美由起組 組長の生い立ち 1
人間は、みんなそれぞれいろいろなものを背負って生きています。つらかったことや悲しかったこと、苦しかったこと、抱えきれないほどたくさんのものを背負って生きています。
そして、誰もがみんな、幸せになりたいって願いながら生き続けています。組長もずっとずっとそうでした。離婚を繰り返す父、次々に替わる母親。どんな状況の時でも、貪欲に幸せを求めながら、生きてきました。そしてこれからもずっと。
小学校入学まで
組長は、2才10ヶ月の時、母と別れています。
父が滅茶苦茶な人なので、母は、耐え切れなくなって逃げ出したのでした。組長を連れ逃走したのですが、父が、若い衆に声をかけていたので、すぐに見つかってしまったそうです。それでも母は何度も逃げようとしました。かすかに覚えています。父方の祖母と母と組長・・・・ある駅の前・・・・母が組長を抱いて走り出しました。祖母は「人さらい!!」と叫びました。誘拐と言わないのが、時代の古さを物語っていますが(笑)
周りの人が、たくさん母を取り囲みました。母は組長を祖母に渡して、一人でタクシーに乗り込みました。「2度と、戻ってきませんから・・・・」母はそう言って、タクシーに乗り、何処かへ走り去リました。祖母に手を引かれ、家に向かいました。大人の足で、20分弱の道程。途中で疲れた組長は、祖母におんぶしてもらいました。温かい背中でした。何処かで、履いていた靴を片方落としてしまったのを、覚えています。
部屋で、父が背中を向けて寝ていました。 祖母と父がどんな会話をしたのか、まったく記憶がありません。 かなり大きくなってから聞いた話しですが、組長を母に渡してしまったら、
祖母は殺されるかもしれないと思ったそうです。「夢中で取り返した」と。
人間は、3才前の記憶はないと言うけれど、不思議な事に母との 別れの日の記憶があるんです。古い映画のシーンのように、何度も何度も 繰り返し、思い出します。
でもこれは、本当の記憶ではなく、あとから聞いた話しが作り出した、ただの 幻影かも知れない・・・・
母と別れてから、組長はすぐに祖母のもとへ預けられました。 父方の祖母、正直で働き者で、とても優しい祖母でした。 最近は、おばあちゃんと言っても、本当に若くて、奇麗な人が多いけれど、
組長の祖母は、全くお洒落もしない、割烹着にもんぺ姿。そんな人でした。
共同玄関、共同トイレ、お風呂もない四畳半一間。ひとり立ったらいっぱいの 台所。そこへ祖母と、伯父そして組長。 決して裕福ではないけれど、とても温かい暮らしでした。父が、ひとりでいる間は祖母のもとで、父に女性ができると父のもとへ、
組長の行ったり来たりの人生が、スタートしました。
組長2才10ヶ月。祖母との新しい生活が始まりました。 祖母は、片目が失明しており、見える方の目もかなり視力が悪く、喘息の 持病がありました。一緒に住んでいた伯父は、子供の頃、骨髄炎にかかり
手と足が少し不自由でした。 組長は、ここで温かな生活を送りました。祖母は当時65才を過ぎていたと 思います。よく見えない目で、一生懸命組長の面倒を見てくれました。
伯父も本当に可愛がってくれました。
当時、祖母は掃除のパートに行っていました。 組長はいつもついて行きました。祖母に手を引かれ、お散歩気分です。 道端の花を見たり、空の雲を眺めたり、ゆっくりゆっくり歩いていました。
1ヶ所は、小さな工場のトイレ掃除だったと思います。 そこに、おとなしい犬がいたんです。組長は、祖母の仕事が終わるまで、 いつもその犬と遊んで待っていました。時々祖母が、心配して声をかけて
くれていたのを、覚えています。もう1ヶ所の掃除は、アパートの共有部分の 掃除でした。そこでは、階段の一番下に座り、ただじっと待っていました。
今では想像できない位、おとなしい子供だったそうです。祖母の仕事がない日は、祖母が掃除をしたり、洗濯をしたりするところを、 いつもくっついて歩いていました。ゆっくりした毎日でした。
でも、祖母にとっては、大変な事だったと思います。 夜、伯父が帰ってくると、みんなで食事。ハンバーグもパスタも、知らずに育ちました。煮物に、漬物、みそ汁にご飯。今も、組長は大好きです。
こんな穏やかな日は、それほど長くは、続きませんでした。
4才になった頃、父に彼女ができました。 九州出身の女性でした。確か、九州の実家に男の子を残して上京していたと思います。
祖母の所から、引き取られ新しいママとの生活が始まりました。 組長は、保育園に入園しました。食が細かった組長にとって、給食はとても苦痛でした。
それから、お昼寝も大嫌い。もぞもぞしていて、ちっとも寝ない。いつも隅っこに、 布団を移されたのを覚えています。
雨の日、お友達のお母さんが、一人、また一人 傘を持ってお迎えです。教室から、ずっと外を見ていても、お迎えに来てくれない。 そんな記憶があります。家で、どんな生活をしていたのか、ほとんど覚えてません。
はっきり覚えているのは、外に置いてあった洗濯機の番。洗濯が終わると、ピーピー 音が出るタイプ。組長は、いつも洗濯機のそばで番をしていました。音が鳴ると、家に
入り、ママに知らせるのです。今も、ピーピーなるアラーム音は嫌いです。
年末、ママの実家に行ったことがあります。寝台列車に揺られて、暗い窓の外をジッと見つめていました。海の中のトンネルを通ると、聞いていた組長は、お魚を見ようと、
必死でした(笑)ママの実家に行って、泊まった記憶も何もありませんが、 凧揚げをして、ぬかるんだ田んぼに靴が入ってしまって、動けなくなったりした事は、
うっすら覚えています。
父とママは、よく喧嘩をしていました。見るたびに、心臓がドキドキして、泣きそうになりました。ある日、台所で包丁を持って、喧嘩していました。組長は、怖くて叫びそうになってしまいました。唇をかみ締めて、部屋の窓から、誰か助けてと、心の中で、
叫んでいたのを、はっきり覚えています。 間もなく、父とママは別れ、組長はまた、大好きな祖母のもとへ預けられました。 保育園中退・・・・・多分5才の頃です。
組長は、保育園を中退(?)してから、小学校に入学するまで、プーでした(笑) 福祉の担当の人が、祖母の元を訪れた際、組長は入園を断ったそうです。
「おばあちゃんは、目が悪いから、みき(組長のご幼少時代の呼び名)が、 そばにいないと 危ないの。だから幼稚園には行かない。」 そう言って、かたくなに拒否したらしいです。
小学校入学まで、組長はずっと、祖母のそばに付いて歩いてました。 空を見上げ、雲を眺め、草花と会話をし、ゆっくりゆっくり暮らしてました。 祖母の住んでいるアパートの周囲に、3人の伯母がいました。
方向は違うけれど全て歩いて行ける場所でした。 祖母の所には、よく伯母が遊びに来ました。またこちらからも、よく遊びに行きました。父の粗暴な性格は、親類の間でもかなり悩みの種のようで、
伯母達は、組長の父の事を、みんな恐れていました。 親戚中の人が組長を不憫に思い、みんなが可愛がってくれました。
組長は、いわゆる、虚弱体質でした。扁桃腺がすぐ腫れて、高熱を出す。ジンマシンが出る。 おなかも弱く、小児喘息もありました。さっきまで元気にしてたのに、急に熱を出して、
よく祖母に背負われ、病院へ通いました。多い時は月に2-3回熱を出しました。ぜんそくは、呼吸困難を起こすようなひどいものではなく、気管がヒューヒューゼイゼイして、せきが止まらなくなります。昼でも夜でも、関係なし。特に寝付く頃にひどくて背中をさすってもらったり、お湯に砂糖を溶かして飲ませてもらったりしました。
冬の寒い夜は、窓を少しだけ開けてそこから、顔を出して冷たい空気を吸ってみたり。 熱を出すと、当然食欲が減ります。その時はいつも、味噌煮込みうどん。
病院の帰りには、バナナとコーヒー牛乳を買ってもらいました。 おなかの調子の悪いときは、葛湯。片栗粉で作る、葛湯もどきですが、甘くておいしい。
本当に、面倒をかけていました。祖母は限りなく、優しかったです・・・・・
小学校の入学式。ピカピカのランドセル。 入学式には、父が同伴してくれました。
いいときの父は、とても優しい普通のお父さん。可愛くて仕方ないという感じで 接してくれます。でも人格が変わると、近づけません。 すぐに喧嘩をするので、外を歩いていても人とすれ違う時、ドキドキします。
気に入らなければ、ただすれ違っただけで、喧嘩を始めるのですから。 初めての小学校への緊張感と、父同伴の緊張感。その中で入学式に参加しました。
組長の姓はすごくありふれたものなので、同じクラスに同姓が、3人いました。 先生がちょっと、困って笑っていたのを覚えています。 色白で、やたらと目が大きかった組長は、よく「あいの子?」「混血?」と、聞かれてました。
今では、そんな言葉は使いませんね。ハーフ、2世なら、わかりますか?
無口で、おとなしくて泣き虫。やる事すべてスローペース。かなりのろまでグズ。 食べる事にかけては、本当に量は少ないし、遅かったようです。 先生との面談で、伯父が言われたそうです。
「給食を食べるのが大変遅いので、家庭でもう少し早く食べられるようにして下さい」と。 確かに、昼休み中教室に残り、泣きながら給食を食べていた記憶があります。
牛乳は吐きそうになりながら飲んでいました。当時は食パンが2枚付くんですけど、 毎日1枚は持って帰っていました。食べるのが遅い・・・これは大人になってからも
ずっとそうでした。母親になってからは、すっかり変わりましたけどね。 穏やかで、のんびりしているけれど、責任感が強く決められたことはやり通す。
通信簿にはいつもそんな事が書かれていました。
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