[伊豆山神社] いずさん、


伊豆山拝殿 住所:静岡県熱海市伊豆山上野地1。
祭神:火牟須比命。
 伊邪那岐命。伊邪那美命。
本殿:平入。東南向。千木:外削(5)。
神紋:九曜、。
場所:JR熱海駅北1.50km。国道135号より1本上の旧道、pk有。

由緒,伝承:「式内、火牟須比命神社(ほのむすひ)。
祭神は火牟須比命、伊邪那岐命、伊邪那美命、の三柱をまつった伊豆大神である。
鎌倉時代以前より多くの僧兵を持して、伊豆・相模はじめ周辺に権威を誇った伊豆山権現は、源頼朝が伊豆に配流され、伊東祐親に追われていたとき、一時、身をひそめたところであり、また恋人政子との忍び逢いの場でもあった。その後生涯の野望を達した源頼朝は、伊豆山権現に詣でその戦勝を祝した。以来鎌倉時代将軍の信奉厚く、ためにこの神社は関東の総鎮守として、戦勝祈願の杜として髏キを極めた。

「伊豆山神社の梛の木」:鎌倉の尼将軍と名をはせた北条政子は東国伊豆の小豪族の娘。平治の乱に敗死した源義朝の息子・頼朝が、政子の家の近くに流されてきた。流人頼朝は14才から約20年間にわたって伊豆で青春時代を過ごした。年頃になった政子は、近くにいる流人頼朝と恋におちる。平家全盛の頃、頼朝の前途はまさに絶望的だった。父の時政はこの結婚に大反対。政子は婚礼の夜、山木の館を抜け出て伊豆山にいた頼朝のもとに走った。誰にも祝福されない暗い色に満ちた結婚だった。子恋の森につつまれた伊豆山神社の境内に神木梛の木がある。この葉は男女を深く結ぶ信仰があり、政子は鏡の下に敷き頼朝との愛を祈ったという。今でも、この梛の葉を鏡の下又はコンパクトの中に入れておくと、良縁が結ばれるといいます。

「般若院」 伊豆山神社の別当寺院として髏キを極めたが、神社の衰微とともに寺運も後退した。明治の廃仏毀釈で廃絶に瀕したが、その名称だけは受け継がれ現代に及んでいる。
(由緒書)

明治以前は、真言、天台の並立する伊豆山で、真言般若院が長く隆盛をたもつ。
熱海市の東部に位置し古くから海岸に走るが如き温泉が湧き出していたので、走湯山とも言われていた。治承4年(1180)源頼朝が源氏再興の旗揚げに際し、伊豆山権現に祈願して再興の基を作ったと吾妻鏡に記されている。その後、建久3年(1192)源頼朝が鎌倉に幕府を開くとともに、伊豆山権現は関八州の総鎮守としてますます祟められるようになり、歴代鎌倉将軍の信仰をあつめた。
室町時代には文人、高僧及び各階層の旅行者が湯治を兼ねて参詣し、江戸時代になると、熱海に湯治に来た諸大名は参詣とともに走湯を見物して帰ったほど、伊豆山地区は熱海の名声を高めた。
伊豆山権現は明治初年の神仏分離令により、伊豆山神社となり今日に至っている。また、般若院は伊豆山権現の別当職として関東一円に大勢力を持っていた。



境内より南、伊豆半島 頼朝政子腰掛石

<和漢三才図会、抜粋>
*伊豆権現、箱根山の南、300石、神主三宝院、別当般若院。
祭神、瓊瓊杵尊「白鳳9年に社ができたというが未詳。あるいは王辰爾を祭るともいう」
”続日本紀”を考え合わせるに、応神は使を百済に遣わし。・・国主の貴須王は宗族のなかから採択して、孫の辰孫王「一名智宗王」を使と一緒に入朝させた。天王は喜び皇太子の師とした。かくて初めて書籍伝わり、儒学の風が開かれ・・。辰孫王の子、太阿即王。その子の亥陽君。その子の午定若「は3人の男を生む」。一人を味沙、辰爾、麻呂という「これより分かれて三姓となる、葛井(ふじい)、船津連(ふなつのむらじ)らがこれである」。敏達の時、高麗国から使がきて烏羽の表をたまわり、だれも読めなかったが辰爾は読みとった。