[菟足神社] :うたり、


拝殿 住所:豊川市小坂井町小坂井宮脇2。
祭神:菟上足尼命(うなかみすくねー)。
本殿:流造、外削 、東南向
千木:外削、5。 神紋:丸に菟、

場所:JR飯田線小坂井駅西200m、国道1号線と小坂井バイパス交差点の北西200m。pk有。

由緒,伝承:式内。
創立 白鳳十五年(686)
 穂の国(東三河の古名)の国造であられた菟上足尼命は、初め平井の柏木浜に祀られたが間もなく当地に御遷座になった。  当社の大般若経五八五巻は、國の重要文化財に指定(昭和三六年)されている。僧研意智の書(1176〜1179)であるが、長い間弁慶の書と伝えられていた。(弁慶が東下りのおり洪水のため渡航できず、滞在七日の間に書き上げて神前へ奉納したと信じられていた。)。
 なお応安三年(1370)の銘のある梵鐘(昭和三九年県文化財指定)は、本社前の水田から発掘されたものであり、当時は今の手水舎の位置に鐘楼があったことが江戸末期の参河國名所図会に出ている。
 当社のお田祭の行事(昭和二九年県無形文化財指定)は、旧正月に行なわれる。
 風祭りとして知られる例祭は、四月第二土曜、日曜日に行なわれ、打上花火・手筒花火は特に名高いまた、祭礼の古面(五面)は昭和四〇年県文化財に指定されている。
−社前案内板−


   
・菟足神社と徐福伝説
 今から二千二百年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝は、徐福から東方海上に蓬莱など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があるということを聞いた。そこで、始皇帝はその霊薬を求めて来るよう徐福に命じ、三千人の童男童女と百工(多くの技術者)を連れ、蓬莱の島に向かわせた。しかし、出発してからのその後の徐福一行の動向はわかっていない。
 ところが、わが国には徐福一行の渡来地といわれている所が二十余箇所もある。しかも、わが小坂井町が徐福渡来地の一箇所として挙げられているのである。それは次のような菟足神社に係わることからいわれるようになったと考えられている。
一 熊野に渡来した徐福一行は、この地方に移り住み、その子孫が秦氏を名乗っている。
・ 豊橋市日色野町には「秦氏の先祖は、中国から熊野に渡来し、熊野からこの地方に来た」という言い伝えがある。
・ 牛窪記〔元禄十年(1697)頃成立〕には、「崇神天皇御宇二紀州手間戸之湊ヨリ徐氏古座侍郎泛舟、此国湊六本松ト云浜ニ来ル。…中略…徐福ガ孫古座郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏者多シ…」とある。
二 菟足神社の創設者は「秦氏」ともいわれている。
菟足神社県社昇格記念碑(大正十一年12/22昇格)に、「菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は…中略…雄略天皇の御世、穂の国造に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木浜に宮造して斎ひまつりしを天武の白鳳十五年四月十一日神の御誨のままに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり…」と記されている。
三 菟足神社には、昔から中国的な生贄神事が行われている。
古来菟足神社の祭事には、猪の生贄を供えていた。三河国の国司大江定基が、その生贄の残忍なありさまを見て出家し、唐に留学し寂照法師となったことが、「今昔物語」(平安後期)に書かれている。生贄神事には人身御供の伝説もあるが、現在では雀十二羽を供えている。
 以上のほか、三河地方が古来から熊野地方とは海路による往来が行われ、熊野信仰の修験者により熊野に伝わる徐福伝承が伝えられた。また、小坂井町が交通の要地で、東西を往来する人達のなかからも徐福の故事が伝えられたとも考えられる。
−社前案内板−