● 交野ヶ原  (枚方市、禁野・交野・片鉾 付近)


禁野交野ヶ原はこのあたり ◆ 七夕も採り入れ鷹の管理所まで置いた貴族のレジャーランド禁野交野ヶ原。

桓武50が12回は猟遊し、昊天を祀り。 嵯峨52、仁明54、宇多59も行幸している。

延暦4年(785)11月、延暦6年11月、桓武は河内国交野の地に昊天上帝を祀る典礼を行っている。

昊天を祀った場所は現在の「杉ヶ本神社」辺りだろうとされている。


 < 郊祀:王者が郊野で天を祀った大礼。
「陰気の尽きる冬至に、国都南郊の天の円なるに応ずる圜丘で天神を祭り、高きにより天に事得て陽気を迎える。陽気の尽きる夏至には北郊の地の方なるを象った方丘で地祇を祭る。」天子の特権で国家的、政治的な典礼だった。 >

◆ 桓武は、郊祀の場所をなぜ交野の片鉾としたのか。。

・ 杉ヶ本神社の近所を含めて冬至の日の出。

・ 岩清水八幡神社から、冬至。

社の北方6km程、長岡京と杉ヶ本神社のほぼ中間にある岩清水八幡宮から見る日の出。
山塊で標高が100m程あがるが日の出の時間は同じ。

この辺りの野(低地)では現在の京阪樟葉駅まで西に寄り土手上の標高11m程度で同じ時間に日の出が見れる。

・ 百済王神社から、冬至。

杉ヶ本神社の南西2kmほどにある百済王屋敷跡。
杉ヶ本からの日の出と比べると10分程度遅くなる。
敬福以来特に朝廷と関わり深い百済王の屋敷がある、また後に後宮に入り桓武寵愛を受け後宮を取仕切る明信の実家でもある。


・ 杉ヶ本神社から、冬至。

平安京から20km、長岡京から10kmほど離れているが、郊野であり国都の南という条件を満たす。
交野山から北の岩清水の山塊までなだらかに続く丘陵の丁度低くなった所から冬至の日が昇る。

・ 杉ヶ本神社から、冬至。

ズームしてみると、山並みが低くなっている場所なのが確認できる。

桓武は、冬至の頃に百済の館から淀の朝靄のなかに「朝日の射す杉ヶ本」あたりを見ていたのではないだろうか。
それは多感な親王の頃だったかも知れない。


◆ もう少し杉ヶ本からの風景を。。

・ 杉ヶ本から、春分(秋分)。

東方22kmにある鷲峰山(じゅうぶさん標高682m)の山頂から春分の陽は昇る。


・ 杉ヶ本から、夏至。

日の出の線上に、明星山、日置山が重なる。


・ 杉ヶ本神社、枚方市片鉾本町。

北西400mに4世紀後半築造といわれる墳長108mの前方後円墳「牧野車塚」があり、社の西側一帯は5世紀代の小古墳が群をなしていた台地だった。

古墳の時代には既に蓬莱というか神仙思想がかなり広まっていた感じを受けているが、
4世紀後半築造といわれる牧野車塚の主は、四至を明確に出来るこの地、を理由に墳墓を造営したのではないだろうか。
冬至の日を拝すその先には偶然か百年前に築造された椿井大塚山がある。

桓武がこの地を選んだ主たる理由は。。。

杉ヶ本神社の地にあった円墳を3段にでも整形しただろうか。
壇は白色か或は黄丹か、
柴は焚いたのだろうか。。


< −補− >

・昊天は天を支配する神。郊祀は昊天に始祖を配祀した。
・継縄の妻明信は百済王敬福の孫。
・桓武の時に公祭化した平野祭は、生母高野新笠の父方母方の氏神を祀った外戚神合祭の祭祀。
・享保年間の『河内誌』「河内國之十一 交野郡」に、桓武郊祀の古蹟は「廢郊祀壇在片鉾村」とあり、杉ヶ本神社がその旧跡とある。

< 『続日本紀』
 (784) 造長岡宮使に藤原種継が任。
 (784) 延暦3年11月1日を遷都の日とする。(甲子革令の年、11/1は19年に一度の朔旦冬至)
 (784,9,)長岡京造営の推進者藤原種継暗殺される。
 (785) 延暦4年11月 「壬寅。祀天神於交野柏原。賽宿(祷)也。・・」
 (787) 延暦6年11月 「十一月甲寅。祀天神交野。其祭文曰。維延暦六年歳次丁十一月庚戌朔甲寅。 嗣天子臣謹遣從二位行大納言兼民部卿造東大寺司長官藤原朝臣繼繩。 敢昭 告于昊天上帝一。臣恭膺{目巻}命。 嗣守鴻基。幸頼穹蒼降祚覆 壽謄徴。 四海晏然 万姓康樂。方今大明南至。長{日シタニ咎}初昇。敬采燔祀之義。祗修報徳之典。謹以玉帛犧齋粢盛庶品。俑茲煙燎。祗薦潔誠。高紹天皇配神作主尚饗。又曰。維延暦六・・・」

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・延暦6年に父光仁49を配祀とする祭祀を執行、また生母の父・母方の双方の神を一所に合祭する異例を作り上げた。
・ 延暦8年12月に母新笠が崩御すると、「皇太后姓和氏、諱新笠、贈正一位乙継之女也、母贈正1位大枝朝臣真妹、后先出レ自2百済武寧王之子純{阿+施}太子1、皇后容聴淑茂、夙著2馨誉1、天宗高紹(光仁49)天皇瀧潜之日、娉而納焉、生2今上(桓武50)、早良親王、能登内親王1、宝亀年中、改レ姓為2高野朝臣1、今上即レ位、尊為2皇太夫人1、九年追2上尊号1、曰2皇太后1、其百済遠祖都慕王者、河伯之女感2日精1而所レ生、皇太后即其後也、因以奉レ謚焉、・・」『続紀』延暦9年正月壬子条。

< 今、京都御所、清涼殿の東南隅に2間1間の白い漆喰を塗り固めた石灰壇と呼ばれる場所がある。この壇に天皇は毎朝、立ち神祗を拝したとされている。
この壇は 醍醐60朝、順徳84撰の『禁秘抄』などにみえる。年に一度の正月元旦の四方拝は清涼殿内の石灰壇ではなく前庭に下り地上に立ち行われたという。
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