| ターミネーター2:世紀の駄作 「ターミナル」と言う言葉には「最後の」「行き止まりの」といった様な意味があるらしい。「終末医療」などもこの表現を使うという。 とある大のアメリカ嫌いの(といっても日本の“進歩的文化人”の方々はほぼ100%アメリカ嫌いだが)ニュースキャスターは、日本人が考えなしに英語にかぶれて始発駅(行き止まりね)を「ターミナル・ステーション」などと読んでいた例の間抜けさをあげつらって「いい気味だ」と評した。 ニュース番組でここまで直情的な表現をするというのも異様な感じであるが、ともあれ「ターミネート」というのは余りいい意味では無いらしい。 その何よりの証拠が、悪の化身「ターミネーター」(抹殺者)である。 字幕では「終わらせるもの」と訳されていた。なるほど言葉のシンプルな響きといい、実に“絵になる”タイトルではないか。 実は1984年製作(公開は1985年)、ジェームス・キャメロン監督の映画「ターミネーター」は筆者の生涯ベスト1映画である。そのよさはこの程度の長さの原稿では到底語りきれない。 しかし、「ターミネーター2」は生涯ワースト1では無いにしろ最悪の映画だった。ここは「2」に対比させて書いた方が問題が分かりやすくなると思ってこちらを取り上げさせていただく。 「アーノルドはもう既に文化的なアイコンなんだ」と評したのは映画「エンド・オブ・デイズ」で“悪魔”を演じる栄誉にあやかった俳優のガブリエル・バーンだが、「ターミネーター」もまた文化的アイコンの域に達している。これこそ映画そのものを観たことは無くても、そこから派生した文化は広く親しまれていると言っていいだろう。 岩みたいな筋肉男のちりちりの角刈りにサングラス、というまさにこの映画でシュワルツェネガーがした風貌は「ドラゴンボール」のメタリック軍曹の例を引くまでも無くあちこちでパクられまくった。 それまでその筋肉しかウリが無く、「競演した馬の方が演技が上手い」などと酷評されていたシュワルツェネガーは台詞が6つしか無い殺人マシンの訳でまさに大ブレイクを果たし、あれだけ沢山の映画に主演していながら結局は「ターミネーターの」シュワルツェネガーとして認識されている。 「ターミネーター」は確かにその気になればつっこむポイントは多い映画である。 何より、一応隠密行動をしなくてはならないはずのターミネーターがあの無茶苦茶に目立つ大男の格好をしているのだからこれだけでも既に破綻している。いかなアメリカとて、ミスター・ユニバースが歩いていれば目立つだろうに。 そして日本人にはよく分からないのだが、酷いオーストリア訛りが残っているらしく、非常に不自然であるという。 だが、結局これがいい方に作用した。 映画を観れば分かるとおり、あの殺人マシンに台詞など必要ない。無言で淡々と任務を遂行するその姿は逆説的なユーモアすら漂っている。 道端に止めてある車の窓を全く無表情で叩き割り、直結して走り出す。公衆電話で話している男を片腕で放り投げて自分が使い始める。 序盤はその傍若無人ぶりにニヤニヤしているだけだが、これが定番化し始めるともう爆笑ポイントとなる。 日本人には馴染みの無い「ブラック・ユーモア」という奴なのだろう。 忘れてはならないのは、この映画で彼がブレイクしたのはこの「悪の華」を演じきったことによるのだ。もしも当初の予定通りにマイケル・ビーンが演じたカイル・リースの役を演じていたらこの映画自体が忘れ去られていたに違いない。「ターミネーター」を演じるために生まれてきた様な男にあんな繊細な役を演じられるものか。 どれだけ撃たれても爆発に巻き込まれてものっそりと起き上がってくる“究極のタフガイ”は悪役であれ、いや悪役だからこそのたまらない魅力にあふれている。 結果的にヒロインは偶然の積み重ねで何とか命を拾うことが出来るのだが、印象に残るのはその敵役「ターミネーター」の凄まじい強さと執念深さなのである。 観客もまた、ヒロインであるサラ・コナーと同様最後に生き残ったにも関わらずまさに放心の呈となってしまうのだった。 当時小学生だった筆者はその余りの迫力、秒単位で考え抜かれたアクション、「絵」を使う映像作品ならではの演出、その奥深い世界観、そして何より予算不足のB級映画を“知恵と工夫”で一級のエンターテインメントにしてしまう手腕と演出力に完全に魅了されてしまった。 それも道理で、監督のジェームス・キャメロンはあの「B級映画の帝王」(ヤな帝王だねしかし)ことロジャー・コーマンの元で貧乏映画の修行を積んだ特撮畑出身の異色監督だったのだ。脚本家上がりとか、最初から演出志望だった監督は多いが、特撮技術者出身というのは珍しい。 しかし、手足の様に“特撮”を使いこなすあの手腕も経験者ならば「なるほど」というところであろう。 であるから、筆者は自分で勝手に「ターミネーター」の続編の小説を執筆したりとこの世界に存分に浸っていた。 その間にもキャメロン監督は「ランボー2」の脚本を執筆し、当時は「まず成功しない」と言われていた続編映画「エイリアン2」を大ヒットに導いていた。「羊たちの沈黙」が作品賞を受賞したりして、最近はエンターテインメント映画にも敷居が低くなったアカデミー賞だが、この頃は「B級映画など映画ではない」という雰囲気だった。その中にあって「エイリアン2」は堂々の作品賞ノミネートを果たしている。勿論受賞は逃すのだが、これは画期的と言っていい出来事だった。 そもそも長編デビューの「殺人魚フライング・キラー」にしても原題は「ピラニア2」なのである。正に「続編を作らせればキャメロン」状態だったのだ。 そこで満を持して登場した「ターミネーター2」! 期待するなと言うほうがどうかしている。 とは言うものの、実は公開前から何ともいえない“嫌な予感”を感じさせるニュースがちょくちょく入ってきていた。 まずは「史上最高額の製作予算」だった。 この手の惹句を掲げた映画が面白かった試しは無いのだ。そもそも全く予算の無いところを知恵と工夫で何とかしてきたのが真骨頂の監督である。「王立宇宙軍」を製作したGAINAXや“日本の誇る”スタジオジブリなど、貧乏映画ながら力作・傑作を作ってきたスタッフがお金を持たされた途端につまらなくなるのはよくある話である。 一抹の不安がよぎった。 公開前の嫌な予感のもう一つは、ストーリー設定が二転三転するところだった。 覚えていらっしゃる方がどれだけいるか分からないが、この映画は公開前には徹底的に情報が伏せられていた。スタッフとして関わった人間によると、契約書には公衆トイレでこの映画の事を想像する事すら禁止されているほど厳しいものだったらしい。 これは「エイリアン2」の時に現場から持ち出された脚本が出版社に持ち込まれ、公開寸前に小説になって売り出されてしまったという事件が反省材料になっているらしかった。 だが、それでも少しは情報を出さなくては逆効果だ。 仕方なく僅かずつ露出するのだが、これが今では首をひねらざるを得ないものが多い。 ジム・キャメロン監督の個人的な友人の小峰隆夫氏がこの映画に出演している。ゲームセンターの裏口から廊下に出て最初の銃撃戦が行われる時に巻き添えを食って死ぬ細身の通行人が小峰氏である(分かるかな?)。 だが、筆者が最初に読んだ情報では「核戦争後の施設に立ち寄ったところを射殺される」という役どころだったらしい。 余りにも実際に出来上がった映画とはかけ離れている。 勿論、「だからいかん」という訳ではない。だが、こんな基本的な設定が二転三転するというのは直前まで相当シナリオが難儀していた証拠なのではないか?そう勘繰ってしまうのである。 そして最大の問題は「シュワルツェネガー演じるターミネーターは今度は“正義の味方”である」という情報だった。 はっきり言ってこの時点でこの映画の成功にはかなりの疑問符が付いた。そんな映画じゃないだろう「ターミネーター」は。 名前と設定だけを借りて素人が考えた同人誌に載せるオリジナル小説じゃないんだから、一番大事な部分を反転させるなんて何がどうなっているのか。 そして実際に観た・・・。 家族で観に行ったのだが、終わった後には誰一人言葉を発しなかった。茫然自失で絶望の呈だったのである。 誰とはともなくポツリと言った。 「やっぱり続編は駄目だ・・・」 この感慨はどうも我が家に特有の現象らしい。 殆どの観客はこの“世紀の駄作”に拍手喝さいを送っていた。 劇場で(見る前に)購入したパンフレットにも「これでもか」と言うほどの賛辞が並んでいる。 “本気か?”と思った。 まあ、まさか劇場で販売するパンフレットに悪口は書くまいが、それにしてもこんな駄作をどういう心理で褒めるのか。 もしも筆者が映画ライターで、このパンフレットに推薦文を寄せることの出来る立場だったとしたら試写が終わった段階で丁重にお断りさせてもらうと思う。いくら商売でもそこまで魂を売れない。 実際、これほどの“大作”でありながら全米ランキングではたったの4週間トップを維持しただけで後は坂を転がるように滑り落ちて行った。劇場公開作品の本数そのものが増えてきた最近では4週トップというのはかなりのスコアだが、この当時はちょっとヒットした作品なら10週近いトップは当たり前だった。みんなこの「新記録更新」すら期待していたのだが、たったの4週で滑り落ちてしまったのだ。確かに記録そのものは凄いのだが、“この程度か”という感じだった。3割5分が当たり前のイチローが3割しか打たなかったみたいな感慨である。観客も見るべきところはみているということなのか。 筆者の基本的なスタンスは「ヒットしているものは認める」ということだ。それは「評価する」という意味と同一ではない。“現象として分析するに値すると認める”という意味である。だから「マトリックス」にしろ「ハリー・ポッター」にしろ個人的にはむしろどうでもいいのだが、あそこまで受けているからには理由があるのだろうという意味で見せてもらった。 だが、この「ターミネーター2」に関してはどうしても是認出来ない。監督自らが世紀の傑作であった「ターミネーター」を貶めてしまったこの悲劇を解体させて頂こう。 実は映画ファンになればなるほど、映画を数多く観れば観るほど「生涯ベスト1映画」というのは選出しにくくなる。どの映画にもそれなりの魅力はあるし、素晴らしい映画も数多い。そしてその魅力のベクトルが異なる作品は単純には比較が出来ないので、優劣をつける意味が無いのである。 例えるならカレーとラーメンの美味しさを競っている様なもので、全くもって“不毛”である。どちらもそれぞれの美味しさがあるとしか言えない。 そして「けなす」ことは簡単である上に、何となく「賢そう」に見えるのである。反対に「褒める」行為は作品にもよるが馬鹿みたいに見えることが往々にしてある。 結果として「誰でもわかる面白さ」のB級映画をけなし、何だかちっとも分からないが格調高そうなA級映画(爆失笑)を褒める、という典型的な「映画評論家」が出来上がる。筆者の一番軽蔑するタイプの人種である。 「○○が好きです」というのは、言い換えれば「私はそういう価値観を持った人間ですよ」という宣言に等しい。それは簡単に表明は出来ないであろう。試しに映画評論を飯の種にしている人に「一番好きな映画は?」と聞いてみるといい。恐らく非常に不愉快そうに回答を拒否されると思う。それは「あなたはどういう人ですか?」と聞いているようなものだからだ。映画なんてそれほど人生の中で重きを置いていない人ならすんなり答えられるかも知れないが、映画こそがアイデンティティである人に対するその問いは非常に失礼なものなのだ。 ただ、私に言わせればそれは「覚悟」が足らないと思う。 映画の本数ばかりは矢鱈沢山観たけども、確固とした自分なりの映画評論スタンスも無く、何となく“名作”とされている映画を追随して褒めているだけの人間にはそれは軽々に断言できないだろう。とりあえず選ぶ前にキネマ旬報でも参照させてくれ、なんて言うのではないか? 筆者は方々で「ターミネーター」を「生涯ベスト1映画」と吹聴しているのだが、これはある意味で文化的な自殺みたいなものである。 あんな貧乏臭いバイオレンスなB級映画が生涯ベスト1だって?“いい映画”なんてまるで観たことの無い貧しい人生なんだな。可哀想に。まさか他に映画を沢山みていて尚「ターミネーター」なの?信じられない・・・。 断言するが、それでも尚「ターミネーター」である。 あそこにはアクション映画、エンターテインメントに必要な要素が殆ど全て詰まっている。今後アクション映画を撮ろうとする人間がいるとしたらまず「ターミネーター」を最低3回は見なくてはならない。 実際「アクション映画のお手本」として多くの映画入門書で取り上げられているらしいし、「オタク評論家」オタキングこと岡田斗司夫氏の「オタク学入門」にもかなりの頁を裂いて解説が施されている。 一番のメリットは、その構造の極限まで追及された「単純さ」にある。 「ターミネーターとはどんな映画ですか?」との問への答えは至極簡単である。 「追いかけっこ」である。 冒頭で街頭に出現する謎の大男。こいつは一体何者なのか? 傍若無人な振る舞いを繰り返すものの、どうやら「サラ・コナー」を殺そうとしていることだけは分かる。 分かるのはこれだけで、その男の正体もその動機も一切分からない。 この時点でもう画面に釘付けである。 こういう情報を寸止めにして断言しない状態で延々引っ張る手法はありそうで中々見ることが出来ない。演出する側にかなりの克己心を要するからだろう。 それでいてもう一人がやってきて、彼もまた同じく「サラ・コナー」を探している。当然観客はさっきの大男の一味だと思う。 しかし、実際には後から現れたやさ男は味方で、大男の方が敵だった訳だ。 後はもう考える暇も無いほどただひたすら逃げ回ることがメインになる。 その緊迫感たるや凡百のB級アクションが束になっても適わない迫力である。 その後の「トルゥーライズ」や、何より「ターミネーター2」の脚本を見る限りではフロックとしか思えないのだが、ここでキャメロンが取った手段が「情報をオーバーヒートさせる」という演出方法である。 発売と同時に速攻で買い求めた「ターミネーター」のコレクションDVDボックスに収録されているマイケル・ビーン(カイル・リース役)のインタビューで彼は興味深いことを言っている。 「面白いよね。逃げている間ひたすら喋りまくるんだ」 と。 そうなのである。あのシュワルツェネガーが人造人間「ターミネーター」であり、実は未来の世界から送り込まれた刺客で云々、というのはクラブ「テクノアール」(*)で襲撃された直後に盗難車で逃亡している時に“運転しながら”説明がなされるのだ。 タイミングとしてはここしかない。サラとしてはどうして自分が逃げなくてはならないのか納得しなくてはカイルと行動を共にすることが出来ないのだから。 元々謎の大男に訳も分からず命を狙われてひたすら逃亡、というそれだけで頭がはちきれそうなシチュエーションなのに、そこでSFみたいな絵空事を聞かされるのだ。 これは落ち着いて話したのでは恐らく陳腐な場面になってしまったと思われる。 決死の場面で落ち着いていられないのは観客も同じである。 言ってみれば柔道で技を掛ける前に、襟を掴んで相手の体勢を崩してから技を掛けるみたいなものである。一瞬無防備になった所に叩き込まれる突飛な設定の数々。 まっすぐ構えている時なら受け付けられなかったかも知れない荒唐無稽な話であるが、これでは不承不承でも受け入れるしかない。「いーから!その話は分かったから!とりあえず逃げるんだ!」 こちとら高尚なテーマを謳いあげる感動巨編でも何でもない、「エンターテインメント」なのである。使える手段なら何だって使う。 手品師が右手で何かをやっている時には左手でタネを仕込んでいるのと同じで、観客を平常心で無くした所に突飛な設定をぶち込む「目先をそらす」手段である。はっきり断言するが、こういうのを「演出」というのだ。 結果として逃亡劇と設定の説明が同時進行することになり、必然的に画面から溢れる情報量も増大する。というよりも、アクション場面が同時進行するので、観客の情報処理能力が著しく削がれる所でよりによって設定の説明なんぞやるもんだからオーバーヒートしてしまうのである。 全く、憎たらしいほど上手い。 (*「テクノアール」の「テク」とは「テクノロジー」のこと。「ノワール」というのは「フィルム・ノワール」などと同じで「暗黒」という意味。つまり過度のテクノロジーの発達によってもたらされる暗黒面を象徴している訳だ。よく出来た映画はこういう細かいところでもしっかり“演出”していることがよくある) 何より素晴らしいのは、平凡な一女子学生でしかないサラ・コナーに突如降りかかった災難、という状況が観客のそれと殆どシンクロすることである。 先ほど「単純」と書いたが、それは見かけが単純な構図に集約することが出来るというだけで、実際には恐ろしいほど手が込んでおり、この単純な構図を徹底的に応用を効かせて演出するために作りこまれている。 ・・・ところがこれが「2」では全く消えうせてしまうのである。 そもそも、全く予備知識が無いところを突然襲われる、というシチュエーションだからこそあれだけ緊迫度を維持できたにも関わらず、この「2」ではサラ・コナーは最初から人類が存亡の危機に直面することを重々承知しており、何とまあ海兵隊もかくやという筋肉ムキムキ女になって待ち構えているのである。 何これ? こんなのどこが面白いの? いや、備えていること自体はいいとしても「非力な若い女」が「ターミネーター」に襲われるという「あり得ない組み合わせ」が消えてしまっているではないか。 ダダイズムが言うところの「テーブルの上でミシンとこうもり傘が出会う」という奴だ。 漫画原作者の小池一夫氏は「漫画原作とは?」と聞かれて「銀座の街の真ん中を裸の女が走り回ること」と言った。 別に禅問答ではなく、それくらい聞いた側が「一体何事だ?」と耳を疑い、目を疑うほどのものをいきなり見せ付けろ!ということなのである。 身体を鍛えまくり、メキシコのテロリストから武器を調達し、妄言で精神病院にブチ込まれながらも来るべき日に備えている女の下に現れる「ターミネーター」のどこが銀座の裸の女かね? 私は大のアンチ「T2」なので、「T2」ファンにこの手の事をしょっちゅう言っていた。その時に来る反論は「しかし、どんな能天気な女でも備えるようになってしまうのは当たり前ではないか」というものだ。 違う、違うんだよ。 殺し屋(ターミネーター)が未来から送り込まれてくる一方で、それを守ろうとする者も一緒にやって来る、という構図は初代「ターミネーター」と全く同じではないか。 映画「エイリアン2」が大ヒットした理由は何だったかね? 映画「エイリアン」は実はSFの衣をまとったゴシック・ホラーだった。何しろ肝腎のエイリアンが一番最後にならないとロクにその全容すら見えないのである。薄気味悪くべとべとと汚れ、あちこちからしとしとと水がしたたり落ちるノストロモ号の中身は未来の宇宙船などではなく、まんま中世の古城である。それは「エイリアン2」に登場する近代的な宇宙船の内装を見れば一目瞭然だ。 それを「2」ではウンカのごとく押し寄せるエイリアンの群れをばったばったとなぎ倒す痛快「戦争映画」に大変換したのである。 まさにこれが勝因だった。もしも「1」と同じゴシック・ホラーをやっていたらあれほどヒットしなかったのは言うまでも無い。 確かにあれだけ苦労して倒したエイリアンがゴキブリでもぷちぷち潰すみたいに倒しまくるのは“勿体無い”し、うるさ型のSFマニアは数十年を経ているはずなのに銃器の進歩が見られないことをくさしたりしたのだが、その圧倒的な面白さは曇ることは無い。 ちなみに「群れ」を成して襲ってくる様に見える映画なのだが、なんとあのエイリアンのスーツは3つしか無い。たった3体のエイリアンスーツを工夫して写すことにより“群れ”に演出して見せたのである。貧乏時代に苦心惨憺を舐めたキャメロンの演出の真骨頂である。 この「第一作と全く違う魅力」というのは、言い方を変えれば「単独の映画としても通用する」ということだ。 恐らく「エイリアン」に当たるモンスターを創造して全く新しい映画として作ったとしてもあの無類の面白さなら大ヒットしただろう。それを「2」として公開しているのだから「『2』にしては珍しく面白い」のも当たり前だ(ちなみに邦題では分かりやすく「エイリアン2」となっているが、原題では「ALIENS」と“複数形”にしただけである。最初の映画が「ALIEN」と“単数形”であるところからの連想で、映画の中身、傾向からしてもまさにドンピシャ。実にしゃれている)。 もう筆者の言わんとするところは理解して貰えたと思う。 そうなのである。この「T2」は前作の劣化コピーとして同じパターンを繰り返すことを選んでしまったのだ。 筆者なら恐らく、いざ過去にターミネーターとカイル・リースを転送する場面とその後を描く物語にすると思う。つまり舞台は核戦争後の未来だ。 別にこれがベストだとは思わないが、これ位目先を変える必要はあったのではないか?結果として大ヒットした作品にイチャモンをつけるのは筆者は滅多にやらないのだが、「ターミネーター」の熱烈なファンとしては続編の余りにしょっぱい出来に悲しくなってしまうのである。 そして前回一回だけなら通用した数々のほころびも一気に表面化する。 そもそもどうしてサラに充分な時間を与えるのか。本気でサラを殺す積りなら「ターミネーター」と同時代、せめてやっとこさターミネーターを倒してへばっている所に送り込んでそこで殺してしまえばいいではないか。どうして10年後に送る必要があるのか。 何度も言うが、これは一作目のみならば言われなかったアヤである。適当に続編なんぞ作るからこういうことになる。 そもそもカイルの説明では、これ以上の過去の改変が出来ないように、最初に送り込まれたターミネーターを追ってカイルが転送された後にタイムマシンは破壊された、という台詞がある。その設定はどうなったのかね?確かに当のカイルはその破壊シーンを見ていないのだが、それにしてもあんまりではないか。 更に筆者が許せないのは、数々の「自己パロディ」が埋め込まれている点である。これは「考えられる限り合理的な行動を取る」からこそ恐ろしかった初代ターミネーターの根幹を揺るがす破滅的な堕落である。 例えば「T2」では冒頭でいきなりサングラスをチンピラから奪い取ってはめ、カメラ目線で決めてみせる。 これがそもそも許せない。 恐らくここで「これぞ“ターミネーター”の外見だ!」と観客が拍手喝さいすると踏んでいるのだろうが、「馬鹿にするな!」と言いたい。 「ターミネーター」ではあのスタイルになったのにはきちんと合理的な理由があるのだ。 そもそも場面の大半が夜のあの映画においてサングラスをするのは例えターミネーターとて合理的ではあるまい。暗くてよく見えない。 それじゃあどうしてわざわざサングラスをする必要があるのか? 理由は簡単で、直前の場面で車がクラッシュし、ターミネーターは炎に巻き込まれたのである。警察と接触するのは多勢に無勢だと考えたのかここで一旦ターミネーターは追跡を中断して現場を離れ、適当なモーテルを借りて自ら壊れた眼球を摘出する。 ここで大きく損傷してしまった自らの「目」の部分を隠すためにサングラスをしたのだ。一応隠密行動を取っている使命から導かれた「合理的」な行動であって、決して格好つけてやっている訳ではない。勿論、髪の毛も焼けてしまい、ここであの「角刈り+サングラス」が完成する。 ところが「T2」では冒頭から角刈りで(何で?大量生産じゃないの?)、しかも必要も無いのにいきなりサングラスを奪い取る。何じゃこりゃ? そもそも同じ外見のターミネーターを2体以上生産する必要があるのか?そこからもう破綻である。 実は筆者は冒頭の場面で、あのターミネーターの骨格(エンドスケルトンと言うらしい)が戦場を銃を撃ちながら歩き回る場面でこの映画の失敗を確信していた。 何も分かっていないではないか! あのエンドスケルトンというのは「人の形」をしている隠密行動用のターミネーターだからこそ必要とされたものであって、化学薬品を満載したトラックの爆発に巻き込まれ、燃え尽きた後に“骨組みだけになって”も立ち上がってくる場面でこそ最大限に演出で活きるためのギミックではないか。 それがどうして映画の冒頭で出す必要があるのか。 これでは推理小説の種明かしみたいなもんだ。 軍事的に合理思考を働かせても戦場でエンドスケルトンを動かす理由など無い。 外見を気にしないのならどんな格好でもいい訳だからあの戦車(ハンター・キラー)でいいではないか。もっと細かい「歩兵」が欲しいとしてもあの折れそうな骨組みが露出した兵隊を使う必要は無い。 もうありとあらゆる要素が駄目である。 更にここで大規模な戦闘が描かれるのだが、筆者の脳裏に浮かんだのは「バブル」という言葉だった。 映画「ターミネーター」の唯一の泣き所は未来場面の安っぽさである。 冒頭の文句にある様に、予算が無かったからこそ現代のロサンゼルスに無理矢理舞台を持ってきての代理戦争形式にしたのだから、未来場面は最も予算を食う厄介なシークエンスだったことだろう。 だが、今回は金だけなら浴びるほどある。 そこで貧乏映画ばかり撮ってきた積年の恨みを晴らすかのごとく、この場面の予算だけで「ターミネーター」一本まるごと撮影出来そうな勢いで飛ばしまくった。 予算があるなら全編未来の物語にすればいいじゃないか。金が無い時には現在にするしかなく、金があるのに現代に固執してるんだから本当にどうしようもない。 ターミネーターの行動は終始とことんまで合理的である。そこには一切の迷いが無い。 映画「ALIEN」でアンドロイド・アッシュがエイリアンを絶賛した評に似ている。 「あれは完全な有機体だ。一切の妥協が無い。私はその完全性に憧れる」 スカイネットを破壊する英雄・ジョン・コナーの母親「サラ・コナー」はおおまかな住所とその名前しか分からない。 それならその地域に乗り込み、電話帳で住所を確認して上から殺していく。 なんとシンプルなことよ。 確かにいかに名前を聞いてから殺したとはいえ、それが本人である保証など無い。小説版ではサラは足にピアスがあり、死体でそれを確認するという“裏設定”があるのだが、映画ではよりにもよってルームメイトを射殺した直後の部屋に「留守番電話」を掛けてしまい、自ら「クラブ・テクノアールにいる」ことをターミネーターに教えてしまっている。 これが「映像で見せる」ということだ。屁とも知れん裏設定などいらん。見ていれば全て分かるのだ。 そして、「ここで電話さえ掛けなければターミネーターはルームメイトのジンジャーをサラ本人と勘違いしたままだったかも知れないのに!」と切歯扼腕させることすら出来る。 このクラブ・テクノアールでの襲撃シーンも見事なもので、最初の一撃で決める予定だったものが横からカイルに撃たれたことで観客がパニックになってしまい、逃げるサラの盾になってしまう。 それでも床に転んだところで射殺するかと思いきや、なんとここで弾切れを起こすのだ。機械のクセにその程度の計算も出来ないのか・・・とは思わない。 そこにはカイルの横槍という予期しない要素が絡んでいる。ターミネーターとてそこまでは予想出来ないだろう。そもそもよどみなくものの1〜2秒で再装填し、躊躇無くサラに再び狙いを付ける。全く人間味を感じさせないまさに「殺人マシーン」だ。ターミネーターが氷の様な冷酷さで、予備の弾訳すら用意していることをも逆説的に見せ付けている見事な演出。 ところがこの「装填」でほんの少し時間を取られた隙にカイルがショットガンをぶっ放し、ターミネーターはガラスを突き破って店外に放り出される。これによって何とかこの場ではターミネーターを退けることに成功するのだが、もしもあそこでターミネーターが弾切れを起こさなかったらいきなり映画は終わってしまっていただろう。 この手のアクション映画というのはどうしても数々の“お約束”がのしかかってくる。まだ始まったばかりなのだから主人公が死ぬわけが無い、などである。であるからこそ前半でさっさと主役の女優が殺されてしまう「サイコ」があれほど衝撃的だったのだろう。 こうした「一瞬の油断も許されない恐ろしい敵」という前提を嫌というほど見せ付けないと追いかけられる恐怖など迫っては来ない。そしてそれまでにターミネーターは関係ない人をこれでもかと殺しまくってきているのである。 その上声だけ警官に成りすまして警察無線を無断借用して誤った方向指示をさせたり、政府によってかくまわれているサラの母親を探し出して殺害し、サラから掛かってきた電話でさりげなく場所を聞きだす。 余り指摘されないポイントだが、この初代ターミネーターは本当に頭がいい。これだけの知性を持って命を狙われるからこそ恐ろしいのだ。単なる筋肉マンでは無いのである。電話の向こうで初老の女性の声を操り、「愛してるわ、サラ」と電話を置く大男に背筋が凍りついた観客も多いだろう。 ところが「T2」では、やってくる“液体金属”が売りのT-1000はちっとも真面目に仕事をしないのである。 もう「ターミネーター」信者としては腹が立って腹が立ってたまらない。 初代はもう目標と見るやまっすぐ向かってきたのだが、こちらはある時は歩き、ある時は走りと行動がバラバラなのである。真面目にやれよ! 更にショットガンを食らって体制を崩すも、すぐに身体を元通りに復元して見せた後にこいつは何をしたか? 「ちっちっち」と舌を鳴らして目の前で指を振るのだ。お前は怪傑ズバットか!? 他人に成り代わる能力を持ちながらサラをさっさと殺さずに肩の部分だけ串刺しにして「ジョンを呼べ」。 もう劇場に火をつけようかと思った。 そもそもこいつはこれだけ便利な機能(全身を液体と化して変形させられる)を持ちながらその能力をフルに無駄遣いする。 大体便利すぎるのである。 初代はあれだけ不器用でありながら極限まで合理的な行動で獲物を追い詰めた。これだけ便利なら本当に映画は瞬時に終わってしまう。 例えばエレベーターのドアの間に刀の形に変形させた腕を差し入れて来るシークエンスがある。 筆者など不思議で仕方が無いのだが、ほんの少しでも入ることが出来たのならそこから全身を溶かしてエレベーター内に進入すればいいではないか。 というか、こいつはもう人間の形をしている必要すら無い。 エレベーター内に進入したら後は液体のままサラの身体を這い登り、鼻と口を塞いで数分も待てばもう暗殺完了である。どうしてそれをしない? 別に好んであら捜ししようとしているのではない。あの初代の究極的なまでに合理的な行動を見ていると、これだけの恵まれた能力を持ちながらそれをケレン味たっぷりに見せ付けることばかり考えている二代目ターミネーターに腹が立つのだ。 野球で「ファインプレー」と言えば、取れるか取れないか微妙なところに飛んできた打球を飛びついて捕球してみたり、体勢を整えずにグラブのままベースカバーにボールをトスしてアウトにしたり、というプレーがまず思い浮かぶ。 ところが、通に言わせると真に守備が上手い選手は殆ど「ファインプレー」をしないのだという。 というのも、ボールは正面から両手で捕球するのがセオリーであって、打たれた瞬間にボールの落下地点でしっかり待ち構えているのが一流選手であり、それが間に合わずに横っ飛びで飛びつかなくてはならないのが二流選手だというのである。 別の例であるが、麻雀などでは上級者同士の対戦になればなるほど「大きな役」は成立しないものであるという。大きな役は効果(点数)も高いが、その分決まりきっているので対策も容易だというのだ。 そういえば先日行われた世界柔道でもなんと「足払い」という“つなぎ技”が勝負を決めた決勝戦があった。お互いに実力が拮抗しているのでその程度しか隙を突けないのである。 合理的な行動を突き詰めた場合、往々にして“見た目”は地味になる。それは劇映画としてはマイナスであろう。私に言わせればだからこそゾクゾクするような快感があるのであり、そこを上手く見せてこそではないかと思うのだが、どうやらこの映画の製作者はそうは考えなかったらしい。 皮肉なことにこの後に作られた映画「トルゥーライズ」に登場するハリアーという「垂直上昇機」がある。 なんとヘリコプターの様にその場で真上に飛び上がることが出来、緊急時には滑走路を必要としないという名機である。そのせいで「最高速」においては他の戦闘機などに一歩及ばないのではあるが。 ところが面白くもなんともないことに、この飛行機でも滑走路があれば滑走路を使うのである。要するに垂直上昇は非常に燃料を消費するので、なるべく避けるのである。普通の飛行機が飛び立てない距離の滑走路しか確保出来ない場合でも、目一杯滑走してから飛び立つのが普通であるという。 ということはどういうことかと言うと、極論すればこの「垂直上昇機構」はいらないのではいか?となってしまう。 機構が複雑になるので製造コストがかさむ上に部品も増えるので故障しやすくなる。何より“運用”でカバー出来るのならそうした方がいい。 それだったら垂直上昇機構のお陰で他の機能が犠牲になっているハリアー一機よりも汎用性の高いF-18あたりを十機持った方が効率が良くなってしまう。 技術的には充分可能でありながら、全ての飛行機が垂直上昇機能を標準装備しないのは必要がないからだ。 確かに“いざと言うとき”には役に立つかも知れない。 だが、一生無いかもしれない“いざと言うとき”に備えて過剰に便利な機能を一つ持つよりも、そうならない為に運用でカバーする方が「合理的」なのである。 完全に「オーバー(やりすぎ)テクノロジー」であるT-1000の逆説的な「非・合理さ」がお分かりいただけるだろうか? 新型ターミネーターの使命は「サラ・コナーの殺害」である。 旧型ターミネーターすら格闘戦で圧倒するこいつにしてみれば、少々鍛えた所で小娘(というには年だが)に過ぎないサラなど簡単すぎるターゲットだろう。 実際、真面目にやっていればあっという間に終わったとしか思えない。 そんな簡単な使命を遂行するのにどうしてあんなに高性能のターミネーターを送り込む必要があるのか? 初代と同じく怪力と並外れた打たれ強さを持つ等身大の男、というだけでいいではないか。大統領でも暗殺しようというのならともかく、サラはまだまだ市井の一民間人にしか過ぎないのである。 実際、液体金属のこいつに出来て等身大のターミネーターに出来ないことなど殆ど無いだろう。そりゃ確かに病院の床板に成りすますことは出来ないかもしれないが、そんな必要は無いではないか。 例えばこんなカットがある。 T-1000が鉄格子に正面から入り込み、全身を素通りさせて抜けて来るというカットだ。 そこで手に持っていたハンドガンだけがカキン!と引っ掛かるなど、なかなかケレン味を見せてくれるのだが、実に美しくない演出である。 どうして突っ立ったまま歩いて抜けてくるのか。 画面で見る限り、鉄格子を身体に通す際には僅かだがタイムラグがある様だ。通過した部分を“ぬるり”と変形させている。 それならば身体を横にするなり、頭から鉄格子に飛び込む格好をするなり、「変形」させる部分をなるべく少なくして1秒でも早く抜けるべきではないのか?目の前にターゲットがいるのである。そんなケレン味発揮してる場合じゃ無いだろ。 これなど「滑走路があるなら最大限それを利用する」ハリアーと同じ思考である。 もうこの辺りを見ているだけで、あの「ターミネーター」の時点での崇高な精神性など消えうせてしまっている。単なるケレン味の塊映画でしかない。 勿論、それはそれで構わないし、今もってシュワルツェネガー主演映画ではトップの売り上げを誇っている大ヒット作なのだ。恐らくこうした場面を「見た目」「ケレン味」優先とせずに「合理性」を追求してえっちらおっちら妙な格好で鉄格子を抜けて来る演出にしていたらあれほどヒットしなかったかもしれない。 泰然とした余裕を見せ付けてまっすぐ歩いて抜けて来るからこそ“格好いい”のだろう。 崇高な志を持った貧乏インディペンデント映画とビッグ・バジェット(予算)をもって家族含めた全年齢向けに作られたイベント・ムービーでは要請される演出も変わるのだろうが、これが堕落にしか見えない筆者の感慨は決して的外れではないと信じたい。 夜しか撮影許可が下りないので場面は夜ばかりになり、予算が無いので大規模な爆発が一回しか行えず、特撮を多用できないので見た目は普通の人間(シュワ)が「ターミネーター」という前提で襲い掛かってくる映画「ターミネーター」は監督のジェームス・キャメロンが大監督へと成り上がっていく途中で、限りなく上を向いて作られた野心作であって、むしろ偶然の産物だったのかもしれない。 何しろキャメロンは、あの「液体金属」のアイデアは元祖「ターミネーター」の時点では既に思いついていたのだが、予算不足で実現しなかったと供述している。ということはむしろ「ターミネーター」の方が不本意な作品だったということか? これまた佳作である「アビス」の製作会社の社長は、映画「ターミネーター2」を観て怒り狂ってキャメロンに電話し、「うちの映画は実験台か!」と吐き捨てたという。 言うまでも無くあの「液体金属」のことだ。 映画「アビス」では、「海水」が自らの意思を持ったかのように動き、主人公の船員たちとコミュニケーションを取る心温まる場面がある。このコンピューター・グラフィックス技術が「ターミネーター2」に活かされたことは想像に難くない。 確かに無名の俳優ばかりが出てくる地味な佳作「アビス」は「ターミネーター2」に比べれば興業収益はイマイチだっただろう。また「水モノ」と呼ばれる海がらみの映画なので製作予算もかなりの額に膨れ上がり、その意味でもお世辞にも“大成功作”とは言い難い。 だが、あの息をもつかせぬアクション、二転三転どんでん返しを繰り返し、迫り来る危機また危機。いがみ合っていた夫婦を“蘇生”させる人工呼吸シーン、そして何より“設定”を最大限に活用して言葉によらず夫婦の愛を歌い上げる引き上げシーン・・・。 最後にはあの個性的な面構えの面々に愛着が沸いてしまい「このまま映画が終わらなければいいのに」と思わせる愛すべき作品なのである。 オースン・スコット・カードの小説版を読めば分かるが、徹底的に海底に関する情報を調べ上げ、恐ろしいほど綿密に設定を組み上げたこの作品を「売り上げ」だけで断罪しようとは恐れ入る。 世の中奇麗事では済まないが、「ターミネーター2」と比べる方がどうかしているだろう。 格闘戦に敗北し、身体に鉄の棒を貫き通されて“絶命”したシュワルツェネガー型ターミネーターは、一切何の伏線も無く突然「再起動」して間抜けにも溶鉱炉を背負って立つT-1000にグレネード弾を発射した。 それまで無敵を誇っていたT-1000は何故かこの時だけはもがき苦しんで溶鉱炉に転落して末路を迎える。 “ご都合主義”のことを「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)」と呼んで揶揄するが、もはや“ご都合主義”などという表現すら生ぬるい。 観客に喧嘩を売っているのか?我慢にも限界があるぞ。 どうして伏線を張らない?ほんの少しだけでもいいから。 B級映画の誇りはどこに行ってしまったんだ!? 最後に自ら溶鉱炉に沈んで「スカイネット」の存在する未来を消し去ったシュワは「死ぬな!」と命令する幼いジョンを見て「人間が何故泣くのか分かった」と言う。 筆者もこの場面では涙が止まらなかった。 何なんだこの三文芝居は。 ここで「スカイネット」の存在する未来を変えてしまったらそれはすなわち前作でカイル・リースがやって来る未来をも改変してしまうということであり、目の前のジョン・コナーの存在が掻き消えてしまう大矛盾「タイム・パラドックス」を引き起こしてしまうではないか。 前作ではスカイネットの存在する未来そのものを変えることはしなかった。 「いつかその時が来る」と覚悟して映画は終わるのだ。 どうだこの渋さ。B級アクション・バイオレンス映画のはずなのにどう見ても「ハッピーエンド」でないこの文学的なエンディングを目に焼き付けろ! それに比べて何だこの低脳な展開は。本当に別の意味で泣けてくる。 「ターミネーター」を巡るキーワードの一つに「運命」がある。 前作ではただひたすら逃げ回るだけだったサラ。それがあの極限まで単純化された空前のサバイバル・アクションを生んだのだ。 だが今回は真面目に仕事をしないT-1000が来たもんだから映画そのものが迷走し、サラは何と自らスカイネット設計者のマイルズ・ダイソンを殺害しに向かってしまう。 何じゃこりゃ? 誰がそんなもの観たがるのか? そもそもこの中盤、あのT-1000はどこで何をしてるのか?探せよ。サラを。 もう指摘するのも馬鹿馬鹿しいが、マイルズ・ダイソンがスカイネットを設計したのは前作で破壊されたターミネーターの残されたチップを基にした、ということになている。 これを“循環理論”といい、最も恥ずかしいタイムパラドックスの設定の失敗例である。SFファンで無い方の為に説明申し上げるとこういうことだ。 ・ダイソンが“未来からやってきた”「ターミネーターのチップ」を基にしてチップを作り、それがスカイネットになる。 ・そのスカイネットが“過去に”ターミネーターを送る。 ・ターミネーターは破壊され、チップが残る。そのチップを元にダイソンがスカイネットを作る。最初に戻る。 ん?それじゃあ「最初にチップを作った」のは誰なの? そうなのである。 これだとダイソンは元々存在していたチップを元にしたことになっている。しかし歴史の流れを見てみるとそのチップはダイソンが作ったものだ。?? 自分が作った物を基にして作る? ????? なんとこれだと「真の作者」がどこにもいなくなってしまうのだ! これは「ドラえもん」では作者自らをもじった「フニャ子フニャ夫」という漫画家の原稿を巡って同じことをやっている。だがこれは分かった上でわざとやっている不条理ギャグである。 つまり「ターミネーター2」は日本の子供向け漫画以下なのである。 おいおいふざけるなよ!あれだけ綺麗に完結していた「ターミネーター」世界がぐちゃぐちゃになってしまっているではないか! そりゃ涙も出るわいな。 しかし、これだけえげつなくイージーに「泣ける」(「泣けそう」)な場面を見せつけられれば泣く人も多いのだろう。きっと。 ここに限らないが、この映画は公開直後に「自己犠牲が多すぎる」という批判はあったらしい。スカイネットの作者マイルズ・ダイソンも結局は自らの身を犠牲にして研究所を爆破するし、シュワ演じる“善の”ターミネーターはコナー親子を身体を張って守り続ける。 その“分かりやすさ”を前面に押し出した作劇はまさに時代を作ってしまった。 噛めば噛むほど味の出る、“通好みの”渋いアクション活劇は言って見れば職人の仕事である。観客もそれなりの素養が要求される。 だがこの続編はどんな馬鹿が観ても“凄い”ことだけは分かるテーマパークになってしまった。「ザ・デイ・アフター」以来であろう核兵器によって人間がゴミの様に崩壊するイメージ場面は被爆国の国民としては“よくやった”と思う。 だが、この映画が受けた理由はそうした小難しい屁理屈でも自己犠牲の尊さを訴えるメッセージでも何でもないものである。 とまれ。 もういい。 「ジュラシック・パーク」で「過去にこの地上にいた」恐竜を“再現”してみせたCGは、この「ターミネーター2」で観たことも無い液体金属を“創造”した。 それにはドラマも何も“通好み”の要素を無視することも必要であったのだろう、としか言えない。 近年「このシリーズのファンだった」と自称するジョナサン・モストウ監督によって「3」が製作された。 シリーズのファンだと言うだけのことはあって、「2」て露呈したタイムパラドックスに独自の解釈を加えて、完全では無いにしろある程度納得の行く説明をしてくれる。 問題のサングラスシーンも「なるほどね」とにやりとする様な方法で再解釈が施されているので是非ご覧になっていただきたい。 「敵」は女性型になって少々新兵器を持ってきた程度で、基本的には変わり映えしない。やはり「液体金属」は初登場の衝撃には及ばないのだ。 映画全体もソツの無い仕上がりで、「2」の失地回復という側面を含めてしまうのだが、「1」が99点付けられるのなら「3」は90点くらいあげてもいい。 しかし、天地がひっくり返る様な大騒ぎだった「2」の公開時に比べても実に地味な公開だった。 タイアップが行き届きすぎ、殺虫剤のCMにすら「ターミネーター3」の映像が意味無く使われているような有様で実に安っぽかったし、週刊誌には初代プロデューサーのゲイル・アン・ハード女史(ちなみに元キャメロン夫人)が浮気性の元・旦那である監督から離婚慰謝料の代わりに二束三文で映画化権を買い取った、とか既に「バックステージ」の情報の露出の方が多かった。 皮肉なことにここ数年で、「ターミネーター」の様な純正ハリウッドアクション映画はとんとなりを潜めてしまい、「マトリックス」が先鞭を付けたワイヤーアクションのカンフー・ファイトが主流になってしまっているのだった。 そう、「スター・ウォーズ」の新作がそうであるように、もう“普通の映画”に成り下がってしまったのだ。 前半の目を見張るようなカースタント・アクションのつるべ打ちにも「政界進出を狙うシュワルツェネガーが地元の観光振興の為にコストはかかっても国内撮影にこだわった」という“雑音”の方が大きく聞こえてしまう様では映画に集中など出来ない。 世間の誰もがその“絵空事”を我がことの様に真剣に論じる空気こそが時代を作った映画の醍醐味では無いかね。 筆者が、「映画は観る前が一番楽しい」ということを言い出したのは「AKIRA」とそしてこの「ターミネーター2」を観たお陰である。 消費物であるのならそれもいいのではないか。 筆者は学生時代からこんな駄文をあちこちに(といっても同人誌などだが)に書き散らしてきたのだが、社会人になってみると“食うこと”がいかに困難であるかをしみじみ思い知らされ、映画産業全体への視線も自然と変化せざるを得なかった。 キャメロンが「ランボー2」の脚本を執筆し、「ターミネーター」を撮影するころのどん底貧乏生活は想像を絶するものがある。ひきこもりならともかく、よくあんな状態で映画を撮っていたものだと思う。 それが、「ターミネーター2」を撮影する頃にはもう大富豪だった。しかも映画の売り上げに応じて監督の懐に入るお金も増える契約すら結んでいる。 食うや食わずの頃と同じ性根で創作に向かえるとしたらその方がおかしいだろう。 筆者も、もし仮に一生食うに困らないお金があったとしたら何もする気が起きないと思う。それは貧乏暇なし人間時代が長いほど“反動”として立ち現れてくるのではないか。 スモークを炊くお金も無いのでカメラの横からスパスパ吸ったタバコの煙を吹き付けてクローズアップを撮影していた「ターミネーター」時代が必死の上昇志向時代だとするならば「ターミネーター2」時代は絶頂期だろう。後は現状維持か落ちていくしかない。 キャメロンはその後に「タイタニック」を撮ってしまうのが凄いのだが、いたたまれなくて画面を正視出来ない「トルゥーライズ」なんてのまで撮ってしまう。 恐らく食うことにガツガツしていない時代に「ターミネーター2」は“のびのびと”撮られたのだと思う。少なくとも「ターミネーター」よりはずっと金銭的余裕はあったはずだ。 短い期間に一瞬だけ燃え上がった、はかない輝きに筆者は魅了されていたのかもしれない。 女優も美人ではないし、「2」では考えられない“濡れ場”すら存在する「ターミネーター」は筆者に言わせれば「ボロは着てても心は錦」である。 完璧なアクション映画などあり得ない。必ず“お約束”を前提としなくてはならない。 筆者が小学生の頃のこと、「どうしてウルトラマンは最初から怪獣にスペシウム光線を浴びせないのか」と言うと、友人がしみじみ言った。 「そういうこと言うなよ。作っている人たちも大変なんだから・・・」 こんなことでいいのか? いい訳が無い。 「ターミネーター」には「完璧なアクション映画の脚本」の夢を観ることが出来た。欠点があるとすれば、画面の貧乏臭さだけだ。それが何か問題か?どれだけ美麗な画面を用意しても分からない人間には分からない。逆もまた真なりだ。 そして、誰がなんと言おうとその頃の志が失われた「ターミネーター2」は、どれだけ特撮が見事でも、セットが豪華でも、売り上げが莫大でも、筆者にとっては「世紀の駄作」なのである。 (2003.10.30.) |