わが故郷の若江

 杉山三記雄
はじめに 

 若江に生まれ若江で育ち、当時の若江村の幼稚園から小学校と通った。幼稚園といえば昭和23年(1948)当時は、若江村の幼稚園は村中の蓮浄寺というお寺がそうであった。ここは古政所(ふるのまんどころ)といわれる字名のもつところにあり、若江城の中枢部にあたる政務、庶務を担っていた場所にあたる。
 若江から見る夕日の美しさに、感動したことが子ども心に深く残る。西のほうへ目を向けると、美しい田園風景が目の前に広がり、赤くなった夕陽が大きく染まっていた。このことは江戸時代の書き物にも、若江の夕陽は特に美しいものだと記されている。若江鏡神社の項で関係するので後で詳しく述べていきたい。少年の頃、近くの土塀の表面をよく見ると、土器の破片がよく混じっていた。家の土塀の土を農家がまだ多かった頃は、所有する田畑の土を採り、土塀に使っていた。村の西から北へかけては、若江北遺跡、巨摩廃寺遺跡、瓜生堂遺跡が近くにあることと関係あるようだ。また通っていた若江小学校は、その幼稚園に接するような位置にあり、若江城の本丸に当たる部分に建っていた。ゆえに学校敷地は少し地面全体が高くなっている。家から小学校までは数百m離れていたが、そこに至るまでに城下町特有「当て曲げ」があり、小道を登るように歩いていかねばならなかった。幼稚園といえば境内に大きな銀杏の木がそびえ、そして立派な鐘楼台があった。
 小学校に上がり上級生になるまで歴史の知識はほとんどなかった。小学校の上級生になって若江城だったことや木村重成の墓が村はずれにあり討ち死したことなどを周りから教えられるようにして頭に入ってきた。当時、若江は、ごく普通の田舎の村で当時の西隣りの小阪や布施の町と比較すると農村という方が正確な表現になろう。
若江城の畠山家の跡目争いから応仁の乱がはじまり、木村重成の「若江の戦い」により実質的な日本の200年にわたる戦国時代が終わりを告げたといってもいいだろう。(写真は昭和27年当時の校舎)

若江の位置と境界―『若江村郷土誌』大正5年4月発行から−
 
 「本村ノ位置は中河内郡中央部ニ在リ東ハ三野郷村大字市場玉井新田ニ小路ヲ以テ境ヲ界シ西ハ小阪村大字上小阪中小阪ニ連ナリ南ハ西郡村ト小水路ヲ以テ境ヲ限リ北ハ玉川村大字岩田及瓜生堂ト境ヲ接ス東西長サ約九町三十間南北約七町八間アリ」と説明している。
 中河内郡の以前は、若江郡とし、飛鳥六四五年、河内国河内郡、若江郡、渋川郡となる。現在の八尾市の一部(旧 八尾村、曙川村、西郡村)、東大阪市の一部(旧 若江村、弥刀村、小阪村、高井田村、意岐部村、楠根村、玉川村、西六郷村、北江村)が含まれた。
若江北遺跡など

 若江北遺跡は、昭和9年(1934)の楠根川改修工事の際、大量の弥生式土器と土師器・瓦器等が発見された。当時の若江村・信行寺住職の巨摩春峰師の努力により収集と所在地確認がされた。その後昭和46年(1971)の楠根川改修工事でも所在確認され、昭和49年近畿高速道路建設の際には財団法人大阪文化財センターの発掘調査により弥生時代から中世の時代まで連綿と続く複合集落遺跡であることが確認された。
 従って遺跡で発見された弥生前期の水田に残る足跡を見たとき、(足跡残る遺跡)村の先人に出合ったような感慨におちいった。遺跡は東大阪市若江西新町3丁目から同市若江西新町4丁目に所在している。これら北側には瓜生堂遺跡がある。巨摩廃寺遺跡は、昭和39年に当時の河内市教育委員会が主体となり発掘調査が行われた。藤井直正氏を中心にして高校生たちも多く携わった。
ここでは、礎石をはじめ巴文端丸瓦片、唐草文端平瓦片、北栄銭など発見される。現在の薬師寺が楠根川の辺りにあったとされていることから享保14年(1729)から享保19年(1734に並河誠所の著わした五畿内志の一つ『河内志』には、河内国若江郡の仏刹として薬師寺をあげ、「一名巨麻堂」としている。現在の薬師寺は移転してきたのであろう。和名類聚抄によれば若江郡は巨麻郷と称せられた。


若江城と蓮浄寺
 
 
 蓮浄寺は、「蓮浄寺の古文書に、初代の住職の正圓が、顕如上人が石山本願寺にご籠城の時に兵糧等を請け合い、身命を徹してご奉仕申しあげ、紀州鷺の森へもお供させていただいたと記されている。」とあり、古刹である。若江村郷土誌において若江城建築の際の余材を持って蓮浄寺を建立とある。
若江城跡には明治初年までは、雑木、草茂る岡上にあり城郭の面影があったがその後開墾して一面田畑になったため大きく変わった。その後若江小学校が建てられた。)
 若江城は足利氏の初世(正平年間)尾張の守護畠山義深家臣遊佐某を河内守護代として城ここに築かせたのを始めとする。これより畠山氏代々この地を根拠とする。歴史的に年代がはっきりするのは明徳元年(1390)畠山基国が河内国守護となり、若江城が築かれたといわれている。やがて畠山家の跡目争いが応仁の乱の原因となるなどして日本歴史の大きな舞台に上がることになる。その後織田信長から三好義嗣が若江城の安堵を受けるが、足利幕府の最後の将軍、義昭が若江城に逃げ込んだが、ふたたび堺へ逃れた。織田信長が石山本願寺一揆衆攻めの途上、拠点として若江城をたびたび訪れた。
 そして宣教師ルイス・フロイスらの一行が若江を通った天正9(1581)には城と教会はすでになかったと書き留めている。若江城はおよそ200年近く存在したことになる。若江の北部に西口と東口の字名があり、この東西の通りが今も存在し、昔から地元の人達に「表通り」と呼ばれている。この通りには「だいうす」という字(若江本町四丁目七付近)があり、有名なキリシタン大名の池田丹後守・洗礼名シメアンの若江の教会があったと伝えられている。だいうすは、キリストを指すゼウスが訛ったものだと推定される。表通りには、重要な両出口の西口(薬師寺・信行寺あり)と東口(長寿寺あり)に寺を置き、木戸があり又地元では、高札場が存し、罪人を晒すところもあったと聞いている。(写真は若江城の本丸辺りにある石碑、ただ「社」と刻んでいる。)

若江の地名について

 若江は、地名のいわれに関しても何通りかいわれている。
 一点目は、神功皇后の四年六月に、この地方は大干ばつに見舞われ農作物に大きな打撃を受けた際、大般若経を唱和して雨乞いの祈願をすると、この地に清水が滔々と湧きだして干ばつの被害から逃れたという。このお経の若と江の持つ源ということから若江となったという説がある。この土地は現在でもそうだが、地下を掘れば水がわいてくるように水には苦労しない土地柄である。その水も良質であるので尊ばれた。河内湖のほとりにあった場所という若江の意味もあろう。
 地形的には若江の廻りは湖沼や低湿帯であったので、微高地の若江は自然地形から飲料水には比較的不自由のないところだ。これに関連しているが、明応2年(1493)御陣図に描いた絵図)には小若井と並んで若井と地名に書かれている。歴史過程では若江は大坂夏の陣の折にも若江を若井と書かれている。
 二点目は、『新撰姓氏録』弘仁6年(815))の諸蕃の項に、百済の官吏をしていた若江造(わかえのみやっこ)の先祖が渡来してきたとの記載がある。この付近に住んでいた有力者の名前から由来したという説。若江造は漢の霊帝の苗裔倭漢氏族だろう。

若江鏡神社
 
 この神社は、河内街道の西側に東面し、西には濠を擁しており、樹木に覆われている。雷の森といい、雷神を祭神とする。若江村誌に当社について「記紀にいわゆる『伊弉諾尊伊弉丹尊イザナギノミコト イザナミノミコト」が大八洲を生みついで海川山草木土等の神々を生み給ひ大神加具突智(オオカミカグツチ)(一名火之伎芸速男神)を生むとき丹尊は急所を焦かれて神避りまし出雲と伯伎との界なる比婆の山に隠れ給ひたり諸尊之を恨み十握剣を抜き火神を斬りて三段をなす其の一段は是雷神なり』とあり官幣大社加茂別神社(京都府上加茂)の祭神と同神なり。文徳実録を按ずるに斎衡元年夏四月乙卯朔丙辰(河内志)授河内国大神社塚本本神社として散見せり大日本史には河内国若江郡鏡神社今在若江村按三代実録美濃国有各務氏為各務郡領 各務鏡音相通本社蓋其族居此地者所祀其祖延喜制列小社と記されたり又伊呂波字類抄によれば本社は河内国若江郡二十二座の内とあれば古よりよく重んぜられし神社なりしことを證するに足れり
 先年神社合祀問題厳重にして由緒正しき神社に合祀せらるる神社少なからず隣村弥刀村友井の御剣神社同村小若江の剣神社はこの数に洩れず当鏡神社に合祀せらる(明治42年2月)」」とある。

斎衡元年とは西暦854年のこと。
若江鏡神社の本殿は、銅板葺三間社流造で、実質は一間社流造を中央に相殿を挟んで連結し、全体に極彩色を施している。斗帳及び元禄11年(1698)の奉納になる大般若経六百巻とともに、市文化財に指定されている。本殿前には、雷の手形石と呼ばれる石が置かれている。
 若江城城主畠山政長より三好左京大夫源義継までの代々の城主の崇敬を受けている。(図は河内名所図会の若江鏡神社)

若江鏡神社の位置について
 
ここに示すように国土地理院の地図の上に、四天王寺と若江鏡神社そして六万寺往生院を線で結んでみた。これらは一直線上にあることが地図上では証明された。四天王寺と六万寺往生院は、昔から広く知られているように、一年の春秋のお彼岸には太陽が真東から出て真西に沈むことで有名な寺院である。若江鏡神社の宮司、奥野紀氏にこのことを尋ねてみると「いわれるように若江鏡神社の春秋の彼岸には東の鳥居の上に太陽が昇り、西の本殿の上に沈んでいく。これらについて神社には証する文献はないが古代にそのようなことで、この地に神社が建立されたことは考えられますね。鏡は太陽をとらまえるということは天照大神の話からうかがえます。」と話されている。冒頭に記した江戸期の書物にも若江の夕陽は美しいと紹介されていることと関係深い。火は日であり、韓国語のヒェは太陽を指す。余談だが若江の土地では、大正期に木綿をモンメンと言い(『若江村誌』)、これはまったく韓国語のモンメン(木綿)と同じなので驚く。
 また、明治42年(1909)に当時の流行作家の宇野浩二が、若江小学校の代用教員として赴任し、若江村の薬師寺に下宿していた。宇野浩二が大正14年「改造」に発表した「思ひ出の記」の中に若江と四天王寺の位置関係についての描写がある。
 
「部屋は本堂の隣にあって西向きの窓があり、垣根も塀もないので、寺の庭からすぐ田圃がつづいている。その田圃に田圃がつづく遥か向こうは大阪の街である。そうして、四天王寺の五重塔が黒い影絵のように見える。」

下宿先の西の窓から四天王寺の五重塔が見えるということから、若江鏡神社の位置を推察できる。

なぜ若江鏡神社はこのような位置にあるのか
 
 元来、古代より農耕社会であった我が国では、自然現象を尊び特に太陽信仰が盛んであった。春秋の彼岸には太陽が真東から昇り、真西に沈むことから太陽に対する自然崇拝が行われたことは自然と理解できる。仏教の教えである日想観にも通じることである。農業を行うには種まきから収穫に至るまで暦代わりに太陽の動きをみて一年を営々と従事していたであろう。冬至や夏至に至る時期も太陽のなせる影とかで知ることができたであろう。若江鏡神社は今でもそうだが東の鳥居から西の本殿にかけて東西の線上に位置している。この位置することから毎年の春秋を感知することが容易になっていただろう。
 若江鏡神社の由緒には火神や雷神という自然現象や太陽を連想させるものがある。鏡神社は鏡を作る部(べ)が存在したことも考えられるが、当時では鏡は太陽をとらえる霊能物として崇められたとも考えられる。

若江の生活風景
 
 宇野浩二の「思ひ出の記」に明治末の若江村の情景や生活ぶりが出ていて興味がわいてくる描写が続く。
 浩二は、中河内郡若江村への赴任を記す文章で、
 「(私の)祖母は南河内郡の出であつた。家は代々の庄屋であつたが、彼女は早く母親を失った八人兄妹の長姉に生まれた(略)。その祖母に中河内郡の小学校へ行くことを打明けたところ、『それもいいかもしれないね(略)、中河内というところは、河内の国でも又特別に粗食をするところだから・・・』という。」浩二は関西線八尾駅から若江に向かって歩き「(中略)、広い、真白な砂の、どこまでつゞいているのか分からないやうな平坦な大道の両側には、先にいった昔の綿畑がつゞいているのだ。畑が畑に続いているばかりで、稀に右手とか左手とかの離れ離れの場所に村落が見える外、全く川にも森にも出遭はなかった。右手の方に二里ばかり離れて志(ママ)貴山から生駒山へとつゞく山脈が、屏風のやうに立っているのと、左手の方に三里ばかり離れて、大阪の町が煤煙と一緒に横たはつているのが見えるだけで、見渡す限り咽せるやうな乾き切つた野原だった。」(写真は宇野浩二)

 寺の名前は小説では、正願寺とあるが実際は薬師寺に下宿する。また、小説に戻る。隣村の寺住職の老母が留守番をしていた寺で、浩二は、「この老母に賄いされる。なるほど、宗右衛門町の祖母がいったとおり粗食で弁当はたいてい沢庵だった。家でのお菜はまたかと思うほど瓜が出たのに閉口する。瓜でもいろいろあったが、とりわけ胡瓜の煮たのは全く閉口だった」。宇野が嘆く明治末期の若江(おそらく若江に限らない)の食生活事情があまり変わらずに戦後まで続いていたことに感慨を持つ。

薬師寺と美女堂
 
 柏原の商人、三田浄久(1608―1688)が寛文12年(1672)に、河内国の地誌編集をし、自ら大地図を作り、実地調査を行い、延宝7年(1679)、72歳の時「河内鑑名所記」を刊行した。このなか当時の名所は勿論として、有名文人の狂歌、俳句が収録されている。若江村の項目では、薬師寺が記載され、「若江村観音 びぢょ御前のまもり観音と申し伝侍る。」とある。多田満仲第四男、美女丸の祈願所であり山号を美女山と称する。この観音の御顔は美女丸を模していると伝わる。高名な仏師、春日の作と伝わる。これらは前述の巨摩廃寺との関連が深く河内源氏との広がりがある。(写真は薬師寺)

若江寺

 
 日本に仏教が入り有力豪族が支える氏寺は、飛鳥・白鳳時代には大阪府下に六十か寺を超えてきた。東大阪市では若江寺、石凝寺(いしこりじ)、法通寺、河内寺などがある。若江寺は若江小学校から南側にかけた一帯に所在していたようで、若江鏡神社の西方に寺垣内という字名があるのでこの辺りに存在していたであろう。発掘された瓦は白鳳期(七世紀後半〜八世紀はじめ)のものから奈良、平安、鎌倉、室町の各時代にわたっている。若江寺の古文書への記載は、平安時代に比叡山延暦寺にあって天台座主となった尊意僧正の伝記である『尊意贈僧正伝』や室町時代の『長禄記』などにみられる。当時の日本において非常に少ない絞胎陶が若江寺跡から出土している。絞胎陶は、平安京、大宰府といった官衙、大安寺など有力な豪族が関わった建物や寺院にみられ、数少ない輸入品であり、若江寺ではおそらく仏具に使われたようだ。
 このような若江寺には氏寺としての有力豪族の存在や、当時の若江の持つ地勢的な有利性、例えば江で表せる湊の機能を備えていたし、陸路では若江の南に接する十三街道(当時は龍田越道)があり、交通の要所でもあった。
 有力豪族として考えられるのは、巨摩廃寺で前述のように、大狛の連という高句麗からの帰化した氏族が浮かび上がってこよう。


若江寺の釈迦涅槃図
 
 ここに『あしたづ』創刊号(平成9年発行)がある。このなか河内の郷土文化サークルセンターの当時の会長、故滝住光二氏が若江寺にあった「釈迦涅槃図」を京都府加茂町(現・木津川市)の常念寺に保存されていることを調べられた顛末がある。この涅槃図は重要文化財に指定されている貴重なものである。写真は『加茂町史』第一巻からのものであるが、『加茂町史』には、絹本著色、縦230p・横190pの大幅で、横たわる釈迦を中心にした通常の涅槃図であるが、のびやかで力強い筆致、華麗な彩色は見るべきものがあると書かれている。もとは河内国若江郡の寺にあったものを、忍禅らが寛正3年(1462)6月に灯明寺別院の興法院へ施入したことが、裏書によって明らかになっている。滝住氏は、「加茂町史誌編纂室の方の説明をお聞きしますと、『常念寺は天台宗の寺で元は灯明という別院の興法院から常法寺に変わった寺です。涅槃図の右上肩に、墨書きで消されていますが、河内郡若江寺の名が薄く見えます。レントゲン査定でもすれば全体の文字もはっきりすると思いますが、裏書もあるので、そこまでやっていませんが元若江寺のものであることは間違いないでしょう』とのことでありました。」

と、「元河内若江寺にあった重文の涅槃図を加茂町常念寺で発見するまで」(『あしたづ』創刊号)と題してご執筆されたのを、ここに抜粋させていただいた。(写真は釈迦涅槃図)



若王寺と光蓮寺
 

 若王寺という寺が、蓮浄寺の北辺りにあったと考えられる。天台宗に属し創建年月不詳。礎石及び地形並びに八尾市南木の本、光蓮寺文書によれば古刹である事ははっきりしている。
 畠山氏が若江城を支配している折、兵火に罹り大伽藍を烏有に帰り、その後再建せられたが文明の頃(1470年頃)、本願寺蓮如に帰依し改宗して真宗となる。後、天正年間に中興浄教の光佐に従い一揆に加わったため再び寺は灰燼になった。その後再建ならず。ついに八尾・南木の本に移り光蓮寺と改称し今日に及ぶ。現今、山号を若江山と称し寺内支坊に若王寺を存しており、若江と深い関係を証している。
 私も光蓮寺を訪ねたが物部守屋と聖徳太子が戦った、守屋の拠点である稲城跡に建立されており、住職の稲城和尚は苗字として、稲城を名乗っておられる。大変興味深い古刹だ。若江の蓮浄寺の住職に以前、お聞きした話では、光蓮寺のある南木の本には、蓮浄寺の壇家が何軒かあり今でも壇家参りしているとのことだ。若江と南木の本の関連が浮かび、そのルーツについてさらに調べたいと考えている。(写真は光蓮寺)
 末尾ながらご協力賜わった方々に心よりお礼を申し上げます。 
   
                                                   (まち・むら文化研究会)
参考文献
 『若江村郷土誌』 若江村 大正5年
 『若江北』 財団法人大阪文化財センター 昭和58年
 『東大阪市の歴史と文化財』 東大阪市教育委員会 平成15年
 『若江小学校創立120周年記念誌』 東大阪市立若江小学校 平成6年
 『大阪府史』第四巻 大阪府発行 昭和56年
 『加茂町史』第一巻 加茂町教育委員会 昭和63年
 その他web
この小文は河内の郷土文化サークルセンターの発行『あしたづ』第15号掲載しました。