[久麻久神社] :くまく、(大宝天王宮、荒川大宝天王宮)


  住所:西尾市八ツ面町麓77。
祭神:大雀命、須佐之男命、熱田大神、外六柱。
本殿:平入、東向
千木:。 神紋:巴、

場所:名鉄西尾線西尾口駅東北1km、pk可能。

由緒,伝承:<境内拝殿前 −−
式内 久麻久神社
 祭神:大雀命、須佐之男命、熱田大神、外六柱
 当社の創建は古く明確でないが、延喜式神名帳所載の古社で近郷十七か村の総氏神として崇敬されていた。
旧久麻久郷は、崇神天皇の頃、丹後国与謝の里より久麻久連一族が開拓したと伝られ、その産土神が本社である。
文武天皇の大宝年間(701-4)に須佐之男命を新たにお祭りし大宝天王宮と称した。その後、八ツ面山の西麓、荒川城の城主「荒川甲斐守義弘」これを崇敬し堂宇を再興し「荒川大宝天王宮」と称した。荒川氏歿後、徳川家康は家臣の鳥居元忠に現在地へ奉遷させたと伝えられる。
明治元年社名を旧名「久麻久神社」に複した。本殿は室町時代後期の代表建築とされ、国の重要文化財であり、ご神像の牛頭天王像は藤原時代の作で県下最古のもの、また古い木製や陶製の狛犬も有名である。平成元年三月。−−西尾市観光協会。>

ーー市史:
 さて熊来郷の開発は「三河郡村正紀」には、丹後与佐ノ里ヨリ久麻久連来リ開発の地ナリ」と記しそれを「人皇拾代御宇」のことだとしている。熊来郷の中心は、、のちの熊子村(現在の熊味町)付近にあったと思われるが、この雲母山の西南の地は、縄文時代の新御堂貝塚、弥生時代の松崎八反田遺跡、熊子山遺跡をはじめとして多くの原始古代遺跡があって、その開発の古いことを証明している。したがって久麻久連が来て「開地」したとするのはうなづけないが、日本海沿岸の地から、、先進技術の持主がやってきて、一段とこの地を繁栄させたというようなことがあったのではないか。
『日本地理志料』は熊来を能登の熊来(万葉集16-38378)によって久万岐くまき)と訓んでいる。クマキがクマクとなり、クマゴ熊子に音韻転訛をしていったものと考えられる。クマキはあるいは高麗来であり、久麻久連は朝鮮半島からの渡来人で新しい技術を持ってこの地に移ってきたと解することもできようか。市史抽出ーー

   
・久麻久神社。
 初出は『延喜式』神名上の「幡豆郡三座並久麻久神社二座、羽豆神社ハヅノ、 「三河郡村正紀」の「三河二六座正紀」では久麻久連の開発の後に、二神、久々能智命と豊受蒼魂命、(幡豆郡神社誌では豊受姫命と屋船久久廼遅)を祭ったとしているが「久麻久神社二座を一社二神とするか、二社各一神とするか従来いろいろの説がある。
 羽田野敬雄(1801-1882)の『参河國官社私考略』(天保十三1842)が延喜式の久麻久神社を「一座は吉良庄熊子村に在て今稲荷と称う。一座は同庄八面村に在て今大宝天王と称う。」と書いているほかは、『参河國二葉松』に「久麻久神社熊子村に在り今稲荷と号す社領二十石」とあるように多く一社二神説をとっている。
・・・
昭和44本殿解体修理で、解読された大永七(1527)棟札に「大日本国幡豆郡吉良庄八ツ面村久麻久神社再興」とある。・・・熊来村の下社に対し、八ツ面を上社とするのも根拠ある。ーーー市史。

 
・伝承に、往昔は社殿が八面山の頂上に西向きに鎮座していたのを永禄年間(1558-1570)に当時の城主鳥居元忠が現在地に移し東向きに改めたとされる。
本殿は間口3間、昭和44の解体修理で向拝蟇股下端の墨書と棟札が発見され、大永7(1527)の建立と立証された。

・四面展望の良い八面山は通称雲母山(きららやま)とも「きら山」とも呼ばれる。吉良上野介で著名な足利吉良氏はこの「きらら」からと謂われている。
 山麓には縄文−弥生−奈良と続く遺跡の宝庫であり、弥生環濠集落、一時期の高地性集落、奈良以降の集落・廃寺などが密集している。

・西尾市の名は熟塩からだろう。市編纂の悉皆調査報告『社寺文化財報告書』の2冊は市内の社殿図面・棟札など詳しく社建築に興味ある方には特にお奨め。