清仏戦争・福州海戦 3
Battle of Foochow : 1884 (3)


French Admiral Courbet

フランス海軍の東洋艦隊司令官クールベ提督 Amiral Courbet



「クールベ提督」・明治17年10月25日 (土) の東京日日新聞記事より
 福州に、台湾にとその率いるところ連戦連勝の英名を轟かせるクールベ提督の履歴
 1827年ソンム州アツベウイルレに生まれる。52年海軍に入り、56年士官に昇進、66年には艦長に昇進した。80年提督補 (リア・アドミラルか) となり、1884年5月には副提督 (ヴァイス・アドミラルか) に昇進している。
 先に1880年、ニューカレドニアの知事に任じられ、沿海艦隊の司令官となり、82年には地中海艦隊の一部を指揮する。選ばれて東洋艦隊の司令官となった。

後日談としてクールベ提督の病死が、明治18年6月16日号で報道されています。これにより、フランスで建造中だった装甲艦『フードロワィヤン』 Foudroyant は、クールベと改名されて1886年に完成しました。この名はさらに、後の軍艦にも襲名されます。(ガンルームの三脚檣写真帖7参照)




この戦争では、他にも小規模な海戦が戦われています。
 1885年2月14日から15日にかけての夜、2隻の清国小型巡洋艦、『ユ・エン』 Yu-Yen と『チェン・キァン』 Chen-Kiang が、スパー・トーピードーで武装したフランスのランチに襲撃されました。
 清国艦は寧波付近に停泊しており、フランス海軍によって監視されていました。攻撃隊は至近距離に至るまで発見されず、攻撃に成功した後もほとんど損害もなく脱出できて、フランス側の戦死者は1名だけとされます。清国艦は2隻とも沈没しましたが、これには同士討ちもあったようです。

Spar torpedo attack

寧波の戦いで円材水雷を装備した艦載艇による、清国艦への攻撃

 この水雷攻撃に関しては、不明な点が多くあります。艦載艇による攻撃とされますが、発進艦、その指揮官名などははっきりしません。なにか、正当な評価をされないイレギュラーな問題があったのかもしれません。



 この戦争の最中、清国がドイツに建造を発注していた重装甲砲塔艦『定遠』が回航の途上にありましたが、ドイツの管理下に運行されていたため、本国からの指令に基づき、途中で引き返しています。これにはフランスからの圧力もあったのでしょう。これが清国に到着すれば、フランス極東艦隊にはこれに対抗できる艦が含まれていないので、大きな脅威になったと思われます。唯一の重装甲艦『バヤール』も、対抗できるだけの性能ではありません。



清国装甲艦『定遠』Ting-Yuen

 7,144トン、14.5ノット、305ミリ砲4門、150ミリ砲2門、装甲355ミリ

 写真はドイツで回航を待つ姿で、前マストには3本のヤードと帆装が装備されている。これは巡航時の燃料節約を目的としており、恒久的な設備ではない。



French ironclad Bayard

フランス装甲艦『バヤール』Bayard

 5,915トン、14.5ノット、240ミリ砲4門、193ミリ砲2門、140ミリ砲6門、装甲250ミリ

 この艦は4門の主砲を4基の単装露砲塔に装備している。その位置は、写真に見える艦橋両舷の2基のほか、主檣、後檣、それぞれ直前の中心線上である。後檣が邪魔になって真艦尾方向への射界がないことと、首尾線砲力強化のため、船首楼内と艦尾に193ミリ砲を持っていた。



 当時のフランス本国の大型装甲艦には、スエズ運河を通過できる艦がいくらもいません。この当時、対等以上の軍艦がなければ、洋上で強力艦を阻止できる可能性はほとんどないのです。さらに、ドイツ国旗を掲げた艦を攻撃すれば、本国間での関係悪化は避けられないでしょう。
 おそらくは、そういった混乱を避けたい仏独両国の思惑が重なり、艦の引渡しが遅らされたのでしょう。クールベ提督が、『定遠』の到着を嫌って早めに手を下したのかもしれません。

●1885年 (明治18年) 4月3日、予備平和条約が調印されました。




補足資料その2、Battleships in Actionよりの和訳

ウィルソンの Battleships in Action に、この戦闘についての記述がありますので、該当部分を翻訳しました。

Chapter X:p.79〜82・清仏戦争 (1884年8月)
 1884年、トンキン Tonkin のフランス艦隊に清国非正規軍が攻撃をかけ、フランス軍による報復攻撃を招いた。この時の在清フランス海軍は、クールベ少将の指揮する『バヤール』、『ラ・ガリソニエール』、『トリオンファンテ』の各装甲艦 (4〜6門の9.4インチ後装砲と若干の小砲を装備) と、『デュゲイ・トルーアン』、『サオーネ』、『シャトー・ルノー』、『ヴィラ』、『デスタン』、『ヴォルタ』、『リンクス』、『アスピク』、『ヴィペーレ』の非装甲艦である。他に『45号』、『46号』の2隻の16ノット外装水雷艇 (スパー・トーピードー・ボート) があった。
 当時の清国海軍は海軍と呼ぶのもおこがましいほどの弱小勢力であり、旗艦の木鉄交造巡洋艦『ヤン・ウー』 Yang-Woo が最有力である。

 クールベは、フランス政府から台湾の占領が清国を屈服させる最良の方策であると進言されていたが、彼は、ポート・アーサー Port Arthur (旅順港) と威海衛 Wei-hai-wei の占領のほうが、清国の心臓部に対するより効果的な一撃であろうと考えていた。
 外交上の理由と、イギリス、ロシアの介入への恐れから、フランス政府は彼の申し出を却下した。8月5日レスペ少将に台湾のキールン港を砲撃させたが、同地の占領の試みは反撃を受けた。この結果、清国問題の専門家からの忠告通り、清国は戦争に向けての準備を命令することになった。

 この間、クールベの艦隊は次々にミン江を溯り、福州の町近くに陣取っている。ここには、清国の主要な海軍造船所のひとつがあった。彼等は要塞の前を通過したが攻撃は受けていない。8月21日、外交交渉が決裂した。
 ミン江には、『ヤン・ウー』を中心とした、6隻の木造スループ、2隻の武装商船、2隻の砲艦、7隻の外装水雷艇からなる艦隊が停泊しており、戦力にはならないものの多くの戦闘用ジャンクを伴っていた。  8月22日、クールベは清国当局に対し、彼がトンキンの報復を行うよう命じられたことを告げた。清国艦隊の戦闘準備は整っていたが、戦力では大きく劣っており、迎撃が成功する望みはなかった。

 8月23日の午後2時少し前、クールベの艦隊は清国艦隊の最も近い一角に猛烈な攻撃を開始した。目標はわずか7分間で消滅しているが、フランス軍の砲撃がそれだけ素早く、正確であったのだ。『ヤン・ウー』は水雷艇46号の水雷を中央部に受け、数分間で沈没してしまう。270名の乗組員のうち、わずか15名が脱出できただけだった。その他の艦船も爆発したり沈没したりし、あるいは炎上した。
 2時45分、フランス艦隊は砲火を清国要塞に向け、これは激しい攻撃を受けた。フランス軍の砲撃は2時間にわたって続いている。4時45分、クールベ艦隊は夜に備えて射程外へ碇泊した。夜間、清側は水雷攻撃を試みたものの失敗に終わっている。フランス側の損害は取るに足りないもので、6人が戦死、27人が負傷したにすぎない。これに対して清国側の損害は死者521人と伝えられ、これに加えて150人が負傷し、多数の行方不明者が出たという。戦闘は軍事訓練に近い状態で行われ、清国軍艦はほとんど標的同然だったようだ。翌日、海軍工廠は再びの攻撃を受けている。

 8月25日、クールベは艦隊に、ミン江を下り、下流にあってミンガン海峡を扼している要塞を破壊する命令を発した。彼等はこれを敵対行為が発生する前に通過していたので、要塞を裏側から攻撃することになり、作戦はより容易になっている。彼は、この作戦のために、将旗を『デュゲイ・トルーアン』に移した。『バヤール』、『ガリソニエール』、『サオーネ』と『シャトー・ルノー』はミン江河口に現れ、清国側の注意をそらせる。
 25日と26日に、ミンガン要塞は次々に沈黙させられ、砲は上陸部隊によって破壊された。清国側は若干の抵抗を示したにすぎない。翌日、クールベはキンパイ水道に前進し、非装甲艦『サオーネ』と『シャトー・ルノー』の増援を加えると、8月27日、28日に現地の要塞を破壊している。

 『トリオンファンテ』と『デュゲイ・トルーアン』は、要塞の上流で錨索にスプリングを取り、これを操作して砲門を最も近くの銃眼に向けた。この銃眼は近距離からの集中射撃を受け、内部の砲はたちまち沈黙している。この戦術は銃眼ごとに繰り返され、清国側が要塞を放棄するまで続けられた。機雷の敷設や、他の積極的な防御抵抗はいくらもなく、作戦は非常に容易に進められている。わずかに『ラ・ガリソニエール』1隻が、艦首に大口径炸裂弾の命中を受けて損害を被っただけだった。この損害は香港で修復されている。フランス側の損害は、戦死10名、負傷48名である。

 この作戦の後、クールベは再び政府に対して北部での作戦の重要性を進言している。芝罘 Chefoo を占領し、これを基地として清国海軍か、そこにいる部隊を攻撃するように述べているが、彼が受けとった命令は、台湾を確保せよというものだった。彼は再びキールンを攻撃し、4日間の砲撃の後、10月1日にこれを占領した。
 しかしながら、彼の次席指揮官レスペ少将は、淡水 Tamsui で阻止されてしまっている。クールベは十分な陸上部隊の配属を拒絶されており、艦隊から乗員を降ろして派遣しなければならなかったため、艦隊は移動できなくなり、ここに留まることになった。10月20日に、フランスは台湾沿岸の封鎖を布告している。封鎖に対してイギリス政府は抗議を申し立て、フランス海軍は、これを効果的に行うには陸上での戦力が不十分だった。
 更なる問題は、当事者双方ともが正式な宣戦布告を行っていないことであり、このため中立国の立場は、ちょうどアメリカで南北戦争が勃発した直後にリンカーンが南部の封鎖を宣言した時と、同じような状態になっていたのである。こうしているうちに援軍が到着し、クールベは中立国による妨害を排除するように命じられた。

Illust of Tamsui

淡水 Tamsui の様子を描いたイラスト

 新聞の挿絵である。描かれている大型船はフランス軍艦のようだ。砦か要塞らしきものもある。 


Fight at Keelung

キールンの戦いを描いた清の絵画

 かなりシュールな絵で、中央ではフランスの旗手の首が刎ねられているし、崖から突き落とされたり、城壁から投げ落とされている兵もいる。 


スプリング
 錨泊した状態で、艦首から伸びた錨鎖 (索) の途中に索を結びつけ、これを艦尾へ繋いでキャプスタンで巻くと、通常一直線になる錨・錨鎖・艦の関係の中で、艦の向きだけを変えられます。当時の舷側に装備された砲は射界が狭いので、こうして艦を回してやらないと照準できないわけです。




補足資料その3、新聞見出し

 当時の東京日日新聞記事より関連記事の見出しを掲載しておきます。原文をご覧になりたい方は、その旨お知らせください。無論、これで全部ではありません。

★明治17年 (1884年)
8月1日
…津門通報 (7月15日発) ・8月2日号へ続く・8月4日号へ続く
…上海特報 (7月23日発) ・8月2日号へ続く・8月4日号へ続く
8月6日…清国多事の原因を論ず・東京・隈本乙彦

8月11日…仏軍キールンを占領す
8月13日…清国の廟議いかに
8月15日…清仏交渉事件彙報 (彙報・いほう=分類して集めた報道=集報)
8月16日…廟算すでに定まる……台湾砲台は守れず……非はフランスにあり
8月20日…清仏要報・外電各種……清仏艦……居留民の保護

8月21日…談判すでに破れる……キールン警報……キールン回復
8月22日…キールンの占領を国際公法は如何に見るか……電報集録・外電各種……清仏関係
8月25日…清仏開戦……清仏要報・清仏開戦
8月26日…福州の砲撃……清仏要報・清艦7隻撃沈される。船政局破砕……日本軍艦……清国新艦
8月27日…清仏戦争の禍因・8月28日号へ続く……清仏要報・台風耳目を塞ぐ……清国軍艦一覧……キールン砲撃の詳報・8月28日号へ続く
8月29日…局外中立……福州近事
8月30日…中立国の権利義務……上海特報・キールン砲撃の詳報

9月3日…清仏要報・宣戦通知の電報……仏艦の行動、劉銘傳の功を賞す……福州・キールン砲撃の結果……仏国郵便船の保護……清艦の行動
…●上海特報・福州戦報 (掲載したもの)
…●上海特報・戦報拾遺 (掲載したもの)

9月15日…フランス兵備概略……清仏要報・キールン再戦、仏艦出港……福州・戦事後譚……彭玉麟張之洞氏の憤発……●福州・戦況目撃者の話・9月17日号へ続く・9月18日号へ続く (掲載したもの)
9月17日…清仏要報・フランス軍の目的……清船捕えられる
9月19日…清国兵備概略・海軍
9月25日…フランス艦馬州を引き上げる……馬尾における清艦の死傷
9月29日…9月18日ロンドン電・イギリス装甲艦『アガメムノン』清国へ向けて出港

10月22日…『ラ・ガリソニエール』はキールンなどの攻撃で破損し、香港にて修理される。
10月25日…●クールベ提督 (掲載したもの)……フランス東洋艦隊の組織……ドイツの支那艦隊……淡水砲撃実見の報告
10月28日…清艦台湾へ向かう
10月29日…台湾封鎖の通知……清仏要報・台湾封鎖の公報……フランス政府大援軍派遣を決定……ヒューウェイの戦争……清軍艦・定遠、致遠
10月30日…清仏要報・仏軍艦、水雷の上を出入りする
10月31日…清仏要報・フランス斥候、清兵と戦う……クールベ提督の上申

★明治18年
1月28日…清軍艦台湾へ発向する
2月9日…ロシア政府は東洋艦隊を福建へ派遣すべきとした
3月4日…清国水雷船……戦時餘聞
3月10日…清国艦隊本部……フランス支那分遣隊の派遣
3月17日…鎮海のフランス軍艦破損の続報
3月19日…淡水の南 100キロで、フランス軍艦3隻が清軍艦4隻と戦闘、清軍艦2隻が沈没した。 (ベタ記事で続報がない。誤報か、2月14日の戦闘のことか)

3月21日…支那海のフランス軍艦……フランス援軍の来着
4月8日…清仏講和のうわさ……清仏講和の電報
6月16日…クールベ提督死去……クールベ提督続報……清国軍艦
6月17日…仏清条約
6月21日…クールベ提督続報




あとがき
 こうして清仏戦争は終わり、北部ベトナムなどがフランスの植民地となっていきます。一方この頃、イギリスとロシアはアフガニスタン付近で対立しており、南下するロシア軍に対して、イギリスはインド軍を増強しています。
 この1884、85年の対立はかなり深刻なもので、当時最大の戦争危機だったとされています。イギリス海軍は艦隊を動員し、バルト海への遠征艦隊の編成も行われました。フランスが両国から大きな干渉を受けなかったのには、こういう背景もあったのです。
 結局、国際的な仲裁もあって戦争には至らなかったのですが、ここでの対立が日露戦争へ繋がったのは間違いないでしょう。もし、アフガニスタンで英露が直接戦争を行っていたならば、1894年の日清戦争、1904年の日露戦争にはどういう影響があったでしょうか。そもそも、日露戦争は惹起しなかったかもしれないのです。

 戦争を一種のガス抜きと捉えるならば、無理に収めた矛は、どこか別な場所で突き出されなければならないとも言えます。特に大国間では対立する場所や機会に事欠きませんから、中途半端な外交処理は、後により大きな戦争となって清算されかねないと考えられます。
 戦争の歴史を研究する時、これら戦われなかった戦争 (主として実際に軍隊が動員されるまでの危機に至ったもの) が、その後の戦争との関連で十分に評価されているのか、いくらか疑問も感じています。私は専門家ではありませんので、せいぜい疑問を提示するくらいしかできないのですが。

参考資料
All the world's fighting ships 1860-1905/Conway Maritime Press
Battleships in Action 1-2/H.W.Wilson (1926)/Conway (1995)
Chinese Steam Navy (The) 1862-1945/Richard N. J. Wright/Chatham (2000)




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