[和爾下神社]:わにした、治道宮・はるみちみや、上治道天王社、春道宮。

住所:天理市櫟本町宮山
祭神:中央・素盞鳴。
 左・大己貴。右・櫛稲田姫。
本殿:流れ、西向。 千木:
神紋:三巴。 

場所:JR櫟本(いちのもと)駅の東1km。西名阪天理IC東北。

由緒,伝承:「式内社」
 祭神は明確ではないようだが、明治7年以前〜江戸期の記録では、天足彦国押人命、彦姥津命、彦国葺命となっている。
鳥居をくぐると「治道宮・はるみちみや」と彫られた灯篭が有り、参道が治道である。参道を進むと大木が茂り薄暗くなったあたりで社殿への石段が目に入る。社殿は前方後円墳の後円部にあり、境内に柿本寺の跡、礎石が残る。三間社流水造り、檜皮葺で拝殿本殿とも千鳥格子を多用し趣きがある。拝殿前左右に寝牛の石像がある、天王神社の名故か。

 孝霊7の皇子・天押足日子命(記:天足彦国押人命)の流れである彦姥津命(ひこおけつ)が和珥氏の祖となり、さらに敏達30の時、家の門前に柿の木があったので柿本と名を改める。和珥・春日・小野と同系である。
柿本人麻呂が島根で客死(獄死の説もある)、依羅郎女(よさのいらつめ)が遺骨を持って大和へ上り、この境内に葬ったとの伝えがあり、その場所とされる所に享保17(1732)柿本寺の僧や森本宗範らにより建立された歌碑がある。

和珥氏の本拠。古墳があり石棺、埴輪円筒棺などから築造は4c末から5c初めと考えられる。大きさは 全長120m、直径70m、高5m、東大寺山古墳群。当古墳から東北800mに和爾の集落がありこの古墳群は和爾氏の奥津城と考えられる。(天理市教育委員会)

和爾下 和爾下社殿

・影媛あわれ、の説明掲示がある。
「石の上 布留を過ぎて 薦(こも)枕 高橋過ぎ 物多(ものさわ)に 大宅(おおやけ)過ぎ 春日(はるひ) 春日を過ぎ 妻隠(つまごも)る 小佐保を過ぎ 玉笥(たまけ)には 飯さへ盛り 玉もひに 水さへ盛り 泣き沾(そぼ)ち行くも 影媛あわれ。」 
この長歌は書紀武烈25即位前期にある。影媛は以前から交際していた「平群の鮪」が太子の命で大友金村の軍に乃楽山で殺されたのを悲しみ、布留から乃楽山まで行き夫の葬いをした。
ここ櫟本は山辺の道と都祁山道との衢にあたり当時の政治経済軍事文化の要衝であった。北には和珥氏、南には物部氏がありこの辺りが勢力の接点であった。
武烈25天皇の母春日大娘皇后は雄略21が和珥臣深目の女(むすめ)童女(おみな)君に生ませた女である。影姫は物部麁鹿火大連の女である。(説明板・小柴幸夫)



[和爾下神社]:わにした、下治道社・しもはるみち。 鳥居拝殿 本殿・境内社

大和郡山市横田町字治道23。
祭神:素盞嗚尊、大己貴命、櫛稻田姫命(櫟本の和爾下神社と同一)。

 櫟本の和爾社の鳥居は石造り明神だが、ここ横田は朱塗り春日明神稲荷。境内には石碑が多く、和迩下神社、和爾下、下治道社、治道下社、和璽一神社の名が見える。櫟本から真西へ2km程、古い街道の面影を残す道沿いにある。
横田物部氏の本拠。石上神宮の神官は古く物部氏と和珥氏一族の布留氏が勤めており、物部首も和珥氏一族である。



[在原神社]:ありわら、

在原社殿 筒井説明


天理市櫟本町、国道169号線と名阪の交点西南。
祭神:阿保親王、在原業平。

 創建は平安初期、阿保親王が承和2(835)に建てたという説と元慶4(880)の説があるがはっきりしない。明治までは本堂・楼門・庫裏を具えた寺だったが廃寺となりわずかに神社として残った。本堂は大和郡山岩槻の西融寺に移されたという。

筒井筒の歌に縁ある井戸はこの地で、低めの井筒が覆屋の中にある。

・筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざる間に。
・(返)比べ来し 振り分け髪も 肩すぎぬ 君ならずして たれかあぐべき。
ふたりは望みどおり結婚したが、そのうち男に河内の高安に女ができた。がこの妻は何も言わなかった、男は反って不審に思い、夕刻妻に見送られた後、引き返し様子をうかがうと、妻が独りつぶやく、

・風ふかば 沖津白波 たつた山 夜半にや君が ひとり超ゆらむ。

この歌を聴き男は妻の元に戻る。というハナシ。
 河内高安、現在の十三峠西麓にも同様の話が伝わる。伊勢物語では少年少女は行商人の子になっているが、河内高安では通う男は「業平」本人になっている。

※ 謝辞> Mr.T M (0101)