[ 小国神社 ] 、おくにー、

瑞籬鳥居拝殿 住所:静岡県周智郡森町一宮
祭神:大己貴命。
・並宮:伊邪那美、事解男、速玉男の熊野三神。
本殿:大社造、東向 。 千木: 。 神紋:菊(巴)。 
:pk有 。

由緒、伝承: 式内社。
−−由緒書
 当社を小國神社と申すのは出雲の大本宮に対する遠江国地方の呼称であり、古来より許当麻知神社(ことまち)事任神社(ことのまま)とも称されてきた。 延宝8(1680)の社記でよると欽明16(555)2/16に本宮峯(本宮山)の神霊が出現し鎮祭した。後山麓約6kmの現在地に都より勅使が差遣せられ、社殿を造営し正1位の神階を授けられた(社記)。
文武42大宝1(701)2/18、勅使奉幣し十二段の舞楽を奉奏(社記)。
仁明54承和7(840)6/24、従5位下(続日本後記)。
清和56貞観2(860)6/27、従4位下(日本三代実録)同16年(874)2/27従4位上。 醍醐60延喜7(907)、勅により社殿改造(社記)、延喜式に列す。
後醍醐66、元弘建武の変以来、勅使参向が絶え神主が代わりその式を行う。
元亀3(1572)徳川氏目代の武藤刑部氏定が武田信玄に味方し甲斐の軍勢を招き当社に叛いたとき神主小國豊前重勝は、子息千松麻呂を人質として徳川氏に訴えた。、、
天正3(1575)家康公は本田重次にに命じ本社を造営遷宮させ、同11年12/7天下平定の報賽として末社、拝殿、回廊を造営。同13年楼門を再建させた。
慶長8(1603)徳川家康御朱印五百九拾石。
元禄10(1697)綱吉公は悉く社殿を改造。
寛保1(1741)吉宗公、四百両の修復料を寄進。
明治6年6/13、国幣小社に列す。
  明治15年3/8再度の火災で本殿以下悉く焼失。官命により再建、明治19年完成。
−−ご由緒抜粋

拝殿拝殿手前右の舞殿
−−御由緒概略から抜粋。
摂末社:
・並宮:伊邪那美、事解男、速玉男の熊野三神。明治15以前は本殿玉垣内にあり並座ゆえ並宮と称し、祭典日社殿の結構祭典の式まで古より本社に準じていた。炎上後は境内社の八王子社に合祀、明治百年を記念し昭和43年10月玉垣内旧社地に復興造営された。
・塩井神社:2/15が例祭日で塩筒老命を祀る、一宮山の伏間地区に鎮座する、古来より社殿の側より塩分の含まれた冷水が湧き出し、諸病平癒の御霊験(特に胃腸病)があり、遠近より多くの参拝者が訪れる。

・境内地:中古以来一宮の上の郷、下の郷、一宮以外の円田に薗田郷、森の太田郷・天宮郷の5ヶ郷。
・本宮山:本社北約6km、標高511mの山頂に奥宮として奥磐戸神社がある荒魂を祀り、1/6が例祭、5/6が青葉祭。
社職 :平安中期の永保2(1082)神祇官から神主に清原則房が補任された(朝野群載)。清原氏は清和源氏より出て当国に住み小國神社の神主になったとある(小國家系譜)。
江戸時代の神主の小國重年は近世国学者として名高い。延宝8の社記に社家32人、舞楽神人、社僧等は小國神主支配のもとに奉仕していた。社家の後裔は今に現存している。



大鳥居&PK ・宮川にかかる神橋を渡ると正面に大鳥居、右手に本社に一番近い?駐車場がある。

飯王子社 ・杜へ入る手前左に、
飯王子社:左手、御祭神:保食神、例祭2月15日、社伝及び古老の伝によれば昔遠州横須賀の地方に毎年干天長雨の為め五穀稔らず住民こぞって一宮様に詣で祈り豆を捧げしところ村長の霊夢に「瑞殿を横須賀の方に向け保食神を飯王子社と称え奉らば五穀みのらむ」との神託により社殿を横須賀の方に向け祭り爾来この地に不作絶へたと言われ又2月15日の祭に上げた大豆を馬や牛に与えれば災なく無病に育つと伝へられる等五穀豊穣畜産守護の霊験を垂れ給ふ。

事待池 ・右に勅旨参道をみて進むと左手に池がみえる、
事待池:本社に詣で願掛けをして心願成就すれば池に鯉を放つので「ことまち池」という、又池の水を汲み疣に付けるといぼがとれるというので「いぼとり池」ともいう。
池中央がくびれ島があり橋が手前と奥にかかる。島内に宗像三神を祀る 宗像社と奥に八王子社が鎮座する。

一宮等合殿社 ・さらに進むと「大国様」の大きな看板があり、
・全国一宮等合殿社: 延宝8の社記、諸古文書の社頭配置図に依ると全国一宮等御祭神73柱が境内社として各所に祀られていたが明治の初めに本社消失時又は腐朽等により明治15より境内末社八王子社に仮合祀されたものを平成元年12月氏子崇敬者の守護神として復興鎮祭する。例祭日4月8日。


<・小国、森町:主な出来事> ・文武42大宝1(701)2/18、勅使奉幣し十二段の舞楽を奉奏(社記)。
710 和銅 3年 平城京遷都。
710-このころ、東海道が整備され、各地で条理制が施行される。
722 養老 6年 2月16日、佐益郡8郷を分割して山名郡とする。
738 天平10年 駿河国正税帳に磐田郡散事大湯坐部小国の名がみえる。
741 天平13年 国分寺建立の詔。以後、各郡ごとに郡家が整備される。
752 天平勝宝4年 ○東大寺大仏開眼。
794 延暦13年 平安京遷都。 840 承知 7年 6月24日、遠江国周智郡無位小國天神及び同国磐田郡無位矢奈比売天神を従五位下とする。
・仁明54承和7(840)6/24、従5位下(続日本後記)。
860 貞観 2年 正月27日、敬満神社を正四位下に、苅原河内神・小國神・鹿苑神を従四位下に、矢奈比売神・事真知乃神に正五位を授ける。 
874 貞観16年 2月23日、苅原河内・小國神に従四位上を授ける。
881 元慶 5年 10月5日、磐田郡を割いて山香郡が設置される。
・醍醐60延喜7(907)、勅により社殿改造(社記)、延喜式に列す。
1081 永保元年 全国22の大社に朝廷の奉幣、各国の国神祭が確立。
1082 永保 2年 10月17日、神祇伯(じんぎはく)(皇)康資王、清原則房を遠江国小國社の神主に補任する。
1097 承徳元年 9月28日、都の僧実誉(じつよ)、遠江国小國社神宮寺神官別当が従五位下を買官したことを上申する。
1108 天仁元年 このころ、天方鍛冶に友行(重永)あり。 1126 大治元年 12月21日、遠江国石室寺に如法経が埋納され、遠江目代が願主となる。
1165 永万元年 6月、神祇官に対し、遠江国では小國社が八丈絹五疋を貢納(こうのう)する。
1168 仁安 3年 9月18日、小國社の本殿の背後に如法経が埋納される(小國神社経塚)。
1180 治承 4年 8月、源頼朝、伊豆に挙兵、10月、安田義定遠江守護となる。
1186 文治 2年 4月21日、遠江守護安田義定、源頼朝に謁し、遠江石室寺などの山寺における源義経の探索について報告する。
1235 文暦 2年 2月13日、藤原家貞・同源次郎、遠江鎮守小國一宮に起請文を立てる。
1275 建治元年 5月、京都六条八幡宮の造営料を負担した御家人の中に、遠江国の10名余が含まれ、山名荘人々に十貫文が割り当てられる。
1281 弘安 4年 12月28日、将軍源惟康、山内首藤通茂に遠江国飯田荘上郷内筥島・西俣・加保村などの地頭職を安堵する。
1327 嘉暦 2年 10月28日、遠江国内田致景、同国飯田荘内田地の相論について、守護大仏貞直より真偽究明を命じられ、飯田里・打越田・楠木などの地名がみえる。
・後醍醐66、(1331-)元弘建武の変以来、勅使参向が絶え神主が代わりその式を行う。
1333 元弘 3年 鎌倉幕府滅亡し、7月〜9月、今川範国が遠江守護に任ぜられる。
1337 建武 4年 9月26日、足利尊氏、駿河国羽梨荘、遠江国河合・八河両郷などを今川範国に宛行い、谷川に代官所が置かれたとみられる。
 月日不詳、今川範国、北軍に加わり、遠江国三倉山に陣取る
・元亀3(1572)徳川氏目代の武藤刑部氏定が武田信玄に味方し甲斐の軍勢を招き当社に叛いたとき神主小國豊前重勝は、子息千松麻呂を人質として徳川氏に訴えた。
・天正3(1575)家康公は本田重次にに命じ本社を造営遷宮させ、同11年12/7天下平定の報賽として末社、拝殿、回廊を造営。同13年楼門を再建させた。
・慶長8(1603)徳川家康御朱印五百九拾石。
・元禄10(1697)綱吉公は悉く社殿を改造。
寛保1(1741)吉宗公、四百両の修復料を寄進。
・明治6年6/13、国幣小社に列す。
・明治15年3/8再度の火災で本殿以下悉く焼失。官命により再建、明治19年完成。
−−−<参考:六国史、森町史、小国略志>

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