親父が、俺と同じ高校だから、それとなく学校での様子とかを訊いてきた」
「身体は傷だらけだったけど。腹も背中も」
「なんだよひょっとしておまえもやったの? 童貞卒業おめでとう。ビールでも買って飲むか」
 僕は堂島の頭を叩いた。
「やってないよ。見てただけ」
「おまえそれ、ただの危ないやつだよ」
 それはそうかもしれない。僕は、小屋の壁の穴から情事を覗き見している十七歳男の姿を想像してみた。ちょうど電車がやってくるアナウンスがあり、線路に 飛び降りようかと一瞬思った。
「でもさ、堂島なら見るの我慢できる?」
「できないな」
「だろ」
「見るだけも我慢できないな」
「死ねマネージャー食い」
「マネージャーだけ食ってるわけじゃないぞ」
「もっと死ね」
 しかし各駅停車はすでに停まってしまってドアが開いたところだった。
 週明けの月曜日、小屋の戸を開くと、珍しく水谷さんが先に来ていた。ベッドの上で振り向き、持っていた鋏をテーブルの上に投げ出すと、「あ、有沢くん」 と手を振る。なんで僕はまた来てしまったのだろう、と思いながら、鞄をロッカーの上に投げた。ベッドに腰掛けると、足の間から猫が顔を出した。
「あのね。月曜日と水曜日は予約入れないことにしたから」
 僕はジンタを抱き上げてテーブルの上に放り投げてから、水谷さんの顔を見た。
「今、なんか言った?」
「月水は予約入れないから、安心して来ていいよ」
 安心して、だって? 僕は唐突に腹が立ち始めた。安心とはどういうことだ。僕がまるで、水谷さんと他の男とのセックスを覗き見て不安やいらだちでいっぱ いになっているみたいじゃないか。なんで水谷さんにそんなことがわかるというのか。なんでそんなことを言う権利があるのか。ひょっとして月水は僕とセック スする日に決めたということか。安く見られたものだ。そうなら今すぐ僕の目の前でそのブルマをパンツごとおろして尻をこっちに向けろ。僕の怒りは勃起と同 じだけ続いた。その間僕は一言も口を利かなかった。水谷さんは指に包帯を巻いたりほどいたりを何度も繰り返した後、鋏をまた取り上げて、包帯を二センチく らいの幅に切り刻み始めた。鋏の刃に黒ずんだ染みがついていた。ベッドの上に、汚れた布片が山をつくった。
「いくら、なの?」
 そんな言葉が僕の口から出た。
 頬に水谷さんの視線を感じた。僕はジンタの背中のうねりをじっと見つめていた。テーブルの上にある鋏が増えているのに僕はこのときようやく気づいた。裁 ち鋏、園芸用の小さい枝切り鋏、料理用の鋏。水谷さんが立ち上がり、ロッカーからなにかを取り出して戻ってきた。僕の隣にまた腰を下ろすと、一枚の藁半紙 を差し出す。サインペンで、こんなことが書かれていた。
 手 \4000
 口 \8000
 股 \10000
 本 \18000
「こうやって書かれると萎えるね」と僕は言った。
「そう? これ見て興奮しちゃうって人もいるみたいだよ」
 それは僕のことだ。アナル舐めと手コキの複合技は一体いくらの会計になるんだろう、そのへんはフレキシブルなのだろうか、と僕は思った。藁半紙を二つに 破り、重ねてまた二つに破り、それを重ねてまた二つに破り、二つに破り、二つに破り、床にばらまいて僕は立ち上がった。
「有沢くん?」
 ロッカーの上から鞄を取ると、小屋を出た。
 潮時だった。





       3

 小屋に行かなくなってから水曜日と月曜日が二度ずつ過ぎた。校内でも水谷さんを見かけることはなかった。音楽の授業でも僕の三つ後ろの席は空席だった。
「授業に出てないだけで、商売はしてるみたい」と堂島は親切に教えてくれた。
「で、おまえらどういう関係なの? 俺にもいまいちよくわからないんだけど」
 僕にもわからなかった。
「堂島ってビリヤードやる?」
「たまに。女と二人だけのときとかは」
「死ね。ナインボールはやる?」
「あれは難しいから四ツ玉だけ」
「ブレイクショットで、こう、球がぱーっと散るよね。でも真ん中へんに残っちゃう球もあるでしょ。あの球の気持って、どんなもんだろうね」
 堂島は山葵巻きをそれと知らずに食べたときみたいな顔をして僕を見た。昼休み始まってすぐに教室を出ていった堂島は、しばらくして戻ってくると僕に小さ な紙片を差し出した。出張ヘルスのピンクビラだった。電話ボックスからでも剥がして持ってきたのだろう。
「いいから抜いて正気に戻れ」
 余計なお世話だった。
 あの月曜日以来、校舎一階の端の階段裏で昼を食べることにしていた。ひとりになれるし、晴れていても曇っていても雨が降っていても、変わらず埃っぽくて 薄暗いからだ。金具や材木が痛んでしまって廃棄されることになっている机や椅子が重ねて並べられていて、その間に入り込むとまずだれにも見つからない。僕 は床にべったり腰を下ろして壁に背をもたれ、ピザパンと焼きそばパンをぬるい山崎コーヒーで胃袋に流し込みながら、水谷さんの裸身を何度も思い出した。唇 がペニスをしごきたてるところを思い浮かべた。あのとき四千円なら持っていたな、と思ってしまう自分が情けなかった。僕は、けっきょくのところ、彼女に とって一体なんだったのだろう。あの小屋は娼館だったわけだ。僕はそこに土足で上がり込んで、金も払わず彼女に指一本触れずに、猫と、ああそうだ、猫だ、 ことの始まりは猫だ、あの日僕の目の前を黒猫が横切って、僕はそれを追いかけて小屋に入り、ベッドの上で猫を腹の上に乗せて語り合った。そう、ちょうどこ んなふうに。僕は猫の黄緑色の眼をのぞき込む。キウイの断片を思わせる複雑な晶体だった。猫だ。僕の腹の上に、猫が乗っていた。回想ではなく今、現実に、 僕の目の前に。
「おまえ、痩せた?」と僕は訊いてみた。ジンタは眼を細めてひげを震わせた。痩せたというのは印象だけで、腹にのしかかる重量感は以前と変わらなかった。 けれどなにか違和感がある。尻尾だ、としばらくしてから気づいた。いつもはぴんと誇らしく立てていた尻尾が、今は垂れている。それに、細く、短くなってい るような気がする。ジンタは僕の腹の上からおりて机の脚の間を歩き出した。たしかに、短くなっている。そこで僕はぞっとした。小屋にある鋏を思い出したか らだ。水谷さんは鋏をたくさん持っていた。それに、あの傷。あれは自分でつけたものだったとしたら? 僕は立ち上がろうとして、机の隅に頭をぶつけてし まった。ジンタは走り出した。僕はそれを追いかけて渡り廊下に出た。晴れているのに透明な氷の針が地面にびっしり植えられているような寒さで、もう十二月 なのだと気づいた。裏門を抜けたところで、スーツ姿の猫背の中年男とすれ違った。男は僕を見てひどくびっくりした顔をしたが、なにも言わずにそそくさと校 舎に走っていった。教頭だ、と僕は思いだした。なぜあの娼館が露見しないのかわかった。あまりにもこの学校に深く根付きすぎているからだ。あのとろけるよ うに白い太ももが。小屋の手前でジンタに追いついた。壁の穴に青いビニルシートが丸めて突っ込まれてふさがれているのに気づいた。入れないのだ。僕はジン タを抱え上げて裏に回り、戸を開いた。水谷さんはベッドにうつぶせになっていた。ブルマは太ももの中程までおろされていて、体操着は脇腹までまくれあが り、シーツに押しつけられた乳房の横の部分が見えた。白い肌に走る傷は紅潮して浮き上がっているみたいだった。水谷さんは両腕に埋めていた顔を上げた。泣 くかな、と少し期待したけれど、唇を強く噛んだだけだった。僕はけっきょく水谷さんの泣いているところを最後まで一度も見なかったのだ。
「ばか。出てって。こんな格好なんだから見ないで。あ、待って、行かないで」
 下がって戸を閉めようとした僕に水谷さんは支離滅裂な言葉を投げてきた。
「大丈夫、もう服ちゃんとしたから。ちょっとにおいするかもだけど。ジンタも連れてきて、お願い」
 僕は中に入ってジンタをテーブルの上に乗せると、部屋の隅まで行って、ロッカーと大きな段ボール箱の間の床にしゃがみ込んだ。
「なんでそんなとこに座るの? こっち来ていいよ」
 水谷さんはブルマの股間と体操着の胸を片手ずつで隠すようなポーズで、言う。僕は首を振った。先手を取らなければいけない、と思った。だから水谷さんが 再び口を開いたのを見て、「謝るつもりならやめて」と言った。水谷さんの言葉は、僕と彼女と猫が作る三角形の中でしばらくとぐろを巻いた後、冬の陽に照ら された埃の中に溶けて消えた。
「正直に言うと、僕は水谷さんのブルマの尻とか太ももを見に来ていただけなんだ。それから水谷さんがここでセックスしてるのを覗き見して家に帰っておかず にした。料金表見せてもらったとき、『僕ならただでもいい?』なんて訊こうとしてたんだ。そういうやつなんだ。水谷さんが謝ることなんてない」
「有沢くんなら、ただでもいいよ」
 僕の方が泣きそうになった。それはしてはいけないのだ。優しいふるさとがあればいい、と水谷さんは言った、ここがその国だ。僕と水谷さんと猫がいて、肌 の触れ合わない距離をくだらない言葉が埋めている。いつまでも三人がこうして座ったまま時が流れていけばいいと思った。僕は水谷さんの体操着をむしり取っ てブルマをずりおろしてペニスを突き立てて精液を流し込むことだってできる、それは全身に火花が走るほど気持ちいいことかもしれないけれど、あんな行為が 水谷さんを蝕んでいないはずがないのだ。だれが悪い? 一体だれのせいでこんなことになったのだろう。
「あたしもね、正直に言うね」
 水谷さんはベッドから素足を床におろした。
「あのね、あたしね、有沢くんの顔が好きなの、ひげが薄くてすべすべしてるから。体つきも、パパに似てるから。だからね、だから」
 水谷さんが近づいてくる。ジンタがテーブルからおりてその脇をついてくる。三角形が縮んでいく。僕のすぐ目の前に、かがみ込んだ水谷さんの顔がある。
「触っても、いい?」
 自分でも、うなずいたのか、首を振ったのか、わからなかった。水谷さんの手が僕の肩からブレザーを抜き取り、紫シャツを脱がせた。細い指が鎖骨をたど り、胸におりた。声が漏れそうになった。水谷さんの小さな身体が僕の両脚の間に入ってきた。僕の裸の胸に耳を押し当てる。
「ここが、心臓なんだね」
 水谷さんの唇が胸から首筋までのぼってくる。
「ここに、血が流れてるんだね」
 肩に両手を置かれて、それでも僕は指一本動かせなかった。動かしたら、なにをしてしまうかわからなかった。ざらっとした湿り気が僕の肋骨の一本一本を確 かめているのを感じた。水谷さんの舌だった。
「ごめんね」と水谷さんはつぶやいた。謝るなって言ったのに。言葉が僕の堤防に穴をあけた。僕は水谷さんの体操着の裾をつかんで思い切り引っぱった。乳房 がこぼれ落ちた。「あ、待って」と水谷さんが言い、身体中につけられた傷跡が僕の手をとどめた。
 水谷さんは身体を離した。体操着はたくし上げられて、乳房の上に引っかかったままだ。鉄の処女とかいう中世欧州の拷問器具を思い出した。あの中でツイス トダンスを踊ったらこんな傷が残るんじゃないだろうか。水谷さんは服を直した。「ごめんね」とまた言う。
「あのね、あたし脚が人気なの。わかってるの、パパもあたしの脚が好きだって言ってたから。このかっこうするといつも喜んでくれるし」
 どんな父親だよ、と僕は思った。堂島の言葉を思い出す。虐待。父親に。でも僕はなにも訊けなかった。
「パパのお肌、すべすべで綺麗なの、あたしもパパに似たの。だから、ごめん、あたし今、有沢くんにひどいことしてる」
 それから水谷さんは不意に立ち上がった。僕がなにを言う間もなく、小屋を飛び出して行ってしまった。上半身裸のまま、僕は壁際にへたり込んで呆然として いた。やがてチャイムが鳴ったが、それがなにを意味する鉦なのかさっぱりわからなかった。どうやって自分が電車に乗ったのか、どうやって家に戻ったのかも 憶えていなかった。
 僕は自室の布団の中で、だれが悪いのか、だれが僕たちの国を壊そうとしているのかをじっと考え続けた。二度、時計を見た記憶があった。一度目は六時半で 二度目は五時だった。巻き戻ってるじゃないか。というのは気のせいで、一睡もせずに十二時間以上を費やしていただけだった。彼女を買う男達、教師も含めて 一人残らずを殺して回ることを僕は考えた。だれにも彼女をついばみ、搾り取る権利なんてない。でもそれが無駄なのはわかっていた。全員を殺したとしても、 また別のだれかに彼女は身体を売るだろう、なぜってあれはたぶん資金のためだからだ、ここではないどこかへ、優しいふるさとへと旅立つための。では僕にそ の財力があればいいのだ。この非現実的な考えは即座に却下された。あるいは二時間くらい検討したかもしれないが体感の上ではまったく俎上にのぼる間もな かった。
 父親だ、と僕は結論づけた。水谷さんをつなぎ止めているもの、手枷、足枷、首輪、杭、縄、手錠、父親を取り除くしかない。彼女が大好きだと自分を偽って いる父親を。
 三度目に時計を見上げたとき、十時過ぎだった。長年の習慣が、学校に遅刻する、という恐怖を生み出して僕の身体を引きつらせた。カレンダーが僕を正気に 引き戻した。日曜日だ。もうとっくに夜が明けている。母が心配して僕の部屋にやってきた、それを押しのけて階下に駆けおりると、堂島に電話をかけた。
「F組に知り合いいない?」
「いるけど」堂島の声は眠そうだった。
「水谷さんの住所が知りたいんだ」
「おまえなに考えてんの?」
「いいから。お願い。頼む。なんでもおごるから」
 背後で、母がまたなにか小言をいっていたが無視した。堂島は電話口の向こうでしばらく沈黙していたが、やがて「なんか怖いな。まあいいや、十分したらま たかける」と言った。さすがにつき合いが長いとわかってしまうらしい。十分後、僕は堂島から聞いた住所をメモすると、物置から金属バットを持ち出して自転 車に乗った。バットを強く握りしめてみた。爪が手のひらに食い込むほどに。それでも僕を動かしている怒りは消えなかった。本物だ。
「ちょっとあんた出かけるの? 朝ご飯は?」母が玄関口から怒鳴った。
「要らない」
 僕は強くペダルを踏み込んだ。目に映るすべてが黄緑がかっていた。坂道の脇の畑、吼える犬、カーブミラー、つつじの植え込み、工事現場に群れる車両。陽 を浴びてとげとげしく光っている。今さらのように僕は、制服のスラックスの上に『いっぱつ必中』Tシャツ一枚なのに気づいた。冷たい風を含んでシャツは膨 らみ、鳥肌が立った。坂の多い道のりで片手運転は危ないので、僕はバットをシャツの襟から背中に突っ込んだ。空気とは異質なその冷たさで、僕は目を覚ま す。走っている、僕は隣の市にある水谷さんの家に向かって走ってる。彼女の家に入り込んで、父親をバットで殴り殺すのだ。僕にできることは、この行き止ま りから抜け出すためにできることは、もうそれしか残っていない。赤信号を突っ切って上り坂に入る。ギア抜けが激しくなる。頭蓋骨がへこむ手応えはどんなも のだろう。僕とよく似てひげが薄くすべすべしているというその男の肌は、流れ出した血と脳漿でどんな色に染まるだろう。市境を示す標識が僕の頭上を通り過 ぎた。高台のサイクリングロードに出る。開けた場所ではいっそう風が鋭い。バットがずり落ちないように背中を屈めて漕いだ。何度も、何度も僕は見たことも ない男の頭にバットを振り下ろした。西瓜割りみたいに。砕ける骨、飛び出る眼球。斜めになった砂利道を滑り下りて、似通った建て売り住宅ばかりの並ぶ街に 入る。電柱の住所表記に目を凝らす。もう近くだ。水谷さんの家はすぐそこだ。八丁目。七丁目。五丁目。十字路の筋向かいが六丁目。このどこかの家だ。
 でも僕の足は不意に止まった。自転車から投げ出され、つんのめって歩道の植え込みに突っ込んだ。倒れた自転車の前輪は春の雨だれをつなげて細く引き伸ば したような音をたてて空回りした。それでも、水谷さんは僕に気づかなかった。水谷さんと腕を組んでいる隣の男も、気づかなかった。二人はひとつ向こうの十 字路をちょうど横切るところだった。体操着でもブルマでもなくジーンズスカートと黒いオーバーニーソックスにミッキーマウス柄のジャンバーを着た水谷さん は、僕が一度も見たことのない笑顔を浮かべて、男の腕にしがみついてふわふわした足取りで歩いていた。男は背が高くて、眼鏡をかけていて、水谷さんと同じ ように肌が白かった。ひげの剃り跡すら見えない顔なのでひどく若く見えた。なるほど僕に似ているかもしれない、とその横顔を見ながら、ひどく冷静に考え た。
 バットが背中から滑り落ちてアスファルトに転がり虚ろな音をたてた。二人は家並みの影に姿を消していた。
 手足が急速に冷えていくのがわかった。優しいふるさと。『ロンドン・コーリング』。すさまじい空腹感が僕を襲った。どこに行けばいいのだろう、と僕は 思った。自転車の前輪はまだ回り続けていた。眠れる森の美女を刺した糸車みたいに。どこへ帰ればいいのだろう。竹藪の中のプレハブ小屋が思い浮かんだ。そ こには黒猫のジンタがいるだろう。でも水谷さんはいない。全部嘘だったのだろうか、どこからどこまで? ジンタの存在さえも? 僕は植え込みの中に埋まり ながら冬空を仰いだ。
 家に帰ろう、と、しばらくしてから思った。





       4

 刺殺された水谷さんの父親の顔には、黒い猫の毛が接着剤でたっぷり貼りつけられていた、と堂島は僕に教えてくれた。
「親父がこっそり漏らした話だから、だれにも言うなよ」
 僕は二年E組の教室の窓から中庭の日溜まりをぼんやり眺めながらうなずいた。毛を貼りつけた理由について水谷さんは「父親の、毛の薄い顔が好きだったか ら、殺すためには毛が必要だった」と語っているという。僕はあの小屋のテーブルで今も僕たちを待っているかもしれないジンタのことを考えた。自分の尻尾の 毛がなにに使われるのか、彼は知っていたのだろうか。
「鋏で、こう、頸動脈をスパっと。それから、心臓を、こう。肋骨の間に無理やり突っ込んで」
 殺され方についても堂島は詳しく解説してくれた。だいたい僕の想像通りだった。実際に殺す段になって、イメージトレーニングは役に立ったのだろうか、と 僕は思った。僕の方がだいぶ背は低かったのだけれど。
 教師が教室に入ってきた。本鈴はまだだったが、午後の授業がもう始まるらしい。その女性教師は新任だった。あれから、水谷さんにまつわる売買春が大々的 に露見し、教頭を含む男性教員八名が退職、生徒十三名が退学処分という長いナイフの夜になったのだ。あの小屋にしょっちゅう出入りしていた僕がこうして学 校にいられるのが、予約リストに載っていなかったからなのか、それとも水谷さんが名前を出さなかったからなのか、それは今でもわからないし、僕自身にとっ てもどうでもいいことだった。水谷さんは父親がほんとうに好きだったのだ。幼い頃から家に閉じこめられてたったひとりの肉親に虐待され続けた子供は、暴力 を受けないためにその親に気に入られよう、怒らせないようにしよう、愛されるようにしよう、と努力することだけに一心になり、やがてそれが愛情に発展する のだと堂島は受け売りの知識を披露してくれた。父親もまた水谷さんの太ももに魅入られたのだろう。家でもいつも体操着にブルマを着せて後ろから姦していた そうだから。週刊誌が書き立てているように、それを歪んだ偽りの愛情だと断じることは僕にはできなかった。だって、それじゃ僕があまりに哀しすぎる。嘘の 想い人の、さらに代用品だとしたら。
 水谷さんのその後を、僕は知らない。堂島から訊こうと思えば訊けただろう。でも知りたいと思わなかった。彼女がもうここに戻ってこないであろうことを僕 は不思議と確信していたし、実際にその通りだった。
 冬休みになり、僕はようやくあのプレハブ小屋に行ってみた。考えてみればひどい記憶しかない場所で、足を向ける決心をつけるのに一ヶ月かかった。猫の姿 は竹藪のどこにもなかった。戸を開くと、中はひどく閑散としていた。ベッドも丸テーブルも消えていた。警察が運び出してしまったのかもしれない。壁際に ロッカーと段ボール箱だけが押しつけてあった。窓ガラスからざらざらになった陽が差し込んで床に平行四辺形の光を落としていた。
 段ボール箱? と僕は思った。記憶にない。いや、あの最後の日、水谷さんがはじめて僕の肌に触れた日には、そこにあった気がする。近づき、ガムテープを 剥がして、箱を開いてみた。パステルカラーのロゴがいきなり目に入った。背を丸めてギターを振り上げている男のモノクロ写真のジャケット。『ロンドン・ コーリング』のLP盤だ。レコードを取り上げると、その下には実に色んなものが詰まっていた。下着。男物と女物、両方ある。電気ポット。電気も通っていな いのに。それからカップラーメンが一ダース。キャットフードの缶詰はもっとたくさん。毛糸の手袋も二組、入っていた。白い方には『MIZ』、紫色の方には 『ARI』という文字が刺繍してあった。僕はそれを見てほとんど泣き出しそうになった。
 優しいふるさと、と思った。水谷さんは、ほんとうにそこに行くつもりだったのだ。僕があの日、僕が、僕の手で、彼女のかわりに、父親をバットで殴り殺す べきだった。そうして彼女とジンタを連れて、どこかへ、どこか遠くへ、どこへ? どこへ行けばよかった?
 カップラーメンのビニルの上に、滴がぱたり、と落ちた。僕の涙だった。
 もうここには水谷さんはいない。猫もいない。
 僕は埃っぽい床に楽園の部品をひとつひとつ並べていき、並べ終わるとその真ん中にしゃがみ込んだ。歌が聞こえたような気がした。陽がすっかり沈んでしま うまで僕はそこに座っていた。



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