夜が明けるより前に黙々と仕度をした。
仕度と言っても荷物は最低限の衣類と例の本だけで全部で、すぐに始末がついてしまう。せめて美弥が戻るまで、と引きとめるようなことを言われても―彼からのそんな台詞、本当ならとびきり嬉しかった筈なのだが―迷う余地はなかった。落胆や失望には細心の注意を払って顔を背け足早に立ち去るのがずっと流儀だった。計算尽くの安全な日々、背後は一顧だにせず。 「日が昇りきる前に療養所まで登ってしまいましょう。暑くなると大変ですから」 彼にとっては今日からまた仕事だ。今日明日は帰省していた職員と患者がばらばらと戻ってくる筈で、早目に着いておくに如くはない。なにか言いたげな青年の表情を慮ることなく淡々と直江は提案し、高耶もただ無言でそれに従った。まだ蒼く冷んやりと湿った光の中を朝露に裾を濡らし黙りこくって歩く。始めて沈黙を重いと感じた。大地の引力が重かった。 最後の蝉もまだ鳴かない。
盆送りの夕、ささやかな門口で3人して火を囲んだ。もの寂しい情景だった。この兄妹は毎年こんなふうに、もうずっと2人きりで両親を送ってきたのだろう。淋しい野辺の送りからずっと、もう何度も。
「直江さんは送り火、焚いたことありますか」 かるく微笑んで頭かぶりを振った直江を見上げて、少女もゆるやかに微笑んで見せた。その白い面に影が差していたのは誰そ彼刻の空の所為ばかりではなかった。ぱちぱちと爆ぜるような音とともに足元から白い煙がゆらり暮れなずむ藍色に立ち昇り、道を示す。その日赤い太陽が没したばかりの西の雲はまだうっすらと残照に染まり確かに浄土へと続いているかのような夢を見せていた。名残の気配ばかりが鮮やかで。 「どうして送らなきゃいけないのかな。帰らなくていいよって、いつも思っちゃう。ここにいて、美弥たちの傍にいてくれていいのに」 彼方に視線を飛ばしながら一人言のように呟いた妹に、彼女の兄は顧みもせずに答えた。 「もうオレらとは住むとこが違うんだよ。無理矢理引き止めたら親父もお袋も可哀相だろ」 煙の行方を見守るように見定めるように、まなざしを外さない彼の背中は哀しいほど毅く見えた。棲む所が違う。境界を侵犯してはならない。分かれて在るべきもの同士が禁に反してでも共に在ろうとすれば、それは必ずこの世の秩序を乱し、乱された秩序は原因となったものどもに相応な復讐を遂げるだろう。だから。 「還らなきゃいけないんだよ。逝った先で、見ててくれる。…だからオレたちも、家に帰ろう」 じゃなきゃきっとお袋たち心配でオチオチ還れやしねぇ、そう茶化して笑う彼と二人きりだったらきっと、縋りついて懇願していただろう。失ったものを偲び弔う儀礼は時にあまりにも感傷的だ。置き去られる者を強めるのではなく弱めている。 どうして二つの世界は近づいてしまうのだろう。一時でもどうして行き来できてしまうのだろう。はじめから別々のままでいられれば良かったのにと願えるほども、もう自分は強く在れないのだ。傷つけるためでなく発せられる言葉にまで殊更に痛んでしまう、この病んだ胸を見ろ。 もう二度と、門火など見たくなかった。
「直江」
道程の半ば程を過ぎたところで、つよく呼ばれた。 「え」 回想にかまけていた直江はかなり反応が遅れたようだった。呆けてんじゃねーよ、と叱られる。己より遥かに年若いこの少年に近い青年の、咎める声音も責める声音も懐かしく感じているこれはなんだというのだろう。 「聞いてるか?オレ、弁当忘れたんだ」 「あ、はい。どうしましょう」 「なにおまえ、2人分の弁当取りにひとりで戻れとか言う気か」 「…高耶さん」 そうですよ、と言うのは容易かった、筈なのに。 「乗れよ、さっさと。戻るぞ」 今上ってきた坂道のまんなかで下界に向かう自転車に跨って、彼は迷う余地などないと言いたげに荷台を叩いて急かす。朝一番の曙光を反射してきらめく銀のスポーク。何度でも、極彩色の罠にかかる愚かな蟲。 堕ちてゆくのだ。 気温が上がるに連れ立ちこめ纏いつく水蒸気。包むように圧し寄せてきて思考を奪ってゆく蝉噪。自他の境が溶けていく。加速につれて銀輪は暴力的な悲鳴とともに山道を蹴散らかす。他に縋るものなく目の前の細い肩を掴まえたのはまだほんの数日前のこと。低い位置にある朝日が梢の隙間から射る、眩さに瞼をしばたたく。ちかしい体温。風圧に、逡巡する呼吸を盗まれる。無数の大地の骨を踏みにじって駆けていく、終わらない夏の光。 堕ちてゆくのだ。 震動がびりびり背骨を苛む。高耶が何か叫んだが、聞こえない。急な制動にサドルにしがみつく手を離していた。ずるりと車輪が滑ったのが厭な感触で知れ、一瞬、前に重なった彼が息をのんだのが我が事のように伝わった。衝動。簡単に手折れそうに見える細い胴を、宙空に投げ出されながら、一人占めしてしまいたく抱えこむ。誰にも何にも傷めさせないように。堕ちてゆくのだ。 永遠の夏を金属音が斬り裂いた。
| |
| |
|
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ PRESENT ・ TOP ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |