[ 高麗神社 ] :こま、高句麗神社


高麗社殿 住所:埼玉県日高市(旧:武蔵国高麗郷高麗村)。
祭神:高麗王若光

本殿:平入、南向
千木: 。神紋:菊

場所:JR川越線高麗川駅西へ歩25分。pk有,案内板多。

由緒,伝承:
 伝わる高麗氏系譜前文に「若光が没したので高麗より従い来れる貴賎相集まり屍を城外に埋め、且つ神国の例により霊廟を御殿の後山に建てて高麗明神と崇め、郡中に凶あればこれに祈る。長子家重世を継ぐ。 天平勝宝3年(751)、高麗の僧・勝楽寂す。その弟子・聖雲は師の遺骨を収め一宇を草創す。勝楽寺という。聖雲は若光の三子なり。」

 白髭神社:武蔵国の各地に白髭神社或は白髭明神と呼ばれる社が55社あり、これは皆当社の分社であってその為当社を高麗総社と称したとある。王若光は晩年白髭を垂れ、白髭様と親しみ呼ばれていたので当社に白髭明神という別の社名が生まれたとされているが、後年高麗人の子孫が各地に分住し、高麗郡の例に習ってその地域の開発を行い王の遺徳を景慕してその霊を分祀したものと思われる。
(高麗神社発行しおり)

桜祭(4月第2日曜)、例祭(10/19)、菊花祭(11/3)。
高麗鳥居2 拝殿


<文献に見る、高麗郷近く>
・物部連守屋(-587)と結びついていた比企(吉見町辺り)は大伴連金村(-540)。物部連兄麻呂(633)武蔵国造になる、小仁になる(646)以前。
・天智385(666)10/26高句麗王は使者を飛鳥の宮廷に送りこむその中に二位玄武若光の名がある。 若光は37年後(703)王姓を与えられた。従5位下高麗若光と同一人物の可能性がある。
・高麗若光、天武3大宝(703)従5位下若光。
・続日本紀(716)、駿河・甲斐・相模・上総下総・常陸・下野、7ヶ国にいた高麗人1799人が武蔵国に移された。
・(749)藤原仲麻呂紫微中台長官に。高麗郡出身の高麗福信が41歳で藤原(仲麻呂)氏の為の親衛隊中衛の少将。
・(758)帰化した新羅僧32人,尼2人、男19人、女21人の74人を武蔵国に移し新羅郡を設置した、今の新座。
・(765)高麗福信、が武蔵守を兼任していた。
・(765)足立郡の丈部(はせつかべ)直不破麻呂(平城京親衛関係者)、仲麻呂追討に功を上げ地方豪族待望の位階である外従5位下になる。物部広成も競うように昇進、この二人の上が高麗福信。
・(765)高麗福信、仲麻呂乱の翌年、正4位下から従3位へ。
・(775)東北蝦夷征討に武蔵国以下4カ国から兵士が出羽国に送りこまれ、翌年武蔵国以下5ヶ国から1200領の甲が出羽国に送られたが、征討不成功。
・(789)桓武50は寵臣、紀古佐美を征東大将軍としたが愚策により死者3千を超す。大敗し政府は責任を物部広成に押し付けた。
・(801)坂上田村麻呂東征。


※ 謝辞:高麗寺ご住職様。高麗神社神官様。   [高麗,聖天院]




[ 出雲伊波比 ] :いずもいわい、

出雲伊波比 住所:埼玉県入間郡毛呂山町岩井 。
祭神:大己貴命。天穂日命。
配祀:品陀和気命,息長帯比売命。。

本殿:平入、北東?
千木:。 神紋:

場所:東武越生線東毛呂駅東500m。pk有。

由緒,伝承:「式内社」武蔵国入間郡五座の筆頭。

 社伝「臥龍山宮伝記」によると、景行天皇の43年に日本武尊が東征を成し遂げ凱旋の折、この地に立寄り天皇から賜った比々羅木の矛を武日命(大伴武日)に命じ、おさめ神宝とし出雲の大己貴命を祀った。
成務13の時、に武蔵国造兄多毛比命(えたもひ)が、出雲の天穂日命を祀り、大己貴命とともに出雲伊波比神としたとしている。
鎌倉時代以降、武士の信仰も集め源頼朝が畠山重忠に造営を命じている。大永7年(1527)の焼失後、翌亨祿元年には、毛呂顕繁が再建する。現在の本殿はこの再建時のもので一間社流造、県内最古の神社建築といわれ、棟札二面と併せ国の重要文化財に指定されている。 (境内説明)


拝殿・本殿 本殿

毛呂山町のほぼ中央、小高い独立丘陵である臥龍山の上に位置し、縄文時代の遺物も発掘されている。
古式を伝承しているといわれる「流鏑馬(やぶさめ・11/3)」は有名。

− 和漢三才では:八幡宮、慈眼寺村、毛呂村(当社)、杉原村、松尾村の4ヶ所にあり、各々社領10石。とある。−