[機物神社] :はたもの、

住所:交野市倉治(くらじ)6-11-8(字浜ノ池)

祭神:天棚機比売大神(あめのたなばたひめ)
 栲機千々比売大神(たくはたちぢひめ)
地代主大神、八重事代主大神。
本殿:南向。 千木:。 神紋:。
場所:JR片町線・津田駅南1km。交野久御山線倉治信号を東へ入る,pk有。

略記,伝承:
機物神社のある倉治は帰化人によってもたらされた機織が盛んな土地であった。その守護神として二人の女神様が祭られた。七月七日の七夕祭りで有名。近隣の子供たちが持ち寄った、笹に短冊の七夕飾りで境内はいっぱいになる。(由緒要約)

東西に細長い社地である。天正1,織田信長が東西260間・南北67間余と定めたとの記録が有る。

末社:蛭子神社、須佐之男神社。  例祭(7/7)。
南門 境内で北西を向く鳥居,柱は意識的なズレ?

 生駒山からの台地の北端にあたるこの辺りは、旧石器・縄文・弥生・古墳・・と遺跡が時代を途切れず続く。
旧石器には往復100km程の二上山のサヌカイトを使ったナイフ。 縄文では押型文尖底土器(1万年前),炉を持つ住居跡、瀬戸内・関東・東海・中部系の土器、。 弥生の3足特殊土器,板壁を持つ住居。古墳前期のコウヤマキを使った割竹形木棺、4世紀代の肩野物部氏の墳墓と言われる前方後円墳群、など。
古く淀川沿いの楠葉から支流の天の川流域までは広く交野ヶ原と呼ばれ広く湿地帯が広がり淀支流の河岸丘陵が広がっていた。桓武50の頃から貴族遊興の地となり、この倉治の交野忌寸の機織り技術集団の社を「棚機女タナバタツメ」甘田の宮を牽牛、甘野川を天の川、橋を鵲橋と称して中国の七夕伝説をこの地にとりいれ興じた。



[百済王神社]:くだらおう、。

住所:枚方市中宮西之町1−68。
祭神:百済王神
 須佐之男命
本殿:南向。妻入
千木:外削。神紋:丸橘。
場所:京阪宮之阪駅,東300m台地の端。pk無。

略記、伝承: 聖武45は百済の阿佐王が推古朝に釈迦牟尼(しゃかむに)像と経典を献上した功を讃え子孫の百済王氏を寵遇した。天平9(737)に南典を従三位に叙し、その死を悼み百済王祠廟と百済寺を建立し一族の霊を祀らせたのを起りとする。(大阪府史)

隣地に百済寺礎石などが残り、大阪城と並び大阪府内の特別史跡になっている。
境内からは百済王以前の白鳳時代蓮華文の瓦も出土している。

境内社:稲荷神社,貴船神社。
拝殿 本殿,奈良春日の旧殿という

 百済は30代義慈王で滅び、王子「禅広」らが難波に居住した。創建者は禅広を曾祖父とする百済王「敬福」である。
陸奥の国司であった敬福は完成まじかの東大寺大仏鍍金用に900両(約34kg)の金を献上し孝謙から従三位を授かり宮内卿兼河内守に任ぜられる。敬福は百済王三松氏系図によると河内国交野郡にあった船氏の祖王辰爾の旧屋敷を賜り一族の本拠としている。
藤原種嗣暗殺事件後の桓武のブレ−ン右大臣藤原継縄の妻百済王明信は敬福の孫で後宮を取り仕切る「尚侍ナイシ」として従二位。光仁49以来交野ヶ原行幸があり、桓武は17回も行幸し朕の外戚と言っている。



[片埜神社]:かたの、片野、交野、交埜。 KENJIさん提供

住所:枚方市牧野坂2丁目21-15。
祭神:建速須佐之男大神。
 櫛稲田姫命、八島士奴美神。
 菅原道眞。
本殿:南向。平入。
千木:外削。 神紋:。
場所:京阪牧野駅東南300m。pk有り。

略記、伝承:「式内」。交野一の宮。
垂仁11の時、野見宿禰の勧請という。欽明29のときはじめて片野神社と称し、延暦4(785)11月交野柏原に宿祷し同6年11月大納言藤原継縄勅を奉じて祭祀を行い・・・。(大阪府史)。
桓武50の交野ヶ原での行宮は最初、継縄の別業とあるのでこの近くに別業があったことになる、御殿山の地名が名残りか。

現在の本殿は豊臣秀頼の再建で大阪城鬼門除けの社となり、この後・牧郷一の宮と称される。
明治42年に久須須美神社、百済王神社を含め近隣の社を殆ど合祀している。合祀された社の祭神は品陀和気命が多く、百済王、素盞嗚、仁徳16、久那斗、天照皇大神・・・となる。
式内・久須須美神社の祭神は久須須美大神とあるが淀川に近い旧地の地名は「九頭神」この名は九頭竜川を連想させる、継体26に関係があるのだろうか、単に淀の支流の多く集る地からか。
門・KENJIさん提供 本殿・KENJIさん提供

桓武は交野の柏原の野(枚方市片鉾南西)に北天を祭り。桓武17回、嵯峨4回。他に仁明54、宇多59と続き、平安貴族に鷹狩り野遊びが流行し一大リゾ−トとなる。
在原業平も惟喬親王の供をしてここで詠んだ「狩り暮らしたなばたつめに宿からん 天の河原にわれは来にけり」惟喬親王の別荘「渚の院跡」は百済王神社と片埜神社のほぼ中間に有る。

※謝辞:写真提供 KENJIさん。