[恩智神社] :おんち、おんぢ・


住所:八尾市恩智中町5-10
祭神:大御食津彦命・おおみけつひこ、大御食津姫命、
本殿:西向。王子造。妻入
千木:外削,内削。
神紋:桐57・菊。
場所:近鉄大阪線恩智駅より東へ1km。参道左手奥にpk有。 

略記,伝承:「式内名神大」
恩智山の半腹字青谷原に鎮座せり。社殿に依れば、創建の年代は遠く白鳳の昔にありて、最初は天兒屋根を祀りしが,景雲年中に之を枚岡に移し(或いは奈良春日ともいう)、後大御食津2座を祀るという。
恩智の神が泉州堺へ出るときは枚岡より留守番に来た。また明治維新までは奈良春日の猿楽は当社の猿楽が出張してはじめて行われたと謂う(府神社史資料)。

恩智神社文書・縁起(1008)によると、神功皇后西征のとき、住吉大明神と御食津臣命が功をなし2神に栄封あり。当社は7郷を賜う。とある。
また和銅(708-715)年間に周防玉祖より来た神を篤く保護し、故、玉祖神は恩智神が出かけるとき留守番をし、玉祖の祭りには早朝先ず恩智へ詣でるようになった。とある。



写真 写真

・ 近鉄大阪線恩智駅を降り、恩智川に架かる「おものき橋」を渡り恩智山へ向かうとちょいと小高くなった辺りで恩智石器時代遺蹟の碑が見つかる。
この辺りは生駒西麓では大きな扇状地で今も3mも掘れば鏃、土器破片がでるという弥生を中心とした石器、古代が重なった地。

この地に天王の森と呼ばれる恩智神社の旧社地がある,森というが今はほとんどが広場。広場中央に恩智の境外末社である八坂(祇園)社の祠がある。天王の名の由来は明治以前の祇園=牛頭天王からといわれる。
天王の森をでて旧東高野街道にでると恩智の華表が迎えてくれる。今も参道のおもむきが残る路を進み右手に恩智城跡の碑を見てさらに登ると鳥居、その奥に続く石段が見える。
享和元年(1801)の河内名所図絵を見ると、現在周りは人家で一杯ですが高野街道からの参道の位置と境内の社の配置は200年は変わっていないようです。

末社のひとつに「母木(おものき)稲荷神社、祭神:倉稲彦大神」有り。隣接する天川山感応院(俗称神宮寺)内の観音堂には十一面観音像があり、俗に「母木(おものき)観音」と呼ばれる。材は有名なる「母木」にして聖徳太子の作なりと伝う、との伝承有り。(大阪府史など)
八尾市史では、太子の作の伝承以外に、檜の一本造りで、製作年代は面相の表現などから貞観(859-)年間としている。

母木の由来:神武天皇が日下坂の戦いから追っ手から逃れる途中、大きな樹の祠に身を隠しさらに蜘蛛が祠の穴に巣を張り、追ってから逃れることができた。という伝承が有る。

恩智神社の住所は、明治から昭和初期まで:南河内郡南高安村大字恩智字青谷原。
河内志(享保20(1736))では、高安郡恩智山。


謝辞:さとちん さんよりご指摘戴きました。(近鉄奈良線→近鉄大阪線恩智駅) 00.09