Il Tabarro
(ディディエ・ゴルド原作/アダーミ伊訳・脚色/プッチーニ作曲)
あらすじ
1幕
セーヌ河を流れる船の船長ミケーレは25歳年下の妻ジョルジェッタに、夕暮れになったので部下の船員を酒でねぎらってやるようにと言う。彼女は言われた通りにし、船員たちと踊る。その中のルイージが彼女を強く抱きしめる。
ミケーレの部下タルパやその妻フルーゴラが自分の労働観を語っていると、ルイージが「考えないほうがいい」と虚しい青春を歌う。それでも、フルーゴラは「私は可愛い家を持つことを夢見ている」と言うと、ジョルジェッタは自分の出身地のパリを懐かしむ。同郷のルイージもそれを聞いて共に故郷を懐かしむ。
遠くで船の音がする。ルイージとジョルジェッタは愛を語るが、ジョルジェッタは夫がいながらも、ルイージと昨日、口づけをしたことを恐れている。やってきたミケーレにルイージは「ルーアンで降ろしてくれ」と頼むが、「良いところではない」と言われてあきらめる。船倉にミケーレが入っていくと、隠れていたジョルジェッタがなぜルーアンで降りたいのかと聞くと、「夫婦仲を裂きたくないから身を引こうとした」と言うが、2人は一緒にどこかへ逃げようと話し合い、ジョルジェッタのマッチの火を合図にルイージが寄る約束をする。
妻の心変わりに気がついてきたミケーレがかつての幸せな日々を思い出している。絶望したミケーレはパイプに火をつけようとマッチに火をつける。それを見たルイージがやってきたので、彼を捕まえて、殺してしまう。
不安な気配がしたジョルジェッタが夫のところにやってくる。彼女はミケーレがかつて言った言葉「外套はあるときには喜びを、あるときは苦しみを隠す」を繰り返して彼の外套にすり寄る。ミケーレは「あるときには罪を」といって、その外套の中に隠れていたルイージの死体を妻に見せ、彼女の顔を死体の顔に無理やり押し付ける。
*****************************
プッチーニの「三部作(
Il Trittico)」の一作目のオペラです。2部は「修道女アンジェリカ」、3部は「ジャンニ・スキッキ」です。これはダンテの「神曲」にちなんでいるもので、一作目は真正面から捉えた悲惨さ、二作目は冷酷さの中の浄化、三作目は、辛らつな滑稽さを求めているようです。原作はフランス語の同名の劇ですが、オペラよりもより悲惨で、もう一組の夫婦の殺人が並行しているそうです。プッチーニの中では「トスカ」と並んでヴェリズモ色の多い作品でしょう。娘のような年齢の妻に浮気をされて、悲惨な事件を起こしてしまうという点ではレオンカヴァッロの「道化師」にも似ていると思います。
このオペラは、セーヌ河の流れを思い出させるような流れるような主題で始まります。酒や踊りを楽しんだ後、船員たちの労働観が歌われますが、ルイージはこの中でも自棄的です。とうてい20歳の人が考えることとは思えません。「今は辛くても、いつか夢をかなえてやる」くらいの元気があってもいいとは思います。50歳のフルーゴラでさえ、「地道に働いて、私の夢は家を持つこと」なんていう希望を抱いていますが、ルイージは若いからこそ「このままではいけないい。でも何をすればいいのかわからない」と、夢と現実のジレンマに負けてしまいそうになるのでしょう。ジョルジェッタは船の中の退屈な生活よりも故郷なパリが楽しかったということを思い出しています。ミケーレは25歳も離れて、父親のような存在です。このせまい船の中ではミケーレが一番強い立場なのですから、これ以上の将来は見込めなく、行き止まりを感じるのです。そんなミケーレなりに妻を愛していたのですが。
かけおちの約束はしていたけれども、ジョルジェッタが最後に夫に擦り寄る様子を見ると、女のずるさも感じますが、それほど夫婦仲が悪いということでもなかったんだ、ということもわかります。どう見ても、若いのに自暴自棄なルイージよりも、ミケーレの方が人生経験が豊富だし立場も安定しているのですが、ジョルジェッタは外の世界が知りたかったのです。