平和長崎写真館

観光地・長崎の知られざる姿をお届けします。


朝鮮人被爆者追悼碑

一九七九年、「原爆で殺された名もない朝鮮人のために、名もない日本人が贖罪の心をこめて」爆心地公園の一角に作られた。よく、広島の「韓国人被爆者」の碑と比較され、あちらは公園の外にあるがこちらは内にある、というような評をする人もいるが、大切なことはこの碑は「日本人が、贖罪の気持ちを込め、朝鮮人民のために」作った、という点にある。毎年8月9日にはこの碑の前で、「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」の主催で、朝鮮人被爆者追悼早朝集会が開かれている。今年の模様はこちら

消された被爆遺構・浦上刑務所跡

現在の平和公園には戦前浦上刑務所があり、最大の被爆遺構だったが「観光イメ[ジに悪い」と埋没させられた。これが「観光地長崎」の偽らざる実態で、その責任の所在は本島−伊藤という市長にある。国連の場で「核兵器の悲惨さ」を訴える前に地元のこうした被爆遺構の保存をして欲しいものだ。写真は処刑台跡。(現在は埋没させられていて見ることはできません)

三菱兵器工場の標柱

現在の長崎大学・文教町キャンパスはかつて三菱の兵器工場だった。原爆により工場は崩壊、多くの死者を出した。現在はその標柱だけがひっそりと立っている。なお、この近くには三菱が立てた「慰霊碑」があり、そこには三菱の職員や学徒動員、報国隊として働かされていて被爆しした人々の名前が石に刻まれているのだが、多数存在したはずの「朝鮮人労務者」の名前はほとんど見当たらない。

木鉢寮(強制連行者の宿舎)

木鉢(きばち)寮は県内最大規模の強制連行者の寮で、収容者は三〇〇〇名を超える。当時市議会議員であった岡正治氏が保存を強く求めたが、一九八六年、跡形もなく撤去された。

逆光に浮かび上がる端島

「軍艦島」とも呼ばれる端島(はしま)は、長崎における強制連行のシンボルとも言える小さな島。詳しくは「端島コ−ナ−」を参照。

端島・「地獄門」

一度くぐったら生きては出られぬ、と恐れをこめて人々はこう呼んだ。入って左側にトンネルがあり、それは坑口の方まで続いている。

端島より野母崎方面を望む

手前は炭坑作業場跡。過酷な労働に耐えきれず泳いで逃亡を試みる人も多かったが、発見されれば残酷なリンチが待っていた。また、溺死しその死骸が対岸に打ち上げられたケ−ス、日本人漁師に助けられ逃亡に成功したケ−スなども記録にある。

グロテスクな「母子像」

長崎市は原爆公園に被爆者を含む多くの市民が全く望まない「母子像」設置を強行した。当初の予定では、現在ある「中心碑」(この下を参照)を撤去し、その代わりにこの像を設置するというものだったが、広汎な市民運動の力により「中心碑撤去」は阻止、しかし「母子像」そのものは爆心地公園全体を見下ろすような位置に据え付けられた。現在、像の撤去などを求める裁判が提訴されている。

原爆落下中心碑

長崎市は爆心地公園にあるこの「中心碑」を撤去しようとしたが、市民の猛反発にあい、頓挫した。平和公園の巨人像(『平和祈念像』)より、この中心碑の方が敬虔な気持ちにさせる、という声はよく聞かれる。

被爆し首が吹き飛ばされた聖像

後ろに見えるのが浦上天主堂。ここは爆心地からおよそ500メ−トルしか離れておらず、強烈な爆風によって当時「東洋一」と言われていた浦上天主堂は瓦礫の山と化した。天主堂はその後再建されたが、爆風で首が吹き飛ばされた聖像が被爆のすさまじさを伝えている。

被爆した聖像

浦上天主堂にて。

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