[吉野神宮]  :よしの、

住所:吉野郡吉野町吉野山

祭神:後醍醐96天皇、
本殿:平入
千木:外削。 神紋:菊

場所:近鉄吉野神宮駅1.2km。pk有り、二箇所で広い。

由緒,伝承:明治22創立、同25年御遷座祭に後村上62天皇の勅命で刻まれ吉水神社(吉水院)に祀られていた後醍醐天皇の像を吉野神宮本殿に遷座奉鎮した。

摂社:御影神社(藤原資朝卿・藤原俊基卿)、船岡神社(児島高徳卿・児島範長朝臣・桜山慈俊朝臣)、滝桜神社(土居通増朝臣・得能通綱朝臣)

吉野の山中とは思えない広々とした場所である。



[吉水神社]  :よしみず、吉水院、

吉水門、撮影hahahaさん 住所:吉野郡吉野山
祭神:後醍醐天皇。

本殿: 。千木: 。神紋:

場所:蔵王堂前の道、鳥居を北へ入る、pk無。

由緒,伝承:
 源義経潜居の間、後醍醐天皇御座所、日本最古の書院造りといわれ重文に指定されている。

両統迭立(ていりつ)に自分の系統が除外された後醍醐は近臣・日野資朝らと「無礼講」という酒宴に名を借りた謀議を始めたが正中1(1324)六波羅探題の知るところとなり近臣は検挙される。その後、元弘の変で再び畿内の非御家人的武士などに働きかけたが密告する者があり、このとき天皇は隠岐へ流される。
元弘3(1333)隠岐を脱出、伯耆の名和長年に迎えられ船上山に陣をかまえる。幕府は有力守護の足利高氏に大軍をつけ支援に向わせるが、高氏は丹波の篠村八幡宮で後醍醐方に寝返り六波羅探題を攻め2人の探題を殺す。同じ頃、新田義貞が上野の新田荘で挙兵、鎌倉を攻め落す、元弘3年5月。
6月京都に戻った天皇は光厳天皇を廃し院政・摂関も廃止し天皇親政を始める、建武の新政。

建武2(1335)7月、中先代の乱。
尊氏は東下の宣命と征夷大将軍に任命を求めるが却下される、尊氏は三河で直義と合流し、小夜中山、清見ヶ関、相模川、小手指原など激戦転戦し鎌倉を奪取する。天皇は尊氏を従2位へすすめ戻るよう即すが直義の意見を入れ鎌倉に留まる。10/19朝敵とし新田義貞に追討させる。
尊氏は鎌倉浄光明寺に引篭もる、直義が大将となるが矢作川、駿河手越河原で破れ、箱根まで兵を引く。 尊氏がやっと立ち12月11日箱根竹之下(駿東郡小山町)で新田軍を破る。尊氏はそのまま追って翌・建武3年正月(1336)入京する、直前後醍醐は比叡に逃れている。
奥州の北畠顕家に軍勢が迫り天皇方が反攻に転じ尊氏は丹波に逃れさらに九州まで落ちるが、筑前・多々良浜で菊地武敏を破り大群を率い京都に向う。5月25日湊川の戦いとなる。天皇は再び比叡へ逃れる。
入京した尊氏は持明院統の花園・光厳両上皇、豊仁親王を迎え、8月豊仁を光明天皇とする。11/2には後醍醐より神器が渡される。尊氏は「建武式目」17ヶ条を制定する(1336)。

吉水鳥居、撮影hahahaさん 吉水社殿、撮影hahahaさん

建武式目制定直後の12月21日夜、北畠親房の勧めで花山院を脱出、吉野山に逃れ、先に渡した神器は偽物で自分が正当な天皇であると主張し始める、ここに南北朝が始る。
先ず吉水院に入った後醍醐は、さらに蔵王堂近くの実城寺を行在所とし各地に激をとばすが暦応2(延元4,1339)8月16日没す52才。

と、まあ波瀾の生涯と言うか乱をいたずらに起した生涯だったようだ。吉水院の東の如意輪寺裏に後醍醐天皇の搭尾陵がある。

 謝辞:写真提供、hahahaさん。