美女堂氏遺愛碣(けつ)と若江

杉山 三記雄

刻み込まれた遺愛碣(碑)

私は戦中生まれであるが物心ついた頃から我が家の庭にひとつの石碑があった。時代を経た表の石面は、難しい漢字ばかりで成りたつ碑文の意味がわからず育った。大きくなるにつれて新聞社からの取材があったり市の教育委員会発行の刊行物に掲載されたりして、私にも、その重要性がおぼろげなりにわかってきた。昭和44年発行の東大阪市史編纂委員会の資料には次のように記載されている。 

所在地 東大阪市若江北町、杉山清子邸内

年代 天保二年(1831)四月

法量 高1.5b、幅65a、厚さ31a 用材 和泉砂岩                        

[解説]

いまの若江北町に美女堂氏という旧家があった。その祖は、摂津国多田庄(現在の兵庫県川西市多田)の出身であり、摂津源氏として知られる源満仲の四男で、名を美女堂丸といい、故あって河内国若江に住した。その子孫相承けて近世に及んだが、明治時代に大阪に移った。若江には美女堂川・美女堂田の呼称をのこし、この美女堂氏が栄えたころを物語っている。また若江北町にある薬師寺は巨摩堂といい、美女堂氏の建立と伝えている。もとは楠根川に近いところにあったというから、昭和39年の発掘調査によって知られた寺跡(巨摩廃寺)がその故地であろう。碑は天保二年(1831)美女堂勝喜によって建てられたもので、美女堂氏の系譜と懐古の情が誌されている。名族旧家の顕彰碑として重要な史料である。

参考文献 河内市教育委員会『河内市若江巨摩廃寺跡の調査』(昭和3911月)

東大阪市史資料 第二集 昭和44331日 編集 東大阪市史編纂委員会 発行 東大阪市役所

製文の十速 達とは掛川藩の文人を指す。

ここに建立した美女堂勝喜の碑文を忠実に読み下した文章があり、そこには建立の想いと先祖への懐古の情が浮かび上がっているので掲載する。

  

美女堂氏遺愛の碣 (口語訳)

 河内の国若江の郡に美女堂氏の四家があった。すなわち、吉左衛門、孫六、理兵衛、善右衛門、である。その遠い祖先は貴族に仕えていたという。その後、家は没落し、農家になった。天和年間(西暦1681〜1684・約330年前)に我が主君である太田公は、まず大坂の留守居(城代)となられた。孫六はこれを聞きつけ、心中ひそかに敬慕の気持ちがあったので仕官し、沢右衛門、と改称した。諱(生前実名)は勝興である。明年甲子の年(西暦1684、天和四年)に、また主君に付き従って駿府(静岡)に移った。そうして勝興が亡くなり、いまの勝喜まであわせて5代、150年たった。代々その職務に精励したが、長い間祖先の遺徳を追慕していた。先祖に敬を尽くしたい本懐があったので巳丑の年(西暦1829)、何と我が主君がふたたび大阪の留守居となられた、この時に、勝喜は「この先祖の地に戻ることができた、めぐり合わせは、本懐を遂げるために得たものである。すばらしいことではないか。」と話したのであった。そこで公務の暇な折に、祖先の地と子孫の理兵衛、善右衛門家を訪問したところ、今ではともに亡くなっていた。ただひとり吉左衛門が存命し、年齢はすでに70であったが、老いてもなお健勝であった。その吉左衛門が、旧跡を指さして言うことには、「あの、生い茂ってる老松のあたりが勝興の住居跡です。あの、さらさらと流れている川を美女堂川といいます。舟をとめたり、また、田が入りまじってるあたりを美女堂田と申します。人々は皆、昔ながらの呼び方をし、今でもなお、そう言ならわしております。」と話すのであった。昔のことを語って過ぎ去りし日々を懐かしみ、お互い往時を思い出して涙を流した。さらに吉左衛門は「人は亡くなり、年月は移り変わり、残された木は往々にして薪となったりいたします。私は以前、この老松がそうなるのではないかと心配し、今の持ち主に老松を大切にするよう申しました。今また勝喜様を見て、ああ・幸せでございましょう。そうとはいえ、今後とも、いつまでも人々が美女堂の名を知っているとどうしていえるでしょう。老松と同様、滅んで行くのでございましょうか。石碑がなければ勝喜様のことも将来忘れ去られてしまいましょう。」と語るのであった。また、くびをたてにふって、すぐに私に相談をもちかけた。私は「老翁様のおっしゃっていることはすばらしいことだと思います。おっしやる通りにするつもりでございます。」と答えた。こうして、このことを石に刻み、老松の下に立てるのである。いつまでもいつまでも朽ちないことを願う

 天保二年歳  辛卯にあたる夏四月

    (西暦1831) 掛川 の 十束 達(氏名) この文を作る

             同じく  美女堂 勝喜 これを建つ

 注: 筆者の少年期までは、ここにある美女堂川には魚が棲息し水もきれいだったが今は暗渠化されている。

大坂城代太田候に仕えて本貫地の若江へ

勝喜の5代前に当時の下若江村から仕官した勝興の領主であった太田候とは遠江(とおみ)の国、掛川藩主である太田資次である。資次は大坂城代として1673年〜84年、資晴は1734年〜40年、資始は1828年〜31年の3名が務めた。資次が大坂城代に在職中、上若江、下若江両村の領主になっているので勝喜が碑面に刻んだ内容が歴史的事実として浮かび上がってくる。没落し農家になった勝興が、領主に仕官できたのは有能な人物であったのは勿論だが、摂津源氏の同族の縁も重視されたのではと推察される。太田家は清和源氏頼政流であり、さかのぼると資長(道灌)がいる。清和源氏を祖とする勝興とは同族のつながりがあり、その結びつきの強さは現在からは想像がたいほどのもので同時に懐かしみがあったのだろう。仕官した美女堂家は、長年の世代、150年にわたり職務に督励し大目付賄に昇進し、太田家の重臣となる。『大坂城代用人日記』(田中朋子編 大阪市史編纂所発行)に見るとその中、勝喜は、碑文にある美女堂沢右衛門の名で重要な案件処理にあたり、たびゝ登場している。

 この『大坂城代用人日記」天保二年(1831)正月1日から55日まで、当主太田資始(すけもと)の同藩用人、渡邉崎右衛門の記した記録である。資始はこのあと京都所司代に栄進したのち、江戸に行き徳川幕府の老中の地位に昇っていく。

 歳月経て亀裂入った石碑

石碑はゆえあって平成312月に若江公民分館前に移転し、(運搬の依頼に対し、公的援助なきなか、何分年数経った石碑は破損の恐れがあるため、引き受けする業者がなく困っているところに、八尾所在の森田石材店がお引き受けしていただき、無事に若江公民分館前に移転できたことをここに記しておきたい。)東大阪市教育委員会によって傍には説明版が設置されている。この移転には際し、は当時の若江公民分館運営委員長だった故白山義春氏に大変お世話になったことをご紹介し、感謝の意を誌す。今年4月、当石碑は、建立されて180年を迎えるが用材が和泉砂岩で相当に傷み、特に石上部に大きな亀裂が入ってきた。小学生児童も通る通学路を前にしており、安全性も考慮し、関係者にも相談し、昨年四月、崩壊の危機を避けるため補修の処置を講じている。その際、費用の制約や技術的に困難がある中、補修を建設業の山本雅文氏に依頼したところ快く受けていただき、目的を達せたことも感謝の意をここに表しておきたい。

その他、現若江公民分館の関係者等多くのご協力があった。この石碑は、若江の土地と郷土の歴史を伝えているだけに伝わってきた経緯を述べておく必要があろう。明治18年生まれの祖母からは聞いているのは若江の杉山の土地に建立されており、曾祖父が杉山の先祖に関連する石碑だといっていたと話した。大正5年発行の若江村誌、同12年発行の中河内府誌に石碑の記載あり。、昭和3年発行の大阪府史蹟名勝天然記念物には、次の記載がある。「・・・もと藤本吉左衛門(もと美女堂氏)邸内にありしが、明治初年薬師寺境内に移し、更に大正4年現位置杉山邸内に移せり、蓋し旧地に復したるなりといふ。・・・」筆者注:ここにある「藤本」は、「藤原」の間違いだと思慮する。

残念ながら検証できる術と資料は、今の私はもっていない。ただ建立した美女堂勝喜の先祖を想う情と土地にまつわる歴史が末永く伝わっていけばとの願いが今の私の心情だろう。それでは美女(堂)丸とはどういう人物なのだろうか調べて生きたい。

若江と薬師寺との関係

若江北町には古くから薬師寺という古刹があり、その山号は美女山と称され巨摩堂がある。山号は寺の起源をたどるものであり、ここの秘仏の本尊、薬師如来は美女丸のお顔を写されていると伝わっている。この寺がある集落は巨摩と昔から呼ばれ、近くには巨摩橋があり、歴史ある古集落だ。集落のやや北東に巨摩廃寺跡が発掘されており、薬師寺の美女丸の祈願堂はここから移転されたと伝えられている。前記に触れた石碑に刻んでいる美女堂川や美女堂田が存在していたのだから広範囲にわたり美女堂が関係したと推察できる。

美女丸は多田満仲の四男(3男の説もある)であるといわれている。多田満仲は源満仲とも称されるが今の兵庫県川西市にある多田荘を本拠に置く攝津源氏の棟梁であり、清和天皇のひ孫に当たることから清和源氏の祖でもある。江戸時代の大坂カルタには、“ただのまんじゅう、武士のはじまり”と詠われ、日本ではじめて武家の力を国中に誇示できる勢力を有した。

美女丸が幼少のころは利かんきの性格のため、満仲の怒りを買い、満仲は、ついに部下の藤原仲光に殺すように命じるが、仲光は困りはて愛息の幸寿の首を差し出す話は謡曲「仲光」に登場する。このようなことで美女丸は高僧の源信(恵新僧都)の弟子になり仏道に精進し源賢を称する。ついには晩年の満仲を出家させるようになる。この逸話は『今昔物語』巻十九「摂津守源満仲出家語」として掲載されている。

源賢は天徳年間の末から応和年間に生まれ、寛仁4618日、60歳前後で入滅したと見るのが妥当であろう。(出典、『古典と民俗』発行所 古典と民俗の会「源信法師伝考証」中治由美子著 昭和52610日発行)

この出典によれば源賢は藤原道長の「御堂関白記」長徳一年(995年から治安一年(1021))に 阿闍梨源賢として登場し、後には法橋源賢として記され、道長五〇賀(50歳を祝う)散花のときにも散花律師として務めている。源・平・藤・橘など日本の主要な諸氏の系図のうちでもっとも信頼すべきとされる「尊卑分脈」によれば満仲の三男と記載されている。多田法眼またな摂津法眼また八尾法眼。恵心僧都弟子八尾住侶とある。(同出典)

平安時代につくられた倭名類聚鈔、承平(931938)には巨麻郷として八尾から今の東大阪市は同じ郷だった記されていることを思えば八尾は若江と同じ地を指していたと考えられる。

源賢のまとまった作品として「源賢法眼集」が現存し、

51首収録されている、そのなか、三首例を挙げてみる。

・小山田の水のこほりのうちとけて今朝は蛙もゆるに鳴きなり

・春日野のゝへの霞に立ちましるもしらぬも若菜つむらし

・みなかみの岩間の氷とけぬらむゐせきの清水こゑまさる也

また源賢は「樹下集」の撰者であるとされている。

今の東大阪には、もと々源氏系が多いといえる。河内一之宮の枚岡神社の宮司は藤原姓を名乗る源氏であり、玉櫛荘など広大な土地を社領とした宇治平等院の荘園があり、平等院が藤原道長の別荘だった時期を考えると道長の身辺警護していた源満仲の影響力が河内に及んでいたと考えられるだろう。若江には藤原の姓が多いのは、偶然なことではなく源氏の関係者の末裔が多いと思慮できる。

多田満仲、美女丸を訪ねて川西へ

源氏の本貫地、摂津多田荘(現在の兵庫県川西市)を訪ねた。

川西市の玄関と言えるJR福知山線の川西池田駅前に堂々たる多田満仲の銅像が建っている。多田神社の前身である多田院を建立した源満仲の父は源経基で、藤原純友の乱の鎮定に活躍し、一族の勃興の基礎を築いた。その跡を継いだ満仲は摂関家藤原氏に接近し中央での勢力を拡大すると、その貴種的族長が摂津国川辺郡多田に私領を開発する開発領主となり、武士団の棟梁として摂関家藤原氏の身辺警護を始める。やがて曾孫の頼綱の時代に摂関家に寄進されるが現地での管理は今まで通り多田源氏が行った。

多田院は室町時代に入ると、足利将軍家は、清和源氏血統の足利将軍家の地である多田院を保護し、寺領安堵をし、ここに足利将軍の遺骨分骨が行われる。清和源氏の子孫として誇っていた徳川家康も祖廟多田院を崇敬し数々の寄進をしている。征夷大将軍は源氏出身者から天皇から任命されるという。多田には源氏ゆかりの満願寺があり、境内に藤原仲光・美女丸・幸寿の墓が安置されている。


武家政治のはじまり

 
 

摂津源氏を確立した多田満仲は、長男の頼光を摂津源氏の後継者とし、3男の頼信を河内に送り河内源氏の棟梁として河内国石川郡の壷井荘(現在の羽曳野市壷井)を本拠とし、4男の美女丸は出家し法眼源賢になり若江に寺を構えることになった。時期は平安時代の安和年間(968970)頃と考えられる。満仲は、河内をはじめ荘園の拡大の意欲が強く河内源氏以外に大和源氏や近江源氏を配し、河内源氏は、東国の乱を平定し坂東の武者を従えた。河内源氏の祖、頼信から5代後の源頼朝が征夷大将軍になり、鎌倉幕府を建久二年(1192)に開き、武家政治が始まった。美女丸は、摂津多田荘で寺を建て、幸寿などを弔い、また、戦で多くの血を流した武将、父の満仲を晩年には出家に導き心の安寧を取り戻させ、この繁栄を誇った一族の精神的な要になったのではなかろうか。180年前に美女堂勝喜が建立した一つの遺愛を通じて先祖の懐古の情から郷土の歴史そして日本歴史の大きな転換期の息吹きまで感じられる。ここに美女堂勝喜を静かに偲び、頭を垂れ黙とうする。小文を作すにあたり、ご指導賜った歌人で国文学者の神作光一先生をはじめ、藤井直正先生、、また多くのお世話になった皆様にお礼を申し上げる。

参考 神作光一『歌大辞典』 藤井直正著『東大阪の歴史』東大阪市教育委員会発行『東大阪市の石造物二』 川西市教育委員会発行『かわにし文化財めぐり』 その他ウエブサイト

 河内の郷土文化サークルセンター発行『あしたづ』第13号に掲載