[息栖神社] :おきす、いきす


鳥居参道 住所:茨城県神栖町(かみす)。
祭神:
 岐神(くなどのかみ)
 天鳥船神(あまのとりふね)
 住吉三神。
本殿:鉄筋、南西
千木:外削(3) 。 神紋:巴

場所:国道356号より小見川大橋(利根川)、息栖大橋を渡り常陸利根川沿いの旧道を北上1km。pk有。鹿島の南常陸利根川船着場に鳥居有。

由緒,伝承:東国3社息栖神社。

古くは日川に鎮座していた祠を、大同2年(807)右大臣・藤原内麿の命により現在地の息栖に遷座したと伝承されている。
三大実録にある仁和1年(885)3/10乙丑条、授常陸国、正6位上、於岐都説神従5位下。の於岐都説神とは息栖神社のこととされている。

古来より鹿島・香取との関係は深く鎌倉時代の鹿島神宮の社僧の記した鹿島宮社例伝記、室町時代の鹿島宮年中行事には条例などで鹿島神宮と密接な関係にあったことが記されている。
江戸期には主神を気吹戸主神と記しているものもあり(木曾名所図会、新編常陸国誌)さらに芭蕉は、「比里は、気吹戸主の風寒し、・・」と詠う。

社殿は享保8年に建替えられたが、昭和35年10月焼失、38年5月に完成した。

末社:高房神社、伊邪那岐神社、鹿島神社、香取神社、奥宮、江神社、手子后神社、稲荷神社、若宮。

祭日:1/1元旦祭、1/7白馬祭、3/6祈念祭、4/13例祭、6/30大祓、8/27風祭、11/13秋祭、12/3献穀祭。
(由緒書)

息栖・男甕 一ノ鳥居前から常陸利根川(霞ヶ浦,北浦に続く)
おきすの津と碇:
・大船の香取の海に碇おろし、いかなる人か物おもわざらむ。(柿本人麿)
・今よりはぬさとりまつる船人の、香取の沖に風向かうなり。(藤原家隆)

広大な内海であったために香取の海と言われた古代の水郷の中で、おきすの社と呼ばれた水の神、おきす神社の所在する地はおきすの津と呼ばれて交通上の船着場としてあった。
江戸期になると、江戸と東北との交流が盛んになり、その水上輸送路は、江戸川・利根川・水郷地帯・銚子河口から鹿島灘といった航路が選ばれていた。(掲示板)

息栖神社と河岸:
江戸以前の利根川は直接東京湾へ注ぎ、現在の利根川中・下流域は常陸川とよばれていた。この2つを承応3(1654)改修工事で1本となり、消費都市江戸への水運路となった。利根川の水運は物資だけでなく旅行者にも多いに利用され、この息栖津には東国3社参詣や下利根川遊覧の人々が押し寄せた。これらの人々を乗せて利根川を上下したのは「木下茶船きおろしちゃぶね」と呼ばれた乗合船・遊覧船で、木下河岸からの船出は江戸中期には一日平均12艘・年間約一万七千人が利用した。
忍潮井も神社と共に有名になり、伊勢の明星井(あけぼののい)、山城・伏見の直井(なおい)とあわせ日本3所の霊水(日本三霊泉)と言われた。

忍潮井:
神宮皇后3年(194)、真水淡水が海水を押し分け涌き出た所から、オシオイ忍潮井と名づけられた。
男甕は径2m弱の白御影石で銚子形、女甕はやや小ぶりで土器形をしている。

伝説:男瓶・女瓶
大同2年4月、数キロ下流の日川地区より息栖神社がこの地に移された際、神を慕い男瓶女瓶は三日三晩哭きつづけ、ついには自力で川を遡りこの息栖の一の鳥居の下に据え付いたという。この地に定着した後も男瓶・女瓶は日川を恋しがり泣いたという。
日川地区には瓶の泣き声「ぼうぼう川」と別れを惜しんで名づけた「瓶立ち川」の地名が今も残る。

地名の伝承:河口の洲ができる・顕れる「興る・おきす」、洲が息をするように顕れ消える「息する・いきす」などがある。この息栖から晴れた日にはくっきりと見える「筑波山」は霞ヶ浦が海続きだった頃、麓まで波がよせていたからという。