イタリア・チェコ短訪

2002年、イタリアとチェコを訪問したときの旅行記です。

イタリア・チェコ短訪 

 新田博之

 

飛行機が着陸体勢に入った。ゆっくりと空港が近づいてくる。広がる田畑、並木道、細長くくねっている河川。

夕刻、ローマ・フィウミチーノ空港に機体は着陸した。夕暮れの西日が斜めに滑走路を照らす中、飛行機はゆっくりとターミナルを目指す。おれはスペインから飛んできた。日付は二〇〇二年三月二十日。

 今回の旅は、スペインとイタリア、チェコの三カ国を単身で二週間かけて回り、現地の役所や国連の専門機関、日本人学校などを視察する。おれは北海道風連町という人口五五〇〇人の小さな町の役場で事務をしている。海外を一人で視察研修して、しかもその準備も自分で企画し、宿泊も自分で予約を確保し、さまざまな苦労をして、一回り大きくなって帰ってこいという趣旨だ。

 ローマの空港を歩きはじめて、スペインと違う印象の第一点目として気が付いたこと。女性の背が高い、おしゃれで洗練されている、そして美しい。そんな気がする。単なる気のせいかもしれないが。

さきほどまでいたスペインでは、現地スペインの女性とツーショット写真を撮影するという目標を立てた。

バレンシアに滞在中、ホテルの近くにある、行きつけたバルで働くスィモーナと、昨夜、記念撮影し目標を達成した。今朝、バレンシアを去る際、またバルに行ってコーヒーを飲み、スィモーナに似顔絵を描いてプレゼントした。握手して別れた彼女の笑顔と、夜の客をさばきながら大声で対応し、割れんばかりの音をたてて食器を運んでいた姿が思い出される。

 仕事をする以外に、ここイタリア、そしてチェコでも、現地の女性、できれば在住の日本人だけではなく現地人と会話して友人になり、記念撮影する。それを目標にしよう。

 単身の旅である。言葉はあまりしゃべることができない。その分、身振り手振りででも積極的にコミュニケーションをとることで面白みが出てくる。などと強がってみる。

現地の役所を訪問する際は、どうしても通訳を雇わなくてはならない。その他は日本人が勤務している機関や団体を訪問する。それ以外の道中は、当然単独で行動しなくてはならない。通訳を依頼する予算は自分持ちだし、高等な技術職だからそうそう出せる金額ではない。

 アタマひとつ以上違う女性、男性の中を、極力キョロキョロせずに歩く。できれば「海外で暮らしている」くらいのムードで動かなくては、スリやひったくりの標的になってしまうのだ。特に空港でガイドブックなどを開いている東洋人は、一発で狙いをつけられてしまうだろう。空港には白タクの運転手もカモを探して目を光らせているのだ。

 北海道の役場職員といっても職員数でたかだか二〇〇人足らずの規模である。職員一人で海外に研修に行って来いという内容は、かなり大胆である。

研修は当然希望制で、論文と面接試験がある。希望者は複数いて、試験選考となった。日ごろ、職員に研修の場が少ないとかなんとか、多くの職員が言っている。労働組合の交渉でも、もっともらしく「もっと職員に研修の場を!」と当局に詰め寄る。おれもその交渉に出ている。

でも、さすがにこんな内容の研修となると、応募も少なかった。労働組合役員だったおれは、少々寂しい気がした。みんなが普段言っていることと、やっていることとの落差を感じた。自分だって希望を出すには相当な勇気が必要だったのだ。同僚や後輩に声をかけたが、希望を出す人はいなかった。

 荷物受け取りのベルトコンベヤー近くで、腰掛けて荷物を待つ。日本人観光客も多い。特に女性が多い。皆ウキウキした表情で、しゃべっている。今、おれに話し相手はいない。バレンシアを離れる際、日本人旅行者と言葉を交わした。留学を希望している人と現地在住の日本人の二人連れだった。それ以降、会話らしい会話をしていない。

 この紀行文であまり研修内容のことを書いてもつまらないかもしれない。

研修記録は、帰国してから報告書にまとめてあちこちに配った。銀行の待合所にも置いてもらったし、郵便局のロビーにも置いてもらった。地元の新聞社には改めて分割で書いた報告を連載してもらったし、役場の広報にも違った文章で連載記事を書いて掲載してもらった。

 家族はきっといろんな人に声を掛けられて困ったはずだ。

 「おたくのだんなさん、今度アメリカに行くんだって!」

 「おたくの息子さん、オーストラリアから帰ってきたんでしょ!」

 よそ様は好き勝手なことを言う。それだけ注目されるということもはじめから分かっていた。

このように、家族は旅立つ前からいろんな人にいろんな声をかけられたそうだ。おれももちろんさまざまな人から励ましや冷やかしを受けた。だから、研修期間中はめいっぱい多くの場所を訪問していろんな人の話を聞いて、それを報告書にまとめた。帰国後呼ばれれば、どこの団体の会合にも出かけて海外の話をした。税金で研修してきたのだから、報告活動も仕事のうちである。

 話をフィウミチーノ空港に戻そう。

 飛行機から降りてイタリアの地を踏み、ホッとしたのもつかの間だった。荷物受取所では待てどもスーツケースが出てこない。トラブルの発生だ。

仕方なくイベリア航空のクレーム窓口へ歩く。すでに同じような客が行列を作っている。欧米人は「こんなことは慣れたもの」という顔である。こっちはドキドキだ。クレーム窓口でさえ日本人が多い。さすがイタリアだ。ブランドものを並べた有名店が目の前なのに、荷物が出てこなくて足止め、時間が惜しいだろうね。

 おれの順番が来た。ロストバゲージの窓口の兄さんは親切にあちこち電話してくれた。

おれは今日、ローマに一泊、明日はフィレンツェに移動して一泊、明後日はサン・ジミニャーノに移動して二泊、四日後にはイタリアを離れてチェコに飛ぶ。イタリアにいるうちに荷物が戻ってこなかったらアウトだ。おそらく日本に帰国するまでスーツケースは戻ってこないことになるだろう。兄さんが電話を置いた。彼は英語で言った。

 「OK、荷物は今からスペインを飛ぶことになった。私たちイベリア航空は今夜十時までに、きみの泊まっているホテルに間違いなく荷物を届ける」と兄さん。

 「そうか、いい仕事をありがとう」とカッコつけて別れた。

 それにしても少しショックである。貴重品の類はすべて身につけており、ショルダーバッグも手元に残っているが、荷物の大半はスーツケースの中だ。イタリアでの訪問先への土産物、着替え、ネクタイ、洗面道具、洗剤、その他もろもろ。大事だったのはスペインの自治体で記念にもらった展示用の大きな絵皿、分厚い本。無事に戻ってほしい。そんなことを思いながら到着ロビーを出た。

 「市内まで行くのかい?」と若い男性が寄ってきた。タクシーの客引きだ。普通ならこれまでのように無視するところを、荷物をなくした疲れもあってつい付いて行く。クルマを見ると、白タクではなく、普通の営業車のようなので、乗った。フィウミチーノ空港から市中心部までは四十キロある。

 「Hey Japanese? Are you come from Japan? 」兄さん日本人かいと聞く運転手さん

 「ああ。空港でスーツケースがなくなっちゃって参ったよ」

 「そりゃツイてないね」

 ローマはすでに夕闇に包まれている。遠くに街の光が見える。道路は幅広く、照明は柔らかく明るい。タバコを吸っていいかたずねて、火を付けた。関西国際空港で思わず買い求めたショートホープは底をつき、スペインのタバコを吸っている。バレンシアのバルの次男や店主にもショートホープをプレゼントした。

 「英語話せるんだな兄さん」

 「A little. 少しだけね」

 「日本人で兄さんみたいにしゃべる人は珍しいよ。みんなガイドブックを指さして『ココ、ココ』ってさ。あとはずっと黙ってるんだから」

 「日本人の多くはね、ローマまで来る金はあっても、外国語でしゃべる度胸はないんだ。みんなシャイなのさ」

 「それに夜が不思議なんだ。昼間はあんなにいた日本人が、夜はパッタリといなくなっちまう。みんなどこでなにやってんだ?」

 「彼らは夜に出かけてトラブルに遭うのが恐くて、部屋にこもってるのさ」

 「そんなのおかしいじゃないか!ローマは夜が一番美しいんだ。それにローマはとっても安全な町だぜ!」

 「そうだね、残念なことだと思うよ」

 「まったくだよ。兄さんは夜のローマを見て歩いた方がいいよ」

 「うん、チャレンジしてみるよ」

By the way. ところで、日本といえば、今こっているのがプレイステーション、あれは面白いよね、日本人はエレクトロニクスの天才だ!」

 おかげで退屈しないで市内までの時間を過ごすことができた。英語なら少々わかる。

 しかし、自分だって、パックのツアーで研修していたら、その他大勢の日本人と一緒なくせに、偉そうなことを言ったものだ。

一昔前までは、全国いたるところで、市民海外研修とか、ヨーロッパ友好訪問団とか、大勢の日本人が団体でヨーロッパ、アジア、アメリカに出かけていた。景気がよい頃の一種のブームだった。それ以外にも、農協の役員が集団で研修に行ったり、似たような団体旅行のことはいくつも聞いたことがある。そんなツアーならラクだったろう。しかし、そんなツアーなら、行く気にはなれなかったとも思う。

パリやロンドン、有名な大都市の周辺では、日本人団体による研修のウケはすこぶる悪いと聞いた。

 税金や農家の負担金やらを使った従来の団体海外研修には、自分の小さな肝っ玉では、申し訳ないような気がして堂々と行けなかったと思う。それよりも、声もかかるような器ではない。単なるヒラ職員だから。

 今回のように自分を痛めつけるような研修であれば、少しは胸を張って取り組むことができる。それだけ苦労して準備したのだ。道中はもっとキツかった。

 中心部にさしかかるにつれて交通量が多くなってきた。鳴り響くクラクション、街の人だかり、美しい建物、石畳。ローマの夜は美しかった。運転手さんの言うとおりだった。

スペイン・マドリーの旧市街を見たとき、ライトアップされた石造りの建築群を見て、石畳を歩き、繁華街の街角で高らかに響くトランペット奏者の二重奏を聴いたときと同じことを思った。

こんなところを案内して素敵な食事をご馳走して、夜景を見せれば、かなりの確率で女性は落ちる。それくらい、ローマの夜も美しかった。

 「どうも混んできたよ。みんな今の時間帯はお腹をすかせていて、早く家に帰りたいもんだからイラついてるんだ」と運転手さん。

 自力で予約した宿のあるヴィア・ナツィオナーレ=国際通りはすぐそばまで来ている。

 どうやら教会のパレードをやっているらしい。通りの向こうをキャンドルに火をともした人々が歩いていくのが見える。ローマにはカトリックの総本山、バチカン市国がある。キャンドルの光がゆらめいて、たくさんの電飾にも似ていた。

 「ごめんよ兄さん、ミサのパレードをやってるみたいだよ。道を間違ったなこりゃ」

 「いいさ、きれいだよ。ゆっくり進んでくれていいよ」

 警官が交通規制を敷いて誘導している。

 やっと宿に着いた。

 運転手はいったんチップを辞退したが、二度差し出すと受け取った。片言の英語しか話せないが、イタリア語に比べればまだ会話が成り立つ。楽しい道中だった。

Have a nice trip. 良い旅を!チャオ!」と兄さん。手を振って別れる。

 自分で予約した宿は、部屋のようすを見ると可もなく不可もなくといったところ。一泊の料金は十八万リラ=一万三千円ほど。ちょうどユーロが流通しはじめた時期で、料金表示はリラで示されたりユーロで表示されたりまちまちだった。

ローマの宿はどこも高かった。ここは安い方から順にFAXを送り、国際電話をかけて探した宿だ。部屋は三階、どうやらテレビは古すぎて使い物にならない。

 宿には仕事で世話になる日本の現地人たちが迎えに来てくれており、一緒に夕食に出かける。ありがたい。スーツケースをなくしたこと、今夜10時までに宿に届く予定であることを伝えると、彼らはフロントにも内容をとりついでくれた。

 宿に近いレストランで、魚料理、パスタ、ワインをいただく。

 「イタリアのワインは、安価なものでも『ハズレ』がないんですよ。安価なハウスワインで充分楽しめますからね」と彼ら。

少々疲れた。ワインが心地よく体にしみていく。

 二人の男性は、農林水産省出身で、国連の出先専門機関に勤務している。明日はそのうち一人が勤務する国連食糧農業機関(略称FAO)を訪問して、この機関が取り組んでいる内容を取材する。

 イタリアでの生活のこと、北海道の暮らしのこと、田舎における人々の苦労や農家の頑張り、いろいろなことがワインのつまみとしてテーブルにのった。

風連町の農家は共同で会社を組織し、切り餅や大福もちを加工販売している。商品はお土産として今回も活用させてもらっている。

会話はひとしきり続いた。食事をしながらゆっくりとしゃべる。イタリア式だ。日本でガード下の居酒屋に集うのとはずいぶん時間の流れも違うように感じた。こういう世界もあるのだ。

 宿に帰ったが、スーツケースは戻っていなかった。

 イベリア航空窓口の兄さんを思い出す。何が「いい仕事」だ、まったく。

 疲れているくせに飲み足りない気がして、宿のバーでビールを飲んだ。バーテン兼フロア係の青年はバングラデシュから出稼ぎに来ていると言った。スペイン・バレンシアのバルにも、ルーマニアから働きに来ていた女性がいた。本人も、家族も寂しいだろうな。おれも子どものころは、父親が毎年冬になると本州に働きに行った。その間は寂しかった。

 部屋に戻り、バスタブにぬるいお湯をためて風呂に入る。

 バスタブの横には便器があり、その隣にはビデ専用の腰掛けがある。

 昔、町民海外研修でヨーロッパを訪れた人が、ビデ専用の腰掛けになみなみと満たされた水を見て、「ずいぶん低い洗面台だな」と思いながら洗顔したという。話半分としても笑ってしまうエピソードだ。

 別な人はドイツの有名な産地で刃物類を大量に買い込み、スーツケースに格納する際に入りきらないから、箱をみなあけて、安全なように布でくるんだ。布がなくなるとTシャツでくるんだ。Tシャツがなくなるとトランクスで、きれいなトランクスがなくなると使用済みトランクスでくるんだという。これも話半分。

 風呂からあがり、北海道に電話。家族に、無事ローマに着いたこと、ただしスーツケースは今も戻らないこと、昨夜見学したスペインの祭りのことを話した。スーツケースのことはさすがに心配していたが、おれは「なんとかなるさ、身軽で動きやすいよ」と言った。強がったのだ。心配させないように。

朝、ゆうべの農水省の彼らの忠告通り、駅にキップを買いに行く。三月二十一日、木曜日。今日は仕事をすませてからフィレンツェに移動する。フィレンツェへの特急列車は混み合うことが多く、朝のうちにキップを購入した方が得策とのことだ。徒歩で駅へ。

ローマ中央駅=テルミニ駅を目指し宿から歩く。

見えてきた。巨大な駅だ。駅の手前の路上にある小さな店でジュースと新聞を買う。

朝七時、すでに駅の窓口は行列ができている。列に並ぶと前に中年の女性、後ろにすぐ来た同じく中年のビジネス服の男性。窓口のさばきがゆっくりしている印象だ。正直遅い。自動販売機もないため混雑するのも仕方ないだろう。後ろの男性はひどくイライラしている様子で、前がもたつくたびに時計をせわしく見つめる。やがて順番が近づいたときに頼まれたので、順番を替わってやった。前の女性もゆずってやっていた。慌てて窓口に駆け込む男性の姿を見て、前の女性と目が合い何とはなしに微笑みあった。

 自分の順番が来た。緊張する。

「フィレンツェ トレン ラピド ペル ファヴォーレ。フィレンツェまでの特急をお願いします。」

「スィ、わかりましたよ」と駅員。うまくいった。

並んでいるときに駅構内の二階部分にカフェが見えた。朝食はここでとることにしよう。

コトレッタ=チキンカツをトーストではさんだサンドイッチ状のもの=に、オレンジジュース。さっきキオスクで買った新聞を広げる。よく見るとドイツ語新聞だった。イタリアでドイツ語新聞を読む。なんだかなあ。

切符は手に入った。用件は済んだ。

また歩いて宿に戻り、チェックアウトする。まだ荷物は届かない。

弱ったな。

フロントに、もう出かけるので荷物が来たらそう伝えてくれと頼む。イベリア航空の窓口にはイタリア国内での宿泊先を伝えてある。着替えもなければ洗面道具もない。土産もない。

午前中は仕事だ。国連食糧農業機関の本部で昨夜の農水省職員と会う。先方まではタクシーでしか行く術を知らぬ。通りを探しながら歩くが、空車のタクシーは見当たらない。そもそも道路を通行している空車タクシーがないのだ。朝のみんなが移動する時間帯はこんなものか。

さっき、駅近くの道路で空き缶を持って物乞いしていた少女が不機嫌な面持ちで移動中。あまりに施しがしけているので、もっと儲かる場所を探し直すものと思われる。

結局、通りでタクシーを発見することができずに、またテルミニの駅に戻り、タクシー乗り場に並ぶことにする。長蛇の列だ。どうりで路上でタクシーをつかまえるなど無理だ。

白タクの運転手が次々に声をかけてくる。

「どちらまで、日本の方、乗りませんか。」

うるさいという顔をして「ノ!」と首を振る。

だいたいイタリア人に対する接し方に慣れてきた。行列には今度は物乞いのおばあちゃんが寄ってくる。みんな知らぬ顔だ。

物乞いの人には惜しまずに施しを与えるべきとの話を聞いた。

「きっと天国に行けますよ!」「神のご加護を!」と感謝され、手軽に神の国に近づける気がするからだという。スペイン人もイタリア人も、物乞いの人は恵んでくれた人に感謝の言葉は言わないという。喜捨することによって天国に行けると、告知するだけなのだ。

 タクシー乗り場の向こう側、バス乗り場に日本人団体客を発見した。お決まりの、首からカメラ、片手にビデオ、ウエストバックの集団。一人でタクシー乗り場にいる自分に、少し優越感。

国連職員との約束の時間がせまってくるがタクシーの順番はまだ遠い。まずいな、遅刻だ。電話を入れておいた方がよい。前の男性に「携帯電話を貸してくれ」と言う。

「悪いな、貸せないよ」

「そうかい、わかったよありがとう」とおれ。

「そこの公衆電話を使ったらどうだい?」断ったのが気まずかったのか、たどたどしいイタリア語の東洋人に親切に言ってくれる。

「うんわかった、ありがとう」

列を離れたらまた時間がかかるじゃないか。

次は後ろの会社役員風のおじさんに頼んでみる。

「スィ プレーゴ ああ、どうぞ」快く携帯電話を貸してくれた。

しかし渡されたものの使い方が分からない。どうやってどこからダイヤルすればよいのか。メモを見せてダイヤルしてもらう。万事OK。

国連食糧農業機関の人に遅れることを伝えて電話を帰した。「グラーツィエ」礼を渡そうとしたが要らぬと言う。遠慮しないで頼めた自分がうれしい。

やっとタクシーの順番が回ってきた。行き先はあらかじめ住所を記した用紙を見せる。「FAO ペルファヴォーレ FAOまでお願いします」

移動中、窓の外に見覚えのある建物が見えた。

コロッセオだ。でかい。本物のコロッセオだ。当然テレビでしか見たことがない。タクシーの窓にかぶりつきでコロッセオをすぎる。今回の旅には観光の時間がないから、たとえ車中だって、見られただけでラッキーだ。

 FAOに入館し、ビジターのカードをもらい、身につけて歩いた。日本の農水省から出向している職員のオフィスで取材し、意見交換、記念撮影した。

仕事を終えて、その彼と一緒に昼食に出かける。地下鉄に乗って移動した。ローマの市内地下鉄だ。一人じゃ乗る勇気ないな、これまたラッキーだ。

改札が非常に簡便で、ほとんどあってないようなものだ。切符などなくても乗降できる。

昼食、ワインにピッツァ。おれはアンチョビ入りのピッツァを注文した。ワインの後はガス入りのミネラルウォーター。頼むときは「コン・ガス」と言う。普通の水は「ノン・ガス」と言わねばならない。日本の水に慣れているとガス入りは敬遠されがちだが、おれはこれが気に入って、よく愛飲した。

昼すぎの特急でフィレンツェを目指す。道のりは遠かった。

到着近くなり、列車のデッキへ移る。日本人らしき兄ちゃんがいる。

「ジャッポーネ? 日本人か?」イタリア語でたずねる。

「そうだ」とイタリア語で返ってくる。

「おれもだよ」と日本語で返す。

「なんだあ」とホッとする兄ちゃん。関西出身で、ひとりぶらり旅だそうだ。優雅だね。イタリア語はさっぱりで、ほとんどしゃべらずに移動しているらしい。

イタリア人の娘たちがキャッキャと通りすぎる。呼び止めて、ひとりに折り鶴をあげた。

「ありがとう」と喜んでまたキャッキャと去った。

「すごいですね、めちゃめちゃしゃべれてるじゃないですか」と兄ちゃん。

「『きみきみ 日本 小鳥 あげる』これしかしゃべってないよ、おれだってほとんどイタリア語を知らないんだ」とおれ。

 やがて列車はフィレンツェに着き、同じくフィレンツェを目指していた兄ちゃんと一緒に下車し、そこで別れる。また一人になった。

 宿に着く。いささか疲れた。冷蔵庫を点検。ひととおり飲み物はあるな。

夕方、パリの保険会社に電話。すでに営業時間が過ぎている。こっちには残業なんてものをたしなむ人種は存在しない。スーツケースが戻らない場合に備えて、連絡を取らねばならない。ヨーロッパの出先センターはパリにある。

気を取りなおして今度は東京の問い合わせセンターに電話。しかし今、フィレンツェは三月二十一日木曜日の午後六時、東京は三月二十二日金曜日の早朝二時だ。いくら日本のサービス業でも通話できるだろうか、と思いながらダイヤルすると、出たよ。すごいね、日本のサービスは。

保険屋と打ち合わせをして、夕食をとりに出かける。

街を夕闇が包んでいく。日韓俳優共演による映画のヒットで、日本でも人気の出ているフィレンツェ、日本人の旅行者も多く、ちょっと歩けばすぐ日本人とすれ違う。

やがて、雑貨店とカフェが一緒になったような店を発見、ビールとワインを飲む。カウンターのピクルスを頼むと

「サービスだよ」と店主の兄ちゃん。

七時すぎ、何か食うものを注文しようかと考えていると、兄ちゃんが店を片付け始めた。

「終わりかい?」

「終わりだよ」

なんと、酒は出るが閉店はかなり早い店だ。

別なレストランに入って、パスタとワインをいただく。一人でとる食事は味気ない。近くに座っていた日本人女性三人連れを同席に誘うも断られた。

人恋しいなあ。

部屋に戻り、ワインを開けた。

イタリア三日目、三月二十二日の早朝。小鳥の鳴き声で目が覚める。この旅の間ずっと、寝過ごすくらいの深い眠りをなかなか体験できていない。ひとり旅の緊張感と時差がいまだに尾を引いているかんじだ。今日は金曜日、午前中に仕事がある。

食事が取れるところを探しながら散歩する。ホテルの食事よりも、外を歩いた方が楽しいことに出会えるかもしれない。結果、そんなに楽しいことには出会わなかったが、夕べの早じまいの店が開いていた。朝早く、夜も早い店なんだ。

「やあおはよう!元気かい?」と店主の兄ちゃん。

スペインもそうだったが、ここイタリアも、一度会ったらもう兄弟といった雰囲気である。

おなじみのカツサンド=コトレッタにコーヒーをいただく。朝のエスプレッソを飲みに立ち寄る人が入れ替わり立ち代り入ってくる。

午前中、フィレンツェ市役所を訪問した。通訳はローマ在住の日本人女性を依頼した。彼女には仕事もさることながら、スーツケースの手配でもたいへんな世話になった。おれの移動状況を電話でイベリア航空に伝え、とにかく早く手元に戻せと強く申し入れてくれたのだ。

この電話による交渉がなければ、荷物は戻らなかっただろう。

フィレンツェのシンボル、大聖堂の近くにあるオープンカフェで昼食をご馳走し、バス乗り場と乗り方を教わり、彼女と別れた。彼女には、四年たった今でも、たまにメールで近況を報告している。メールによると、06年にはトリノオリンピックの仕事にも携わったのだそうだ。

午後、サンジミニャーノにバスで出発。降りる場所がわからないのが不安だ。サンジミニャーノの表記は時刻表に出ているので間違いなく着くはずだが。

サンジミニャーノは中世に建設された高い塔が多く現存する街である。きっと目印になるはずだった。

しかし、案の定、乗り過ごした。

途中、隣の客にたずねたのだが、終点まで来てしまった。

途方にくれて近くのカフェに入る。ダブリン・ポスト・カフェ。アイリッシュバーだ。とりあえずのバーボン。ここはいったいどこだろう。街の名前を聞くがおれの目的地とは全然違う。弱った。引き返さなくてはならないらしい。

外に出て、談笑中のバスの運転手にたずねる。下に行ってキップを買えとのこと。

下?

見ると階段がある。ごく普通のバス乗り場、地下などあるのかいな、といった雰囲気なのだが、地下通路があった。キップを買ってまたカフェに戻る。

店はカウンターにテーブル。店の女店員は、タクシーで行きたいと言うおれを本気で止めた。一緒にカウンターに座っていた店員の友達も一緒になって。この二人は英語を話した。そのようすを横で見ていたカウンターのおっさん客がひとり。

バスまで時間があるので、またバーボンを飲む。

「どこまで行くのかね!日本のお方!」

「サン・ジミニャーノです。バスを乗り越しました」

「そりゃたいへんだ、日本人だろ?

「スィ はい」

「日本人は心が優しくて親切だよなあ!」

「そうですか?ありがとう」

などと、カウンターのおっさんとよく分からない会話を交わしてバーボンを飲み、店を出た。

バスで引き返すうち、夜になった。すっかり暗くなったサンジミニャーノに降りる。しかしここがサンジミニャーノという確信はない。ここも終点だったからだし、なにより街の様子は暗くて分からない。目印の高い塔も暗いため見えない。

さて、宿はどっちだ?

ともかく店を探そう。宿には夕食ももうないだろうから。泊まるところは、農場併設の宿泊所だ。家族経営という雰囲気だろう。

レストランを見つけて中に入る。パスタとワインを注文し、念のためここはどこか聞く。

「サン・ジミニャーノ」とウェイター。

ホッとひといき。電話を借りて宿にかける。

「ブエナスノーチェス こんばんは。私は間

違いなくサンジミニャーノに来ています。もう少ししたらチェックインしますからキャンセルしないでください」と伝える。

熟年日本人夫婦を一組発見。食事中だ。聞くと大阪から来ているとのこと。こちらは優雅だ。

レストランからタクシーを呼んでもらう。ワゴン車のタクシーが来た。気のよさそうなおじさん運転手だ。

宿までは車で十分ほど。山道をくねっていくと、誘導灯が光っている。

宿の「離れ」にあるワインセラーでワイン・ガス入りミネラルウォーター・オレンジジュースを仕入れ、部屋でくつろいだ。ワインセラーにはカギが掛かっていかった。おおらかである。

三月二十三日、土曜日。 サンジミニャーノで滞在する。この日はオフ。疲労で体が動かない。

 昼、宿のおばさんに頼んで昼食を作ってもらった。トスカーナ地方のオリーブオイルがたっぷりのミートソースパスタ。当然ワインもいただく。その後、日本に長電話。

孫だろうか、高校生くらいの女の子がいた。よーし、この娘と写真を撮って帰ろう、明日までにチャンスを作るぞ。

 散歩から戻ると、スーツケースが届いた。車輪が壊れていた。持ち運びが不便になった。しかし荷物が戻ったのはうれしい。

 夕刻、夜ごはんは何時だい?と聞くと。夜飯はない、と宿主のロベルト。

 なんと!夕食はセットされていないの?

 土曜日だからなのだろうか、夕食は近くのレストランでとれ、と言われる。

 仕方なく歩いていくが、これがなかなか遠い。二キロは歩いたと思う。小高い丘に一軒のレストラン。家族連れやカップルのなか、ひとりで夕食をとるのは気まずいが仕方ない、得意の折り鶴プレゼントで場をなごます。ペンネ状のパスタにワイン。

 帰り道も遠い。ほろ酔いで歩きながら、月夜の道を通りの糸杉林を眺めながら歩いた。

 宿に戻り、また飲み物を調達してから部屋に戻ろうとすると、別棟から何やら叫び声が聞こえる。見るとだれかテレビに向かって吠えている。ロベルトだ。サッカーを見ている。年配だがパソコンとネット通信を駆使し、服装もこざっぱりとした紳士のロベルト。でもサッカー観戦でひとり大声をあげている姿は、やっぱりイタリア人だな。

三月二十四日、日曜日。イタリアを離れる日だ。朝食をとり、ロベルトと記念写真。タクシーを呼んでもらい、出勤してきたパスタを作ってくれたおばさんと写真を撮る。スペインで現地の女性(若い)と写した写真、イタリアでも同様の目標を立てたのだが、孫はあれ以来さっぱり姿を見せない。結局おばさんか。

「写真を送ってくれるかい?」とおばさん。

「ああ、きっと送るよ」

送った写真はちゃんと届いただろうか。

タクシーの運転手は、一昨日ここに連れてきてくれたおじさんだった。あまりタクシーはないのだろうか。バス停まで送ってもらう。

ゆったりとした時間の流れだ。

人生とは何だろう、と思う。月日に追われ時計に追われて、締め切りとの格闘、来る日も来る日も。日本人って何なのだろう。

ヨーロッパは、大昔から、奴隷労働、児童労働、革命、弾圧、争議と、様々な歴史を経て、マルクス、エンゲルス、レーニンをうんだ。人々のゆったりとした暮らしは、これに至るまで多くの労働運動や犠牲を積み重ねてきたのだと思う。

宿のおばちゃんが作ってくれた昼食のパスタ、カギの掛かっていないワインセラー、歩いて夕食をとりに行けと言ったロベルト、すべてが日本のせせこましさとは異なっていた。

タクシーを降りて、サンジミニャーノからフィレンツェ空港を目指す。まずはフィレンツェのバスステーションまで行かなくてはならない。トイレに行ってきたばかりなのに、思わず再度トイレ。

この日はフィレンツェ空港からパリのシャルル・ド・ゴール空港を経由してプラハへ移動する。

フィレンツエの小さな空港で、流れのままにチェックインし、バーでビールを飲む。日本人サラリーマンのおじさまたち二人連れを発見。おれはイタリア語で威張り気味に注文する。彼らのイタリア語の方が上手かった。どうしてこういうところで張り合うかな。

まだ搭乗まではたっぷりある。と、余裕kましていたら、搭乗案内係がおれたちを探しに来た。おれはなにげなく空きのあったひとつ前のパリ行きの便にチェックインしてしまったようなのだ。あわてて荷物を持ち、小さくなって飛行機に乗る。

シャルル・ド・ゴール空港は巨大だった。ターミナルCに着いた。ターミナルCはターミナルAと隣り合っている。窓の外を見ると、高速道路のインターチェンジ状のものをはさんで、そのはるか向こうにターミナルBとDがある。プラハ行きのエールフランスはどこで乗ればいいのか、エールフランスの制服を着たスチュワーデスにも聞いたのに、それなのにおれはこの遠いターミナルビルを往復するハメになってしまった。

つまり「あなたの飛行機はDよ。向こう側だわ」

さんざん苦労してDに行くと、どう見てもアフリカ系・南米系の人が多く、エールフランスの窓口の係には「これならCさ、向こうに見えるあのターミナルだよ」だと。重い荷物を持ってこの移動はきつかった。

ターミナルCに戻ってからは、もう動かないことにした。とにかく時間が来るまでカフェで座っている。フィレンツェからひと便早く移動したので、時間はたっぷりある。

サラダ・ビール・ジュースをセルフサービスコーナーで買いこみ、喫煙席で時間をかけていただいた。パリ・フランスにいる。入国してないから厳密にはフランスではないし、経由地として立ち寄っただけだが、得した気分だ。

 夜八時すぎに到着したプラハ空港は雪が降っていた。スペインとイタリアは温暖だったのに。

空港ロビーで、ユーロをチェコ・コルナに両替する。手持ちユーロはもう三千円分くらいしかない。とりあえず宿までのタクシー代があればいい。しかし、ざっと計算しても一割くらいは手数料でもって行かれているような気がする。もったいない。

 タクシーで移動してから着いたホテルの入り口は分かりにくかった。ピザ屋のネオン、ボウリング場のネオン、カフェのネオンと混在している。その入り口を入ると、まだホテルはなく、カフェを左手に、石畳の通路を渡るようになっている。さらに中庭のようなところから玄関を入るとやっとホテルのフロントがある。部屋への入り口はさらに奥で、カギつきの入り口ドアがあり、手前から階下に下りるとボウリング場である。

 よく分からないつくりの宿だ。

さらに分からないことに、三泊する料金をチェックイン時に支払えと言う。まあお安いご用とカードを出すがクレジットカードは使えないと言う。明朝銀行からキャッシングして払うことにしたが、一瞬ドキンとした。

 受け取った部屋のカギは、渡された瞬間その大きさと重さのため気分がブルーになるほどでかいキーホルダーがついている。おまけに、部屋棟への入り口ドアのカギも、部屋のカギも自力であけることのできないようなコツの要るもので、断念してフロントの人を呼ぶはめになった。

 やっと入った部屋は、どことなく殺風景であり、バスルームは刑務所のようであり、さらに寂しい気分になった。

 隣の部屋の声がまる聞こえだ。日本人女性、二人いるようだ。

 部屋で飲みませんかと誘うが、パリから旅行中と言った彼女たちにあえなく断られる。

 プラハ苦戦の予感。

明けて三月二十五日、月曜日。朝、打ち合わせのためフロントから日本に電話。時差八時間、プラハは朝七時、日本は同二十五日の午後三時だ。旅があと三日で終わる、そしてなつかしい日本の会話に、つい長電話。電話を切ると

「あなたは宿泊料金を払わなくてはなりません」とフロント

「分かってるよ、今日銀行で払い戻しするんだ。そうしたら払うよ」

「今の国際電話料金と合わせて、今日の十時までに支払ってくれるよう望みます」

これには少々アタマにきて、「銀行の開店と同時に払い戻しに行ってやるよ!」と大見得を切った。

そのあと部屋でクレジットカードを見たとき、ズボンの後ろポケットに入れていたせいか少し曲がっており青くなった。しかしなんとかATMを通過したのでひと安心、宿には耳をそろえて支払いを済ませた。

なんだか印象悪いぞチェコ・プラハ。

ロビーで、迎えに来てくれるはずの日本人を待つ。仕事で世話になる人で、初対面だ。

約束の十時少しすぎ、若干の入れ違いがあったが、対面。女性。若い。美しい。

プラハが好きになった。

在チェコ日本大使館に非常勤として勤務する郁子さんというその女性と、ほぼ一日、プラハの旧市街の都市計画や街路、住宅事情を調査して歩いた。おれの研修テーマには、都市計画に加えて街並み・景観づくりも組み込まれていたから。

土地に詳しく、しかも日本語で会話しながら歩けるのはありがたかった。

プラハ旧市街からプラハ城への通り道、大きな川を渡る。この川に架かっているのがカレル橋である。プラハの有名な観光スポットで、橋の欄干には石の彫刻が並ぶ。車輌通行禁止で、多くの観光客、土産物屋でにぎわっている。

通行人に頼んで、郁子さんと記念撮影。腕を差し出すと、組んでくれた。日本に帰ってから写真を見たウチのかみさんはふくれたが、現地女性(ただし日本人)と写真を撮ることができた。

カレル橋の後は、ヨゼフォフ地区の壁面彫刻を見て歩く。景観形成のための調査で、一番見たかった地区だ。動物や人物のかわいらしい壁面彫刻がたくさんある。民家や、アパートの壁面にあるそれらは、目印として役立っている。

おれも、帰国してから、自宅に彫刻を飾った。木製の彫刻は知り合いの会社経営者につくってもらい、設置もお願いした。みぞれまじりの寒い日に、重機のバケットに乗り、社長と二人で自宅の壁面にドリルで取り付けた。

だからおれの自宅は、プラハ仕込みである。

途中、寒かったので、バーで休憩したり、露店であたたかいものを注文したりして、歩いた。

休憩したアイリッシュバーでバーボンを飲んだが、若者たちが店内でふざけて拳銃を出してはしゃいでいた。ドキドキした。

郁子さんはおれのスーツケースのことを知り、破損したままではたいへんでしょうと心配してくれた。保険が使えるから、新しいものを買おうかと考えていると言うと、店を案内してくれると言う。

プラハの大きなデパートの中を歩いた。2〜3階まで登ったが、それらしい売り場は見あたらない。

「失礼、スーツケース売り場はどこでしょうか?」と郁子さんが店員に聞く。

「そうね、ここはアイロン売り場だから、上に行ってみなさいな」

「ありがとう」と郁子さん。

エスカレーターに乗りながら、

「ここはアイロン売り場です、だって。それくらい見ればわかるっつーの」と郁子さんの独り言。ずっと一日、知的なレディーだったが、やっぱり日本の若者な面もあるのだな。

仕事とスーツケース購入を終えて、郁子さんに別れと感謝を告げて、夕方宿に戻る。

充実した一日だった。郁子さんの親切にふれて、調査も順調であり、久しぶりにゆったりとした心持ちで夜を過ごした。

三月二十六日、火曜日。いよいよ帰国を明日に控えて、プラハ最後の日だ。部屋からの国際電話がどうにもかけにくい。フロントで電話を借りようとするが、昨日おれに支払いを催促したフロントの姉さんは

「そんなにフロントの電話を使っては非効率です。料金もかさむから外の公衆電話をお使いなさい」と言う。

しかしこのテレフォンカード状のものがやたらと使いにくい。日本で言うところのモバイラーズチェックのようなもので、裏面のカバーを削ると番号が出てくる。この暗証番号をプッシュすることで、通話可能料金を判別するのだが、苦心惨憺、通行人に何人もたずねてようやく使い方をマスターした。プラハは物価が安く、国際電話もイタリアに比べて四〜五倍は話せるように思った。

「そうは言っても、うまく使えないんだ」

「何度か試してみてはどうですか。きっとつながるはずです」

「それもそうだな」と、仕方なく外の公衆電話を使うことにした。

宿泊料金と電話代を早速支払えと言ったり、フロントの電話を使うのはあなたのためにならぬ、不効率だと言ったり、しかもそれが笑顔ゼロなのだ、この女性フロント員は。部屋のカギは心が沈むほどでかいし、シャワーノズルに便器だけのバスルーム。チェコにおける現地女性とのツーショット写真は、このフロント員だけは避けたいものだと当初から思っていた。

午前中から、仕事だ。現地の日本人男性で人形劇アーティストのNORIさんとともに劇場を回る。地元の劇団がさかんに稽古する劇場では、支配人や副支配人と会い、舞台裏も見た。プラハの町並みも劇場も、長い歴史と芸術に対する市民の理解の深さを示して見えた。

夜に同じ劇場で公演があるから一緒に見に行こう、それまでの午後は別なところを案内すると男性が言う。

NORIさんは、以前も日本で会ったことがあるのだが、聞けば翌日はブラジルに行く仕事があるのだと言う。

「それじゃあ準備とか忙しいのではないですか、午後は自分で歩きます。夜にお会いしましょう」と言うと、「そう?悪いね。じゃあそうさせてもらいます」とのこと。

午前中の劇場案内と、昼食をご一緒してくれただけでも十分にありがたかった。

二週間のヨーロッパの旅も明日で終わる。仕事のこともあったし、なにせ疲れた。午後はゆっくりと一人で街を歩くことにしよう。

プラハは、マドリーともローマともフィレンツェとも違った。やはり寒冷地のせいか、建物もより重厚な印象を受ける。逆に言えば重苦しく感じる。長い間共産主義政権が国民を治めていたことも関係しているだろう。

しかし、そんななかで広場のステージで出し物をしていたり、劇場でも人々は楽しもうとしているようすが分かる。北海道の長い冬を越えて春、人々が活動的に外へ出かけるのと似ているかもしれない。

共産主義のなごりで物価が安いのはありがたかった。食事も、千円もあれば十分においしいものを食べることができた。

一度ホテルに帰り、休憩してから夜の公演に間に合うように、おしゃれをしてタートルネックのセーターに金のイミテーションのネックレスをして部屋を出た。

部屋のカギを預けようと、いつものフロントの姉さんにカギを差し出す。姉さんはいつもと同じようにスマイルなしの表情でこう言った。

「これから夜の街に出かけるなら、そのネックレスは外した方がよいです」

「これはイミテーションだよ」

「イミテーションでしょうが本物でしょうが、夜のプラハを東洋人が一人で歩くのに、金目の物を人に見せるようにして出かけるのは、自分の身をわざわざ危険にさらすようなものです。ネックレスは外してからお出かけなさい」

ハッとした。

これまで二週間、どこを歩くのにも細心の注意をして旅をしてきた。ヨーロッパ最後の夜に油断して、自ら狙われやすい姿で出かけようとしたのだ。

「そ、そうですね、親切にアドバイスしてくれてありがとう」

「どういたしまして」

フロントの姉さんは初めて笑顔を見せた。

これまでも、ホテルで仕事をする人間として、必要なことを必要なときに伝えてくれていたのだ。彼女を見直した。

夜の公演を、NORIさんと一緒に見ることはできなかった。

「仕事のメールがニューヨークから入ってね、連絡やら調整やらで、ごめん!」と、劇場まで走ってきてくれたのだった。

一人で人形劇の公演を見た。プラハは人形劇文化の伝統がある世界有数の人形劇都市だ。

劇場にはちゃんとバーもある。子どもも大人も楽しめる社交場なのだ。

公演後、バーでお酒を飲み、店員のお姉さんと会話し、記念撮影した。

チェコにおける目標達成。

旅は終わった。

アムステルダム経由で成田空港へ、機内ではほとんど寝ていたが、思い出していたのはサン・ジミニャーノのパスタをつくってくれてたおばさん、プラハでつっけんどんだったが実は優しかったホテルのねえさんのことだった。

旅は、人との出会いだ。

あの最後の夜、金のネックレスをつけて出かけていたせいで、トラブルに遭遇していたのかもしれないのだ。そうしたら、苦労して充実させてきた旅の全体が台無しになってしまうところだった。

入口がわかりにくい、カギがでかい、バスルームが殺風景、カードが使えないと不満に思ってきたが、ホテルパーソンには五つ星をあげたい。

北海道に戻り、まっさきにジンギスカンを食べながら、疲れた頭でそんなことを考えた。

グラーツィエ イタリー Thank you Praha. 

 

おわり



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