Capriccio
(リヒャルト・シュトラウス作曲)
あらすじ
1幕
音楽家フラマンと詩人オリヴィエは伯爵夫人に恋をしていて、どちらが彼女を選ぶかというところから、音楽か言葉かという議論にまで発展していく。
そして、皆は、伯爵夫人の誕生祝のプログラムをどうするべきか話合っている。
伯爵夫人の兄の伯爵と彼が惹かれている女優クレロンがオリヴィエの作ったソネットを朗読すると劇場へ去っていく。オリヴィエは再び、伯爵夫人の前でその詩を読み上げ、彼女に献上して愛を打明けようとすると、フラマンはこの詩に旋律をつけて歌にするので、韻がメチャクチャになったとオリヴィエは激怒する。しかし、伯爵夫人は芸術のすばらしい融合だと感動する。オリヴィエが去ると、フラマンもまた伯爵夫人に求愛するが、彼女は明日の11時に書斎でと答える。
バレエやイタリア人歌手の二重唱が披露される。劇場支配人が、計画中の2つの劇に着いて語ると、皆は嘲笑したり反発したりする。怒った劇場支配人は自分の芸術論を熱く語る。
伯爵夫人は自分の誕生祝として、今ここにいる人たちによって起こったことをオペラにして欲しいと頼み、女優・作曲家・詩人・劇場支配人で力を合わせるようにと言う。
人々が去り、伯爵夫人が一人になると、執事は彼女にオリヴィエの明日の11時に書斎で待っているという伝言を言う。しかし、それはフラマンと約束した同じ時間と場所であるということに気付く。音楽と言葉のどちらを選ぶべきか?彼女はハープを弾きながら献上されたソネットをもう一度歌い、鏡に映る自分に問いかけるが、結局答えを出すことができず、サロンを去って行く。
カップリングのテレビ番組を見ると、1人の男性が1人の女性にアプローチすろと上手くいくのに、2人の男性が1人の女性にアプローチすると、2人とも「ゴメンナサイ」になってしまうパターンが多かったような気がします。
「アンドレア・シェニエ」、「ラ・ボエーム」のロドルフォ、「エウゲニー・オネーギン」のレンスキーのように、詩人といえばテノールで、逆に音楽家といえば、バリトンのイメージが強いのですが、このオペラは逆です。少し違和感があります。
それにしても、職業で人を選ぶな!と言いたくなります。でも、それだとこのオペラは成り立ちません。言葉が先か音楽が先かというのはオペラ・ファンにとっても重要な関心事です。いくら音楽がすばらしくても、つまらないストーリーで台本がイマイチでは、良い作品は出来あがらないでしょう。また、どんな名作を原作にしてオペラを作っても、音楽が良くなければ、それを聞こうとする人はいないでしょう。伯爵夫人は、「二人で力を合わせて、私のために、すばらしいものを作ってね」と言います。音楽と言葉は相反するものではなくて、お互いも引きたて合うものなので、一つだけを決めることは不可能だと伯爵夫人は思ったのでした。
このオペラはオペラ・ファンの関心事をついただけではなく、サービス精神も旺盛です。古典的イタリア・オペラのテノールとソプラノの二重唱もあります。この登場人物たちはこの仰々しすぎる音楽、「さようなら。愛する人」というばかりの歌詞にうんざりするのですが、ウンザリするように歌わなくては成らない歌手もまた、大変でしょうね。しかし、問題は歌手にあるのではなくて、つまらなさ過ぎる歌詞が音楽の足を引っ張っているようにも感じられます。また劇中劇のバレエでは、音楽は舞踊という芸術の引きたて役にすぎない、と言う言葉に、オリヴィエが得意な顔をします。「言葉こそが芸術の重要な部分」という詩人オリヴィエが、この言葉を必要としない芸術にうなずいてしまうのは、少し自虐的な感じがします。さらには、オペラ歌手に歌いだしの歌詞カードを見せるプロンプターまで登場し、グチまでこぼすのです。
大抵の日本人にとって、オペラの歌詞の意味をしっかりと把握して聞いている人は稀だと思います。しかしながら、原語以外でオペラが上演されるのは許せないと思う方も多いのではないでしょうか。例え、外国語で言葉の意味がわからなくても、音楽と言葉の韻は切り離すことができないのがオペラなのではないかと思います。
私がこのオペラを勧めたい人は、オペラ・ファン歴が長い人、または芸術論や美学などに関心がある人です。ストーリーも音楽もわりと地味ですので、ドラマティックな展開を求める人には多少、物足りないかもしれません。オペラ・初心者の方でも、じっくり物事を考えて見ることが好きな人には奥が深く感じるのではないかと思います。