[能褒野神社] :のぼの、


拝殿 住所:亀山市田村町女ケ坂1409。
祭神:日本武尊。
配祀:弟橘姫命、建見兒王。
本殿:神明 、南向
千木:外削。5、 神紋:三つ葉柊か

場所:JR関西本線井田川駅北北西2km。pk有。

由緒,伝承:
 日本武尊東伐の帰途ここ能褒野に薨じ、天皇深くこれを嘆かれ天皇の礼を以て葬られた。
延喜諸陵式(904)に能褒野墓 東西二町・南北二町・守戸三烟とあるが、しかし中世以降戦乱が相次ぎ、尊の御陵墓も荒廃し定かでなくなり、白鳥塚(加佐登)武備塚(長沢)等諸説が出たが明治十二年十月内務省は、女ケ坂の王塚を尊の御墓と確定し、守部二人を常置された。
 明治十六年神宮祭主久邇宮朝彦親王により、社号を能褒野神社と選定、翌年創立が許可された。
同二十八年十月八日神職伊藤左門と惣代が、京都の賀陽宮邦憲王より御霊代を拝戴し鎮座されることとなった。
・ 明治四十一年延喜式内県主神社・同那久志里神社・同志婆加支神社・小天宮社・田守神社・八嶋神社 外四十余社を合祀した。
 大正十三年能褒野保勝会組織、同十四年県社に昇格、十月七宮家より「御鏡餅料」を戴き、知事以下二百余名参列のもと祭儀が行われた。同十五年保勝会が亀山駅前に大鳥居を建設、久邇宮邦彦王御染筆の「能褒野神社」の扇額を掲げた。
 昭和二十一年国家神道廃止となり、同二十七年十二月宗教法人となった。
−由緒書、


   
・日本武尊略歴、社パンフ
 武尊は第十二代景行天皇の第二皇子に生まれ、幼名は小確命身長高く容姿端正、力また強く、十六才にして天皇の命を受け西征、熊襲の川上のタケルを討つ。
 この時より日本武尊と称す。暫くして、また命により東夷を討つため吉備武彦・大伴武日連等を従え東国に向かう。途次伊勢神宮を拝し叔母倭姫命より剣と袋を授けられる。それより亀山に至り忍山宿禰の娘、弟橘媛を伴いて駿河に至る。
 処の賊鹿狩りと欺き火を放つが、尊は剣で草を狩り向火を放ち、賊を滅ぼす。これより剣を草薙剣、処を焼津と言う。更に相模より上総に進むため馳水の海を渡る。
 海路中波たかく船進まず、時に弟橘媛は尊の身代わりとして海中に身を沈められた。荒波自ら静まり船を進めることを得た。
 −さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて間ひし君はも−
木更津より陸奥・甲斐・信濃を経て尾張の宮簀媛を尋ね、剣を置いて伊吹の賊討とうとしたが、心神喪失し里に下る。(醒井)力衰え杖を頼りに進まれたが、内部村付近で「わが足三重のまがりなす」と嘆かれた。
 能煩野に至り、望郷の念より
 −倭は国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる 倭しうるはし−
と歌われ、三十才にしてお亡くなりになった。天皇深く悲しみ能褒野に陵墓をお作らせになった。后皇子等はこの地に来て、
 −な附きの 田の稲がらに 違ひもとろふ ところづら−
と歌われた。時に尊は八尋の白鳥と化して、飛び立たれた。
 −浅小竹原 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな−
この歌は、御涙として今も天皇の大葬の時に歌われている。
 白鳥はそれより大和の琴弾原と河内の羽曳野に留まり、ここを白鳥三陵という。
ー由緒書、

 
・社の標高42mほど、台地西南端で安楽川・八島川・御幣川が合流し2川を集めた安楽川は3km程流れ合流し鈴鹿川となり四日市市塩浜で伊勢湾に注ぐ。

・社の台地南端に北勢最大の前方後円墳・能褒野王塚がある。長90m、径54m、、円筒埴輪鰭付朝顔形出土。

 ※ 等高線表示10m、