端島-hashima-・高島コ−ナ−

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以下の文章は、九州の社会科教員の研修会で端島の説明をしたときに書いたものです。(文責:ともねこ)

 遠方より眺めるその姿が戦艦「土佐」に似ている、ということから「軍艦島」の異名を持つ端島は、長崎港の沖合に浮かぶ周囲1200メ−トルの小さな島である。1890年に三菱の所有に帰してから、端島は石炭の供給地として異様な発展をとげ、1974年に閉山するまでずっと「最高級炭」を産出し続けた。この小さな島に、1945年当時、実に5300人もの人々がひしめいていたのである。
 地下600メ−トルに達する海底炭坑での、危険きわまりない労働。
 そして、その中には多数の朝鮮人・中国人労働者が存在した。(日本の敗戦前後、端島在住の朝鮮人約500名・中国人約200名:『長崎在日朝鮮人の人権を守る会』調査による)

 長崎市在住の徐正雨(ソ・ジョンウ)氏は、端島に連行された過去を次のように証言している。

 「14才のときです。面(村)役場から徴用の赤紙がきて、私は日本に連行されたのです。徴用といっても、突然の強制であり、手当たり次第の強制連行と同じです。お分かりでしょう、14才といえば、今の中学2年生ですよ」

 「島は高いコンクリ−トの絶壁に囲まれています。見えるのは海、海ばかりです。こんな小さな島に九階建ての高層ビルがひしめいています。驚きました。私たち朝鮮人は、この角の、隅の二階建てと四階建ての建物に入れられました。一人一畳にも満たない狭い部屋に7、8人いっしょでした。‥‥私たちは糠米袋のような服を与えられて、到着の翌日から働かされました。日本刀をさげた者や、さげない者があれこれと命令しました」

 「この海の下が炭坑です。エレベ−タ−で立坑を地中深く降り、下は石炭がどんどん運ばれて広いものですが、掘さく場となると、うつぶせで掘るしかない狭さで、暑くて、苦しくて、疲労のあまり眠くなり、ガスもたまりますし、それに一方では落盤の危険もあるしで、このままでは生きて帰れないと思いました。落盤で月に4、5人は死んでいたでしょう」

 「こんな重労働に、食事は豆カス80%、玄米20%のめしと、鰯を丸だきにして潰したものがおかずで、私は毎日のように下痢をして、激しく衰弱しました。それでも仕事を休もうものなら、監督が来て、ほら、そこの診療所が当時は管理事務所でしたから、そこへ連れて行って、リンチを受けました。どんなにきつくても「はい、働きに行きます」と言うまで殴られました」

 「端島の道はこの一本道だけです。この一本道を毎日通いながら、堤防の上から遠く朝鮮の方を見て、何度海に飛び込んで死のうと思ったか知れません。どうですか、この白く砕ける波、あのころと少しも違いません。仲間のうち自殺したものや、高浜へ泳いで逃げようとして溺れ死んだ者など、4、50人はいます」

 「島にいた同胞の数は、私たちより先に既に二百人ばかりいましたから、合計で5、600人だったでしょう。‥‥あの同胞たちのことを思うと、いつまでも胸が締めつけられる思いがします。軍艦島なんていっていますが、私に言わせれば、絶対に逃げられない監獄島です」
(以上、『原爆と朝鮮人−長崎朝鮮人被爆者実態調査報告書第2集』長崎在日朝鮮人の人権を守る会・1983年刊より)

 また、次のような記事がある。
 「敗戦が近づき、男手も少なくなると、中国人の捕虜や朝鮮人が大ぜい連れてこられた。日本人坑夫の住んでいるところからは離れたところにまとめてほうり込まれていたが、狭い島のことである。今でも津代次さんは、その人たちの叫ぶとも泣くともつかぬ悲しい声が耳に残っている。一度だけ声のするへやをのぞいたことがある。多分まだ、はたち前と見えた、朝鮮人の若い男が正座させられ、ひざの上に大きな石をのせられていた」(『朝日ジャ−ナル』1974年5月17日付)

 「寮に入れられ一日二交代の重労働。労務係の監視がきびしく、疲れて仕事に出なかったり、家族への手紙に島の実情を書いたりすると、すぐ連れて行かれた。労務事務所前の広場で、手を縛られたままの朝鮮人を三人の労務係が交代で軍用の皮バンドでなぐった。意識を失うと海水を頭から浴びせて、地下室におしこめ、翌日から働かせた。『一日に二、三人がこうしたリンチを受けていた。屋外でやったのは私たちへの見せしめのつもりだ。とても口では話せないぐらいひどいリンチだった』と姜さんは語った」(軍艦島の生活環境その2・『住宅』1974年6月20日刊)

 端島は強制連行・強制労働など、日本の負の歴史を背負ったまま、1974年閉山を迎え、無人島となった。しかし、それらが清算されていないことは、端島で死んだ朝鮮人労働者の遺族が、1991年、韓国で「端島韓国人遺族会」を結成、三菱に対し「遺骨の探査と返還」を要求し続けている事実一つを見るだけで明らかである。苛酷な強制労働の直接の責任者である三菱は、今日に至るまで、誠実な謝罪も、補償も、遺骨のありかを探査する意欲も全く示していない。

 風雨にさらされ、忘れられ、荒れ果てた島、端島。
 端島は日本の戦後補償における無責任さを、無言の内に証言し続けている。

「端島を歩く」もご覧下さい


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