東大阪の街道を歩く

特集
四條畷合戦の地を歩く

1.古堤街道

2.北八尾街道・俊徳道

3.東高野街道

4.十三街道

5.暗越奈良街道

6.河内街道

7.放出街道


       シリーズ身近な街道を歩く(まち・むら文化研究会)














特集四條畷合戦の地を歩く
   今日は東高野街道を北上し、四条畷の戦いの跡をたどることになった。楠木正行は10年前に湊川の戦いで父、正成を失い南朝同様に楠木郎党の力は急速に衰えており正平2年(1347年12月29日)南朝の楠木正行は3000の兵で北朝の総大将高師直とその弟、師泰の大軍6万に向かい合った。正行は若干23歳、小柄で生来の病弱だった。
 今日は新暦2月5日は、旧暦12月末に匹敵する時候となり“戦いの場”を体感するに適当だ。

 歴史上は四条畷の戦いといわれているが正行が本陣とした六万寺往生院から大東・四条畷間は810キロ余りある。楠正行軍と高師直軍がこの狭い空間でぶつかればたちまち敵味方の軍勢で覆われていたのだろうと体感する。六万寺付近にも四條畷という地名が存在するのでまさしく生駒西ろく一帯が戦場といっても過言ではなかろう。


(マップ作成:谷 幸一氏)
 
 

彼が陣を敷いた六万寺往生院を訪れ本堂をお参りして正行公墓に頭を垂れた。往生院は往生院城とも称されるように今でも土塁があちこちに残る山城で東高野街道など守る要所となっている。ここからは西方面を見下ろすと河内平野を一望できる。

 
   日下リージョンセンターの近くの稲荷山に谷崎潤一郎が住んでいた邸あった。邸から灯籠とつくばいをリージョンセンター前に移転し記念保存されている。 
  一里松
 楯津浜碑の前あたりに街道の一里塚とされていた松が植わってあった。今は記念の石碑が建っている。 
   大東市内に入ると東高野街道すぐ東方の生駒山系は極端に低くなる。幕府方の高師直軍は山の峰はすでに押さえていたのだろう。 
  十念寺
 大東市内に入ると街道沿いに十念寺がある。十念寺に残る江戸時代の『本堂再建奉加帳』によると、貞和年中(1345〜50年)四條畷の合戦で多数の戦死者が出たが、永禄年中(1558〜70年)に至るも、なお霊魂休まらず、里人がこれを厭い、融通念仏の功徳により、霊を慰めた。
  この折、木の宮坊という人は私田をなげうって寺院を建立し、楠木正行を始め一族郎党の菩提を弔ったのが当山の始まりと伝わる。元は融通念仏宗の寺院であったが、現在は西山浄土宗の寺院である。
元来、生駒山地の山沿いには融通念仏関係の遺跡が多く、十念寺もその1つに数えられている。(十念寺HPから)

  
   四條畷の小楠公(正行)の墓。
 地の利、人の利、時の利を失った正行は四條畷に死地を求めて突き進むことになるであろうことは違いがない。出陣をしてまさしく8日後の正月5日に討ち死にすることになる。
 
 

 右前方の飯を盛ったような山が飯盛山城(標高300m余り)。対峙する師直は大軍をもちいて既に拠点の飯盛山城に兵を置き、生駒山系を南に軍を伸ばし押さえていた。

 
   

 和田賢秀の墓

 楠木一族の中でも武勇の誉れ高く、正行に従い常に参戦している。貞和3(1347)年に紀伊国で隅田一族を河内国で細川顕や山名時氏を打ち破った。四條畷の戦いでは正行とともに戦い、敗死した。かつて味方であった湯浅党の者に背後から討たれたという。時に齢20前後だった。

 討死の際に敵将の首に噛み付き睨んで放さず、敵はそれが因で死んだと言う逸話が残っており、土地の人々は賢秀の霊のことを「歯噛様(はがみさま)」として祭っている。(ウイキぺディアから)

 
  中野共同墓地の光背十三仏と石仏。
年代不詳だが四條畷の戦いを憐みの眼で見つめて“戦場の露”と消えた正行一族の供養をしていたのだろう。 













  三坪橋
 東高野街道が清滝川に架かり、渡ると清滝街道と交差している。橋上の石畳はきれいな模様をなし芸術作品のようだ。多くの戦の人馬や付近の人が通ったのだろう。表面が磨滅している。じッーと眺めると往来する人たちを癒してくれる。 
  中野屯所址
  明治7年に中野屯所が置かれ、現在は中野派出所になっている。警察制度の変遷がたどれて興味を引く。 
   街道の道端に道標と野仏が並ぶ。
東高野街道と清滝街道が交差するところにある。まるで戦場で露と消えたもののふを弔うごとくに佇み野仏前に花が供えられている。
 

忍陵神社(にんりょうじんじゃ)

 式内社、元は村内社。忍岡古墳の丘の上にあり、戦国時代に岡山城が築かれた地と伝えられる。 
  大阪府立四条畷高校

 近くに四條畷神社があることから 第9中学校旧制四條畷中学校として明治34年(1901)に設立された。正門の石柱が美しい曲線をなしている。名門校として卒業者に正岡安篤、サンヨー元会長井植敏など著名人多数あり 。
1古堤街道  年の暮れに迫った12月26日,まち・むら文化研は古堤街道を歩いた。集合地点の鴻池新田駅前からまず北にある勿入(ないりそ)淵址へ行く。

これまで東大阪市を通る街道はすべてといってもいいほど歩いてきたが川に沿う街道は初めてとなる。現在は古堤街道は、改修によりすっかり舗装されたといってよいほど立派な道路になっているところが多い。しかし、寝屋川沿いに現在、倉庫が多いのは30年ほど前まで運搬船やはしけが行き来していた名残があるのだろう。(マップ制作は谷幸一氏)

 勿入渕(ないりそのふち)のことは清少納言が枕草子に書き、貝原益軒は南游紀行に記している。深野池の最南端の淵にあたるといわれている。ここで採れる蓮は優れもののため宮廷にも献上されていた。古堤道を東へ行くと奈良・高山へ抜けるが、今日は西へと京橋に向かった。
 古堤と記されるように寝屋川の旧堤道だ。昔は道の南側は川が流れ、北は大きな池や田畑を眺めながらのんびり歩けただろうが、寝屋川は明治22年ごろ大改修し、川筋をまっすぐにし道も変わったので現在は往時を偲びながら想像力を働かせて歩くのがいい。
 昭和初期、鴻池樋門あたりの写真(住道の角谷氏所蔵)。川舟が往来し樋門辺りは舟だまりになっていた。私の子供のころ(昭和30年)までは若江からも鴻池の池や川に行くと“どぶ貝”(“どぼす”とも言った)が当時2トン貨物車にほぼいっぱい採れたものだ。戦後の食糧不足のとき有難い自然の恵みだった。この黒くて大きくい貝を七輪(かんてき)の炭火で焼くと香ばしい匂いが家じゅうに充満したのを今でもおもいだして懐かしい。
旧寝屋川の堤防址と思われる小高い茂みがある

 中茶屋町に通りかかり地元の人に地名のいわれを尋ねてみた。この辺りには古川そして古川からの支流(写真、今は道路)が寝屋川と合流しており昔は舟泊りとなっていた。また京橋と野崎観音の中間点にあたるため休憩の茶店が数多くあった。このことから中茶屋の地名が出ている。支流から寝屋川に船が入るときは、ここの水門で水位を調整して寝屋川へ入った。

“右 奈良道 左 京道” の道標あり。
これが古堤街道の本来の道幅だろう。
 徳庵は古川や十六個川、古箕輪への六郷井路がここに集まっていたため船運が盛んで天満・八軒家浜から乗り合い定期巡航船が運航されていた。行き交う船には剣先舟、早舟、肥舟(おわい船と呼んでいた)が有名。大阪の肥を農家に運ぶ肥取扱い専門の業者が多く河内には存在していた。
住吉大社

徳庵は舟運が盛んだったので安全を祈って住吉分社がある。

 写真のようにこの川には汽水性のボラが泳いでいた。満潮期には大阪湾から海水が溯って来る。ここは小坂神社横(融通道)を通り北へ行くと枝切街道から亀岡に通じる街道の結節点でもあった。


明治18年淀川決壊による洪水碑

淀川の堤防が決壊大阪にとって未曾有の水害をもたらせた。死者数は56名にのぼったが、その被害は大阪の半分に及ぶほどだった。

徳庵駅前の“別品餅”店

昔から稲田から徳庵にかけた農家がおやつとして作ったのが“別品餅”(べっぴんもち)として街道の名物となる。
別品とは特別な餅という意味です。昔は行商して売られていた
別品餅

石臼でひかれた、きな粉と蒸して柔らかい餅が合わさった食感が素朴で美味なり。

やがて放水(はなてん)に差し掛かる。この地名は遠方の来訪者にとっては、なかなか読むのに難解な地名だ。旧大和川にたまる悪水を放出する場所から昔よりこう読まれるようになった。

寝屋川に架かる、“はなてんわたし橋”

 ここには大和川付替え以前に渡し舟が往来していたので 橋名に残っている。この橋の上は中高野街道が南北に走る。
中高野街道

 別名“剣街道”といわれ剣のように伸びている。鶴見の地名はつるぎがなまって鶴見になったといわれている。

寝屋川大橋

 寝屋川大橋の北700メートル辺りに戦前では、東京の大相撲に対抗して大阪国技館と相撲茶屋があった。(現在は信愛学園)近郷の村や町から腕自慢が名を成せばこの大土俵でプロ力士として力を競い合せることができた。そして大阪の文化を構成し、経済の活性化をしていた。古街道を歩けば様々なことを想起させ心が豊かになる。

旧野崎道の跡碑

近松門左衛門作品の“お染久松”もこの道を通り野崎観音に通っていたとある。

新喜多新田会所址

新喜多町に差し掛かった。東大阪市には新喜多があるがここでは〜町がつく。旧大和川が付替えられ、その川床が開拓されたのは同様だが・・・。新喜多新田会所が保存されている。

このあたりで長瀬川は寝屋川に合流している。

左専道

 鴫野辺りの左専道には石垣を積み上げた家が多いのは昔から低い土地だから水害から守ってきた。左専道は菅原道真が太宰府に左遷されるとき本貫の藤井寺へ寄る際通った道と言われている
鴫野付近の寝屋川
JR大阪東線の放出駅の北方面は昔の貨物線のまま走っている。
蒲生の街道沿いには茅葺の家屋がある旧村が健在
  若宮八幡神社

 大坂冬の陣の激戦地・鴫野、蒲生
段差

古堤街道両脇にはあちこちに段差が見られる。
階段を上がれば古堤街道。
橋欄干

蒲生を通る。湿地帯を示す地名だ。旧鯰江川(今は道路)に架かっていた橋欄干が交差点脇にぼつんと立ち“かま・・”と刻まれている字が読める。
  旧鯰江川が道路に

 家並みが鯰江川に接していた。 

 寝屋川の昔について鴫野の地元の人(昭和21年生まれ)に尋ねてみた。子供の頃は、貨物を乗せてはしけが川を往来しており、船での水上生活者も何世帯がいた。もっと昔は野崎参りの屋形船が往来し、落語にも登場するぐらいだった。屋形船の客と街道を往来する参詣人が大声で喧嘩(あくまでも遊び)することでも有名だった。河内漫才が鍛えられた素地、ここにもあった。

 蜆捕りを職業にする人もおり川はきれいだった。その人たちにも川底の鉄類もすくうては売る、いわゆる“ガタロウ”;(河太郎)と呼ばれた人もおった。黒くて大きなドブ貝(ドボス)も採れた。鴫野はいまでも旧家が多くて土地の売買が少ないので発展性がないと嘆く。昔は家内工業的な瓶作りが盛んで工場がたくさんあったそうだ。これも有名な天満ガラスの影響だろうか。

 


 蒲生墓地付近

この風景はどこかで見たように思い考えると河内名称図会の上の野崎参りの場面なり。何百年経ても街道はこういう形で生き残っている。

蒲生墓地には有名な、うなぎ屋柴藤の墓があり、西方では古代の丸木舟が発掘されており、元来は川沼地だったのが濃厚に出ている。この墓の上に賑やかに立ち食い飲み屋台があり、すごく繁盛している。屋台そのものは墓地の上の桟橋の様な工作物の上にあるが、客たちは路上で飲食している。

今日はどこもかしこも不況風が吹いているのにここでは“別天地”のような活況を呈している。

  そうこうするうちにJR京橋駅前に到着する。
 しかし、長い街道の歴史の中忘れてならないのは戦前にあった京橋近くの造兵工廠が米軍機によって爆撃され、その流れ爆弾の爆発により多くの市民や動員学徒の犠牲者が出たことだろう。

我々はこの華やかで活気のある場所で忘年会を持ち1年の街道歩きを振り返り、楽しく句読点を打つことにした

 日は暮れていたがこの周辺の賑わいに驚く。昔は京街道と古堤街道がここで交差していたが今ではJR環状線京橋駅では京阪線そして東西線の乗換駅が集まるというアクセスの利便性もある。この駅から家に向かって帰ることにした。

              2.北八尾街道・俊徳道編

 炎天下の街道歩きを避けていた、まち・むら
研究会は9月になり再開した。
2009.9月21日にJR長瀬駅前に集合し、いつものように古地図を片手に北八尾街道に足を踏み出す。古道をたどり、探しながら歩くことに何かしらうれしさがあるものだ。高安長者の息子・俊徳丸の数奇な運命と彼が通った “俊徳道”を偲び、まだ暑つさが残る日、ひたすら歩く。
(マップ制作は谷幸一氏)
長楽寺跡

 岸田堂に入ると長楽寺跡がある。 推古天皇(592〜623年)に創建されたと伝わる長楽寺のお堂は岸田堂の地名のいわれになっているが廃寺になっているのは残念なことだ。この地は昔、入江の岸にあり岸田堂と呼ばれている。この寺の手水鉢は現在神戸の中国寺の関帝廟にあり、貞享3年(1686)の銘が刻まれている。
 北八尾街道の町並みに往時が偲ばれる。街中の日中に人があまり往来していないのは寂しい感じがする。
 市境を越える

 俊徳道が真直ぐに西に向かって北八尾街道と合流する辺りは東大阪市の岸田堂西と大阪市の東小路に道を挟んで分かれている。貼ってある住居表示の標識が色違いなので分かりやすいだろう。
俊徳橋

 これが俊徳道かと思うほど途中で今は道がなくなっていたりして古地図だけでは確認はむつかしい。不安の中、川に架かる橋に“俊徳橋”の標識を見て安心する。
東俊徳地蔵

 街道沿いに立派な東俊徳地蔵がある。地元の村により昔から大切に守られてきた。俊徳丸が民衆にあがまれてきたのだろう。
カネシン杓子屋さん

 街道沿いには珍しい看板の杓子屋さんがある。これも今も残る懐かしい街道風景だろう
 歩くにつれて街の表情が少しづつ変化するのが面白い。
西俊徳地蔵

 東俊徳地蔵に続いて西俊徳地蔵がある。
やさしいお顔

 地蔵さんは優しい顔をされている。

埋もれた道標(1)

 俊徳道の巽地区では道路舗装を重ねるうちにわずか頭だけ見せる道標。注意しながら歩かないと見過ごすだろう。
埋もれた道標(2)
 
 西俊徳地蔵の傍にほとんど埋もれた道標がある。“;右 兵・・・・;”だけがかろうじて読める。興味がわいて土地の人に尋ねると;兵たん山(瓢箪山)と刻まれていたが道路舗装を重ねるうちに石頭だけ残すようになったと説明を受けた。
 ここへ来るまでに同様に頭だけの道標があるが道路舗装により埋もれていった。
手押し式ポンプ

 西俊徳地蔵前に懐かしいポンプがあるので押してみた。残念ながら水は上がらず期待はずれ。以前に歩いた河内花園駅前商店街にもポツリ残ったポンプは今もあるのだろうか。
勝山古墳

 岡山古墳と呼ばれていたが大坂夏ノ陣の折、徳川秀忠が陣を置き、豊臣方に勝利したことから、お勝山と呼ばれるようになった。
残念なことにこの古墳は東西に走る道路のために2分されている。
公園内の摂津国国分寺址

 上町台地にあり古代から開かれていた。(天王寺区国分寺公園内)

四天王寺南大門側へ

 俊徳道の到達点の四天王寺南大門に入る。古の道は蛇行しているので長瀬駅から歩いて3時間ほどかかった
四天王寺のお彼岸参り

 今日は秋のお彼岸で参拝者で賑わっていた。天気も良く、いい彼岸だった。
創建以来,多くの人たちの願いがこもっている。
西門に沈む太陽

 春秋の彼岸の日は四天王寺の東門から日は昇り、西門に沈む。西方浄土の思想によるが創建当時はすぐ西方は海だったので、もっと厳粛で壮大だった。思わず沈む太陽に手を合わせたくなるのは今も変わらない。(この写真は以前に撮影)



  3.東高野街道編


東高野街道は昔から京道とか紀伊道とか呼ばれ、親しまれ京都や和歌山に通じている。09.1月11日、まち・むら文化研究会は瓢箪山駅前に集まり大東市にある野崎観音に向けて東高野街道を歩くことにした。前回に歩いた八尾市楽音寺までの東高野街道のコースを含めて今回、掲載していきたい。(マップ制作は谷幸一氏)
 まず八尾・楽音寺に向けて東高の街道に足を運ぶとなると、瓢箪山駅前商店街を歩くことになる。瓢箪山商店街は国道170号線と同じくしている。国道にアーケードが設けられているのは全国広しといえど長崎県の商店街と瓢箪山の2件の例しかないらしい。ここのアーケードの上には地元の小学校の児童が制作した大きな瓢箪がぶら下がっている。瓢箪山の地名は近くにある瓢箪山稲荷神社に由来しているが瓢箪型した古代の古墳がご神体で東高野街道を往来する人により吉兆の占いをする辻占いで有名なり。
 太閤橋
瓢箪山稲荷に差し掛かるところにある石小橋には太閤橋と刻まれている。大阪城を守る瓢箪山稲荷に豊臣秀頼からの寄進の
橋だと伝えられている。
 東高野街道は古代の海岸線に当たるので道の西側は明らかに切り下がっており往時が偲ばれロマンが胸にわいてくる
 一里塚があった箇所には今は建物しか建ってないが一里塚が近くの安養寺境内に安置されている。一里塚とした石灯篭を見ることにした。江戸時代末期に建立されたものだが四面に立派の仏が彫られている見事な供養塔だ。
 安養寺を少し南に行くと梶無神社がある。かっての海を見下ろすように巨大な楠木が鳥居を覆うように立っている。神社の名称が示すように神代、神武天皇の東征のおり船が海上で嵐にあい船の舵を失い漂流したことで由来している。アオバズクがこの楠木に飛来するという名勝なり。
 梶無神社を下り再び街道を歩き伝統的な河内ふなを養魚されている山口養魚池を右に眺めながら歩くと左には六万寺往生院の風雪に耐えた立派な石碑が現れる。瓢箪山駅構内に建っている歌舞伎俳優の中村扇雀が寄進した楠木正行の供養碑が示すように戦死した正行の墓がある名刹・六万寺往生院が上方にある。

 六万寺地区に入ると街道は旧街道と新道が分かれており、旧街道(左側)では往時から残る野仏があり、ほっとするものあり。

瓢箪山駅から北方向へ東高野街道を野崎観音に向ってマップのように歩くことにした。(マップ制作は谷幸一氏)
アーケードが途切れるあたりで旧街道は東側に走る。ここで新道と旧道が分かれ道標と街道の改修記念碑が建っている。       旧街道の道幅は本来、駕籠が往来するほどの狭い道だったが、昭和11年に貞明皇太后が枚岡神社に行啓の際に幅員拡張や新道の工事改修する。記念碑と説明版が設置されている 
 この分岐点をおよそ30メートル北へ新道を行ったところに喫茶「喜里」がある。日本美術院の大御所だった故長谷川青澄画伯の大作が店内に品ある光を放っている。画伯は地元の素封家で江戸時代から上田秋成や生駒山人など文化人と交流あった文人・中西多豆廼舎・多豆伎の屋敷にお住まいになっておられた縁で画伯の絵がある。画伯は画商に絵を売らないので有名。この名作を前にして美味しいコーヒーを飲むのは至福のひと時になるであろう。
 箱殿交差点を少し上がると生駒石の権現塚がある。大阪冬の陣、夏の陣のさい徳川秀忠、家康が本陣にした中村代官屋敷址に位置する。滞留した時期は5月5日で端午の節句、当主の中村四郎右衛門は土地の名産、河内木綿を”勝布”と献上し家康は縁起を担ぎ戦の勝利につなぐとこの2日後には事実上大阪城を落としたのであった。喜んだ家康は当主に刀を与え暗越奈良街道や京街道要所の取締りの権限を与えた。
鎮宅霊符神社
 歴代額田組の氏神。額田と陰陽博士の土御門家と室町時代から関係が深い誇り高い歴史と伝統がある。神社を訪れると石階段には桜井伝次郎と彫られた寄進者名がある。この方は河内の郷土文化サークルに額田歴代組の代表として参加されていた。当時ですでに卒寿90歳になられていた。家に伝わる提灯など資料を披露された。今から思うと生前に詳しくお話を伺っておいたらよかったと思うこと多し。
旧枚岡町役場
さらに街道を北に行くと旧枚岡町役場があり、歴史が転移して今は大阪東信用金庫東大阪営業部豊浦出張所。、枚岡村から枚岡町(昭和10年)以来の風格ある建物が残る。地域の歴史を伝える“町の文化財”といえよう。
 さらに歩くと“商売繁盛笹もってこい”の威勢のよい声が聞こえたと思ったら額田戎神社。今日は残り恵比寿なのでお参りし、お神酒をよばれる。江戸時代末に西宮戎に勧請した古い歴史を持つえべっさん。

 盾津浜の碑
 古事記や日本書紀に登場する盾津の浜碑が街道沿いに立つ。記紀によると神武天皇はこの浜に上陸し直越して大和に入ろうとしたがニギハヤノミコトに阻まれ熊野へ迂回し、大和に入り大和朝廷を成立させたといわれている。東高野街道は古代は海の海岸線だったと現地で実感する。

日下リージョンセンター
この館の西方面で鯨の骨の化石が出土したので建物が鯨をイメージして建てられた。
日下リージョンセンターの近くの稲荷山に谷崎潤一郎が住んでいた邸あった。邸から灯籠とつくばいをリージョンセンター前に移転し記念保存されている。
 一里塚を過ぎ、孔舎衙小学校を訪問する。最近は防犯の関係上小学校内にはいる時、学校の許可を得なければならないので安岡正篤先生の揮毫の記念碑を見学させてくださいとインターホーンで告げる。すぐに応じて門を開いていただいた。“心明く 望清く”と揮毫。安岡師はこの小学校の卒業生のため、創立100周年記念のとき少年時代を送られた善根寺に帰られ揮毫された。善根寺から東高野街道を通学し旧四条畷中学を卒業、そして東京へ出て、東京大学を卒業された師は平成の年号の名付け親、そして歴代首相の指南番の存在、思想家として高名な方だ。少年期を送られた家宅は今も保存されている。
   東高野街道を少し善根寺集落へと登ると安岡正篤師が少年期を過ごした旧宅が保存されている。師を慕う全国の崇拝者にとっては聖地と言っていいだろう。師が教えを漢籍の教えを請うた神官がおられた春日神社が近くにあり、ここに参拝するのもいいだろう。 

金毘羅灯籠、浜の橋、浜地蔵があり往時は舟運が盛んであったことは今でもうかがえて面白い。
 大東市に入ると生駒山系も背が低くなり、新道から旧街道になり今までとは俄然に道幅は狭くなる懐かしい火の見やぐらも現役で美しい身でそびえている。土地
の老人が鍬で溝を掃除されていたので話しかけてみるとそこに流れている川は廿十田川といい、このあたりはどういうわけか江戸時代は郡山藩の柳沢家の所領だった。そして、ささら郡といったと説明を受けた。

 いよいよ目指していた野崎観音(慈眼寺じげんじ)の長い石階段が前に立ちはだかる。疲れた足にムチを打ち登ると寺の境内だ。登って大阪の方面を眺めると目の前に景色が雄大に広がる。観音様のご利益が有難いが、この景色のよさも疲れを癒してくれる。お染久松の墓を参拝し、この背後にある飯盛山を登ることにする。

七曲
険しい七曲がつづく。太平記や河内の“国取り”に登場する飯盛山城をぜひ見たいものだとかねがね願っていた。

太平記に登場する楠木正行、小楠公の像がたつ。
 山上から京都方面を眺む
生駒山系の北の端に位置し京都、摂津、河内を見下ろせる城があった。中世から“天下取り”を目指す武将にとっては、ぜひとも確保しておきたい要所だったことは容易にわかる。日も暮れ山を下る足元もおぼつか無くなった。
 飯盛山を下り四條駅前の「海賊」という居酒屋にふと足を入れると、ここの若きマスターは空手の達人とわかる。料理もおいしく気持ちよく、酔いも回った。カメラを持つ手も廻ってピントがずれる。


 4. 十三峠を越えて竜田川へ


 
 昨年12月13日、「まち・むら文化研究会」は十三街道の山越えを目指して瓢箪山駅前に集合しました。まず東高野街道を十三街道に交差する地点、八尾楽音寺まで歩きました。この東高野街道は古代、大阪が海だった頃の海岸線に当たり、道の西側は今でも明らかに切り下がっており、想像力を働かせて波際を胸に抱き歩きました。後日に東高野街道については詳しく掲載することにしますが、下記のマップのように箕後川を過ぎ大坂夏ノ陣の井伊直孝の本陣、花岡山を前にして、あの伊能忠敬も1807年に歩き、幕末の英国外交官アーネスト・サトーが当時のガイドブックに紹介した十三峠を越え竜田川駅まで踏破しました。(マップ制作は谷幸一氏によるものです。) 

心合寺山古墳

心合寺山古墳は、古墳時代中期(4世紀)につくられた前方後円墳で中河内では最大の全長160メートルあります。後円部には3基の「埋葬施設」があり右後方には「神津の峰」がかすかに見えます。

 楽音寺に入ると”河内家朝千代会 伝承民謡保存会”の看板がある。東大阪市同様に河内音頭が昔から盛んな地方だとわかります。
楽音寺の薬師石仏
凝灰岩の石棺の蓋に彫られている珍しい石仏。、

いろは文五郎の碑

村の力自慢が、村にある相撲部屋に入門し、その親方(当地では頭取と呼ぶ)からしこ名をもらつて稽古にはげみました。 村相撲の頭取は河内一帯に広く分布しており、いろは・中川、三ツ山、大井川、鶴渡り、森山、二ツ引、東川、磯川、東崎などの頭取名が知られている。
これらの多くは、江戸時代後期の大坂相撲に出場した力士やその門人が地元で部屋を構え、代々名跡を継承してきたものといわれています。参考ー(大西英利氏『石に探る河内の庶民史−河内相撲・力石・野仏行脚−』)

安政の石道標に“右 奈良いせ道”と刻まれている。
辻堂

辻にひときわ大きいお堂があり、土地のお年寄りに尋ねると、昔は住職が住んでいたとかおしゃっていた。大きいお堂といっても6畳の間ほどの広さなのでそれを聞いて驚く。一人の年老いた村人が熱心にお参りされている姿が印象に残った。

楽音寺の集落に今も残る”旧軍人恩給 相談所”の表示
十三街道沿いには自宅の一部敷地を提供し街道を往来する人達の安寧を祈る野仏があります。
神立(こうだち)茶屋辻

在原業平が河内の女人を見初めてこの街道を通っていたという。愛する女人が手づかみで食事をしているのを山から見て興ざめしたと伝えられており、土地の人はそれゆえ東窓を設けなかったといわれている。

十三街道の山道をさらに登り、息が切れて疲労が重なるときに現れるのが水呑地蔵だ。弘法大師が発見した旅人を癒す水として今も水呑地蔵の参詣者は絶えない。残念ながら保健所の検査結果によると今は生水として適さないとの表示があったがあえて飲んでみた。疲れが癒される冷たい水がのどを通っていく水呑地蔵寺がある。

水呑地蔵寺の展望台から大阪の町を眺めると、きわめて雄大な景色が眼下に広がる。
十三峠に向け登り切ったところに十三街道のいわれである十三塚がある。筆者は長い間、峠に十三塔があるものと思っていたが土饅頭のような十三の塚がある。やはり来て見て確かめないとわからないものだとつくづく思うことあり。
谷間には山椿が咲き誇り、眼を和ませてくれる。
生駒王寺役場 平群駅の標識が見えると竜田川駅も近くなりホッとする。
近鉄南生駒線の竜田川駅に到着し”まち・むら文化”の忘年会会場の「音の花温泉」がある東山駅に向う。
十三街道を布施から歩く
 
 まち・むら文化研究会の東大阪市にかかる”街道を歩く”は、いよいよ5月5日に十三街道を歩き”仕上げ”が近づいてきました。H
17年4月に放出街道を歩きを始め、今となっては残る街道は東高野街道のみとなりました。
 実際に歩いてみて街道沿いの家並みや街の佇まいは、頬に風を感じるように歩くことにより、人との出会いもあり五感に飛び込
んできました。汗の量と比例するように心地よさは大きくなります。
下記の十三街道マップ制作は谷幸一氏


十三街道は、布施ブランドリー商店街の
「すし富」から東へと意外に狭い道を入っ
ていく
 この近くの淡路屋という居酒屋さんでは伝統の“河内ブナ”の洗いを出してくれる。鯉の洗いより味が淡白で美味なり。(写真手前)
足代の中にも十三街道には静寂な空気が一杯。
旧荒川村の辻に建つ十三街道の道標
荒川を通り永和に入ると、十三街道付近
には”村の佇まい”がある。
旧大和川の本流であった長瀬川の当時の菱屋橋の石材が光泉寺の境内に保存されている。

土地の信仰を集めている北向き地蔵。
上小阪には昔の代官邸といわれる長屋門と白壁造りの蔵がある所を通り過ぎる。
  木村重成の炊飯場の井戸跡 
 大坂夏の陣若江の戦い、元和元年(1615)のとき、玄関左横に井戸があり最近まで水がこんこんと湧いていた。
南北に走る”融通道”と東西に通じる十三街道が交わるこの付近にひっそりと銭湯がたっている。
上小阪八幡神社の狛犬の下に伊勢講と刻み込まれていた。この北西に元和元年(1615)大坂夏の陣の際、木村重成が使った炊飯場の井戸が残っている。
近畿大学の北側を東へ若江に向いて街
道は伸びる。40年前ではこの辺りの十
三街道は野中の一本道だった。戦前の
新聞には昼日中に追剥が十三街道のこ
の東で出没したと報じる記事を読んだこ
とを思い出した。
若江に入ると十三街道沿いに旅人が休
んだであろう古木が佇む。
 若江の人にお聞きした話しでは昔に”お
こもさんが休む建物があったらしい。
 河内街道と十三街道が交差している上
若江の道標。十三街道の字がくっきりと
見え”すぐ八尾”と刻まれている。
 元和元年(1615)大坂夏の陣の際、木
村重成が井伊軍とこのあたりで激烈な戦
闘を展開した。
八尾市幸町の南に十三街道の道標が保
存されていた。
玉串川を横切ってさらに東へ進むと福万
寺に入っていく。
恩智川の福栄橋の傍に残る供養石碑。
この供養碑はもとの橋が寛政12年
(1800)年に大雨に流された橋の供養碑
で橋の親柱の下には人柱の代わりの人
形があったという。
 恩智川の福栄橋を渡り、東大阪市の池
島の南、箕後川に沿って十三街道をい
く。向こうの山に大坂夏の陣の際、徳川
方の井伊軍が陣地を置いた花岡山が見
える。
 勇猛で有名だった井伊の赤鎧部隊はこ
の道を西へ直進し、”若江堤”において豊
臣方の木村重成部隊と激突し,勝ち進
む。
5.お伊勢参り事始第2弾旧松原宿場〜暗峠〜尼ヶ辻
 12月15日、東花園駅に集合10時半。今日は前回の玉造稲荷神社〜松原旧宿場に引き続き、松原から暗峠を越え大和の尼ヶ辻まで歩いた。
 今回は河内の郷土文化サークルセンターの柏原市文化連盟の
会員さんも加わってもらったので一層賑やかな道中となりました。
(マップの制作は谷幸一氏による
ものです)
 花園駅から南へ松原へ向け旧吉田川跡の道を行くと花園ラグビー場前の吉田墓地に松尾芭
蕉の供養碑がひっそりと立っており、美しい供花が目を引いた。
この墓地は旧吉田川の堤上になる。
 芭蕉は暗越え奈良街道を何回も往来し、地元の文人達と交流がありました。
 先月に松原を訪れた際あった茅葺き屋根の家が今回、忽然と消えていたのには唖然とし、寂しい思いをしたのは私だけではないだろう。
 松原を過ぎ町水走のはずれの家に街道の歴史を感じる。この辺りは恩智川の傍なので浜があった。
 生駒山麓の箱殿の奈良街道と東高野街道との交差する辻、四つ辻とも呼ばれていたところに道標が、街道の脇にひっそりと建っている。
 この南北に走る東高野街道(別名、京道とか紀伊道といわれる)が昔の浜だったといわれ道標の横に弘法大師を祀る祠堂がある。誠に歴史が交差する箇所なり。
 いよいよ奈良街道の難所のひとつ、暗越えを前にして昔から行き倒れた旅人への供養碑が寛政6年(1794)に建てられている。
この塔の裏(陰碑)に長栄寺の中興の祖、慈雲尊者の供養碑文が刻み込まれている。
私達も手を合わせて供養するとともに”旅”の安全を祈る。(この供養碑は残念ながら平成21年に消失している)
 少し登ると勧成院があり、この境内に芭蕉の句碑「菊の香 暗がり 登る節句かな」がある。
 暗越え旧奈良街道を登ったので勾配がきつく息切れを起こすほどしんどいものだった。ハイキングコースがない昔はこのように苦労をして越えた。我々も往時を偲びながら暗がり峠に苦労をし、たどり着いた。
 暗峠を越え少し下ると街道沿い
に"風舞”という、うどん屋さ
んがある。我々一同ここに入り、
地鶏肉入りうどんに舌鼓を打ち、
元気を出した。中々美味なり。、
 南生駒駅も過ぎ矢田丘陵に向
かい、振り向くと生駒山が雄大な”馬の背”のような姿をみせていた。江戸時代には駒山とも呼
ばれていた。
 矢田丘陵を越え、尼ヶ辻に向かうと日が暮れだした。
 矢田丘陵を越えると、視界が広がり、ひたすら下っていく。
 矢田丘陵を下ると追分に入り、追分本陣の豪壮な姿を現す。”追分”とは道が分岐するところを意味し、各地に追分の地名を残すゆえんなり。この頃には暗くなり足元もおぼつかない状態になる。
   砂茶屋の保存樹・黒松
 ここまで来ると尼ヶ辻は近い。街道を往来する旅人の目安になり、木陰は旅人を癒したことだろう。 

 垂仁天皇稜を過ぎ、尼ヶ辻駅に到着した頃にはすっかりと夜になり、尼ヶ辻から西大寺駅に
向かい、ここで下車し”旅”の疲れを癒しまち・むら文化研究会の忘年会を持つため、居酒屋へ。
 今回のお伊勢参り事始第2弾は、”国境”を越え大和の国入りをしたので街道を歩く情緒が増し、さらに楽しいものになったと言える。


第1弾お伊勢参り事始・暗越奈良街道(玉造稲荷神社〜松原宿)

お伊勢参りは玉造稲荷神社から出発していた。” まち・むら文化研究会は11月4日この神社に朝11時に集まり伊勢に向けて・・・と云っても今日は目的地の東大阪の旧松原宿に向けてテクテクと歩き始めた。
(マップ作成 谷幸一氏)
玉造稲荷神社には長い歴史があり、豊臣秀頼寄進の鳥居や近松門左衛門石碑など数々ある。
 お伊勢参りの第一歩としてふさわしい神社。早速お参りして旅の安全を祈願する。
昔はここに二軒の茶屋があり、旅人の休息所。
この二軒のそばを流れていた猫間川(ねこまがわ)に宝永8年(1711)に幕府の命によって橋が架けられたのが“石橋”。
 正式には黒門橋というが、この附近にあった大阪城の玉造門が黒い門であったところから黒門橋と名づけられ、この橋が大阪では当時珍しく石で造られたものだったので通称石橋と呼ばれ
ていた。
 当時の二軒茶屋の賑わいが描かれた絵一珠斎 国員 筆 「二軒茶や風景」 −大坂城天守閣 展覧会図録より−
まちおこしの神路商店街で昼食をとり、ビールの酔いを感じながら熊野大神宮に着く。ここでは地車も出て、イベントの祭り気分をかもし出していた。
歩き進むと街道沿いには、うだつの上がった家屋が続く。ここが大阪市内かと思うような風情あり情緒がある。
千日前通りと奈良街道との交差点に当時の一里塚が立っている。ここから千日前通りを横切って東に向け街道は走っている。
深江笠で有名な深江稲荷神社を過ぎ、千日前通りを左にして東進すると街道は東大阪市に入る。
東大阪に入る辺りに深江神社があり、一帯は深江とか足代の里といわれていた。古代から湿地帯で菅が植わっていた。お伊勢参りには、あじろ・菅笠が尊ばれ奈良街道沿いにはあじろ・菅笠の店が繁盛していた。(河内名所図会から)
布施駅前の老舗・モモヤ菓子舗では銘菓“あじろの里”が売られており、あじろ笠をイメージしたお菓子で郷土の歴史を伝えているのがうれしい。口に含むと美味しい餡と栗の味が忘れがたくなるのは間違いない。
落ち着いた門構えの、蕎麦屋さんの前を歩く。美味しいと言う評判なので写真をパチリ。
御厨の植田家は、大和郡山藩柳沢家や片桐家が休息する本陣だった。豪壮な家屋(主屋は東大阪市指定文化財)が歴史を今に伝えている。この家が所蔵する「山田湯(とう)」の看板は、この家が漢法薬を製法していたことを伝えています。
植田家を過ぎると菱屋中新田会所跡がある。小さな祠が玉岡神社といい三井会所で祀られていたもの。新家村の商人・菱屋庄左衛門が新田開発を請け負った。屋号が菱屋で本名は規矩氏。
 大和川付替え工事後に開発したこれらの新田も享保17年(1732)江戸の三井家の所有となり、この土地を管理していた事務所が「三井会所」。
産業道路を右に入り、河内街道を越えると右手に八剣神社が見える。この辺りは旧大和川支流の菱江川が流れており、島と呼ばれていた。
 市内には伊勢参りのおかげ燈籠が多数ある。
菱江に入ると”河内の国”を感じさせる舟板塀の民家を見受ける。
この村には、お伊勢参りのおかげ燈籠や大きなモチノキ、地蔵そしてご典医家など奈良街道を色濃く伝える事物が残る。
いよいよ旧宿場・松原に到着した。この茅葺屋根の家はもとサイトウの屋号で宿屋を営んでいたという。家の人の話では祖母が昭和初めに嫁入りした時に既に建っていたという。(「東大阪市の建築物」から)旧宿場の情景をのこす貴重な建物だが、残念ながら最近、消失してしまった。
松原宿は江戸時代に大坂と奈良間の街道筋に唯一正式に置かれた宿場。大坂〜奈良間は、暗峠のある生駒山をはさみ、8里8町の距離で、江戸時代の明暦年間(1655〜58)に、大坂町奉行所から松原と隣の町水走の間に置くことが命じられた。
 江戸時代の宿場は、単に旅籠だけでなしに旅客あるいは貨物の運送という重要な業務のため、交通機関の馬や運送役の人足等を常備し、幕府役人の管理の下、地元の村々の負担により運営されていた。松原宿場がここに設けられた理由は、難所の暗峠を控え、西側にはもと吉田川が流れ水上交通や陸上交通の要所であったからである。石標は行き交う旅人を眺め続けてきた。
 当時の茶店・河内屋の賑わい振りが河内名所図会(1801年)に描かれている。

6.河内街道ぶらり歩き
若江岩田〜四条畷

 4月29日、世の中が”連休”で浮かれているとき、「まち・むら文化」では消え去りそうな”河内街道”を求めて近鉄奈良線若江岩田駅から古地図を頼りにしてJR学研線 四条畷駅まで”ブラり歩き”をしました。
 織田信長が天正4年(1576)5月5日に石山本願寺攻めで若江に滞在した。(「信長公記」)この際、河内街道(当時は村と村を結ぶ単なる小道)を通ってきたのだろうか。そんな想いを抱きながら我々は歩きました。
(マップ作成 谷幸一氏)
 若江岩田の商店街を歩き出して、ふと脇道に眼をやると今まで気付かなかった”見事な舟板塀”を発見。この辺は江戸時代は舟が行き交う水郷地帯でした。
旧中野村に入ると、路地裏みたいな小道が”河内街道”。時代の香りが漂う。
 街道は小道を抜けると、中野の庄屋だった西村家の前は視界が大きく拡がる。昔は年貢の牛車が多く集まるように門前は広場になっている。西村家は明治の初めに俳句の結社を営み地元の文化振興に大きな功績がある。 
 高倉墓地を過ぎ、角田に入り天気も良いし、街道の風情をのんびりと楽しむ。
 吉原の西光寺。近江観音寺城佐々木左衛門が藤井弥惣太と改め永正5年(1508)に西光寺を創建、木村重成の遺児門十郎が藤井氏の養子になったと伝えられています。堺屋太一氏は小説・中甚兵衛の「俯き加減の男の肖像」を執筆する際、資料を求めて当寺を訪れています。
 吉原の北東に井路川が交差し、水門があり、水郷の空気が漂っていましたが、今は残念ですが一部は暗渠となり駐車場となっています。
 効率優先の悲しさでしょうか。

 ”加納村”に立派な道標があり、河内街道を迷いながら歩く、私たちをしっかりと助けてくれる、ありがたい存在。

 加納を北上すると、東西に横たわる、手前の小道が東大阪市と大東市とける市境線。ここからは鐘紡工場跡が府営住宅になっている。
 三箇村の氏神神社・三箇菅原神社。16世紀に飯盛山城の支城・三箇城がここにあったされる。永禄5年(1562)領主の三箇殿はキリシタンでクリスチャンネームを”サンチョ”と呼ばれていました。
 大東市に入ると”河内街道”の石碑が保存されています。ここに年配の人が通りかかられ道を尋ねると”京道”という東高野街道を示す、みやびな言葉が耳に入り、少しうれしくなりましたね。
いつも見慣れている生駒山が四条畷に入ると極端に低くなり、ついに平地になり京都が身近になる、
 四条畷駅を横に見ながら通り過ぎるとやっと到着した思いが胸に到来し、うれしいものでした。
 四条畷は楠木正行が飯盛山の戦いで戦死したところ。ウォークも終えて”反省会”を居酒屋でする。
もらった名刺の住所”楠公一丁目”と書いてあり、やはり”楠公さんのまち”でしたね。




7.街道を歩く・放出街道をとおり森河内・稲田をゆく



 まち・むら文化研究会の記念すべき“第1回まちを歩く”を実施しました。第1回は、森河内・稲田地区を訪れるため、布施駅に集合。この日は“地車パレード”が開催されていて、布施地区の地車が布施駅前に勢ぞろい、賑やかなお祭り気分で大勢の人が集まっていました。
 布施のブランドリー商店街を北に向かっていくと、一段と高くなって奈良街道が交差していて、ここを西に折れ、放出街道に入ります。放出街道は旧堤の上をまっすぐに伸びているため、別名、剣(つるぎ)街道と呼ばれています。まず深江稲荷神社を訪ずれました。この街道は昔の摂津の国、河内のの国境(くにざかい)を縫うように走っているので、我々も古堤街道にも足を踏れ、歩くにつれ大阪市東成区内に入ったり、東大阪市内に戻ったりの“まち歩き”でした。

【深江稲荷神社】

もと深江村の祭神は稲荷大神、笠縫大神、鏡作大神である。このあたりは、菅(すげ)が密生していたので菅笠づくりで有名であり、また、昔から名を残した足代鋳物師が居住し、人間国宝の釜師・故角谷一圭氏宅も近い

【諏訪神社の大砲・砲丸】

戊辰戦争で官軍の軍艦に備えつけられていた大砲と砲丸が設置されています。その石台には「明治2年5月軍攻五稜郭此其所用巨砲之一也」と記されています。また、この神社は、菅原道真が筑紫への左遷の途中に当社に立ち寄り休憩をとったことで知られています。道真が座ったとされる腰掛石などが祭られており、この地域の旧地名「左専道」は、この故事に由来するといわれています。

【森河内八幡神社】

森河内は旧の寝屋川に長瀬川が合流する位置にあり、中世迄は一面の葦原が茂る沼地で、俗に「島」と呼ばれ、うっそうと森が茂る台地があり、地方の武家の者が多くの従者を引き連れ、狩りに来た所ともいわれています。


【懐かしい看板】

森河内の旧村に入ると何か懐かしくなる雰囲気があります。この看板も歴史と伝統を感じさせてくれます。

JR徳庵駅の東側が東大阪市、西側が大阪市の市域となり、ほぼ市域がまたがるという全国でもユニークな駅です。
昔から稲田から徳庵にかけた農家がおやつとして作ったのが”別品餅”として土地の名物となる。別品とは特別な餅という意味です。昔は行商して売られていた
”別品餅”石臼でひかれた、きな粉と蒸してある柔らかい餅の食感が素朴で美味なり。

村中のキリスト教会】

長い風雪を感じさせる瓦葺の建物で周囲に溶け込んでいます。

【“きしゃ道”道標】

“きしゃ道”の文字に文明開化の頃が頭に浮かび・・・。後ろの家も道標のために敷地の一部を提供しています。

【稲田八幡宮】

稲田村由来記によれば、永享3年(1431に、古市郡にある誉田八幡宮より勧請され、稲田八幡宮がまつられるようになったと記されています。
 この八幡宮は、字宮の町と呼ばれる所にあり、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后がまつられています。また境内には樹齢約500年、樹高約35m、幹囲5mもあるイチョウの古本があり、市の天然記念物に指定されています。