戦死した父への旅/中国湖南省の零陵へ そして桂林

 

 父は私が赤子のとき、中国の湖南省の零陵の野戦病院で戦病死したと今は亡き母から聞かされていた。母親はよく言っていた。当時は村役場の吏員が赤紙(召集令状)を持って草履の足音をパタパタと立てながら対象の家を回っていて、その音が我が家に近づいた時はぞーとしたと振り返って話した。その赤紙が来て太平洋戦争の末期の昭和19年に召集を受け、生まれたばかりの私と兄や両親、妻を残して戦地へ赴かなければならない心情は時代とはいえ、想像するまでもなく過酷でさぞかし心残りだったろう。赤紙が届いて一年もたたないころ、戦死の報が届き、母は思わず「殺生な!」とつぶやいたという。

 私も定年退職を終え、還暦も過ぎて来し方を振り返り無念な父の心を少しでも鎮魂できればと父の終焉の地、零陵へ向かうことにした。零陵といえば中国の、やや南に位置し、まず、地図を見て場所さがしから始まった。幸いに友人の一人が同行してくれることになったが何分にも中国語や現地事情もわからないので不安が頭の中に澱のように重く留まっていた。できるだけ事前調査をすることとして中国国家観光局やインターネットを使って調べたが、決して満足できるものではなかった。

 
零陵は現在、行政区域としては永州市に属していることや、何とかインターネットで最寄の飛行場は桂林飛行場であることもわかってきた。旅行社を訪ね、限られた日程の中、スケジュールを組み、2006年5月16日〜19日の日程で中国を訪問することにする。まず上海に行き、そこで桂林行きの飛行機に乗り換えることにした。深夜に桂林のホテルに到着する。

 翌日の早朝にホテルを出発して桂林駅から永州駅まで4時間かけて到着。途中の車内で隣の中国人や車掌に永州駅が近づいたら知らせて欲しいと紙に書いて頼んでおいたらきちんと知らせてくれたので助かる。永州からはタクシーで霊陵へ行くことにしたがすべて筆談だし野戦病院の場所など中国の人に尋ねるのは、多大に迷惑をかけた側の日本人の私にすると気が引けた。そういうことで運転手にはとりあえず零陵の土地まで走ってもらい日本から持参した水をそそいだ。(右下)



永州へ向かう列車内で突然車内販売する

日本から持参した水をささげる

 日本軍は当時、重慶まで逃げる国民政府の蒋介石軍を追い進軍していったが広大な中国、温度は高くて水が悪い土地で日本からの補給の続かない悪条件のもと、日本兵はバタバタと病で倒れていった。父もその一人だった。中国の人たちに多くの被害をもたらし、日本人を苦しめた太平洋戦争とは何だったのだろうか。日本の歴史上そして世界で、未曾有の悲劇について、その原因や責任の所在がいまだに曖昧なままにされて現代の繁栄に酔いしれている気がする。
 中国の列車や食堂、タクシーなど接した人達は純朴そうで親切だった。桂林では船下りを楽しんだが思っていたより壮大なもので船上では色んな外国人と話をして思い出のページを加えていった。また、日本からの観光客のかなり高齢の方は、船のデッキで「終戦時は満州におったが、時の指導者は昭和18年ごろには敗戦を避けがたい状況だとわかりながら20年まで戦争を続行したのは、死ななくてもいい人をたくさん殺し、さらに満州からの引揚時には悲惨な事態を起こした。女性や子どもは特に最大の被害者となった。統計によると昭和19年中頃から終戦までに戦死者数は戦死者総数90%に達している。終戦前のドサクサに侵入したソ連兵(今のロシア)は暴行と略奪を繰り返し、日本人から奪い取った腕時計で両腕を一杯にしていた。」と私に語りかけたことは忘れられない。しかし、現在では船下りの後、訪れた桂林の郊外の朔陽(シユアヤオ)の少数民族の集落は、のどかで現代の桃源郷だった。


桂林遠景


桂林船下り

桂林暮色










少数民族の集落

桂林市内に流れるリチエンの水で洗濯 


上海・旧英国租界