【 杜の風景 】[古代であそぼ] 


※ 三囲神社 (みめぐりー) 東京都墨田区向島2-5-17。


 三柱鳥居といえば京都の [木嶋神社] が名を知られている。鳥居の建つ3方向には”古墳がある、鬼門裏鬼門”などなど色々な論がある。
この三柱鳥居が東京にもある、隅田川傍の「三囲神社」である、なかなか機会が無く鳥居の向き方角を確認できないでいた。
神社探検隊長でもある、ねねままさんが自ら調査、ご報告戴いた。それが左の画像である。
鳥居の1辺が隅田川と平行である、との前提で各方向からの風景をカシミール3Dでみたのが下に続く画像。

★ 三囲神社については、[ ねねとかーたんの古代への旅 ]の「史跡めぐり」からご覧下さい。




[三囲神社の位置]

  画像は上が北、赤い四角が三囲神社。柱の位置は方向を確認のため超拡大して表現している。 二重丸◎が柱の位置(方向)。白い○が各柱の中間点。
神社の位置、高さ7mに視点をおいてNW,Cnなどが中央になるように作成している。
画像のレンズは人間の眼に近いという50mm。
「ひらかな」は鉄道の駅名、他は神社・山・古墳・遺跡などの名が主。 掲載は北から時計回り。



[北方向、中間点Cn
 
「花畑」は足立区の綾瀬・毛長川の合流点近くの消滅した古墳群。「胡録」は南千住にある神社。
遠くには小山市の下野国分寺が丁度真北にあたる。



[東北東方向、柱NE、夏至]

夏至の日の出、特異点はない。
「(下総)国分尼寺」跡、法皇塚・明戸・丸山は中川に面する国府台台地の古墳の一部。
「興宮」JR新小岩駅の東にある神社。 



[真東、春分・秋分、日の出]

日の出の特異点(目印)は無い。
真東の「鬼高」は現在の標高2.7mの漁労遺跡、土器は古墳後期、鹿角製刀装具など出土。似たような遺跡が大型古墳のある利根川河口近くにもある。
「船橋」は式内意富比とされる船橋太神宮。



[東南方向、中間点Ce、冬至]

Ceと「武峯」が重なるがこれは房総市原市のさき長柄町にある権現森山頂にある武峯神社、日本武尊、ニギハヤヒ孫、山座王を祀る。高星山も近く。
「香取、諏訪」2km程先にある文花町の神社。同距離にある「亀戸」天神。



[南方向、柱SW]
 
「伊予ヶ岳、富山、鋸山」は房総半島の東京湾に近い山。
「牛島旅所」は、三囲平面地図に見える牛島(神社)の旧鎮座地といわれる場所。
「大楠山」は、三浦半島の根元近くの標高250mほどの山。



[南西方向、中間点Cw、冬至日の入]

冬至の日の入り、丁度、相模の大山に陽がはいる。富士山まで直線で104km。
「湯島」は湯島天神。
三囲神社から観る西は墨田を挟んでの夕景、高層建築の無い時代のその景色のなかに浸ってみたいものです。



[北西方向、柱NW、夏至日の入]

夏至の日の入りは道灌山と堂平山の間にはいる。
「道灌山」JR西日暮里駅近く。一帯は標高3m程の低地に面した比高差20m程の台地端で、田端不動坂の弥生奈良平安住居跡、上野の森には蛇塚、前方後円の擂鉢山など削平残存や消滅など古墳の多いところである。
「両神、武甲、堂平」は秩父の山、「雨降」は鬼石町。
「子持山」は群馬。 
「調」は浦和にある、式内・調神社。

さて、なぜ3柱の鳥居なのか、その方向は意識されているかですが、
砂浜近くの浅い海中や沼にある三柱鳥居もあるようです。木嶋神社は池の中で湧水の中心部を覆う位置。
ねねままさんの調査では、三囲の鳥居はもと池の中にあったということなので、木嶋やおそらく奈良の三輪神社の3柱の鳥居は湧水の大事な部分を護り祀るためであり、基礎の不安定さを解消する事が3柱の第一義であり、その時に鳥居の向きをその地にあった方向に定めた、ということではないでしょうか。
池を埋めた時に方向は以前と変わった可能性もありますが、鳥居を置く方向には何らかの理由付けがあったのだろうと思います。三囲の方向は、夏至、冬至の日の出位置に10度ほどずれていますが視線の中央にくる柱に隠れない位置だったのかも知れないですね。

古くは現社地の北に田中稲荷として在り、文和年間(1352〜1356北朝)に近江三井寺の僧が再建したという。三柱鳥居の設置ははっきりしないが三井宅にあったものを移したということで、三井高利が越後屋を開いたのが延宝1年(1673)、宝井其角が雨乞いの俳句で三囲辺りを流行らした(1700)頃だろうか。



・「牛島神社」  三囲に隣接する興味深い社。
牛島の地名は古く後北条の文書にも載り、乙巳変の頃には牛島の名があったらしい。
浅草寺本尊の聖観音が推古36(628)に江戸浦からひきあげられ、土師真中知・桧前浜成・桧前竹成(浅草三社)らによって草堂に安置された。この堂が牛島社の初めという。大化1(645)身元不詳の勝海上人がやってきて浅草寺の本尊と定め観音の夢のお告げと称し秘仏にしてしまった。建長3年(1251)3/6、牛のごとき妖怪が浅草寺に走り込み食堂に居合わせた僧50人の内、24人がたちまち長患いで起居進退不能、7人の僧は即死。など『吾妻鏡』にある。

現在三囲神社の南の墨田公園言問橋の袂には震災後の昭和2年に移った。この地は江戸時代には水戸藩の屋敷地であり江戸期には三囲の北に在り別当は最勝寺、この寺は南方の北本所表町(現在の東駒形2丁目)にあった。
江戸時代の三囲稲荷と牛島牛頭社の300m程の墨田の堤は桜堤・墨堤とも呼ばれ桜が有名で牛島の桜餅、七福神向島の名勝であり、隣接した長命寺には風流人が集まった。今、両社の間にある墨田に架かるX形の橋は桜橋という。

★ 牛嶋神社へのリンク[ ねねとかーたんの古代への旅 ]の「史跡めぐり」



 ※ 注意 :画像ファイルに出典情報等埋め込んであります。



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