東大阪芸人列伝                 

                           杉山三記雄
(@玉子屋円辰A桂米之助B広沢瓢右門C興行師岡田政太郎編)


@漫才の祖 玉子屋円辰

 
 玉子屋円辰(本名、西本為吉)は徳川幕府がまさに崩壊し明治維新という、いわば革命期を迎えつつある慶応元年( 1865)、河内国、池島村(現在の東大阪市池島)に産声を上げた。上方芸能の革命児が誕生するには、まさしくふさわしい時期に地上に舞い降りた。円辰の字はただしくは圓辰と書かれた。彼は敗戦の前年の昭和 19年(1944)に亡くなっている。円辰が生まれた2年後に稀代の興行師、岡田政太郎が同じ池島村に生を受けているのは何か運命的なものを感じる。岡田政太郎については別に触れるとして、このふたりは演者と興行というからみで全国に上方芸能のブームを巻き起こすことになる。

円辰の誕生

 玉子屋円辰は、池島で農業を手広く営む島中芳五郎の3男に生まれた。彼の出生の翌年、慶応2年には幕府による長州征伐の疲弊から、全国の村々では打ちこわしという百姓一揆が起こり河内国にも波及し、同年に東海地方からはじまった伊勢神宮の御札が降ったとの「ええじゃないか」の狂乱が広がり近隣の宿場町、松原にも降札の騒ぎが発生。
 時代の大きな変化と混乱が勃興した。当時の池島は水田や畑に囲まれ、遠くから眺めるとまるで海に浮かぶ小島のようであった。(この地形から外部からの攻撃に強いので池島城が構えられていた。)古代の条理制の遺構がいまだに残り、村全体は東方の生駒山の懐に抱かれるような位置にある。村のすぐ南側には十三街道が東西に走り、東側には東高野街道が南北に横たわり人と物の行きかう“交流する村“ともいえた。 当時の街道は河川とともに交通の重要なインフラストラクチャーであり、経済、文化、情報、芸能などを運ぶ幹線であった。円辰は明治14年(1881)に西隣りの市場村の西本リカの養子になった。長男は兵役を免れることができるという当時の事情もあり、家業の鶏卵の販売業を営むようになった。円辰の名誉のためにも明治初めの入隊忌避の風潮に触れると、政府からの徴兵に対しても村役場では「兵隊に行けるような健康な該当者は一人もおりません」との虚偽の報告している記録が残っている状況だった。商売上手の彼は近辺の村々の農家から卵を手広く買い求め、町まで売りに行き、卸業もかねていた。そして持って生まれた美声と長身で美男子という容姿も加わり、彼の得意な江州音頭が近辺の村々の評判になっていた。江州音頭と河内音頭とは、一般的には区別がつきにくいが、正確に言えば江州(今の滋賀県)から来た音頭は江州音頭と呼ばれるが(正確にはこれには八日市節、しがらき節がある)河内に入り込み親しまれて百年は過ぎているので、今ではこれらをひっくるめて「河内音頭」と呼ばれている場合が多い。

のどかな田園風景の中、ひときわ背の高い男前、円辰が田舎道を得意な音頭を口ずさみながら農家から卵を買い集め、十三街道・暗越え奈良街道などを通り町に売り歩く姿を想像すると、河内音頭まで聞こえてくるような錯覚さえする。

河内音頭の土壌

そういう私も子供の頃、1950年代でも盆時分には各村で何人かの音頭取りが必ずおり盛んに河内音頭は唄われ多数の踊り手が所狭しと踊っていた。当時、村々では娯楽は少なく、はなやかでリズミカルな盆踊りは大きな娯楽として庶民の生活に入り込んでいた。社交場でもあり土地の男女の出会いの場であったのだ。櫓の上から音頭取りが威勢良く唄い始めると下の踊り手が“ヨイトヨーヤッマッカッ ドッコイサノセッ”と合いの手入れ会場が盛り上がった記憶がよみがえる。

ましては円辰の活躍していた明治期や大正・昭和初めは、河内音頭がいかに盛んだったかは想像するに時間はかからない。円辰は村では”声為”と称せられるほど声のよさと音頭のうまさに定評があった。彼は後に本格的な江州音頭の修業のため滋賀県八日市に行き習得した。さらに名古屋に出かけて名古屋万歳を修業することになる。

漫才を生む

"声為"は当初はアマチュアで人気を博していたが明治20年代が終わるころ、玉子屋為丸の名で千日前に音頭取りのプロとして出演したのがデビューとなった。後に歌曲を中心として人気のあった伝統的な名古屋万歳を勉強して、民謡、落語、歌曲などあらゆる芸能を取り入れ、今の掛け合い万歳の型を生み出し、人気を博した。万歳の歴史は古く、年の始めに、河内にも三河から風折烏帽子(かざおりえぼし)を戴き素襖(すおう)を着て、腰つつみを打ち、当年の繁栄を祝い歌って舞い、米銭を得ていた。太夫と才蔵が連れ立ち、才蔵の言う駄洒落をたしなめるといった形式で滑稽な掛け合いをするものであった。万歳は古くから大和万歳や河内万歳、三河万歳があったが比較的に歌曲を中心とした名古屋万歳は、観客の間では人気があった。これに比較して大和万歳や河内万歳は口上が多くて地味なものであったので観客の笑いを誘う要素が少なくて寄席の舞台には不向きだった。河内音頭は一曲に小1時間かかり3曲もやれば3時間とかかる。これでは客が退屈するので、複数で演じる名古屋万歳を取り入れ創意工夫することにした。音曲を取り入れた中、太夫と才蔵の掛け合い(いまでいう“ボケとツッコミ”)を舞台にうまく使い、河内音頭を短くしていった。彼の工夫と努力で現在の上方漫才の原型が生まれたのである。この漫才の原型を生み出すには円辰のあくなき大衆芸能への研究とサービス精神そしてエンターテインメントとしての技の磨きがあった。

玉子屋円辰という芸名のいわれは商売で卵売りをしていたこと、背が高かったことがある。当時では高いのは煙突であり、訛ってエンタツ=円辰となったらしい。昭和の初期に活躍するエンタツ・アチャコのエンタツも自伝では、背が高いので“エンタツ”という芸名にしたと述べておるが、これにはおおいに疑問がある。実際には彼はそれほどの背の高さはなく、円辰の身内の話では、エンタツが駆け出しの頃売れなくて円辰が東京で公演して大阪を留守にしている間に、勝手に円辰という売れっ子の芸名を使用していたのを帰阪した円辰が叱ったという話がある。また、このコンビは円辰の孫弟子筋に当る。

 漫才が誕生し全国にブーム

玉子屋円辰は明治35年の河内音頭ブームに乗り将来を見すえた先進性でもって、人気のあった落語や浪曲を追い越すような歌曲、掛け合いを取り入れて面白い漫才のパターンを生み出し、昭和に入って“万歳”から“漫才”と書き換えられていった。ここに今東光の小説「夜の客」に描かれている円辰を紹介しょう。      

《大阪漫才という、あの大阪言葉のやりとりの妙味で、人の頤(おとがい)を解く芸はこの玉子屋円辰が祖ということになっているが、この一座の呼び物は何といっても河内音頭で、河内人の情感をゆすぶり立てたからであろう。》

加えて円辰の偉大なところは明治30年代から昭和8年の引退興行まで38年間にわたり漫才の帝王として君臨し、この間には多くの弟子を育て、今日の上方漫才の隆盛の基礎をなしたことだろう。一方、池島村出身の岡田政太郎の興行師としての大活躍、それにつづく吉本泰三・せい夫婦の活躍により興行界での台頭と、これらの相乗効果の図式ができあがっていき上方漫才ブームに拍車をかけた(次の写真=円辰愛用の煙草盆)

     
 円辰愛用のタバコ盆  喜味こいし  夢路いとし

弟子の育成

     前述のように円辰の弟子には多くの有能な芸人がおり、特に弟子の荒川浅丸(当時の布施町今の東大阪市荒川出身)は、特筆すべき人物だろう。のちには河内丞(かわちのじょう)と改名するが大正前期には関西万歳界を玉子家、荒川、砂川のビッグスリーが競い合って牛耳ることになった。浅丸の弟子の芳丸が後の夢路いとし、喜味こいし(当時の荒川芳博・芳坊)(上の絵、左より喜味こいし、夢路いとし)や人生幸朗・生恵幸子、花菱アチャコ・エンタツに通じ、西川きよし・横山やすし、オール阪神・巨人と脈々と現在まで引き継がれてきている。そして円辰から影響を受けたコンビにはチョビ髭とつつみ打ちで有名な砂川捨丸がいる                                                                      

 ビート・タケシの北野武、島田紳介は、今でも芳丸を尊敬していると述べているのは注目に値いすることだろう。現代の若者に人気ある新しいやり方で漫才をしている彼らも漫才の源流は誰が編み出したのかを見極めて尊敬しているのである。一方音頭の世界をみても河内音頭を源とし今では中村美津子や天童よしみなど全国的に活躍する有名歌手も売り出し前は盆踊りのやぐらの上で河内音頭を唄い修業してきた。円辰の地下水脈から生まれ土壌に育ち、磨きをかけて高名を派するようになった。

 
奉納された額

土壌に咲き脈々 円辰が没して60数年経た今も池島、横小路、六万寺にはしっかりと伝統と歴史が継がれている。私が特に、つてもなく知り合いもないまま、横小路の街を取材のため歩いていたが見つからず諦めようと思っていた矢先にアイガードで児童の安全のため路上に立っておられた方に「この辺で音頭取りの方はおられませんか」と声をかけたところ、とあるお宅を教えてもらった。江州音頭の「なにわ伝統芸能達人」で大阪府知事賞を授賞された河内家芳春(本名 宮脇義胤氏 東大阪市横小路在住)師匠のお家だった。あとでわかったのだが玉子屋円辰の直弟子、やんれ節を生み出した玉子屋千代鶴(本名 宮脇とく 池島出身、のちに荒川芳春と結婚)の甥にあたる人で3代目河内家芳春師匠である。師匠から大正7年、高砂神社に奉納された額の写真(左の写真)を拝見した。矢違いの家紋入りの奉納額には河内家芳春一行として萬歳笑劇とあり演目の一つに名古屋万歳とある。この時代には名古屋万歳が打たれており、万歳が漫才に移行する前を証する貴重な資料だ。ちなみに万歳が漫才に変わったのは前述のように昭和初期の横山エンタツ・花菱アチャコが活躍した時期だった。河内家芳春の弟子、石井均の弟子だった西川清は一時、石井に破門されたが、今でも紋付袴姿になるときは羽織には矢違いの紋をつけるという。芳春師匠に江州音頭の出だしを唄っていただいたが、鍛えられた喉と節回しに聞く側が圧倒されるほどの芸に驚いた。現在、河内家芳春会は百人の弟子を擁している盛会さだ。円辰の力の影響は現在にも地域にしっかりと根をおろしている。さらに偶然と言える出来事が起こった。筆者の友人が1冊の書き物をくれた。よくみると“為丸一流と書かれている。為丸と言えば円辰が若い時分に名乗っていた芸名ではないか。この出所をたどるべきと友人を通じて元をたどっていくと何と円辰のひ孫 2代目玉子家円辰(本名 東 秀行氏 東大阪市下六万寺在住))とわかった。人とのご縁に感謝しながら早速に連絡を取りお会いしてお話を伺うことになり、初代円辰のことや資料など提供していただく良き機会を得ることになる。さすがに円辰の血をひく方であって初代を彷彿させるお顔で笑顔の柔和な師匠だ。音頭取りのお家に生まれたので御両親か身内から音頭への道を請われたのではとの質問に対し、「子どもの頃、近所の兄ちゃんが浪花節や音頭を口ずさんでいたのを聴いて自然と音頭を楽しんでいた」と説明された。その頃には近所の青果市場には村の人の娯楽に浪曲師の公演も度々あったこともあり、自然となじんでいたとのことだ。2代目師匠にも江州音頭のひと節を唄ってもらったところ、聞いたことのある初代譲りの美声の持ち主だ。玉子屋円辰を源流として、玉子屋千代鶴、河内家芳春そして2代目円辰、さらに興行の先覚者、岡田政太郎と大河の流れが小さな池島村から大きな人々を輩出してきている。玉子屋円辰の墓碑(左下)を前にして、村の墓に帰った彼を見て、まさしく“落葉帰根”という古い四文字が胸にめぐってくる。彼は“いまだに死せず“河内野を音頭を口ずさみながら今日も闊歩しているに違いない。

最後になりましたが、小文を記すにあたりまして御協力賜りました河内家芳春師匠(本名 宮脇義胤氏)、2代目玉子家円辰師匠(本名 東 秀行氏)、関 光雄氏、北山 良氏他お世話になった方に厚く御礼を申し上げます。

注:『河内どんこう』83号に掲載しました小文から1部を記載しました。

参考:村井市郎著 八尾市発行『河内の音頭いま むかし』

前田 勇著 杉本書店刊『上方まんざい八百年史』

東大阪市史編集委員会編集 発行『東大阪市史 近代一』

その他ウィキペディアなどウェブサイトを利用させてもらいました。

(まち・むら文化研究会)



A没後10年

桂米之助師匠を想う                  山三記雄

 落語好きな人が多い。落語は、鍛えられた話術で人間のおかしさや悲しみを伝えながら噺の世界に引き込んでくれる。特に上方落語は、関西人にとって親しみやすい。

(イラスト・米之助師匠)今、上方落語協会に加盟する落語家は185人(平成18年8月現在)と隆盛している。昭和20年代末では、10人足らずの落語家の数に減り、衰退の道をたどっていた。この困難な時期に落語への情熱を忘れずに修業を重ね、桂米朝師匠らと一緒に上方落語の復興に尽力された桂米之助師匠(本名・矢倉悦夫)は、平成11年3月に亡くなれて没後10年の今、師匠を偲び、芸そして人となりを振り返ってみたい。彼は、落語だけでなく、東大阪市菱屋東の住人として自治会の会長を務められ幅広く地元のお世話をされていた。

米之助師匠との出会い                                                       ご縁があり、お知り合いになった私は、平成11年の年明けて間もない頃、お勤めだった大阪市交通局を定年退職されていた米之助師匠宅へ落語を依頼するため電話することになった。昭和58年に定年退職され、家におられた師匠の声に心なしかいつもの元気がない。腰痛のため、今は静養中だが春頃だったら受けられるとのことだった。この電話をしてから訃報が、新聞で報道されるまでわずかな期間だった。師匠にお目にかかったのは、師匠のご自宅の近くの菱屋東中地区会館で開かれていた岩田寄席に客として席に座ったときだった。師匠のご自宅も菱屋東中地区会館も暗越奈良街道のすぐ南にあり土地の人たちは岩田地区と呼んでいる場所にあり近鉄奈良線若江岩田駅を最寄り駅とする。こういうところで地域寄席・岩田寄席が開かれていた当時は地域寄席はあまりなく、島之内寄席が有名だったぐらいだろう。お話を交わすことになったのは、ずっと後の昭和56年3月6日になる。私は当時、東大阪市役所の職員自主研修サークル「木曜会」の会員として、地域の文化振興に関心を持っていた。当会では『落語と講演の夕べ』に米之助師匠をお招きすることになった。(写真・チラシ)

会場は市民会館集会室だったので演台もなく、演じにくい会場だったが、我々の依頼にも気安く応じていただいた。落語を終え、師匠からお話しをお聴きすることになった。戦後の上方落語界では大御所といわれる方が、櫛の歯が抜けるように亡くなり落語人気は衰え、柱になる落語家は、わずか5人で頑張ってきた苦難の時期を話された。そして、師匠と四代目米団治の関係にについての話に感銘を受けたので、ノートに記したのが現在も手元にある。後日、当時の木曜会報において、私は次のように記している。「私(悦夫)が師匠から落語を習い始めて、芸の伸び悩みで稽古を休んでいたとき、米団治師匠(当時、先代米之助)から次のような手紙をいただいた。「スランプに悩んでいるようだが、私は静かに見守っています。スランプとは物事が解けかけ、先が読めるようになって現実とのギャップに悩むことです。大いに悩みなさい。それがきっと君の将来にとってプラスになるでしょう」この手紙のお陰でスランプを乗り切れたと語られていた。また米団治師匠は落語家の心がまえとして、米団治師匠は「好きな芸を披露してお客からお銭をいただいているので芸人は、芸を磨き、芸の法悦に満足し、噺を聴いた、お客が明日も元気に働こうと元気づけるのが役目であり、芸人の生活は清貧でなければならない」と説いた。また米之助師匠は「落語を習い始めた若い時は、色々と無茶もしたが歳をとっていくと治まっていくもの。自分の子供にもそのように接している」とも述べられていた。

米之助、米朝、6代目松鶴、5代目文枝そして松之助を育てた米団治は、上方落語界の“最も落語家らしくない落語家であり、最も落語らしい落語家”といわれた。人間国宝になった米朝が息子の小米朝に五代目米団治に襲名させて平成20年10月4日京都の南座で襲名披露公演を行った。四代目米団治については、彼の遺稿『凡想録』を取上げ、あとで詳しく述べることとして米之助の人生の軌跡を急ぎ足ながら触れてまいりたい。

落語揺籃の地・東成に生まれる

 桂米之助(本名、矢倉悦夫)は昭和3年11月8日、当時は農村色残す大阪市東成区に生まれる。大軌(近畿日本鉄道株式会社の前身)が大正3年に開通して、米之助の誕生二年後には今里新地が開業。さらに2qほど西へ行けば当時、アジア最大といわれた砲兵工廠という大兵器製造工場があり、東成も工場の職工用住宅が増え、活況づいてくる。彼の生家の裏で、父親は映画館を経営していた。近くには、落語にも登場するお伊勢参りで有名な暗越奈良街道が東西に走っている。近在の新橋通商店街に二葉館(昭和5年新築)、玉造周辺には寄席が多く、河内・池島出身の気鋭の興行師、岡田政太郎が初めて設けた寄席「富貴席」も玉造の西方にあった。東成には、五代目松鶴(住まいが楽語荘と呼ばれた)や米団治など輩出する、落語の“揺籃の地“だった。生来、演芸好きな悦夫少年を環境がさらに刺激したのか演芸、落語に深い関心を抱くようになる。エピソードが桂米朝と米之助の語らいで『米朝座談1』著者 桂米朝 岩波書店―に収録されているので紹介してみよう。

米朝 3年生か四年生かちゅうような。小学生がやで、天王寺さんの石の鳥居の額の字を読んだんや。先生が「あれになんと書いてあるか、君ら知らんやろ?」言うたら、「知ってます」。「なんて書いてあるか言ういてみ」「釈迦如来 転法輪所 当極楽土 東門中心!」。ビックリしたやろ。そら小学校の先生は。「なんで知ってる?」「落語で知ってまんねん」。そらね、落語もあだやおろそかに聞けまへんで。『四天王寺詣り』にちゃんと出てきますさかいな。・・・。

南光を司会にして米之助の「古希の会」に座談会をもっている。米朝は米団治に入門したのは米之助の二ヵ月後なので弟弟子となるが齢は三歳年上となる。

このようなことで、米朝にして弟子が落語について分からないことがでると「岩田の師匠のところへ行って聞け」と言うようになり、米之助は、まさしく落語界の生き字引的な存在になる。

落語と同伴・戦中戦後の青年期

 演芸館や映画館を経営していた父親は、息子は固い公務員になって欲しいとの願いで悦夫少年は、昭和一八年に大阪市交通局に就職する。厳しさを増す戦争下の昭和19年3月に政府から高級興行歓楽場に閉鎖命令が出て、歌舞伎座は戦力増強館と名前を変えた。昭和20年3月の大阪市内の空襲後も悦夫少年は、古本屋に顔を出しては、貴重な映画、落語の資料を収集している。悦夫少年の演芸関係の資料については、東京在住の作家、正岡容(いるる)が驚嘆するほどで、正岡は、古川ロッパや徳川無声などに悦夫少年から送られた貴重な映画ポスターを見せている。この正岡の紹介の名刺を持って中川少年(のちの米朝)、米之助と知り合うことになる。この出会いにも米之助の記憶のよさと几帳面さを示すエピソードがある。米朝は、昭和22年八月、当時四ツ橋にあった文楽座の「上方趣味・大阪落語会の会場で米之助を笑福亭松之助(のちの六代目松鶴)に紹介された。このとき中川少年が持っていた正岡容の名刺、「小生門人中川清参邸 レコードのこと何分希上候」と書かれた名詞を米之助は、後々まで大事に保管している。

彼は昭和22年四代目米団治に入門し、三代目米之助を名乗ることになる。続いて中川少年が入門する。そして長谷川多持(のちの五代目文枝)は昭和22年、大阪市交通局に入り、踊りを習いたくて当時、同僚だった米之助に相談すると四代目文枝を紹介された縁で落語家になり、修業し上方落語四天王の一人となる。(文枝との写真)現在活躍の上方落語家に大きな影響を与え、落語家としての心構えと芸を導いた、米団治についてもう少し書いていくことにする。


代目桂米団治   米之助と一緒に米団治に焼酎を飲みながら夜中まで芸談義を聴きながら勉強した米朝は、「四世桂米団治遺稿『凡想録』について、私はまったく知りませんでしたが、師匠の没後、兄弟弟子の桂米之助がこれを譲りうけていて、私が初めて見たのは、ずいぶん後になってから」と語っている。米団治の本名は、中浜賢三、中浜静圃と言う筆名。落語家ながら生活のために代書屋を東成区(現在は東成区役所敷地の一部になっている)で営む。万年床に潜り込むように眠るなど奇行が多い人だったが、名文家で達筆の持ち主でもある。米之助も師匠譲りの達筆家で名文の人なり。(米之助サイン)『凡想録』の中、戦争末期、昭和20年5月30日に記された文章を紙面の関係で抜粋を絞って紹介したい。

「文武両道は両輪の如しとは、実に名言である。

武道が地に落ちた時、その国は崩壊する。

武が文を制圧した時、その国は破潰する。

一国に於いて然り。

一家に於いて然り。

一身に於いて最も切実に然り。

戦局が厳しく、軍部の国民への監視が厳しい時期の文章である。

五代目松鶴師匠と戦後の落語 

 米之助が古本屋をあさっていたら「上方はなし」を見つけ、奥付をみると大阪市東成区片江414番地、竹之内梅之助、」発行所・楽語荘とある。近所だったことも有り、憧れの師匠の顔を見たくて片江の近辺を探索した。そうこうする内に、憧れの師匠ともご縁が生まれ、家に参上する機会を得ることになる。家の書棚に正岡溶の私家版「寄席囃子」を始め、吉井勇、久保田万太郎などの落語愛好の文士作品集等々貴重な本の数々が整理されて収蔵されている情景に圧倒される。

戦災にめげずに、昭和20年11月に復興第一回「上方落語を聴く会」を大阪四天王寺の本坊で開催。とにかくみんなが虚脱状態で服装も戦時中の名残の戦闘帽にボロの雑嚢を肩にかけたりして、足にはゲートルを巻いたり、地下足袋姿がほとんどだった”と米之助は『上方落語よもやま草紙』で述懐している。昭和23年6月、「上方落語新人会」いわゆる「さえずり会」が結成され、六代目松鶴、米朝、米之助、桂綾之助さんの息子、義男 あとで三代目春団治、小つる、そして遅れて加わるのが三代目南陵のメンバー。昭和25年、五代目松鶴師匠が亡くなり、続いて立花家花橘師匠、26年には米団治師匠が亡くなり、昭和28年には二代目春団治師匠と続き、上方落語も絶滅状態になる。マスコミも世間も“えらいこっちゃ!”と言いだすと、“何をぬかしけつっかねン、今に見てみィー”と米之助は奮いたつた。

NHK、三越、宝塚などの「若手落語会」にレギュラー出演し、芸の修業と落語の復興に情熱の火は絶やさなかった。

岩田寄席の思い出

 米之助が地元・東大阪市菱屋東の菱屋東中地区会館で若手落語家の勉強の場として、昭和47年8月12日から毎月1回開いた地域寄席「岩田寄席」の存在には誠に大きいものがある。最寄の駅が近鉄奈良線の若江岩田駅であることから名づけられた。米之助師匠の居宅とはごく近所の場所。メンバーは桂小米(のち二代目枝雀)一門のべかこ(のち南光)、六代目笑福亭松鶴一門の松葉(のち七代目松鶴)、三代目桂春団治一門の春若、桂米朝一門の米太郎と米輔の5人。桂米太郎死去後は、桂小文枝(のち文枝)一門の文福が新たに加入した。私も何回かこの寄席に行き、楽しませてもらい元気をもらったので今でも感謝している。客の40人も入れば一杯の会場だ。少年の雰囲気を漂わした南光(当時は、べかこ)は、私は内心落語家になれるかどうか、心配する噺の状態だった。さすがに何月か過ぎて見ると、べかこは、師匠仕込みもあり、客席を通り過ぎていくときのさわやかな姿に芸人を感じ、芸に重みが出てきた。笑福亭松鶴一門を引き継ぎ、七代目松鶴になった、松葉は、真面目な性格を示す端正な顔だった。彼の夭折が惜しまれる。すでに人気者になっていた、明石家さんま、ざこば(当時、朝丸)も忙しい中を縫って特別出演して、座を盛り上げ、後輩達の指導に怠りない(写真=菱屋東中地区会館)

「岩田寄席」は、平成4年7月11日の第239回で終了し、翌8月8日に東大阪市立文化会館ホールで『岩田寄席二十周年打ち上げ公演』が開催された。米之助師匠は、功績を認められ昭和五六年「日本芸能実演家団体協議会」芸能功労者受彰、58年「第12回上方お笑い大賞」功労賞を受賞。著書に『落語漫歩 大阪ふらり』『浪速なんでもばなし』『上方落語よもやま草紙』がある。

陰で支えた信子夫人

米之助師匠のことを書かせてもらうにあたり、信子夫人にお会いする機会を得られることになった。本当に気さくに、お話もお聞きできることになり、貴重な写真(掲載の師匠の写真全て)の提供も受けた。ご協力を賜り、深く感謝申し上げます。

「交通局で働いている若い時は、落語関係などの資料集めの費用がかさみ、交通局の給料だけでは大変やったが、振り返れば芸の肥やしになったと思います。主人は辰年で性格は強く、加え11月生まれなので強いものがありました。米朝さんも11月生まれだから最後までやりとげはぁります。主人は大阪市交通局で働いていて、すでに世帯を持っていたので落語と勤め人の両方の道を選び、落語家で一本とはいきませんでした。」と話された。

岩田寄席の指南役兼世話人は米之助であるが、岩田寄席20年も支えた舞台裏の功労者は夫人であることは間違いない。舞台後の出演者へのねぎらいのための食事、お酒の準備など世話には並々ならないご苦労があったことは容易に想像できる。米朝が岩田寄席の打ち上げ公演で「特に米之助家の御内室様には、深く御礼とおわびを言わねばなりません。よう辛抱して下さいました。おおきにおおきに。」と感謝の意を表している。この“おおきにおおきに”の言葉に尽きる気がする。

 最後になりましたが、小文を記すに際してご協力を賜りました矢倉悦子夫人へ重ねて謝意を述べますとともに、高石ご夫妻、川口誠次さんに紙上を借りまして厚く御礼を申し上げます。(まち・むら文化研究会)
参考:『落語漫歩 大阪ふらり』桂米之助著『上方落語よもやま草紙』桂米之助『米朝座談1』桂米朝著『あんけら荘世話』桂文枝著『 東成区の芸能文化ガイドブック』へ大阪市東成区役所編集発行 
(この小稿は『あしたづ』第11号に記載しています。)



B遅咲き広沢瓢右衛門

 

                       杉山三記雄

 今から20数年前になるだろうか。ふと見たテレビのある放送局の芸術祭参加ドラマのなか、テレビ放送局のプロデュサーという役で河原崎長十郎が近鉄奈良線の花園駅に降りるシーンを見た。そのプロデュサーは毎日のサラリーマン生活に疲れ、天衣無縫な放浪芸人の浪曲師・広沢瓢右衛門にあこがれ、花園に住む彼の家を訪問するところから始まるものだった。その後続くストーリーは残念ながらよく憶えていないが当時の私も 窮屈な宮仕えの身分であったので、河原崎が演じるサラリーマンが広沢瓢右衛門にあこがれる心情に共感を抱いた。その頃、売れっ子になりだした瓢右衛門だったが何しろ80歳過ぎての人気の上昇なので、まさしく“遅咲き”瓢右衛門だった。(写真・近鉄奈良線の花園駅)その後私から、彼の存在は薄くなっていったが数年前に偶然聴いたラジオ“おはよう浪曲”という早朝番組、彼の浪曲「雪月花三人娘」の登場人物を生き生きと語る芸の素晴らしさに驚いた。神戸・布引の滝で、オッチョコチョイな、やくざが三人寄ってたかって若い女をかどわかそうとする筋立てには破天荒のところがあるが、やくざの河内弁の迫力と面白さに魅了された。私は、この「雪月花三人娘」の録音テープやCDを購入しょうと思い、インターネットで探しやっとの思いで小沢昭一が収録した「日本放浪芸」のCDを手に入れることができた。これは昭和49
年(1974)東京・紀伊国屋ホールでの公演の収録だった。そして広沢瓢右衛門について少し調べてみたいと思い、彼の住まいだって花園駅前北商店街を少し下った長屋を探しに行った。現在は無人だがかろうじて家屋だけ残っている。しかし隣りの家はすでに壊され住宅地として売り出されていた。(写真の手前・瓢右衛門の旧宅)
 調べて解ったことだが、浪花節の名人といわれた瓢右衛門の人生は前記のテレビ局のプロデュサー氏がうらやむようなものでは決してなく、瓢右衛門の、身に着けた、芸はまさしく地を這うようにして得たものであった。では彼はどんな人生の軌跡を辿ってきたのだろうか。

広沢瓢右衛門の足跡

広沢瓢右衛門、本名は小島美士五郎という。生まれたのは大阪市難波新川3丁目で明治30年(1897)10月17日のことであった。平成2年(1990)2月17日、93歳で亡くなった。

 父親は鹿谷貞次郎といい、床貞という床屋を営んでいたという。母親の名はサトといい、女中奉公していたとき父親が渡り職人としてきたので知り合い、2人で村を出て大阪で所帯を持った。瓢右衛門は5人兄弟で下に弟が2人いた。父親の稼ぎでは5人の子供が養えないので美士五郎は父親の姉である、伯母の小島ナオところへもらわれていくことになった。10歳のときに養子先の父親が亡くなり尋常小学校卒業し、10歳で堺の床屋に奉公にいくことになった。美士五郎はその頃、すでに人気のあった浪花節に関心を抱いていた。堺の奉公時代は床屋の修業で剃刀の研ぎでは、指先が曲がるほど一生懸命に研いで修業する。兄が浪花節語りとあって、ひょんなことからピンチヒッターとして小さな寄席の舞台に上がる機会があった。これが悪声の瓢右衛門が浪花節語りの初舞台となり、彼は13歳のときだった。

 大正2年(1931)美士五郎は広沢当円の弟子となり、芸名、当瓢として旅興行についていく。当瓢は師匠の当円の当と千成瓢箪の瓢から取ってつけられた。むかしから師匠は芸を教えてくれるものではなし、師匠の芸を見て盗んでいくものであった。この師匠の家もチョッとした理由で同年九月飛び出し、門付けしながらの旅芸人となる。当時は地方へ行くと親分衆がおり、結構、困ったときは面倒を見てくれた。旅の中、人気のあった浪花節は瓢右衛門の身を助け、それでも困ったときは少し修業した床屋の髭剃りをしてやっとの思いで糊口をしのぎながら、東京にたどり着いたのは十二月も半ばだった。

生活の安定しない瓢右衛門は、軍都で景気のいい広島へ行くことになったのは16歳の大正3年(1914)。今度の師匠は盲目の浪花節語りの広沢小虎丸。浪花節では天中軒雲右衛門が当時の花形スターだった。広島でも場末の寄席しか出られない当瓢は、そこで雲右衛門にあやかって芸名を瓢右衛門とする。そして瓢右衛門は一度だけ雲右衛門に会ったことがある。大正4年に人に連れられて小遣いをもらいにいったことがある。瓢右衛門が後世、語ったことは広島で大相撲との合同浪花節大会の前座を務めたが、悪声未熟で客席のやじり倒しに涙飲んで舞台から下ろされてしまう。そのときの大物興行師は可哀相と思いポンと大金を彼に渡して遊郭でも行って気分転換しろと慰労した。喜んだ瓢右衛門は遊郭に行き、さぁ相方と・・・思ったら相方は「遊ぶと声が悪くなるから」と彼を気遣い遊ばせてくれなかったらしい。

瓢右衛門 ハワイへ行く

 大正11年(1922)に師匠についてハワイ興行に行った。当時、普通の人には程遠かった、この「ハワイ行き」が後の彼の芸人生活に活かされていくのだった。当時は京阪神だけでも浪花節の小屋は六〇軒余りになり、映画のほうも人気がでだした。この頃では、瓢右衛門はハワイ帰りということで箔もつき、ギャラは上がっていった。瓢右衛門は、また強運の持ち主だった。強運の1回目は、大正12年の関東大震災のときには、ここへ行くはずだったが興行主の都合で中止になり、
2回目は昭和13年に日中事変の際、南京で乗る汽車の乗り遅れたため、中国軍の列車襲撃から逃れ命拾いし、三回目は昭和20年8月、広島へ行く予定がこれも興行主の突然の中止で原爆攻撃を受けず命拾いしている。ハワイ帰りの頃から浪曲の台本は、人から聞いた話や、本を読んだりして自分で作っていた。「雪中花三人娘」やら「英国密航」「自転車の宮様」「アラビア久」など新聞(しんもん)読みといった、新談をものにして寄席に出るようになる。声が悪いだけ内容を練り上げたり、手を加えて客の心をつかむ独自の術を身につけていく。「雪中花三人娘」で登場する外国人のセリフは、当時珍しい“ハワイ帰り”の経験を早速に活かしたのだろう。流行のレコードにも瓢右衛門は、大正15年には浪花節のレコード入りをした。大正期は日本にも社会主義の影響を受け、頭が切れ、弁の立つ、瓢右衛門は芸人組合を結成し、関西で台頭してきた吉本興業に立ち向かい、あげくは、ほされる羽目に陥る。ようやく生活も落ち着いたように見えた瓢右衛門は、この一件で大阪を離れ四国へと旅興行に出るが、小屋に客が一向に集まらない有様だった。

恋女房との出会い

困って東京へと向かうが、泊まったところが浅草七軒町の菓子屋の老舗。その店に明治39年(1906)ひのえ午生まれの東京女子大へ通うスマ子という才媛に出会う。2人は恋に落ちて反対するスマ子の親の手を振り切って大阪行きの汽車に飛び乗る。親も反対するのも無理がない。男のほうは住所が定まらない旅芸人、娘は、お嬢様のインテリ女子大生。お金がない瓢右衛門は芸人仲間に金を借りながら満州まで駆け落ちすることになった。チチハル、奉天と転々としたが同じように転々とする身を売られてきた芸者には親切な者がおり、助けられたものだと瓢右衛門は述懐をしている。箱入り娘のスマ子は、放縦な芸人生活がよくわからず溶け込まれなくて困ったらしい。これもお嬢様にしては無理ないことだ。しかし、芸人生活に慣れてきたスマ子は浪曲の三味線を習い、瓢右衛門と三味線で組んで出演するようになった。当時を振り返り瓢右衛門は、虚栄心がない、おスマに、感謝の気持ちを表せている。大阪に戻った夫婦は西区九条の家に間借りする。

 下火になった浪花節で苦しくなった夫婦は東京へ移るが瓢右衛門は元来のバクチ好きの悪い癖がなおらない。その頃、彼は広沢虎造との交友が始まる。虎造は瓢右衛門とは二歳下の弟弟子だったので、初めは虎造は瓢右衛門を「兄さん、兄さん」と呼んでいたが、次第に虎造に人気が出てくると、瓢右衛門を「オイッ瓢」と呼び捨てするようになったと瓢右衛門は苦笑して話した。それでも瓢右衛門は浪曲界の中堅どころになっており、日中戦争勃発して満州や南京まで行って軍慰問する。軍慰問は現地での待遇はよく、その頃から内地へ帰っての東京でのスマ子との数年の生活は一番いい時期だったらしい。昭和16年、太平洋戦争が始まり、やがて東京が空襲されるようになり広島の鞆へ疎開するようになった。戦争も終わり四国巡業に出た瓢右衛門は琴平で、浪花節も下火だし、58歳になり、落ち着きたいという気持ちもあり映画館を購入する。当時、「君の名は」という映画が空前のヒットを飛ばしていた。スマ子の事業家の弟が大金を出して援助した。しかし、これもブームが去ると長く続かず岸和田へ移る。ここでストリップ小屋の経営をするが、これも行き詰まった時、瓢右衛門は60歳を過ぎていた。元々、おスマの肺がよくなかったので当時、空気のいい花園駅前北商店を少し下った長屋へと移る。スマ子は狭い家に化粧品を置いて、売って家計を助け平穏な生活を続けていたが昭和48年(1973)12月、瓢右衛門に惜しまれて亡くなる。そのとき、瓢右衛門76歳で女房は純真で優しい女だったと彼は心から愛しんでいるほど良妻だった。(写真・孫と瓢右衛門)

遅咲き瓢右衛門

 そんな瓢右衛門は、桂米朝や仲間たちに支えられ人気が出だしたが、女房を亡くした翌年の昭和49年、小沢昭一が招いた「日本の放浪芸大会」が東京新宿の紀伊国屋ホールにて開催、ここに出演し、全国的な人気がじわじわと出だしてくる。恋女房を亡くし一人娘も結婚し家を出たので、料理を一人で作り“自炊男爵”と自称していた。昭和56年(1981)には瓢右衛門はジャンボ機のファーストクラスの席で「瓢右衛門in HAWAI・83歳の青春」という朝日放送のテレビ番組でハワイへ再び行った。前回は1922年に興行で訪問しているのでざっと60年振りのハワイとなる。このときのルポは「週間朝日」(‘81年4月3日号)において四ページにわたり写真入で大きく掲載されている。同じ年の「サンデー毎日」10月4日号には『どないなっとるんや』“なぜかヤングに芸がウケて浪曲師広沢瓢右衛門84歳の秋”という表題のもと、3ページの誌面で紹介されているフィーバー振りである。この中、彼は「美声や円熟味なんてあてにならん。においのある浪花節ないとあかんのや」と語り、「いわゆるナニワブシ的ではない、タンカ(しゃべり)とケレン(笑い)を加えた独自の浪花節を押し通すこと70年。ひょうひょうとしているようで根は頑固な84歳の浪曲師がいま、なぜか若い女の子に“かわいい!”とモテモテ。」と記者は見出しをつけている。

 1982年3月には、瓢右衛門の一代記「悪声伝・広沢瓢右衛門の不思議」堀江誠二著の本が朝日新聞社から発刊されている。そして「週間現代」‘99年10月23日号に立川談志百選に瓢右衛門を取り上げて、談志は自分の先生だとその芸を絶賛している。近所の人が語る当時の様子は、瓢右衛門の狭い家の土間に脱いである、訪問の放送局や芸人の立派な靴に驚いたらしい。芸人では米朝から枝雀、南光や雁の助などが訪問し教えを請うている姿を近所の人が見かけている。瓢右衛門の居宅から目と鼻の先ぐらいの距離にタレント・メッセンジャー黒田の家があるのは、単なる偶然ではないだろう。瓢右衛門が生前に近所の人に語っていた、花園は物価も安く、住みやすい街ということが、庶民に親しまれる芸人を育てているのだろう。戦後すぐに、伝説の落語家・初代の桂春団治が住まいしていた。また、フォーク歌手として有名な河島英五も近所で育っている。(写真は瓢右衛門一代記「悪声伝」の本)

小沢昭一が招いた「日本の放浪芸大会」で、瓢右衛門は小沢昭一との対談の中、“私は浪曲で名人といわれた広沢虎造や京山幸枝若などと人気を争うて来たが誰一人として私は勝てなんだが、みんな死んでしもうた。長生きすることで私が勝てた”と話し、客を笑わせていた。瓢右衛門は放浪する大道芸人として、道行く人たちや道に住まいする民衆に接し、中世からそうであったように食べていくために、どうしたら人の心をつかめるかと研究しては芸に磨きを掛けてきた。小沢昭一が全国の放浪芸に価値を見出し収録したのは、芸の原点はここにあると確信したのだろう。きしくも大道芸の名古屋万歳から学んで、上方漫才の祖といわれている、玉子家円辰も東大阪に生まれ同じ時代に芸能の舞台に立っていた。瓢右衛門は浪曲界の主流だった親友派から、はずれた時期も長く、不遇を見たが不撓不屈の精神で乗り越えてきた経歴がある。また、明治以降の社会を題材にした浪曲、新聞(しんもん)読みを得意とし、当時としては新しい手法なので反対派も多かった。新しいものに挑戦する進取の精神は玉子家円辰に通じる。(写真・花園駅前北商店街)

変わりゆく花園

 変わりゆく歴史のなか、瓢右衛門の住まいだったところは、300有余年前は旧大和川堤下であり、時代が下り、その堤は花園駅前商店街になり、また、現在は花園駅前再開発事業という名で高層ビルが建ち、大きく変貌しょうとしている。周りが近代化していき、古い建物が壊され、町の歴史・文化そして庶民の持つ人情や街の情緒が失われていくのは本当に心が寒くなるような寂しさを感じる。街や商店街の活性化がよく叫ばれているが、本当の活性化は、街の歴史・文化を愛し、街を誇ることから始まるとの確信を強くする。最後になりましたが、小稿を記すにあたり瓢右衛門さんのご冥福を祈りますとともにご近所の人にお世話になりましたことに御礼を申上げします。         (まち・むら文化研究会)

参考文献 
「悪声伝」広沢瓢右衛門の不思議堀江誠二著 朝日新聞社発行
小沢昭一が招いた「日本の放浪芸大会」 









C稀代の興行元岡田政太郎

                                 杉山三記雄

                        池島を訪れて

 

 池島神社の参道入り口に建つ石燈籠=写真左下=に刻まれた文字を見るとき、興味と関心がこつ然と起こる。およそ高さ4m、幅2mほどの立派な一対の石灯籠に“浪華落語反対派太夫元岡田政太郎”と富貴席と花月亭などの寄席名がずらりと銘記されている。この石灯籠に大正6年12月建立と刻まれているがこの寄進者岡田政太郎こそが、いまや全国に隆盛を極め、マスメディアに登場しない日はない有名な吉本興業の“先達”であり、吉本興業の会社の方向付けをした人物になる。この“反対派”を名乗るのは、当時の芸能界にいかなることが起こって、このような寄進となったか背景を知りたくなった。芸能界では古くから興行主は大夫元と称せられていた。また池島の南はずれにある池島墓地には、岡田政太郎と、ほぼ同時代を生きた“上方漫才の元祖”といわれる玉子屋円辰(本名・西本為吉)の墓がある。このようなことから池島は“上方芸能の発祥地”といわれている。池島は、生駒山麓から西へ約2kmほどにあり、この南側には東西に十三街道が走り、八尾市に接している。古代は名前のとおり池に浮かぶ島であり、昭和30年ごろまでは水田に囲まれた島のようだった。古墳時代に集落が形成され平安時代に作られた条里制が敷かれた跡がうかがえる古村である。最寄駅の、瓢箪山駅や東花園駅からは徒歩で約20分、この駅から電車で30分ほどで大阪市内に到着する位置にある。歴史的には池島城がつくられ、城門があったことから字大門という地名も残っていることでもわかる。現在も巨大な遊水地工事の最中にあり、“野鳥天国”といわれる場所もあり、いい自然環境と歴史ある地域である。

 河内と大阪

 昔は、このあたりは“河内の国”といわれたが、河内は、近畿五畿内に属し、“中央政府”といってもいいほど要の地であり、攝州、河州、泉州は今の大阪の骨格にあたる。、とりわけ河内は位置的にも中央にあり、近代大阪にあっても街づくりや、江戸時代には全国一だった河内木綿産業を初めとして、大阪発展に寄与してきたが、上方文化や芸能にも大きな影響を与えてきた。

宝永元年(1704)の大和川付替え後に大いに日本全国に重宝がられた河内木綿と同様に河内弁は、文化や歴史的にも貴重なものであると考えられるのに、一部では敬遠されている現実に筆者はいささか残念に思う。前記の上方芸能の二人の“巨人達”は、河内弁を駆使して、エネルギッシュに時代を生きたであろうと考えているのでここで思いを書き加えておきたいと思う。昔から河内弁は、大阪弁に大きな影響を与えてきた。大阪商人は商売を行うのに潤滑的に笑いを誘う、しゃれ言葉をふんだんに使っていたので、日常生活そのものが”漫才的“なものがあった。一例だが商いの取引のうえ、相手に約束を迫るときなど、”風呂屋の釜“にせんといてや”つまり、“ゆうばっかりはあかん” とユーモアを入れてやんわりと相手がきつく感じないように商いをしてきた。”大阪人2人寄れば漫才“といわれるのはこのようなことにある。

二人が活躍した時代の明治の、大阪や関西における情勢はというと、明治初期、造幣局や東洋一の砲兵工廠が大阪に創立され、そして日清戦争や日露戦争に勝利し、大阪紡績は好調で景気が活況し、当時、商売人から庶民は多忙だった。そのような中ではストレスも多いため寄席の笑いで解消したい人は増え、お笑い商売も好況だった。大阪市の人口は明治元年には28万人だったが明治45年には130万人に達し、地方からの流入人口の多さが大阪の産業、商業の活況している。

「新しいものは常に謀反である」

 「新しいものは常に謀反である」と「不如帰」「自然と人生」で有名な徳富蘆花が明治44年(1911)の講演で語っているが、岡田政太郎や玉子屋円辰は、従来の興行のやり方や、芸能を改革し、より大衆に受けるように芸能界を新しくする“謀反者“として上方のみでなしに日本の芸能界の近代化に大きく貢献して現代の隆盛の基礎をつくっていった。すなわち“出し物“を従来の権威付けられた落語や浪花節から漫才や奇術やショウなどいわゆる”色物“に切り替えた興行元であり、昔からの万歳に歌曲を取り入れ、掛け合い風の”漫才“を編みだした芸人、この“二人の誕生の背景を追いながらこの二人の人物を浮かび上がらせていきたい。

 はじめに、岡田政太郎は、慶応3年(1867)[注:出生年について定かではないが没年、53歳とする説があるので、これを出生年とする]池島村に生まれ、後に玉造の風呂屋の養子となる。やがて家業の風呂屋をしていたが、商才に優れ、株で儲けた岡田政太郎は、初めは風呂屋の2階で風呂を入った客相手に小規模の寄席を始めるが、当時は落語が盛んで興業元=太夫元から安いギャラや小さな寄席小屋には一流どころの落語家を迎えることができない状況だった。

そこで岡田の発想は“安くてオモロイものなら何でもいい!”と口癖となるほど、権威付けられていた落語や浪花節のギャラの高い真打や一流どころをさけ、これら二流、三流の落語家や浪曲師そして当時は一段と軽んじられていた声音や歌曲、軽業師などいわゆる“色物”の出し物へと、これらの演芸の軸足を移していった。

当寺の落語界は三友派と桂派に分かれて、もめにもめていたが、これら既成のエスタブリッシュに対して岡田政太郎が明治43年12月、三友派や桂派に対抗した“浪華落語反対派”という第三勢力の旗上げをすることになる。その方針に共鳴して、後を追うようについていったのが、寄席稼業の創成期の吉本泰三とせいであった。この夫婦が後には日本一のお笑いの会社「吉本興業」を興すことになる。

当時では、色物中心に興行を打つのは、画期的なことで度胸と才覚がなければ到底できないことであり、興行界の常識を覆すものだった。風呂屋をしていたので“風呂政”とか肌の色が黒いことから“黒政”とか呼ばれていたそうだが、太ッ腹で機転がきく性格を示すエピソードとして下積みの芸人には毎月一回相談日を設け、金を工面する世話をし、困っている芸人を助けていった。やがて芸人仲間の楽屋話でもそのことが話題となり、三友派や桂派の看板落語家も「一度、岡田はんの席に出てみようか」という芸人が増えていった。これもお金を貸すことで芸人の弱みを握ろうとする計算があったと考えられるが、興行界に限らず、商いや世渡りのなか、まさしく知恵と才覚がなければ頭角を現すことができないのは同じだ。岡田政太郎の“反対派”は、当時の東区内安堂寺町上本町東エ入南側、現在の中央区上町一丁目26-13にあった梯亭を買い 取り、明治43年に福貴席と名づけ旗上げとした。筆者も記念すべき、この“福貴席”を探し、訪ねたが、現在は紙製製造会社=写真=になっている。近所の人に尋ねると「昔はあそこに寄席があって、長堀通りまで続いていた。正確な場所は上町一丁目26−14。」との話であった。岡田“反対派”の旗上げの寄席跡が確認できたのでほっとした。(筆者注:この住所については前記のように“13号”と書く本もあるが、“14号”が正しいと思われる)当時の吉本といえば、もともと荒物屋を営んでいた泰三の芸事好きのこともあり、本業を廃止し、妻のせいの助けで“芸は身をたすく”の例ではないが、明治45年に天満神社裏の第二文芸館を立ち上げて寄席稼業に進出した。吉本せいが、モデルといわれている、有名な山崎豊子の「花のれん」に、その一生が描かれているが、筆者もこの小説を読んでみたが、岡田政太郎のことを一行も描かれていないので、いささか不満な気持ちが湧いた。

 岡田政太郎と吉本興業

 寄席稼業に転業した吉本泰三とせい夫婦は、岡田政太郎の“反対派”に組したのは安い出演料の芸人しか自分らの寄席に出せなかったので、ギャラは安いが面白くて客を呼べる芸人を抱える太夫元としての岡田政太郎に頼らざるを得なかった状況だったといえる。そこには吉本として将来をにらんだ芸能界で生きる者の非凡な商才があった。(写真は現在の”吉本”) ここに明治43年(1911)から大正10年(1923)までの12年間ほどを、岡田政太郎と吉本夫婦の芸能興行のおもな歩みを年表にして整理してみた。(表参照)
大正3年には、岡田・吉本連合には約88人の芸人を抱えるようになり大正7年には寄席数が岡田は、上町の「福貴席」筆頭に10館、それに対して吉本は天満の「第二文芸館」初めとして6館になっていた。
そして大正9年12月の岡田政太郎の急死により一転するのであった。大正10年には岡田興行部の演芸席亭がすべて吉本の傘下になり、岡田“反対派”が消滅する。一方、吉本は同年2月に初めて興行主「吉本」花月連を名乗ることになった。

一人の死が、今後の上方のみならず日本の芸能・興行界の発展地図を塗り変えていった。図書館を訪れ、大正9年12月8日付けの大阪朝日新聞の岡田政太郎の死亡広告を読むと喪主に並んで友人代表として吉本泰三が記載されており、当時の盟友としての存在が確認できた。なぜ、岡田政太郎という上方芸能の興行界の鬼才と上方漫才の元祖といわれる玉子屋円辰が、この小さい村、池島に生まれたのだろうかとの想いが起こる。