舞坂宿本陣跡
この地は東海道舞坂宿宮崎伝左衛門本陣跡で江戸時代、公家、大名、幕府役人などが旅の途中宿泊、休憩したところです。舞阪町教育委員会
今切 真景
舞坂宿は江戸日本橋から67里(264.9キロ)、品川宿から数えて30番目の宿である。東海道の陸路は舞坂で一度切れて、ここから新居宿まで海上1里半船を便りとして渡ることになる。浜名湖は、かつて遠淡海(遠江)とうたわれる淡水湖であったが、明応7(1948)の地震により切れて入海となった。その切れ口を今切と呼ぶ。地震による被災から復興して今切渡船の発着地となり、舞坂は交通の要地となった。
一里塚跡

江戸幕府が日本橋を起点にして街道に一里塚を築かせたのは慶長9年(1604)とされる。天保年間の宿村大概帳には舞坂宿は江戸より67里16町に一しており、ここの一里塚は左右の木立共松と書かれている。しかし古老の話では大正時代まで一抱えもある大きな榎の木が枝を四方に繁らせていたというから幕末の頃には榎の木が植わっていたと解釈してよいだろう。なお北側の一里塚は土地台帳に町有地としてわずかに名残をとどめているのみである。舞阪町教育委員会

舞坂橋跡 ここには江戸時代、舞坂宿唯一の橋である舞坂橋がかかっていました。北に西長池という大きな池があり、南側から松並み木を横切って昭和10年頃まできれいな水が流れていました。天保14年の東海道宿村大概帳には次のように書かれています。字舞坂橋
1.土橋 長7尺 横3間 橋杭4本立弐組
是は前々より御普請所にて、寛政10年御代官辻 甚太郎掛りにて御普請これあり、この証拠書物は宿方にあり、文化14年にも御普請これあり。もっとも土橋のため保持に難あり宿役で板橋に掛換えをした。舞阪町教育委員会

見付石垣

この石垣は舞坂宿の東はずれに位置している。石垣の起源の詳細は明かでないが、宝永6年(1709)の古地図には既に存在している。見付は見張所にあたり、大名が通行の時などには、ここに6尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である。舞阪町教育委員会

仲町常夜灯
文化6年(1809)に舞坂宿の大半を焼く大きな火災があり、復興に大変難儀をしました。火防の山、秋葉信仰の高まりととtもに仲町の願いにより、4年後の文化10年5月吉日にこの常夜灯が建立されました。両皇太神宮、秋葉大権現、津島牛頭天王の銘が刻まれ、高さは台座ともで2.7メートルあります。なお、西側の石の祠は、秋葉山をまつってあります。ちなみに、ここ宝珠院は舞阪町において、明治六年(1873)小学校が初めて開かれた所です。舞阪町教育委員会
西町常夜灯 舞阪には往還道路沿いに3つの常夜灯があるが、ここは正面が両皇太神宮、西面が秋葉大権現、東面が津島牛頭天王、南面が文化10年2月吉日、願主 西町中、と彫られており、この常夜灯は文化10年に建立されたことがわかる。舞阪宿では文化6年(1809)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり復興に大変難儀をしている。当時火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている。舞阪町教育委員会
新町常夜灯 ここの常夜灯は正面が秋葉大権現、西面が津島牛頭天王、南面が両皇大神宮、東面が文化12年乙亥正月吉日と彫られており、文化12年に建立されたことがわかる。江戸時代の舞阪はよく火災に見舞われ、特に文化6年(1809)には宿場の大半を焼く大きな火事があり復興に大変難儀をしている。当時火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建立されたもので、その世話は現在も地域の人たちに引き継がれている。舞阪町教育委員会
舞坂宿脇本陣 舞坂宿は、慶長6(1601)の東海道宿駅制度設定に伴い開設された53次のうち江戸から30番目の宿駅で、弘化2(1845)年の資料では人工1204人、戸数265戸でした。また、本陣(宮崎伝左衛門)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向側に脇本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)がありました。脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で、普段は一般の旅籠屋として使われました。建物は主屋・繋ぎ棟・書院棟で構成され、現構で間口5間・奥行15間ありました。現在書院棟1棟が残されており、旧東海道宿駅の中では唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。平成7年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟鬼瓦に「天保9年戌5月吉日 横山村瓦師政右衛門」の●書が発見され、また、旧上段の間の床の間落掛材に「天保9年戌春より秋迄数月」の墨書が発見され、書院棟が天保9年(1838)の建築であることが判明しました。平成9年舞阪町教育委員会
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舞坂宿の渡船場、本雁木跡 江戸時代、舞坂宿より新居宿までの交通は渡船であり舞阪側の渡船場を雁木といった。雁木とは階段状になっている渡船場のことをいい本来は「がんぎ」と読むが舞阪では「がんげ」といっている。ここは東海道を旅する人が一番多く利用した本雁木跡で東西15間、南北20間の石畳が往還より海面まで坂になって敷かれていた。またここより新居へ向かう船は季節により多少変わるが、関所との関係で朝の一番方は午前4時、夕方の最終船は午後4時であった。舞阪町教育委員会
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